エースが銃をおろし、キリング・ムーンの停止した体を無表情に見つめる。それは本当に、人の死体のように見えた。死は彼らを区別しない。
あのエリギデル・フィールドで。回収された無数の同じ死骸の記憶がかすめて、彼は口元だけで少し笑った。そう、死は彼らを区別しない。腕をひろげてすべてのものを抱きとめる。
すぐそばまでマーキュリーボードが近づいてくる音がして、そこからとびおりたサーペントがエースの目の前へつかつかと大股に歩み寄った。それは闇を裂くようなするどい動きで、目は怒りと殺気にギラついているが、さいわい左手の銃口はひとまず下を向いていた。
全身に沸騰しそうな怒気をみなぎらせ、自分をにらみつける相棒へ、エースは微笑を向けた。
「すまん」
サーペントが無言のまますぐ目の前に立ち、右手でぐいとエースの髪をつかんだ。エースが痛みに顔をしかめるのもかまわず、力まかせに自分へ引き寄せる。火がつくような熱烈なキスを重ねた。ほんの2、3秒のことだったが、互いに舌をからませて深いキスを交わしながら、二人は相手の目の中をのぞきこんでいた。
サーペントの手が髪から離れた、と思った瞬間、キスをつづけたまま、エースは左の横っ面を思いきり張られていた。少々予感はあったのだが、予想をこえた力で殴られて目の前が一瞬白化し、エースの体は床の上へ肩から転がっていた。
「おいッ」
殺気立つホドランドをまず片手でとめる。勿論、ホドランドの身の安全のためだ。それからやっと体をおこすと、サーペントがマーキュリーに飛び乗って走り去って行く後ろ姿が見え、エースは小さく溜息をついた。じんとする左頬をおさえる。キスの余韻もふきとぶ一撃。拳でも銃身でもなく、平手だっただけマシか。
立ち上がったホドランドが、奇妙な目でエースを見た。
「‥‥大丈夫か?」
「まあまあ」
笑いを抑え込むように口元を妙な形に歪めているホドランドをちらっと見たが、エースはうなずいた。キリング・ムーンの死体へと体を向ける。
撃ち込んだのはフルジャケットハローポイント、組織の中に入るとブレットの先端のノッチがひろがって一気に制動がかかり、運動エネルギーをすべてその場所の破砕に転化する弾丸。残酷なまでにはじけた延髄から後頭部に、もはや原形はない。
そのそばに、ユイが立っていた。サーペントに取り残されたことにまったく注意を払う様子もなく、少年はまどろっこしい微笑をただよわせて、死んだ体を見下ろしている。
エースが歩み寄りながら声をかけた。
「お前がムーンストラッカーのユイだな?」
ユイがうなずくのを見ながら、キリング・ムーンの体をタンクコンテナから路上におろし、生体活動が完全にとぎれていることを確認する。念のために腰部にナイフをさしこんで脊索を断ち切り、エースは、ユイがキリング・ムーンではなくコンテナを熱っぽい目で見つめているのに気付いた。
血に汚れた蓋を撫で回していたが、ユイはエースの顔を見ると、舌のピアスを光らせながら奇妙に舌足らずな口調で言った。
「コレ、開け方、わかる?」
「‥‥」
エースは身をかがめ、複雑なボルトを引いてシェルターを開け始めた。電磁的なロックはかかっていない。中のものへの信号との干渉を避けるためだろう。蓋は頑強に閉ざされていたが、それは中に眠るものを保護するためであって、開けられることを拒否するためのものではなかった。
開けながら、
「子供はどこだ?」
「サヴァノスストリート。第三高架の下」
淡々と素直に、ユイは答えた。エースが眉をあげる。それはエースがはじめに子供を見つけた場所だった。
蓋についたハンドルを握って右へ回し、重い円蓋を引き開けると、中から圧力の洩れる音とともに薄い蒸気のようなものが上がる。ホドランドはあきらめ顔でハッチの開いたバンの後ろに座り込み、首の傷の手当てをしていた。
