1 2 3 [Novel]

【乱反射:1】

 道に足をとめて動かない。
 その表情をうかがったが、相棒は怜悧な白い貌に淡い微笑をうかべているだけで、横顔からは何の意味も意図も汲めなかった。
 澄んだラベンダー・アイ。透明な水に一滴の青紫を落として薄めたような、その眸を、やわらかにほそめて。サーペントは何かを見ている。対象に心を奪われている風情の彼はどこか幼く、美しいというよりは可愛らしくて、エースは小さな笑みを溜めた。言えば怒るだろう──それはわかっていたが、彼はサーペントの、そんな純粋な表情を見るのが好きだった。
 相棒の視線を追う。
 車もフリーボードも立ち入り禁止の狭い遊歩道には、アンティークを模した焼き煉瓦風の敷石が敷きつめられ、同じ煉瓦でつくられた間口の狭い店が肩を押し付けあうように建ち並んでいる。傾斜のきつい屋根は赤や青に焼き付けられた真鍮で、風見の鶏やガーゴイルを飾った雨水樋が通行人を見下ろしている。
 どこかでウィンドチャイムが澄んだ音を鳴らした。
 古びた町の一画を真似てつくられた通りだが、今や意図している以上に古びてしまっている。入り口のシャッターをおろしている店もちらほらと目についた。人通りもまばらだ。二人がここを通ったのは、用事に赴く前に尾行やら見張りやらがいないことを確認するためだったが、その途中でサーペントがふいに歩みをとめた。
 ──何を見ている‥‥
 視線の先。通りの向こうに、小さな画廊があった。上が丸い扉はとざされて、「CLOSED」と青いペンキで走り書きのように書かれた四角いカンバスがノブから下がっている。店の左半分はガラス張りのウィンドウになっていて、そこに六枚の絵が架けられていた。古風で、色あせたような景色の絵が多い。城、要塞、険しい峰、荒野──感傷的なタッチで描かれた油絵は、ところどころにのせられた青が美しく、すべて同じ手になるものだとエースは思う。
 サーペントはその絵を見ていた。心をとらわれたように。
「絵がほしいのか?」
 それなりに美しい仕上がりの絵ではあるが、特筆するほどの印象はない。それでも欲しいなら手に入れようかと、エースはたずねた。サーペントは数秒そのまま、まっすぐに絵を見ていたが、目だけをうごかし、頬に落ちかかる細いクリームブロンドを透かしてエースを見た。
 にやっ、と笑う。繊細な印象がかき消え、妖艶で邪悪なほどの顔がのぞいた。一瞬で、スイッチを切り替えたように。
「あの絵、どう思う、エース」
「‥‥特に」
「うん」
 うなずくと、笑みを消してまた絵を見ていた。
 低い声で、
「昔は人間を描いていたんだよ」
 え、とエースがたずね返す間もなく、サーペントは軽やかな身ごなしで跳ぶように道を渡った。グレイの艶をおびたセルリアンブルーのハーフコートが残像のようになびく。ヒールの高いブーツを履いているくせに、足音はほとんどなかった。
 まばらな通行人のあいだを、獣が駆け抜けるようになめらかに抜けていく。背中へはねる長いクリームブロンドの光を見送って、その姿が「CLOSED」の扉を易々と開けて店内へ消えても、エースはその場に立ったままだった。絵を引っつかんで出てくるか、と一瞬、ちらっと覚悟したが、どうやらサーペントは絵の強奪が目当てで店に行ったのではないらしい。少し待っても何の騒ぎもおこらなかった。
 まあ、美術品としてもインテリアとしてもさしたる価値のなさそうなあの絵を、サーペントがそこまで欲しがっているとは思えない。仮に欲しいとしても普通に買えばいいことだが、サーペントは欲しいものをダイレクトにつかむ癖がある。あの絵が欲しくて、店が休みなら、ショーウィンドウを割るだろう。
 ──さて。
「CLOSED」の札がとじたドアノブから揺れているのを眺めて、エースは道を渡りはじめた。青い眸を考え深げに細める。一つだけ、少し気になっていることがある。あの店のドア、鍵がかかっていなかったのか、どうか。
 ‥‥まあ、いいか。


 店は見た目より奥行きが深い。入った部屋はギャラリーのようになっていて、ショーウィンドウに面した半透明の壁から外の光が淡くさしている。薄暗い。茶色い色漆喰の壁は、ぎっしりと絵にうめつくされていた。
 同じ。サーペントは一瞬で百枚近い絵をすべて見てとる。カンバスや板絵がいりまじっているが、同じ画家の。同じ手の。どこか荒涼たる風景を絵の具で平面に刻みつけようとした、古ぼけた色のつらなり。
 興味はない。目をそむけた。
(──描くことは、ひとつの力だ)
 そう。そんなふうに、彼は言っていたか‥‥
 誰もいないギャラリースペースを大股に抜け、扉のないくぐり戸から続き部屋へ踏みこむ。仕切りがわりのカーテンを右手につかんでひきずり降ろすと、壁から引きはがされたレールが布を巻いて床に落ちた。
(くらやみの中で、相手を見つけ出し、つかまえて、固着する。逃げられないように。それが、俺の仕事だ‥‥)
 つかまえられたか?
