暗い建物の中でどれほどの時間をすごしたのかイーツェンにはわからなかったが、歩み出ると中庭の夜気は少し湿っていて、湿り気の向こうに、ざらついた土の臭いを含んでいた。夜が深く更けているのを、鼻の奥で感じる。イーツェンは深い息をつくと、全身の疲弊を押し出した。
ゆるい夜風からは、清涼な草葉の匂いがした。
そうして夜気を吸いこみ、吐き出している間も、体中に染みついた泥臭い血の匂いが気になった。リッシュのうずくまる闇の匂い。ユクィルスの地下牢を思い起こさせるその匂いが、自分の服や肌に残っているのか、それとも記憶の底からたちのぼっているのか、イーツェンにはわからなかった。
聖堂は死んだように静まりかえっていたが、各所に火籠が据えられ、夜警の兵が立っていた。センドリスはよほど顔を知られているのか、それともフェインの紋章を縫いとった上衣が物を言うのか、フードを目深におろしたイーツェンがどう見ても怪しい姿で後につづいても、彼をとめる者はいなかった。
「‥‥気にするな」
ジノンのいる天幕へつづく木々の間を歩きながら、センドリスが低く言う。踏みしだく枯れ葉の音にも消されそうな、静かな声だった。
「していません」
イーツェンは反射的に強がってから、滑稽だと思って口元を歪めた。気にしてない、なんて何回言ってもセンドリスが納得するわけがない。同時に怒りのような不快な熱さが胸にむかついた。自分でイーツェンをあそこにつれていっておいて、気にするな、はないだろう。
だが、もうすんだことだ。イーツェンは今おきたことを頭の外に追い出そうとした。リッシュは彼の決断を下した。言葉だけで信仰を翻すことができるとはイーツェンは思っていなかったし、痛みはあったが、たしかに予期した結果でもあった。これ以上どうすることもできない。イーツェンは手を尽くしたが、充分ではなかった。それだけのことだ。
信じられないほど体が重かった。引きずりそうになる足を上げ、イーツェンは大股に歩くセンドリスから遅れまいとする。まだ何もかも途中だ。気をそらすわけにはいかない。ここで気持ちをくじけさせてはならなかった。
センドリスは振り向かなかったが、イーツェンがすぐ背後についているのは足音でわかっているのだろう。彼の背から漂ってくる言葉は、静かに、そして真摯に聞こえた。
「もし冬をユクィルスで越すなら、俺の屋根の下に入るといい」
「‥‥‥」
主として客を招く物言いに、イーツェンは一瞬足がもつれかかって、やわらかな落ち葉が何層にもくみ重なったくぼみに片足をつっこんだ。あやうく体勢を立て直す。
屋根を申し出るということは、自分の名でもって相手の保護を申し出るということでもある。誓いほどには固くないが、それなりの重みと誇りのある言葉だ。そんな招待をセンドリスが口にしたということに、イーツェンの心臓はひっくり返りそうだった。
センドリスの申し出はあまりにも唐突で、その裏に何かあるのか、ジノンの意図がひそんでいるのか、それとも好意なのか──頭の中で色々な可能性がとびかって咄嗟に反応できない。とりあえず何か角の立たない言葉を返そうとしたが、あまりにも疲れていて頭がまるで回らなかった。
心底疲れていた。リッシュとの途切れ途切れの会話も、闇の中にいた長い時間も、イーツェンを削ぐように消耗させていた。闇が──夜の闇とは違う、もっと濃密な闇が──彼をどこまでも追いかけ、足首をつかみ、背すじをつたって喉元までも這いのぼってくるような気がする。そしてその闇の奥に今でもまだリッシュがうずくまっていることを思うと、心臓が痛んだ。
すまないシゼ、と胸の内で呟く。お前の友を闇から引きずり出すことができなかった。
(人の魂を売り渡すな──)
一瞬だけ足をとめ、イーツェンは振り向く。木々の間からそびえ立つ聖堂の伽藍の影が、まるで彼らに覆いかぶさってくるように見えていた。夜空を圧するほどの黒々とした影。だがその足元にうずくまる筈の小さな建物は、ありかすらわからない。
