天幕の外に出るとセンドリスが手をのばし、イーツェンのマントのフードを引っぱり上げて頭にかぶせた。
「三日月の男って誰なんですか」
 フードの中からひそめた声でたずねてみたが、センドリスはイーツェンの言葉を無視し、硝子の火屋のかかった油燭を手に歩き出す。
 とっぷりと暮れた夜闇の中、天幕の周囲では地面から高く立てられた火籠が赤々と燃えて、そこだけがまばゆい。イーツェンは足元があやうくならない程度にフードを下げながら、センドリスに付き従って歩き出した。
 元来た道を、聖堂の建物に向かって戻る。木々の間の径を歩いていると兵士が数人、腰に下げた剣の留め金を鳴らしながら早足でイーツェンたちを追い抜いていった。明日はジノンから聖堂による寄進の儀式があり、そしておそらく聖堂からフェインに何らかの誉れが授けられるのだろうが、その前夜は妙にものものしいようだった。夜の中に横たわる緊張を嗅ぎとって、マントの中でイーツェンの体がこわばる。
「聖堂にしのびこんで、司従長を殺そうとした男がとらわれてな」
 今日の話かとぎょっとしてから、センドリスがさっきの問いに答えたのだと気付くまで数瞬かかった。イーツェンは低い声を聞きのがさないよう、ぎりぎりまで2人の距離をつめる。木々の間の踏みかためられた道ではあるが、石や小枝が靴の下で音をたてて、どうかすると木の根に足をとられそうだった。センドリスは自分の油燭で足元を照らしているからいいだろうが、センドリスの背中に光をさえぎられているイーツェンには地面が見えづらいのだ。こうして自ら灯りを持って人を案内することなど滅多にない男なのだろうと、イーツェンは妙なところにセンドリスの位のよさを見る思いだった。
 センドリスは前を向いたまま、ぼそぼそとつづけた。
「ルルーシュの男らしいが、口を割らん。お前に顔を見てほしい」
 イーツェンは足を上げそこねて地面にサンダルの先をつっかけ、よろめいた。嫌悪に首すじの毛が逆立つ。
「私は──」
 できない、と思った。ルルーシュの者であるとわかれば、容赦ない処刑が待つ。イーツェンがもし知る相手だとして、いや知る相手なら尚更、その運命をさだめることなどできるわけがなかった。
 立ちどまって戻ろうとしたイーツェンの襟首をセンドリスがつかむ。イーツェンは引きずられないように踵を地面に押しつけて両足を踏んばり、センドリスをにらみつけた。互いの力がはりつめて背中ににぶい痛みが生じたがそれにもかまわず、くいしばった歯の間から拒絶の言葉をきしり出す。
「断る。私は人を処刑台には送らない!」
「声がでかい」
 センドリスもイーツェンをにらみ返し、襟首を握った拳を絞り上げて、イーツェンの顔を自分へ引きよせた。木々の間からわずかに落ちてくる月明かりでも、互いの瞳に渦巻く怒りがのぞきこめるほど、近く。
「お前がどうしようと、どうせ吊るされる男だ」
「なら尚更、私に用はないでしょう」
 イーツェンはぐっと顎を上げてセンドリスを見つめ返した。曖昧な話であやつられるのは御免だった。
 ひとつ溜息が聞こえ、センドリスの長身がかぶさるようにイーツェンの方へ傾くと、顔がフードにふれるほど近づいて息がイーツェンの肌にかかった。喉元にこみあげてくる緊張をこらえ、イーツェンは低く囁かれる言葉に意識を集中させる。
「ディーエンの聖堂をはじめとするユクィルスの神殿は、ジノンとルルーシュを対立させようとしている。ジノンを使ってルルーシュと戦おうとしている、ということだ。自分の道具のようにな。だから明日、ディーエンはその男が実際に何者であろうと、ルルーシュの者ということにして、フェインの名のもとに吊るすつもりだ。そしてフェインに戦士の栄誉を授ける。それを、避けたい」
「私にはどうしようもない」
