偽物の月すら、そこからは見えない。饐えたような湿ったにおいのする暗がりに、闇がうずくまっていた。
よどんだ空気はうっすらと生臭く、都市の生みだす熱で奇妙にあたたかい。血の香りが漂っていた。ただ不吉な死の気配ばかりが沈潜する、そんな夜の中に、もぞりとうごめく影があった。
「‥‥アリア‥‥」
獣の喉がきしるかのような、錆びた音がこぼれる。声もほとんど奪われた。バルデウスの檻の中で、罪人は顔と己の正気を失い、イルヴェンの都市に放たれた。
「アリア──」
それはまるで人の名を呼ぶような。音の響きだけはそうだったが、声にも言葉にも何の温度も感情もなく、無機質な残響だけを残して消えた。
アリア──
呼び続ける。何故だかわからないままに。死の光景を見つめつづける。それが何だったのか思い出せないままに。
記憶の奥、夜の鉄塔からぼろきれのようにぶらさがったものは、まるで人のように見えた。手をのばす。だがそれを抱きしめることはできない。いくらふれようとしても感触がない。
くりかえし、くりかえし。再生されつづける、死の記憶。罪の記憶。
COMの画面をゴーグルの内側に投影してデータをチェックしながら、エースは目をほそめた。
──子供が、いない。
置いてきたはずのレンタルルームの一室から、子供につけた発信タグの情報が消えている。
地下の自動誘導路にバイクを乗せ、誘導電波に沿って走らせながら、エースはCOMの接続を左手で操って相手を呼び出した。間を置かず、すぐにうきうきした声がピアスにしこんだイヤホンから流れる。
「ハロー。御用?」
「子供がもっていかれた」
前置きもなく、エースは言った。一瞬の沈黙。ふっと相手の笑う息がして、
「俺じゃないけど、それで何の用? タグつけてねぇの?」
「つけてる。そうじゃない。今送った顔、知ってる顔か?」
エースが子供をかくまって世話をしていたのは特殊嗜好の人間のためのレンタルルームで、主にいかがわしいセックスのために提供されているものだ。その防犯カメラから吸い上げてきた映像を送ると、相手はけらけらっと笑って一瞬で接続を切った。
エースは眉をしかめたが、そのままバイクを走らせながら街の状況をゴーグルの投影情報でチェックしはじめた。メディカルレスキューの出動、クロスゲートの閉鎖、事故による道路封鎖、アンダーウェイにつながるゲートの閉鎖──それぞれの情報の座標をつけ、頭の中へしまいこんでいく。街の地図にそれらの情報を重ねていくと、ふっと何かが見えた気がした。
注意深くチェックしながら、エースは情報の空白地帯に気が付く。交通規制が複雑にしかれて入れない地区があるのだ。その中心部に何があるのか、エースはイルヴェンの地図から見つけ出す。東南区、再開発地帯の中にある、大規模災害用の避難用エリアを兼ねた緑地帯。小さな商業施設に接しているが、そこも今日は夕刻から閉鎖されている。サーペントがタグを付けてばらまいたハンターもそこには入り込んでいないようだった。
管理を担当する会社を調べ、そこからゴミ収集車のルートと時間を調べてチェックする。今日のゴミ収集は中止されていた。清掃車も同じ。そのエリアの中にある防犯カメラの映像にアクセスしようとしてみたが、ネットワークが遮断されていた。さらに衛星からの地上画像を確認する。一見まともに映っているようだったが、前日の同じ時間の画像とまったく同じ──すり替えられている。今の画像ではない。エースは確信を持った。
都市機構がここを切り離し、隔離している。情報の空白地帯──ブランクエリア。
通信妨害をかけ、エリア一帯を自分たちのコントロールの下におこうとしている。だとすれば、何のためだ? エースはいくつかキリング・ムーンの出現エリアを予測していたが、ここはそのどれとも大きく外れているし、これまでのキリング・ムーンの出現パターンにもはまらない。
ここに何がある? 何故ここに網を張る?
