荒々しい息が闇の底にひびく。ふれあうと言うよりぶつかるような、肌のたてる濡れた音。吸いつき、また離れる。
腕と腕をからませるようにして、互いの体をがむしゃらにまさぐった。上が下に、下が上になりながら荒々しく唇をあわせ、舌の熱をむさぼりあう。つながった体が動くたび、深く深くとうがたれて、むせび泣くような声が上がったが、どちらにも言葉はなかった。
ただ求め、ただむさぼる。
一瞬たりとも惜しいと言うように、互いの動きはとまらなかった。腰をうねらせ、深い熱を分かち合い、汗ですべる背中に指をくいこませる。狂乱の熱を、くるおしいほどに乱れる息を分かち合いながら、深く、もっと深く。
どれだけ求めても、その一瞬は永遠にはならない。いつか終わる。どちらもそれを知りながら、ただ刹那だけを求めた。
痛みすらともなうほど強くロウの屹立に貫き上げられて、サイヴァは声をあげた。歓びの声と言うよりは、半ば己を投げ出したような、切羽つまった声だった。
「でかい声を出すな」
囁くロウの声は荒々しいかすれをおびている。耳には聞こえていたが、言葉の意味などサイヴァにはわからなかった。どうでもいい。ロウの、たくましい筋肉の隆起に覆われた背に手をすべらせ、無我夢中でしがみついた。ロウの熱、まるで坩堝に煮える鉄のような脈打つ熱が彼の内側を支配し、嵐のように彼をかき乱す。
「あああ‥‥」
呻いた口を、ロウが唇で多い、獣のような音をたてて彼の舌をなめ回した。ロウの勢いに、それこそ獣に喰いつくされていく気がする。もっとも「お前に喰われてるみたいだ」と言う囁きは、ロウの口癖だったが。
唇が唾液のすじを引いて離れると、サイヴァは欲望に灼けた目でロウを見上げ、男の腰に巻いた足でもっと深い動きを求めた。ロウが応じて、サイヴァの目をのぞきこんだままゆっくりとした動きを与える。
固い屹立に満たされ、内奥を擦りながらそれを引き抜かれていく快感は、サイヴァにとってすべてが狂っていくほどの法悦だった。ロウに満たされると、腰の深奥にずしりと重苦しい快感が生まれ、引き抜かれると、ロウのものをきつくくわえこんでいる体の内側が引きつれて、すべての神経がその感覚に集中する。
ロウの屹立の張りが、サイヴァの敏感な箇所を執拗に擦った。
「ひ‥‥いぃ‥‥う、ああっ!」
優しい動きだったロウにいきなり突き上げられ、サイヴァは強烈な愉悦に体の芯をはじかれる。全身がふるえ、己の屹立から熱い吐精があふれ出したが、引きずりこまれた快楽の渦の中、その感覚すら他人事のようだった。
一度の吐精ではなく、だらだらと、彼の性器は先端から白濁を流しつづける。終わらない愉悦にサイヴァの喉が細く鳴った。ロウは何一つかまうことなく、下に組みしいた男に暴力的な動きで己の楔を突きこむ。思うさま奥まで犯し、幾度も貫きあげて、ふるえるサイヴァの体を抱きしめると、ロウは半ば叫ぶような呻きをあげた。
体の深いところに、ロウの熱が解放されていく。それを感じながら、サイヴァは自分にのしかかってくる重みに両腕と両足ですがりついた。終わってしまえば、あとは熱が引いて体が冷えていくのを待つだけだ。それがわかっていても、ひとたび体を重ねれば、どうにもできない衝動につき動かされて、ただ相手とともにのぼりつめていくしかできなかった。
荒々しいロウの息が耳元にひびいている。サイヴァも大柄な男だが、ロウの鍛えあげられた肉体の重さも相当なもので、しかも押し倒されたのが硬い木の板の上となると、押しつけられた肩や背中も痛い。みっしりと骨を圧迫されているような感覚に苦笑して、相手の脇腹をこづいた。動くのもだるい。
「重い」
「抜くぞ」
