act.19

 エースは腕組みして目をとじ、つめたいパイプによりかかって座ったままじっと動かなかった。ほとんど何もかもが闇に沈んだアンダーウェイ。都市の地下にはりめぐらされたライフラインのすきまに存在する地下空間。エースのいる場所は、将来の増設に対応するために第一層には大きな間隙があり、細かな金属格子でフロアを覆った輸送用路が闇から闇へのびていた。
 道の左右にうめこまれた誘導信号のパネルが淡い青に発光しているが、あたりをみっしりと取り囲む闇の密度の前に、その光はあまりにもたよりなかった。
 あたりは細かな物音に満ちていた。液体の流れる音、輸送用のシュートをすべっていくカーゴの音、遠く上層からつたわってくる可聴域ぎりぎりのうなり。人の肌の内を流れる血が血管の中で微細な音をたてるように、街の地下には、街を生かそうとするシステムの音がする。
 ホドランドがどこにキリング・ムーン用の罠を仕掛けていたのか、エースにはわかっている。地下だ。イルヴェンは連邦の動きに表立っては介入できないだろうが、確実に空に「目」は飛ばしている。エアポリス、あるいはもっと小型のエアホバー。今夜、空から見通せる場所で、キリング・ムーンへの仕掛けをするわけがない。そんなことをホドランドがすれば、イルヴェンの「目」で秘密を握られる。
 となれば地下しかない──広さがあり、構造がなるべく単純で、出入り口の数が少なく、動線の誘導がたやすい場所。今夜の閉鎖エリア内で条件にあうのは、避難エリアを兼ねた地下駐車場しかない。
 そしてそこから脱出するルートもまた、準備しているにちがいないとエースは踏んでいた。エースならば、それにも地下を使う。メビウスから手に入れた構造図を街の地下の構造と重ね合わせ、ルートをはじき出すのは難しいことではなかった。身一つでマーキュリーに乗って走るのとはちがう、それなりの装備をそなえて移動するには空間が必要で、それには地下にあらかじめそなえてある移動路を使うのが一番いいはずだ。
 避難用の物資を運ぶために確保されている輸送用のシュート。その上を這うエネルギーラインのパイプに座りこみ、エースは雑音の向こうにきこえる別の音に耳を傾けていた。遠い振動。規則的なそれは、ほかの音とはまぎれもなくことなっている。それをエースの耳ははっきりと聞き取る。
 近づいてくる。
 獣のような動作で身をおこし、柱と柱をつなぐコネクターの上に体を入れると小さく身をかがめ、ノクトヴィジョンの映像をゴーグルの中で見つめながら意識を集中した。
 スモークブラックの車体を闇に沈みこませ、小型のバンが輸送路を走ってくる。バンの左右のバーに黒い鎧状の硬殻スーツで全身を覆った兵士が一人ずつぶら下がるように取付いているのを見て、エースは小さく苦笑した。キリング・ムーン相手とは言え、戒厳令下でもない都市内にアーマードスーツまで持ち込んでいるとは思わなかった。それも都市戦向きの軽量タイプではない、はるかいに装甲の厚い重量タイプだ。本来、都市機構の許可なしに持ち込んでいいものではないが、連邦が今回許可を取っているとも思えなかった。
 道理で、すべての通信を遮断したブランクエリア内、それも地下ですべてを行おうとしたわけだ。この装備状況がイルヴェンに知られれば、かなり強力な政治問題になりかねない。
 眼下4メートル下を車が近づいてくる。エースは大口径のハンドガンをかまえ、その進行方向に三発、無造作に撃ちこんだ。口径60ミリの巨大なハンドガンから低圧で撃ち出されたカートリッジは着弾の衝撃ではじけ、封入されていた硬化ゲルが上にとび散って、上を通過する前輪のドライブシャフトにからみつく。シャフトの駆動熱でゲルは数秒で硬化した。停止させるほどの威力はないが、スピードが一気にゆるむ。同時にエースは四発目を車体の屋根へ向けて撃っていた。
