ディーエンの街には独特の香りがあった。城の礼拝堂にたちこめていた蝋燭の香りのような、少しばかり甘く、重ったるい、神秘的な匂いが街全体に漂っている。
 そういう時期なのか、それともここではいつもそうなのか、祈りの鐘が驚くほど頻繁に鳴っていた。刻の鐘と祈りの鐘は音色が異なる。イーツェンは街について半日もすると、響き渡る鐘の中から少し甲高く丸みのある刻の鐘の音を聞きわけられるようになっていた。
 手桶ひとつにもらった湯で体の汚れを拭い、藁の上にひろげた敷布に身を横たえて、イーツェンはうつらうつらしていた。聖堂の裏側に建つ宿坊に小さな部屋を与えられたのだが、明かりとりの役すら果たせないような小さな窓の向こうから、祈りの声が切れ目なく、音程のない歌のように聞こえてくる。鐘の音がそれに重なって、眠っているうちに夕方になったのだとぼんやり悟った。
 イーツェンは目をあけたが、体が重く、目の前の汚れた漆喰の壁を見ながらまた少しの間まどろんだようだった。ふいに祈りの声の調子がかわり、強くなった声にはっと身を起こす。それから、自分がどこにいるか思い出して頭を振った。
 細長い宿坊の外れにある部屋は狭く、あるものと言えば背もたれのない小さな椅子とイーツェンが横たわっている藁の寝床、裏返してテーブル代わりにも使える口の広い手桶くらいのものだ。まるで牢のような素っ気なさではあるが、何より1人でいられるのがありがたく、部屋の匂いも藁も清潔だった。
 牢とは異なり、入り口には扉もない。扉のあるべき場所には人の目の高さほどに横棒が渡され、布が掛けられて廊下の人目を多少さえぎっている。棒は壁に固定された鉤に渡し掛けられていて、簡単に外せるようになっていた。
 修行者か巡礼者用の部屋らしい。だが詳しいことはセンドリスにも、この部屋に彼を案内してくれた使い女にたずねることもできなかった。口をきくなと、聖堂の敷地の門をくぐる時、センドリスに命じられていたからだ。
(ここでは奴隷も沈黙の行を行うことがある。手配はしたから、何を言われてもとにかく黙ってろ)
 センドリスはそう一方的に説明すると、馬車からおろしたイーツェンを聖堂の雑仕に押しつけるように預け、姿を消した。イーツェンはその雑仕から色つきの木札を渡されて、紐で胸に下げておくよう指示された上、この狭い宿坊に入れられたのだった。
 これも指示されて自分で厨房からもらってきた湯で体を拭い、うたた寝をして、気分は随分すっきりしていた。しかし6日間の旅の間、馬車の中でじっと座っていた体はあちこちまだこわばっていて、ふとした動きに糸でぎこちなく引き戻されるような違和感がある。イーツェンは溜息をつくと両足をのばして座り、シゼとエナに教えられたように体をひねってのばしはじめた。
 体がにぶい。まるで澱が溜まるように、肩の関節や背中の筋、腰から太ももへのびていく筋などに澱みと張りがあるのを感じながら、呼吸にあわせて少しずつ筋肉をほぐした。シゼに動かされる時はただ力を抜いてシゼの動きについていけばいいのだが、こうして自分で筋肉をのばそうとするとかえってその気持ちのせいで体に余分な力が入る。シゼに教わった剣の呼吸を使って息を体のすみずみから吐き出すようにしながら、イーツェンはしばらく、体と心のこわばりを解きほぐすことに専念した。
 吐いて、吐いて、吐ききってから、ゆっくりと息を吸いこむ。次第に、ゆるんだ体の関節のひとつひとつに息が入りこんでいくのがわかった。目をとじ、さらに体の奥底にある最後の息までも吐き出そうとする。体に何も残らなくなって、からっぽになるまで。それから深く、ゆっくりと、体の中心へ向かって息を吸いこんだ。
 剣を握りたいな、と思った。シゼがイーツェンのために握りを削りだしてくれた木剣の、ざらついた感触が手になつかしい。シゼの手ほどきを受けながらも、まだ自分がまるで様になっていないのはわかっていたが、それでも木剣を握れば、体があざやかな呼吸に息づく。シゼに剣を教わるようになり、自分の体に深い注意を向けるようになって、イーツェンはこの体にまだ力が残っていることを知った。鞭打ちの前と同じようには動けないが、傷を負った体はその体なりに自由だった。