それでも木々を抜ける夜風のざわめきの向こうから、告発のような、讒訴のような叫びが、まだイーツェンを追ってきている気がした。
ジノンは天幕に戻っていた。低い床台にあぐらをかき、膝の上にのせた筆板の上で忙しく紙にペンを走らせている。センドリスにうながされたイーツェンは、ジノンと対面するクッションに腰をおろすと、背すじをのばして額から髪を払った。疲労を見せないよう表情を注意深く引きしめる。
ジノンが手元を照らすために燭台を引きよせているので、黄色っぽい光の輪がまともに彼の顔を浮かび上がらせている。鼻梁が高く、頬骨がするどく、薄い口元を結んだ、くっきりと厳しい顔だった。
「友人か?」
イーツェンが姿勢を落ちつかせると、ジノンが顔も上げずにそう聞いた。もう寝付いたものか、ロシェの姿はどこにもない。センドリスが酒を注いでいる音を背後に聞きながら、イーツェンは首を振った。
「いいえ」
リッシュはシゼの友人ではあったが、イーツェンの友であったことは1度もなかった。リッシュ自身のこともまるで知らない。彼がルルーシュの信者であることや、傭兵となってユクィルスの軍や城内へ潜りこんでいたこと、シゼと共にアンセラの遠征に加わっていたことなどは知っている。だがリッシュがどういう人間なのか、たとえば彼が何を食べ何を好んで飲むかとか、彼の生まれた地や家族の話など、ほとんど知らない。
同じように、リッシュもイーツェンのことは知るまい。知りたいと思ったこともないだろう。彼にとってイーツェンは遠い存在であり、ただシゼやアガインを介したところにいる「異国の王子」という、中身のない名前にすぎない。
シゼのことを思うと、空虚な胸の底がひどく痛んだ。シゼはたやすく人を信頼するたちではないが、リッシュのことは信頼していた。そんな友人を失って、彼はどんな反応を見せるだろう。レンギを失った夜、シゼはすべての痛みを内にこらえるようにして声もなく泣いていた。表に剥き出しにならない分、その痛みは濃密で痛々しく、あの夜のことを思い出すと今でもイーツェンの息は喉につまる。
シゼはリッシュを失って、また静かに苦しむのだろうか。
リッシュのことを黙っていればすむのかもしれないが、シゼに対して秘密を──それもこんな重要な秘密を──持つことがいいことかどうか、イーツェンにはわからなかった。シゼはイーツェンが隠しているものをすかし見るのがうまい。隠し通せる自信もないし、ひどく不誠実な気がした。
無意識のうちに、指が左耳のピアスをかすめた。レンギのピアス。シゼは、友人が自分に残した大事な形見をイーツェンに託した。これを持って戻れ、と──
一瞬きつく目をとじてから、イーツェンは手を膝の上に戻した。ジノンの視線を強く感じる。
それ以上あれこれ考えないようにしながら、イーツェンはその視線へまっすぐに顔を向けた。リッシュを救えなくてすまない、と口まで出かかった言葉を呑みこむ。どれほどイーツェンが罪悪感にかられていても、それはジノンに対するものではない。あの闇の中でイーツェンにくいこんできたものは、ジノンには関りがないことだ。後ろめたさを逆手に取られてはならない。
動揺させて、足元を見る。それも狙いではないかとイーツェンは疑っていたが、そこを問うても自分の足元にさらなる穴を掘るだけだということもわかっていたので、ジノンを見つめて、彼は単純に話題を変えた。何事もなかったかのように。
「もしエナに会うことがあったら、私からよろしくとつたえていただけますか」
一番安全そうな話題を選ぶ。
ジノンは書き上げた書類を脇へどけて乾かしていたが、そちらへちらっと目を動かしてから、またイーツェンへ視線を戻した。
「そう言えば、エナとどうやって会った?」
「成り行きで」
ごまかしたわけではないが、他に言い様もない。曖昧な答えをどう思ったか、ジノンの口のはじを笑いじわがかすめた。
センドリスがさし出した杯を、イーツェンは礼を言って受け取った。腹につめたい泥でもつまっているようで何も口に入れたくないが、薄めた林檎酒を一口すすって、苦い口の中を洗う。
