センドリスがジノンの返事を得て戻ってくるまで、かなり長くかかった。その間イーツェンは膝をかかえて暗闇に座り、灯芯を絞ったわずかな灯りの下で眠るリッシュを眺めていた。
闇も怖いし、牢はもっと怖い。センドリスが「念の為だ」と言いながら外から格子の鍵を掛けた時には、ここに残ると意地を張ったことを心の底から後悔した。イーツェンをとじこめる意図はないのだとわかっていても、とざされた空間の中の濁った空気は、一呼吸ごとに肺の中へ粘っこく溜まっていくようだった。
息ができない。床に座りこんだまま、目をとじてゆっくりと息をしようとしたが、方向感覚を失った体がぐらつくのを感じる。ひどく気持ちが悪くなってきて、イーツェンは歯を噛むと、頬をひとつひっぱたいた。
子供の時も畏怖を感じこそすれ、こんなふうに闇を怖がったことなどない。それが今はこの有様だ。情けなかった。
「‥‥まだ、いたのか」
もそもそとくぐもった声を、イーツェンは耳鳴りだと思った。それからはっとして、薄い灯りの下でリッシュをのぞきこむ。
「リッシュ? 水を飲むか?」
「‥‥お前、こんなところで、何してるんだ」
目をとじたまま、リッシュはかさぶたに引きつる唇をわずかに動かした。さっきよりも話し方に力が戻っていて、どうやら意識は明瞭なようだったが、全身を覆う傷に苦痛の呻きひとつたてず横たわる様子は、むしろイーツェンを慄然とさせた。すさまじい克己心か、それとも体の感覚が失せつつあるのか、彼にはどちらとも言えなかった。
「リグへ帰ろうと思って」
端折ったと言うより、ほぼ何も説明していないに等しい返事に、リッシュは「ふうん」という響きに近い音を立てた。その顔をしばらく見ていたが、あらためて声を低めて、イーツェンはさっきから胸にわだかまっていたことを聞く。
「アガインやセクイドは?」
ルルーシュの集会がユクィルスの兵に襲撃された時、彼らも一緒にいた筈だ。彼らがどうしているのか、無事でいるのか、イーツェンはあれからずっと気になっていた。
「アンセラの坊主は、ちょっと腕切っただけで、ピンピンしてたな」
長い言葉をつなげるのは苦痛なのか、リッシュの声は途切れ途切れだったが、口調は奇妙におだやかだった。何だかイーツェンは気味が悪くなる。痛みと近づく死の前で、どうやれば人がこんなに淡々としていられるのか。まるでリッシュの中で何かが壊れてしまっているかのようだった。
「アガインは?」
「死体は、なかった、が。‥‥大勢、焼けた」
「そうか‥‥」
イーツェンは何と言っていいものかわからないまま溜息をつき、いつのまにかじっとりと湿っている額を拭った。空気はちりりと肌に冷たいほどなのに、闇や血の臭いか、リッシュの存在か、とにかく何かがイーツェンをかき乱す。首筋の血管が早い脈を打っているのを、首の輪がふれる場所で感じた。
そのまま、2人はしばらく黙っていた。イーツェンは闇の中で足を這い上がってきた虫の感触を、顔をしかめて払い落とす。こういう場所には何だかわからない、気味の悪い虫が湧く。囁きのような小さな足音と鳴き声は、鼠だろう──彼は、かつて地下牢で、癇にさわるその声を嫌というほど聞いたことがあった。食べるものなどないのだが水でもかすめ取りに出てきたかと思って、イーツェンははっとリッシュヘ顔を向けた。
彼の傷ついた体の上を、ちろちろと走っていく黒い影を見て凍りつく。目をこらすと足元にも塊が群がっていた。
布を手にして、それを叩くように追い払う。影が飛び散るように四方へ消えてからも、イーツェンの冷や汗はとまらなかった。鼠はリッシュの血肉をむさぼりに集まっていたのだ。
たしかにイーツェンも牢では、足先をかじられないよう粗末な毛布に足をつっこみ、両手を体の下に入れて寝ていた。あんなに小さいくせに、弱ったものを目の前にするとあの獣は信じられないほど獰猛で、粘り強く、そして貪欲なのだ。
