サーペントがゆっくりと膝を立てる。脚の間から抜けるぬるりとした感触と、内腿をつたいおちる濡れた感覚に吐息を洩らして、彼は倒れこむようにエースの上へ身をかぶせた。荒く息をつく体へ腕をからめる。
呻いた。
「うーん‥‥今のは、ちょっとよかった」
「言うなあ」
笑って、エースもサーペントの背に腕を回した。抱きしめながら、もう片手でサイドテーブルをさぐって、ひっぱり出した煙草に火をつける。一服する間、サーペントのからみあったクリームブロンドをゆるい指先で梳いた。
半分ほど煙草を喫ったところで、サーペントが体を回してごろりと横へころがった。のばした手でエースの煙草を奪い、唇にくわえる。エースを横目でにらんだ。
「お前さあ、絵、あの店からくすねてきてただろう」
「気付いてたか」
エースは新しい煙草へ手をのばしながら、笑う。サーペントは体を回してカウチへうつ伏せに肘をつくと、パタパタと足を振った。
「どーして。つまんない絵だって自分で言ってたくせにさぁ」
「お前が描きこまれてたからさ。ちょっとおもしろいなと思って。言っとくが、代金は置いてきたぞ」
「えッ」
ガバッと身をおこしたが、快楽の余韻の残る体はたよりなく揺れた。カウチに手を突いて、サーペントはするどい眸でエースをにらむ。代金を置いてくるなんて!とでも言い出すかと思いきや、彼は叫んだ。
「俺が、どこに!?」
「‥‥気付いてなかったのか」
「だってアレ、風景画だったじゃん」
「目がいいのか悪いのかわからんな」
溜息をついて、エースは気怠さの残る体をおこした。壁際のソファへ歩み寄り、背に投げかけられたままのコートの下から丸めた円筒状のカンバスを取りだす。木枠ごと失敬したのだが、持ち運びが面倒なので枠は外したのだ。丸めたままのそれをサーペントのいるカウチへ放った。ついでに黒いガウンをクロゼットから取って羽織る。
受けとめて、サーペントはそれをひろげた。縦長の、一面に風化して崩れかかった崖が描かれた絵をしげしげ眺め、サーペントは眉をよせる。じっと凝視した。あまりにも凝視しているので、エースがのばした指先で崖に入った亀裂の一部を叩いた。
「ほら」
「‥‥えー」
「いるだろ? 見てるだろ、こっち。コレ、お前だよ」
「えぇー。心霊写真じゃねェの、コレ」
何を言っているのかわからないが、言いたいことは何となくわかる。エースはおかしくなって、肩を揺らして笑った。サーペントににらまれてあさっての方を向く。そのまま笑っていたが、ふいに異臭がつんと鼻を刺した。
ふりむくと、サーペントが煙草の火をカンバスに押しつけていた。丁度、自分が描かれた真上を。あきれて見やるエースの前で、サーペントは真剣な目つきでカンバスをにらみながら煙草の先端をうごかしている。
「‥‥ふ」
満足そうに笑って、色がなすりついた煙草を灰皿へ放りこんだ。脚を回してカウチからはね起き、鼻歌を歌いながらご機嫌な足取りでシャワールームへ入っていく。
「‥‥‥」
見送って、エースはカンバスを拾い上げた。サーペント──らしき人影──がいた部分は、絵の具が溶け崩れ、泡立つ色がまじりあって、見るかげもなかった。
吐息をついて、丸めたカンバスをダストシュートへ放りこむ。煙草の灰を落とし、エースはゆるやかに煙を吐き出した。
コーヒーを二杯。15気圧のエスプレッソ。新しい煙草。ウォッシュジーンズを履いて素肌に黒いシャツを羽織ったサーペントは、出窓に陣取って立て膝に肘をのせ、コーヒーを飲んでいる。
エースが近づくと、窓の向こうを見つめたまま呟いた。
「五年だったか、六年だったか‥‥ねぇ。どんくらい前だったかな。おもしろい絵描きがいたんだね。人物が描かれたカンバスを切り裂くと、モデルに何かがおこる。死んだこともあるし、怪我や、発作‥‥何か、身体的な害が引きおこされる。何がおこるのかはコントロールできることじゃなかったらしい」