 息を吐き出しながら、片膝を深くかかえこんで背中をゆっくりと丸めていると、人の気配がしてイーツェンはその体勢のまま顔を上げた。傷の場所ものばしているので、いきなり姿勢を変えられない。
 扉がわりに垂れ下がった目隠しの布をからげて、娘がむっつりとした顔で部屋をのぞきこんでいた。聖堂の雑司が身につける、前あわせの質素な服を着ている。年のころは17、8というところか、と見当をつけて、イーツェンは頭を下げた。
「こっち」
 娘が短く言うと手招きした。イーツェンの答えや同意を求める様子はないが、特に切迫しているというわけでも、強圧的でもない。ただ従順さを予期している。
 イーツェンは言われるままに立ち上がった。
 廊下に出ると、イーツェンと同じ木札を胸から下げた男女がほかに5人いた。身なりや年齢はばらばらで、中には不釣り合いなほど仕立てのいい服をまとった恰幅のいい男もいた。5人の中の数人がイーツェンを見て胸の前で両拳の先をあわせ、かるく頭を下げたので、イーツェンも礼を返した。奴隷の首輪をしていようとも同じ沈黙の行にある者同士、ということだろうか。人から礼をされるのなど久々で、そんなことにどぎまぎする自分がおかしかった。
 宿坊の中では、イーツェンたちのような巡礼者や修行者のほかに、質素な衣服の神官や雑仕が大勢動き回っていた。数十人がたむろしている大部屋には寝床の藁の匂いや蝋燭の獣脂の匂いがたちこめて、人の熱気であたたかいほどだった。
 娘は大部屋を早足に抜けると、長い建物の逆側の棟にある厨房へと彼らをつれていった。そこはイーツェンがこれまで眼にした中で一番大きな厨房で──と言ってもそう多くの厨房を見たことがあるわけではないが──壁際にずらりと並んだ平炉には10をこえる大鍋が火に掛けられて、湯気がたちこめ、油っこい匂いや薪の燃えるするどい火の匂いの中を忙しそうな人々が肩をぶつけあいながら右往左往していた。
「あんたはこれ」
 否応なく娘に命じられ、イーツェンは山ほど芋が入った籠の前に立つ。泥だらけの石のような物体を見おろして一瞬何をどうすればいいのか途方にくれたが、同様につれてこられた若者がためらいもせずに芋のひとつを取り、籠にひっかけてある石の刃を右手に取って、芋の皮をこそげ落としはじめた。
 イーツェンも彼にならって、手の中におさまる石の刃を持ち、芋のざらついた皮をそぎながら剥いていく。剥いた芋は、そばに据えられた大きな銅鍋へ次々と放りこんだ。
「聖下のお心づかいにより、巡礼の者たちには聖堂より食事を賜る。お慈悲であるから、心していただくように! ほら、急げ!」
 いかにも聖堂の者らしくゆったりと長い、飾り気のないローブをまとった男が大股に厨房を行き来しながらそう怒鳴り、両手を幾度か打ち合わせた。イーツェンは下を向いて手を急がせる。
 イーツェンのすぐ横で芋を剥いている、どこかしら学生のような雰囲気がある若者が、下を向いたままぶつぶつと不満を呟いた。ほぼ間を置かず、神官の1人が短い棒鞭でぴしりと男の尻をひっぱたき、イーツェンは驚きで棒立ちになった。沈黙行を破ると罰があるとは聞いていない。だがとにかく下を向いたまま作業をつづけ、神官が近づいてくるたびに緊張でこみあげる苦いものを飲み下さねばならなかった。
 翌日も、その翌日も同じようにすぎた。早朝に叩き起こされ、中庭で礼拝をしてから建物の掃除、それから聖堂の神官たちのものらしい食事づくり。馬房と豚の房の掃除、各部屋にある汚壺の回収、寝房の藁掃除、仕事は無数にわいてくる。その間に夕礼拝、夜の黙行と、イーツェンが予想したよりもしっかりと勤行までやらされて、1日がめまぐるしい。
 宿坊に寝床を与えられている以上、聖堂の求める使役を果たす役目があるのだろう。それに文句はなかったが、まさかこんなところで働かされるとは思っていなかった。
