荘園からディーエンへ向かった旅路は足かけ6日、実質丸5日を要したが、荘園へはおそらく3日で戻れるだろうとユジーは言った。そんなものかと、イーツェンは驚く。
 たしかに行きの馬車旅は徒歩よりものろいほどだったし、通れる道も限られた。馬をくびきにくくったり離したり、疲れた馬の位置を変えたり、荷積みが崩れてきたと見れば一隊をとめて積み直したり、野営の場所を早めに定めては荷をおろして荷馬車の点検をしたりと、仕事が山積みで、センドリスが忙しく働いていたのをよく覚えている。
 にぎわうディーエンの街を、イーツェンと2人は朝のうちに脱け出した。今日は王による寄進の儀や、それにともなう聖堂の儀式と人々への祝福があり、賜わり物も大量に出る。そんな日の朝に旅立つ彼らを街の門番はうろんなものを見るような目で見たが、ユジーが何かの書面を見せると納得した様子で彼らを通した。
 いざ帰ろうと、いさんで街道へ出たイーツェンではあったが、馬上で揺られているのは想像以上にきつい。馬の体力を持たせなければならないので、人の早足程度の並足で進めていくのだが、慣れてくるとひたすら眠くなるのには参った。馬の振動が、どうも眠気を誘うのに丁度いいらしい。
 何しろ昨夜はまともに眠っていないし、その前から眠りが足りていない。目蓋がとんでもなく重くなって、何度もまばたきしたりしまいには唇を噛んでみたりしたのだが、役に立たない。悪くしたことに、連れの2人は馬上でうとうとするイーツェンに「起きろ」と言ってくれないのである。いや、悪いのが自分だということは、イーツェンもわかっているのだが。
 馬から転げ落ちたら大怪我になる、という思いと、背中に居座ったままの痛みにすがりついて、イーツェンはどうにか馬上に尻を落ちつけていた。
 夕暮れの気配もまだのうちに「今日はここでとまりましょう」とユジーが言った時には、ほっとしてそのまま馬からすべり落ちそうだった。本当は距離を稼ぎたいのだが、それは明日からにしようと決心する。今日はよく食べて、よく眠った方がいい。
 丘陵のせり出した斜面の下に藪に囲まれた場所を見つけ出したユジーが、かたわらの灌木に馬をつなぎながら、ヒュイッと口笛を吹いた。途端、馬を降りかけていたイーツェンの足元を疾風のようなものが駆け抜けていって、イーツェンは硬直した。
 ユジーとアルセタの足元にぴたりと前足をそろえて座ったのは、狼のように大きな犬だった。体つきや顔は狼には似ても似つかない。全身は艶のある短毛で覆われ、見事な筋肉で盛り上がった幅広の肩から腰にかけては大きくくびれ、すらりとした後ろ足は少し極端なほど長い。こういう犬を見たことのないイーツェンからすると、脚だけなら犬というより鹿のようだ。鼻面が細くとがった顔は目の位置が少し後ろに寄り、額は狭い。あまり愛嬌のある顔ではないが、ユジーの目の前で長い耳をピンと立て、全身と同じ濃い灰色のぶち模様に覆われた尾を、地面を叩くように振っている姿は可愛らしかった。
 出立の時、ユジーが空き地のはじからこの大きな犬をつれてきた時に、イーツェンは仰天した。街から離れると首の引き綱をほどいてしまったのにも、仰天した。リグで「山に入ると犬に食われる」と脅しつけられて育ったイーツェンは、心底、山犬が嫌いである。というより恐しい。
 馬の前後をうろうろする犬を最初はびくびくと見ていたが、ユジーのかけ声や口笛に一瞬の停滞もなく従う姿を見ると、自然と感嘆せざるを得ない。でかい図体でおそろしく俊敏な動きをするくせにこの犬は、ユジーに呼ばれた時は、まるでお菓子を期待する小さな子供のようなのだ。イーツェンやイーツェンの馬を無闇に襲ったりはしないということは、すぐにわかった。
