少年は幕の手前で立ちどまり、背すじを正して声を発した。
「ロシウスです」
返事を待たずに左手で幕をからげ、イーツェンへ内へ入るよう手で招く。イーツェンは盆とワインを持ったまま膝をかがめて小さく一礼し、中へと歩み入った。
すぐさま、床に敷かれた毛皮に靴が沈む。贅沢な話だ。サンダルの土を足踏みで払って、イーツェンは給仕らしく足音を立てないように前へ進んだ。
まるで、天幕の中と言うより少し手狭な書斎の一室のようだった。一角に本棚が置かれ、正面奥には大きな書き物机が鎮座している。壁がわりの衝立には地図を織り上げたタペストリーが架かって、背もたれのない丸い腰掛けがいくつか置いてあった。右手奥、衝立で半分だけ区切られた向こうにはくつろげそうな寝床がしつらえられていた。
部屋の中央には煉瓦で平炉が切られていて、小さな炎の上に火除けの鉄籠がかぶせられていた。炉の向こう側に置かれたクッションにやわらかな肩掛けを羽織った男が座り、少しひらいた立て膝に肘をのせた、やや前屈みな姿勢でイーツェンを見ていた。
記憶にあるより、少し痩せただろうか。薄い唇に、ジノンはかすかな笑みをうかべていた。
だがその笑みはただの習慣であって、彼の内面にあるものを映しているわけではない。イーツェンの動きを追う青い目に真意がうかがえないかと見つめ返したが、イーツェンにはそこにあるもの以上に何も読めなかった。いつもそうだ。
黙ったまま頭を下げ、許可を待たずにジノンへ歩みよる。すぐ傍らにイーツェンが来ても、ジノンは警戒の色もなくイーツェンを見ていた。イーツェンの裸をあらためさせ、新しい服を与えて、わざわざ何も持っていないことを確かめさせたのだ。用心の必要などないだろう。
ジノンのかたわらの毛皮に片膝を落とすと、イーツェンはいい加減に持ち疲れていたワインの壺と盆を置いた。少年がその間に箱棚から青と赤のグラスを2つ取り出し、小さな脚付きの台にのせて脇に置いた。ジノンに手で示されるまま、イーツェンは壺を傾けてグラスに酒を注ぐ。
その間に、少年が炉の傍らに毛皮で小さな席をしつらえていた。ジノンはグラスを2つ手にしてゆっくりと立ち上がり、イーツェンにも立ち上がるよう合図すると、イーツェンにグラスを手渡しながら微笑した。
「イーツェン、ロシェだ。ロシウス・ディグレイ。センドリスの息子」
かたわらに手招いた少年を紹介され、イーツェンははっと息を呑んだ。すぐにその反応を覆い隠そうとしたが、もう遅い。ジノンがするどく彼の表情を読んだのがわかった。
だがそれをおくびにも出さず、ジノンはなめらかに続ける。
「ロシェ、こちらはイーツェン。リグの第三王子で、私の友人だ」
ジノンがあっさりと彼の正体を明かしたことに、イーツェンは凍りついた。これは予想していなかった。
ロシェはためらわずに微笑し、頭を下げた。イーツェンの首の輪や背中の鞭打ちの傷を見ているはずなのに、声にも態度にも侮りはなく、客に対する礼儀は完璧だった。
「お会いできて光栄です、イーツェン殿下」
どういう態度を取るべきか迷いながら、イーツェンは片膝をかるく曲げて身をかがめた。一礼を返す。
「こちらこそ」
5日ぶりに出した声は自分の耳にも固かった。ジノンはひとつうなずき、それが合図だったかのようにロシェはふたたび彼らに頭を下げてから、天幕の部屋を出ていった。
「座って」
少年を見送ったままぼんやりしていたイーツェンは、うながすジノンの声に我に返り、先に座りこんでいるジノンの隣に腰をおろした。もう1度うながされて、手にしたまま忘れていたグラスに口をつける。その時はじめて、自分が運んできた壺に入っていたのがワインではなく林檎酒だったことに気付いた。しかも、薄められている。
イーツェンがユクィルスのワインを苦手としていることや、林檎酒を薄めるのを好んだことを、ジノンは覚えていたらしい。
「食べなさい」
ジノンは食べ物をのせた盆を示し、空腹に押されてチーズに手をのばすイーツェンを見ながら、あぐらの膝に頬杖をついた。彼の声はなめらかだった。
「久しいね、イーツェン」
「あなたはお忙しそうですね」