エースは、エスプレッソを飲みながら窓際の壁にもたれた。サーペントがつづける。
「もともとはちゃんとした絵描きだったが、その力を誰かが見つけ出してから、そんな仕事を受けるようになった。はじめは不安定だった現象も、描き続けるにつれて安定し、与えられる害も全体に強くなった」
「共鳴現象‥‥か」
「多分。絵を通じて、シンクロニシティをおこす」
サーペントはうなずいた。絵とモデルとの間に共鳴をおこす能力。それに気付いた周囲は、それまで鳴かず飛ばずだった画家にたかった。
共鳴は、ESP能力とは認定されていない──ESPの検知器がふれることも滅多になく、それは「能力」と言うよりは「現象」と言うべきものに近い。
同じ振動数のグラスを二つ、離して並べたとする。片方を叩けば、その振動は空間をこえて隣のグラスへ転移する。まるで、片方のグラスにおこった「振動」という現象が、別のグラスへとびうつっていくように見える。
この場合、共鳴の媒体となるのは振動を伝える空気だ。だが、媒体がなくとも──あるいは、不明なまま──それと同じことをおこす共鳴能力者が存在する。双子同士の感覚共鳴が最もポピュラーだが、日常生活でもそれと知らず「共鳴」を引き起こすものは少なくない。特に、芸術家やパフォーマー。優れた歌手の多くが、ステージで観客を「共鳴」の輪に引きこむ力を持っているとも言う。
とは言え、意図的、指向的に共鳴を引き起こせる人間はそう多くはない。力として固定しづらいタイプの能力なのだ。
その画家が、絵を通して絵とモデルとの間に現象の「共鳴」をつくりだす力を得たのは、単なる幸運だったのだろう。その力を「画家」として絵にぶつけることができれば、あるいは希代の絵師ともなったかもしれないが、彼が引きずりこまれたのは絵の世界ではなかった。
──他者へ苦痛を与える、闇の世界へ。
サーペントは顔におちかかるクリームブロンドを指先でさらりとかきあげる。
「どうも彼の共鳴能力には〈返し〉があったようでね。彼が作る共鳴の場には、モデルだけでなく自分自身も含まれていたんだろう。仕事をすればするだけ、彼はひどい悪夢や苦痛にさいなまれるようになった。それで、奴は賞金をかけた。“この能力を奪った者に、賞金を払う”と」
「自分が依頼人だったのか‥‥」
「能力があるかぎり、仕事はやめられない。そこまで追いこまれていた」
にっ、と唇の片はじを上げた。エースが飲み干したカップを置く。
「それでお前は。‥‥自分の絵を、描かせた? 偶然のふりをして、罠を仕掛けて?」
「そう」
「自分の“共鳴”とどちらが勝つかためしてみる気だったのか」
サーペントが、淡いラベンダーの瞳をエースへ向けた。
サーペントもまた、「共鳴」をおこす力を持っている、らしい。「らしい」と言うのは、ESP能力と違って共鳴は測ることが出来ないし、再現性がきわめて低いからだ。この画家のように再現率の高い能力として「共鳴」を固定できる者は、きわめて少ないのだ。
サーペント自身にとっても、それは確定的な能力ではないし、発動も停止もコントロールできるものではない。サーペントの共鳴は、感情共鳴だ。自分の感情に他人の感情を引きずりこみ、合わせ鏡のように増幅共鳴させる。その現象の中で、彼はテレパスの精神を破壊すれすれに追いこんだことがあった。
「ためしてみるのも悪くないと思った」
サーペントは、コーヒーを一口嚥下する。白い喉が優雅にうごいた。その根本あたり、左の首すじにエースがつけた痕がつよく浮いている。それを指先で軽くなぞって、つづけた。
「絵とモデルとの間に共鳴を起こす絵描きなら、描いてる最中、モデルと共鳴していると思ったしね。人を殺すところを見せたのは、俺が棲んでる世界を見せるためだ。そこからこっちへ踏みこんでくるなら、引きずりこめると思った」
美しい微笑をうかべて、窓の外を見やった。