リッシュは腫れた目蓋をあけていたが、何事もなかったかのように、イーツェンの方を見もしなかった。きしるような声で呟く。
「シゼも、ここに‥‥?」
「いや、彼はいない」
言ってから、まるでもう旅を共にしていないようだと気づいて、イーツェンは言い足した。
「私がジノンと話し合って、戻るのを待ってる」
「‥‥あいつも、行くのか。あんたの国に」
「そのつもり、だけど」
口からこぼれたのは、ひどくたよりない返事だった。いや、シゼはリグへ向かう筈だ。彼はイーツェンをリグへつれていくと約束したし、そもそもイーツェン1人では旅を安全につづけることができない。シゼがイーツェンについてリグを訪れることをイーツェンは疑ってはいなかった。
彼が疑っているのは、リグについてから──その先のことだ。シゼが旅の先に何を見ているのか、イーツェンには不安な予感があった。
だが唇を噛んで、イーツェンは不安を呑みこんだ。今はそんな先のことを考えてはいられない。とにかく目の前のことにひとつずつ集中して片付けていくしかないし、すべてはその先のことだ。
「元気、か?」
シゼのことだろう。わずかに、リッシュの声はやわらいで聞こえた。イーツェンはうなずき、この暗がりでリッシュからその仕種はろくに見えまいと、言葉に出して答える。
「シゼは元気にしてるよ」
「‥‥イーツェン」
「何?」
「あいつを、解放して、やってくれ」
はっきりと何を言われたか理解したわけではなかった。少なくとも、頭では。
だがリッシュの言葉に心臓をまともに射抜かれたかのように、イーツェンの体の中心にするどい痛みが走り、彼の息を破った。みぞおちに拳をあてて前屈みにのめり、イーツェンは一瞬の、するどい痛みをやりすごす。
鼓動にあわせるように早い息を吸って吐き、イーツェンはできる限り平静な声を保とうとした。どうして自分がこんなに動揺しているのかわからなかった。
「私は‥‥何も強制してない。城にいた時とは違う。私とシゼは、もう対等だ」
「‥‥あいつは、あんたのためなら、何でも、する」
「私はシゼに強いたりはしない。してない」
イーツェンはもう1度くり返す。鼠の動く音を聞いた気がして周囲を見回してから、リッシュにかがみこんで、残った水で彼の顔を拭った。
「暗い、なあ‥‥ここは」
リッシュがぼそぼそと呟いて、またたいたが、腫れた瞼はひどく重そうだった。少しして、うつろな呻きをこぼす。
「‥‥暗いよな?」
自信がなさそうだった。目がかすんでいるのか、本当に暗いのかの判断がつかないらしい。イーツェンは手をリッシュの肩に軽く置いた。
「うん。暗いよ」
「‥‥俺はさ、ルルーシュのためなら、何でもやった、イーツェン」
体を削るように、リッシュは言葉を押し出す。あまりしゃべらせない方がいいのか、少しでも痛みから気をそらせるのならその方がいいのかと迷いながら、イーツェンはリッシュのかすれ声に耳を傾けた。
「悔いちゃあいないが‥‥何度か‥‥ほかの道も、あるんじゃないかと、思った。だが、な‥‥」
リッシュの唇には血のかさぶたがこびりついて腫れあがり、発音はところどころ不明瞭だった。彼の体は、イーツェンの手につめたく感じられる。この傷なら熱を持っていてもおかしくないし、事実さっきまで熱かった記憶があるのに、それは嫌な冷え方だった。周囲を押しつつむ濃密な闇が、彼の中にある熱を少しずつ喰っているかのようだ。
痛みからか寒さからか、リッシュの体が小さく痙攣した。
「‥‥アガインが、いた。俺が、迷うたびに、あいつはいつも‥‥そこに、いた」
かすれた、湿っぽい音がリッシュの喉で鳴る。リッシュが呻いたのか笑ったのか、イーツェンにはわからなかったが、彼の言葉とそのひびきはどちらもイーツェンの背を冷たくこわばらせた。