 センドリスに忘れ去られているんじゃないかという疑念もうかばないことはなかったが、センドリスは別れる時に「時が来たら迎えを出す」と耳打ちしたし、イーツェンは厨房で交わされる噂話の中からも「影迎の日に王がおいでになり、聖堂への寄与の儀を行う」という情報を拾い上げていた。影迎の日というのは冬の息吹が吹きつけはじめる日のことで、イーツェンが寺院についた日はその5日前になる。まだ王はディーエンに到着していない。
 王──フェイン──のそばにはジノンもいる筈で、とにかく彼らの到着と儀式の日を待とうとイーツェンは決めていた。
 1日の行そのものは、たいした苦痛ではなかった。使役には、城で奴隷扱いされた時に慣れている。ほかの者たちが手こずっている沈黙にも、さして困難はなかった。かつてローギスに「口をきいたら舌を抜く」と脅されて、イーツェンはずっと己の口を緘していたのだ。どんな苦痛の時も、どんな意に染まない陵辱の時も。もし一言でも不満や拒否の言葉をこぼせば、ローギスは必ずそれをとらえてイーツェンの舌を切るだろうと思った。やがて言葉は勝手に彼から去って、人に何かを語る意志さえ失った。
 その時にくらべれば、ただ黙って働いていればいい今の状況など、気楽とすら言えるものだった。黙っていれば、誰かに自分のことや事情を説明したり、嘘をつく必要もない。センドリスがここにイーツェンを押しこんだのもそれが目的だろう。祈り、働く。それさえしていれば誰もイーツェンに目をとめることはなかった。
 ──皮肉なものだと、イーツェンは笑いさえおぼえていた。ローギスは沈黙によってイーツェンを罰しようとしたし、あの時のイーツェンは、ただ口をとざしているしかない理不尽さや世界から切り離されるように強いられた沈黙に、たしかに傷ついた。
 それが、今となってはイーツェンを支える。彼は沈黙に、それがもたらす孤独に慣れていた。たやすく口をとざし、世界と自分との間に距離を置いて、ただジノンとどう対峙するか、その時に何がおこりうるか考えつづけていた。


 礼拝者が直接訪れることのない宿坊や下の厨房で働いていてさえ、聖堂やディーエンの街のにぎわいがどれほどのものかはつたわってくる。馬房にはいつも新しい馬があふれ、街門がひらいたことを伝える鐘は朝早く、とじる鐘は日暮れからかなり立ってからだった。
 イーツェンが働く厨房は位階の低い神官や宿坊に入ることをゆるされた巡礼者、および街にいる巡礼者への施しの食事をつくっているようだったが、時には豚や鳥の肉まで運びこまれて料理されていた。聖堂の富裕さを証明する、ひとつの証左だ。
 人の行き来の激しい厨房では噂もとびかい、ローギスとジノン、そしてローギスの母アンティロサの権力争いの行方についても、人の口は騒がしかった。沈黙しつつも聞き放題のイーツェンは耳をすませて、使えそうな情報を拾い上げようとしたが、なにしろ「噂」なのでどれもあやしい。死んだ筈のルディスが「ローギス側についた」という話までひょこっと出てきたりするし、話の時系列もばらばらだ。
 ディーエンの大聖堂がジノンを受け入れたためか、多くの噂がジノンに好意的な一方、まだ子供のフェインを「いいように操る」執政の腹黒さを嘲った下世話な歌がしっかりと流行っていた。ユクィルスの奉じる「古き神々」の中の女神ヴァシカの名を使い、「ジノンがヴァシカのスカートの下にもぐりこんだ」下品な歌のひとふしになどは、イーツェンもあやうく笑ってしまいそうだった。
 自分を「絶倫男」と歌い上げるこの歌を、ジノンが聞いたらどんな顔をするだろう。案外と機嫌よく笑いとばしそうな気はしたが、顔をあわせた回数の割に、イーツェンはジノンがどういう人間なのか、そういう時にどうふるまうのか何も知らない。
 無数の、作り話とも中傷とも人々の願望ともつかない話の中に、いくつかイーツェンの心をとらえた噂があった。ルルーシュの残党が聖堂の僧兵にとらえられ、異教徒として処刑されるという。それが本当かどうかはわからない。だが、アガインたちは今どうしているのだろうと思いをはせ、イーツェンは噂を聞きながら考えこんだ。彼らはユクィルスの兵による襲撃を生きのびられたのだろうか。アガインはいつか、エナと約束したように彼女のところへ戻っていけるのだろうか。