間髪入れずにかすれた返事が戻ってきて、サイヴァは後ろからずるりとロウのものが抜けていくのを感じた。吐精を放ったそれはもう萎えていたとは言え、抜かれていくと体の内側がからっぽになったようで、サイヴァは呻いた。自分のどこから出るのか信じられないほど、甘ったるい呻きだった。
ロウが彼の髪をつかんで顔を固定し、乱暴なくちづけでサイヴァの口の中をなめ回してから、横にごろりとのいた。
「まだ足りないか?」
「‥‥うるさい」
絞り出した声も半ば呻きのようだったが、サイヴァはどうにか肘をついて起き上がると、彼らがつくった混沌を眺めた。
2人がいるのは、地図をひろげるのに使う大テーブルの上だった。はじめに抱きあったのはロウが仮眠に使っている背もたれのない長椅子だったが、大柄な男二人が抱きあうには狭い。それに彼らの情交は、一度として穏やかなものであったことがなかった。いくらかぎこちない動きのあとで、業を煮やしたロウがサイヴァを荷のようにかかえてテーブルにのせ、反論など一言も聞かずに上からのしかかって、あたりのものを床へ叩きおとした。
「あと一刻で軍議だぞ。阿呆か」
ぶつぶつ言いながら腕をのばし、床に落ちている布塊のような服の間をさぐっていると、ロウが麻布を投げてよこした。テーブルのはじに座ったサイヴァが汗と精液にまみれた体を拭っている間、ロウはさっさとテーブルからおりてブーツを足にひっかけた。サイヴァに近づくと右手をひょいとのばし、胸元にはしるななめの傷へ指先をすべらせる。傷は、鍛えあげられたサイヴァの体の至るところに刻まれていたが、ロウがふれたのは中でもまだ生々しい傷だった。
「またふえたな」
「‥‥さわるな」
素気なく言うが、相手にされない。赤く盛りあがった傷の上をロウの指先がゆっくりなぞり、サイヴァはぞくりとする痺れの感覚をおさえこんだ。この男の指はまるで骨まで撫であげるようにやさしくて、たちが悪い。
「爪か? 牙か? どっちでやられた」
「‥‥尾爪だ」
「間抜け」
呟いて、ロウは顔をよせ、傷に唇をあてた。濡れた舌がゆっくりと傷の上をすべる。押しのけようとしたサイヴァの腕は、いつしか胸元に動く男の頭を抱いていた。
ロウの舌は優しく、じれったい動きで傷をなぞる。新しい傷は毒を含んで赤く腫れていた。いずれ古傷となるそれを、舌腹を押しつけるようにしてなめあげ、あてた唇の間から生あたたかい息を吹きかける。
「馬鹿、か‥‥」
サイヴァは呻くが、どうしてもロウをつき放すことができなかった。彼らにはあまり時間がない。いつまでも砦の主記の部屋が閉ざされたままでは不審を呼ぶし、いつまた警報の角笛が吹き鳴らされてもおかしくない。昨日も3度、襲撃があって、その3度ともサイヴァは迎撃に出た。傷を負ったのはその2度目だ。それからほとんど眠っていない。
骨まで疲れ果てている筈なのに、眠ることよりも、ロウの愛撫を体が求めてしまう。ロウはそれを知っているのか、サイヴァよりはるかに忙しいはずのこの男は、わずかな仮眠用の時間をつぶしてこんなふうにサイヴァを抱いた。いくら抱いても足りないと言うように。
「お前は前線へ出すぎだ」
ロウがくぐもった声で言う。その舌はいつのまにか胸元を這い、舌先でちろちろとサイヴァの乳首をなぶっていた。テーブルのはじに座ったサイヴァの両足を大きく左右に押しひらかせ、間に体を入れて、ロウはサイヴァの太股の内側を手のひらでなぞった。子供の頃から鍛えあげられ、やわらかいところなどかけらもない男の体を抱いて何がおもしろいのだろうとサイヴァは思う。そして、同じようにいかつい男に押しつぶされるように抱かれる己が不思議だった。
「下っ端じゃあるまいし、もう少し引いてろ、サイヴァ」
「俺の部族は、お前の部族とはちがう。‥‥戦わない者は、死者に劣る」
