ディーエンの大聖堂は、ユクィルスの主神のひとりであるホリージュを祀る最も古い聖堂で、聖堂を中心にひろがった町は巡礼や寄進によって栄えている。
 それは知識として知っていたが、町ととも近づくにぎわいは馬車の中からも感じとれ、華やいだ雰囲気に、イーツェンの心はこの6日間ではじめて浮き立っていた。
 町と見まごうような大きな集落をいくつも通り抜けた。轍を踏む車輪の音や車体の揺れから、道がきちんと手入れされているのがわかる。やがてそれは固い石畳の感触になった。ディーエンの町は近い。
 街道の幅も数日前とはくらべものにならないほど幅広になり、センドリスの一行が華麗な馬車行列を追い越したこともあった。聖堂に、収穫の寄進に行く貴族たちらしい。センドリスはそういう馬車や馬列が近づくと素早く馬車から下りて、相手へ顔見せに出かけた。帰ると大抵何か土産を持っていて、イーツェンに菓子やら干した葡萄などをくれる。
 仰々しく飾り立てた貴族の旅馬車を御者がゆっくりと進める一方で、家財を山と積んだ荷車を引きながら、聖堂への道を行くみすぼらしいなりの人々もいた。聖堂の慈悲にすがるしか生きるすべがなくなった人たちだろう。女や子供も多いその姿にイーツェンは同情したが、走りよってきた一団が馬車につかみかからんばかりにして大声で物乞いの口上をわめき立ててからは、彼らの姿を見ると窓の板戸をおろして掛け金をしっかりとおろすようにしていた。
 実際あの時、センドリスたちがパンをやる一方で剣で脅しつけなければ、彼らはありったけのものをむしり取ろうとしただろう。武装した一団の守る隊列にさえ恐れをなさない──いや、そうやって守られているからには価値がある筈だと、なおさら半狂乱になって襲ってくるような、死にものぐるいのところまで追いつめられた人々であった。やせて落ちくぼんだ眼窩にギラついた眼光、熱病に浮かされたようなまなざしと意味をなさない叫び声は、イーツェンを怯えさせた。
 だが彼らと自分とどれほど違うのだろう、とイーツェンは窓の板戸に額をあてながら思う。彼らとはちがう形だが、ユクィルスでの日々を生き抜くためにイーツェンは何でもした。男に身もゆだねたし、牢に入れられてからは泥水まですすった。
 生きていくことにそれほどの執着があったわけではない──イーツェンは、自分が生きのびることに向いた人間だと思ったことはなかった。シゼのように何事にもたじろがない強さもなければ、ローギスやアガインのように人を打ち破る意志の力も、ギスフォールやセンドリスから感じるような強い生命力もない。ただ運命に押し流されるようにして、今思えば身の毛のよだつようなことまでした。特に地下牢に入れられてからは、まともな判断力すら失った瞬間が、たしかにあった。
 そんな自分と、パンのひとかけを求めて武装した商隊に群がろうとする人々と、大きな差はない気がする。自分を失い、誇りを失って彼らの中にいる自分が、イーツェンには容易に想像できた。
 そう思いながら、イーツェンはゴトゴトと馬車に揺すられて、窓枠にかかった自分の指先を眺め、小さく微笑した。
 こんなふうに己を取り戻したのはシゼのおかげだった。シゼに救われていなければ、どこまで落ちていただろう。シゼは、ユクィルス王の供死として命を落とす寸前のイーツェンを城から救ったが、彼が救ったのはイーツェンの命だけではなかった。
 彼に報いたい、と思う。シゼは、イーツェンに関わったことであまりにも多くを失った。ユクィルスの城での仕事や暮らしも、その外で得た友や仲間も。すべてをかえりみず、自分にとっては遠い見知らぬ異国でしかないリグへ、イーツェンをつれていくと誓った。
(リグへ──)
 それが、イーツェンの望みだからだ。
 そしてそのシゼの誓いをかなえることが、今のイーツェンの望みであった。リグへ。自分のためだけでなく、シゼのために。彼が失った多くのものに報いるために、せめて彼の誓いをかなえたい。
 リグへ戻らねばならなかった。それはもはやイーツェンにとって、自分ひとりの願いではなく、奇妙に入り組んだ形でシゼのものでもあった。
 遠く、虚空を打ち鳴らすような音が、長い尾を引きながらひびいてきた。がらがらと石畳をうるさく踏む車輪の音の中でも、その音は体をふるわせるように聞こえてくる。
