イーツェンはほとんど眠れなかった。疲れ果てている一方で神経が高ぶってもいて、うつらうつらまどろんでは、現実が折りたたまれたような奇妙な夢を見てとび起きる。
体中に興奮の糸がはりめぐらされ、それがほどきようもなく絡まりあっているようだった。ユクィルスを出られる──その昂揚もある。フェインはすべての書類に名をしたため、玉印を押した。その書類を持ってシゼのところへ戻り、見せるのが今から待ちきれない。
だが、昂揚の裏には強い不安がまとわりついていた。手に入れかかったものが、今この瞬間に目の前から奪われてもおかしくない。何ひとつ確かなもののない日々で、イーツェンはそうして身がまえることに慣れていた。手にしたものが大きければ大きいほど、恐れも大きくのしかかる。
──シゼ。
頭の中で名を呼んで、イーツェンは毛布の下で小さく身じろいだ。ジノンやフェインと同じ天幕のすみで、センドリスの寝床を借りている。ジノンたちのように毛皮の幕ではなく、薄い麻布と積み上げられた木箱で区切られただけの狭い空間だ。今は真っ暗闇で見えないが、服や持ち物を入れる長箱の上に無造作に地図や書類が散らばり、ブーツが箱と箱の隙間に押しこまれているのを案内された時に目にしていた。寝床自体、箱の隙間にどうにか押しこまれたような感じでもある。
狭く、雑然としているが居心地はよく、イーツェンはあまり圧迫感を感じなかった。だが疲労のせいで背中と腰に重い痛みがあって、横倒しになった身を丸めていると、身の奥がじくりとうずく。
センドリス本人は慌ただしくどこかへ消えてしまったので、イーツェンは敷物を厚く重ねた上にひとりで横たわっていた。もらった毛布は何だか他人の匂いがして、それがセンドリスの匂いなのかどうかよくわからないまま、イーツェンは落ちつかない足を数度投げ出す。革や鉄、それにおそらく剣の手入れに使う油の匂い──闇の中で身をとりまくように感じるのはひどくよく似た、だがシゼとはちがう匂いだった。何の匂いというのでもなく、ただシゼのものだとイーツェンがよく知る、彼本人の匂いとはちがう。
息苦しくなって、イーツェンは頭を動かし、喉にくいこむ輪の感触に顔をしかめて首を指でさすった。今日交わした言葉のすべてが脳裏にぐるぐると渦を巻き、頭蓋の中から出ていかない。
首の輪にふれながら、今すぐこれを外せたらどんなに軽くなるかと想像した。イーツェンの身分はもう奴隷ではないので、この輪をつけている必要はない。だがこの輪を切るには時間がかかると、ジノンは言った。奴隷の輪に手をふれられるのは専門の鎖鍛冶だけだし、首に留めてある輪に、たがねを入れて叩き切るわけにもいかない。刃物を入れてねじ切るにも、あまりにぴたりと首にはまっていた。
イーツェンには何よりもその時間がない。恩赦を受けた以上、もはや彼は奴隷の身ではないのだが、この輪が外れないうちは奴隷としてふるまわねばならないだろう。
この状況をもたらした恩赦の意味を、彼はぼんやりとくぐもった頭で考える。自分が何を取り戻したのか、イーツェンにはよくわからなかった。罪状は失せ、ユクィルスにイーツェンをとどめていた理由も失せた。ローギスの手が回っていることを考えればまだ堂々とは動けないが、少なくとも、フェインの側の者たちがイーツェンをとらえたり罰したりすることはもうない。
だが不思議なほど、イーツェンは何の感慨もおぼえなかった。両手にかかえるように抱いたフェインの体のぬくもりと、少年がまっすぐイーツェンに向き合おうとした意志には深く打たれるものがあったし、フェインの様子を思うと今でも口元に微笑がうかぶ。フェインはイーツェンが何をくぐり抜けてきたかは、知るまい。だが彼は、少しでもイーツェンの痛みを取り除こうとしていた。
そのことを愛しく思う一方で、恩赦そのものには、自分でも驚くほど心が動かない。
恩赦の後、ジノンはイーツェンに友好の手紙を書かせた。フェインを王と認め、それに対して祝いの言葉をのべた手紙だ。イーツェンは、リグの王のかわりに公的な口をきくことはできないと言ったのだが、ジノンは「公的かどうかなどどうせ誰にもわからない」とイーツェンの名と身分を記させた。それをどこかで、フェインの王位を飾るために使うつもりらしい。