 それでも黄色い目で見られると、腹の底で何かが落ちつかなくなる。それを隠そうとイーツェンはなるべく犬の方を見ないようにしていたが、アルセタが気付いてにやにやしているのが忌々しかった。
 ユジーは鞍の後ろに吊るしてある小弓を取り、犬に話しかけた。彼があたかも人間を相手にするように細かく犬に話しかけているのも、イーツェンの理解の外だ。
「狩りに行くぞ」
 そしてまさに返事をするように鳴いた犬の様子を、イーツェンはどう取っていいのかわからない。まるで彼らは会話しているかのようだった。
 それからユジーの言葉の内容に気付いて、好奇心が頭をもたげた。
「狩り?」
「川が近い、風下側の斜面には」
 にこやかに、だがイーツェンに長く答える意志がないことをあからさまにして足早に行きすぎながら、ユジーは言った。
「アナグマが巣を作っていまして」
 川というのが何をさすのかと思ったが、少し前に彼らが馬に水を飲ませたわずかな流れのことを言っているらしい。
 あっというまに風を巻くように消えた1人と1匹を見送って、イーツェンは奇妙な羨望がせり上がってくるのを感じた。人と犬とは言え──そして今いちイーツェンには呑みこめないものがあると言え──彼らの意志が通じあっていて、互いに互いを信頼しているのは明らかだった。
「休んでな」
 鞍から毛布を取りながら、アルセタがイーツェンに言う。子供にまで疲労を気づかわれている自分が情けなくなって、イーツェンは曖昧に微笑した。
「手伝うよ」
「ん」
 肯定したような短い言葉の反面、アルセタの表情は嫌そうだった。嫌われたかな、とイーツェンは思う。顔をあわせたばかりの時の警戒感こそ薄れていたが、アルセタの態度はつっけんどんで、今日のところはイーツェンの方にも、歩みよりをこころみる余裕はなかった。
 どうせ荘園につくまでの連れだし、仲良くなる必要もないのだが、子供に嫌われるのは何だか悲しい。イーツェンは鞍をおろし、見よう見まねで覚えた手つきで馬の蹄の裏を見て、ブラシの毛先でこびりついた泥を払った。アルセタが毛布を風よけに吊るして小さな寝床を作っている間、彼らの馬の足の裏も見ながら、話しかけてみる。普通奴隷から口をきいてはいけないのだが、どうせユジーもアルセタも、イーツェンが普通の奴隷でないこと、あるいは奴隷でないことはわかっている。
「あの犬はユジーが訓練したの?」
「ウィスカドス? あれは売り物じゃないよ」
 馬の後ろを忠実についてくるあの犬の名がやっとわかったが、3人と1匹の中で犬が1番立派な名前を持っている事実は、イーツェンの笑みを誘った。
「2人で犬を訓練しているんだ?」
 聞き方を変えると、アルセタは集めた石を丸く囲っていた手をとめ、イーツェンへ相変わらず警戒のまなざしを投げた。
「ユジーが‥‥俺たちが訓練するのは、大抵馬だよ。このへんにはいい戦馬になる種がいないけど」
「遠くから来たのか」
「あんたには関係ない」
 素っ気なく言って、少しの間沈黙が落ちたが、やがて、アルセタがとりつくろうようにぼそぼそと続けた。
「チェンリーカのあたりにある、ハヴォックって小さなところだよ」
「ああ」
 いかにも知っているように相づちを打ったせいか、少年の頭が疑うようにするどくイーツェンを向いた。だが事実、イーツェンは知っていた。チェンリーカとユクィルスとの長い国境沿いに接する小国のひとつが、かつてのサリアドナ、つまりレンギの故郷だ。イーツェンは城の蔵書室でサリアドナのあたりの記述を探すように読みふけった。サリアドナとじかに接してはないものの、近い国としてハヴォックの名前は覚えている。
「王のいない国だよね。騎馬の民の国。とてもきれいな湖のあるところだとか」
 明るい笑みがぱっとひろがって、アルセタはうなずいた。
「海みたいにでかい湖だよ!」
「海を見たことがあるかい?」
「‥‥ないけど」
「私もだ」