(──おびきだすつもりか、キリング・ムーンを)
だが、どうやって‥‥
ふとエースの記憶の向こう側を何かがかすめる。ランテリスの笑み。あの女科学者の、金属的なひびきをおびた声──
(脳共鳴)
同一のDNAを持つレプリカント同士の間で引き起こされた、強い共鳴現象‥‥
サーペントはマーキュリーボードの上に伏せてチューブロード内を疾走しながら、指輪をいじってCOMをつないだ。耳に仕込んだ骨導フォンからやわらかな笑い声がかえってくる。
「やあ。ありがとう、サーペント」
大人の男の声なのに、舌足らずでどこかたどたどしい声だった。その声の主は黒髪の少年、ムーンストラッカーの一群を支配する主だ。
「ユイ──」
目をきつく細めて、サーペントは冷たい声で吐き捨てる。
「てめェだな、ガキかっぱらいやがったの」
「うふふ」
「てめェ、テレパスか」
それには含み笑いしか返ってこなかったが、サーペントはすでに確信していた。読まれたのだ、あの薄暗い空間で対峙したあの時。サーペントを、ではない。それには奇妙なほどの確信があった。そうではなく、ユイが追ったのはサーペントにフックをかけて追おうとしていたフェリカの意識、だ。弱っていたフェリカの思考はすべてサーペントに集中し、他人の意識に気付くこともそれを防ぐこともできなかった。ユイはフェリカを追い、子供の存在と場所を割り出したのだ。
フルフェイスへルメットの下でサーペントの目の中に怒りの炎が踊ったが、声は氷のようにひややかな刃を秘めていた。
「ガキ殺したら、てめェを殺すぞ」
「こわいねえ。こどもひとり、何が惜しい?」
「そっちだってわざわざ何だって手間をかける。たかが臓器用の培養クローンだ。オモチャにしたってもっといいもんがあるだろうが」
そうまくしたてながら、しかしサーペントはその一瞬に、あの子供が喉からきしりだしたただ一つの言葉を思い出していた。
(アリア──)
アリア‥‥
アリア=ファスキス。誘拐され、もてあそばれた最後に、自分を探し出した父親の手で殺された子供。遺伝子上の父親は、娘を追い、復讐を終え、娘の命を自分の手で奪い、収監されたバルデウス・ケージで顔を奪われ、正気を奪われた。このイルヴェンに狩りのターゲットとして放たれた男はそのまま都市の深みに姿を消し、すべてを失った幽霊となって、イルヴェンの闇をさまよいつづけている。
サーペントはギリッと奥歯を噛んだ。幽霊。キリング・ムーンを探して幽霊へたどりついたのは、彼らだけではなかったのだ。
「ガキをエサにして幽霊を狩りだす気か?」
その向こうにあるキリング・ムーンへ手をのばすために──。
「一回目は、もうすこしでうまくいったのにね」
「はじめから、ガキを釣り針にくっつけようとしてたってことかよ」
エースが子供を探し出したのは、ムーンストラッカーの馬鹿騒ぎの痕だった。サーペントはその記憶をたぐり、ムーンストラッカーが「生け贄」を捧げて連夜の饗宴に酔っていたという噂を、興味なくしまいこんでいた記憶のすみからひっぱりだす。
「‥‥何匹仕掛けた。ヤツがその子供にたどりつくまで、何人殺した?」
「数なんてかぞえてないさあ。君も言った、たかが臓器用のシロモノ」
「ユイ──」
「パーティをはじめようと言ったのは君もさ。ぼくらは同類じゃないか、たのしくやろうよ」
耳の中でクスクス甘ったるい笑い声が鳴って、通信は断たれた。サーペントは舌打ちして、すぐにエースへつなぐ。相棒が出た瞬間、
「確認した。ムーンストラッカーにかっぱらわれてる。どうする?」
高飛車にたずねる。エースがふっと笑ったような音が揺れて、
「取引できそうか?」
「何で、あんなガキほしがるかね、お前も、さ」
「なんだ焼きもちか、可愛いな」