そのために恩赦を与えたのだ、と気付いた時には、ジノンの言うままの文章と自分の名を書くしかなかった。それにつづいて何枚かの手紙を、要求されるままにイーツェンは書いた。どれも単なる親善の手紙で、特にリグの不利益にも不名誉にもならないだろうとは思ったが、何がどうころがるかわからない。いつの日か記した手紙が何かの罠に変わらないことだけを祈ったが、1枚書いたらもう戻れなかった。やはりジノンが上手だったということだ。真実の名を記せと言われはしなかったが──それはできないことでもあったが──それでも、こびりつくような不安が残る。
結局のところ、ジノンはほしいものを手に入れたのだろう。イーツェンに与えた恩赦も、好意からなどではない。イーツェンへ恩赦を与え、王へのへつらうような祝いの手紙を得たことで、まるでリグを従えたかのような印象を人に与えることができる筈だった。現実にはリグに彼らの手が届くわけではないので、イーツェンは妥協して彼らの望むものを渡したが、ひどく気が重かった。だが、何かを渡さねばならないのだ。渡せるものだったことが、まだ幸いだった。
背の奥によどむ痛みに目をとじ、そろそろと息を吐いて、イーツェンは身を縛るような緊張をほぐそうとする。
恩赦。ユクィルスはイーツェンを許した。奇妙なことだった。彼らに許されることに何か意味があるとは思えない。「恩赦」という言葉を言い出したのがジノンだったなら、イーツェンは怒りすらおぼえたかもしれなかった。これまでおこったすべてのことを、今さら「許す」と言われたところで、奇妙なほど虚しいだけだ。
背中がちりりとして、イーツェンは楽な体勢を探しながら寝返りを打った。何もなかったことにはならない。ユクィルスがその裁きを取り消したからと言って、イーツェンの背の傷が消えたりはしない。許されたいのは、彼らからではない。許すという一言だけで、何もかも煙のように消えたりはしないのだ。
(──その傷はあなたから消えない)
耳にひびくシゼの声を思い出しながら、イーツェンは目をとじた。木剣を取ろうとしないイーツェンを叱るように、シゼはそう言いきった。傷が消えることはない。だからイーツェンは傷とともに生きるしかないのだと。
シゼがここにいればよかった、と思う。彼の声が、言葉が聞きたかった。きっとまた言ってくれるだろう。この傷はイーツェンから消えることはない。だから振り返ったり立ちすくんだりせず、この先にあるものを見るしかないのだと。
シゼがここにいれば。イーツェンがどれほど迷っていても、混乱していても、シゼだけにしかできない苛烈なやり方で、まっすぐに顔を向けるべき方向をイーツェンへ教えてくれる筈だった。
わずかにまどろんだと思った時、途端に揺り起こされてイーツェンははね起き、背中のこわばりにするどく息をつめた。
「すみません」
低くひそめた声であやまったのは、ロシェだった。イーツェンはまばたきして、暗がりに沈んだ少年の顔を見つめ、無意識につかんでいたロシェの手を離した。きつい力でつかんだというのに、ロシェは振りほどこうとしていなかった。
「いや、こっちこそ‥‥申し訳ない」
体中が疲労で重い。天幕の外側に人の動く気配を感じて、もう朝なのかと思いながらイーツェンはサンダルがある筈の場所へ手をのばした。あたりを探ってつかみ取ると、服は着こんだままだったので、そのままもそもそと毛布から這い出してサンダルを履く。あちこちの天幕の隙間からは薄ぼんやりとした、まだほのかな明るみがさしこんでいる。
「こちらへ」
手早く毛布を片付けたロシェは、ひっそりとした足取りでイーツェンを天幕の外へと導いた。ひやりとする朝の空気が肌に心地よく、イーツェンは肺の奥まで大きく息を吸いこんだ。天幕の表には衛士が立ち、空き地の奥にある兵たちの質素な天幕の周囲では、数人が忙しく動き回っている。昨日はそこまで見ていなかったが、地面に野営用の大きな炉が掘られていて、焚きおこされた火に大鍋が掛けられて、湯気が朝もやの中をゆったりとたちのぼっていた。
鍋を見た途端に腹が思い切り鳴って、イーツェンはきまり悪く首をすくめた。聞かないふりをするかと思いきや、ロシェは頭を後ろにはね上げるようにイーツェンを見て、かろやかに笑った。
「お食事、お持ちします」
「あー」
