椀とさじをすすいで水気を払い、どこに置いたらいいかよくわからなかったので、2つとも鍋のそばに戻した。鍋の番はまだロシェほどに若い従卒で、イーツェンに不思議そうな目を向けたが、とがめるそぶりはなかった。天幕を出る時ロシェが着せかけてくれたマントに、ジノンの紋章があるからだろう。
 あちこちの天幕では入り口の幕が丸めて引き上げられ、人が次々とあふれ出してくる。地面にずらりと掘られた10以上の炉に火がおこされ、忙しく鍋が運ばれてくるのをよけて、イーツェンは空き地のはじへ戻った。兵や従卒たちは起きてきているが、フェインの天幕やその周辺はまだ全体に静かだ。
 離れたところに立っている警邏の衛士の視線をとりあえず無視して、イーツェンは木の下に座りこむと、体をのばしはじめた。背中の痛みをはかりながら上半身を前に倒し、思うように動かない体に苛立たないようつとめながら、こわばりをほぐしていく。昨日の緊張が、まだ芯のようにかたく身の内に残っているのがわかった。
 呼吸を深くくり返しながら、単純な動きをなぞる。膝を折りたたむように曲げ、腕を持って肩の筋肉をゆるめようとしていると、すぐ上から声がした。
「馬には乗れそうか?」
「‥‥乗りますよ」
 イーツェンが顔を上げると、ジノンの青い目が見おろしていた。ジノンは灰色のマントをはおり、その下には体に沿ってしつらえられた細身のシャツをまとっている。胴着はなかったが、かわりにとても幅が広い腰帯を巻いていて、帯に織り出された瀟洒な紋様が美しかった。起きたばかりという様子で、少し目蓋のあたりが厚ぼったかったが、身なりをきちんとととのえているあたりがいかにもジノンらしかった。
 ジノンはふっと口元をゆるめ、脇にかかえていた紙ばさみをイーツェンへ渡した。2枚の板を本のようにつなぎ合わせた内側にくぼみが掘ってあり、書類を安全にしまっておけるようになっている。おそらく旅用のものなのだろう、手にのせられるほど小さなものだったが、重さがあった。
「では、これを持っていけ。全部そろえた。今ロシェが、連れと馬の準備をしている」
 座ったまま受け取って、イーツェンは中をざっとあらためてから、留め紐を結び直した。イーツェンとシゼが旅をつづけるのに必要な書類が全部入っている。これを手に入れるために、彼はここまで旅をしてきたのだった。
 手にしたものは、その覚悟に対してあまりに小さく見えた。声が揺れないよう、イーツェンはゆっくりと息を吸い、言葉を押し出した。
「ありがとうございます。‥‥感謝している、ジノン」
「本当に?」
 問い返したジノンの声は笑っていたが、その笑いは皮肉っぽいひびきも帯びていた。イーツェンは立ち上がって尻から土を払い、ジノンへ向き直る。
「これについては感謝していますよ。心から」
 紙ばさみを振ってみせ、それを小脇にかかえながらつけ足した。
「ほかの色々なことについては‥‥そうですね。ひとつひとつ聞きたいですか?」
「いつかね」
 いつか、はもうないだろう。お互いにそのことをよくわかっている口調でジノンはやんわりとそう言い、2人は目を合わせて笑った。裏に何も含まない、純粋な笑いだった。
 この男と会うのもこれが最後なのだろう。ジノンだけではなく、イーツェンの周囲を通りすぎていく多くの人々が、きっともう2度と彼と出会うことはない。あらためてそれを思うと、心に不思議な重みが生じた。
 疲労はあったが、こうしてジノンと向き合いながら、イーツェンの胸には熱い誇りがこみあげてくる。城にいた時の自分ともちがう、城から救い出されたばかりの自分ともちがう──旅をくぐり抜け、ここでジノンを前にまっすぐに立つ自分が、少し滑稽なほどに誇らしかった。
「イーツェン。手を」
 ジノンがちょいと手招きし、イーツェンは右手をさし出した。ジノンが握った手を上から重ね、肌がふれあったと思った時、ほんのかすかな重みがイーツェンの手のひらへ落ちた。
 それが何か、見る前からイーツェンにはわかっていた気がする。つかんだ拳を自分の胸元へ引きよせて指の間をのぞきこみ、彼は全身をうっすらとした痺れが抜けるのを感じた。
 もう失くしてしまったと思っていた、あきらめていた、それはレンギのピアス。イーツェンが今も左耳につけているピアスの対が、そこにあった。