二重構造の円筒の中には半透明の液体が溜まり、その中は闇に見えたが、ユイはためらわずその液体の中に両手を入れた。肘の上まで服が濡れるのもかまわず、中の何かを手ですくうように大切に引き上げる。
それは鉛色の粘泥の塊に見えた。ぐしゃぐしゃに丸められたような形のそれに、細い針状の電極が無数にさしこまれ、ユイが引き上げる途中で抜け落ちていく。電極の先には蜘蛛の糸のような微細な繊維が大量にからみあい、羊水のしずくを垂らしているが、ユイはやはり何の躊躇もなくすべての人工神経繊維をちぎって灰色のかたまりを胸に抱いた。変形し、ところどころ異様に萎縮して固化した、両手のひらにのる程度の細胞塊。
──あのエリギデルの瞬間を灼きつけ、悪夢だけを見ている‥‥
ユイは一心にそれを見つめている。エースが目をほそめた。
「テレパスだと言ったな。 "聞こえる" のか?」
「‥‥」
こくりとうなずく。唇に笑みが浮き、目が陶酔の熱をたたえていた。
「泣いてるんだ。ずっと」
レプリカントの脳を抱いて少しの間そこに立ち尽くしていたが、やがてユイはとらえどころのない足取りでゆらりと闇の中へ歩き出した。ポタポタと足元に滴の痕を引く。
エースは、バンの後ろに座ったままのホドランドへ目をやった。ホドランドは腕組みしたまま、立ち去るユイをとめようとはしなかった。
「優しくなったもんだな、お前も」
からかいともつかない声で言ったエースをぎろっとにらむ。それから、大きな息をついた。
「どうせ、あれはすぐ死ぬ。‥‥温度の変化にもついていけないし、外気にふれると自己消化酵素が活性化するそうだ」
抑えようとはしているのだろうが、隠せない嫌悪感が声ににじんでいる。エースは小さくうなずき、頬についた血を指先で拭った。返り血。床に寝かされた少年の死体を見下ろし、口の中で吐息を殺す。
バンに背を向け、闇の中を歩き出したエースを、後ろからホドランドの声が呼んだ。ふりむいたエースを見やる男の表情はどことなく愉快そうだった。
「あんた、軍をやめたのは "恋をしたから" って言ってたな」
「ああ」
うなずくエースを見つめたまま、ホドランドが少し声をひそめたが、地下でその声はよく響く。
「アレ、か?」
エースは表情ひとつ変えずに答えた。
「見たろう」
「‥‥お大事にな」
至って真面目な顔でうなずいたホドランドに一つうなずき返し、エースは脱出用にマーキュリーボードを置いてあるルートに向かって歩きはじめた。
ユイの告げた場所のすぐそばに、その車はあった。スモークブルーのルヴィメラ。微妙に時代遅れだが、嫌いな車ではない。エースは車に背中でもたれて、カツンと拳で窓を打った。
何の返事もない。遠いサイレンの音ばかりで街は静かに思える。だが、各所でおこった暴動まがいの騒動がまだ鎮圧されていないのをエースは知っていたし、エアポリスが空戒をつづけているのも、あちこちのゲートが封鎖されたままなのもよくわかっている。血なまぐさい夜は終わったわけではない。
そして頭上には、巨大で淫靡で安っぽい満月。フェイク・ムーンを見上げて、エースは煙草に火をつける。
一服したところで左側前方の窓があき、スモーク処理された内側から白い手がにょっきりとつきだされた。エースは無言のまま、自分の喫っていた煙草を渡す。指に煙草をはさんでやると、手は引きこんだ。
数秒して、逆側のドアが開く。エースは車をぐるりと回り、中へ乗り込んだ。サーペントは前を向いたまま、不機嫌そうに煙草をふかしている。後部に毛布にくるまれた子供が横たえられているのを見やり、口元に手をのばして呼吸をたしかめると、エースは唇に小さな笑みを浮かべた。
サーペントがチラッと視線を流す。