 それとももう忘れてしまったか?
 ──あれから何年たっただろう。


 奥の部屋は窓が閉ざされてひどく暗かったが、サーペントの目は一瞬でほとんどの物を見てとっていた。本来なら工房のスペースなのか、柱のない、真四角に近い空間がひろがっている。今は奇妙に散らかって、床には服や書類、それに何も描かれず木枠に貼られてもいないカンバスが乱雑に積んである。その中で、寝袋のようなものにくるまって誰かが眠っていた。
 サーペントは、壁のセンサーを叩いて電気をつける。
 まばゆい光に、眠っている青年のまぶたがひくついた。無精髭を耳元からあごにかけて生やしているが、まだ若い。見おぼえはない。サーペントは寝袋の脇腹をゆるく蹴とばした。物憂げに囁く。
「コケコッコー」
「‥‥?」
 二、三度蹴られて、やっと青年は身をおこした。もぞもぞと袋からはいだしながら、
「強盗か?」
「あんたを起こしてやるほど親切な。ま、ご期待に添って身ぐるみはいでさしあげてもいいけれど。何かいいもの持ってる?」
 青年の手が寝袋の影でスタンガンを握るのを見てとったが、サーペントは間合いも取らずに立ったままだった。背後にエースの気配がしたが、彼は相棒を振り向かず、青年へたずねた。
「エディック・フェドリスは何処に?」
「‥‥‥」
 寝癖ではねたブロンズ色の髪を左手でかきあげ、目をしばたたいていたが、青年はやっと光に慣れた目でサーペントを見つめた。サーペントは笑みもなく、描いたように静謐な表情で、かすかに体を傾がせたままコートのポケットに手を入れてそこへ立っている。華奢な体つきだったが、弱々しくはない、瞬間にするどい動きを見せそうな獰猛を秘めた姿だった。
 青年は眉をしかめてサーペントを見ている。
 ふっと重い息をついた。目の奥に、重い炎のような激情が揺れるのを、サーペントは半分伏せた睫毛の下からながめる。
 低い声で、青年がつぶやいた。
「‥‥あんた──」
「エディックは?」
「彼に──用か?」
「用はない。いないなら帰る」
「‥‥‥」
 暗鬱に黙りこんだ青年を見ていたが、サーペントは音もなく身を翻した。部屋の入り口にいたエースが、足を引いてよける。ためらわずに出ていこうとしたサーペントの後ろ姿へ、青年が言った。
「いるよ、エディックは‥‥。会いにきたのか?」
「いや」
 サーペントは振り向いた。美しい貌には微笑が浮かんでいたが、ひどくあやうい、攻撃的な笑みだった。エースは無言のまま、ギャラリーの壁に肩をもたせかかる。まるで影のように動かなくなった。
 サーペントが囁くように、
「会いたいのは向こうだろうと思ってねぇ」
 青年は顔を歪めた。
「絵を見に来たんじゃないのか?」
「見るに値するものがあると言うのなら、一分待つ。出して御覧」
「‥‥‥」
 サーペントが右手首の時計を見る。わざとらしい、大仰な仕種。芝居だ。
 大きな溜息をついて、青年は立ち上がった。誰かが手すさびでつくったらしい針金細工をけとばし、薔薇の造花を踏みつぶし、床になすりついた絵の具のしみを踏みにじる。蹴とばされた酒瓶がカラカラと床に跳ねた。
 壁とロッカーの間に立て掛けてある大きな板を引きずり出しながら、
「最後の日、どうして来なかったんだ? ‥‥来なかったんだろう?」
「そうだったっけね。忘れてしまったよ」
「嘘だ」
「どうしてそう思う?」
 青年は、ひっぱりだした板に包帯のように巻かれた布を外しながら、
「表の絵を見て入ってきたんだろ。‥‥あの絵、サインなんか入ってないぜ。覚えてるんだろ、エディックの絵。なあ、どうして来なかった?」
「さて。忙しかったからじゃないかな。これでも結構、人気者なんだ」
