センドリスは、天幕の中の毛皮で区切られた通路をゆっくりと歩いていく。天幕の外に行くわけではないようだった。
 太い支柱と複雑な梁に支えられた天幕は、イーツェンの感覚を歪めるほどに巨大なものだったが、それでもセンドリスが天幕の中心部に向かっているのではないかという予感はあって、それは、イーツェンの目の前にあらわれた垂れ幕を見た時に、確信へとかわった。絹の幕には、センドリスが手にする油燭の薄明かりでもわかるほど見事な手で、美しい紋章が織り出されていた。
 ヘラジカの角に獣の爪を組み合わせた、ユクィルス王直系に授けられる紋章。紋章の右上に意匠されている星が、炎を受けて金にきらめいた。
 ──フェインの紋章。
 天幕の中心には、当然のように王の居場所がある。
 悟ったイーツェンが立ちすくむ前で、センドリスは水のようになめらかな幕をからげ、中へ声をかけた。
「準備はできてるか」
「すべて仰せのように」
 中から返ってきたのはセンドリスの「息子」、ロシェの落ちついた声だった。うなずいて、センドリスはイーツェンについてくるよう合図をすると部屋へ入る。イーツェンは広い背中に従って続きながら、用心深い目で部屋の様子を探った。
 思ったほどの広さはない。ジノンの居室と同じほどで、四方は白と黒の毛皮を美しくはぎ合わせた幕で覆われていた。部屋を囲むように配された脚付き燭台のため、部屋全体はほの明るい。
 奥にある、背もたれの高い椅子がイーツェンの目を引いた。普通に使うような椅子ではない。座面があまりに高く、座した者が前に立つ者をすべて見おろせる──これは、玉座だ。
 そしてその玉座の横には、まだ幼い顔をした、少年がやわらかな長衣に身を包んで立っていた。青く縁取られた袖を上げて、イーツェンへ手を振る。
「イーツェン」
 あまり大きくならないよう抑えたその声は、それでも子供らしい素直なきらめきに満ちていた。彼は8つか、9つか──城を離れて半年たってしまったイーツェンには正確な年の刻みがわからない。だが彼の記憶にあるやわらかな頬と子供らしい唇をした少年は、今や年不相応に大人びた雰囲気を身につけて、物おじしない目でイーツェンを見つめていた。
「フェイン」
 反射的に微笑を返してから、イーツェンは頭を垂れて言い直した。
「陛下」
 本来なら膝を折って低頭するべきだろうが、それがこの場で求められているとも思えない。果たして、センドリスがもっと前に出るようイーツェンの腕をつかんで歩き出した。
 ロシェは何やら大きな布のようなものをかかえ、重そうにしながらフェインの横に立っている。ジノンがイーツェンを追いこして、フェインと玉座をはさんで逆側に立った。定められた位置どりがあるかのような動きだった。かつてユクィルスの玉座の前で裁きを受けた時の記憶がよみがえって、イーツェンは腹の内側が重くこわばるのを感じながら、非礼にならないよう気をつけて部屋を見回した。
 室内にはもう1人、イーツェンの見知らぬ男がいた。足元まで届く長衣や刺繍のふちどりのある肩布、胸元に垂れた符のようなペンダント──聖堂の神官のように見える。耳から垂れた飾りは明らかに翼をかたどったもので、それは、主神ホリージュの力を得ることを許された高位の祈り手のしるしだ。
 しかし、何故この場に神官がいるのだろう。イーツェンが眉をひそめて、何がおこっているのか手がかりを探そうとした時、どんと軽い体がイーツェンにぶつかってきた。
「イーツェン!」
「──フェイン」
 苦笑して、イーツェンは抱きついてきたフェインの背中を抱き返す。フェインはイーツェンの首にはまっている奴隷の輪のことなどどうでもいいようで、イーツェンの胸元に顔をうずめて、子供の細い腕でイーツェンを抱きしめた。
 城にいた時、何故かこの少年はイーツェンによくなついた。彼はいつでもイーツェンを見ると顔中をほころばせたし、イーツェンの話を聞きたがった。リグのこと、旅のこと、自分の知らない世界のこと。ころころと表情を変えながらイーツェンの話に聞き入る彼は、まるでイーツェンが持ったことのない弟のようでもあった。