 尚更、イーツェンが相手の顔を確認したとして何も変えられないだろうと思ったが、センドリスは引かなかった。
「とにかく来い。駄目ならそれでいいから、ジノンに恩を売っておけ、イーツェン」
「‥‥‥」
 その言葉には、少し弱い。
 見えないことが多すぎて、何かの罠に掛けられているような気もしたが、結局イーツェンはそれ以上言い争えずにセンドリスにうながされて歩き出した。逃げられるとでも思ったのか、センドリスは左手でイーツェンの腕をつかんでいる。一体どこに逃げると思っているのかは謎だった。
「‥‥何で三日月の男なんです?」
 聖堂の裏側にはイーツェンには用途のわからない建物が建っていて、センドリスが先導していなければ入り組んだ建物の影の間で迷子になってしまいそうだ。
 腰高の飾り塀の間を抜けて、小さな四角形の中庭を通ったセンドリスは、屋根が平らで背の低い房に近づく。扉の前に立つ衛兵がセンドリスを見て胸元に拳をあて、挨拶してから、無言で扉の鍵をあけた。
「ここの司従長は元々貴族の出でな。その家の紋の中に三日月が意匠として入ってる。それを狙った男、ということだ」
 細長い扉を、センドリスが心なしか体をすぼめながら通り抜ける。イーツェンが中へ入ると、後ろで扉がしまり、センドリスの呟きは半ばそのきしみで覆われた。
「あんたの国には紋章がなかったか」
「そう、ですね」
 王族が自分の名を示す複雑な文字はあるが、ユクィルスで貴族の身分をあらわす絵のような紋章とはちがう。彼らの身分を示し、証しする、その役目は同じだったが、イーツェンはその会話を流した。センドリスの言いたいことはそういうことではあるまい。
 建物の内は、外と同じように何の飾り気もなかった。廊下は狭く、窓は天井すれすれの壁に切れこみのようにひらいた小さな空気窓だけで、空気はよどんで黴臭かった。イーツェンは顔をしかめる。通路の右手には、イーツェンが寝泊まりしている寝房のように扉のない狭い部屋が並んでいたが、センドリスについて歩きすぎていくとどれも空のようだった。
「懲罰房だ」
 センドリスが前を向いたままひっそりと声を沈める、その静かな声さえ反響するほど狭い。
「この奥に、鍵のかかる場所がある。気のふれた者を押しこめるのに使うそうだ」
「‥‥‥」
 ぞっと身をふるわせて、イーツェンはセンドリスを、と言うよりセンドリスの持つ灯りを追った。そこから少しでも離れると途端に暗闇が押しせまってくる。
 センドリスが手に下げた吊り燭の金具が足音に合わせてきしみ、彼の重い革靴の足音とイーツェンのサンダルの音が入り混じって、静寂は余計にうつろなものになる。陰気な足音はセンドリスとイーツェンのものなのに、まるで彼らの後ろをぴたりと追ってくる誰かのもののようにも聞こえた。
 敷きつめられた石に足音がはじかれるたび、イーツェンは息苦しくなる。ユクィルスの地下牢ですごした日々の記憶は、まるで泥濘のように心の底に粘って、奥底に沈みこみ、イーツェンはそれを直視しないようにしていた。痛み、恥辱、絶望、恐怖──得体の知れない黒々とした感情に押し流されつづけた、イーツェンにとってあの場所は、自分の中にぽっかりと口をあけた底のない穴のようなものだった。
 押しこめていた記憶が1歩ずつ、体を満たしながら喉元まで這いのぼってくるようで、暗い石の通路を歩きながらイーツェンは今にも叫びだしてしまいそうになる。そんな自分の弱さに怒りがこみあげてきて、こめかみが熱いほどの痛みにうずいた。ここはユクィルスの城ではない。牢ではない。なのにイーツェンの全身は、あたりにたちこめる閉ざされた罪の気配を嗅ぎとって、過去の腐臭を記憶の底から呼びおこす。
 汗ばむ手を、痛いほど握りしめた。疲労による背中の痛みすら今はありがたい。我を失わないよう、現実にすがりつく必要があった。弱さを見せていい場所でも、いい時でもない。