マーキュリーの上で重心を傾けて細いチューブ内を抜けながら、サーペントが一瞬凄まじい目をした。相棒の呑気な物言いが心底気に入らない。そもそもこいつが子供なんぞ拾わなきゃ、それをサーペントに押し付けようなんて思わなきゃ、こんな雑音にゆすられることもなかったのだ。
「ふざけんな!」
「ふざけてはいないよ。相手の望みは何だ?」
さらりとした声だった。サーペントは舌打ちし、チューブロードの出口から夜の街並みの間へ滑りだした。建物の隙間を抜けていくマーキュリーボードを後ろから同じボードのライダーが追ってくる。次の瞬間、サーペントが行きがけに壁から引きむしって投げつけたワイヤーオブジェが顔面にぶつかって、バランスを失ったマーキュリーはひっくりかえった。ライダーが路面にたたきつけられる。
この夜、こんな人気のないプラントの間を走っているライダーは野次馬かハンターかムーンストラッカーくらいにはちがいないが、相手がそのどれなのかサーペントに確認する気はない。単なる八つ当たりだ。
振り向きもせず夜風を体で受けながら、サーペントは声を低くした。エースをためしてみたくなる。
「どこまで出す」
「ムーンストラッカーだろ。望みをかなえてやるよ」
「何だそりゃあ」
骨導フォンの向こうから聞こえてくる相棒の声はかすかな笑いを帯びていたが、何故かサーペントは背すじにひやりとする金属のような冷たさを覚えた。
「キリング・ムーンに会わせてやる。その情報と引き換えにしよう。どうだ?」
相棒はいつになく上機嫌で、そしていつになく不機嫌だった。あっというまにくるくると声の調子も口調も変わる。きっと彼の瞳の表情もめまぐるしく、揺らぐ水のようにうつりかわっているのだろうとエースは思ったが、通話ごしではわからない。
そして今の声は不機嫌。かみつくように、反問してくる。
「居場所知ってんのかよ、お前」
「連邦の軍が罠を仕掛けてる。奴らはそこにキリング・ムーンをおびきだすつもりだ」
「どうやって」
「脳共鳴」
エースが一言返すと、サーペントがだまった。何やら激しい音と動きの気配がつたわってくる。少ししてふたたびサーペントの声がした。息は全く切らしていないが、数秒前と比べると格段に溌剌として機嫌がいい。何かやったな、とエースにはピンときた。
「アレか、エリギデル・フィールドでおこったヤツ──同体クローン同士での共鳴・発狂現象」
「ああ。そっち、どうした?」
「三人ばかり上からふってきた。このへんは祭りで血が沸騰した阿呆が多いね。なぁ、共鳴ってのは一方的なもんじゃねぇだろ。単なる相互作用だ。たとえもう一体同じレプリカントがいるとして、それを引っ張り出したところでどうなる? たとえ共鳴がつながったところで、どうやってキリング・ムーンをエサに向かって引き寄せる」
「だからわざわざ月齢29の夜を選んだんだ。この夜に、記憶が活性化し、エリギデルの悪夢が再生される。キリング・ムーンは必ずくる」
血と泥にまみれてねじくれたあの悪夢、暴走と殺戮の記憶を共有する者に、キリング・ムーンは必ず会いにくる。エースがはっきりと確信していることを声から感じ取ったのか、サーペントはそれ以上反問はせず、一瞬沈黙してから、彼の名を呼んだ。
「エース」
「何だ?」
珍しくサーペントがためらったような間があったが、乾いた口調でたずねた。
「エリギデル・ミステリーがおこったあの日‥‥あの日の月齢も29だったんだな?」
「そうだ」
エースの答えも乾いていた。ゴーグルの中に情報を二重投影しながら、彼は素早くルートを考える。サーペントが目印としてバラまいたアマチュアハンターの位置どりもチェックし、彼らの数がまた減りつつあるのを見て苦笑した。罠に気付いて接続を切った者もいるのだろうが。
一瞬黙って、サーペントがまた聞いた。
「ガキにタグつけてあるなら、直接取りに行くか? 手伝ってやってもいいぞ」
「いや。弱いタグだから同定に時間がかかるし、俺には別の用がある」