 つつむように拳を握り、きつく目をとじて、イーツェンは今でも心臓をつかみそうになるあの瞬間の痛みをやりすごした。これは自分の死を覚悟したレンギが、手ずからイーツェンに渡した片方だ。リグの街道が塞がれたことへの裁きの日、ローギスたちが裁きを下すのを待ちながら、イーツェンはこのピアスをはじめて耳につけた。あの時、イーツェンにとってこれが唯一残されたレンギの名残りであり、シゼを思うよすがでもあった。
 鞭打ちと、続く混沌でこれを失った時、イーツェンは自分に残されていたわずかな望みまでも失ってしまった気がした。レンギと、そしてシゼとの絆を──もういくらも残っている気がしなかったにせよ──何もかも、永遠に、失ってしまったと思った。
 ピアスがどこかへ落ちたのか、誰かに取られたのか、それすらわからない。あの日々は痛みと混乱に満ちていて、何が本当におこったことでどこまでがイーツェンの悪夢なのか、今でも区別がつかなかった。ただ喪失に気付いた瞬間の、暗い絶望は今でも鮮やかに刻みついている。
 胸の中の塊が喉までせり上がってくる。しめつけられるような胸に無理矢理息を吸いこみ、吐いて、イーツェンはジノンを見た。ジノンはおだやかな顔をしていたが、彼の方から何かを話す気はないようで、イーツェンはできるだけ声がするどくならないように抑揚のない声でたずねた。
「フェインは、オゼルクに会ったんですね」
 この問いは予想外だったのか、ジノンは少しまばたきして、何も言わなかった。
 イーツェンは苦笑する。この男と話すのは、時おり面倒くさい。
「フェインはこのピアスが私のものだと知っていたし、これを私がなくしたことも知っていた。それを知る者は多くはない、ジノン」
 ピアスの存在を知っていて、さらにこのピアスを手に入れられた者──しかもフェインにそれを話すことができた者ときては、どう考えても1人しかいなかった。
 オゼルクがこのピアスを手元に持っていた理由までは、イーツェンにはわからない。だがきっとこれがレンギのピアスであったこと、レンギがこれを故郷から持ってきたことを、オゼルクは知っていたのだろう。だから、彼はこのピアスを持ちつづけていたのではないだろうかと、イーツェンは思う。
 ──今となっては、わからないことだ。
 小さな溜息をつき、イーツェンはピアスを握りしめて、手のひらにちりりとくいこむ痛みを感じた。ジノンは相変わらず何も言わないまま、注意深く彼の表情を見ている。
 これがきっと最後だ、という思いがイーツェンをつき動かした。彼はまっすぐにジノンへ向き直る。もうジノンに会うことはないだろう。ならば胸にわだかまるものを聞いておきたかった。
「オゼルクが、私に渡せと?」
 その問いには、ジノンは落ちついた声でこたえた。
「君のものだと言っていた」
 その言葉は正しくもあり、まちがっている気もする。イーツェンはただうなずいて、体温がうつったピアスを指の間でもてあそんだ。少なくともこれをオゼルクが持っていたということを、ジノンは認めたわけだ。
「どうしてあなたにこれを? 私が来ることを知っていたわけではないでしょう」
「私に渡されたわけではない。あれが置いていっただけだ。だが君の物なら、最後に返しておこうと思ってな」
「‥‥そうですか」
 何だか奇妙な気分だった。失ったものがこうしてめぐって手元に返ってきたのはうれしいが、その向こう側に、言葉にならないものがたくさん残されているようだ。レンギはどう思うだろう、とイーツェンはふと思った。オゼルクに、レンギは自分の名を記した文鎮を残した。あれは今どこにあるのだろう。
 ジノンが笑みを含む声でつづけた。
「私のわずかな名誉のために言っておくとな。イーツェン、君の処刑は私の案ではない。オゼルクが言い出したことだ。だから文句があるなら、君はあれに言うべきだ」
「まさか」
 するどく頭をはね上げ、イーツェンはジノンを凝視した。ジノンの言葉を疑ったのではない。ただ、彼の言ったことをどう受けとめればいいかわからなかった。偽の処刑を仕立ててイーツェンを死んだことにしたのは、オゼルクの示唆によるものだったのだろうか。何のために。
「‥‥まさか」
 ただもう1度、呟く。ジノンは胸の前で腕を組み、右足側に少し体重をかけた。目をほそめてイーツェンの表情を眺める。