リッシュが何を言いたいのかイーツェンにはわかる。
「私は──」
「俺は‥‥どうしても、アガインから離れられなかった。ほかの道が、見えてこなかった‥‥あいつは、何も、言わなかったがな。俺は、ガッチリ、尻尾を踏まれてたのさ」
それとシゼとイーツェンの関係はちがう。強い声で言い返しそうになって、イーツェンは唇を噛む。ちがう筈だ。
「どうしようもない。気付いた時には、手遅れだ。‥‥そういうもんなんだ、イーツェン」
リッシュの呟きはひどくうつろで、ぼんやりととりとめがない。だがアガインのことを話しはじめてから、彼の声は前よりもやわらいだようだった。
イーツェンがアガインを知ったわずかな間、リッシュはアガインに最も近い存在だった。イーツェンにとってアガインはただ厳しく鮮烈な存在だったが、リッシュに対して彼はどう接し、彼らは互いにどんな存在だったのだろう。友人、あるいは兄弟のような? それとも戦友、痛みや弱さすら分かちあう──
そして、決して離れられない鎖のように。
決断を強いてはいない。そう思いながら、イーツェンは息をつめる。リッシュからはそう見えていたのだろうか。シゼが離れられないかのように。
強いたことなど、ない。だがリッシュがアガインのために苛烈な生き方をしてきたように、シゼはイーツェンのためにどれほどその人生を変えただろう。イーツェンと関わったがために城にいられなくなり、ルルーシュの仲間を利用し、対立をくり返し、己のすべてを危険にさらしてきた。
そして今や彼は、イーツェンのために遠い異国へ行こうとしている。彼にとってまるで知らない国へ。
シゼはイーツェンを見捨てはしない。そして、見捨てられない。それがイーツェンの命取りになることを知っているからだ。イーツェンはシゼがいなくては故郷へ戻るための旅を続けられない。そのことを、シゼは誰よりもよく知っている筈だった。
「シゼは、」
イーツェンの心を読んだかのように、荒い息の下からリッシュがそう呟いて、目をきつくつぶった。痛みが男の体の中をかけめぐっているのを目の当たりにしながら、イーツェンは膝に押しつけた拳をきつく握りしめる。
──シゼは。
「‥‥私のすべてなんだ、リッシュ」
かすかな言葉は、ほとんど気づかないうちにイーツェンの唇からこぼれ落ちていた。言った瞬間に何かに心臓をつかまれたようで、イーツェンは目をとじる。
しばらくの間、荒い息づかいだけが闇の底に這うようにひびいていた。リッシュが眠ってしまったのかと思ったイーツェンが男の顔をのぞきこむと、リッシュの目は大きく見ひらかれて天井を見上げていた。灰色の目をしていたと思うのに、今はかつての陽気なまなざしを思い出すことすら難しい。
沈黙が耳の中で鳴っていた。イーツェンは息をつめて、リッシュの唇が動くのを見る。
「‥‥今は、な」
「‥‥‥」
「リグに、あいつの居場所があると思うか? 行き場が、なくなる前に‥‥解放、してやれ」
喉がこわばって声が出なかった。出たとして、リッシュのその引きつれた言葉にどんな返事をすればいいのかイーツェンにはわからない。それはそれほど苦しげな言葉だった。
「俺は、アガインと一緒に、‥‥死にたかったよ」
ほとんど聞きとれないような声で呟いて、リッシュは力のない拳で床を叩いた。
「もう俺には、行き場が、ない」
「アガインが死んだかどうかはわからない──」
「じゃああいつは今一体どこにいるんだ?」
体の中にあるすべての痛みを吐き出すように、リッシュは叫んだ。その叫びすら小さく、弱々しく、沈黙と闇の中へ孤独にひびいて呑みこまれた。