まるで城にいた時のように、イーツェンはごく自然な調子でこたえた。首の輪のことは気にしないことにした。ジノンが求めない限りここでへりくだって見せても仕方がないし、こちらが下手に出れば目をかけてくれるような、くみしやすい相手でもない。
ジノンはとじたままの唇をニッと横にひろげて微笑した。襟元をゆるめたシャツにやわらかな灰褐色の肩掛けをまとって、彼はくつろいでいるように見える。
「そうだな、色々と。君も忙しかったろう」
無作法にも口に食べ物を入れたまま、イーツェンはうなずいた。修行者用の食事がきちんと出されていたとは言え、量が充分とは言い難く、つねに腹が減っている。そもそも旅に出てから腹一杯食べたことなどほとんどないので空腹には慣れていたが、食べていいと言われれば食べたい。それに、舌にやわらかにまとわりつくような、熟れて上等なチーズだった。
ジノンはおかしそうに目をほそめた。
「こう言っては何だが、元気そうだ。また会えるとは思わなかったよ」
会えるとわかっていたらイーツェンの処刑をでっちあげたりはしなかっただろうか? だがイーツェンは胸にともった問いを口にはしなかった。聞きたいことも、言いたいことも、それではない。
手の食べかすを払って、イーツェンは背すじを正した。部屋には彼らのほかに誰もいないが、毛皮の壁の外にどれだけ音がとどくかわからないので、声はジノンよりも低めに保った。
「ジノン。私はリグへ帰ります。そのためにあなたの助けを乞いたい」
「言ってみろ」
静かな口調だった。ジノンは膝に左で頬杖をついたまま、右手にくるむように持ったグラスをかるく揺すり、イーツェンを見ている。
「アレキオンの川の国境いの川関を抜けるための手形が必要です。私と連れの、2人。ルスタの港町まで下り、そこから東回りに海路を使ってリグへ帰るつもりですが、身分を保証するものがなければ逃亡奴隷と思われる。あなたならその手形を用意できるでしょう」
「ここにいたらどうだ。アンセラを平定したら、護衛をつけて、山の道を使ってリグへ帰してやれる。勿論それまで、君のことは客として丁重に扱う」
「ジノン、今の私には価値がない。あなたは私の存在を公的に殺したし、生きていたとしても私は城から逃亡した罪人だ」
声に苦いものがまざらないよう注意しながら、イーツェンはジノンの目をまっすぐ見つめて、体の奥にねじれるにぶい痛みを感じまいとした。弱さを見せてはならない。彼がどれほど傷ついたか、今でも傷ついているか、わざわざ知らせることはない。
ジノンは考え深げに一口、林檎酒をすすった。
「あの処刑か。そのへんはどうとでもなるがな」
「あなたならできるでしょう。でもどうにかして、それからどうするんです? 私はあなたのために何の芸もできないし、リグはもうユクィルスと関わるつもりはない。あなたが私を何かに役立てるとしたら、ローギスの目の前に放り投げるくらいでしょう。ローギスも犬の骨以上の高値はつけないでしょうけどね」
挑戦的に言葉を重ねるイーツェンに、ジノンの目の奥に愉快そうな光がきらめいた。
「ローギスより、アンティロサの方が君に高値をつけると思うがな」
「どうしてです」
イーツェンは眉をしかめた。会ったこともない、ローギスとオゼルクの母親だということ以外イーツェンとの接点など何ひとつない女が、どうして彼をほしがるのか。
「彼女はオゼルクを可愛がっていたからな。オゼルクが自分を裏切ったのは、君のせいではないかと疑っている」
「‥‥意味が、わかりませんが」
「君がオゼルクをたぶらかして王を毒殺させたのだと思っている、ということだ」
「‥‥‥」
怒りよりも、あきらめに似た乾いた虚しさが胸を満たして、イーツェンはかすれた笑いをこぼした。
何ひとつ実情を知らない筈の他人がどれほど歪められた目で物事を見るかは、不思議なほどだ。己の望みや恐れ、憎しみが入り混じると、物事の地平はあっさりと傾く。
わざとかるい調子を装って、イーツェンは声にもう少し明るい笑いを含ませた。
「たぶらかせるくらいだったら、もう少し得になることをしてもらったんですけどね。彼女はオゼルクが王に毒を盛ったと思っているんですか?」
「君は?」
ジノンが蹴り返した問いに、イーツェンは微笑する。それは旅の間に何度か、イーツェンが考えた問いであった。オゼルクは本当に王を毒で弑したのだろうか?