罪悪感とか、モラルとか。拭ったようにそれらが欠如している相棒を見やって、エースは煙草に火をつける。問題は、彼がどうしようもなくこの相手に惚れているということだ。しかも、それを知られている。
「‥‥それで? 引きずりこめたのか」
「どうなんだろうね」
小首をかしげた。サーペント当人に、「共鳴」の及ぼす影響はない。使えるものは何でも使う青年だから、当然「共鳴」の力もふりかざして生きているが、相手が共鳴しているのかどうか、サーペント自身にはちっともわからない。無自覚な能力。能力と言うより「性格」なんじゃないかと、エースはこっそり疑っていた。周囲を巻きこみ、雰囲気を砕き、他人を自分の感情へ引きずりこみ、人の心にするどく入りこんで、不可視の傷をえぐる。
サーペントがヒュッと左手を振った。まるで、ナイフで何かを切り裂くように、手首を曲げて。
「少なくともあいつは、俺をカンバスにつかまえることはできなかった」
エースが眉を上げる。
「おい、まさか‥‥」
「ん?」
「‥‥もう一枚──。あったのか」
「ご明察」
ニヤッと笑った。
「ギャラリーで見た絵は、二枚目だよ。あいつはあの前に、一枚、俺を描いてる。あの店番は勘違いしてたけど、絵は完成してた」
「‥‥‥」
エースは小さく煙を吐いて、壁にもたれたまま腕組みした。前の絵がどうなったかは、聞かなくてもわかる。わからないのは、サーペントと画家のどちらがその絵を破壊したのかと言うことだが、宙を裂いたサーペントの手つきを見れば答えはおのずと知れるような気もした。
「──賞金は? もらったのか?」
「いや。俺は彼を追いつめすぎたからね、次に会ったら殺し合いになると思ってさ。素人と殺し合いしたところでつまんないし。だからもう会わなくなった。かわりに、口座から賞金と同じ額だけ拝借したけど」
「それきりか」
「今日までね」
(罠から‥‥)
画家は、サーペントが仕掛けた罠の中から抜け出すことが出来なかったのだ。風景の奥に無数に描きこまれたサーペントの姿を、エースは思い出す。灼きついて、拭い去れない。傷痕の残像。二枚目の絵を完成させることも、捨てることも出来ずに。ずっと追っていた。幻を。
サーペントは描いたような笑みを浮かべたまま、呟いた。
「俺を殺そうなんてするからさ」
「‥‥‥」
逆だろう、とは思ったが、エースは口には出さなかった。そもそもサーペントが画家を壊そうとしたから、関係や感情がもつれてそんなことになった筈だ。さらなる前提としては画家の「自分の能力を消してくれ」という賞金仕事があったわけだが、サーペントが賞金目当てにのりだしたとは思えない。好奇心か、ヒマつぶしか、単なる悪意だろう。その結果、殺すの殺されるのという修羅場に踏みこんだ、と。
──そういうものを、本来は自業自得と言う。
少しばかりしみじみしていると、サーペントがふっと表情をうごかして、エースを見上げた。
「エース」
「──ん?」
一瞬、考えていることを読まれたかとドキリとした。が、サーペントはテレパスではない。気付いた様子はなく、くわえた煙草に火をつけながら、口のはじからたずねた。
「もしかしてさ、他の絵にもいた?」
「‥‥何が?」
「俺だよ、俺。あのちゃっちい心霊写真」
エースは手にした灰皿に灰を落としながら、右眉を少しうごかした。まったく、この相棒は、意外なところで抜けている。
「まさかお前、あの一枚だけだと思ってたのか?」
「うるさいな。いたのかいないのか、答えろよ」
「いたよ。そりゃあ」
「全部に?」
「見たとこ全部」
「嘘っ」
自分で聞いておいて、勢いよく叫ぶ。非難がましい眸でダイレクトににらみつけられて、ぎょっとしたエースは壁から身をおこした。
「俺じゃないぞ、描いたのは」
「うわぁ‥‥やだなあ、あそこ100枚くらいあっただろ、絵」
「89枚。表のも入れて、95枚。さっきお前が1枚焦がしたから──」