「キリング・ムーンか」
「そうだ」
「殺す気か? お前にとっちゃ、遺伝子的な兄弟だろう」
「あれは、キメラだ」
短くエースはその一言で片づけた。キリング・ムーン──あのレプリカントのためにチューニングされたDNA、その元となったマスタージーンの提供者の一人は、エースの遺伝子上の父親だ。もっともキリング・ムーンは多人数のDNAをモザイクのようにつぎあわせたキメラであって、それをサーペントの言うような「兄弟」という感覚でとらえるのは難しい。
そしてまた、エースは自分の遺伝子提供者を「父親」として考えたことはなかった。
──だがそれでも、キリング・ムーンが自分と同じ遺伝子を継ぐ者だと思えば、心のどこかに引き攣れるような重さが生じる。それをどうすることもできないのは、確かだった。
サーペントが事実を探り出したことに驚いてはいなかったが、サーペントの口調の中にある何かが彼を驚かせた。まるで、エースを気づかうような。
相棒が何か言いたそうな気配を、エースは感じる。だがそれ以上それについての言葉はなく、二人はいくつか事務的に情報のやりとりをしただけで通信を切った。ユイの相手はサーペントにまかせ、エースはバイクのスピードを上げる。イルヴェンのあちこちに敷かれた交通規制のせいで車量は明らかに少なく、流れる光はまばらで、夜の都市はまるで静かにすら思えた。遠く、サイレンの音が響きだす。それすらもうつろな幻のようだった。
遠く遠く、獣の声のように。サイレンの音がイルヴェンのあちこちからうなりを上げる。頭上をエアポリスのエアウィング機がローターの音をまきちらしながら地上をスキャンする、その走査の死角にマーキュリーをとめ、ヘルメットを外して涼しい夜気に顔をさらし、サーペントは少しムッとした表情で腕組みしていた。
──いったい何だって、あのガキのためにあれこれ手を打たなきゃならんのか。
エースとの連絡を切った後、ユイと交渉して取引はまとめた。難しいことではない。エースがにらんだ通り、ユイが執着しているのはキリング・ムーンであって、あの子供ではない。欲しいものをエースがくれてやると言う以上、カードは十分以上に有利だ。ユイが素直に子供を渡すかどうかは別の問題だが、それはエースが考えればすむことなのでサーペントにはどうでもいい。
問題は、「何で俺が?」という一点で、どうもコレはおかしくないか、とサーペントはいささか腹に溜まるものがある。
ユイは「サーペント」と呼んだ。ユイにまだその名を名乗ったことはない。フェリカから読んだな、とサーペントは目をほそめ、狭く頭上にのしかかるようなビルの壁に切り取られた夜空を見上げた。ここからでもフェイクの「満月」が見える。夜空に投影された巨大な偽物のフルムーンは、見るものを圧するように煌々と輝いていた。
左脳から言語情報を採れるテレパスの数は少ない。テレパスは基本的に人間の感情・情緒面にアクセスするものである。それは基本的にテレパスが、大脳辺縁系、すなわちきわめて原始的で情動的な脳の一部分の異常な興奮状態によって引き起こされるものであって──それを「ニューロンの野蛮な躁状態」と呼んだ研究者もいるが──辺縁系のみでは言語的情報の処理ができないためだ。辺縁系を通じて入ってくる情報を言語的に処理するには、すぐれた統合知覚が必要になる。
ユイはどのくらいフェリカを「読んだ」のだろう。フェリカも弱小ではあるがテレパスであった。テレパス同士ならば、情報の受け渡しは非能力者よりも簡単になる。弱っていたフェリカを読むのはどんな感覚だったのだろうと、サーペントは想像してみる。自己共鳴で崩壊しかかるフェリカの精神、アポトーシスと自己分解をはじめた腐敗する肉体、生と死がまじりあわずに絡みあった狂騒と混沌。想像もつかない熱と冷気。ユイはどんなふうに、それを味わったのだろう。