 何よりもイーツェンをぎょっとさせたのは、オゼルクがローギスによってとらえられているという噂だ。父に毒を盛り、破獄して消えた王子が兄の追手の手に落ち、どこかに幽閉されていると──あるいはすでにひそかに処刑されていると、そんな噂がしきりに囁かれていた。
 ありえないだろう、とイーツェンは思う。ローギスがもしオゼルクをとらえたとして、父殺しを告発し、正規の裁きにかける筈だ。弟を罰し、己こそが正しい継承者であると示すために。
 だがその一方で、おそらくローギスのために幾度も働き、兄の様々な秘密を知るオゼルクを、ローギスがある意味で恐れていたのもたしかだった。そのことはイーツェンが自分の体でよく知っている。時にオゼルクに見せつけるように、ローギスは弟の目の前でイーツェンを犯した。おそらくあの時ローギスは、かつてレンギを自分のものにしてオゼルクを屈服させた、その記憶を兄弟の間で呼びおこし、弟に力の差を思い知らせていたにちがいなかった。
 兄弟の間にそれほどまでにねじれた憎悪と支配を呼びおこした、2人の母アンティロサというのはどういう人なのだろうか。今やジノンとの肉体関係まで噂されているその人を、イーツェンはほとんど知らない。彼女はオゼルクを溺愛したのだとジノンは言ったが、オゼルク自身が母のことを口にする時、青い目はひえびえとして、肉親に対する慈しみなどかけらもなかった。オゼルクは兄よりも母を憎んでいたように、イーツェンには思える。
 どうして、どうやって、血のつながった家族がそこまでねじれてしまったのだろう。そう思いながら、イーツェンは己を振り返る。彼自身の血族とのかかわりも、決して人に誇れるものではなかった。父の──王の子ではないかもしれないということを恥じ、父を裏切った母を恥じて、イーツェンは兄たちや妹との間になるべく距離をあけようとした。そうやって自分と周囲を壁をへだて、正体のわからないものから自分を守ろうとした。自分の中の暗い感情を直視しようとしなかったように、イーツェンはいつでも家族から逃げつづけ、決して彼らを直視しようとしなかった。
 今になって、それがひどく愚かなことだった気がする。彼はたしかに王の子ではないのかもしれない。母と、結局名の知れることのなかった恋人との間の不義の子かもしれない。だがそれはもうイーツェンにはどうしようもないことだ。イーツェンの為したことでもなければ、イーツェンに変えられることでもない。
 どうしてただ、頭をしっかりと上げなかったのだろう。それだけのことができなかった自分を、イーツェンは不思議に思う。単純なことが時に信じられないほど難しく、何かのきっかけでねじれはじめた糸はどこまでも勝手にねじれて、人の気持ちや運命を巻きこみながらいつか醜い結び目を作るのだった。
 ローギスやオゼルクもまた、はじめからあんな関係を望んだわけではなかったのだろうか。
 リグへ戻ったならば、残してきてしまった結び目のひとつなりとほどこうと、イーツェンは祈るように思う。これほど離れてみると、遠い存在だと思っていた父も兄も、ただ恋しい。多分イーツェンはずっと彼らを恋しがっていたのだ。やっと今になって、そのこともわかっていた。


 王と執政──フェインとジノンは影迎の日の2日前に到着し、その日は厨房でも上を下への大騒ぎだった。
 ジノンたちや、彼に会いに集まってきた貴族たちの食事をこの厨房で作るわけではないのだが、そんなことにはおかまいなく厨房全体が浮き立っている。イーツェンたちの食事にすら香草でぴりりと味つけした羊の腸詰めが2本つけ加えられて、望む者には「王のお心により」ワインか蜜酒までふるまわれ、至るところで王への乾杯の音頭がとられていた。
 イーツェンは酒はもらわず、礼拝と使役の時間以外は自分の房にこもっていた。沈黙行に集中しているように見えるだろう。実際には体をほぐしたり、狭い部屋の中で無手のまま剣を構える型を取ったりして時間をつぶし、色々考えそうになる心を落ちつかせていた。それがこの5日間でついた習慣だった。