オゼルクは1度、イーツェンに毒を呑ませようとしたことがあった。イーツェンが地下牢でなすすべなく死を待っていた時、牢を訪れて手の中の瓶を見せ、楽にしてやろうかとイーツェンにせまった。
イーツェンは首を振って、彼を拒否した──だがあの時イーツェンが首を縦に振ったとして、オゼルクはイーツェンに毒を呑ませただろうか。そもそもあれは本当に毒であったのか、オゼルクはあの時、ただイーツェンの生きる意志を確かめに来たのではないかとイーツェンは疑っていた。イーツェンを地下牢から出すかどうか、オゼルクは最後まで迷っていたのではないだろうか。ローギスの意志に逆らうことを。
あの小瓶にはイーツェンとオゼルクの、2人分の決断がかかっていた。そしてオゼルクはあそこで何かを決断したのだ。それは彼にとって何かを変える決断だった。イーツェンを牢から出してからずっと、彼はどこか遠くを見ていた。
そのオゼルクが、王を殺すかどうか。イーツェンにはわからない。あの夜、同席していたローギスもジノンも、毒の入ったワインを飲んだ。そしてオゼルク1人だけが毒を呑まずにそこに立っていた。そんなあからさまな真似をするほどオゼルクが愚かであるとも、しなければならないほどオゼルクの中に憎しみの意志が満ちていたとも、思えなかった。
一種、奇妙な形でイーツェンはオゼルクの潔白を信じていた。だがジノンにも誰にも、その感覚をうまく説明できるとは思えない。たとえシゼにさえ。歪んだ関係の中で、イーツェンがオゼルクの中に見ていたもの──彼らがともに相手の中に見ていた痛みを、言葉にして人に示せるとは思えなかった。
林檎酒を飲む間だけ黙ってから、イーツェンはジノンへまっすぐに顔を向けた。青い目が揺らぎなくイーツェンを見つめている。表情こそおだやかだったが、イーツェンが隠すものすべてをはぎ取ろうとするような、するどい意志が青い双眸の向こう側にはあった。
「ジノン。私は誰が毒を盛ったのかは知らないし、興味もない。それはあなた方の間のことであって、もう私の問題ではない」
それ以上言わずにすませるのが利口だろうか。だが迷いを捨て、イーツェンは一歩踏みこむ。
「でも誰が、人を殺すほどワインに混ぜても気付かれないような毒を手に入れていたのかは知っている。エナが私に教えてくれた」
「‥‥エナ」
「シェナ・シーリア。あなたによろしくと」
イーツェンが言葉に含んだ意味をどう読んだのか、ジノンの表情は空白だった。イーツェンは自分が下敷きにしている毛皮のよれを左手で直しながら、続ける。
「彼女からあなたに手紙を預かってます。私の荷物の中に入っています」
ジノンが無言で両手を数回叩くと、たちまちにロシェが入り口から顔をのぞかせた。
「お呼びですか」
「イーツェンの荷物をここへ」
「かしこまりました」
ほとんど間を置かず、あっというまに運び入れられた見覚えのある革袋に、イーツェンはちらっとジノンを見た。あらかじめイーツェンの荷を運ばせていたのだろう。手回しがいいことだが、それがいいきざしなのかどうか、彼には判断がつかない。
ロシェが丁寧な手でイーツェンの横に荷を置き、イーツェンの礼の言葉に微笑んで出て行く。まっすぐな後ろ姿が幕の向こうへ消えるのを待ってから、イーツェンは荷の口の結びをほどきはじめた。誰かが中をあらためた気配はない。
「君は、ローギスを王殺しとして、父殺しとして名指ししようとしたな。何故だ? 嘘だとわかっていた筈だ」
ジノンの問いに、イーツェンは荷へ向けたままの顔を上げなかった。
「生きるためです」
アガインの前にさし出せるものが、あの偽の告発以外に見つからなかった。少なくともあの時には。ただ純粋に、イーツェンは生きるためにその道を選ぼうと思ったのだった。
ジノンは少しの間何も言わなかったが、手をのばして、まだ半分酒の残っているイーツェンのグラスに林檎酒を足した。