センドリスが渡すより早く、ジノンが手をのばしてセンドリスの手から杯を取った。イーツェンと同じように一口だけ飲んで、ジノンは疲れた様子で首を左右に曲げた。少し体をのばしてから、また酒を飲む。
「背中の手当をしてもらったんだったな。上手だったか」
「それは、もう」
微笑して、イーツェンはうなずいた。センドリスは左手に自分の杯を持って、少し距離をあけたところに片膝を立てて座りこむ。彼が、常に右手をあけていることを見てとって、イーツェンはふっとシゼがなつかしくなった。シゼもいつもこうして右手をあけ、何かあった時には即座に剣を握れるようにしていたものだ。センドリスにとってもそれは身についた警戒の習慣なのだろうが、この王族らしからぬ磊落な男がくぐり抜けてきた人生の一面をかいま見た気がした。
ジノンは横に杯を置こうとしたが、敷き皮の上で杯は傾きやすく、少し手間どりながらたずねた。
「あの娘は本気なのか?」
「癒しの場所についてなら、この上ないほど本気だと」
「いや。アガインのことだ」
ジノンの声も表情も厳しくはなかったが、笑みもなく、イーツェンにはそこにあるものが読めなかった。イーツェンは両手の中で杯をもてあそびながら、数度まばたきする。自分が持ち出した話題ではあるが、疲労のせいで話に集中するのが難しい。
「私には何も‥‥ジノン、私は彼女とアガインがどう関わっていたのかすら知らない。私と彼女が出会ったことと、アガインは無関係だ」
「君の直感は?」
「直感?」
「君は──」
ジノンは人差し指の先で自分の胸の中心をかるく叩いてみせた。
「人を読むのが上手い」
そう思ったことのないイーツェンはいささかとまどう。ジノンは彼の答えを本当に聞きたいのか、それとも何かを言わせたいのだろうか。
ジノンはそのままイーツェンの答えを待つように黙り、イーツェンはどうにか言葉を選ぼうとしたが、結局のところ、口から出たのはほとんど本音だった。
「アガインとエナがどうなのかはわかりませんが、でもエナは賢いし、世間知らずでもない。彼女は自分のことは何とかするでしょう。思いすごしならそれはそれで、本気なら尚更、あなたが首をつっこむことを彼女は喜ばないと思う、ジノン」
ジノンは杯にのばしていた手をとめてイーツェンを見る。一瞬の沈黙の後、センドリスが大声で笑い出し、楽しそうに膝を叩いた。
「あんたの負けだ、ジノン」
「‥‥‥」
ジノンの口元がぴくりと動いて、彼はゆっくりと杯を唇に運びながら、頭を振った。
「私の中であの娘はまだ、最後に会った15の時のままなんだよ」
「あんたが尻の青い若造だった頃だな」
センドリスが楽しげにからかう。意地の悪い口調にするどさはなく、他愛のない言葉を言い返したジノンとそろって笑いあうと、2人は杯を宙に掲げた。
何となく取り残された気分で、イーツェンは首の輪に気をつけながらこわばった首すじを揉んだ。天幕の中は平炉に燃える炎のせいであたたかく、油断すると重い瞼が下がってきそうになる。
──まだ何も終わっていない。
くり返し自分に言いきかせながら背すじをのばし、イーツェンは眠気と疲労を振り払った。ジノンが出した結論を求めようと身をのり出した時、ジノンが書類の束をイーツェンへさし出した。彼がさっきまで書いていたものだ。
「リオン」
「何です?」
杯を注意深く置き、イーツェンは両手でその束を受けとる。5枚の皮紙は丁寧にうすく削いで仕上げられたきめの細かいもので、簡略化したユクィルスの印が焼き印として左下に入っている。それは公的な書類だった。
イーツェンは息をつめたまま、皮紙の表面に指先をすべらせた。
「書類上の君の名だ、イーツェン。そのままの名ではいかにもまずかろうよ。ローギスはまだ君を追っている」
膝の上に皮紙を置き、イーツェンはジノンとセンドリスの顔を見て、また膝の書類に目を戻した。手のふるえを気取られないようにしながら、1枚ずつ手に取って、立て燭の灯りにかざすようにたしかめる。