 イーツェンは光を細く通す板窓を小さく持ち上げ、近づいてくる街並みを馬車の内側から眺める。ゆるやかな大地のうねりを越えた向こうに、その街はあった。歪んだ円形で街を囲う城壁の中に、家々の石の屋根が波打つタイルのように敷きつめられている。漆喰で塗られた白い壁は陽光をあび、その白さは、光のつぶがきらきらと輝くように光って見えた。
 近くくにつれ、青銅色の大伽藍をいただいた大きな建物が街の中心にそびえているのが見えてきた。建物の正面──イーツェンたちが向かう街の門に面した側に向けて、大きな円形の窓があいている。街までの距離を考えると驚くほどに大きな窓は、その内側を細かな紋様の形に枠取られ、色とりどりの硝子が斜めにさす陽光をはねかえしていた。周囲の家々と異なり、赤みがかった煉瓦でつくられた建物は、同じ赤煉瓦と青銅伽藍の小塔でぐるりと囲まれて、そのすべてが陽光のように輝く存在としてそびえ立っていた。
 ──ディーエンの大聖堂。
 一目で、それを見あやまることはない。屋根の頂点には二対の翼を持つ半獣の神が立ち、下界のすべてを睥睨していた。主神である「古き神々」のほとんどが何かしら異形の姿をもつ。伽藍の周囲では青銅の獣たちが天に向かって咆吼をあげ、主神の威容を祝福していた。
 馬車が街に近づくにつれ、聖堂の存在がひしひしと身に迫り、イーツェンは街の鐘楼からひびきわたる鐘に肌がふるえるのを感じていた。刻の鐘だろうか。だが奇妙に間をあけた鳴り方で、イーツェンは刻を聞きとることができなかった。
 ユクィルスの主神の一柱ホリージュを祀る古き神殿、祭司がつどうディーエンの大聖堂。城とはまた違う、不可侵の権力が横たわるここをどうやってジノンが己の味方につけたのか、イーツェンは知らない。剣の力をもってのことではないだろう。ディーエンの司祭に剣を向けることは主神ホリージュに剣を向けることであり、そんな王に騎士や民心がついてくるとは思えない。
 フェインの母は、王家の神事をとりおこなう神殿の司のひとりであるというが、ディーエンがフェインの側についたのはそのためだろうか。あるいは、ジノン自身が母方から古い巫女の血を引いているからか。そのどれか、おそらくはすべてを使って、ジノンはディーエンの聖堂を味方に引きこんだのだろう。それともローギスが聖堂の扱いに失敗したのか──彼があまり祭事に熱心だという話は、聞いたことがない。
 そんなことを考えながら、イーツェンは窓枠に顔を押しつけるようにして近づく街並みに見入っていたが、あまり熱中していたので、背後でセンドリスが洩らした言葉を轍の向こうに聞きもらしそうになった。
「ジノンはディーエンに王の骸を預けた」
 イーツェンはその言葉を追って、センドリスの方へ向き直る。昨夜一晩センドリスは夜営地に戻らず、一隊が出立した時も姿を見せなかった。それが昼すぎに戻ってきて馬車に乗りこむと、腕組みして無言で目をとじたきりだったので、彼は眠っているのだとイーツェンは勝手に思っていた。
 御者との間は板で仕切られ、前に通じる板窓も今はとざされている。センドリスの声は馬車のきしむ音よりずっと低く、イーツェンは彼の方へ少し身を傾けた。
「ユクィルスの前王の骸ですか?」
「うん」
 少し眠そうに、センドリスはうなずく。
 そう言えばシゼが王の骸について何か言っていたなと思って、イーツェンは朦朧としている記憶を探りながら目をほそめた。城から助け出されてすぐの時だ。たかが季節ひとつほど前のことなのだが、あの王の死が随分と昔のことのように思える。
「私が聞いたところだと、ローギスとジノンのどちらも王の骸を持っていると主張していたそうですが。そしてどちらも、それぞれ王の葬儀を執り行ったと。結局、骸はジノンが持っていたんですか?」
「まあ首はひとつだが、手足は4本あるしな」
 不気味なことを平然と言って、センドリスは前を向いたまま腕を組んだ。
 イーツェンは小さく笑った。センドリスが言ったのは冗談だろうが、実際、ローギスとジノンなら王の遺骸の手足をばらして持っていきかねない。死者には悪いが、遺骸をめぐる彼らの争いはひどく滑稽なことに思えた。
 センドリスはイーツェンの笑いには同調しなかったが、唇のはじがぴくりと引きつって、彼もこの事態を滑稽に受けとめているのがわかった。立場上、ここで笑うのはまずいのかもしれない。いくらイーツェンしか見ている者がいないとは言え。