かまわなくていいから、と言おうとして、イーツェンは途中で言葉を呑みこんだ。体面をとりつくろっている場合ではない。本当に腹が減っていた。疲れのせいか緊張のせいか食欲はあまり感じないが、胃の中がからっぽなのはわかる。何か食べなくてはまずい。
ロシェは大きな水樽の横にイーツェンを案内すると、足早に立ち去った。イーツェンは手桶にすくった水で顔を洗い、口をすすいで、眠気にまみれた体をどうにかすっきりさせる。
まだ野営地全体が起き出すには間があるのか、薄い朝もやの中で動く人々の姿はどこかひっそりとしていた。引き出されて手入れを受けている馬が低く鼻を鳴らす、その息づかいすら静かにひびく。
「こっちだ、イーツェン」
呼ばれて声の方を探すと、センドリスが木々に接する空き地のふちに腰をおろし、行儀悪く右手の木さじを振っていた。左手には椀を持っていて、どうやら彼も食事中だ。
イーツェンがセンドリスのそばへ歩みよった時、ロシェが湯気をたてる椀を持って小走りにやってきた。こぼして火傷でもしないかとはらはらするイーツェンに、少年は笑顔で椀をさし出す。
「お口にあえば」
「うまいぞ」
口に何か放りこんだところらしく、センドリスがもごもごと言った。
「ありがとう」
椀と木さじを受け取り、センドリスの横の草の上へ座りこんで、イーツェンはどろどろした粥のようなものを木さじでかきまぜる。小麦を練った団子や裂いた鶏肉が入っているのはわかるが、他に何が入っているかは溶けていて今いちよくわからない。匂いには香ばしい甘さがあって、イーツェンはさじですくって一口食べてみた。
たしかに、うまい。塩気と、芋のような甘みがまざった素朴な味で、「色々まぜてひたすら煮ただけ」という気配はあるが、イーツェンに文句はなかった。平たい団子が舌の上をつるりとすべって、噛むと中から汁が出てくる。松の実か何かが入っているのか、たまにコリコリと歯にあたる木の実の感触があった。
無言で粥をかきこみながら、イーツェンはしばらく食べることに没頭していた。汁の奥から塩漬けの菜っ葉とかよくわからない茸とかが出てきておもしろい。食べながら、腹にじんわりと熱さが沁みていくのを感じ、どれほど自分が空腹だったか実感した。
人心地ついた思いで椀を空にして顔を上げると、センドリスは笑っていた。ロシェの姿はいつのまにか消えている。イーツェンも笑って、センドリスが示した口のはじを手の甲で拭った。
「うまい」
「だろ」
うなずいて、センドリスは前へ目を戻した。声はやわらかかった。
「じき支度ができる。連れを2人つけてやる、イーツェン。約束通り五体満足で戻れ」
食べ物のためだけでなく腹の底からあたたまるのを感じながら、イーツェンはうなずき返した。センドリスには本当に世話になった。多分、自分が思っている以上に。
「ありがとう」
「これを持っていけ」
前あわせの上衣の懐から細長いものを引っぱり出し、イーツェンへ手渡す。革紐を筒状に巻いたものに見えたが、手にした重みに驚いてイーツェンは目をこらし、それが内側に硬貨を巻きこんで1本の綱のように編み上げたものだと気付いた。内側に硬貨がどれほど入っているのか、筒は手のひらに余るほど長い。
「センドリス!」
「気になるなら、うちの兵を戻す時、言付けて返せ」
センドリスは立ち上がって尻を払い、木によりかかって腕組みした。イーツェンを見ずに肩をすくめる。
「冬の船代は高いぞ。ちゃんと考えたか?」
「‥‥‥」
「お前は、ジノンとの取引の時に金も要求するべきだった、イーツェン」
イーツェンも立ち上がって、きまり悪く頬が熱くなるのを感じながら、両手に持った革紐の筒袋を見おろした。シゼと2人の旅は質素なものだったから、残りの道程も手持ちの金でまかなえるだろうと踏んでいたが、たしかにセンドリスの言うとおりだ。少なくとも借用を申しこむべきだった。イーツェンもシゼも、船賃の相場を知らないのだ。
「お借りします」
素直に頭を下げると、イーツェンは腰帯をほどき、硬貨の筒を巻きこんでから、またきっちりと腰に結んだ。後で荷の中へしまえばいい。
センドリスは木から身を起こして今にも歩き去っていきそうな気配だったが、最初の1歩を踏み出すことなく、イーツェンへ顔を戻した。
「無事、国へ戻って取引を果たすんだな。それでいい」