 歯を噛みしめてセンドリスを追いながら、イーツェンは指先で左耳にふれる。レンギのピアスの存在を感じ、これをイーツェンへ与えたシゼのことを思った。お守りだと、彼は言った──
 乾いた唇をなめ、息を深く吸い、それでも意識はどこかうす暗いところへすべり落ちていく。1歩ずつの歩みに集中しながら、暗がりに見えないものを見出しそうになる自分を押しとどめた。
 センドリスが廊下を1度折れ、先のつきあたりで足をとめた時には、イーツェンの全身は冷や汗で濡れていた。重そうな木格子がセンドリスの持つ灯りに照らされて、格子の影が床にのびちぢみした。
 見張りはいなかったが、太い格子の扉にはイーツェンの拳ほどもありそうな大きな鉄の錠前がかかっていた。禍々しささえ感じさせるそれを手にし、センドリスは太い鍵を使って錠をあける。同じ格子でつくられたくぐり戸を押し、そこから身をかがめて部屋の中へもぐりこんだ。
 いつしかイーツェンの全身が総毛立っていた。そんな暗い部屋へ入っていきたくなどない。闇の奥から血と泥の匂いがして胸がむかつき、眩暈がした。この闇へつれこまれたら、2度と出られない気がする。
 この匂いが実際のものなのか、記憶の中からたちのぼっているものなのか、イーツェンにはまるでわからなかった。この闇の濃さが実際のものなのか、それとも記憶の内側にこもった濃密な闇の色なのかも。
 イーツェンはのろのろと動いて、強硬に抵抗しようとする体を曲げ、センドリスにつづいて奥へと格子をくぐった。醜態をさらしたくない一心と、意地が、どうにか本能的な恐怖に勝った。
 格子戸の内側は空気が湿っぽく、ひえびえとしていた。窓はない──少なくとも、夜の風が入りこんでくるほどの窓はない。イーツェンはマントの胸元をかき合わせ、肩をすぼめて身を小さくしながらセンドリスを追う。夜気に冷えた首の輪が肌に擦れて、ちりちりとした寒気がはしった。
 闇の奥には、まちがいようのない饐えた血の臭いが漂っている。汚物の臭いも入り混じっていた。床石は水気をおびていて、それなりに洗い流してはいるのだろうが、そのぬめりが1歩ごとに靴裏に吸い付くようだ。センドリスの持つ灯りが長い部屋をぼんやりと照らし、壁に埋めこまれた鉄の輪と、そこから垂れ下がった鎖が黒く光った。
 暗い、ぬめるような光を追って、イーツェンの視線が下がる。床にちらばる湿った藁の中に、ぼろ切れのように横たわる人の体があった。鎖は床へとぐろを巻いて、先端にある枷がその人影の両腕をくわえこんでいる。汚れた下帯以外は全裸の体は筋肉質で、一目で大柄な男だとわかったが、その全身を無数の鞭や殴打の痕が覆っていて、イーツェンは吐き気に全身がふるえるのを感じた。じんと耳の中で血の音が鳴る。
 男は血泥に汚れた体を丸め、子供のように膝を胸元に曲げ、背中を壁に押しつけていた。汚れで縄のようによじれた髪が男の顔に垂れ下がり、そのほとんどを覆っている。イーツェンは両足が床に吸いついたようにそこに立ったまま、マントのフードを襟の後ろへ落とし、男を見ようと身を乗り出した。
 たくましい筋肉が盛り上がった体は無残なほどの傷に覆われ、少なくとも片方の足は拷問によって砕かれているのがわかった。枷からのがれようとしたものか、手首の皮膚はすっかり剥けていて、赤黒く割れた傷と枷の下から膿が流れていた。
 喉がつまるような、血臭と腐臭。イーツェンはこめかみに痛みが走るほど歯を噛みしめた。そうでなければ、歯が合わなくなってしまいそうだ。すでに彼の全身は冷や汗に濡れ、小刻みにふるえていた。
 センドリスは壁の鉤に燭台を掛け、男の髪をつかんでイーツェンへ顔を向ける。イーツェンの息は心臓の真上でとまった。顔中が腫れ上がって血がまだらにへばりついていたが、イーツェンには彼が誰だかわかった。