サーペントは黙ったまま、闇にギラつく偽月の色を見ていた。
肩を一つすくめ、COMの端末を左手に取り、接続した。相手が出た瞬間、たたみかけるようにしゃべり出す。
「やあ、セイント・セイン。まだ聖人づらしてイルヴェンにいるのなら、キリング・ムーンを見においで。街が騒がしいから命の保証は出来ないけどね。見たいだろう、見てみたいだろう、あんたが街に離したも同然の獣を?」
「‥‥俺に何をさせたい」
「人の親切は素直に聞けよ」
サーペントの唇がふいっと微笑の形に吊り上がった。ワートブルの声は用心深い。当たり前の話だ。
「君、街を出てけと行ったろう‥‥」
「まだ出てないんだろ?」
「‥‥」
サーペントの笑みが深まる。
「ねえ、セイン。あんたどうしてキリング・ムーンにそんなに執着する?」
「何故そんなことを聞く」
「情報代だ」
「──」
「言いたくないなら、イエスとノーで。では質問。エリギデルの戦場で確認された死者は38名。その中にお前の知り合いがいた?」
囁くように優しげに、サーペントは月を見ながらたずねた。骨導フォンの向こうに生じる沈黙の、一瞬のひきつれを手に取るように感じ取る。人の傷を追いつめる瞬間。わずかなひび割れを内側から押しひらきながら、ひりつくような感情がどろりとあふれてくる。膿みのように。
深い傷には、治らない部分が必ずある。生のまま残る場所が。そこを押してやれば傷は勝手にひらく。サーペントはそれをよく知っていた。
「‥‥いない」
聞こえてきた声は乾いていた。サーペントはうなずく。抑え込もうとしている苦痛が、その声の表面にざらついてこびりついているのがわかった。それが彼を昂揚させる。
「成程。じゃあ連邦側か。連邦の死者数は発表されていない。誰が消えた? 誰が戻ってこなかった、セイン。お前が正義の名の元に罪を暴こうと執着する、それは誰のため?」
「‥‥」
迷い、惑い、恐れ。そんなものの混じりあった、ひりひりと灼けるような感触を舌の上で楽しみながら、サーペントは夜風の奥に悲鳴を聞く。遠く、かぼそい。夜のどこかで行われている暴力の気配を呼吸とともに大きく吸いこんで、頭の芯をぐらつかせながら、サーペントは笑い出した。
「いいよ、言わなくて。それはあんたの十字架だ。言わなくていい、セイン。情報は後で送る」
そのまま答えを聞かずに接続を切った。悲鳴は消えていた。
ホドランド・ヴァルザナールは目の前の円筒状のコンテナを見つめた。まばらな無精ひげが散ったするどい顔には、嫌悪の色がかすかに浮いていたが、表情は平静だった。
キリング・ムーンが街に解放されてから、すでに五ヶ月。それだけの時間がたってから今さら連邦のラボがこんなものを送ってきたということに、ホドランドは強い不信を抱いていたが、これを出すという一事について、軍の上層部に凄まじい葛藤があったことに気付いてはいた。
円筒形のコンテナは大きなもので、直径は1メートル弱、高さは本体が1メートルほどで、ごてごてと全体を覆うようなパイプラインがそれを一回り大きくしている。内側は三重構造だということだが、内径には、中に人ひとりうずくまって入るほどの大きさがあった。専用の台座に固定され、中に充填された大量の液体がパイプの中を流れ、また中へ流れ込んでいる。本当はその液体を浄化し成分を保つためのもっと大きなユニットがついていたのだが、今はそこからコンテナだけを切り離している。この状態で「生きて」いられるのは半日ほどだという話だった。
──これがもし、「生きて」いるなんていうものだとして、だが。
コンテナのそばについている男が顔を上げ、ホドランドを見やった。ラボが輸送してきたシェルターにともについてきた男だ。ラボの研究員の一人だと名乗りはしたが、「ジャック」という名が本名ではなく単なるコードなことくらいは誰にだってわかることだ。細っこい体、何の変哲もないグレイのシャツと黒いカーゴパンツ、時おりちらっと神経質な目をコンテナに向けては口の中で何かぶつぶつと呟く。あまり陽に当たっていないような青っぽい肌をしていた。