傷ついた獣のような呻きをあげ、リッシュが起き上がろうともがきはじめる。ぎょっとして、イーツェンは彼を押さえつけた。怪我人へのためらいはあったが、今起きればリッシュはひどく自暴自棄なことをしそうだし、この体で起き上がろうというのが無茶だ。筋肉の盛り上がった肩に手を置き、体重をかけて、自分よりはるかに大きな男を床に押しつけようとする。
リッシュはすぐ静かになって、鎖のついた両手を投げ出して喉から呻きをあげた。彼の力を易々と受けとめて組み伏せられたことに、イーツェンは安堵よりも恐れをおぼえる。リッシュは、あまりにも弱ってる。
だがそれでもこの一瞬、男の中にはじけたものは、荒々しい意志とたしかな命のかがやきだった。苦々しい絶望の言葉とは裏腹に、彼がすべてをあきらめたわけではないことをイーツェンはまざまざと見る。怒り、苦しみ、痛み、後悔──それは耐えがたい痛みだろう。それでも、その痛みが彼を生へと結びつけている。
まだ救えるかもしれないと思った。この痛みを通して、リッシュの命を助けられるかもしれない。そう思いながら、イーツェンは荒い息をついてまたもがき出すリッシュを押さえつける。全身が冷たい汗に湿り、心臓が肌を内側から押し上げるように激しく脈打って、一瞬、恐怖とも昂揚ともつかないものに体中がふるえた。
センドリスは戻ってくるなりリッシュを見おろして、陽気な口調で、
「生きてるか?」
と聞いた。
イーツェンは顔をしかめる。センドリスは冗談のつもりだろうが、ユクィルスの牢でルルーシュの囚人をイーツェンが殺したことを知っているくせに、そういう冗談口を叩くのがどうにも信じられなかった。それともイーツェンをためしたのだとしたら、ひどい悪趣味だ。
むきになっても仕方ないので、むっつりとした口調で答える。
「生きてますよ」
「偉い」
あんたね──と悪態をつきそうになって、口をとじた。リグにいた時とはくらべものにならないほど色々と悪い言葉を覚えたせいで、時おりそれが口にまでのぼってくる。楽しいこともあったが、今はそのことにすら気持ちをかき乱されて忌々しい。
センドリスは自分の持ってきた油燭を床に置くと、目をとじているリッシュの横へ片膝を折ってしゃがみこんだ。壁の鉤から吊るされた弱々しい灯りの薄い光と交錯して、影が四方にのびちぢみする。
灯りがふえた分、どうしてか部屋にたちこめる闇は濃くなったように感じられた。イーツェンは暗闇が押しつつんで這いよってくる不安に身じろぎ、リッシュの手を握り直した。いつそうなったのかはよくわからないが、もがくリッシュを押さえつけているうちに、いつのまにかイーツェンの右手をリッシュの右手ががっちりつかんでいたのだ。親指のつけ根を絞るように強くつかまれていて、振りほどけない。
リッシュは意識が半ば朦朧としているようだったが、イーツェンは彼の指を握り直して、センドリスを凝視した。
「ジノンはいましたか」
「うん、片付いた」
何が片付いたのかはわからなかったが、イーツェンは曖昧にうなずいた。どのみち知りたくもない。彼が今気にかかっているのはリッシュのことと、そして途中になったままのジノンとの取引のことだった。
いち早く結論を知りたい気持ちを抑えて、イーツェンは沈黙でセンドリスの言葉の先をうながす。センドリスはうなずいた。
「ジノンが了承した」
「口約束で?」
「無茶を言うなよ。紙に残せるか」
あきれた口調で言われるまでもなく、イーツェンにもよくわかっている。ジノンがやりたいことはディーエンの聖堂の鼻先からリッシュをかすめとって、聖堂に自分の選ぶ道を操られないようにすることだ。聖堂の背後で動き回ることはできても、面と向かって敵対する気などさらさらない。書面で証拠を残す筈などなかった。
それでも聞いたのは、お互いの立場をはっきりさせるためだ。イーツェンはセンドリスへ向けて微笑する。揺らぐ灯りの弱々しさではイーツェンの表情が見えるかどうかは疑わしいが、声にその微笑をのせた。