 苦笑して、イーツェンは藪の下に落ちている乾いた枝を集めた。この先の旅が予定通りいけば、彼とシゼは海へと行きつくことになるはずだが、今はまだそれがどういうものなのか、何の実感もなかった。
 短い会話でアルセタの態度からこわばりが取れ、彼はイーツェンの手から枝を受け取りながらしげしげと彼を見た。
「あんたはどこの人?」
 肌の色が深いし、顔立ちもちがうからこのあたりの生まれには見えないのだろう。イーツェンは一瞬考えてから、薄くかげりはじめた地平を向いた。ゆるくうねる斜面に藪が生い茂って視界をさえぎっているが、その向こう側にひろがった平野はやがて木々に呑まれ、さらに目を遠くやれば、空と地の境にうっすらと山並みの影を見る気がした。事実、空が澄んでいる時なら山の影が見えることもある。その方向を指でさした。
「私は、あの山の向こうの生まれ育ちだよ」
「遠いねえ」
 イーツェンにならって地平を眺めた少年の正直な呟きは、イーツェンの口元に笑みをうかばせた。正確には、ここから見ることのできるつらなりはリグの山ですらなく、その手前の嶺だ。たしかに遠い。
 だがイーツェンは、国を発ってからこのかた、今ほど故郷に近づいていると感じたことはなかった。たとえどれほどの距離にへだてられていても、彼は今、故郷に向かって歩いているのだった。


 食事と明日の準備をすませ、馬も休ませて、イーツェンは夜番をしようと申し出たが、ユジーにやんわり却下された。
「ウィスカドスにまかせて俺も寝るし」
 暗闇の中で寝そべっている犬を顎で示され、じつに便利だなあ、とイーツェンは感心した。夕食は犬とユジーが獲ってきた小さなキジだったのだ。
 イーツェンの知っている犬たちと違って、ウィスカドスはまったくと言っていいほど吠えなかった。あちこちの匂いを嗅いでうろつき回ることもなく、ただ用心深く宙に長い鼻を持ち上げ、時おり風の匂いを吟味するような顔をした。それが終わると、まるで納得したように尾を一振りか二振りする。ほとんど人間じみた仕種は、見ていて飽きなかった。
 はじめて見た時はその獰猛なほどの大きさに驚いたが、1日行動を共にして、この犬が理由なく人や動物を傷つけないことは納得している。何だか犬がついてきているというより、無口で従順な連れが1人ふえたようでもあった。
 安心して犬に見張りをまかせることにして、イーツェンは時間をかけて体をのばし、筋肉をほぐしてから毛布に入った。たたんで枕がわりにしたマントの下には、ジノンがよこした紙ばさみをしまいこんである。誰を疑うということではなく、イーツェンはこれを手元から離す気はなかった。たとえ何かあっても、これだけはひっつかんで逃げ出す心づもりでいる。
 静かな夜だった。言葉と裏腹にまだ起きて座っているユジーの足元に犬が丸くなり、逆側の足元には、まるでもう1匹の獣のようにアルセタが毛布を身に巻いて丸くなっている。2人がたまに交わす低い言葉の中身までは聞きとれなかったが、人の声は葉ずれとともにおだやかなざわめきとなって、イーツェンの心を落ちつかせた。
 シゼは今ごろ何をしているのだろう。目をとじて、イーツェンは彼のことを思う。きっと、どうなったか心配していることだろう。できることなら、自分が今まさに帰路についていることを知らせたかった。
 ──もうじき、戻る。
 その一言をつたえられればいいと、夢のようなことをぼんやりと考えながら、イーツェンは眠りへと落ちていった。


 2日目は雨が降った。昼くらいに空がかげってきたかと思うと、地平はまだ明るいのに頭上が暗くなって、ばらばらと大粒の雨が落ちてきた。
「通り雨だ」
 振り向いたユジーは雨の中で大声で言うと、馬の腹に踵を入れて早足になった。アルセタもたちまち前のめりになって馬を走らせはじめ、イーツェンも膝をしめてあわてて前を追う。