「ディーエンの聖堂は骸をほしがっていたからな。王の骸はよい飾り物になる。聖堂は骸を王のものだと言うだろう。それが猿の骨でも」
 何の知らせだったのか、長く続いていた鐘の音はいつしかやんでいた。イーツェンは馬車の旅でこわばった膝をできるだけゆるめて背中をクッションにもたせかけ、肩をすくめた。
「ローギスがやはりディーエンに骸を送ると言えばどうなります?」
「こういう手は、やった者勝ちだ」
 センドリスはイーツェンの問いをおもしろがっているようだった。
「過去200年、王たちは王廟に眠ってきた。それを城の外にひっぱり出して値段をつけたのはジノンが最初ではないが、今回は先手を取った。ローギスは普段からディーエンへの寄進を怠っていたからな。それが裏目に出たのさ」
 それで結局、王の本当の死骸はどこにあるのだろうとイーツェンは思ったが、どうでもいいことだったので口をつぐんでいた。センドリスが知っていたとしてイーツェンに言うとは思えないし、そもそも別に知りたくもない。
 石畳に小さくはねる馬車に身を揺られながら目をとじると、人々のざわつきが近づいてくるのを感じた。荷車の音、何か大声で怒鳴る男の声、笑い声、そこにかぶせるようにひびいてくる商人の呼び売りの甲高い声、宿への引きこみの声。ディーエンの門がすぐそこに近づいてきている、その気配がうっすらとしたざわめきとなって肌を這う。
 こんなに大きな街へ立ち寄るのは、ユクィルスの城を去ってから初めてのことだった。城にいた時さえ、城下町にもほんの数回しか出たことがない。
 緊張に乾いている唇から細い息を吐き出し、イーツェンは力が入っている首すじをゆるめた。
 ここに、ジノンがいる。
 ジノンはイーツェンの存在をどう思っているのだろう? 彼がユクィルスの城でイーツェンに近づいたのは、イーツェンがオゼルクと──そして後にはローギスと、関係を持っていたからだ。イーツェン自身が何かの役に立つと思ったわけではなかろうが、オゼルクと、その向こうにいるローギスへ自分の存在を示し、時には何かの動きを引き出すためにイーツェンを使った。きっとオゼルクに聞かせたい情報の1つや2つ、さりげなくイーツェンに聞かせたりもしていたのだろう。
 そういう「道具」としての意味を失った今、ジノンはイーツェンをどう見るのだろう。様々に思い返すと、ジノンがイーツェンをどう思っていたのかイーツェンには確信が持てない。あまりにみっともないところばかり見られた気がする。ジノンは決して見下しや嫌悪を表へ見せたことはなかったが、表の顔をそのまま信じるのは愚かなことだ。
「そんなに不安がるな、ジノンもあんたを取って食いやしないさ。多分」
 横からかけられた声に、イーツェンはセンドリスを横目で見た。
「励ましてるんですか、脅してるんですか」
「ううん?」
 曖昧な声をたてて滑稽な顔をしてみせるセンドリスへ、思わず笑ってしまってから、イーツェンはふとまじまじとセンドリスを見た。荷を無事に運ぶために、この男が朝から晩まで心を砕いていたのをイーツェンは知っている。時にとまり、時に荷を積み直し、あまりにものろい一隊の進み方にイーツェンは苛々したが、センドリスの仕事ぶりを見ていては文句が言えなかった。
 聖堂を目前にして、センドリスの表情はおだやかだった。この6日間の同道は互いに息がつまる時もあったが、彼らはおおむねうまくやってきた。特に悪夢にうなされたイーツェンを起こした夜から、センドリスはあまりするどい目をイーツェンへ向けなくなった。
 ──誰もが悪夢を見る。
 そのうち折り合いがつく、とセンドリスは言った。その口調はごく自然で、無理にイーツェンをなぐさめようとしたものではなかった。
 イーツェンの視線に気づいて、センドリスが笑みを浮かべたまま片方の眉を上げる。イーツェンはただ素直に頭を下げた。彼にとってはちょっと手間のかかる仕事でしかなかっただろうが、イーツェンにとってはジノンに会いにくることに人生がかかっている。
「センドリス、ここまでつれてきてくれてありがとう」
「ふうん?」
 尻上がりの変なひびきでそう呻くと、ふいにセンドリスはニヤッと歯を見せた。