 抱きついた体のぬくもりがつたわってくる。子供の体のあたたかさに、イーツェンは体の奥に凝っていた緊張がゆるむのを感じた。目をとじ、両腕でフェインをかかえて、ただそのぬくもりが体に入りこんでくるのに身をゆだねる。
 それからフェインの髪をなで、身を離し、膝を曲げてフェインと目の高さを合わせた。フェインの瞳がうっすらと濡れているのを見て胸をつかれ、口に出そうとしていた挨拶の言葉は喉元でとまった。
「元気だった? 背中大丈夫?」
 先にそう聞いたのはフェインだった。イーツェンは笑ってうなずき、フェインのやわらかな癖毛をなでる。ジノンによって王として擁立されてから、フェインの日々はまるで嵐のようだっただろうが、少年は相変わらずその澄んだ明るさを失ってはいなかった。
 フェインの青い目がまたたき、彼は大きな笑顔になった。その目がイーツェンを探るようにあちこち動いて、一体彼が何を見ているのかとイーツェンが不思議になった時、不意に小首をかしげてたずねる。
「ピアス返してもらったんだ?」
「ピアス?」
 おうむ返しにしてから、イーツェンはチラッと目を上げて、ジノンがイーツェンを見ているのを見た。口をつきかかった問いを呑みこんで、イーツェンはフェインにうなずく。
「ええ」
「よかった」
 フェインはまるで長年の気がかりがなくなったかのような満面の笑みだった。イーツェンはもう1度ジノンを見てから、体をまっすぐに起こす。ジノンは口元のはじを少し曲げたようだったが、玉座の周囲に立つ油燭のゆらめきからは彼の表情は読めなかった。
 いや、おそらく澄んだ陽の光の下で見たとしても、イーツェンにそこに隠されたものは読めないだろう。自分があと10年たってジノンと同年代になったとして、彼のようになれるとはまるで思えなかった。
 それにしても、何故自分がここにつれてこられたのかがわからない。イーツェンはジノンとセンドリス、それに正体のわからない神官の動きを注意深く視界の中に入れた。書類にはフェインの署名が必要だが、ジノンならそのくらいフェインに言い含めて簡単に名を書かせられるだろう。わざわざこうしてイーツェンとの再会を仕立てた理由がわからず、落ちつかなかった。
「陛下」
 ロシェが呼びかけると、フェインはやわらかい表情のままうなずいて、ロシェの腕にかかえられていた布を取った。全面にびっしりと縫いとりを施された古びたマントだと、近くで見たイーツェンは気付く。薄ぼけた青地に金と赤の糸を使って、何かイーツェンのわからない紋様が縫いとられていた。神秘的な紋様は、神々に関係しているもののように見える。
 センドリスがイーツェンへ手振りを送りながら、丁寧な口調で言った。
「膝をついていただけますか、殿下」
 何がおこっているのか。まるでわからないまま、イーツェンは一瞬ためらったが、フェインをはじめとする誰もが落ちついていて、今ここに何かの危険がひそんでいるようには見えなかった。
 イーツェンはセンドリスの顔を見て、その目の中に真摯な光を見出してから、示された玉座の前にひざまずく。
 玉座の前の敷物に膝をつくと、斜め前にそれぞれセンドリスとジノンが立った。イーツェンの目の前にはフェインが立つ。大人にはさまれると少年はいっそう小さく見えて、イーツェンはどうしてか胸の奥が固くねじれるのを感じた。この先フェインを、どんな運命が待つのだろう。
 一言も発することなく傍らに控えていた神官が歩み出て、脇へ引いたセンドリスと位置をかわった。手に呪符のような金属の飾りを握り、いかにも神官らしい細い指で鎖を神経質にたぐっている。
 40歳ほどだろうか。陽にあまり焼けておらず、なめらかな顔は線が細いものの、人の上に立つ者特有の落ちつきをまとっていた。近くで見ると、美しく装飾された革帯で胴衣を締め、そこにも何かの紋様が打ち出されているのが見てとれる。胸元に縫いとられたしるしがどの位階を表すものなのかイーツェンにはわからないが、とにかく高位の聖職者であろうということは見当がついた。だが何のために、ジノンやセンドリスがここに聖職者を必要としているのかがわからない。