渡航用の身分保証、推薦状、聖堂からの任命状、奴隷の所有権証明書、と1枚ずつジノンの見事な筆致でかきあげられた文字をくいいるように見つめながら、イーツェンは体の内側に沸き上がってくる興奮を抑えこんだ。2人がイーツェンの反応を待っているのがわかるが、彼らの存在を頭の中から追い出して、文字を目で追う。一言一句、のがさぬように。
ユクィルスの文字はリグの文字とは異なる部分が多く、特にこうして正式な文書に使われる字は線が多い。優美ではあるのだが、文章がイーツェンの頭に入ってくるまで少しかかった。
すみずみまで読んで、読み返し、自分が何を読んだのかはっきりと確認してから、イーツェンはゆっくりと皮紙を膝の上へおろした。目を毛皮に据えたままゆっくりと息を吐く。ジノンとセンドリスはいつのまにか低い声で狩り場の話をはじめていたが、会話をしながらも、2人がイーツェンの様子をうかがっているのはよくわかっていた。
体に息を満たして心を落ちつけ、イーツェンは顔を上げた。ジノンとセンドリスの会話がとまる。まっすぐに彼を見たジノンの青い目へ、イーツェンはかすかな笑みを向けた。
「これにはフェインの署名が必要だ」
ジノンは少し睫毛を動かした。互いに理解していることを確認し、一拍おいて、イーツェンはうなずく。
「それで、私はいつ発てますか?」
そのことが、何ひとつ疑いのない事実であるかのように響かせた。うまくいったかどうかはわからない。
フェインの署名が入りさえすれば、この書類はイーツェンとシゼをユクィルスから解き放つに充分なものだ。ジノンはシゼのためにルスタの港町への品目表の運搬委託書まで書いていて、これがあればイーツェンたちが旅をする理由も、急ぐ理由も説明がつく。
手にしたこの紙を絶対に離したくはないし、ジノンの襟首をつかんででも彼の答えを引きずり出したい。だが最後に残されたフェインの署名分の空白に、イーツェンは、獣を罠にかける縄が目の前にぴんと張られているような気がした。
果たして、ジノンの返事はイーツェンの恐れをうつしたかのようだった。
「君次第だな」
イーツェンはジノンの視線に挑んだまま、爪で皮紙をはじく。
「値段をつけてもらえますか」
「君の連れを、センドリスは置いてきたようだが」
ジノンがちらりとセンドリスの方へ向けたまなざしは、彼がその判断に賛成していないことを明らかに示していた。イーツェンも思わずセンドリスを見る。センドリスは平然と、ジノンの声が聞こえていないような顔でイーツェンへにやりと笑いかけた。
「‥‥シゼが、何か」
「ルルーシュとつながっているのか?」
ここできたか。
シゼのことは、どこかで言われるのではないかと思っていた。至る所に落とし穴があるような気分で、イーツェンは答える言葉を探す。
ジノンはどれほど彼らの動きをつかんでいるのだろう。イーツェンがアガインと取引し、ローギスを殺人者として弾劾しようとしたことを知っている以上、ルルーシュの内側に深い情報網を持っている筈だ。妙なごまかしは、きっと深みにはまる。だがわざわざ藪をつついて蛇を出すような真似もしたくはなかった。
「私と一緒にリグへ行こうとしている男が? ルルーシュとして活動をするには、リグは少し遠い気がしますが」
挑みかかりたい気持ちを抑え、時間稼ぎに冗談めかすと、目のすみでセンドリスが杯の中に笑いを隠したのが見えた。彼がシゼを残すと言いきった時にはあれほど逆上したくせに、イーツェンは今さら勝手な感謝で一杯になる。同時に、この状況を予測できていなかったあの時の自分を蹴りたい気持ちだった。
ジノンはあぐらをほどいて右膝を立て、膝頭に頬杖をついた。気怠げだったが、目はイーツェンの表情から動かなかった。
「1度そのあたりも含めて話してみたいものだと思ってね」
「彼は、戻りませんよ」
「ルルーシュに?」
「ユクィルスに」
「確信があるようだな」
イーツェンはうなずいて、ジノンをまっすぐに見据える。
