空気はしんと冷えてきているのに、背すじがじっとりと汗ばんでいた。ユクィルスの城内で耳にした噂や目にした光景が1度に押しよせて、その時には何の意味も持たなかったそれぞれの破片が、今イーツェンの中で形を得る。
 王がジノンを重用し、ローギスにやや距離を置いているという噂。ジノンについての謎めいた話。
 ジノンは、王宮と神殿の賛同がない限り、妻を娶ることも子を為すことも許されていない。彼が継ぐ古い巫女の血筋を、ユクィルスは恐れながら守りつづけ、ジノンの恋も子供も禁じていた。それゆえ、誰もジノンを本気で脅威とせず、常に王の二番手として支えに回る側だと踏んでいるところがあった。いくら王や政治に力を及ぼそうと、最後は王と神殿の前に屈するしかないのだと。
 だがジノンは自分自身が二番手のまま、あっさりと「一番手」をすげかえたのだった。
 そこに至るには、イーツェンのわからない、ジノンの長い時間がある筈だ。長い間──息子のため、息子を守るため、おそらくジノンは気付かれぬようにずっと力を求めてきた。いざという時に邪魔をする者を追いおとすための力、そのための権力を。
 そしてあれは、ジノンが待ちのぞんだ瞬間だったのだ。
 黙っている方が利口かもしれないと思ったが、もうイーツェンは心に澱んだものをそのままにしておくことができなかった。ジノンが挑むなら、イーツェンは立ち向かうしかない。
「あなたは王の耳に囁きを注ぎこみ、王に不安を植えつけた。王がローギスを恐れ、遠ざけ、彼の力を削ぐように。‥‥ローギスはあなたに敵意を向けていたが、あなたはそれを真っ向から相手にするのではなく、王の疑心と恐れを使った。そうでしょう? それが、あの日おこったことだったのでしょう?」
「あの日?」
「王が死んだ日。オゼルクがとらえられた日」
 不思議と身の内が痛んだ。オゼルクはとらえられても何も釈明せず、沈黙したまま、翌日に破獄して姿を消した。罪人と糾弾されながら彼は何故語らなかったのだろう。オゼルクの内にあったものが、今もってイーツェンにはわからない。
 ジノンがまなざしをゆるめて微笑めいたものを見せたが、粘りつくような空気は重いままだった。
「君は誰が毒を盛ったか知っている。そうだな、イーツェン?」
「知っているわけではない‥‥これはひとつの物語にすぎない」
 そう言ってイーツェンはジノンがさえぎるのを待ったが、目でうながされ、彼は乾いた唇をなめてつづけた。
「あなた方はひとつの壺から同じ酒を飲んだ。そして王は死に、ローギスは毒の害を強く受け、あなたも苦しんだ」
 ワインは持ちこまれる前に毒見の手を経た筈で、その後で酒に毒を入れられたのはその場にいた4人だけだ。だからこそオゼルクに罪ありと断じられた。
「それほどの毒を、それだけの量手に入れてあやしまれることがなく、それを壺に混ぜて他の者の目にとまらない人は1人しかいない。あなた方にはそんな毒を盛ることなどできなかった筈だ。あなたとローギスとオゼルクは、いつも互いを見張っていた。わずかな毒ならともかく、そんな量を混ぜるのは無理だ」
「君は、目がいいと常々思っていた」
 ジノンの声は本気の賞賛を含んでいるように聞こえたが、そうだろうか、とイーツェンは思う。後になって見えてきたと感じるものはある。だがあの時、あの場所で。何が見えていただろう。イーツェンはいつも物事の間違った側ばかりを見てきたようだった。
 天幕の仕切りの内には2人のほかに誰もおらず、外から誰の声も聞こえてこない。部屋は安全に思われたが、イーツェンは声を低くした。
「あの日、そもそも、ローギスを殺そうとしたのは王だった。そうだったのでしょう? あれはそのための毒だった。王が息子を除くための‥‥だからあなたもローギスも、毒を盛った者を弾劾することができなかった。たとえ死んでも尚、王を殺人者として告発することはあまりに危険だからだ」
「半分、正しい」
 低く、なめらかな声はかすかに笑っていた。