「死んだとなれば、ローギスも表立っての追っ手は出せまい」
「あなたは‥‥私をルルーシュから引き離すために‥‥私の利用価値をなくすために、処刑を仕立てたのだと思ってましたが?」
 動揺を隠そうと、イーツェンはつい挑むような口調になった。まずい、と思うが、とめられない。理由のわからない怒りとともに血が首すじから顔にのぼり、頭をもう1度ぐいと上げた。
「私を守ろうとしたとでも?」
「私には私の理由があった。オゼルクが言い出したのは別の理由かもしれん、というだけだ」
 ジノンは表情ひとすじ揺らがせなかった。
「あれが何を考えていたか、私が知っているわけではないが。そういうことはほとんどしゃべらなかったよ。昔からそうだがな」
「‥‥オゼルクを城から逃がしたのは、あなただったんですね」
 うかがうように近づいてきたロシェは、ジノンが手振りで何か命じると一礼してどこかへ歩き去った。声の届く範囲に誰もいないが、それでも微妙な話題に、ジノンの声は低い。
「手引きはあれの母親だ。その前から城を出るつもりで準備をしていたという話だが、知らなかったのか?」
「何故です?」
 眉をひそめて反論したイーツェンを、ジノンは上から下までちらっと見てから、手招きして空き地のふちを歩きはじめた。溜息のような言葉に含まれる表情を、イーツェンは拾うことができなかった。
「君たちは、よくわからんな」
 無言のまま答えず、イーツェンはジノンを追った。
 わからないのは、彼らの間にわかるべきほどのものが何もないからだろう、と思う。オゼルクとイーツェンの間にあったのはただ互いの痛みで、それは何も生まないものだった。どこへも行けないものだった。
 たとえ──もし──オゼルクがイーツェンを助けようとしたのだとしても、彼が本当に助けたいのはイーツェンではなくレンギだったのだろう。イーツェンは、手の中のピアスを握りしめる。レンギを救うかわりに、かつてオゼルクはイーツェンを地下の牢から救い出したような気がする。
 オゼルクはきっと、レンギを救いたかったのだ。ずっと。
 ジノンの荘館の書庫でフェイギアを含む地方の地図が抜けているのを見た時から、イーツェンは時おりそのことを考えていた。あの館にオゼルクが隠れて逗留していて、彼がフェイギア──レンギの故国があった場所──の地図を取っていったのではないかと。ピアスをジノンが返してきたことで、それは確信にかわった。
「どこにいるか聞かないのか?」
 天幕と木々の間を歩きながら、ジノンが前を向いたままたずねた。イーツェンは小さく肩をすくめたが、少しばかり投げやりなその仕種はジノンからは見えなかっただろう。
 オゼルクがここにいないのであれば、どこにいるか──少なくともどこを目指しているか、イーツェンは彼なりの答えを持っている。だがジノンにそれを言うつもりはなかった。もしオゼルクが言わずにジノンのところを去ったのであれば、イーツェンが言うべきことではない。それは、オゼルクがずっと心の底にしまいこんできたことであり、オゼルクの痛みだった。
「知っているのか」
 沈黙をどう読んだのかジノンが肩ごしに振り向き、イーツェンは首を振った。ピアスを何度か指の内側で転がしながら、彼は木々の間から見える空を見上げる。朝の澄んだ光が、空に糸を引く雲にほのかな紅の色をつけていた。よく晴れた日になりそうだ。また旅路に出るにはいい空だった。彼は帰らなければならない。
 2人はそれきり、無言のまま野営地の奥へと歩く。胸に手をあてて敬礼を送る兵士たちに手を振って、ジノンは馬杭を地面に打ちこんだ屋根のない馬房にイーツェンをつれていった。
 まだ何か言いたいことがあるのだろうかと、イーツェンはジノンの背中をいぶかしく見る。忙しいだろうに、イーツェンを案内したり見送るためにわざわざジノンがここまでついてくるわけがない。
 数十頭の馬の中を従卒が水桶を持ち、移動しながら馬に水を飲ませている。馬たちの毛皮は朝もやの中でしっとりと湿った艶を帯び、獣の静かな鼻息があちこちから溜息のように聞こえてきた。
 イーツェンは馬にブラシをかけている少年に目をとめた。ほそっこい、まだ10代前半の少年は、ジノンが前を通りすぎた瞬間にあわてた礼をしたが、すぐに仕事に戻って馬の横鼻を丁寧にブラシでなでた。やわらかな仕種に愛情があふれていた。