 二人の会話を聞き流しながら、エースはギャラリーの絵に目をはしらせた。絵のほとんどは、木枠に貼ったカンバスのまま、額装もせずに壁に架けられていた。板絵は両側に穴を開け、吊るしてある。あまり大きな絵はない。外で見たのと同じ、古びた色合いの、どこかセンチメンタルな風景画だ。とりたてて目を引くものではない。潮の引いた海岸、崩れかけたタワー、打ち捨てられた街。座礁して錆びついたフロートシティ。
 人が誰もいない荒れ果てた街──その街の建物の窓辺に、淡い小さな人影がひとつだけあった。うっかり見すごしかかるほどにかすかなその人影は、こちらを見ているようだった。たなびく金の髪。空の青だけが奇妙にあざやかだった。
 画家は、青を得意としたらしい。あるいは不得意と。画面のところどころに散る青だけが目に浮きあがってくる。何か鈍い色を内にはらんだ、金属的な青色だった。
「‥‥‥」
 エースは目を細めた。となりの絵を見やる。打ち捨てられた発電風車が点々と、墓標のようにたちならぶ荒野。風車は雨で溶けかかって、白い炭酸塩の結晶に足元からじわじわと侵喰されている。半ば、塩の塔のようになっている風車もあった。
 人は誰もいない。空の青だけが奇妙に生々しく、美しい。
 ──いる。
 視界のすみに、影を見つけた。たちならぶ風車から離れて、荒野にうずくまる白くにごった岩の影に、誰かが立っている。こちらを見ている。線にすればわずか数本の。金の髪が逆光に光っているのだけがわかる。
 気がつけば、そこら中にいた。百近いすべての絵の中に。気をつけて見ねばそれと分からぬほど、小さな人影が。あるいは窓辺に、あるいは海と陸の狭間に、時にはだまし絵のように平面に封じられて、金髪の人物は、すべての絵の中から外界を──いや、画家を、見つめていた。


 エースは背後の音に気付いて、奥の部屋へ顔を戻した。
 青年が、板に巻いた布をほどき、床に放ったところだった。板を回してサーペントの前へ立てる。サーペントは薄い笑みをうかべて、何の感情も見せずに、その絵を眺めていた。
 ふっと呟く。
「下手糞」
 青年が激しい怒りの目をサーペントへ向けた。
 それは、1メートル近い高さの板に描かれた板絵で、背景はぼやけた青の中に崩れている。廃墟のようだったが、ところどころ金属の錆のようなものが浮かんでいるばかりがリアルで、ほかのディテールはよくわからない。深海にも似ていたが、ほかの絵と同じ美しい青がところどころ濡れたように光っていた。
 風景画ではない。人物が、その絵の大半をしめていた。中央やや左側、振り向きかかった姿がある。全身はどこかの光に照らされているように冴えざえと白く、背景から浮かび上がって、細部は青の濃淡で丁寧に描きこまれている。ほとんど色彩らしい色彩をもたないまま、強く鮮やかにそこに立つ。やや傾がせた左の肩ごしに振り向き、長い髪は動作の反動で右肩へ流れている。振り向いているにもかかわらず、今にも駆け去りそうな──まさに遠ざかってゆく、その瞬間の姿に見えた。
 エースはその絵と、それを見つめる相棒を見くらべる。成程。五年か、もっと前だろうか‥‥今より、少し幼い。本来なら「若い」と言うべきだろうが、カンバスに描かれた恋人の姿は、残酷な子供っぽさを漂わせていた。透明な微笑の形にかすかに開いた口元に、白い歯がうっすらと見えている。
 ──下手糞、ねえ。
 エースは思わず無言の笑みをこぼす。それはまさに、画面の中の人物が吐き捨てようとしている言葉のようだった。
 サーペントが一歩近づき、のばした指で絵にふれる。盛り上がった絵の具をすべらせて、描かれた背中の濃淡をなぞる。青い光を溜めた髪のラインを逆にたどって、首すじを通り、頬をなぞって、こちらを見ている眸にふれた。
 背景は青を中心として描かれ、人物はほとんど青一色で描かれている。その中で、目だけが血のように赤かった。内に炎を溜めたような激しい眸は、こちらを向いてはいるが、ほとんど何も見ていないふうでもある。ギリギリのバランスをとびこえようとしている。一瞬のうちに我と我が身の平衡を失っていく、その瞬間のあやうい眸だった。