 5日間、イーツェンは一言も口をきかずに沈黙行と仕事をこなしつづけ、その間、センドリスやジノン本人は勿論、彼らの使いが様子を見に来ることもなかった。忘れられているのかもしれない。冗談半分、本気半分でイーツェンはそう思う。
 何にそなえているのかよくわからないまま、毎日、荷物の袋の口を紐で結び、結び目に特徴をつけて誰かがふれればわかるようにしておいたが、中を探られた様子はなかった。
 それにしてもまさかジノンに会いに来て芋をむくとは思っていなかった、とどうしても取れない皮の滓を爪の間からはじき出しながら、イーツェンは苦笑した。毎日鍋や樽まで洗っているせいで、すっかり指先まで荒れている。背中が心配したほど痛まないのはありがたかった。実際のところ、初日こそくたくたに疲れて寝床にもぐりこんで眠るのがやっとだったが、段々と体も慣れ、活気に満ちた厨房で働くのは楽しかった。
 壁に背をもたせかけ、両足を投げ出し、天井を見上げて、イーツェンは大きな溜息をついた。日は暮れかかり、建物の中とも外ともつかないところから──おそらく両方から──はなやいだ物音が聞こえてくる。音楽、歌、歓声。
 明日は王が人々の前に姿を現し、ディーエンの聖堂と主神に供物を寄進して、聖堂から祝福を得る。センドリスが苦心して運んできた荷の多くもそこに行く。儀式の日が終わればジノンは彼に会うだけの時間を取ってくれるだろう。その筈だった。このままイーツェンに芋をむかせつづけるつもりなら、別だが。
 一通り体をほぐし終わってぼんやりしていると、廊下に足音がした。どうせ部屋の前を通りすぎていくだろうと決めこんで、それをたしかめるためだけにイーツェンは顔を向けたが、足音は彼の房の前でぴたりととまった。
 入り口に掛けられた布の下側に、娘の足があらわれていた。イーツェンは溜息をついて壁から体を起こし、彼女が何か用を言いつけるのを待つ。今日は夜の祈りもないし、誰ももうイーツェンに用はない筈だが。どうしても明日までに剥かなければならない芋でも届けられたのだろうか、と思って、1人で少し笑った。
 いつものように挨拶もなく布をからげて部屋に首をつっこんだ娘が、イーツェンを手招きした。
「ついてきて」
 てっきり厨房か、さもなければ馬房につれていかれるのだろうと予想して娘に従ったイーツェンは、娘が宿房を出て裏庭の狭い道を抜け、神官たちの暮らす住居房へ入っていくのに面食らった。1度も足を踏み入れたことのない場所だ。
 娘はイーツェンを、彼の寝床と同じほど小さな部屋に押しこむと、床に用意されている水を張ったたらいを指した。
「脱いで。体を洗って」
 反問することはできないが、思わず娘を見つめたイーツェンの顔にはありありと疑問の色が浮いていたにちがいない。娘は右の肩をかるく揺らした。
「口をきかない給仕が必要なんだそうだよ。さっさと体を清めて」
「──」
「貴族の奴隷なら給仕の仕方くらい、心得があるだろう?」
 単に当たり前のことを言っているだけの口調に、イーツェンは従順に目を伏せて服を脱ぎはじめた。首の輪のおかげで貴族の奴隷だと見られているのだ。給仕などしたことはないが、されたことはあるのでどうふるまえばいいかは大体わかる。
 だが、ユクィルスの貴族たちのいる場所などにつれていかれたら顔を知る相手がいるかもしれないと思うと、少し動悸があがった。奴隷など道具扱いだし、彼の顔をまじまじと見たり、ましてやそれがリグの王子だと認識する者などいないだろう。そう思いながらも、体から服を取り去っていくイーツェンの動きはのろい。
 娘はまだそこに立っている。イーツェンは傷のある背中をさらしていいものかどうか迷ったが、娘に横顔を見せて下帯以外のものを取ると、たらいに足を踏み入れて中にかがんだ。幸い、入っていたのはぬるま湯で、冷水を予期していたイーツェンはほっと息をついた。
 石鹸の棒まで用意されている。厚遇ぶりに落ちつかない気分のまま腕を洗いはじめた時、部屋に誰かが踏み入ってきた気配を感じてイーツェンは顔を上げ、はっと息を呑んだ。