「ルルーシュに加わろうとしたのもそれが理由か? ユクィルスの敵となって生きのびられると思ったか。それが駄目になると今度はここに来て私をたのむとは、少し浅はかだとは思わないか、イーツェン?」
「あなたは何もご存じない」
ジノンからしてみれば、イーツェンはただ命惜しさに右往左往しているだけにしか見えないかもしれない。たしかにイーツェンのやってきたことは浅はかかもしれないが、イーツェンにとっては自分の命がかかった日々だった。
こまごまとしたものが入った小袋から糸巻きを出し、イーツェンは革を細く切った紐をほどく。紐の下に隠された小さく折りたたんだ紙を取り出しながら、腹の底の怒りを押しつぶして、できる限り淡々とつづけた。
「あなたがもし私を敵であると判断するなら、私はこれを渡して立ち去ります。エナからの使いとして。私の話を聞くか聞かないか、それはあなたの自由だ」
「君は、私の助けが必要なんじゃないのか?」
少しおもしろがっているような声だったが、同時に2人の会話は緊張のひびきを帯びていた。ジノンはこの場での主導権をはっきり示そうとしている。イーツェンはそれを許すまいとしている。
イーツェンは頭を上げてジノンを真っ向から見据え、青い目の向こうの冷たいきらめきを見据えた。
「そうです。でもジノン、私はあなたにすがりついてたのもうとしているわけではない。あなたと取引をするために、私はここに来た」
イーツェンがどれほどジノンの助けを必要としているか、あらためて口にするまでもなくジノンはよくわかっている。それを否定するすべはないが、だからこそイーツェンがジノンの言うことをすべて受け入れ、ジノンのほしいものをすべて諾々と渡したりするつもりはないと、わからせねばならなかった。
「私は、生きるためにしてきたことについてあなたに頭を下げるつもりはない。2度と、私の自由を人に売り渡すつもりもない」
自分の声がひどくするどく聞こえて、イーツェンは長い息で喉をゆるめると、調子をやわらげて続けた。
「それと同時に、過去にあったことについてあなたやユクィルスを責めるつもりもない。すぎたことは、すぎたことだ。私はこの国を去って、自分の国へ帰る。私のいるべき場所、戻るべきところに。そのためにあなたの力を借りたい。それだけが私の望みだ、ジノン」
その一言一言が、イーツェンの真実だった。怒りや憤り、憎しみ、後悔など、すべての暗い感情は生々しい傷のまま、イーツェンの奥にまだたぎっている。だがそれはもう誰にもどうにもできないことだ。おこったことは今さら何ひとつ変えられない。
怒りや憎しみは、イーツェンをどこへも導かない。彼の人生はその先にはない。くぐりぬけてきた痛みと、残された傷からイーツェンがもし何かを学んだとするならば、それだけだった。
ジノンは唇を結んだままイーツェンの言葉を聞いていたが、ふっと目をほそめて手をのばし、イーツェンが反射的に差し出した手紙を取った。帯のように細長く折りたたまれたそれを、破かないよう注意を払いながらひろげる。ほんの数行しか書けないような小さな紙片ではあったが、ジノンのまなざしは紙を持つ指先とひろげた手紙に集中して、書いていないものまでもそこから読みとろうとしているようだった。
沈黙の間をもたせるためだけに酒に唇をつけながら、イーツェンはジノンの表情を見ていた。エナが何と書いたのか、彼は知らない。状況によってはその手紙が予期しない相手に渡る可能性もある以上、そうそう重要なことを彼女が記したとも思えなかった。
ジノンはくたびれた紙片を何度か読み返してから、手紙を火の中へ放りこんだ。イーツェンはそれには驚かなかったが、ジノンが喉をそらせて上げた低く豊かな笑い声には意表をつかれて、彼を見つめた。宴の間ならともかく、ジノンが声を上げて笑うのは珍しい。深いところからあふれたようなその響きはやわらかく、その笑いはイーツェンの緊張を少しゆるめた。
「エナは、私の背中の手当をしてくれたんです」
軽い調子で、彼は言う。ジノンはゆっくりとうなずいた。