「私はたしかに王に囁いたが、だがローギスもまた、うかつだった。彼はいつも自分が手に入れたものに満足しなかったし、実際、王の薬に幾度か毒を盛った。病のままでいるように、弱い毒を。ばれないと思っていたのだろうが、彼は自分で危険な獣の尾を踏んだのさ」
「あなた方は一体何をしていたんです?」
 理屈のない怒りにイーツェンの声がとがった。濃密な血のつながりがありながら常に互いにするどい刃を向けあっていた、イーツェンにはそれが理解できない。彼らは一体どんなふうに生きてきたのだろう。
 ジノンは右肩だけを軽くすくめた。
「君はあの城で何をしていた?」
「それは──」
 喉元で声がつまる。動じるな、とイーツェンは自分に言い聞かせた。入りこませるな。今、目の前でおこっていることに集中しなければならない。彼の痛みをジノンに使わせてはならない。ジノンはイーツェンの傷がある場所をいくらでもえぐることができるが、今はその痛みや怒りに足元をすくわれていい時ではなかった。
 だがいくら払いのけようとしても、ジノンの声は信じられないほどつめたく、イーツェンの肌の内側まで入りこむ。
「イーツェン。私たちはその時、生きのびるために必要と思うことをした。それが正しいことかどうかは問題ではない。どれほど愚かしいことかも」
 人が死に、自分の故国を2つに割り、この地に戦いが広がってもだろうか。
 だがイーツェンは反問の言葉を呑みこんだ。イーツェン自身もまた、たしかに愚かしいことをくり返してきた。自分を守るため、自分の愛するものを守るために。あるいは少なくともそのためだと信じて。
 ジノンは少しの間、炉にかぶせた鉄籠ごしにちろちろと揺れる炎を見ていた。
「私たちは皆、どこかで予期していた。誰かが誰かを殺そうとすることを。あの日、王の手から杯を受けたローギスは、それでもそれを底まで干さねばならなかった。それが礼儀というものだ」
 口元がかすかに歪んだ。声はその笑いを何ひとつうつさなかった。
「もし王があの杯を私にふるまえば、私が飲まねばならなかった。兄は私をも恐れていたからな。彼は長い間、病んでいた。彼が毒を使った相手は、ローギスが最初というわけでもない」
「‥‥‥」
「ローギスは毒を飲み干し、しばらく体に棒でも呑んだように直立していてから、吐いた。それから王の襟首をつかむと、王が手にしていた杯を奪い、中身を彼の口に無理矢理流しこんだ」
 イーツェンは全身が凍りつく思いでジノンの静かな言葉を聞いていた。王は全員の酒に毒を混ぜ、手ずからローギスに杯を与えることで、己の息子へ最初に毒を飲ませたのだ。それは暗く、ひどくおぞましい一瞬だった。
 その光景がまざまざと脳裏にうかんだ瞬間、そこにいて生き残った3人が何故事実を語ろうとしなかったのか、ふいにイーツェンの中にすとんと落ちるものがあった。誰もローギスをとめようとしなかったからだ。ローギス自身は──それが報復によるものであっても──父殺しであり、そしてジノンもオゼルクも、それをとめようとせず、王殺しの瞬間をただ見ていたのだった。言葉によらず、行為によらず、それでも彼らはその瞬間に共犯者となった。だから誰も語れなかったのだ。
 それを今、ジノンはイーツェンに語って聞かせる。ジノンはイーツェンがこのことを誰にも話さないと知っている、それがどこか不吉だ。だが今やイーツェンは引き返せなかった。
「あなたは毒だとわかって、その酒を飲んだ。どうしてです?」
 兄の耳に疑心を吹き込んで甥の力を削ごうとした男は、炎を見ながら肩をすくめる。唇のはじに湿った笑みがこびりついていた。
「自分の足で立っていれば、私が毒を盛ったと疑われる」
 だからと言って人が毒を入れた酒を、何の毒かもわからぬのに口に流しこむだろうか。イーツェンはほとんどあきれたが、もしかしたらジノンは毒の正体くらいはあらかじめつかんでいたのかもしれなかった。だが、わかっていなくても飲むだろう。それがジノンの怖さだった。
 首を振って、イーツェンは乾ききった唇を酒で湿した。あまり酒を飲まないイーツェンのために林檎酒はあらかじめ薄めに割られているが、今はもっと強い酒であってもよいほどだ。