 車体にはねた四つ目のカプセルはチャフ弾だった。ほとんど不可視の細かなアルミパウダーをまきあげながら炸裂する。チャフの乱反射で電磁的なセンサーをつぶし、エースはワイヤーを左手に柱の上からとびおりた。車の走る輸送路との間には8メートル近い距離がある。上部のパイプにからめられたワイヤーがピンと張り、体が振り子のように揺れると、エースは柱を蹴って一気にその距離を跳んだ。一番体が傾いたところでワイヤーを離し、宙に弧を描いてバンの上部へ着地する。
 同時に右側へ跳び、車の左サイドに取りついていたアーマードスーツのマスクをつかみながら、宙で身を一転させて車から跳びおりた。アーマーの顔面を覆うマスクは離さないまま、アーマーの背中側へ体が落ちて行く。ギシッとアーマードスーツの関節がきしむかすかな音がすると同時に、右肘がエースの脇腹へ叩きこまれた。
 寸前にアーマーの背を蹴って飛びのいたが、風がうなりを上げ、エースは宙でバランスを崩してどうにか着地の体勢を取った。やはり生身や軽アーマーとは馬力が違う。本来は戦場や大規模な暴動鎮圧に持ち出すべきものだ。
 力でかなうわけはないが、弱点はある。
 逆サイドのアーマーがエースを追って車から飛び降りてきていた。電磁的なセンサーはチャフでつぶされているが、超音波を使ったパッシブセンサーはまだ生きている。エースは着地した地面に身を伏せ、横殴りの強撃をかいくぐりながら相手のふところへとびこんだ。二体いる以上、一体目を早く片づけないと勝ち目がない。勝負は5秒。チャフは15秒で拡散し、効果がなくなる。
 手をのばしてアーマーの首の根元へナイフの柄側を叩きこもうとした瞬間、戻ってきた腕に背中を押され、アーマーとの間に体が圧迫されて息がつまった。体がきしみ、思考が停止する。体はそのまま動き正確にナイフの柄の先端をアーマーの首にある外関節の隙間へ突き込んでいた。
 アーマーに抱きつぶされかかっている。全身が悲鳴をあげて苦痛が脳神経を灼こうとする。エースの指がグリップの一点を深々と押し込んだ瞬間、グリップの先端から80万ボルトの放電が放たれた。闇が一瞬の稲妻に照らされる。
 アーマーの中で最も外部との被膜が薄いのがこの首すじだ。外部に作動熱を逃がす必要がある。場合によっては冷却ユニットを装着するが、今は都市活動ということか、それを外している。
 エースのナイフのグリップにはスタンパルサーの電極が仕込まれている。アーマーがいかに硬殻と言っても、その内側は生身である。しかも首だ。そこに電流を流し込まれてはひとたまりもない。アーマーはそのまま動かなくなり、エースはナイフを離した。
 その体がぐいと持ち上げられ、宙で一転ふりまわされたかと思うと、顔から格子床へ叩きつけられていた。腕をクロスさせてかばいはしたが、肘のクッションだけでは受けとめきれず、衝撃で左肩をしたたかに打った。全身を激痛が抜けて肺から空気が叩き出される。
 たわめた肘をのばして体をはねあげ、エースは身を低くかがめて着地する。目の前に、もう一体のアーマーが立っていた。エースが車から飛び降りるときにマスクをつかみ、パッシブセンサーの感知部に粘着ガムをはりつけた相手だ。顔のマスクを取り去り、険しい男の素顔がむきだしになっている。
 ──電磁センサーもパッシブセンサーもつぶされ、マスクを取って目視に切り替えたのだ。判断は早い、とエースは無意識に笑みを刻んでいた。5秒ではなく、3秒で計算するべきだった。
 アーマーの右手には大口径のショックガンが握られている。キリング・ムーンをあくまで生きて「回収」するための装備だ。もっともライフラインが通るこの地下で口径の大きな実弾をぶっぱなせるわけもないが。そのショックガンの銃口が自分の方へ振り向けられる動きが、エースの目にスローモーションのようにうつった。