「私は君が2度と歩けなくなるのではないかと思った」
「そうなったかもしれません」
その言葉はただの事実としてイーツェンの口からこぼれた。そうなってもおかしくはなかった。2度の鞭打ちはイーツェンの体だけではなく心を砕いたし、彼は物事の見境いがつかなくなるほど痛みに怯え、すくみあがっていた。
もしどこか、やわらかで安全な場所に隠れて横たわったままでいられたなら、イーツェンは寝床から起き上がろうとしなかったかもしれない。だがイーツェンにとって安全な場所などこのユクィルスのどこにもなく、彼は歯をくいしばってでも歩きつづけるしかなかったし、それに、彼にはシゼがいた。イーツェンの心が尽きて倒れればその時は必ずシゼが道づれになる。シゼはそれほど近くでイーツェンを支えようとしていた。
その日々の中で彼らはエナに出会い、イーツェンは背の施術を受けたのだ。あの出会いを思うと胸の奥にほのかなぬくもりが浮くようだった。
やわらかな気持ちを隠そうとしないまま、彼はジノンへたずねた。
「エナは何と?」
答えたくなければそれ以上聞くつもりはない。イーツェンの言い方からそれはつたわっただろうが、ジノンは微笑して答えた。
「鳥ばかり見ていると穴に落ちるぞ、と」
「何の話ですか」
「エナは子供で、私も子供だった。その頃、同じ城塞の中に住んでいたことがある。ある日大人たちが狩りに行くというので私とエナもついていってね。大きな鳥が飛んでいるのを見た私が上を向いて走っていたら、ぬかるみの穴に落ちたんだ。頭の先まで泥まみれになってね」
子供の頃のジノンと泥穴に落ちたジノンと、どちらが想像しづらいか考えて、イーツェンは笑いそうな口元を引きしめた。ジノンはこめかみに落ちてきた金の髪を指先で払って、やわらかな声でつづけた。
「紋章をつけてこないのであれば、彼女の場所においていつでも歓迎する、と書いてあった。イーツェン、彼女は自由か?」
自由。
無事か、ではなく自由か、と。ジノンの言葉は真摯にひびいた。エナの青い目と、彼らを最後に見た朽ちかけた寺院へと、イーツェンの意識は引き戻される。陽気なヘイルードの声とウェルナーの静かなたたずまい、男2人がエナへ見せていた信頼と思慕の情を思い返しながら、イーツェンはうなずいた。
「そう思います」
「それは何よりだ。あの子は血筋に縛られる暮らしを、忌み嫌っていた」
ジノンの言葉にはまぎれもない親愛の情があふれていて、彼はきっとエナをよく知っているのだろうとイーツェンは思う。その彼が、エナの選んだ運命を喜んでいる様子はイーツェンをほっとさせた。
とは言えエナが今行動を共にしているのが、ヘイルードの言葉をそのまま借りれば「こそ泥と死刑執行人」の2人だと知れば、ジノンはどう思うだろう。興味はあったが、ジノンの限界をどこまでためしていいのものかわからないし、何よりそれを言うのはイーツェンの立場ではなかった。
イーツェンは深い息を吸って、吐く。雰囲気は随分とやわらいでいたが、姿勢を正そうとするイーツェンをジノンは注意深い目で見ていた。
「ジノン。私も自由になりたいし、その権利はあると思う。あなたが川の関の通行証を出してくれれば、私は故郷への旅をつづけられる。あなたは、私にほかの用がありますか?」
「君はまだ罪人だ、イーツェン」
ジノンの声はおだやかで、まるで彼の荘園ですごしたあの冬の日、あたたかな食事を囲んで談笑していた時のようだった。
「それだけで、そう、私は君に用がある。公式に処刑されたとは言え、いやむしろ、だからこそ君が自由に歩き回って故郷へ戻るのは困る。そうは考えなかったか?」
「ほかにはありませんか? たとえばローギスやアンティロサに私を渡す? リグへの身代金を要求する?」
「あり得る、とは言える。だが私は狼の目の前に君を放り出すのは気がすすまないし、リグは少しばかり遠すぎるな」
予期していたよりずっと正直な答えにイーツェンは微笑し、ジノンも微笑した。