 城にいた時も、アガインのそばにいた時も、彼はいつでも堂々として、己のいる場所に確信を持っているようだった。だががっしりとした顎は今は血にまみれ、陽気な笑みを浮かべていた唇はどす黒く腫れている。こんな風に弱々しく、目をとじてなすすべなく横たわる男の姿は、イーツェンの心を深く刺し貫いた。
 服が汚れるのもかまわず、イーツェンは石の床に膝をついて、リッシュヘと手をのばした。センドリスがするどい声で警告する。
「気をつけろ。指を噛みちぎられた奴がいるらしいぞ」
 イーツェンは返事をせずに、リッシュの肌についた傷にふれないよう苦労しながら、彼の髪を額の後ろへかきあげた。かつて貝や石のビーズで飾り、編んで飾られていた髪は、今は見る影もなく無造作にもつれていた。
 リッシュは目をあけもしなかったが、この体がさいなまれる苦痛の中で人が眠れるとはイーツェンには思えなかった。もっとも、まともな意識はないかもしれない。
「センドリス。水を」
「イーツェン──」
「手桶でいいから、水を。お願いします」
 イーツェンは目にこみあげてくる涙をこらえてくり返す。わずかにふれたリッシュの肌はひどい熱をもっていて、喉の奥に引っかかる息が耳ざわりな音を立てていた。
 腫れ上がったまぶたがゆっくりと動き、リッシュがかすかに目をあけてイーツェンを見る。イーツェンはそこに憎しみを見る覚悟をしていた。ルルーシュの人間は彼をよく思っていない。アガインに協力すると言いながら途中で姿を消し、今はセンドリスと行動を共にして、ユクィルスの聖堂の奥にこうして現れる。どう見ても、寝返ったようにしか見えないだろう。
 リッシュの顔は黒ずんでいて、目の焦点は揺れていた。だがイーツェンを見ると、その唇がかすかに引きつって、彼は弱々しい微笑をイーツェンへ向けた。


 センドリスは結局、通路の奥から衛兵を呼んで水桶を取りに行くよう命じた。衛兵が通路にいたことにイーツェンはまるで気付かなかったが、どうやら距離を取って彼らの背後を見張らせていたらしい。
 水桶が運ばれてくると、イーツェンは腰帯の一部を裂いて水につけ、リッシュの体を少しずつ洗った。傷はじかに手をふれるのをためらうほど無残で生々しいものだったが、それでも泥まみれになるというのがどんな気持ちのものなのか、どれほど自分が情けなさと屈辱で打ちのめされたのか、イーツェンは今でもよく覚えていた。
 傷に冷たい水がかかるとリッシュは獣のようにしゃがれたうめき声を上げたが、イーツェンをとめようとはしなかった。そんな体力がないのかもしれないが、時おり目をあけてイーツェンを見る彼の目の奥にはしっかりとした意志の力があるような気がして、イーツェンはまだリッシュの心が砕かれてはいないのを感じていた。それともそれは、イーツェンの希望が見せる幻だろうか。
 リッシュを動かさずに洗える分だけ洗うと、濡らした布で顔を拭ってやる。傷は深いものから浅いもの、古いものや新しいもの、火傷のような痕まで入り混じっていて、骨が見えるほど凄惨なものもあった。拷問の傷だが、ほかに戦いの中で受けたような剣の傷も胸元を斜めに切り裂いていて、それは半ば癒えていた。
「とらえられたのは、彼1人だけだったんですか」
 イーツェンはリッシュを見つめたまま、重い沈黙をやぶってセンドリスへたずねた。センドリスはリッシュの頭側に2歩離れて立ち、無表情で、両側に垂らした手はいつでも剣の柄を握れるようにかまえられていた。
「仲間がいたとしても、逃げたな」
「‥‥ったよ」
 リッシュが口の中でもごもごと呟いて、布でも口に押しつけたようなその声を聞きとるためにイーツェンは顔をぐっと近寄せた。どうも「1人だったよ」と言ったらしい。その言葉にすべての力を費したかのように目をとじ、体から力が抜けて、イーツェンが呼んでも答えない。彼は朦朧としているようだった。