 エースは大きく右へ跳び、立ったままフリーズしているもう一体のアーマーの向こうへ転がりこんだ。床に叩きつけられたときに左肩が外れたらしく、動くたびに激痛が走り抜ける。ショックガンから放たれたパルスがアーマーにあたって拡散し、エースの耳にピィンと鼓膜がちぎれとびそうな無音の衝撃がつたわった。衝撃波のほとんどは盾にしたアーマーにあたり、残りはエースが服の下につけているボディスーツに吸収される。
 だが足から異様なしびれがひろがって、感覚が呑まれていくのを抑えることができず、彼は右膝をついた。アーマーが近づいてくる。ギシッとアーマードスーツのきしむ音がして、アーマーが地を蹴ったのがわかった。
 エースは苦痛をこらえて身を丸め、アーマーの蹴りをさけながら、のばした右手でフリーズ中のアーマーの首からナイフを引き抜いた。後ろも見ずにそれを投げる。その動きで力尽きたように、彼の体はそのまま倒れた。
 兵士は、むきだしの顔面目がけて飛来したナイフを、首を傾けてよけた。ハイス鋼のナイフは薄闇の中、どこか遠い場所にカランと音をたてる。それには一顧だに注意を払わず、兵士はうずくまるように倒れたエースの姿を見下ろしていた。エースは床に崩れたまま動かない。その後頭部へ向けてショックガンの銃口が向けられた。
(2、1──)
 闇に閃光がはじける。奔流のような、ほとんど暴力的な光が一瞬にして闇を砕き割り、鮮烈に影を焼き尽くして、狭いエリアは光の坩堝と化した。兵士が苦鳴を上げてのけぞる。マスクさえしていれば、ある程度以上の光を受容せずオーバーフローの処理がはたらく──光学系のセンサーは焼きつくが、目がやられることはない。だが、自らマスクを取った兵士の裸眼は光に灼かれ、視界は一瞬にして光の衝撃に呑まれた。
 行動を凍りつかせる、その一瞬でエースには充分だった。ナイフを投げたのは、閃光手榴弾を足元に転がしたのを悟られないための陽動だ。
 ゴーグルの下でさらに目をとじたまま、エースははねおきる。くるりとその体が回り、手刀が兵士の後頭部、やや下側の延髄へ正確に叩き込まれていた。
 ふう、と息をつき、エースは光で焼きついたゴーグルを外す。閃光は二秒で消えていた。乗員が意識を失ったまま、バランサー機能で立っているアーマーを見やり、エースは顔をしかめた。左腕はだらりと垂らしたまま、右手で左の肩をつかむと、ほとんど表情を変えずに肩をはめた。
 落ちていたナイフを拾い、二体のアーマーの腰の後ろに刃をさしこんで中枢の指示線を断ち切って動きをとめる。素早く作業を終えると、エースはバンが走っていった輸送路の先を見る。30メートルほど先に、バンはひっそりと停止していた。


 あらかじめそこにワイヤーを張り渡しておいた。二本。上部のワイヤーが接触して食い込めば下部のワイヤーがタイやにからみつく、そういう位置に設置してあったが、ホドランドはワイヤーに接触する寸前にバンを停止させていた。
 さて、と吐息をついて、エースは歩き出す。はめたばかりの左肩が熱を帯びていたが、動作の邪魔にはならなさそうだ。痛みには慣れている。
 10メートルのところに近づいた時、バンがいきなり急進した。後ろへ。柔性ラバーでくるまれたタイヤが輸送路の床を噛んでエースにつっこむが、シャフトに撃ち込まれたゲルに運動量を取られてそのスピードはゆるい。それでも人をはねとばすには充分だった。
 エースは地を後ろに蹴りながら、左腕をのばす。バンのサイドにとりつけられたバーをつかむと肩の痛みをこらえて体をひきつけ、二本のバーに渡された横棒に足を掛けた。体が車体にぶつかってはじかれそうになる。それを殺してバンにとりつくと、梯子状のバーをのぼり、バンの屋根に体を引き上げた。
 瞬間、車が急停止する。流れた体が後ろに放り出されそうになったが、エースは右手のナイフをバンの屋根に思いきり突き立てて体を支えた。車が停止する。ナイフを抜いて運転席の上部までころがると、バンの屋根のキャリアバーに足をひっかけた。屋根から体を逆さに落とし、振り子の要領でナイフの柄を運転席の窓へ叩きつける。砕けるガラスの中に手をつっこみ、ホドランドがかまえようとした拳銃を下からつかんで彼の顔面に叩き込んだ。ほとんど同時に、返す手でホドランドの首根を握ってそのまま窓の外へ顔を引きずり出す。