木々の間を歩いてこの天幕へ戻る間、考えを整理するだけの時間があった。ジノンが本当にルルーシュと取引しようと考えているのか、今さらながらイーツェンは少し疑わしいと思いはじめていた。情報がほしいのか、ルルーシュの人間──そう思われる人間──を取りこんで何かの足がかりにしようとしているのか。リッシュ、シゼ、ほかにもきっと大勢いるのだろうが、ジノンは手の届く者を1人ずつ手の内に握りこんで、甘い顔を見せながら、ルルーシュをゆっくりと揺さぶろうとしているようにも思えた。
真偽がどうであれ、シゼのことを取引の材料にさせるつもりはない。その取引はただ、イーツェンにとって不可能なことだった。たとえ自分の運命がかかっていたとしても。
「彼は、私と一緒にユクィルスを出ていく。彼にとっても、ユクィルスは厳しい国だった。‥‥オゼルクは彼を嫌っていたし、色々な手を使ってそれを示してもみせた。私も、彼も、この国で傷ついた、ジノン」
まるで遠い思い出を話すように、イーツェンは淡々とした声で言った。まだ痛みがどれほど生々しくとも、それを見せてやることはない。
ジノンは立てた膝に右手をのせ、イーツェンの方へ身を傾けて少しのり出した。口元に小さな笑みがあるが、青い目はイーツェンの底にあるものをすくい上げようと、するどく彼を見つめていた。
「そうだな。戻らない方がいいだろう。時には、おぞましいほどのことがおこるものだ」
イーツェンは息と、体の中の緊張をどうにか吐き出そうとする。何故ジノンがイーツェンにリッシュの姿を見せたのか、その理由の一端を悟ってふいに首の後ろがぞわりとした。あれは警告だ。ルルーシュに2度とかかわるなと。かかわれば、こうなると。
「ジノン。私もシゼも、あなたから受けた恩は裏切らない」
だから脅す必要はない──イーツェンが言わずにおいたその言葉を、ジノンは続く沈黙の中から正確に聞きとった様子だった。微笑を深める。
「だが君はアガインにも恩を受けただろう。ここに来ることで、それを裏切った。今度は本当だと、どうやって信じろと?」
「それはあなたの問題であって、私の問題ではない」
イーツェンは静かに答えた。選択肢がなかったアガインの時とは状況がちがうし、その程度のことはジノンもわかっている筈だった。
頭の中で考えをめぐらせながら、最も単純で、強い答えを返した。
「私の答えは同じだ。私は国に戻って、あなたのためにユクィルスの兵を戻す。これは取引であって、あなたがそれを信じられないのならば、私は去る」
「君の肩には、君だけでなく連れの命もかかっているのにか」
少しあきれたようなジノンの声だった。あからさまな揺さぶりに、苛立ちを抑えてイーツェンは微笑する。目の前に喉から手が出るほど望んだ書類があるからと言って、譲歩をはじめればきりがないし、少なくとも今はその時ではない。ここで言い訳をはじめると深みにはまる。それを感じていた。
あくまでジノンがシゼにこだわると言うならば、イーツェンはそれを許すことはできない。きわめて単純なことで、それを伝えるしかなかった。
「だからですよ。彼をつれていくことは私にとって、自分がリグを出るのと同じほど大切だ。彼はずっと私を守ってきたし、私は何があろうと彼を守る。何かと引き換えにすることはない、ジノン。決して。だから、たとえあなたが何を思おうと、彼にも彼の情報にも値段はつかない」
あくまでまっすぐに、だがつとめてやわらかく、イーツェンは言いきった。ジノンに対して弱みを見せるのは、決して利口ではない。だがいくら言いつくろおうとシゼに対する気持ちを隠せるとは思わなかった。ならばぐずぐずと受け身に回る前に示してしまった方がいい。ここには交渉の余地も、妥協の余地もないのだと。
ジノンが目をほそめた。
「君は、城でも彼を守ろうとしたな」
「そうでしたね」
イーツェンは肩を揺らして、かるく流した。たしかにシゼを城から出ていかせるため、ジノンにたのんで書類をととのえてもらったことがある。あれを数に入れるとすればこうしてジノンに助けを求めるのは2度目で、できることならこれで最後にしたかった。