その声はしんと深い。ふいに胸を突かれて、イーツェンは男の顔をまっすぐに見た。
「一体誰があっちに残っているんです、センドリス? あなたにとって大事な人なら最初に帰れるようにする。名を教えてくれますか」
本心から驚いた様子のセンドリスが、射抜くようなするどい目でイーツェンを見た。それから顔をそらし、前を向く。ぐっと顎に力が入って喉の筋肉が動き、彼は何か、言葉にできないものを飲み下そうとしているようだった。
イーツェンは注意深く言葉を足す。
「それを逆手に取ったりはしない。誓ってもいい」
「‥‥‥」
センドリスは横に首を振ったが、少しおいて、押し殺すような声でつけ加えた。
「もし戻れたら、ハルセ殿に聞いてみてくれ。多分わかる」
「ハルセ殿に?」
面食らって、イーツェンはまばたきした。アンセラにいる遠戚だが、その名がどうしてここで出たのか当惑してから、去年の冬、センドリスがハルセに言及していたことを思い出した。ジノンの荘館で夕食をともにした時だ。
ハルセがアンセラ守備の戦いで深い傷を負い、リグに身柄を引き取られたという話だった。ハルセはイーツェンの母──リグの王后であったその人の遠縁にあたるため、縁をたぐってリグに庇護されたものらしい。執政官としてアンセラに在任していたセンドリスが、事の経緯をイーツェンに教えたのだった。
それを思い出しはしたが、まだ腑に落ちなかった。ハルセとセンドリスが親しくしていたとは、あの話ぶりからは読みとることができなかったのだが。ハルセに聞けば何がわかるというのだろう。
だがかたくなに前を見つめたセンドリスの横顔を見て、イーツェンは息を呑みこみ、うなずいた。センドリスはひどく緊張していて、イーツェンがひとつ間違ったことを言えばはりつめたものがはじけとびそうに見えた。
踏みこむな、という警告と、抑えこまれた怒りは明らかだった。
「わかりました。ハルセ殿に言付けはありますか?」
「いや‥‥ただ、元気でと」
ぶっきらぼうにそう言い、肩をそびやかして、センドリスは天幕の方へ歩き出した。数歩で足をとめてイーツェンを振り向く。イーツェンは怒りか拒絶を予期してかまえたが、センドリスのまなざしはおだやかで、悲しげですらあった。
「リッシュと言ったな、あの男」
「何か?」
よもやリッシュに何かあったのかと、全身がつめたく緊張したイーツェンへ、センドリスは静かに言った。
「昨夜のうちに証人を要求して、棄教した」
「‥‥‥」
体中からすべての息が叩き出されたようだった。何も言えずに立ちすくむイーツェンに、センドリスは背を見せる。何か遠い音が満たすイーツェンの耳に、男の声はさらに遠くから漂ってくるようだった。
「約束通り、フェインとジノンの庇護の元に入る。体が弱っているのでもう運び出した。生きのびられるかどうかは、まだ運次第だ」
「彼は、何か──」
何か言っていなかっただろうか。イーツェンに向けて、あるいはシゼに。
言葉の途切れたイーツェンへ、センドリスは向こうを見たまま首を振った。
「いや。何も。‥‥何も言ってなかった」
それきり、何かを断ち切るように足早に去っていく後ろ姿を焦点のあわない視界にぼんやり映しながら、イーツェンは木の幹にもたれかかった。体重をかけると、ざらつく木肌が敏感な背中に痛みをつたえてくる。
痛みに集中しながら数度深く息を吸い、イーツェンはいつのまにか汗ばんでいる手を拳に丸めて、手の甲で額をこすった。
(人の魂を売り渡すな)
あの叫びに満ちあふれていた命がけの拒否と憎しみ。それは今もまだ、イーツェンの耳に木霊となって鳴りひびく。
リッシュは、何故──
足に力が入らず、体がひどく重い。その場にしゃがみこんだイーツェンは手で額を覆い、目をとじた。
センドリスの話が本当ならば、リッシュの命は救われたのだろう。だがどうしてか、昨夜はあれほど必死にリッシュを説き伏せようとしていたのに、今のイーツェンに人ひとりの命を救ったという思いはなく、ただひえびえと、底のないものをのぞきこんでしまったような寒さが全身を這うばかりだった。
(人の魂を、売り渡すな──)
自分が何をしたのか、イーツェンにはわからない。一生その答えを得ることはないのかもしれない。だがあの声は、叫びの中にある絶望は、彼につきまとって消えないだろう。長い、長い間。