「‥‥‥」
 ふと手がとまり、イーツェンは手の中のグラスをまじまじと見てしまう。その中に入った酒を。一瞬思考の方向を失った彼の耳に、ジノンの含み笑いがとどいた。
「飲んでから眺めては遅かろうよ、イーツェン」
「そうなんですけどね」
 思わず顔が赤くなるのを感じて、イーツェンは首をすくめた。ジノンが毒を盛っていると疑ったわけではなく、話の成り行きでついうそ寒い気持ちになっただけだが、子供っぽい恐れを見すかされたのはきまりが悪い。もう一口飲んで、イーツェンはジノンをまっすぐに見た。
 ジノンが人差し指を自分の唇にあててみせてから、両手を叩いて少年を呼ぶ。
「ロシェ!」
「はい」
 打てば響くように返事があって、少年はからげた幕の間から頭をつき出し、2人へ素直な目を向けた。ジノンが命じる。
「火を」
「かしこまりました」
 ロシェは炉に歩みよると火かき棒を引っかけて鉄籠を外し、燠を並べ直して小さくなった火を手早くととのえた。イーツェンの視線は自然と彼に引きつけられる。
 ロシェの動きはてきぱきとしていて停滞がなく、手を迷わせることもなかった。このくらいの年の従僕や従士は珍しくもないとは言え、それにしても物腰に幼さがない。指輪や自分の家をあらわす紋章は何も身につけていないようだったが、新しい薪をくべて火をととのえる袖口に簡略化された紋が入っていることに、イーツェンは炎の明るさで気付いた。フェインの紋だ。それはロシェ自身の家柄を示すものではなく、彼がフェインの下に仕えることを示していた。
「ロシェは、普段はフェイン陛下の侍従をしているのだ」
 ジノンがイーツェンの視線をとらえ、何気なく説明した。
「今日は私の役に立ってもらっているがね。センドリスはどうしている?」
「フェイン様に色々とよくないことを教えておいでです」
 まじめな口調でロシェがそう言ったものだから、イーツェンはあやうく口に含んだ林檎酒を吹き出しかかって、盛大にむせ返った。ジノンが思案顔で腕を組む。
「あれは、一生治らんな。お前の父上にも困ったものだ」
「私もそう思います」
 いたずらな、だが明らかに敬慕の念のこもった表情でロシェは微笑すると、ととのえた火に鉄籠をかぶせて、ほかの用がないことをたしかめてから部屋を下がった。
 イーツェンはジノンの視線を感じながら、しばらくの間、とじた幕を眺めていた。イーツェンとジノンとをつなぐ重い空気の上に、少年のかろやかな声がまだ残っているような気がした。
「彼は、知らないんですか」
「自分の出自が複雑であることだけは承知している」
 ジノンの返事はおだやかだった。
「あれを生んだ時に母親は死んでな。まだ物心つかないうちに、センドリスが友人の家に従士見習いとして入れ、そこでよく躾けられたようだ。いずれいいフェインの右腕になるだろう」
 何故自分にこのことを話したのだ、と問いかけて、イーツェンは言葉を呑みこんだ。イーツェンはたしかにロシェの正体に気付いたが、それをジノンに言うつもりも、その秘密を使ってジノンを脅す気もなかった。だがジノンはそれではすませられなかったのだろう。
 わざわざイーツェンがどこまで知っているのか確かめて、その秘密をどうするつもりなのかはっきりとさせ、そのことが後の憂いとなるかどうか己の目のとどくところで見極めにかかった。親心というものではあろうが、ひどく剣呑な親心だ、とイーツェンはこっそり苦笑する。
「ジノン、私は人の秘密を振りかざすようなことには興味がない。人の心には誰も泥靴で踏みこまれたくない場所があるし、あなたがその気になれば、私は頭から爪先まで泥まみれだ」
 頬杖をついたジノンが睫毛を上げるようにしてイーツェンを眺め、イーツェンは笑った。
「私があなたの大事なものに指1本でもふれたら、あなたは私の皮を生きたまま剥ぐでしょう。そのくらいのことは、私にもわかる。私はここにあなたと取引しに来たのであって、あなたと喉元に刃をつきつけあうために来たわけではない。その手のことは、正直なところユクィルスの王族の得意技ですから、あなた方におまかせする」