イーツェンの顔を凝視してジノンは何も言わず、イーツェンはかすかな笑みを消してジノンのまなざしを受けとめた。ふいに空気が緊張に重く澱み、息苦しさが増す。だがここで目をそらすわけにはいかない。
そういう、ただひとつ最後の最後に残るものを人から奪おうとするのがどれほど危険なことなのか、ジノンならばわかる筈だった。ジノン自身がその生きた証のようなものだ。
何でもする、とイーツェンはジノンに視線で挑む。シゼにふれさせはしない。もしシゼに危害の手がのびたならば、イーツェンは迷いなくジノンの敵に、そしてロシェの敵にもなるつもりだった。言葉に出さずに、イーツェンはそれをジノンへとつたえる。どちらも何も言わず、ただ相手の内側にあるものに挑みながら凝視をほどこうとはしなかった。
ふいに鉄の鳴る音がして、2人の視線がはじけるように離れた。火かき棒を持ったセンドリスが前かがみになり、鉄籠の覆いをのけて平炉の炎を手早くととのえながら、どちらにも目を向けずに低い声で言った。
「リグに残ったユクィルスの兵を帰してくれるそうだな、イーツェン?」
「ええ」
「何年かかる」
「283人の中から生き残った者、山越えに耐えられる者を帰すとして、3年で」
イーツェンはすでに計算してあった答えを、とびつくように返した。街道が失われた今、山の細く険しい道を使うしかなく、大勢の──それも山に慣れていない──人間を1度に動かすのは危険だ。山越えの隊商は主に30人から、大がかりなもので90人。それ以上も以下もあるが、山慣れないユクィルスの兵をまとめながら進むことを考えると、兵を1組あたり2、30人に分けて、50人ほどの隊商につけてやるのが一番いいだろう。リグの者たちの安全を考えあわせると、あくまでリグ側の人数が上回ってなければならない。
1年に3隊送れるとして、3年。うまくユクィルスの兵たちの協力が得られれば、2年ですむだろう。だが山越えの食料を大量に用意することを考えると、やはり3年に分けてというのが妥当なところだとイーツェンは結論を出していた。
ざっくりとかいつまんでそれを説明する間、センドリスはうなずきながら聞いていた。状況を噛みしめるように分析し、するどい問いを返す彼の様子に、彼が率いていた兵もまたリグに取り残されているのだろうとイーツェンは気付く。
ジノンは口をはさまないまま、彼らの話を聞いている様子だった。話題が食料の備蓄に及んだ時、センドリスが考え深げに顎の先をつまんだ。
「ユクィルスに戻ってきた人数と引き替えに、食料の半分をこちらから供出する。それで少し話が楽になるか?」
「それは──ありがたい。手形にしてもらえますか?」
「する」
保証を求めたイーツェンに、センドリスはおもしろそうにうなずき、ジノンへ手をのばした。ジノンは書き物に使っていた台をそのままセンドリスへ渡す。2枚の板が合わさった台をひらいて、箱のように空洞の内側から皮紙を1枚取ると、センドリスはインクに浸した羽ペンをひょいひょいと走らせはじめた。
ジノンの許可を取らないのだな、と感心して見ていると、ジノンが小さな息をついて指の背で額をこすった。
「センドリス」
「塩と豚肉とチーズと大麦でいいか」
センドリスはジノンの呼びかけを無視してイーツェンへと確認する。少しおもしろくなって、イーツェンもジノンを無視したままうなずいた。
「結構です。余地があれば砂糖を」
「書いておく」
うなずき、センドリスは手早く書類をしたためると、ジノンに向かって人差し指で招く仕種をした。ジノンはあまり愉快そうではなかったが、斜めに体をひねって手箱を引きよせ、中から赤黒い蝋燭を出してセンドリスへ渡した。
センドリスは平炉から蝋燭に火をつけ、しばらく斜めに回しながら充分に蝋を溶かすと、皮紙にしるした署名に少しかかるように垂らした。襟元から首飾りの鎖を引き出すと、鎖に吊るしてあった指輪のひとつを使い、印章を蝋に押しつける。