「それに全部あんな気味悪い俺が入ってんの!?」
もはや、サーペントは出窓から降りて床を踏みしめていた。両眸がギラッと光って凶悪な色をたたえ、確固とした足取りで勢いよく歩き出そうとする。不吉な予感にかられたエースがあわてて腕をつかんだ。
「どこへ行く」
「燃やしてやる! 94枚っ!」
手を振り払い、わめきながら出ていこうとするサーペントをエースが寸前でつかまえた。室内へ引きずり戻した瞬間、足払いをかけられる。よけると今度は裏拳がとんできた。下がって距離をとれば外へとび出すのが予想できて、エースは拳を払って間合いをつめた。床へついた足の甲を思いきり踵で踏みつけられる。幸い裸足だったが、ずしっと足の甲から痛みと虚脱感がはしって、膝が抜けそうになる。力が入らなくなる急所なのだ。
もう片方の足で支えようとしたところ、膝の裏を払われた。エースはやむなく倒れる前にサーペントへ体重をかけ、背中と腰へ腕を回していっしょに絨毯の上へ倒れこんだ。はね起きようとするサーペントの膝を足ではさんで抜けないようにする。喉元へ入れられかかった肘をつかんで、彼はどなった。
「わかった、わかった! 落ちつけ──」
「お前にわかるわけないだろうがッ! あんなブキミなのが94枚もあるんだぞ!?」
手をぐいと引かれて、肘関節を極められそうになる。それを寸前で抜くと勢いを利用して体を回し、サーペントの上にのった。下からとんでくる拳や平手を払いながら、エースは早口に言った。
「じゃ、明日! 明日行こう。なっ?」
「‥‥‥」
サーペントは底光りする瞳でとげとげしくエースをにらみ上げている。とりあえず拳の乱打はとまった。
エースは重ねて、
「全部買えばいいだろ。それから煮るなり焼くなりすればいい」
「‥‥‥」
「朝一番で行こう」
そう言うと、やっと納得したように、こくりとうなずいた。エースは溜息をつく。まだ少し用心しながら、ゆっくりと立ち上がり、だらりと床に寝たままのサーペントの腕をつかんで引き起こした。
むっつりと不機嫌なサーペントの頭に腕を回し、抱きかかえる。ゆさぶった。
「な?」
「‥‥んー」
子供みたいな返事が戻ってきた。エースは溜息をついて、クリームブロンドを指でくしゃっと乱す。もう一度、耳元へ囁いた。
「サーペント。‥‥わかったか?」
「‥‥明日、朝一番?」
「そう」
「んー‥‥」
気乗りのしない様子だったが、とりあえずうなずいて、エースの腕を外し、サーペントはふらふらと窓辺へ戻った。出窓にのぼって、エースを見ないままひらっと手を振る。
「グレンモランジ」
「ロック、ストレート?」
「トゥワイスアップ」
「了解」
うなずいて、エースは小さなプライベートバーの棚からシングルモルトのボトルを取り、ミネラルウォーターと一対一の水割りをつくる。氷はなし。ついでに自分の分も同じようにつくって、グラスを二つ手に窓辺のサーペントへ歩み寄った。
手渡すと、まだこちらを見もせずに受け取った。しばらく二人は黙ったまま、ウィスキーの香りと強い腰を持った味わいを楽しんでいたが、グラスが乾くころになって、サーペントがクスクス笑い出した。
「‥‥へえ‥‥」
呟いて、愉快そうに笑い続けている。何事かとエースが顔を見たが、サーペントは高い声を上げて笑いながら出窓からとびおり、空のグラスをエースへ放った。クリームブロンドをなびかせて続きのベッドルームへ入っていく。
「明日、朝一。忘れるなよ。おやすみ」
かろやかな笑い声だけが、漂うように宙へ残った。
翌日、空が白むころ、昨日の道を歩きながら、二人は小さな画廊へ目をやった。店は焼け崩れ、ウィンドウは割れて扉はなく、黒く焼け落ちた店内が見える。白いゲル状の消火剤に全体を覆われているが、入口から吹きだした炎が屋根の下部を焦がした痕が、炎の勢いを物語っている。屋根の一部は飴細工のように溶けて軒から垂れ下がっていた。