 アガインや仲間はどうしたのだろうと思いながら、イーツェンは溜息をついた。もはや散り散りになったのだろうか。どうしてリッシュは1人で、聖堂の人間を殺そうとしたのだろう。
 センドリスの声は静かだった。
「知り合いだな、イーツェン」
「この人はどうなるんですか?」
 問いを無視してたずねる。怒るかと思ったが、センドリスの返事は淡々として、そこに緊張や不快感は聞きとれなかった。
「さっきも言ったように、このままなら明日処刑される」
「ほかに道は」
 何か、イーツェンにさせたいからここにつれてきたのだろう。それはわかっていたが、どうしたらいいのかわからない。
 センドリスは口元を引きしめた。
「ルルーシュの者であると認め、棄教し、信条をあらためるならば、王の名において恩赦を与えることができる」
 口をあけ、だが言葉もなく、イーツェンはセンドリスを凝視した。はじめて周囲の暗闇の重さが意識から消え失せ、自分がどこにいるのか気にならなくなる。すべての恐怖を押し流すほどの勢いで怒りが沸き上がり、我を忘れ、彼は拳を握って立ち上がった。裾が濡れそぼったマントが、宙に何かの滴をとばす。
「棄教?」
「それが最低の条件だ」
「それくらいならルルーシュの者は死ぬでしょう。何故──」
 何故そこまでしてリッシュの命を救いたいのか。そんな理由がジノンにあるとは思えず、理由のない情けをかけるとはもっと思えず、イーツェンは言葉を切った。ぐっと顎に力をこめ、首をもたげてセンドリスを真っ向から見つめる。彼らはイーツェンに何をさせたいのだ?
「私には彼を救えない、センドリス。棄教させることが救うことかどうかもわからない。どうして私をここにつれてきたんです。何をさせたいんです」
「これは、ユクィルスの城に傭兵として入っていた男だ。そこまではこっちもわかってるし、顔も名前も割れてる」
 声を低く保って、センドリスはリッシュヘ顎をしゃくる。目をとじたまま、リッシュの手が顔に向かってのろのろと動いたが、それは枷と鎖に阻まれて途中でとまった。鎖のねじれを取ろうとするかすかな動きに、鎖がゆるく擦れあって不気味な音をたてていた。
「だが今のところ、ルルーシュとの関わりは疑いの域を出ない。こいつは口を割らないし、ルルーシュの人間が体に入れている刺青の印もない」
 そんなものがあるとも知らなかったが、迫害される存在である彼らがわざわざ正体を明かすような印を体に入れるだろうか。なくても何の不思議もないだろうと思いながら、イーツェンは口をはさまなかった。そんなことはセンドリスたちの方が百も承知だろう。
「司従長を襲ったのは確かだが、それだけじゃ証にはならん。証のないまま、聖堂はフェインの名を使って人を吊るそうとしている。こっちは大迷惑なんだが、あいつらにゃ話が通じねえ。1度許したら何回でもこの手で来やがるのが目に見えてるってわけだよ」
 やけに砕けた口調でそう言うと、センドリスは腰に両手をあて、溜息をついた。
「水を飲ませてやれ」
 イーツェンはとまどってから、リッシュが腫れ上がった唇で濡れた指先をしゃぶっているのを見た。慌てて膝をつき、桶に残った水を手にすくってリッシュの口元へ持っていく。大半は顔にこぼれたが、数回くり返して、リッシュの唇にやっといくらかの水を流しこんだ。
「だからって、どうして私をつれてきたんです」
 声がどこかへ反響していかないよう、イーツェンはなるべくひっそりと言ったが、声の中にある怒りを消し去ることはできなかった。リッシュが傭兵として城にいたことまでは調べがついても、イーツェンの剣の修練につきあってくれていたことなど、彼らが知っているとは思えない。それなのにどうしてイーツェンをこんなところへつれてきた?