「ではあなたが彼の言葉の証人となりますか、センドリス」
「‥‥お前は──」
言葉のはじがするどくにじんだが、センドリスはすぐに大きく息を吸って、うなずいた。
「いいだろう、証となる。だがすべてはその男の選択にかかっている。俺もジノンも、救われたがっていない男を救うことはできん」
「私にもできませんよ」
小さな声で呟いて、イーツェンはセンドリスへ横顔を向けると、リッシュの体の上へかがみこんだ。握った指に力をこめて、低く呼びかける。手がつめたい。
「リッシュ。‥‥リッシュ」
「‥‥俺を、起こすな。イーツェン‥‥」
溜息と言葉が入りまじって、声は曇っていたが、目はさめているようだった。もともと眠ってはいなかったのだろう。これだけ傷つけられ、明日には吊るされると運命が決まっている男が、眠れるものかどうかイーツェンにはわからなかった。
イーツェンは彼の顔を真上からのぞきこみ、絡めた指で力をつたえながら話しかける。痛みと疲労に濁った意識にも言葉がひとつずつ届くように、ゆっくりと。
「リッシュ、私はアガインに恩がある。彼のおかげで自由になれたし、まだ彼との約束を果たしていない。だから、できることならあなたの命を救いたい」
その言葉が──アガインの名が──リッシュの意識を引きつけることを、イーツェンにはわかっていた。もし状況が異なれば、シゼの名が強くイーツェンを引きつけるように。
そして事実、アガインとイーツェンの約束は果たされずに残っている。城から救い出されたことと引きかえに、裁きの場で神々の前でローギスを告発すると約束した。その約束を果たすすべは今となってはもうない。
悔いてはいなかった。ルルーシュに背を向けるようになったのは仕方がないことであって、イーツェンもシゼもただ生きのびるために日々を生きつづけた、その選択の末のことだ。
だがそれでも、果たさなかった約束が心に残っていないと言えば嘘になる。
「アガインに、少しでも恩を返したい」
卑怯と知りつつ、イーツェンはそう囁いた。目のすみで、立ち上がったセンドリスが壁際に歩いていくのをとらえながら、彼はリッシュに意識を集中する。リッシュはイーツェンの指をほどこうとしたが、イーツェンはつめたい指をとらえて離さなかった。
答えないのではないかと思うほど長い間黙っていてから、やがて、リッシュの声が闇の中できしんだ。
「‥‥なら、俺をこのまま放っとけ、イーツェン‥‥俺はお前の役にも、お前の後ろにいる、ユクィルスの野郎どもの役にも、たたねえ‥‥せいぜい、吊るせ」
「あなたがするべき仕事がある」
そう囁いて、反論される前にイーツェンは声の調子をやわらげた。
「エナを知っているか? エナとアガインがともに見ていた夢を?」
一瞬、リッシュは死んだように静かだった。あえぐような息づかいすら聞こえない。イーツェンまで思わず声をつめた瞬間、彼は押しつぶしたような声で呟いた。
「‥‥エナ‥‥」
「知ってるんだな」
「俺は‥‥本当にいるとは‥‥思って、なかった。アガインの‥‥夢の女‥‥」
一体アガインがエナのことをどう話したものかと、イーツェンは眉をひそめる。それともそれは、まっすぐにリッシュヘ語られたものではなく、アガインが自覚なく洩らした名であり、夢だったのだろうか。アガインは自分の中のやわらかな部分を、他人にはたやすく見せそうにない。
「彼女は本当に存在するし、アガインの手紙を持っていた。誰からも侵害されない聖域としての癒し場を、今も作ろうとしている。そこにはユクィルスの王権争いも、聖堂やルルーシュや他の多くの神々や信仰も関りなく、争うことがない。誰であれ弱った者たちのための癒しの場所だ。それが、アガインにとって戦いとは違う、もうひとつの彼の夢だったんだ。知っていたか?」