おかしなことだ。彼らはイーツェンの命と未来がかかった話をしているのに、イーツェンは自分の気持ちの険が取れて心がさだまっていくのを感じた。こうして向き合って、言葉を交わしながら、やはり自分がたよる相手としてジノンを選んだのは正しかったと思う。
ジノンを全面的に信頼しているわけではない。そんなことができる相手ではない。だがイーツェンは、ジノンがある程度──状況がかなう時は──誇りや、他人の尊厳を重んじる人間だということを知っていた。
イーツェンが裁かれた時、ローギスはイーツェンに対する鞭打ちと囚奴の身に落ちることを宣言したが、その言葉を聞くジノンの顔には嫌悪の表情が浮かんでいた。イーツェンはあの時のジノンのまなざしを忘れてはいない。あそこにあったのは、まぎれもなく慈悲だった。イーツェンの身におこることを哀れんでいた。彼が失うものを、ジノンは知っていたのだろう。
「ジノン。リグへの街道がとざされた時、ユクィルスの兵はどれくらい向こう側へ取り残されましたか?」
イーツェンの問いに、ジノンは眉を少し持ち上げた。あの冬、アンセラだけでなくリグにもユクィルスの兵は駐屯していた筈で、イーツェンがリグへと戻る街道を失ったように彼らはユクィルスへ戻る道を失って、険しい山の向こう側へと閉ざされてしまったのだった。
「公的な記録による限り、283人。兵だけではないがな」
停滞のないジノンの返事に、イーツェンは顔をしかめた。300人近く冬の口が増えては、それを食わせなければならないリグの民も大変だっただろう。ただでさえ、山での冬ごえは時に命がけだ。
「その中から誰か戻りましたか?」
「君も知っているとおり、カル=ザラの道が崩れては、我々が行き来するすべはない。少なくとも、山の民の協力なしにはな」
「私が彼らを戻す、ジノン」
ジノンは心の内へ切りこむような目でイーツェンを見た。イーツェンはひるむことなく、うなずく。
「勿論、リグへ帰ってからになりますが」
「君にはそれを決定する政治的な力はない、イーツェン」
「だからこれは政治的な申し出ではありません。私からあなたへの、約束だ。今の私は名もないし、ユクィルスにとっては存在すらしない人間だ。だが、ジノン。あなたが力を貸してくれれば私はリグへ戻れる。そうなれば、あなたとの約束を果たすために動くこともできる」
懇願のひびきがまじらないよう、声を平坦に保つ。ジノンを動かすためにイーツェンが持つ、これはほとんど唯一の切り札だ。
「一方で、リグに300人近い兵がいるのは、あの国にとっても邪魔なのだ。彼らを戻すことはリグの益にもかなう。リグがあなたにとって身代金の交渉をするのに遠すぎるように、リグにとってユクィルスも、人質を金で買わせるには遠い」
ゆっくりと、一言ずつつたわるように話しながら、イーツェンはジノンを見つめるまなざしに力をこめた。ジノンが信じるとしたら、それはイーツェンの力や言葉ではなく、その下にある意志だ。何があろうとリグへ戻ろうとする意志。何があろうとジノンへ報いようとする、その意志。それだけが今の彼が持つ武器だった。
「リグへ戻った後、私が彼らをユクィルスへ戻す手配をします。彼らを虜囚の身から解き放ち、この地へと帰す。あなたの、あるいはあなたの王の名で彼らの自由を買ってはいただけませんか?」
ジノンは立てた膝に肘をつき、折った手首の背に顎をのせてイーツェンを凝視していたが、すぐには答えなかった。イーツェンは微笑を向ける。
「如何です?」
「私が、何故その300人をほしがると思う」
「彼らが帰還すれば、辺境の地にあってもあなた方が兵を見捨てはしなかったこと、彼らのために力を尽くしたことを皆が知る。人々はそういう話が好きだ」
イーツェンはひとつうなずいた。
「彼らと彼らの家族はあなた方に感謝し、その名を敬う。あなたは彼らの心を得ることができる。人は故郷へ戻りたがるものだ、ジノン。そして、そのために力を貸してくれた者の名を決して忘れない」