抑えた声でそう言いながら、ロウの歯先が右の乳首をこすった瞬間、びくりと体がふるえるのをとめられなかった。ロウの手は筋肉の張った内腿を執拗になぞり、つけ根近くまで淫らな手つきでなであげる。だがサイヴァの中心にはふれようともせず、思わせぶりな手の動きだけで焦らされて、サイヴァは唾を飲んだ。
「俺が前線から一歩でも引いたなんて、本国が聞いたら、あっというまに呼びもどされる‥‥」
「そうなったらこんなこともできないな、ああ?」
いきなり予期してなかった力で牡を握られて、サイヴァは「ひっ」と呻きを喉につめた。だが、ロウの手の中でそれはもうしっかりと芯をもって勃ち上がっている。乱暴な手つきでしごかれると、あっというまに硬くはりつめた。
大きな手の中にそれを握りこみ、ロウはサイヴァの胸元から首まで唇をすべらせた。サイヴァは彼の背へ腕を回し、ロウのこまかくちぢれた金髪をかき乱す。後ろ髪だけを長く編んだサイヴァとちがい、ロウの髪は肩の下まで全体に長い。この髪にふれるたび、サイヴァは彼らの部族のちがいを感じた。慣習、掟、そんなふうにサイヴァの血肉になっているものを、この異族の男は持っていない。
だがその手が生みだす快感はたしかだった。敏感な場所を幾度もしごきあげられて、サイヴァはロウの髪をつかんだまま首をそらせ、熱い息を吐いた。
「ん‥‥」
「国に戻ったら、どうする。俺のかわりを見つけるか、サイヴァ?」
「黙れ」
くいしばった歯の間から荒い声を押し出して、ロウの髪を拳の中に握りしめる。髪の根が引きつれて痛むはずだが、サイヴァを下からのぞきこむロウの目は笑っていた。
ぐっと牡を握られる。先端のふくらみのすぐ下、くぼみにそって指でしめあげられて、サイヴァは呻きを殺した。痛みはあまり感じない。彼も、ロウも、子供の時から戦士として体に鍛錬を叩きこまれ、どちらも苦痛には慣れていた。
腰をとろかすような熱さが背骨に沿ってわきあがってくる。高い声をあげてしまいそうで、こらえようと半びらきで喘ぐ唇に、ロウがそっとくちづけた。ロウは唇から右あごにかけて古傷が白く残り、唇が歪んでいる。顔が少し離れると、サイヴァは犬のように舌をのばして、ロウのその唇を一心になめた。
ロウの手がサイヴァの屹立をゆっくりとなではじめる。サイヴァが口をなめるままにさせながら、少しくぐもった声で言った。
「エスピアの者と床をともにしたなどと知れたら、どうなる? 縛り首か?」
「‥‥お前はどうなんだ、ロウ。ディエンツと寝るのは誓約に反してはいないのか?」
サイヴァはロウの髪を両手でつかみ、目をのぞきこむ。唇に傷の歪みはあるが、ロウは美しい男だった。歪みがなおさらその美しさを強調しているようだった。サイヴァと同じようにその体にも古傷が多く刻まれ、腕には赤と黒の鱗模様の刺青があった。この刺青はロウがエスピアの戦士であることを誇らしげに示す。サイヴァの敵だと。
エスピアの戦士は誓約によってエスピアの部族の中から招集され、幼い時から鍛え上げられる。ディエンツと戦うために。
一方、サイヴァの属するディエンツは「ディエルの剣」を意味し、ディエル・カッツァを主神とするディエルの部族の戦士だ。代々継がれる戦士の家の第一男子は生まれると同時に神殿に引きとられ、全員が戦士として育てられる。エスピアの戦士と戦うための、部族の剣として。
彼らの部族同士が戦いをはじめてから、すでに200年がたつ。戦いは時に激しく、時には休息もあったが、決してどちらも和解しようとはしなかった。元々はひとつの聖地をめぐる争いだったが、すでに聖地は血で汚され、どちらにとっても意味が無い。今となっては、火のついた互いへの憎悪と積み重ねられてきた死者の重みだけが戦いの理由であり、戦いのための戦いがつづいていた。