 ウィンドウに開いた穴の大きさが足りないため、ホドランドの顔面がぶつかってまた窓が砕け、顔に細かな血しぶきが散った。顔の上半分を覆うゴーグルをかけていたが、その表面も傷だらけになる。喉元までのボディスーツをつけているので喉は無事だが、それをいいことにエースは上からホドランドの頭を思いきり押さえつけ、ゴーグルをむしり取った。
 頭をつかんだまま、身をひねってバンからとびおりる。首をねじりながら自分を見上げるホドランドの顔をのぞきこんだ。
「後ろを開けろ」
 ホドランドが小さな溜息をつく。
「今夜は、あんたが死神みたいに見えるよ」
「開けろ。馬鹿な真似は考えるな。お前に後悔してほしくない」
「‥‥殺し文句だな」
 エースはじっと揺らがない目で見据え、答えない。額をつたった血が目に入りそうになり、ホドランドが目をしばたたいた。
「あいつらは?」
「生きてる」
「恩に着る」
 言った瞬間、内側からドアを蹴り開けていた。首を窓から引きずり出されたまま、勢いをつけて思いきりドアごとエースに体当たりする。同時に左手に握った拳銃を上げ、ガラスごしにエースへ向けて撃った。残っていたガラスが粉々に砕ける。
 だがドアにも弾丸にも手ごたえはなかった。
「お前は」
 耳の後ろに拳銃がつきつけられていた。ドアは大きく開き、ホドランドは首をガラスに取られたまま動くことが出来ない。
「撃つ前に肩を緊張させるクセをまだ直してないな?」
「‥‥」
 何か気の利いた冗談を言おうとしたが、瞬間、ホドランドは体の中から押し上げられるようにゴフッと咳を吐いた。濡れたものが唇から飛び散る。それが血だと、自分で悟るより早く、エースが強い手で髪をつかんで彼の頭をガラスから外し、拳銃を取り上げながら彼を仰向けに路面へ倒した。
「馬鹿。切ったな」
 毒づきながらエースはホドランドの上に身をかがめ、首すじをさぐる。首までカーボン繊維を編み込んだボディスーツで覆われているが、動いたせいであごにガラスのふちが深く食い込んでいた。幸い動脈は切っていないが、気道に入り込んだするどい傷を素早くあらため、エースは首の根元の止血点を強く抑えて血止めをした。
 その間にもすばやくホドランドの体をさぐり、武装解除しながら取りあげたものを車の運転席へ放りこむ。ホドランドが苦笑した。
「何でこんなにこだわる。キリング・ムーンがあんたの何だ? 何で、あれを守ろうとする‥‥」
「そう見えるか? いいからしゃべるな、いい子にしてろ。俺は急いでる」
 応急処置のパッチを貼って、エースはホドランドの頬を叩く。返事を待たずに立ち上がり、車の中へ右手をつっこんで後部ハッチを開いた。
 車の後ろへ回ると、ハッチ後部ドアが上部に折りたたまれながら上がっていくところだった。
 ハッチ内は天井の発光パネルで充分に明るい。片側に装備品のコンテナボックスが固定されていたが、エースはそれを無視して中央にあるタンクタイプのコンテナを射貫くような目で凝視した。高さが1メートル、直径もそれに近い円筒形のタンクコンテナの脇に、グレイのシャツ姿の痩せた男──ジャックがショックガンを握って座り込んでいたが、エースはそれを無視した。こんな狭い場所でショックガンを撃ったら、ボディスーツも着ていないジャックが一番に昏倒するに決まっているし、彼が構えるよりエースが反応するほうが早い。
「何だ──」
 ジャックはやけに震える声で言ったが、エースはちらとも目を向けず、天井をよけて背を曲げながらコンテナへ歩み寄り、男が構えようとしたショックガンを左足ではじき飛ばした。