「あの木の下で──」
 雨をやりすごす場所を探そうというのだろう。道から外れた右手、牧草地の向こうにある大木をさしたところで、ユジーの怒鳴り声がとまった。途端に馬の足元を灰色の塊がとぶように走り抜けて、イーツェンははっと息を呑む。ウィスカドスだ。
 馬が小さくいなないたが、足取りはゆるまなかった。初めのうちこそ犬を恐れていたが、もう慣れている。濡れた手に手綱を握り直して、イーツェンはユジーが見ている雨粒の向こうを見ようとした。
 彼らの行く手は土積みの低い土手を左手に見ながらゆるやかに曲がっていて、土手にさえぎられたその先は見えなかった。だが土手の影に入りこむ寸前のところに、馬車がとまっていた。
 土の道で車輪がどこかの穴にはまったのかと思った時、イーツェンは馬車の中から乗り手を引きずり出そうとしている人影を見た。顔を叩く雨粒の中で目をこらすと、馬車に数人の男たちが群がって、手に手に剣や短い手槍を振りかざしているのが見える。
 目の前で馬車が襲われている。その事実がイーツェンの頭の中でカチリと組み合わさった時、ユジーが首をイーツェンたちへねじ曲げて怒鳴った。
「そこでとまってろ!」
 アルセタがたちまち手綱を引き、一瞬反応が遅れたイーツェンの馬は少年の馬につっこみそうになった。前の馬に近づきすぎていたのだ。イーツェンの馬は前足をはね上げ、イーツェンは馬のたてがみをつかんで振り落とされないよう、力をこめた膝で馬体を力いっぱいはさんだ。
 あっというまのことだった。鞍から体が左へずり落ち、左足があぶみに引っかかって体がつんのめり、上体だけが落ちていく。目のすぐ下で馬の4本の足が濡れた大地をどしどしと踏みしだいているのが見えて、ぞっと背すじが冷えた。
 右手首に巻いていた手綱がぴんと張り、腕にくいこむ。イーツェンは痛みに声を上げ、左手でたてがみをつかんで体を鞍上に戻そうとした。大きく全身が振られる。左肩が──強く力が入った時にはいつもそうなるように──するどく痛んで、イーツェンはまた短い苦痛の声を上げた。
 ここで背中から転がり落ちたら地面に叩きつけられて怪我をするし、興奮した馬の足に踏まれかねない。歯を食いしばり、右手で手綱をつかみ直してあぶみを踏みしめ、イーツェンはもがくように馬上によじのぼった。
「リオン!」
 イーツェンの偽名を呼んで、アルセタが馬首を返す。体が華奢なくせに馬あしらいがうまく、手綱を引くだけでなく馬と一体になったかのように見事な体さばきで馬を操ってのける。手をのばすとイーツェンの馬の鼻面を押さえて落ちつかせ、彼は馬から素早くすべりおりた。ほっと息をついたイーツェンへ、アルセタは自分の馬の手綱を押しつけようとする。
「アルセタ?」
「ユジーを助けないと」
 きっとまなじりを上げ、鞍袋に下げてある手斧を取ろうとする。イーツェンもあわてて馬から降りてアルセタに駆けよった。
 その時、人のものとは思えない悲鳴が上がって、アルセタははっと馬車の方へ顔を向けた。イーツェンはその隙をとらえて少年の腕をつかみ、反射的な抵抗を抑えるために、彼の体をかかえこんだ。2人の体が密着し、アルセタが暴れる。
「離せよ!」
「行っちゃ駄目だ」
「ユジーが──」
「ユジーは自分が何をしているのか知っている。こういう時は、そういう人の指示に従わないとならないんだ。いつどんな場合に指示に従うか──君らも動物に教えてるだろ?」
「俺は動物じゃねえよ!」
 また悲鳴が上がって、イーツェンは雨の向こうで犬が男の喉笛めがけてとびかかっているのを見た。馬車の周囲では5、6人──いやもっといるだろうか、人と人が揉み合っている。どちらが優勢なのか、そもそもどちらがどちらであるのかイーツェンにはまるでわからなかったが、犬がとびこんだことで明らかに全員が慌てふためいているように見えた。それはそうだろう。あれが乱入してきたらイーツェンだって一目散に逃げる。