 まだ子供と言ってもいい少年が、優雅な動きでイーツェンへ近づいてきた。年の頃はフェインよりもいくらか上か──それでもせいぜい12歳といったところだろう。褐色の巻き毛を首すじで品良く切りそろえ、ぴたりと体に合わせてあつらえられた栗茶色の袖なし上着と、淡い生成り色の立て襟シャツをまとい、腰に飾りのついた短剣を下げている。その上等な身なりと、のびた背すじや動きのしなやかさが、彼が貴族、それも良家の育ちであることをはっきりと示していた。
 だが何よりもイーツェンの目をまっすぐに引きつけたのは、少年の顔立ちだった。目鼻立ちに子供の幼さはあるが、高い鼻筋とぐっと引かれた口元が年不相応に強い意志を感じさせる。繊細だが華奢ではなく、輪郭には強靭なするどさがあった。どうかすれば残酷な印象を与えかねない怜悧さを、子供らしいふっくらとした頬と唇がやわらげていた。
 イーツェンを見あげる。その目の色は灰色とも茶色ともつかない美しい色合いで、その目の中には簡単にはまなざしをそらせないような澄んだ光が宿っていた。
 ──知っている。
 得体の知れない既視感が、ぞわりとうなじを這った。イーツェンは肌から水滴を滴らせながら立ち尽くす。この少年を見たことがある。だが、どこで見たのだろう。城にはこれくらいの年の少年が、従卒や見習いとして大勢出入りしていた。その中にいたのだろうか?
 だが、一目見れば忘れまい。そんな確信があった。少年のたたずまいにはその年に似合わない、どこか深いところに痛みを秘めているかのような静けさがあって、それは目にしたなら忘れ得ぬものだった。少なくとも、イーツェンにとっては。
 何故彼を知っている気がするのだろう。
 一瞬、考えが散乱し、イーツェンはそれから己が半裸のまま不躾に少年を見つめているのに気付いて、たらいの内でどうにか片膝を折った。子供であろうと相手は明らかに貴族であって、イーツェンの首には奴隷の輪がある。本来、目を合わせてはならない身分の差があった。
「着替えを持ってきた」
 聞いたことのない声だった。子供の声だが、しっかりと芯の通ったそれは子供の言葉の響きではない。人に命じることを知っている声だ。一体どんな教育を受けて育ってきたのだろう。
 少年の顔を見ないようにしながら、その手にひと揃いの服がかかえられているのを目のすみに入れ、イーツェンは深く頭を下げつつそれを己の返事とした。娘がイーツェンが脱いだ服を拾いあげて、ひっそりと立ち去っていく。おそらく水仕事用に使われるこの石造りの部屋には、彼と少年の2人だけが残されていた。
「すまないが、全部脱いでもらえないか」
 本当にすまなそうな声だった。この声は知らない。発音は明瞭で、高い教育を受けていることがはっきりとわかる。
 イーツェンは小さな息を吐き出し、下帯に手をかけると結び目をほどいて外した。おそらく、この少年はイーツェンが何も──武器になるようなものを──帯びていないことを確認しに来たのだろう。念の入った話だ。
 鞭の傷が残る裸体をすべて他人の目にさらすのは、今でもイーツェンにはひどく意志の力を要することだった。たとえ相手が子供であっても。下帯1枚取るだけなのに、自分があまりにも無防備になった気がして、イーツェンは唇を噛んだ。半裸と全裸で、さしてかわるまい。貴族は奴隷の裸などどうせ物のようにしか見ないのに、恥じたりうろたえるのは愚かなことだった。
「これを」
 少年はまず、イーツェンにリンネルを手渡した。イーツェンはやわらかな布と石鹸を使って手早く体を洗い、絞った布で肌の水気を拭うと、ひえびえとした石の床に立つ。少年がイーツェンに新しい下着を手渡しながら、かすかにきまり悪そうな視線をうろたわせたのを見て、イーツェンの心の奥でねじれていた固さがゆるんだ。少年にとっても居心地がいい役目ではないのだ。
 お互いの気づまりが少しでも軽くなるように、イーツェンはすべてがいつも通りのような顔をして、ひとつずつ手渡される服をまとった。下着、シャツ、ズボン、胴着、腰帯、上着。奴隷に着せるには丁寧すぎるしつらえの気がしたが、給仕だからだろうか。
 尻まで丈のある上着のボタンを留め、イーツェンは身をかがめると床から木札を取り上げて、首に掛けた。沈黙行の最中であることを示す、聖堂の木札だ。