 ぎりぎりの冗談は、ジノンの頬にかすかな微笑をうかばせた。イーツェンはうなずきを返す。人を脅すのは好きではないし、ジノンは脅すにはあまりにも危険な相手だった。
 好むとか好まないとかいう以上に、そちらに1度足を踏みこんでしまえば、イーツェンはこの場を切り抜けられないだろう。ここで脅して、自分が無事に帰れるかどうかイーツェンには自信がない。もしシゼがそばにいればそういう強引な手段を取ることを考慮したかもしれないが、今のイーツェンに自分の身を守る方法はなかった。
 それでも、打つ手が消されたわけではなかった。ロシェのことを語る時のジノンの声のやわらかさは、イーツェンに最後の──そして彼なりの賭けを打たせる。彼はジノンのまなざしをとらえ、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ただひとつだけ、ジノン。あなたが力を貸してくれたなら、私は一生、何があってもあなたの息子の味方だ」
 ジノンの目の中に炎のような激しさが動いた。目をそらすことなく片手を上げ、イーツェンは何かを言いかかった彼をとめる。
「そうでなければ敵になると言っているわけではない。私は、そういうことは嫌いだ。あなたの子供を私たちのことに巻きこみたくはない──親が何かを背負わねばならないとしても、それは子供には関係ないことで、彼らは親の影から自由であるべきだ」
 乾いた喉にふいに言葉がひりついて、イーツェンは林檎酒を口に含んだ。本心から出た筈の言葉は、同時に思わぬところでイーツェン自身を貫く言葉でもあった。親の影を子に背負わせるのは、馬鹿げたことなのだ。彼自身においても。
 ロシェがくべていったハコヤナギの枝に炎が絡みつき、赤い舌を這わせるように枝全体を火の内に呑んでいく。火のはぜる静かな音とゆらめく影が心を落ちつかせ、イーツェンは深い息を吸いこむと、ジノンをまっすぐ見つめて言葉をつづけた。
「ただ、あなたが諾と言ったなら。私が生きている限り、そしてあなたとあなたの息子が私とリグの間に立ちはだかることのない限り。あなたの息子には、この世界のどこかに味方が1人いる。山の向こうの、ふたたび会うことのないかもしれない味方ですが」
 言葉をかるく保って、微笑した。
「いつか、私が力になれるようなことがあったら。私は必ずあなたの息子を助ける。何の条件も代償もいらない。何があろうとあなたの息子の側につく、そういうのはどうですか?」
 ジノンは奇妙なまなざしでイーツェンを見つめていた。ゆっくりとまばたきしながらイーツェンを凝視する彼は、決して怒っているわけでもなかったが、その青い目に微笑はなく、どこかイーツェンの言葉を聞いてさえいないように見えた。
 高い頬骨の上で目尻のするどい目をすがめ、薄い唇をさらに両側に引いて、ジノンはまるではじめてイーツェンを見たように彼を見つめていた。一寸刻みに検分されているようでひどく居心地が悪かったが、イーツェンは少しの間ジノンの返事を待ち、それから右手を心臓の真上に置いた。誓うように。
「これが私のすべてだ、ジノン。あとはあなたの問題だ」
「‥‥君は」
 ジノンは珍しく、そこからつづける言葉を見つけられないようだった。あるいは言うべきではないことを言いかけたのかもしれない。それもまた、彼らしくない。
 言葉をとめ、目をとじて、ジノンはまるで闇の奥に何かを聞くように考えこんでいた。彼がその目をあけた時にどんな答えが戻ってくるのか、イーツェンはすべての可能性にそなえようと息を吸いこみ、こわばった体の奥に呼吸を溜めながら待った。
 あらためて見ると、ジノンの顔の線は以前より少しばかり痩せたような気がする。きつく引いた口元の険しさや、わずかに傾いた首すじに疲れがにじんでいた。この前、こんな風にジノンをまっすぐ見たのはいつだっただろうか。多分、リグの街道が崩れたという報がユクィルスに届き、イーツェンが裁きを受けたあの時だ。あれはまだ春の兆しが見えはじめた頃だったが、イーツェンにとっては何年も前のことのように思えた。