 コンテナの台座は床にボルトで取り付けられた金具にはめこまれている。エースはコンテナを金具に留めているワイヤーをナイフで断ち切りはじめた。右手に力をこめ、遅滞なく10本のワイヤーを断つと、台座のストッパーを外す。四ヶ所。全部のいましめが外れたことを確認すると、エースは乱暴な動作でコンテナを車外へ引きずり出した。
「何をするっ!?」
 つかみかかってこようとするジャックの首をつかみ、バンの壁へ叩きつけて黙らせる。苛立っていたので自分で予期したより力が入り、壁にずるりと血の痕がつく。サーペントが相手でないだけ感謝しろ、と心の中で毒づきながらも「すまんな」と口だけであやまって、エースはハッチのぎりぎりまですべらせたコンテナを足で蹴って道に落とした。
 移動用のベアリングボールが台座に入ってはいるが、コンテナはずっしりと重い。ドンと重い衝撃音がたった。台座に衝撃吸収用のクッションが入っているのだろう、倒れることはない。エースはハッチから降り、タンクコンテナの周囲をぐるりとめぐって全体を見た。
 金属の繭をまとうように周囲をパイプにくるまれ、まるで血が循環するように液体がめぐっている音が聞こえた。この中にキリング・ムーンを呼ぶ「悪夢」がある。
 ──おそらくは、実際にエリギデル・フィールドに立っていたレプリカント。
(‥‥まだ、「生きて」いるのだ)
 あの悪夢を共有し、狂気を灼きつけ。エリギデル・フィールドで、狂った──
 戦場に出た個体はすべてデータをとった後に廃棄した、とランテリスは言った。個体は。
 ‥‥ならば、ここに残って悪夢を見ているのは。
「それ以上動くと、この下にある水のパイプラインを撃つぞ」
 エースはコンテナを見ながら静かな声で言った。ホドランドが首すじにあてた布を押さえ、バンによりかかって立っていた。
「そうすればセンサーの異常をチェックするためにイルヴェンのシティガードがやってくる。困るだろう? キリング・ムーンだけならともかく、こいつをイルヴェンに押さえられたら袋小路だ」
 ジャックがあわてふためいた様子でハッチからころげおり、コンテナにすがりつくように近づいてあちこちのパイプをチェックしはじめたが、二人とも彼に何の注意も払わなかった。
 ホドランドがコンテナへあごをしゃくる。疲れた顔をして、彼は低い声でたずねた。
「それが何だか知っている、そうだな?」
「お前は?」
「‥‥お互い、悪趣味な世界に生きてるな」
 ふっと笑って、エースは右肩だけをすくめた。
 その瞬間、ふっと冷たいものが背骨を抜けた。エースはホドランドの腕をつかみ、身を投げ出すようにバンから離れたフロアへ身を伏せる。何かが空気を裂く気配がして、びしゃりと鈍い音がひびいた。
 フロアで一転して身を起こし、エースはコンテナにかぶさるように崩れたジャックの体、頭が半分吹き飛ばされたように失せた血まみれの体を目にする。その横にキリング・ムーンが立ち、血まみれの手をだらりと下げたまま、光る目でシェルターを見つめていた。


 少年の体は血に濡れている。全身には獰猛な力がたわみ、一瞬にして動きだすことのできるパワーをみなぎらせてそこに立つ細い体を、エースは青い目で凝視した。床から起き上がりかかるホドランドへ、低い警告を発する。
「動くな。‥‥反射をおこさせるな」
「‥‥」
 うなずいて、ホドランドは用心深い仕種でゆっくりとその場へ座り込んだ。油断のない目はコンテナのそばに立つキリング・ムーンから離れない。
 筋肉の組成が人間とはちがうために体は強靱だが細く、無表情だが、美しい顔立ちをしていた。あごが細く、目が大きく、その顔は見ようによってはひどく稚い。戦場で、敵が一瞬でも殺意をためらうようにそんな子供のような顔にしたのだと、エースはきいたことがあった。どれほどわかっていても、人は子供を殺すのをためらうものだ。少女タイプも同様につくられたが、使役する側のストレスが大きすぎるという理由で、そちらは完全に破棄された。
(‥‥性欲の対象になった、というレポートは出ていなかったか?)