「で、お前はアレを撃って、コレを生かすわけだ」
「ああ」
姿勢を戻し、エースは、前を向く。サーペントが煙を吐きながらボソッと呟いた。
「幽霊にくれてやれよ。きっと大事にするぜ」
「ああ。多分な」
「‥‥」
長い吐息をついた。サーペントは前髪をぐいとかきあげる。
「で。どうすんの、偽善者」
「マサドのホテルに車と荷物が用意してあるから、そこで乗り換えてイルヴェンを出よう。この車のキィ持ってるか?」
「ガキ見張ってた奴から取り上げたよ」
その当人がどうなったかについてサーペントは言わず、エースも聞かなかった。サーペントは唇のはじを持ちあげる。
「俺が聞いてんのはガキの話だけどな」
「そっちは医者を手配してあるから、預けにいく。足の裏のコードを消してくれる。その後は、ホドランドが保証人になって専用のシェルターに入れる手筈になっている」
淡々と言うエースを、シートにもたれかかったサーペントが横目で見た。
「‥‥あいつ、二度とお前に会いたくないと思ってるだろうな」
「亡霊を見て嬉しい人間はいないだろうよ」
座席から身をおこし、エースはサーペントの唇から煙草を取った。そのまま体をかぶせ、半ば強引に唇を重ねる。サーペントは目をとじ、エースの頭を右手で抱くように腕を回して強いキスに応えた。唇の内側で互いの熱を感じる。この一夜さえばかばかしく思えるほどに気分が昂揚し、甘く、それでいて後のないギリギリに追いつめられる感覚の中に意識が溶かされていく。
エースは唇を離したが、体をもどそうとする彼の頭をサーペントが強く抱いた。エースは小さな吐息をつき、力を抜いてサーペントの肩に頭を預ける。そのまま、しばらく相棒の体にもたれていた。言葉もなく、それ以上の愛撫もなく、彼らはただ、その瞬間を凍らせたようにじっと動かなかった。
やがて身をおこし、エースは指の間で短くなっていた煙草をくわえる。乱れた髪をかきあげて、サーペントが無言のまま車を発進させた。
ポタッ。
水音は、ゆっくりと。だが、たえることなく。
ポタッ。
‥‥ポタッ。
くらやみに、パイプに埋め込まれた誘導灯パネルがとぎれとぎれの光を落としている。巨大なパイプの一部からじれったいほどゆっくりと水が染み出し、下へ滴となって落ちてくる。
ポタッ──
「アリア‥‥」
呻くような声に、少年は顔を上げる。ほとんど少女のようにも見える顔はおだやかで、唇に湿った微笑があった。
視線の先の闇には大柄な男が立っている。頬はそげ、青白い幽鬼のような顔の中で目は二つの穴のようで、生気のきらめきなどどこにもない。無表情だったが、うつろな絶望が目のなかに満ちていた。
「‥‥アリア」
少年が艶のある声でつぶやく。床に座りこんだその胸元には得体のしれない灰色の粘塊がこびりついている。その残滓を抱くように愛しげに指を曲げ、彼は小さくうなずく。
「アリア。それがあの子が最後にもらった名前だったのか」
「アリア‥‥」
「みんな、行ってしまったよ。アリアも、キリング・ムーンも。あなたはどうする?」
男は聞こえているのかどうなのか、ただ暗闇のような目を少年に向けていた。疲れきって感情が摩耗しきった顔を見つめていたが、ユイは立ち上がり、まるで子供を抱くように粘塊の名残りを抱きながら、雨のように滴が落ちてくる地下を歩き始めた。
その後ろを、男はゆっくりと、引きずるように重い足取りで追い始めた。
検問をよけるのに意外と手間取り、目当てのビルについた時には夜空のはじには白っぽい光がさしこみはじめ、街は奇妙に色あせて見えた。一時はあちこちで叫ぶようだった警告のサイレンもすっかり静かになっている。
銀盤のようだった偽の満月は、何の役にも立たないままその姿を消し、空に幻の月のかけらもなかった。