「俺のためを思うなら、五体満足で戻れよ」
 妙に熱のこもった口調だった。しかも、変な言い方だ。
「五体満足」
「そう。シゼとか言ったか、あいつ?」
「シゼが何か?」
 脈絡なく出された名前に心が緊張し、警戒を表に見せないようにしながらイーツェンはまばたきした。センドリスは短いひげの出ている顎を指2本でつまんで、目をほそめる。
「俺に、兄弟や子供はいるのかと聞きやがった」
「シゼが?」
 今度こそ本気でとまどって、イーツェンはまばたきをくり返した。シゼは少しの間、センドリスと2人だけで話をしていたから、聞いたのならその時だろう。しかしどうしてシゼが、あの緊迫した状況でセンドリスの家族のことを知りたがったというのか。彼にはさっぱりわからない。
「うん」
「あなたの家族とシゼに何か関わりが?」
「ふふん」
 センドリスの口のはじが微妙に持ち上がって、彼はジノンとそっくりの考え深げな表情になった。しかし広い口の片はじがぴくりとひくつくと、途端に何だか人を小馬鹿にした気配も漂い出す。ジノンにはない愛嬌が、この大柄な男にはあった。
 イーツェンが重ねて問おうとした時、馬車がとまった。センドリスが扉を引きあけ、そこにいろと手で指示してからとびおりる。人々のにぎわいが一気になだれこんできて、言葉のひとつずつを聞きわけられない無数のうなりのようなざわめきに、イーツェンは息を呑んだ。
 どこか荒々しいほどの、人々の生活の気配がそれぞれの声から色濃くたちのぼってくる。土埃のたちこめる街道とはまるでちがう、どこか猥雑で生々しい街の匂い。すべてがはなやいでいて、もし許されるなら、イーツェンは自由にその活気の中を歩き回りたくてたまらない。
 馬車の扉はすぐにはしまらなかった。胸に十字を4つ組み合わせた青い紋章をつけた男がのそっと首をのばして馬車を中をのぞきこみ、イーツェンの姿を上から下まで目であらためる。街の衛士だろうか。
 イーツェンはうつむき、顔を伏せて、奴隷らしく従順に身をちぢめた。奴隷が馬車の座席に座って優雅に旅をしている理由など、必要ならセンドリスの方でもっともらしく言いつくろってくれるだろうが、舐めるような視線を受けると心臓がすくむ。
 男は、手にした短い杖でゴンゴンと座席の背板を叩いた。膝をかかえて小さくなるイーツェンを無視して足元の床も叩き回る。奴隷として物のように無視されるのはもう慣れたつもりでも、いつまでたっても気まずい苛立ちがあって、イーツェンはそれを怯えとともに腹の底へ呑みこんだ。
 別に何も隠していないと満足したのか、杖を引いた男は無言のまま扉をバタンとしめる。座り直したイーツェンは、緊張に握った両拳を膝にのせ、かるいめまいが体を抜けていくのを感じた。さっきまで聞こえていた鐘の余韻がまだ身の内に尾を引いているようで、少しばかり体がたよりない。街のざわつきが遠くに重なって聞こえた。
 外に出たいという気持ちはしぼんで、不安な気後れだけが残っていた。
 ──シゼがいれば。
 反射的にそう思った自分に、表情には出さずに苦笑する。そんな風にいつまでもすがりついてはいられない、そう心に決めていても、シゼが今ここにいて、この不安定な気持ちを分かち合ってくれればと思う。彼がいれば、イーツェンは自分がとるにたらない、人の目にうつらない小石であるかのように感じなくてすむ。
 外から何やら口上のようなものが聞こえた。その中にセンドリスの声も混じっている気がする。身分と目的をひととおり言いかわしあってから、カンカンと小さな手持ちの鐘のような音が鳴ったかと思うと、馬車はゆっくりと進みはじめた。
 しまりかかっていた扉が乱暴にひらき、センドリスが歩調を合わせながら勢いをつけて乗りこんでくる。何やら苦虫を噛みつぶした顔で、彼はイーツェンの横にドサリと座りこむと、ぶつぶつと不機嫌に呟いた。
「水税が上がりやがった。水場が1つつぶれたらしい。馬鹿が、死んだ馬放りこんだんだとか」
「何でそんな‥‥」
「嫌がらせだろ。ジノンの敵も色々いるからな。今回の式典には陛下も来るし」
 あまりにもおざなりな口調のせいもあって、「陛下」が誰のことか、思い出すのに一瞬だけかかった。
「フェインが?」
 うっかり敬称をつけそびれたが、センドリスは気にした様子もなかった。