蝋に形が刻まれたところで慎重に指輪を抜き、ざっと読み直してからイーツェンへとその紙をよこした。ジノンの目を通そうとする様子はなく、ジノンもそれを期待している様子はなかった。あくまでこれは、センドリスとイーツェンの間の話らしい。
内容は簡単だったが、センドリスの約定は間違いようがなく明確に書かれていた。イーツェンの名も明記されている。センドリスは自分の地位をユクィルスの「祝福されるべき新王」フェインの騎士団長兼旗手隊長と記し、「ハルジーアの黒砦」の主と肩書きをひとつ加えていた。
それを読みながら、イーツェンは沈黙したままのジノンへちらりと目をやる。センドリスがまるでイーツェンがリグへ戻ることを当然の前提のように話す一方で、ジノンはまだイーツェンに何の保証も与えてはいない。書類こそ出したが、まだフェインの署名による裏付けがない。何が彼をそこにとどめているのか、イーツェンには推し量ることができなかった。まさか、本気でシゼの身柄を要求してくることはあるまい。そうなればイーツェンは最後までジノンと戦わなければならない。
シゼの話を出したのは、リッシュに会わせたのと同じことだ。イーツェンに対する警告。裏切るな、ルルーシュや他の勢力に2度と力を貸すなと。裏切ればイーツェンか、さもなければシゼがああなるのだと。その警告は受けとった。それ以上に何かまだあると言うのだろうか。いくら無視しようとしても、不安が腹の底に溜まっていく。
「私も何か書きますか」
それは半分センドリスへ、半分ジノンへ向けた言葉だった。もくろみ通りに注意をイーツェンへ向けたジノンへ、イーツェンは口早につけ足す。
「今の私は名がないので、公的な保証は何もありませんが」
「名がない?」
ジノンの表情をけげんな色がよぎり、説明しようとしたイーツェンに先んじてセンドリスが口をはさんだ。
「裁きの場で本当の名を言ったろう、イーツェン。それで名を失くしたな?」
センドリスが彼らの慣習になじんでいることに意表をつかれて、イーツェンはまばたきしながらうなずいた。
「そうです」
「ああ──」
ジノンは思い出すように眉をしかめ、こめかみを揉んだ。イーツェンと同じように、彼も疲れを感じているようだった。ジノンにとっても長い夜なのだろう。
「あの名か。真実の名というのは限られたところでしか使われないと聞いていたよ。名なしになるとどうなる? 君の身分は?」
「王にもう一度名付けられるまで、私の名には力がない。公には幽霊のようなものです」
余計なことを言ってしまったかと思いつつ、イーツェンは正直に答えた。ジノンは目をほそめる。
「新しい名をもらうとどうなる」
「たとえば、何がです?」
「君は服を脱ぎ捨てるように前の名と言葉を捨てられるのか、ということだ」
ジノンが選んだ比喩に他の含みはなかっただろうが、ほぼ裸の状態をジノンに見られたことがあるイーツェンは一瞬ひるんだ。
「私はそうは思わない、ジノン。前の名もまた私自身だ。私たちは、授けられた真実の名でもって部族と血族に深くつながっている。真実の名は、リグの民であり母の子として、私をあの大地につなげる名前だ。真実の名の元に言葉を告げるということは、その部族の者として、リグの者として、己の名だけでなく彼らの名と血でもって物を言い、物を誓うことだ。今の私にはそのつながりがない。だから、私の言葉には、部族の力がない」
説明しながら、自分がいかに故国と遠く離れたところにいるのか、それを思い知って心にするどいものがくいこんでくるようだった。当然だと思っていることを説明しなければわかってもらえないということ、そして、今の自分が名をなくし、リグの民と深いところで──名付けられてからずっと──持っていた絆を失っているということ。
リグへ戻って、新たな名を得たとしても、多分以前のイーツェンには戻れないだろう。あまりに遠くまで来て、あまりに多くが変わった。新しい名を得れば、ジノンの言うように前の自分をすべて「脱ぎ捨て」られるのならどれほどよかっただろうか。
(──いや、本当にそれを望むだろうか? 前の自分に戻ることを?)