 爪先でその瞳を抑えたまま、サーペントが歌うような声で言う。
「それで。エディック・フェドリスはどうやって死んだ?」
「‥‥‥」
 青年が強情な顔に憎しみに近いものを溜め、サーペントをにらみつけた。サーペントはまだ絵を見ている。そのままの声で、
「死んだのだろう。あんたを見りゃ、それくらいのことはわかるさ。失くしたものから逃げられない顔だ。君は何? 友達、恋人? セックスフレンド? 墓守? 下僕? ボランティア? 相続人? それとも‥‥」
「弟だよ!」
「似てないねえ──」
「そうか?」
 怒った声で、大股に部屋を横切ると、青年は音をたててロッカーを開けた。頭の高さの段から乱暴な手つきで何かを引っ張り出し、叫ぶ。
「こんなになっても見分けがつくか!?」
 投げつけられたボールのような塊を、サーペントは片手で受けとめた。ひょいと投げ上げ、手の上でころがして、彼は微笑する。
 手にあるのは、人の頭蓋骨だった。あごの骨は細い針金を通して頭蓋へ結びつけられ、ニスのようなもので表面処理されている。
「お久しぶり、エディック」
 手にひやりと重いそれへ、サーペントは仰々しく頭を傾けて一礼し、微笑したまま青年を見た。
「頭を殴られて死んだわけでも、どこかから飛び降りたふうでもないね。なかなかキレイな頭蓋骨。どうやって? 毒? ガス? 病気? クスリ? 窒息? 失血死? もしかしてのっかって腹上死?」
「あんたは‥‥エディックの何だったんだ? 恋人?」
「成程、問いには問いで、か。おもしろい、取引といこうじゃないか。答えには答えで」
 サーペントはにこやかに右手の人さし指を立てた。反応する間も与えず、
「サービスだ。俺から答えてあげようね。俺は、たのまれてエディックのモデルをしただけ。二回くらいは寝たかもしれないが、それを恋人と言ってもいいけど、どうだろう。エディックは寝るたびに俺を殺そうとしたし」
 黙って成り行きを見ていたエースがチラッと片目を細めた。煙草が喫いたいが、まがりなりにもギャラリーでそれはまずいだろう。
 相棒の反応を知ってか知らずか、気にしてないのか楽しんでるのか、青年を見つめたまま、サーペントは人さし指をぴしりとつきつけた。左手の中でくるりと頭蓋骨が回って、黒い眼窩の空洞が青年をまっすぐ見つめる。
「あんたの番だ。答えな。エディックは何で死んだ?」
「‥‥酒だよ。毎日酔っぱらってて‥‥喧嘩して、刺されたんだ」
「つまんねぇ死に方したもんだ。ま、骨になりゃ同じか」
「あんた──何で、最後の日、来なかったんだ!? エディックはあんたを待ってたんだぞ! あんたが来てくれさえすればこの絵は完成したんだ!」
「どぉかねぇ」
 サーペントはひえた声でつぶやいたが、興奮した青年には聞こえないようだった。激しくつめよる。
「どうして来なかった!?」
 その鼻先に、サーペントが指をたてた。
「問いには問いで、答えには答えで。俺はもう、君に聞きたいことはない。答えがほしいなら代償をもらうよ。それでも聞きたいか?」
「答えろよ──」
「取引成立」
 言うなり、サーペントは左手に持った頭蓋骨へくちづけし、次の瞬間凄まじい勢いで床へ叩きつけた。まるでガラス玉を叩きつけたような音がして、骨は粉々にはねとんで砕け散る。はッと息を呑んだ青年の眉間へぴたりと人さし指を据え、相手の目を凝視しながら、サーペントは静かに言った。
「次に会えば、今度こそ彼は俺を殺すつもりだったからだよ。その前に、俺に殺されただろうけど」
 ラベンダーの瞳に表情はない。
 青年の喉がうごいたが、言葉は出なかった。
 ゆっくりと指が引いていく。サーペントは微笑した。
「じゃあね」
 くるりと身を翻し、なめらかな足取りで店を出てゆく。エースは小さな息をついて、無言のままそれを追った。