 アルセタがイーツェンの腕の中で体の力を抜き、両手で彼を押しやった。落ちつきを取り戻したと見てイーツェンは少年から離れると、自分の馬へ歩みよる。落ちつかずに前足で地面をかいている馬の手綱を取り、首をぽんぽんと叩いてやったが、馬は雨の向こうからひびいてくる怒号や剣の音に耳をピンと立て、唇のはじをめくり上げて白い歯をむき出しにした。
 イーツェンは溜息をつき、鞍袋にさしこんであるカシの枝を抜き取った。今朝、起きてすぐに小川まで歩いた時に見つけたもので、イーツェンの肘くらいまでの長さがある。少々短くはあるが、ずしりと緻密な木で、剣のかわりに寝る前に振ってみようと拾っておいたものだった。
「何すんの」
 アルセタの声がとがる。イーツェンは平坦に答えた。
「こっちに来ないとは限らないだろ」
 誰か、もし武器を持つ者がイーツェンたちへ向かって逃げてきたら、この少年を守るのはイーツェンの役目だ。実際に義務はないが、イーツェンはそんな風に感じていた。
「あんた──強いの?」
 馬鹿にしたような声が上ずっていることに、イーツェンは気付いていた。それが興奮よりも恐怖によるものだということも。不安なのだ。当然だろう。
「剣は使える」
 これなら嘘ではないだろう、という返事をして、イーツェンは左手に手綱を持ち、右手に枝を下げて馬車の方を見やった。腕はどうかと問われると、少々困る。
 だがシゼがイーツェンへ教えたことのひとつに、大抵の人間は戦いに慣れていない、という事実があった。戦場に駆り出される兵士たちですら多くがそうなのだと、シゼは言った。剣を振ることができても、それをまっすぐ相手に向け、急所を容赦なく狙える人間は少ないと。
 ──そしてシゼは、イーツェンにいくつも人の急所を教えた。殺すためだけでなく、動きをとめるためにも、どこをどう狙うのが効果的か。どれほどの力をこめるべきか。彼はイーツェンがそこを正確に狙えるようになるまで何度もその動きをくり返させた。
(肝心なのは、ためらわないことだ)
 シゼの言葉を、イーツェンははっきりと意識に刻む。いざという時に決してためらうなと、シゼは言った。ほとんどの場合、それがすべてを分けるのだと。
 目に入ってくる雨を払って、イーツェンは濡れた手で棒を握り直し、数回振った。左肩がまだ痛みと熱さをはらんでいるが、何とかなる。
「剣使えるの?」
 アルセタの声は心底うらやましげだった。イーツェンは返事に困る。イーツェンの基準はシゼなので、自分の技能など底辺という気しかしない。
 だがその、期待と羨望に満ちた声は、イーツェンがかつてシゼに剣の手ほどきを受けた時のことを思いおこさせた。彼は視野に馬車を入れたまま、ちらっとアルセタへ視線を送る。
「後で振ってみる?」
「やる!」
 明るい返事にうなずいて、イーツェンは馬車をまっすぐ見据え直した。風が巻き、イーツェンの頬を斜めの雨が叩く。馬車のそばにいくつかの体が伏し、男たちがまろぶように道から逃げ出して、荒れた生け垣の中へ必死にもぐりこんでいくのが見えたが、イーツェンは体の緊張をとかずにじっとそのまま、すべてが収束していくのを待っていた。


 口から首、胸元まで血を浴びたまま、ウィスカドスは意気揚々と戻ってきて、ちぎれるほど尾を振った。
 雨の中、アルセタとイーツェンは2人がかりでウィスカドスの血を洗い、ユジーは左腕を剣がかすめた傷を洗って膏薬をすりこんだ。
 彼らは馬を歩かせ続けた。野盗がひそむ場所の近くで雨宿りをする気にはなれなかったし、馬車の客から「後ろを見張ってくれ」とたのまれて、ベーコンの塊をもらってもいる。助けてもらったにしては安いあしらいだとイーツェンは思ったが、ユジーはにこにこ笑って機嫌がよさそうだった。