 フェインが背すじを正し、イーツェンは彼に注意を戻す。膝をつき、不躾にならないよう少し目蓋を伏せて少年の顔を見ながら、彼は静かに息をつめて、これからおころうとしている何かに心をそなえた。
 フェインは子供らしい唇にかすかな笑みを残してはいるが、真摯な表情でイーツェンを見おろした。彼の口から出てきたのは、それまでとは打って変わったおごそかな声で、それは静かな気品に満ちていた。
「我が屋根の下に参られたことを心より歓迎し、あなたを祝福する、リグのイーツェン殿下」
 面食らいながらも、イーツェンは目を伏せて挨拶への謝意を示し、膝をついた姿勢をわずかも崩すことなく、フェインが続ける言葉を聞いていた。
「重ねて、恐れながらあなたの許しを求める。殿下、あなたを故郷より遠く離れた城に招き、長きに渡ってとどめ置いたこと、リグの街道が崩れたことに対して、我らの失望と怒りをあなたに負わせ、あなたの罪として裁いたこと、あなたの言葉を奪い城内での身分を奪い、多くのものを失わせたことを、どうか許していただきたい、イーツェン」
 イーツェンはただ呆然とフェインを見上げていた。驚きというより、衝撃にほとんど麻痺した心の内をフェインのなめらかな声が漂い、間をおいて鉤爪のように食い入って、まるで言葉のひとつひとつから熱がひろがっていくようだった。フェインが何を言っているのか、耳から入ってくる言葉をイーツェンの頭がはっきりとらえられずにいるというのに、イーツェンの体にフェインの言葉は染みこんでくる。
 フェインの声はまだ10にもならない子供のものではなく、内側に確信を秘めた、そしてどうやってか確かな権威を持ったものだった。よどみなく、だが真摯につたえられる言葉は、彼が人に言い含められて「言わされている」のではないのだとイーツェンに信じさせる。これはフェインの言葉、フェインが自分の意志とその地位をのせて、自らのものとして放つ言葉なのだ。
 王として扱われ、子供ながらも王としてふるまうことを身につけた少年を、イーツェンははじめて見る思いで見つめる。これが血筋というものか。
 フェインは言葉を切り、大きな青い目でイーツェンの目を見つめ、それから下唇を噛んだ。次にその唇から出てきた言葉は、まるで少年が痛みを感じているかのように低く、どこかくぐもっていた。
「私はあなたの慈悲のもとにある、イーツェン。この場で、私はユクィルスの王として、あなたの許しを乞う」
「‥‥‥」
 口をひらきかけ、それからおそらくまだ言葉を返す時ではないと気付き、イーツェンは頭を垂れた。どちらにせよ、フェインの言葉に何と返していいのかイーツェンの内側にはまださだまった言葉がない。早い鼓動の向こうから荒くこみあげてくるものを、そのままフェインに向けるわけにはいかなかった。
 誰も何も言わず、誰ひとり動かない。一瞬、すべての時間がイーツェンのまわりで固着したかのようだった。
 フェインは数回、イーツェンにも感じとれるほど大きく息をついてから、澄んだ声をまた張るようにして続けた。
「我が心の証として、そしてわずかなりとも償いとして。我、フェイン・シヴェンテラ・ユクィルス・エールタスは、ユクィルスの王として、あなたの名と名誉に我らがつけた泥を拭いたい」
 腕にかかえた重そうなマントをゆすり上げて持ち直す仕種は、子供のものだった。脇に控えたロシェが手伝おうかとフェインをうかがいながらためらっているのが、ほほえましい。もっともイーツェンの意識のほとんどは、フェインと彼の言葉に集中していた。
 フェインはふっと緊張をゆるめて微笑む。彼の声もまたやわらいでいた。
「ユクィルスの王として、主神ホリージュの名のもとに、あなたの名に対する死の公布を取り消し、あなたの名に課せられた罪のすべてを許し、あなたを我らの客人、そして友として迎え入れる、イーツェン」