そして戦士として選ばれた者、戦士として生まれた者、それぞれが「剣」として部族の名誉のために戦いつづける。それが、エスピアの戦士とディエンツの宿命だ。
ロウは目をほそめて笑った。
「ここにいる間は、お前は俺の仲間だ、サイヴァ。俺もお前も、一緒にこの砦を守っている」
「‥‥国に戻れば──」
「戻ればお前を殺す」
囁いて、ロウはすばやくしゃがみこむとサイヴァの股間に顔をうずめた。サイヴァは喉に息をつめ、ロウの舌が生む陶酔に身をゆだねる。熱い口腔に屹立を含まれて吸いあげられると、快感に魂までも吸い出されそうだった。
ロウと自分と、どちらが強いだろうと思う。もし戦場で会ったなら。どちらの血が流れ、その血に全身を染めるのはどちらなのだろう。彼らはどちらも、戦うためにとぎすまされてきた。生きる剣として。
この砦に来るまで、サイヴァは互いを敵としか考えたことがない。それなのに今やこうして情を交わし、肉体をゆるし、快楽に溺れている。そのことは彼をいつでも落ちつかなくさせたが、ロウは何を考えているのか、サイヴァに心を見せたことはなかった。ただサイヴァを翻弄し、彼の体をどこまでもむさぼった。
「くぅっ」
目の前が白くくらむような、一瞬の解放。男の熱い口に放つ愉悦に、体の芯を灼かれるようだった。
口元を拭ったロウは、肩で喘いでいるサイヴァを見てチラッと笑うと、さっさと服を身につけはじめた。まるで何事もなかったかのように、
「あと10日の内に、新しい呪師がつくそうだ。結界を張り直させる。またお前たちに援護をたのむぞ」
「‥‥お前のところの呪師は信用ならん」
まだめまいを感じながら、サイヴァはやっと身支度にとりかかった。丈長の漆黒のローブをまとっていくロウの手際はよく、乱れた髪を手ぐしで軽くととのえれば、もはや情交のなごりの雰囲気などない。自分だけが取り残されている気がした。
「前の結界なんぞ、3日ともたなかっただろうが‥‥」
「奴らには人間の呪法がきかんからな」
護符のからんだ鎖をじゃらじゃらと下げたベルトを腰に巻いて留め、ロウは床にちらばった書類を拾い上げて束にする。サイヴァは手首までを覆う細い金属で編んだ鎖帷子を身につけ、左手に手甲をつけた。快楽の余韻が体に重苦しい。武装しながらも、心はどこかまだうつろだった。
「わかっているのにどうして呪法を使おうとする? そのたびに呪師を殺して、何がしたい」
「本国では新しい呪法を作ろうとしているらしい」
淡々と言うと、ロウは二人の情交の跡が残るテーブルの上を濡れた布で拭った。サイヴァは目をほそめる。
「そのための、踏み石か?」
ロウは肩をすくめた。
「俺は、お前相手だとしゃべりすぎるな」
手にした数十枚の地図を見おろすロウの横顔は、もう冷徹な主記の顔だった。この砦の多くをとりしきり、采配する男の顔。その変化はいつものようにサイヴァを苛立たせる。そして同時に、どうして自分が苛立つのか、そのことにもつよく苛立っていた。
「呪法というのはすぐつくれるものなのか?」
「知らん。サイヴァ、俺もお前と同じ、ただの剣だ。戦うことだけを命じられている。ここでこうして、命じられたことをしているだけだ」
冷ややかなロウの声がつき放すように響き、サイヴァは鼻先で笑った。腕ぐみし、重い武器ベルトをつけた腰をテーブルにもたせかける。2本の長剣と湾刀の鞘がふれあって、きしむ音がした。
自分たちが狂態をくりひろげたテーブルの上をあごでしゃくる。
「これもか」
ロウは顔を上げたが、チラッとサイヴァを見ただけで書類へ顔を戻した。そのまま何も言わない。サイヴァは苛立ちがさらにするどく胸を刺すをの感じた。ロウはいつもそうだ。彼を抱き、終われば何事もない顔をする。