 ゴトンと馬車の車輪が大きく鳴って、いきなり体が後ろに傾いた。イーツェンは驚いて座席のはじをつかむ。渡し板のようなものに乗ったらしく、上下動がゆるくなり、石畳とは違うものを踏んで進んでいるのが体に感じられた。街の内堀にかかる橋を渡っているのだろうか。
 外をのぞきたかったが、表情でうかがったセンドリスが首を振ったので、窓をあけるのはやめた。センドリスは何かを考えている様子で腕を組みながら、片手間にイーツェンへたずねる。
「フェインがなつかしいか」
「そうですね。私には弟がいませんが、もしいたらあんな風に幽霊の話なんか聞かせたりしたのかなあ、と」
 もう8つになっている筈の少年の名は、ユクィルスの王族の中でほとんど唯一、イーツェンの胸をほんのりあたためる名前だった。フェインは自分にとって「異国」であるリグの話や言い伝えを聞くのが好きで、時に行儀悪くイーツェンの膝に座ってまで話の続きをせがんだ。
「弟なんかそんなかわいいもんじゃねえぞ」
 センドリスが本気で顔をしかめたので、イーツェンは思わず笑ってしまった。
「仲悪いんですか」
「そういうんじゃねえが、食卓にあいつらがいる時によそ見をすると、俺の皿までいつの間にかカラになってやがる」
 話ぶりからすると、センドリスは兄弟が多いようだ。
「ああ、もしかして弟さんの誰かがシゼを知っているとか?」
 それがセンドリスの家族についてシゼがたずねた理由だろうかと、ふいに思い当たって、イーツェンは声を明るくした。それならわかる。もしかしたら弟の1人くらい、センドリスに付き従ってアンセラの遠征に行っていたかもしれない。
 だがイーツェンがそう言った途端、何がおかしいのか、センドリスは体を2つに折り、額を座席の前の板にぶつけんばかりにして太い笑い声をたてはじめた。あんまり笑って腹が痛くなったのか、胃の上を押さえてまだ笑いながら、きょとんとしているイーツェンへ親指の先を向ける。
「イーツェン‥‥ああいう時にわざわざ親兄弟、子供、妻なんかのことをたずねるのはな、世間話の糸口じゃない。もし裏切ったりしたらそいつらが無事にはすまんという脅しだよ」
「シゼが?」
 信じられない思いで目を見はり、続ける言葉を失ったイーツェンの額を、センドリスがピンと人差し指の背ではじいた。
「お前は呑気だな」
「‥‥すみません」
 背すじがひえびえとした。イーツェンの言葉に従って剣を研ぎに出していたシゼは、あの時、無手のままセンドリスにまっすぐ対峙していた──イーツェンに言葉が聞こえてこないほど遠く、部屋の向こう側で2人は向き合っていた。獣がまだ見さだめていない相手に対峙するように、敵意を用心深く覆いながら、するどく互いの気配を読み、相手に挑んでいた。
 シゼはあの時、剣は持っていなかった。だが彼は、センドリスへ向けて言葉の刃をつきつけていたのだ。
 ──兄弟や子供はいるか。
 大きな息をついて、イーツェンは薄い綿の入ったクッションにもたれかかり、のろのろと街なかを進む馬車の振動に身をゆだねた。クッションごしに感じる背板の感触が背の傷を押している。ちくちくと、かゆいような遠い痛みが背すじにそって揺らいでいた。
 シゼが何をしようとしたのか、イーツェンにはよくわかっていた。
(あなたを守る)
 かつてシゼはそう言った。誓いのように。そして今もその言葉を果たそうとしている。たとえ離れていても。
 背の痛みとはちがう痛みが胸の奥に沈んでいるのを感じて、イーツェンは目蓋をとじた。イーツェンのせいで、シゼはまた不必要な敵を作ったのだろうか。
「五体満足で戻ってくれよ」
 冗談めかして不吉なことを言うセンドリスの声に目をあけると、男は笑みの形に表情をつくってはいたが、そのまなざしは挑むようだった。彼はシゼの言葉を信じている。それが言葉だけの空虚な脅しではないことを、どこかで嗅ぎとっている。
 当たり前だ、とイーツェンは思った。シゼは本気だ。何て馬鹿なことを言ったのだろう。人生を丸ごと、一瞬の言葉に賭けるようにして、イーツェンのために人を脅した。
 ふっと目の裏が熱くなって、イーツェンは息を呑みこんでから、センドリスの笑みに釣り合うような強い微笑を返した。
「そのつもりですよ。必ず無事に帰ります」
 シゼのところへ。そして、リグへ。それだけが彼に報いる方法だった。