ジノンの青い目はまるでイーツェンの肌を1枚ずつ剥いで、内にあるものをのぞきこもうとしているようだった。イーツェンは一瞬、骨まで寒気を感じたが、腹の底に息を溜めるようにして心を保ち、唇をとじた。
言うべきことは言った。ローギスと王位の正当性をめぐって争う今、フェインとジノンは人心を必要としている。イーツェンの言葉通り兵の信頼が得られるならば、それは大きい。その重さはジノン自身が一番よくわかっている筈だった。
沈黙でもって、彼はジノンの答えを要求する。
ジノンは何かを待っているように、不自然なほど長い間、イーツェンをただ見ていた。落ちつかない気分をぐっと押さえこんで黙ったまま、イーツェンは揺らがず見つめ返す。やがて、ジノンは顎をのせていた手を下げ、あぐらの膝を指先で叩いた。何か考えている表情だった。
「リグが、彼らをまだ処刑していないと思うか?」
「私たちは処刑はしない」
「アンセラの者たちはユクィルスの兵を吊るした」
「アンセラには報復の法がある。己の親族を失った者は殺した者に対して何らかの形で挑むことが許されており、その結果によっては相手は吊るされる。それは神々の前の裁きであって私刑ではない、ジノン。裁きなくして人を吊るすこともない」
アンセラとリグの民は顔立ちも肌の色も似ているし、王族同士が婚姻によって結ばれることもあって関係は深いが、慣習の多くは異なっている。特にアンセラの民は全般に気性が強く、裁きの方法は彼らの猛々しい部分をうつしたものでもあった。
「リグにおいて、裁きはどうなる?」
「私たちは死を死でもってあがなうことはない。重い罪を犯した者は、守人として山の峰に送られるか、坑道の深い場所での使役を強いられたり、石切場で使われる。3日分の食料を与えてリグから追放することもある。裁きは山のものであり、その裁きは時に人の裁き以上に厳しい」
ジノンが睫毛を上げる。イーツェンは無言の問いにこたえて、うなずいた。
「今回は、兵に対して追放は為されなかったでしょう。人数が多く、彼らをただ山に解くのはリグにとって危険すぎる。おそらく、ユクィルスの兵たちは使役の労働についている。リグの冬は厳しいものだし、坑道も石切場も危険な仕事だ。今なお全員無事だとは私には言えないが、それでも生き残った者たちが帰還することには大きな意味がある、そうは思いませんか?」
「後になって、全員死んでいたと言われても私にはそれを確かめるすべがない、イーツェン」
「そうです。あなたは私を信じるしかない、ジノン」
その時、入り口からくぐもった声がかかり、イーツェンは口をとじた。ジノンが「入っていい」と答えると、恐縮した様子のロシェが幕をからげて早足で歩み入り、ジノンのかたわらに膝をついて何か囁いた。ジノンは何人かの名前をたしかめてから、明日の朝食に招待する者の名を選び出してロシェに指示した。
ロシェがイーツェンにも頭を下げて足早に出ていくと、イーツェンは自然と少年の姿を追っていたまなざしをジノンへ戻して、何もなかったかのように言葉を継いだ。
「あなたは普通ならこんな取引を呑むことはないでしょう。だが今回の相手は私だ。あなたは私を知っている、ジノン。故郷へ戻れない者のことを私がどう思うか。ユクィルスの者たちを帰還させるために私が持てる力を尽くすことを、あなたは知っている筈だ」
ジノンはすぐには答えなかった。当然、彼は迷うだろうとイーツェンは思う。事態はイーツェンが見せようとしているほど単純ではない。
イーツェンがリグへ戻って約束を守ったとして、ユクィルスの兵が帰還すれば、ジノンがイーツェンと取引したことは誰の目にも明白となる。イーツェンを処刑したという公布が根も葉もない嘘だったことも明らかとなるし、ジノンたちと曖昧な同盟関係にあるアンティロサの機嫌を損じるかもしれない。