溺れているのは彼だけのようだった。こうやって陥ちていく、ロウを求める、そういうサイヴァの姿を見るのが愉しいのだろうか。組みしいて支配し、散々むさぼって、ロウにはそれだけのことなのだろうか。
そんなことが気になる己が情けなかった。ロウの心が気になる、それがどういう意味なのか、サイヴァにもよくわかっている。もうこの男の支配に入りかかっているということだ。敵であるエスピアの男、それも戦士の。
ふいに、腹わたが煮えくりかえるような怒りがこみあげた。
「それともディエンツを抱くのが愉しいか? この砦ではいい気晴らしになるか、エスピア」
その言葉に、地図を見おろしたままのロウの口元が笑みの形に歪んだ。これだけ美しい男だ、これまでも相手に不自由したことなどないだろう。エスピアの男の気まぐれに陥落した己の肉体の弱さが腹立たしい。今この瞬間も、体に刻まれた愛撫とその熱を生々しく思い出せる自分が、サイヴァは心底忌々しくなった。
ロウの声は唇と同じように笑っていた。
「どうして、ディエンツ。お前はそのエスピアの男の下で腰を振ってよがってただろうが。何が問題だ?」
「‥‥戦場で会ったら、俺が貴様を殺してやる」
「その前に、ここで生きのびてからのことだ」
素気なく言って、ロウは手持ちの地図をテーブルに横へならべると、その中の一枚を指で叩いた。
「クロフタの塔を補修はすすんでるが、ここの輸送路を何度かやられた。巡回を今の倍にする」
サイヴァはふうと太い息をついて、胃の腑が灼けるような怒りを呑みこむと、歩み寄ってロウの指の先を眺めた。馬鹿なことだ。体だけの関係だと互いに割り切って、肉体だけを求めていたのに、そんな時間が長くなると馴れ合いがはじまる。その馴れ合いを、サイヴァは何かとまちがえていたのかもしれなかった。
──所詮、敵だ。
口元を引きしめて地図も見る。いまだ空白の多い、つぎはぎの地図だった。特にある程度から奥は、断崖のような峰に至るまでまるでわからない。
かつて「聖地」として2つの部族が争い、おびただしい血で汚したこの地は、今ではどちらの部族にも失われ、穢された暗黒の地なのだった。足を踏み入れる人間を嘲笑い、くじく。
「必ず油矢を持たせろ」
「油が足りん、サイヴァ」
「油矢なしで巡回は無理だ」
だが、どちらにも油が足りていないのは事実で、武器庫管理の采配役であるサイヴァはそれをよく知っていた。彼らの本国で部族同士が争い、夏に大規模なアブラナの畑が焼き払われたせいで、油が生産できなかったのだ。
油矢に使うのは油を特別な粘土と松脂で練った焼土剤で、炎が消えにくく長く保つ。サイヴァは一瞬だけ考えをめぐらせた。
「こっちの機工隊に、油を半分にして倍の矢をつくらせる。200本用意するから3日待て」
「いいのか?」
と、ロウが眉を上げた。この砦でサイヴァたちディエンツの指揮を取っているのは支団長のトゥギウスだ。サイヴァが勝手に裁量することを嫌う男だった。
「武器庫の采配は俺の役だ。トゥギウスにはこっちから話を通す」
そう言って、サイヴァは拳をテーブルに押しつけ、余計なことを言ってしまいそうな口をつぐんだ。ロウがうなずく。
「すまんな。助かる」
「お前のためじゃない」
「わかってるよ」
少し笑って、ロウは水差しを手にした。誰もが辟易する泥くさい水を一口飲んで顔をしかめ、呟く。
「‥‥仲間が死ぬのは、嫌なもんだ」
片手を振って、サイヴァは重い足を引きずるようにロウの部屋を出た。頭にも体にも泥がつまっているような気がしたが、ロウの言うことは正しい。仲間が死ぬのは、嫌なものだ。たとえそれが、今この瞬間だけ同じ側に立ち、同じ砦に暮らすだけの長年の仇敵であったとしても。