道から下がったスペースに車を停め、サーペントはエースを見る。眠っているように目をとじていたエースがまぶたを開け、うなずくと、車を降りて後部に回った。毛布ごと子供の体をかかえあげて、夜間病院の狭い裏扉に歩み寄る。パネルに予約番号を入れ、開いた扉の中へ足を踏み入れた。
ここの医者とはすでに話がつけてあり、専用の保護シェルターへの輸送まで病院の方で手配してくれることになっている。シェルターでの保証人はホドランドにたのんであった。今夜の一件はあったが、ホドランドは一度自分で引き受けたことをくつがえすような男ではない。エースはそれは心配していなかった。
それに、ホドランドが現実的に手をわずらわされるわけではない。ただ、身元引き受けの保証人として、名を示してもらうだけだった。
エースも架空の身分をいくつか持ってはいるが、犯罪のためにその名や身分証を使うことがないとは言えない。あるいはそれが架空のものだと暴露されることもあるかもしれない。その時に、名前をたぐられて、万が一にも子供の保護が失われるような事態に至るのは避けたかった。子供が育つのに何年かかるか──それとも正常に育つことなど到底望めないのかもしれないが──、ある程度長いスパンで物事を考えるべきなのだろうと、エースは思っていた。なるべく実体のある、実在している人間の保証がほしい。
──亡霊では何ともならないな、と彼はかすかに苦笑し、腕にかかえた毛布のかたまりを見下ろした。
子供はドラッグでも含まされたか、毛布の中で哀れなほどかるい体はほとんど動かなかった。これが生きているとは思えないほどに。そして、生きていくのだと、育っていくのだとは思えないほどに。
早朝の病院内は一見静かだったが、耳をすませば人々が立ち働く音と気配が満ちていた。壁の内側に仕込まれたエアシュート内をパケットが行き交う音が時おりシュッとひびく。今夜の騒ぎでどれくらい怪我人が出たのかはわからないが、搬送は一段落ついたようだった。
エースは壁の案内板にふれ、目当ての医師がどこにいるか探し出す。それからコンタクトを取った。
大部屋をつなぐ連絡通路までエースに呼びだされた医師は、初老の男で、時間を考えれば無理もないがひどく疲れているように見えた。何も言わずに、子供と金を払い込んだチェックカードを受け取り、うなずく。エースも余計なことは言わず、ドラッグを含まされている可能性だけ手短に告げて、彼に背を向けた。
それを医師がふいに呼びとめた。
顔だけふりむくエースに、医師はかすかな笑みを見せた。
「名前でも、つけてかないか?」
意味をつかみそこねて、エースはやっと子供の名前のことだと気付く。臓器用のクローンとして育てられ、おそらくオモチャとして市場に流された子供に、名などあったことがあるとは思えない。
一瞬たじろいだが、エースは首を振った。
「‥‥呼ぶ人間が、つけてやってくれ」
それから完全に背を向けて歩き始めた。
ホテルに回って車と荷物を引き取ると、ほとんど夜明けとともにイルヴェンから出た。
車内でサーペントは座席を倒してひっくりかえり、目をとじていた。エースも運転をオートに切り替え、左右を半透明の壁に囲まれたハイウェイを流している。その間、何回かニュースをチェックしたが、イルヴェンの一夜での十数人という死者とその十倍の怪我人のことを言うだけで、キリング・ムーンが見つかったかどうかにはふれていなかった。
サーペントが興味を示したのは、ムーンストラッカーらしい一群が列をつくってイルヴェンを徘徊しはじめたらしいというネットニュースだけだった。一群は何かをつぶやきながら、別にそれ以上何をするでなく、歩き去っていくのだと言う。その先頭に少年と大柄な男がいたという目撃証言にチラッと笑って、彼はまた目をとじた。