黒い大きな目をホドランドへ向ける。ニヤッと笑った。
「はじめますよ」
突如として陽気な雰囲気を帯びたジャックを一瞬見つめ、ホドランドは無言でうなずいた。男はコンテナのそばへかがみこんで膝の上に置いたパネルを有線でコンテナに接続し、細かに指先をゆらしてパネルを叩きはじめる。コンテナの中にある「もの」は、有機的な栄養にくわえて、電気的な刺激を与えられることで生かされている。その刺激をコントロールして活性化させるのだという話だった。
コンテナが微細な振動を帯び、無音のうなりが空気をひりひりと揺らしはじめると、ホドランドは耳の中に仕込んだイヤホンと通信機をオンにした。
「コード・デルタ。開始する。全員配置場所で待機」
ラジャー、という返答を聞きながら、彼は青のまじった灰色の目でコンテナを見ていたが、ジャックと名乗った男に合図してその場から立ち去り始める。強化コンクリートで柱も壁も覆われ、さらに黒い支柱が壁にはりつくようにめぐらされた地下の空間は、表向き地下駐車場ということになっていたが、車の姿は一台もなかった。この上には都市災害にそなえるための広い空間がひろがっている。ここもそんな時にはシェルターとなる筈の場所だった。少なくとも、そのために設計されている。都市建築法で、こういう空間の設置が義務づけられているのだ。
イルヴェンの都治班はあまり真面目にこの場所をメンテナンスする気はないらしい。隔壁で仕切った隣のエリアには、災害物資のマークのついた四角いコンテナが積まれていたが、そのうちのいくつかはイルヴェンがマフィアと組んで街ぐるみで流している麻薬なのではないかと、ホドランドは疑っていた。
まあ、彼には関わりのないことだ。ここがどんな悪徳の地であれ。彼の任務はキリング・ムーンを回収する──それができないのならば、今度こそ、殺害する。
そのことだけを考えようとしたが、円筒形のコンテナが放つ低いうなりが後頭部をしめつけるようで、不快感は拭い去りようもなかった。
「キリング・ムーン発見。
東南エリア、グリザールベイ。緊急避難用エリアにて
市警と軍の一部による制圧作戦展開中」
キリング・ムーン発見──
賞金ハンター同士の情報共有ボードから一般のメッセージボードまで絨毯爆撃で書き込むスクリプトを走らせ、ついでにハッキングしたニュースサイトのトップに情報を書きこんで、情報をバラまくトリガーを引くだけ引くと、サーペントは薄膜パネル上で増殖していく書き込みを見ながら、少しばかり溜飲を下げた。
ついでにイルヴェンの地域緊急情報のプログラムを利用し、当該エリアに近い個人のCOMにかたっぱしから緊急メールを流す。不正操作は8秒でシャットダウンされたが、それだけあれば十分だ。仮想の投影キーボードを切り、自分のCOMの接続を切って、座っていたマーキュリーの上に立ち上がった。
ざわりと夜風が髪の中を抜けていく。
案の定、情報が流されていることに気付いたエースからコールが入ったが、それを無視してアクセスを拒否する。
──てめェの思い通りになると思うなよ。
そう正面きって毒づきたいところだったが、現実的にエースの声を聞くと自分があらぬほうへ揺れそうなことくらい、サーペントは自覚している。
揺らぐことは嫌いではないが、今、エースの声を聞きたくはなかった。正直、あまり相棒のことを考えたくもない。もやもやした気分を乱暴に脳の片隅へ押しやって、サーペントはそこのところを考えるのをやめた。所詮、何もかもゲームにすぎない。エースの存在を含めて。
はじめから、そうだった。楽しめるうちに楽しむ、それだけのことだ。
ほかに何がある?