 答えないセンドリスをにらむように見上げると、センドリスは肩をすくめた。
「あんたがまたルルーシュと関わろうとすれば、こうなる。あんたか、シゼが」
「‥‥‥」
 警告のつもりだとでも言うのだろうか。
 顔を戻し、なすすべなくリッシュの傷を見つめながら、イーツェンは目の裏にこみあげてくる熱を押し殺した。
「私は、もうルルーシュの人間とは関わらないし、関われない」
「あんたは、ユクィルスの牢でルルーシュの虜囚を殺したそうだな」
 イーツェンと同じようにひっそりと、センドリスが言う。イーツェンは息を呑みこみ、リッシュを見おろしたままうなずいた。
「‥‥ええ。私が殺した」
「あの時からルルーシュとつながっていたのか?」
「いいえ」
 イーツェンは平坦に答えた。あの時も何度もそれを詰問され、どれほど苦痛を与えられてもイーツェンの答えはいつも同じだった。今聞かれても、同じことだ。
「私は城にいた時に彼らと関わりを持ったことはない」
「ならどうして殺した、イーツェン」
「彼が私にたのんだからだ。あなたは戦場にいたことがあるだろう、センドリス。慈悲からとどめを刺したことが1度もないとでも?」
 顔を上げないまま、だがセンドリスの沈黙に、イーツェンは自分の投げやりな反問が彼の図星をついたことを悟った。苦い吐き気を呑みこむ。他人を傷つけたいわけではないのに、怒りと痛みが彼の言葉をするどくしていた。あのおそろしいほど濃密な闇の中で、男の首をかき切った時の手ざわりは今でもイーツェンのどこかに灼きついたままだ。悪夢の中に、あの一瞬が立ち戻ることもあった。
 少しして、センドリスが静かに言った。
「それがあんたがやったことか。少なくとも、あんたはそう思ってるのか?」
 息を吸いこみ、血と泥の臭いに喉をつまらせそうになりながら、イーツェンはこわばった唇を動かしてゆっくりと言葉を吐き出した。
「あなたとジノンが何をたしかめたいのか知らないが、とにかく今の私は、誰のためにも動いていない。ルルーシュの人間は私を城から出すのを手伝ってくれたが、それだけだ。もうつながりはないし、つながる気もない。私はただ‥‥故郷へ戻りたい、センドリス。ほかには何も望まないし、何にも巻きこまれたくない」
「そういうヤツが1番タチが悪いんだよな」
 溜息をつき、マントが汚れた床につかないようはじを手でたぐって、センドリスはリッシュの頭側にしゃがみこんだ。左手でリッシュを示す。
「まあ、手伝え。俺はこいつの身柄を引き取りたい」
 リッシュの息は喘鳴に近い。喉に、唇に、息がからんで粘ついた音をたて、割れた唇かを滴る水には血の色がまざっている。拭える汚れは拭ったが、こびりついた血は取れないし、もはや傷と血の見分けがつかず、指をふれることすらためらう場所の方が多かった。明日彼が吊るされると言うならそれこそ慈悲かもしれないと思ったが、口に出すことはできなかった。
「何のためです」
 イーツェンは眉をしかめた。どうしてもすっきりと理解できない。
 明日、リッシュが処刑される──避けられるものならそれを避けたいのは、イーツェンの気持ちでもある。だがその先に何が待つというのだろう。ジノンたちの方がディーエンの聖堂よりましな引き受け手と言えるのかどうか、イーツェンにはわからない。たとえ聖堂の手の下からリッシュの身柄を取ったとして、ジノンはリッシュをどうするつもりなのだろう。
 ジノンと聖堂との駆け引きにリッシュが巻きこまれているのはわかったが、その駆け引きがどこへ向かっているのかイーツェンには見えない。わからないことがあまりにも多すぎた。
 死の臭いが濃密に鼻をつき、闇が沁みてくるような寒気にイーツェンは一瞬目をとじた。今にも記憶の底がふたつに割れて、彼を呑みこんでしまいそうだ。唇の内側をきつく噛んだ。