 ──馬がほしかった。
 シゼの言葉がふいに思い出されて、イーツェンは小さな笑みをうかべる。子供の頃に馬がほしかったというシゼの話を聞いている間、イーツェンはシゼがどんな子供だったのだろうと頭の中で思いうかべようとして、そのたびに失敗していた。
 無口な、何かを抑制しているようないつもの姿が、シゼが自分を守るために身につけてきた鎧だということくらいはわかる。だが、彼を分厚く覆う守りの下に、かつてはどんな子供がいたのか。そのことは、いつもイーツェンを不思議な気持ちにさせた。痛ましくもあり、どこかほほえましい思いもある。
「知っているんだな?」
 いきなり横から聞かれて、イーツェンは飛び上がりそうに驚いた。少年を見つめすぎていた視線をはがす。
「いえ──」
 知らない顔だ、と言おうとして、ジノンがなめらかな足取りで歩きつづけていることに気付いた。馬丁の少年の話ではない。意外にもオゼルクの居場所についての話題を、ジノンはあきらめたわけではないようだった。
「知りたいんですか?」
「これでも私は、彼の叔父だ」
 イーツェンの疑うような声に、ジノンは心外だという様子で振り向いた。イーツェンは一瞬どう答えるべきか、口ごもった。それは確かにジノンの言うとおりだが、血のつながりからくる連帯感のようなものをユクィルスの王族の間に感じたことなど1度たりともない。ジノンが本気で言っているのかどうかさっぱりわからず、見つめ返すと、ジノンが苦笑した。
「そんなに変か」
「‥‥まあ」
 否定のしようはなかった。ジノンを血も涙もない男だと思っているわけではないが、血縁の情にもろい人間だとは、どうひっくり返っても思えない。
「あなたがオゼルクに会いたがっているとは、考えられないんですが」
「別に会いたいわけではないが」
 あっさりとジノンは言って、目をほそめた。
「彼は別に、何か馬鹿なことをしに消えたわけではないんだな?」
「‥‥‥」
 ジノンが立ちどまった馬の近くでは、灰色のマントをまとった大小の人影が馬にせっせと馬装をつけていた。ジノンが近づいても注意深く目を伏せたまま、イーツェンを見ようともしていない。ジノンの身分を知っていて、彼から声をかけられない限り、自分から話しかけてはいけないことを知っている。
 イーツェンは彼らを見て一瞬ためらってから、ジノンの問いに答えようと口をひらいた。オゼルクをそう長く知っているわけではない自分が、ジノンにそれをこたえるのは奇妙だ。だがジノンは彼なりの形でオゼルクを心配してはいるようで、イーツェンはできる形で返事をしておきたかった。
「ええ。私はそう思います」
 根拠については何ひとつ言わなかったが、ジノンはしばらくイーツェンをじっと見てから、うなずいた。それから優雅な、力強い動作でイーツェンへ右手をさし出した。
 指輪のはまった手を見おろし、イーツェンは凍りついたように立ちつくす。それから、慎重に手をのばしてジノンの手を握った。迷いなく握りかえしてきた手はあたたかく、指には力がこもっていた。
「無事に戻れ。君のいるべき場所へ」
 ジノンの両目はまっすぐにイーツェンを見つめていたが、まなざしのするどさにもかかわらず、イーツェンはふっと軽やかな気持ちになった。彼らはそうして互いの手を握り、視線を合わせたまま数秒、そうして向き合っていた。
「約束は忘れない」
 イーツェンの低い言葉にジノンはうなずいて、唇に笑みをうかべる。
「もし国に戻って約束を果たさなかったら、リグの人間を決してユクィルスに入れないことだ。彼らが、君のかわりに借りを支払うことになる」
 笑顔を見て、イーツェンは目をしばたたいた。
「脅すんですか」
「いや。私の約束だ」
 手を離すと、かるいうなずきを送ってから、背を向けて歩き去っていく。これが別れだと思うとあまりにも冷たく、あっさりしていたが、それがジノンらしくもあった。イーツェンは背中へ向けて頭を下げ、最後の謝意と無言の誓いを送る。
 ジノンが去った途端、灰色のマントの男と少年は、息を吹き返したように元気に動き出した。大柄な男と、子供のような幼い顔をしたひょろ長い背丈の少年。珍しい組み合わせではないが、彼らにはイーツェンの目を引く何かがあった。簡素な旅姿は騎士や従者のように見えないが、2人は一緒にてきぱきと馬の鞍をたしかめ、鞍帯を締め、鞍袋をくくりつけて働いている。