「‥‥俺には、関係、ない」
「あなたは、選べる」
「いいから、吊るせ‥‥!」
「リッシュ」
イーツェンは声をおだやかに、だが言葉を強く保とうとした。リッシュを見つめ、彼の傷を目のあたりにし、息づかいの荒さに聞き入っていると、それ以外の世界が闇の向こうに溶けて消え去っていくような気がする。リッシュはこの牢獄にどれほどいたのだろう。この闇の中にどれほど無力に横たわっていたのだろう。それがどこまで彼を砕いたのか、イーツェンにはわからなかった。闇は人を蝕むものだ。
いや。きっとアガインを見失った時からずっと、リッシュはこんなふうに小さな、闇につつまれた場所から出ていけないのだ。イーツェンもそうだった。あの鞭打ちを受けてからずっと、闇の奥にうずくまって、闇を恐れながらその外へ出ていくことができなかった。闇の外側に光の射す場所があることが、どうしても信じられなかった。シゼが彼を闇から引きずり出して、世界はまだ終わっていないのだと彼に教えるまで。
「あなたはここから出ていける、リッシュ。行き場があるんだ」
「俺を、今から、自由に、するとでも?」
リッシュの声には苦い、湿った笑いがあった。イーツェンを嘲笑おうとして失敗したようだった。
「自由にはなれない」
イーツェンはセンドリスが置いた灯りをリッシュの頭側に引き寄せ、リッシュからよく見えるよう自分の顔を照らす。嘘を言うことには何の意味もない。灯芯の小さな炎が油燭の持ち手をわずかにあたためていて、冷えた指に一瞬の熱をうつした。
「あなたは、フェインに使役を誓う。ユクィルスの王に従い、ユクィルスの法に従い、彼らの定める律に従う。そして聖堂の主神を信奉し、ルルーシュの神の庇護を捨てる」
「てめぇ──」
リッシュの喉が憤怒に引きつれた。かっと見ひらいたリッシュの双眸には激しい憎しみと軽蔑が満ちて、燃えるようなまなざしで貫かれると心臓の鼓動がはね上がったが、イーツェンは自分の動揺を無視した。リッシュがイーツェンを裏切り者と思おうと、ユクィルスの側に寝返った汚い人間だと思おうと、今はそれは問題ではない。これにはリッシュの命がかかっている。
息を吸い、息を吐く。自分の口から出ていく言葉は、こわばった喉から出ているとは思えないほど落ちついて聞こえた。
「棄教が、恩赦の最低条件だ、リッシュ。信仰を捨てることが耐えがたいことはわかる。だがあなたはユクィルスの王のために働く必要はない。彼らはあなたをエナの手にゆだねることを約束した。あなたはエナの選んだ地へ行き、そこでエナのために働く。彼女が彼女の小さな王国をつくりあげるのを手伝う。アガインの夢を続きをつくり、それを守るんだ、リッシュ」
「‥‥‥」
「それがあなたに与えられた選択だ。明日死ぬか、それともその命をアガインの残した仕事のために使うか」
リッシュの目は大きく見ひらかれたまま、イーツェンを──あるいはイーツェンの周囲の闇を、凝視していた。イーツェンはそのうつろな顔によどむ怒りが恐ろしかったが、沈黙へひとつうなずいてみせた。
「すまないが、私ができるのはここまでだ、リッシュ」
「‥‥‥」
あざと血に覆われた、だが力強いリッシュの顎にぐっと力が入った。耳の中で音が鳴るのではないかと思うほど歯を食いしばって、やがてその歯の間からきしり出すような声で、血を吐くように、リッシュは呻いた。
「お前が、誰が魂を売ろうと勝手だが、イーツェン‥‥俺を、罠にかけるな」
「罠ではない──」
「人の魂を売り渡すな!」
震える叫びが壁に反響し、闇の中に悲鳴のような木霊を残した。それともその声、声の奥にある絶望、憎しみ、あらん限りの拒絶──その痛みが鳴りつづけているのは、イーツェンの耳の中だけなのかもしれなかった。