「あんたにひとつ言っとくとな」
 センドリスのひそめた声はざらついていた。
「俺も、こいつをこんなとこで吊るしたかないんだよ。たとえルルーシュの人間だろうとな。少なくともこいつは、アンセラで俺の下にいて戦ってた。その時の仲間が、今も俺の部下にいる。こいつに命を助けられた男もいる」
「‥‥‥」
 イーツェンは力なく首を振った。センドリスの声は真摯で、いつもの陽気さや豪放さははがれ落ち、その下から生々しいものが剥き出しになっていた。だがそこにあるものを真実だと、イーツェンに信じるすべはない。
 それとも、かつて互いに命を預けあって戦った、そういう者同士を結びつける絆はセンドリスが言うほどに強いものなのだろうか。センドリスにとって、今こうして無力に横たわるリッシュの姿はそれほど重いものなのだろうか。たとえ今は別々のものに仕えていても。
「たとえここを出ても‥‥いずれ、あなた方の手でリッシュを吊るさねばならなくなる。彼はルルーシュの者だ」
 はっきりとそう告げて、イーツェンは口元を歪めた。当たり前だがリッシュの正体をイーツェンが裏付けても、センドリスは小揺るぎもしない。
「一体こんなことに何の意味があるんです」
「吊るさなくてすむかもしれん。ジノンは、ルルーシュと取引をしたがってる」
 ごく低い、リッシュの荒い息づかいにすら消されてしまいそうなセンドリスの囁きに、イーツェンは驚いて目をみはった。ユクィルスの執政たちは長年にわたり、土着の宗教であったルルーシュに凄惨な弾圧を加えてきた。彼らはユクィルスと激しい、そして長い時間の敵同士であり、そのことがアガインのように苛烈な指導者を生んだのだ。
「今さら‥‥」
「今しかできないことだ。国の骨組みを変えるほどの色々なたくらみが、あいつの頭の中につまってるのさ。何もかもが変わろうとしている。今、手をつけるしかない。何もかも、長い時間がかかることだが、誰かがはじめる必要がある」
 センドリスの声は熱を帯びていて、イーツェンは背すじにちりりとした戦慄をおぼえた。その声の中には、かつてアガインの声の内に聞いたのと同じ確信と、あふれるような未来への貪欲さがあった。
 イーツェンにとってリグが故郷であるように、センドリスやジノンにはユクィルスが故郷であり、愛する者がいる場所なのだ。そのために彼らは未来を形作ろうと全力でもがいている。
 あらためてそう考えると、どうしてか身の奥がつめたくなるようだった。イーツェンもセンドリスもジノンも、運命の中で蠢き回る虫のようなものだ。
 指先でリッシュの髪にふれた。血と泥でごわついた髪が、かつてユクィルスの城の修練場でイーツェンに斧の技を披露した時には、陽光を受けて赤毛にかがやいていたのを思い出す。
「リッシュ1人を助けて、それが何か違いを生むと?」
「水を波にするためには、いくつも石を投げこまなきゃいかん、イーツェン。どの石がどんな波紋を作るかは投げた後にならないとわからんよ。‥‥俺たちは皆、血みどろだ。今さら1人吊るそうが吊るすまいが何が変わるわけじゃないかもしれないと、俺も思うが」
 イーツェンを射抜くように見つめるセンドリスの目元がふっとやわらぐ。だが視線の強さは変わらず、イーツェンは心臓を圧迫されるような息苦しさの中で彼の声を聞いた。
「俺はできることならこいつを助けてみたいし、助けられるかもしれない。あんたが手伝ってくれればな」
「‥‥‥」
「殺した男を夢で見るだろ? 夢の中で見る顔をふやしたかなかろう、あんたも」
「私の夢は──」