 あの時はジノンのことが何もわからなかった。だがこうして語りあい、向き合った今は、いつも遠い存在だった彼を不思議なほど近く感じる。生きてきた世界も生き方もまるで異なっているが、イーツェンもジノンもそれぞれその場所でもがきながら、今立つところまで辿りついてきたのだった。
 ──誰もがそうだ。
 ふっと心の奥にさだまる重みがあった。もがいて、ここまで来た。シゼにすがりつき、よりかかって、それでもイーツェンはここまで来た。もしジノンが彼に力を貸すことを拒否したとしても、それで終わりではない。自分の中に残るすべての力を使って、生きていく道を探しつづける。それだけのことだった。
 イーツェンの視線を感じたように、ジノンが目をあける。2人の視線は正面から噛み合って、イーツェンはたじろがなかった。
 ジノンが何らかの答えを出したのが、彼の目の中にともった光でわかった。イーツェンは息を吸いこんで、彼の言葉にそなえようとする。
 その時、幕の外から張った声がかかった。
「閣下。ギール隊長が火急の用があると申されております」
「わかった。今行く」
 それはジノンが待っていた、あるいは恐れていた一報だったのか、表情につめたい緊張がさっとはしると、ジノンは素早く膝を起こして立ち上がった。とまどうイーツェンを見おろして、彼は表に控える自分の息子を呼ぶ。
「ロシェ」
「はい」
「センドリスの耳をここまで引っぱってきてくれ。三日月の男の件はイーツェンにまかせると伝えろ」
「はい」
 打てば響くような返事とともに、ロシェはすでに走り出しているようだった。
 ──三日月の男?
 イーツェンがわけもわからず眉をしかめると、ジノンはさっさと厚手の長衣に袖を通しはじめる。イーツェンは一瞬迷ってから、立ち上がってジノンが上着をまとうのを手伝った。ジノンは礼のかわりに小さくうなずき、かたわらに置いていた小剣を帯に手ばさむ。
「取引の返事をする前に、君にひとつ手伝ってほしいことがある。見てほしい男がいる。センドリスに案内させるよ」
「それは条件ですか?」
 マントを着せかけながらイーツェンがそう問うと、ジノンは胸元の留め金にかけた手をとめ、イーツェンをまっすぐに見た。
「いや。断ってもいい」
 そう言われると、かえって理由もなく断れない。それをジノンにあてこまれている気がしてイーツェンは渋い気分になったが、結局うなずいた。駒のように動くことを予想され、動かされるのは気持ちのいいものではない。だがここではねつけるのが利口なことにも思えなかった。
 ジノンは表情に緊張をにじませたまま、イーツェンに最後の微笑を向けた。
「ありがとう」
 マントの裾を翻して大股に出て行くジノンの後ろ姿を見送りながら、イーツェンは腹の底にざわつく落ちつかなさを押しこめようとした。一体イーツェンに「見てほしい」男というのは誰なのだろう。「会う」ではなく「見る」という言い方をしているのも、あらかじめセンドリスにその話を通していたようなのも、あまりいい予感を与えなかった。
 自分が怯えはじめているのを感じる。溜息をつき、イーツェンは荷物のそばに膝をつくと、口をあけたままの袋を探った。護身用にすらならない小さな短剣が手にふれたがそれは無視して、火打ち金と錆びた釘が入っている皮の小袋を引っぱり出す。袋の口紐をほどいた。
 釘は、荷の中にある薄い木片とひと揃いに準備したもので、簡単なことであれば板の表面を欠いて書き留められるようになっている。イーツェンは木の表面に、この道程の日数を刻み、いくつか大きな道標を──馬車の窓から見ることができたものは──半ば記号のようにして刻んであった。いざという時にそれが役立つかはともかく、そうして物事に注意を向け、整理するのはいい気晴らしにもなって、イーツェンは予備に持ってきていた染め皮の切れ端にも日々の物事を刻みはじめていた。
 たが今探しているのは、釘ではない。袋の奥にさしこんだ指で目的のものをうまく探り出せず、イーツェンは小袋をつかみ、左の手のひらに向けて斜めに傾けた。