 苦い笑いが胸の内をかすめたが、エースは内心のゆらぎをすべて殺し、キリング・ムーンの顔と肢体を見つめる。あの時は知らなかった。エリギデルの戦場で彼らが狂って死んでいった時には、このレプリカントの中に自分の「父親」──遺伝子ドナー──のDNAが、一部であっても組み込まれているのだとは、知らなかった。知ったのは、自分が上官殺しの秘密裁判で有罪とされた後、慎重に事件をしらべていた時のことだ。
 似ているところを探している己が可笑しい。自分に、あるいは記憶の中にある弟に。
 DNAの、たかが類似に、何か大きな意味を持っているわけではない。そんなつもりはない。ただ、こうして血にまみれたレプリカントを前にして、エースはひどい疲れを感じた。何の意味もないことを追っている。誰に言われるまでもなく、サーペントに言われるまでもなく、それはよく知っていた。
 キリング・ムーンはエースなどまるでいないように、コンテナを見おろしている。外側をパイプにつつまれた円筒形の金属繭にふっと細い手がのび、血まみれの指先が、かかえこむように伏しているジャックの動かない体を横へのけた。重さなどないかのように、死んだ体が宙をとんでドサリと落ちる。
 少年は、手のひらで銀の蓋をやさしくなでた。中にいるものに語りかけるように。温度をもたない、鏡のような瞳がコンテナを見つめ、キリング・ムーンはその場にひざまずいた。両腕を円筒のコンテナに回し、蓋に頬を寄せ、抱きしめるようにして目をとじる。
 そのまま動かない。まるで夢を見るように、少年はコンテナによりそっていた。自分をここまで引き寄せた、悪夢の繭に。全身の緊張がとけ、眠っているかのように体の力が抜けた。
 エースは茫然としてその姿を見つめた。
「‥‥」
 息を吸う。するどい痛みが身の内にはしったが、それを無視して彼は右手の銃をキリング・ムーンの頭へ向けた。2メートル。彼には外しようのない距離。
 殺気を表に出さないよう意識をコントロールし、キリング・ムーンへ集中しないようにしながら、彼は銃口の位置をさだめる。キリング・ムーンの防衛本能を刺激しないよう、ゆっくりと。
「エース」
 薄闇から自分を呼ぶ声に、エースはちらりと目を向ける。輸送路の左右にたちならぶ支柱はまるで永遠につらなる墓標のようで、その間にとめたマーキュリーボードの上にサーペントが立ち、拳銃を向けていた。ホドランドへ向けて。
 その顔には微笑のかけらもなかった。
「お前がキリング・ムーンを撃ったら、俺はお前のお友達の頭を撃つぞ。困るだろ?」
 ぎょっと身をかたくしたホドランドへ、エースは「動くな」と左手で指示した。キリング・ムーンへ向けた銃をおろさず、エースはサーペントへゆっくり首を振る。
 サーペントの後ろにはユイが立っていたが、熱っぽい目はただ金属の円筒にすがったキリング・ムーンに向けられ、彼らに一切の興味を払っていなかった。
 サーペントが苛立ちに頬を歪める。吐き捨てるように、
「何が悪い、何が問題だ? ──回収したいって言うんなら連邦にくれてやれ。それでおしまいだ。お前が──お前が、撃つことはないんだよ」
 相棒の声の中にあるものは何だろう。エースにはそれがわからない。怒りはまぎれもなく存在する。叩きつけるような、まっすぐエースへつきつけられる、激しい怒り。だがその奥にある痛みをどう名付ければいいのか、エースにはわからなかった。それがエースへ向けられたものなのか、キリング・ムーンへ向けられたものなのか、サーペント自身の中に沈む何かへ向けられたものなのか。
(何でお前が苦しむんだ)
 無言でつぶやいて、エースはもう一度首を振る。サーペントはホドランドを撃つだろうか? 少なくとも彼がその気なのはわかる。命と命のバーター。にしても、気違いじみた話だった。何故サーペントがキリング・ムーンとホドランドの命のバーターをエースに迫るのか、エースにすらわかるようなわからないようなところなのに、銃口を向けられたホドランドにはさっぱりわからないだろう。
「お前なんか大嫌いだ」
 サーペントが静かな声でつぶやく。その声はだが、もうするどくはなかった。エースはキリング・ムーンへ顔を向けたまま唇のはじを持ち上げた。
「愛してるよ」
 キリング・ムーンは、祈るように動かない。その後頭部へ銃口は不動の一線を引き、次の瞬間、引き金が絞られた。たてつづけの着弾に少年の後頭部から延髄にかけての組織がはじけ、体が踊るように痙攣した。正確に十字に撃ち込まれた五発の弾丸。血と脳漿をあふれさせながらはねる細い体を、エースはまばたきもせず凝視していた。
 血にまみれた両手がだらりと垂れる。それでもタンクコンテナを抱くように伏したまま、レプリカントは動かなくなった。まるで、死んだ人間のように。

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