リッシュに体力があればイーツェンにとびかかっていただろう。イーツェンがそう確信したほど、ほとんどそれは獰猛な声だった。
指先まで痛みと、貫くような熱さがはじけて、イーツェンは自分でも驚くほどきびしい声で言い放っていた。
「自分の命を打ち捨てるのはあなたの勝手だ、リッシュ。私はとめない」
センドリスがゆっくりと動き、壁に掛けていた油燭を鉤から取ると、イーツェンへ小さくうなずいた。暗闇が骨まで染みこんでくるような無力感の中、イーツェンは立ち上がる。
リッシュが拒否するだろうことは、センドリスとも充分に話し合った──むしろすんなり受け入れるとはイーツェンも決して思っていなかった。だがリッシュの声にある拒否と嫌悪は、予想以上にイーツェンをするどく打ちのめした。それはもはや語る余地をイーツェンに与えなかった。
救われたがっていない者を救うことはできない。
──もう充分に、ジノンに義理は果たした。
そう自分に言い聞かせながら、イーツェンはこわばった体で立ちつくす。多分、アガインへの義理も果たした筈だ。
だがシゼに会った時、何と言えばいいのかわからなかった。シゼは決してイーツェンを責めはしないだろう。彼はイーツェンがイーツェンなりに力を尽くしたと理解してくれる。それはわかっていたが、シゼが感じるだろう──そしてイーツェンには見せまいとするだろう──痛みのことを思うと、イーツェンはそこから1歩も動けなくなる。シゼが思ってくれるように、彼は本当に力を尽くしたのだろうか。ここでできることはもう何もないのだろうか。いっそ泣きたいほどだった。
シゼはイーツェンのために多くを捨てた。ほとんどすべてを。なのにイーツェンは、シゼの友ひとり救うことができない。
「イーツェン」
センドリスが格子の出口へ向かいながら、低く呼んだ。イーツェンがリッシュの頭側に置かれた油燭を拾い上げる間、リッシュは何か喉の奥で呻くように毒づいていたが、ひどく汚い言葉らしいということ以外はわからなかった。
影を揺らめかせながら、イーツェンは何も言わず格子扉をくぐる。センドリスが錠をしめている間、彼は振り向いて、闇の奥に横たわる男の姿を見た。こちらに背を向けて肩をいからせ、傷ついた全身を憤怒にふるわせているリッシュの姿は、目をこらさなければならないほど闇に沈んでいたが、彼の拒絶はそれでも明らかだった。
ここで死んで満足か、とイーツェンは思う。そうかもしれない。かつてのイーツェン自身、もしユクィルスで処刑されても、リグのためだと思えば己の命は惜しくなかった。イーツェンはきっと、満足して死んでいっただろう。
だがそれでも、命を拾うような形でここにたどりつき、こうやって生き続けている自分がイーツェンは嫌いではなかった。楽な旅ではなかったが、それでも今は、生きていてよかったと思う。
あの日、ユクィルスの裁きの場で、あるいはその後の鞭打ちの時、牢に投獄された時、アガインのところで死を決意した時──それぞれの時に死なず、こうやって奴隷の輪をつけ故郷から遠い場所にいても生き続けているこの日々を、イーツェンは大切に思っていた。ただ生きのびるためだけのような日々ではあるが、それでもあの闇の中で死んでいたならば、得られなかった日々でもあった。
「死の先には何もない」
格子の向こうにある影へと、イーツェンは最後の声をかける。血の臭いの漂うこの薄汚れた闇の中で、リッシュの後ろ姿は絶望に打ちひしがれているかのように小さく、彼をここに残していくのだと思うと全身がしめつけられるようだった。
「何もないんだ、リッシュ。あなたも誰も、その向こうへは行けない」
リッシュの姿は動かなかった。傷や出血のせいでまた朦朧とした眠りに戻ったのかもしれないと思いながら、イーツェンは沈黙に背を向けて、マントのフードを引き上げ、センドリスの後ろへついて歩きはじめた。