「何してる?」
 センドリスが入ってくるなり不躾にたずね、答えようとしてイーツェンが目を上げたその時、翡翠のピアスが袋から転がり落ちた。受けとめそびれた手のひらにはねて、小さな耳飾りは床へこぼれる。
「イーツェン、何を──」
「動かないで!」
 慌てた声を上げ、イーツェンは這いつくばるようにして顔を毛皮の敷物に近づけた。地面に敷くためか、ごわついて毛足の長い獣の皮──おそらく熊だろう──に手のひらを這わせ、ちくちくと肌を刺す感触に顔をしかめる。
 だがその毛皮が幸いして、ピアスはほぼ落下したところに受けとめられていた。手のひらで小さな塊を探りあてたイーツェンは、指先を使ってどうにかそれを掘り出す。小さな勝利感に笑って、金具の部分をなめると、手探りでピアスを左耳に通した。
 耳朶を飾る感触を指にたしかめ、疲労が少しばかり体から抜けていくのを感じる。奴隷の耳には不自然な飾りだが、どうせもう日も落ちて暗いし、イーツェンの耳元など誰も気にはすまい。念のために少し髪を留め紐から抜いて左耳にかかるように垂らし、満足したイーツェンは笑顔をそのままセンドリスへ向けた。
「お待たせしました」
 じっと仁王立ちで待っていた男は、あからさまに何か言いたそうな顔をしていたが、小さな溜息をついて話題を変えた。
「木札を外せ」
 言われたとおりに、沈黙行のしるしである木札を首から外し、床に置く。
 センドリスはついてくるよう親指でイーツェンに合図すると、入り口の幕をからげてイーツェンを先に通した。礼儀と言うより、イーツェンに目を据えておくための行為のようだと感じながら、イーツェンは大股に外へ出た。だがジノンのために区切られたその部屋から出た途端、ロシェとほとんど鼻と鼻をつき合わせてしまい、勢いあまっていたイーツェンは彼の胸までしかない背丈の少年につんのめりかかった。彼に両腕を回し、抱えこむようにして大股によろめきながら、何とか転倒をふせぐ。
「ごめん」
「すみません」
 2人は同時にあやまり、少年はあわてふためいた様子でイーツェンからとびのく。まだ子供らしい大きな両目はうろたえはしていたが怯えはなく、イーツェンはその顔つきが気に入った。どういう出自にせよ、ロシェは慈しまれて育ってきたのだ。それが、控えめながらも怖じたところのない物腰からわかった。
「ロシウス」
 イーツェンにつづいたセンドリスが、苦い声で不作法をとがめる。ロシェの頬骨の上にぱっと赤い色がのぼり、彼は両腕にのせたたたんだマントをまっすぐにイーツェンへ差し出した。
「こちらを、どうぞ」
「‥‥ああ」
 イーツェンは自分が肩にかけているのがジノンの、そして室内用の丈の短いマントなのに気づいて、それを肩から外した。ロシェはどうやら、イーツェンが外に行く気配を察してとり急ぎ厚手のマントを見つくろってきたらしい。
「ありがとう、借ります」
 ロシェの手を借り、布で裏打ちされた上等なマントを羽織りながら、自分の質素な格好や首の輪との不釣り合いさにたじろいだが、イーツェンはひとまずそれを頭の外へ押しやった。イーツェンがこのマントをまとうのがまずければ、後からセンドリスがはぎ取るだろう。
 センドリスに後ろから肩を押され、イーツェンはロシェに笑みを向けてから歩き出した。通りしな、センドリスが無言のまま手をのばして、ロシェの髪をぐしゃぐしゃにかきまぜる。目のはじでその愛情にあふれた仕種をとらえて、イーツェンはこっそりと微笑を隠した。複雑な出自がそのまま不幸とは限らない。ロシェはまっすぐに育ってきたようだし、彼の名義上の父親は明らかに彼を可愛がっていて、血筋上の父親は彼のためにどんな犠牲もいとわない。
 人の運命というのは本当に奇妙なものだと思いながら、イーツェンは緊張と高揚の入り混じった気持ちで歩き出した。イーツェンの運命ばかりがねじれているわけではない。
 だがせめて、自分の人生にねじれた結び目のひとつかふたつ。今夜、ほどけるものならほどいてしまいたかった。