イーツェンはその疑問を自分の中から押し出す。今は集中しなければならない時だ。
ジノンはまたこめかみを押し揉んでいた。「名なし」の状態での約束がどれほどの重みを持つのか、イーツェンがそれを破る可能性をまた考えているのだろう。
いくつかのきつい問いを予想して、イーツェンは彼が口をひらくのを待ったが、ジノンがぽつりとこぼした言葉は、彼を驚かせた。
「君は多くを捨てたな」
そうだ、とイーツェンは思う。多くを捨て、多くを失った。だがジノンの同情はありがたくはあっても、必要ではなかった。
イーツェンはジノンへ、平らな微笑を向ける。
「皆、そうだ。でももしかしたら、私が国へ戻ることで、失われるものを少しは減らせるかもしれない。ユクィルスへ、誰かを帰すことができれば。そうは思いませんか」
「君の言葉が君の名によらないものならば、何によって立つ? 私に何を信じろと言う、イーツェン」
それはすでに予期されていた問いだった。落ちついて、イーツェンは自分の中の真実を返す。
「私は私の魂に誓いを立てる。私と、そして死んだ母の魂のもとに」
イーツェンはジノンの目から視線をそらすことなく、右の手のひらを心臓の上にあてた。
「リグの名のない五柱神、そしてリグに戻って私が生きるだろう日々に賭けて。ジノン、私は強い人間ではないかもしれないが、母と己の魂を穢すほど誇りのない人間ではないつもりだ」
小さな炉に踊る炎の中で、木がはじけるような音をたてた。イーツェンの手のひらを心臓の強い、早い鼓動がふるわせる。今にも乞う言葉がこぼれそうな唇を結び、ジノンへまっすぐに顔を向けた。全身がうっすらと汗ばんでいる気がした。
ジノンの表情はいつものように読めなかった。するどい頬骨と薄い口元の影が、炎が揺れるたびに彼の顔をきびしく見せている。イーツェンは何も言わず、ジノンもまたしばらくの間何も言わなかった。彼らの人生は幾度か交錯した。その時ジノンはイーツェンをどう見ただろう。たしかに弱く脆い姿ばかりさらしてきたかもしれないが、それでもリグのために2年の日々を耐えきった、そのイーツェンの中にある意志を、ジノンは信じてくれるだろうか。
夜はひどく静かで、その静けさが世界全体を押しつつんでいるようだった。手のひらが汗に湿り、イーツェンは心臓の真上に自分の手の温度を感じる。射抜くようなジノンの目を逆に見つめ返しながら、イーツェンはもう己の緊張を隠さなかった。
ジノンの唇がかすかな笑みの形に曲がった。
「君が、誇りのない人間ではないことはよく知っている、イーツェン」
自分に向かってのばされた手と、何かを求めるようにひろげられた手のひらを、イーツェンは一瞬呆けたように見つめた。今一度ジノンに手の仕種でうながされ、イーツェンはあわてて膝の上に置いたままの書類をかき集める。
これか、と目で問うと、ジノンは小さくうなずいた。喉の奥に塊がつまったような気分のまま、イーツェンはまとめた書類をジノンへ手渡す。渡してから、センドリスの手形も一緒に渡してしまったことに気付いたが、黙って待った。
ジノンはイーツェンの渡した皮紙をひとまとめにし、今度はセンドリスへ手渡した。イーツェンの視線もそれにつれて動く。あの紙が、いやその紙の上に記された言葉たちが、イーツェンとシゼの命綱だ。
センドリスが無造作な手で皮紙を片手に丸めたものだから、一瞬息がとまりそうになった。目の前の火の中に放りこまれるのではないかと根拠のない恐れが頭の中に浮き上がって、イーツェンは抵抗の声を上げかけたが、自分が判断力を失っていることもわかっていたので、拳と唇をじっと結んでいた。
センドリスはイーツェンのたじろぎに気付いた様子もなく、慣れた手で書類の束をつかんで立ち上がった。
「来い、イーツェン」
うながされて、イーツェンも立つ。ジノンもまた腰を上げたのが目のすみで見えた。ジノンとセンドリスが無言のまま交わしたまなざしの意味を、イーツェンは吉報としてとらえようとしたが、心臓は早鐘のように胸の内側で鳴りひびいて、全身がざわついていた。