 少年は最後にイーツェンの目の前にサンダルをならべた。きちんとイーツェンが履く向きに合わせてならべる手つきに少年の気づかいを見て、イーツェンは好感を持ったが、表情は抑えたまま膝を折ってサンダルの紐を結んだ。
 それにしてもすべて服を取り替えさせてまで寸鉄ひとつ帯びていないことを確認するとは、一体誰の給仕をさせるつもりなのだろう。それを考えると胃が喉元にせり上がってくるようだった。人手が足りないと言うなら侍従や神殿の神官見習いでも引っぱり出せばいいだろうに、「口をきかない奴隷」が必要とされるのは一体どんな場所だろうか。
 底厚のサンダルの留め金をとめ、用意ができたことを伝えようとイーツェンはその体勢のまま顔を上げる。思ったより近くに立っていた少年の、丁度腰のあたりにイーツェンの視線があたった。少年は皮で裏打ちされた布の腰帯を巻いていて、左腰のあたりに意匠を凝らして穿たれた穴から、金の鎖がのびている。その鎖に、細身の美しい短剣が吊られていた。
 帯も鎖も、この短剣のためにあつらえられているのは明らかで、そのこともまたこの少年の家柄の良さ──あるいは裕福さ──を示している。
 近くで目にすると、本当に美しい短剣だった。短剣全体は細い三日月のようにうっすら弧を描いていて、黒く塗られた鞘にはやはり黒い貴石でさりげのない意匠が凝らされ、朧銀に磨かれた柄頭には、大きな黒瑪瑙がはめこまれていた。
 数度まばたきし、息をつめるようにして心の波立ちを抑え、イーツェンは少年の顔を見上げた。小さな明かりとりの窓から入る陽は日暮れ間近で薄く、淡い影が覆った少年の顔立ちは無垢で美しかった。その目元に宿る、子供とは思えない怜悧なするどさは、イーツェンの錯覚だろうか。
 大きな目をほそめて、少年はあまり居心地がよくなさそうに微笑んだ。
「ご苦労。こちらへ」
 ついてくるよう合図をし、背を向けた彼の後ろを、イーツェンは従順にうつむきながらついていく。両脇に垂らした手をゆるい拳に握ったが、体を通り抜けていく震えをとめることはできなかった。この少年が何者か、彼をよこしたのが誰なのか。その答えを得た確信はあったが、同時にイーツェンは自分の目にしたものに混乱していた。見おぼえのある顔、見おぼえのある短剣。
(黒瑪瑙のはまった短剣をつくらせたと──)
 皮肉っぽいオゼルクの声が脳裏をよぎった。
 心臓の鼓動が早くなり、足音の数をただ無為に数えながら、イーツェンはひたすら少年に従って歩きつづける。オゼルクの話を聞いていたあの時は、まさか運命が自分をこんな遠くまで運んでいくとは思いもしなかった。オゼルクの運命も、自分の運命も、あの時からは大きく変わった。
 あれから随分と遠くまで歩いてきた。それはイーツェンだけではなく、オゼルクだけでもない。少年の後ろ姿を見ながらイーツェンは唇を噛む。
 誰もがきっと、自分が思っていたのとは別の場所へ、思っていたより遠く押し流されてきたのかもしれなかった。


 ワインの壺とニシンの酢漬けやチーズがのった盆を両手に持って、イーツェンは左右に神像が立ち並ぶ石造りの回廊を抜けた。前を歩く少年が、廊下の角に立つ衛兵へうなずきながら彼らの前を通りすぎる。
 宴のにぎやかな音は夕暮れとともに薄れ、聖堂の庭には篝火がともされて、庭に面した回廊の柱の影がイーツェンの前に後ろに揺れていた。影を踏みつけながら歩きつづける。柱に架かった蝋燭の小さな炎からは、イーツェンがここに来てから嗅ぎ慣れた甘い煙がゆるく立ちのぼっている。
 角々を守って立つ衛兵たちが聖堂の擁する僧兵でないことは、薄暗がりの中でも服装から見てとれた。そろいの上着は黒に近い青みの生地で、ふちを金糸でかがられ、前合わせから大きな房が下がっている。イーツェンが1度も見たことのない服で、彼らの胸元にはユクィルスの王族の紋章の縫いとりがあった。ユクィルス王家の誰の紋章なのかは、通りすぎる距離と顔を伏せたイーツェンの姿勢からではうかがえない。
 だが、フェインの紋章にちがいない。イーツェンにはその確信があった。王が聖堂に到着した今、ほかの誰がこんなふうに紋章を誇示するだろう?