 センドリスは荘園へ戻るイーツェンに「連れをつける」と言ったが、彼らがその連れなのだろうか。どうしたものかととまどって周囲を見回したイーツェンは、ロシェが近くの黒鹿毛の馬へ歩みよってきたのに気付いた。肩にイーツェンの荷を担いでいる。
 ひとまず、これ幸いとロシェの方に歩みよって、鞍の金具を指でたしかめる彼を手伝った。イーツェンはユクィルスの馬装には詳しくないのだが、留め金にゆるみがないかどうかくらいはわかる。
「よい馬ですよ」
 馬の向こうから顔をのぞかせ、ロシェが陽気な声で言った。朝から元気な笑顔を見て、イーツェンも微笑した。それにしても、よく働く少年だ。
「うん。ありがとう」
 黒鹿毛の馬は戦馬のように大きくもなく、だが荷馬のように足が短くもなく、全身が締まっていて美しい。濃い褐色の体のところどころに灰色の毛並みがまざり、長い鼻の右側に雪のような斑点が散っているのもイーツェンの気に入った。
 イーツェンの荷はすでに馬の尻にくくりつけられている。その中にレンギのピアスを一揃いと紙ばさみをしまいこんでから、イーツェンは彼を待つように立っている2人へ向き直った。
 やはり、おかしな2人だった。大柄な男の方は浅黒い髪にやや白髪のまじった、老齢と言うにはまだ少しありそうな壮年の男で、半端ではないほど陽に焼けている。肩もがっしりとして体つきはいいのだが、騎士にも傭兵にも見えない柔和な目をしていた。鼻が広く口も広いので、どこか大らかな雰囲気がある。目尻に笑いじわがよった茶色い目は陽気そうで、どうしてかイーツェンは大道で芸を見せる手妻使いを連想した。
 腰に剣を帯びているところを見ると剣士なのだろうが、傭兵にありがちな、すさんだ雰囲気はない。かと言って何者なのか。商人や農夫にはもっと見えなかった。
 小柄な方はうっかりするとロシェと同じ程度の年にも見えかねない、頬がまるくて顎が細い、やたらとあどけない顔立ちをしているのだが、それにしては妙に背が高い。イーツェンの肩すぎまでは背丈があるだろう。体つきが華奢なせいでひょろ長く見える。赤毛まじりの金髪をぼさぼさと首の後ろでくくり、幼い顔立ちは可愛らしかったが、イーツェンを見上げる灰色の目には力がこもっていて、目つきが悪かった。
 旅の連れって本当にこれかなあ、と内心で首をかしげつつ、イーツェンは膝をかがめて一礼した。相手の方から口をきいてくれないかと期待したが、イーツェンと向き合った2人も同じようにひょこりと頭を下げたきり、何も言わなかった。立派な仕立てのマントを着ていてもこうして向き合えばイーツェンの首に奴隷の輪がはまっていることは一目瞭然で、それを彼らがどう思っているのかはよくわからない。
 お互いに探り合う空気が何だかおかしい一方、イーツェンはかすかに苛立ってもいた。腹の探り合いは、昨日1日で一生分すませたと思う。
「ええと」
 ロシェが咳払いのようなものをして、3人は同時に少年を見た。少年は困った顔をしていたが、イーツェンが勇気づけようとうなずくと、やや勢いをつけてつづけた。
「こちらはリオン様。王家の客人でいらっしゃいます」
 明るく紹介されて、イーツェンはそれが──ジノンが書類に使った──自分の偽名だということに一瞬気付かず、遅れて明るい表情をつくった。旅は数日に渡るし、最初に悪い印象を与えたくはない。
 イーツェンの笑みに応じて、2人ともぱっと微笑した。悪くない。いや、予想よりずっとよさそうだ、とイーツェンが妙な手応えを感じて少しばかり高揚していると、ロシェはつづけて相手の紹介に入った。
「こちらがユジー様。こちらがアルセタ様」
 と、大きい方と小さい方を、順番に手で示す。
「お二方は、動物の訓練をなさっておいでです」
「‥‥それは」
 それがどういう生業なのかわからず、イーツェンはどう言っていいものかまばたきしながら2人の顔を順番に見た。ユジーは相変わらず愛嬌のある笑顔でイーツェンに笑いかけていたが、少年──アルセタは社交辞令の笑みを消して、飽き飽きした様子で自分の爪先を見ていた。
 いや──
 イーツェンは、アルセタの肩が緊張したように首に向かって上がっているのに気付く。身がまえているのだ。だが、何に?