 2刻ほどで雨はやみ、馬車と彼らは道を分かった。小休止をはさんで夕方まで道を押して、彼らは野営のために乾いた場所を探した。ユジーは農夫と交渉して、刈り入れの終わった小麦畑の奥にある、小麦を積んでおくための納屋を借りた。今年はもう税吏が来たので、納屋のひとつが空になっているのだと言う。
 3頭の馬に刈り株を食わせてもいいというので、馬が遠くに行けないよう前足にゆるい綱をかけてから畑に放した。
「あのさ」
 中で火を使う許可はもらえなかったので、小屋の外に急ごしらえの炉を作って、苦労して乾いた木を集める。どうにかおこした火でイーツェンがベーコンを焙っていると、背後からきまり悪そうな声がした。
「何?」
 イーツェンはアルセタを振り向いてから、かがんだ膝の上にある油紙の塊に意識を戻した。指でふれてみても油紙の内側は濡れていないようで、ほっとする。荷袋は水が沁みないよう油を刷りこんだ革でできているのだが、風向きが悪かったせいか縫い目から少し雨が入って、イーツェンはジノンがくれた書類の無事をたしかめたかった。濡れて駄目になるというものではないが、気になるものは気になる。
「あのさ」
 アルセタはイーツェンの横にしゃがみこんで、火の上に渡したベーコンの串を回し、もう1度くり返した。
 イーツェンは紙ばさみの中まで確認するのをあきらめ、きっちり油紙で包み直すと、立ち上がって土間にある荷の中にしまいこんだ。戻ってきて火の横に置いてあるカシの棒を拾い上げ、居心地が悪そうに待っているアルセタへさし出す。
「かまえてみて」
 アルセタはぱっと顔をかがやかせて、棒をつかんだ。2人が火から離れて向かい合うと、えいっとばかりに頭上に棒を振り上げて大仰に「かまえて」みせたアルセタに、イーツェンは吹き出すのをこらえて真面目な顔をつくった。アルセタがふざけているわけではないのはよくわかっている。
「剣は目の高さで」
「だけどみんな俺よりでかいし、届かないじゃん」
 みんなと言われても、彼が誰を想定しているのかわからない。だがまあ、どうして頭上にかまえようとするのかは納得いった。体が小さいことを気にしているのだ。アルセタは幼い顔にしては妙に背がひょろ高いが、それでもイーツェンより頭ひとつ低い。その不利を、高いかまえでどうにかしようという心意気らしい。
 小さなのがひょろひょろと剣を振り上げたところで、胴も胸も丸あきになるだけだ。だがその無謀は、妙にイーツェンの気に入った。イーツェンだってまるでわかっていなければ、似たようなことをしそうである。
 イーツェンはベーコンを刺した枝を回してから、立ち上がってアルセタと向き合った。存在しない剣を両手で握ってみせて、頭上でかまえる。
「こうと」
 それから胸の前で、シゼに教わったようにかまえた。
「こうと、どちらが的が小さい?」
「あー‥‥」
 すぐに問いの意図と、答えを悟ったらしい。さっと顔が赤らんで、ぼそぼそっと言った。
「相手の喉を狙った方が早いんじゃないの?」
「剣で喉を狙うのはとても難しいよ。喉は顎を引いてしまえば守れる」
 実際の動きで実践してみせて、イーツェンはアルセタが何かをじっと考えているのを見ていた。気まずそうに棒を握り直す手は、爪が汚れているが指が細く、どこか不釣り合いなほどに長い。
 ベーコンの油が火に落ちて、盛大な炎と煙がたちのぼった。イーツェンはあわててベーコンを刺した枝を取り上げると、火を囲んだ石にたてかけた。
 立ち上がって、アルセタがどこか所在なさげにしているのを見る。子供っぽい顔立ちは13、4歳ほどに見えかねないが、下手をすると17歳くらいかもしれないとイーツェンは踏んでいた。童顔で、痩せてもいるが、もともと骨が華奢なのだ。