数人の作業員が手早く店内や道のサンプルを取っている。街から委託されている処理業者のようだった。警察の捜査は夜明けには終わったのだろう。
エースとサーペントは、足どりをわずかにゆるめて好奇心をよそおった表情でちらっと火事痕を見たが、そのまま通りすぎた。
外から見えた店内の壁はボロボロにはがれおち、架けられていたカンバスの名残りが不出来な鳥の巣のように壁から垂れていた。
あたりには、つんと鼻を刺す異臭が漂っている。
すべてを見てとるのに一瞬。充分遠ざかったところで、サーペントは上機嫌に口笛を吹く。
エースが不気味そうに言った。
「お前じゃないよな」
「火事の発生時刻、しらべただろ」
「‥‥まぁな」
「それでも俺だと思う?」
愉しげだった。火が出たのは昨夜、二人が一緒にいた時間にまちがいはない。時限発火装置を仕掛けたそぶりはなかったし、昨夜のサーペントの様子からして、火をつけたのは彼ではない。
火事の時間は、サーペントがいきなり機嫌よくなった時間と大体重なっていた。窓から、見えたのだろう。炎が。
エースは肩をすくめた。店番らしい青年の姿を思い浮かべる。
「あいつか」
「可愛いねえ。俺に会ってそんなに感動したかな?」
「絵のモデルに、だろ」
「同じじゃないか」
「そうでもない──」
呟いて、エースは頬にチラッと笑みをはしらせた。あの青年は、絵に恋をしていたのかもしれない。絵の中に描かれた一瞬の姿に。そしてそれを凝視する、画家の視線に。それは「実物」を要しない恋だ。罠のように、とらわれる。
それが絵のもつ「共鳴」の効果なのかどうか、サーペントが引き起こした「共鳴」の残滓なのかどうか、エースには判断がつかない。画家にも、青年自身にも、わからないことだろう。サーペントは言うに及ばず。
サーペントが横目でエースをにらんだ。
「何。実物を見て失望したとでも!?」
「近い」
「てめェ」
「気がついたんだろ。お前の中に、他人を入れる余地なんかないってな」
エースは青い目をほそめた。
「あの画家の中にも、彼の存在はなかった。どちらにもな。──燃やしたくもなるだろうさ」
「ふぅぅん。可愛い弟」
「エディック・フェドリスに、弟はいないぞ」
昨夜、少しだけ調べた。ぶっきらぼうに言うエースを見やって、サーペントはにっこりする。
「知ってる」
「‥‥‥」
「俺だって、仕事する前に調べたよ。エディック・フェドリスにいたのは、姉だけ。それもうっかりモデルにして、殺してしまった。だからあいつは、エディックの弟なんかじゃない」
「お前、昨日、何も言わなかったじゃないか。弟じゃないなら、あれは何者なんだ?」
サーペントは、顔にぱさりと落ちてくる前髪をかきあげた。
「知らないよ。興味ないし。俺に燃やされる前に全部燃やすなんて、思ったよりお利口なヤツ。エディックを殺したのは多分あいつだと思うけど。一体あそこで何してたんだろうねえ? 頭蓋骨かかえて? やっぱ、墓守り?」
「何かを待ってたのさ」
「俺を?」
「何かを、だよ。逃げ出すきっかけになるものをな」
「‥‥‥」
眉をしかめるサーペントを見やって、エースはふっと笑みをこぼした。
「お前は、逃げられなくなったことがないだろう」
「‥‥何で? 何から? ‥‥えっ?」
「うん」
まだ笑ったまま、エースは歩きつづける。背後からは相棒の、「はぁ?」だの「それでぇ?」だの言う声が聞こえてくるが、かまわなかった。
(あの絵──)
未完成のまま残された、サーペントの板絵を、きっと彼は持っていっただろう。あれだけは。そう、あれはなかなかいい絵だった。一瞬の、狭間を踏みこえかかったサーペントの貌。
あの絵こそ、エースにとっては焼き捨てたい絵だったが。まあ、仕方ない。あれくらい、持たせてやっても惜しくはない。
あれよりももっと無防備でずっと美しい貌を、彼は知っている。
──そう言ったらきっと、サーペントは怒るだろうが。
[END]