 イーツェンは口をひらいたが、今度は本当に何の声も出なかった。フェインはイーツェンのまなざしをとらえて、うなずく。
「あなたは自由だ、イーツェン」
 言葉を見つけようといくらかもがいてから、イーツェンはただ無言のまま頭を垂れ、言葉の意味が染み入ってくるのを全身に感じた。自由。フェインは──少なくとも彼の、王としての権限の内で──イーツェンにかぶせられたすべての罪状を赦したのだ。王として、公的な意味をその赦しにこめた。
 イーツェンはもはやユクィルスの人質でも、罪人でも、そしてローギスが彼を落としたような奴隷の身でもない。
 フェインが手にしたマントをひろげ、その裾を少し引きずりながらイーツェンの横へ回った。ロシェが素早く逆側にまわり、2人でイーツェンの背後でがさごそしていたが、すぐにイーツェンの背中からずっしりと重いマントが着せかけられた。絹で裏打ちされ、豪奢な刺繍が施されたマントがイーツェンの肩から床へと垂れ下がる。マントとしての実用をはるかに越えた、あまりの重さにイーツェンは驚いた。そうして膝をついて肩にマントを受けていると、その重さだけで床に縫いとめられそうだ。少年たちが重そうにしていたわけだった。
 フェインは1歩下がり、かわりに神官が歩み出た。いつのまにかその手には丸い銀杯が握られていて、彼は右手の指を中に浸しながらおごそかな口調で何か、イーツェンにはわからない神事の言葉を唱えた。
 下から揺すり上げるような、歌とも朗唱ともつかないものをひとしきりひびかせた後、神官はまっすぐにイーツェンを見おろした。読みとれるような表情はなかったが、くっきりとした眉の下にある青灰色目はやさしく、思いもよらずにあたたかな光がイーツェンを見ていた。
「我が主、我が導き手、ホリージュの御名において汝の解放をここに証しする。天と地の言葉においてそなたは赦された、リグのイーツェン」
 イーツェンの額にふれた指は濡れていた。祝福を受けた水が肌をすべり落ちる。
 彼の言葉が終わらぬうちに、フェインが横へ歩み出て、ほっとしたような子供らしい笑みをイーツェンへ向けた。だがまだいかめしい口調を保とうとしているのが、可愛らしい。
「ユクィルスの王の名において、あなたに恩赦を与える、イーツェン。そして重ねて、我らの為したことの許しを乞う、殿下」
 さし出された少年の右手を、イーツェンはほとんど反射的に取っていた。肩にずしりとかかるマントがずり落ちないよう左手で襟元を押さえながら、フェインに引かれて立ち上がる。
 どこかたよりなく感じられる両足を踏みしめ、イーツェンは握ったままの手に力をこめた。耳に聞こえてきた自分の声は、思いのほかに静かだった。
「あなたの責められるべきいわれはない、陛下。そこに許されるべきものは何もない」
 目を大きくして何かを言いかかるフェインへ、微笑を向けてつづけた。
「だがあなたが必要とするなら、私の許しはあなたのものだ」
 それがフェインにとって、何かを意味するというのなら。
 よりそうように軽く抱きついてきたフェインの髪をなでながら、イーツェンは数歩離れて立つジノンとセンドリスへ、ちらりと斜めの視線をとばした。恩赦のことを彼らに感謝すればいいのか、それともフェインを引きずりこんだ彼らに怒ればいいのか、イーツェンにはよくわからなかった。
 それでも、こうして神官の立ち会いを用意し、自分たちが証人となってまでイーツェンに正式な恩赦を与えたことは、多くを意味した。イーツェンの「処刑」が偽であり、ジノンがイーツェンを保護したことは、ひとたびフェインが恩赦の書面をしたためればたちまち公然の事実となる。そうなれば、ローギスやアンティロサの反発は避けられまい。それでもジノンは、イーツェンにその価値があると踏んだ。
 ──約束は守る。
 イーツェンは自分を見据えるジノンのまなざしをとらえ、そううなずく。ジノンはイーツェンが欲した以上のものをさし出してイーツェンを解き放ってみせた。この恩にこたえて決して自分を裏切るなと。
 そしてユクィルスを去って2度と戻るな、と。