二人ともにそのニュースについては何も言わなかった。それどころか、彼らは移動の間、ほとんど口をきいていなかった。
右足を上にして組んだサーペントの足がもぞりと動いたが、ほとんど水平に倒したシートに寝たまま、起きようとはしない。電動のエンジンの駆動音がかすかにつたわってくるほかは車内はほとんど無音で、相変わらずどちらも無言のままだった。数度、濃厚なキスを求めあいはしたが、どちらも飢えたように相手をむさぼるだけでその熱と裏腹に、言葉は一度もなかった。
「‥‥丸、損」
ふいにサーペントの呻くような呟きがきこえ、エースは組んでいた腕をといた。サーペントはヘッドレストに頭をのせ、乱れた前髪が顔を覆い、エースの位置から表情は見えない。またぶつぶつと、かすかな声で言った。
「クソつまんねえ‥‥」
「俺は少しもうけた」
「──どこから」
「ランテリスの生存情報を売った。キリング・ムーンのフレームを設計した連邦の科学者だ。あの女の細胞サンプルとセットでな。あれは死んだことになっている女だが、生きているとなれば用のある人間も多い。まあどうせ、俺に見つけられた時点でまた地下に潜っただろうが」
サーペントが右手の指で額から髪をかきあげ、首を少しだけ上げてエースを見やった。ラベンダーの瞳に獰猛な笑みがよぎった。
「お前、いつも女には甘いのに。‥‥そいつ、嫌いなの?」
「好きでも嫌いでもない」
「その女と寝たことある?」
「三度。悪くはなかった」
座席によりかかった体を斜めにひねり、腕をくんで、エースはサーペントを見ている。サーペントはまた頭を後ろへ倒し、あごを上げてくすくす笑った。
「へェ‥‥じゃ、何で」
「連邦とランテリスを切り離すには、密告が一番効率いいだろ。金にもなったしな」
「そいつがまたキリング・ムーンみたいなのを作るって?」
「それは難しいだろうけどな」
「‥‥お前さ」
サーペントが長い息を吐き、首から力を抜いて車の天井を見つめた。
「わかってたんだな。キリング・ムーンが共鳴を探してやってくる‥‥仲間を求めにくるって。俺はまた、共鳴が苦しいから相手を殺しにくるのかと思ったよ」
エースは肩をすくめる。祈るようにコンテナに体をからみつかせ、目をとじた少年の姿を思い出していた。
「わからなかったよ。反発と共感、どちらに反応するのかは。だが、どちらかにふれるだろうとは思っていた。孤独であることが、このイルヴェンでキリング・ムーンを幽霊に結びつけた。それならその孤独はあれを、同類にもっと強く結びつける筈だ」
煙草を取り出してエースが唇にゆっくりとくわえる間、サーペントは無言のまま天井の淡いパネルを凝視していた。陽光をさえぎるタワーの影がゆっくりと車内をよぎって去る。
「サーペント」
エースが低い声で呼んでも、サーペントの目は天井から動かなかった。
「なに」
「フェリカはどうした?」
「死んだよ。腐っちゃって。昨日までしかもたなかった」
「‥‥そうか」
火をつけながら、エースはライターの炎の色に目をほそめた。ゆっくりと煙を吐き出す。
サーペントが呟いた。
「あいつが死んだら泣いてやるって言ったんだ」
「そうか」
「うん」
「‥‥」
少し身じろいだが、起きようとせず、サーペントはまだ上を見つめていた。
「俺、嘘つきなんだよ」
エースが微笑した。
「知ってる」
サーペントが口の中で一つ二つ、何か毒づく。目をとじて、長い溜息をつき、ひとりごとのように続けた。
「フェリカねぇ。あいつ、死体としかできないんだって。生きてる人間にさわるのが気持ち悪いんだってさ。多分、相手を読んじゃって、自分の自我がルーズになるんだろう。それであいつ、昔から何回か俺に言ってた。俺が死んだら犯してやるって」