アンティロサが真剣にイーツェンの身柄をほしがっているのかは疑わしいところだが、イーツェンを逃したこと、イーツェンと取引したことを知れば彼女はジノンに怒るだろうし、その怒りがどこに飛び火するかは神々のみぞ知るところだ。彼女は気まぐれだという噂だった。
分厚い天幕の毛皮と炉にくべられた火にもかかわらず、冷気が足元からしのびよって、イーツェンは座っている毛皮の敷物の上に両足をしっかりと引き上げた。陽が完全に落ちたのだろう。どこかから夜の匂いが気配となって漂っていた。
ジノンがかたわらに右手をついて立ち上がると、部屋のすみからマントを1枚取ってきてイーツェンに渡した。細かな毛織りのマントは手になめらかで、イーツェンはためらってから、礼を言ってそれで両肩を覆った。ジノンは元のように座り、空になっている自分の杯に酒を注ぐ。火のそばに置いていた壺の中で、酒はあたたまっているようだった。
ゆっくりと唇に運んだ杯から酒を含みながら、ジノンはイーツェンを値踏みするように上から下まで見て、唇のはじを片方だけ持ち上げた。
「長い旅だったようだな、イーツェン」
「まだ途中です」
少しばかり挑戦的に言い返してしまってから、イーツェンは舌先を噛んだ。ジノンはついっと目をほそめる。
「そんなに故郷に戻りたいなら、どうして私の急所を突かない、イーツェン?」
淡々とした声は、だがふれれば切れるようなするどさをその裏にはらんでいた。イーツェンは反射的にあけた口を、またとじる。ほとんど同時に入り口の幕の方へ目を走らせてしまってから、自分のうかつさにもう1度舌を噛んだ。
「知っているのだろ」
ジノンの言葉は問いではなく、イーツェンの反論やごまかしなどよせつける気配もない。イーツェンは目をとじ、息をついた。ジノンの声にはイーツェンを追いつめ、逃すまいとするような底深い獰猛さが粘りついていて、それはこの男がイーツェンにはじめて見せた暗い顔だった。
長い息を押し出し、こわばった喉をゆるめ、イーツェンは目をあけてジノンを見る。ごまかすすべも、隠すすべもなかった。抜き身の刃を前にしたような思いでうなずく。
この問いからは逃げられまい。この瞬間ほど、ジノンが危険に思えたことはなかった。
「ロシェのことですね」
「言ってみろ」
イーツェンが言葉を避けていたものを、何故わざわざジノンが挑むのか。それが怖い。だがここで引くことはもうできなかった。
「彼はセンドリスの息子ではない。あなたの息子だ、ジノン」
あの少年の腰に黒瑪瑙のはまった守り刀を見た時から、わかっていた。
かつてオゼルクは、ジノンが機織り部屋の娘をはらませたこと、その始末をつけるために王がセンドリスを使ったらしいことをイーツェンに語ったが、その時にジノンが黒瑪瑙の飾りの短剣をそろいで二振り作らせたことにも言及していた。その片方をジノンが身につけているのを、イーツェンは目にしたことがある。
揃いの片方を、彼はジノンが恋人に贈ったのではないかと想像していた──オゼルクもそう疑っていただろう。だが、そうではなかったのだ。揃いの短剣はあの少年の腰にある。
短剣を見、ロシェに対するジノンのやわらかな物腰を見た時に、イーツェンの中ですべてのかけらがはまって、それはひとつの形を取った。
「あなたは全部、彼のために‥‥」
イーツェンはそれ以上のことを言えずに言葉を切った。ジノンに何を言えるだろう。
「私が何をしたか知っているのか、イーツェン」
ジノンが奇妙に明るい笑みを見せ、イーツェンはふっと吐き気に近い緊張に腹の底がねじれた。この顔をジノンは誰にでも見せるわけではあるまいし、誰にでもこの話をするわけではあるまい。イーツェンにその深みを見せようとする、それがいいきざしなのかどうか、彼にはわからなかった。
今ここで、何かがおこっている。この濃密な一瞬に、1歩でも引けば負けるだろうと、深いところで何かが彼に囁いていた。イーツェンは目をそらさず、ジノンの視線を受けとめる。
「あなたは王をそそのかした」
自分の声が遠く聞こえて、イーツェンは深く息を吸いこんだ。