 ここまで来た。目指すものに向かって歩いているという確信が、イーツェンの足取りを支える。シゼと一緒にここまで来たのだ。2人でともにくぐりぬけてきた数々の出来事を思えば、今この瞬間、彼らが離れていることなど大したことではなかった。
 1歩ずつ、イーツェンは少年に導かれるまま建物を離れ、森のように鬱蒼と茂る木々の小径へと踏みこむ。木の下に入った瞬間、ひやりとした夕暮れの空気が肌にふれた。刻々と陽の光は薄れ、闇がしのびよりはじめた木々の間には灯りが吊るされて、道は人の足でしっかりと踏み固められている。聖堂の敷地内にこんな場所があるとは驚きだった。
 歩きやすい道だったが、両手がふさがっているイーツェンは注意深く腰をおとして静かに盆を運んだ。数度、少年は肩ごしにイーツェンを振り向いて彼の様子をたしかめる。仕種にも後ろ姿にも、気品がある少年だった。
 木々の間を抜ける出口にも衛兵が立っていた。小径の先にはきれいに草木を刈り取った広い空き地が広がっていて、天幕がずらりと並び、ユクィルスの──それもフェインの──紋を染め抜いた旗が空き地を取り囲むように無数に立っていた。中央に大きな天幕が高くしつらえられ、その向こうには兵士たちのものだろう、小型の天幕がひしめきあって、空き地の奥へと長い列がのびている。100人ほどは楽に収容できそうであった。本隊はおそらく別のところに野営しているのだろうが、それでもイーツェンが一瞬足をとめてしまうほどの迫力がある。
 衛兵が立って守る中央の天幕は、イーツェンが見たことのないほど巨大な天幕であった。中心が高く空に向かって持ち上げられた屋根から、不思議な青みに染め上げられた毛氈の帳幕が、流れ落ちるように垂れている。それこそ中に数十人は軽く入れるだろう天幕の入り口には美しい紋様が織り出された幕が掛かり、左右を槍を手にした衛兵が守っている。
 少年はまっすぐにその天幕へ近づくと、衛兵といくらか言葉を交わした。衛兵が幕の横に垂れている紐をつかんで幕を脇へ引き上げ、天幕の入り口をつくる。少年はイーツェンを振り向き、その中へついてくるよう手ぶりで示した。
 天幕の中に入ると、ひとつの巨大な天幕と言うよりはいくつかの天幕を寄せあわせるように建てられたものなのがわかる。太い柱と梁が細かく組み合わされ、毛皮の幕で部屋が仕切られていて、その毛皮が音を吸うのか、ひどく静かであった。
 少年は入り口の衛兵に手渡された油燭を右手に持ち、暗い通路を照らしながらためらわずに進み、迷路にも見える天幕の中をまず右側に折れた。灯りが照らすのは天幕の壁がわりに使われている美しい毛皮や、その上に掛けられたタペストリー、柱に吊されている豪奢な盾など、どれもが威容に満ち、贅沢であった。
 人の気配はあるが、話し声はほとんどしない。毛皮や毛氈の厚みのせいか、人の数が少ないからか、イーツェンにはわからなかった。彼はこれほど大きく、これほど贅を尽くした天幕に入ったことがない。
 折れた通路の先に、緋色の幕が垂れていた。少年の手にした灯りが、幕に織り出されたヘラジカの角と弓を組みあわせた紋章を照らし、イーツェンはこわばった胸へ息を吸いこむ。あの日──ルディスに床へ組みしかれていた時、部屋に入ってきた男のブーツに、イーツェンはこの紋章を見たのだった。
 あの時彼は何を思っただろう。救われたと思ったか、ただ恥じて絶望したか、あの時のことがイーツェンにははっきりと思い出せない。どちらであっても、今はただ愚かしく思えた。相手のことを見もせず、顔を伏せたまま、何かにすがりつこうとしていた。
 2度と同じあやまちは犯すまい。
 心臓の音が耳の内側で鳴っている。イーツェンはジノンの紋章を見つめて、少年が幕の内側へ声をかけるのを待ちながら、そこに立ち尽くしていた。