「ああ」
「だから、してみたんだけどさ」
エースは一瞬、サーペントが何を言ったのかわからなかった。青い目をまたたかせながら肩をシートに押し付け、振り向いてサーペントを見つめる。サーペントの唇にはかすかな微笑があり、車内をよぎる影が白い肌を時おり染めた。
その顔を凝視していたが、ふっとエースが眉をあげた。
「‥‥死体と寝たのか」
「うん」
上を見たまま、サーペントがこくりとうなずく。右手を少し振った。
「そしたら泣けるかもと思って。でも途中で笑っちゃって、泣くなんてとても無理。フェリカには悪いけど、死体につっこむのって凄くばかばかしい」
「‥‥お前ね」
長い溜息をつき、エースは数回首を横に振っていたが、思わず苦笑した。サーペントは拗ねたように呟く。
「だって、たまには思うじゃないか、泣いてやろうかなーとか。俺だって嘘ばっかりついてるわけじゃないんだよ」
あまりの前後の脈絡のなさに、エースが煙草の煙でむせかえった。サーペントの中では一つにつながっているのはわかるが、だから死体と寝るというのは、あまりにも無茶苦茶な話だ。
「よく‥‥勃ったよな」
「ちょっと苦労した。でも分解はじまってたから、つっこむにはゆるくて助かったよ」
真面目な顔で、しかも少し得意げにうなずく。ついに耐えきれなくなって、エースは灰皿に煙草を捨てると喉元を抑えて本格的に咳込みはじめた。やがて咳がまばらに収まりはじめると、目尻の涙を拭う。
サーペントが肘をついて半身をおこし、エースをにらんでいた。
「笑ったな」
「‥‥少し、な」
少しどころではないが、とりあえずそう言っておく。サーペントは右手の中指を立てて忌々しげに言った。
「ひどいヤツだ。俺は本気なのに」
だからこそ可笑しいのだが、当人にそれはわかるまい。殺気すら漂わせている相棒に、エースもそれを言う気はない。うっかり口に出しそうになった本音を、エースは喉の奥で咳とともに散らした。
(好きだったんじゃないのか?)
それを聞けば、きっと返事はある。ニッコリ笑って「そうかもね」、そして「何、妬いてんの?」と──いやこれは機嫌のいいときのオプションだから、今ついてくるかどうかはわからない。どちらにしても、本心などではない。単なる上すべりのジョーク。
サーペントはフェリカに短い恋をしていたのではないかと、エースは漠然と思っていた。最後のふれあいはフェリカのためか、それとも自分のためか?
泣いてやろうとしたなんて、可愛らしいことだ。挙句にセックス。
(これが恋でなければ何だ‥‥)
鋭い目で自分を凝視するサーペントの顔を、エースはじっと見つめる。彼が気付いていたとは思えない。そして多分フェリカも、気付きはしなかっただろう。サーペントの恋は一瞬の火花のようなもので、互いに火傷の痕だけを残す。どちらにとっても、あまり幸福であったことはない。
恋人としては多分最悪の部類に入る、それでも愛しい恋人を見つめていたが、エースは左手をのばしてリクライニングのレバーを引いた。背もたれとともに体を倒し、サーペントに腕をのばして自分へ引き寄せる。サーペントはラベンダーの瞳にまだきつい光を溜めて、まばたきもせずエースをにらんでいた。
「お前だって、嘘つきじゃないか。俺に嘘をついた」
「ああ」
エースはサーペントの頬に唇をあて、白い肌を愛撫しはじめる。まだどこか血の匂いが互いにするような、夜の名残りをまとわりつかせたままの肌。
サーペントが低く呟いた。
「俺、許してないからな」
「ああ」
かすれた声でうなずいて、エースはゆっくりとサーペントの唇に唇を這わせる。サーペントの指がエースの金髪の間にすべりこみ、強くかき乱しながら、二人は互いに唇をひらいて絡みつくような長いキスに溺れはじめた。