 イーツェンはユジーへ目を戻し、うなずいた。
「お会いできて光栄です」
 手をさし出すとユジーは唇のはじをニッと上げ、はじくようにイーツェンの手のひらを強く打った。表情と仕種に愛嬌がなければ拒絶されたと思ってしまったかもしれないほどの荒さだったが、イーツェンはひとまず歓迎だと受け取った。アルセタが顔を上げてちらっと笑みを見せた。
「お館まで無事お送りしますよ」
 ユジーはしゃがれた声で、丁寧に言う。イーツェンの首の輪のことは気にしていない様子だった。本当にイーツェンを王家の客として受けとめているらしい。
 ──ジノンがここまでイーツェンを送ってきたのはそのためだったのだろうか。
 ふと、イーツェンは思い当たる。自分の客であるとさりげなく示し、イーツェンへの気くばりを要求した。
 実際のところはわからないが、直接ユジーに言わずにさりげなく存在を示すのは、いかにもジノンのやりそうなことに思えた。少し不気味なところもあるが理知的で懐の深いジノンと、もし何の利害も絡まないところで会ったなら、イーツェンはきっと彼を友人として好きになっただろう。
 だがもうそんなことはありえない。彼らはそれぞれの道を選び、それは友人としてのものではなかった。
 イーツェンは馬装の最後の点検をしているロシェに歩みより、かるく頭を下げた。
「皆に、ありがとうとつたえて下さい。あなたにも世話になった」
「短い間でしたが、お仕えできたことは光栄です」
 形式的な言葉を、だがロシェはあたたかく口にする。その顔を、イーツェンは朝の光の下でじっと見つめた。もし彼がいつかイーツェンの助けを求めたならば、何をおいても彼の側に立つとイーツェンはジノンに誓ったし、そんな日が来た時にはイーツェンは心底、その約束を果たすつもりだった。
 だが、ジノンは彼にどんな未来を望んでいるのだろう。昨夜フェインのそばに立って甲斐甲斐しく仕えていたロシェの姿を見ながら、イーツェンは心によどむものを消すことができなかった。ジノンは彼の息子を王の右腕に育てるつもりなのか、それともさらにその先にあるものを見ているのだろうか。少年2人が互いに信頼を見せながらよりそうように立つ姿は心なごむものだったが、いつまで彼らは、そんなふうに同じ側に立っていられるのだろう。
 願わくばいつまでも、とイーツェンは思う。このユクィルスの地で、大人たちがどんな陰謀の糸をはりめぐらせているにせよ、少年たちは彼らの通ったような闇を通らずにすむように。そう祈りつつ、彼はロシェの微笑みへうなずきを返した。
「元気で」
「ご無事な旅を」
「‥‥ありがとう」
 その言葉のほかに、この少年に言いたいことはたくさんあるような気はしたが、そのどれもイーツェンの言うべきことではなかった。少年の腰に下がった守り刀に最後の一瞥を投げて言葉を呑みこんでから、イーツェンは馬の手綱へと手をのばした。これ以上、この地にいる意味は何もない。ここは彼の居場所ではない。ユクィルスがイーツェンの場所であったことは1度もなかった。
(リグへ)
 ただリグへ帰ろうと。ごわつく手綱を手に握りしめ、まだ朝の湿り気が残る空気を肺いっぱいに吸いこみながら、イーツェンは空に満ちてくる光に目をやった。やわらかに重なった雲の層からさし入る朝の光は、次第に美しい薄紅の色を帯びはじめていた。
 帰れる、と思った。やっと帰れる。リグへ──
 そして何よりもまずは、シゼの元へと。