「人を簡単に殺せると思ってる?」
 問うと、アルセタは薄い下唇を噛んだ。正体のわからない緊張が彼の細い体中にみなぎっていて、イーツェンは声がするどくならないよう、ゆっくりと言った。
「それに、殺すことが必要な場合は、とても少ない。剣を使うのは、自分の身や大事なものを守るためだ」
「殺さなきゃ守れない時は?」
 アルセタの反問は真剣だった。イーツェンは首を振る。
「本当にそうかどうかは、誰にもわからない。殺すことを選んだとして、それが正しかったかどうかは最後まで誰にもわからない。かまえてみて」
 イーツェンがかまえを見せると、それを真似てアルセタもかまえた。イーツェンは右足を引いて、半身になる。
「こうすると、相手から見て的が小さくなる。君は小さいから、それを利用した方がいい」
「ここから振るわけ?」
 と、アルセタはまた剣を振り上げようとする。イーツェンはそれにも首を振った。
「振り上げてから下ろしていたら、1つ分動作が余分になるだろ。そのまま、前に踏み出して、突くんだ」
「どこを?」
「人の急所の多くは体の中心にある」
 シゼから教わったことをそのまま言いながら、イーツェンは眉間からみぞおち、股間まで、自分の体の中心線をざっと手で示す。それからみぞおちに手を置いた。
「1番的が大きいのはここだから、腹を狙う。まともに突けば、誰でも何秒か動けない」
「腹を突けばいいわけ」
 拍子抜けしたような声だった。聞けば簡単に聞こえるのだろう。イーツェンもシゼに教わった時に「なあんだ」と言ったのを思い出して、小さく微笑すると、長い燃えさしを1本取って火を振り消した。黒く焦げた木の先端で、小屋の壁に、線を交差させた的を描く。大体、大人の腹の高さ。
「そこに立って、突いてみて」
「うん」
 勢いこんで言うと大股で2歩離れて立ち、アルセタは「やあっ」と踏みこんで腕をのばした。意外に動きはさまになっている。
 カツン、と枝の先が壁を打った。だがそれは、手のひら1つ分以上的を外していた。驚きに口をあけたままのアルセタが、的と自分の手を見比べる。まじまじと見てから、イーツェンを見上げた。
「この棒、曲がってる」
 吹き出しそうになって、イーツェンはこらえた。シゼにこれをやらされた時、イーツェンが思ったのも同じことだった。口には出さなかったが、こんな子供と発想が同じというのがちょっと愉快で、ちょっと情けない。
 少年の手から棒を取り上げるとイーツェンは壁から離れ、素早く両手で突きこんだ。壁にわずかにふれた先端がぴたりと的のしるしを抑えているのを確認し、内心ほっとしながらアルセタに棒を渡す。
「実際の相手は動くから、もっとずっと難しいよ。練習して、的を必ず突けるようになれば、それだけで今よりずっと強くなれる」
「ほんと!」
 無邪気に顔をかがやかせたアルセタにうなずいた時、イーツェンは目のすみで人影をとらえた。小屋の影からユジーが彼らの様子をじっと見ている。
 声をかけようとして、男の表情を見たイーツェンは息を呑んだ。ユジーは周辺の探索と見回りに出ていたのだが、「戻った」の一言も言わず、棒を突く練習をするアルセタに見入る表情は、ひどく重苦しかった。
 その目がイーツェンへとうつる。あやまちを見とがめられたような、苦い後ろめたさが喉元にこみあげたが、イーツェンは目をそらさずに小さく頭を下げた。
 ユジーが目をしばたたいて、それからとりつくろった笑みをうかべ、歩み出した。足元には相変わらずウィスカドスがぴたりとついている。
「飯にしましょうか」
 そう言ったおだやかなしゃがれ声は、もういつものユジーのものだった。イーツェンはうなずくと、一瞬の緊張に気付いていない様子のアルセタの手から棒を取り上げ、パンとベーコンがあたたまっている火のそばへと戻っていった。