 イーツェンは反射的にはねつけようとした声を途中でとめ、息をゆっくりと吸った。かつてセンドリスに弱みを見せたのは、イーツェン自身だ。センドリスがそこに踏みこんでくるのは仕方がないが、怒りや痛みに足をすくわれてはならなかった。心を鎮めようと、かわいた唇をなめる。
「‥‥俺にかまうな、イーツェン」
 きしり出すような声が下から漂う。リッシュはつづけて何かを呻き、彼を見おろしたイーツェンは途方にくれる。
 リッシュの腫れ上がった瞼が少しひらいて、彼はイーツェンを見たようだったが、そのわずかな動きすら今は弱々しく、ふいに息ができないほどイーツェンの喉がつまった。彼を知っていた、とイーツェンは思う。修練場でシゼと剣や斧で戦った荒々しい動き、イーツェンを気まずくするほどに下品で陽気な冗談をとばし、イーツェンのたどたどしい剣筋まで容赦なくからかいの種にしながら、時おりおだててほめてくれた男。アガインのかたわらでは別人のように厳しい顔を見せはしたが、それでもそこにいたのは生命力と意志の力にあふれた、イーツェンの知っている男だった。それが、イーツェンの知るリッシュだった。シゼの友だった。
 こんなふうに、まるで敗北を受け入れるかのように打ちひしがれ、長い言葉を話すこともできない彼を見ていると、心臓が絞り上げられるようだった。
 ──もし、シゼだったら。
 重い痛みを、息をつめるようにしてこらえる。シゼはアガインの下で、ルルーシュのために働いていた。半年ばかりと短い期間だったとは言え、かなり危険なことをしてきただろうとイーツェンは感じている。1歩まちがえれば、こうして暗い部屋で命を削られていたのはシゼだったかもしれないのだ。
 そしてリッシュは、シゼの友人でもあった。アンセラで2人は共に肩をならべて戦った。シゼがリッシュを信頼していた、それは修練場で時おりリッシュヘイーツェンの世話をたのんでいたことからもわかる。事実、リッシュは、イーツェンが知る中では1番シゼに親しい存在だった。
 重い熱を目の後ろに感じながら、イーツェンは長い息を吐き出す。シゼがここにいたら、リッシュを救いたいと思うだろう。イーツェンにはそれがわかる。誰が一体、こんなふうに血みどろで傷だらけの友人を見て、己の背を向けられるだろうか?
 だがどうやって救う? どうすれば救える? もし、リッシュの命を明日の処刑から救い出し、ジノンとセンドリスの手に身柄をゆだねたとして、それがリッシュを本当に救ったことになるとはイーツェンには思えなかった。
 リッシュを見おろし、それからセンドリスを見やり、イーツェンは自分の頭の中でもつれた物事をまっすぐに整理しなおそうとした。明日の処刑。ジノンの意図。センドリスの慈悲。そしてリッシュの、まるで何かをあきらめたような姿。シゼ──ここで見たものを、シゼに何とつたえられるだろう。何もかも、簡単に天秤にのせてはかれるようなものではなかった。
 無意識のうちに手を挙げ、髪に指をさしこんでぐしゃぐしゃとかきながら、イーツェンは考えこんだ。どのくらいそうやって考えていたのかわからないが、辛抱強く待っていたセンドリスがしびれを切らすまでにはしばらくあったようだ。
「イーツェン、夜明けまでここにいるわけにはいかないんだぜ」
「センドリス。‥‥相談がある」
 イーツェンはリッシュから目を切って立ち上がり、ずっとしゃがんでいた両足に血が通る違和感に顔をしかめた。
 リッシュはまた朦朧とした眠りに戻ったのか、荒かった呼吸はかなり平坦になって、時おり苦痛に体を痙攣させてはいたが、さっきよりは安らかそうだった。
「相談?」
 センドリスはひどく疑わしげな声を出す。イーツェンは両足を細かく踏みかえて足を慣らそうとしながら、ひとつうなずいて、リッシュの姿から目をそらした。