──息ができない。
体の上にかかる重みが肺をつぶし、心臓を圧迫し、すべての空気と血の流れをとめようとしている。喉に粘液がつまっているようだった。
腕を動かそうとしたが、縫いとめられたようにそれは動かず、自分の体ではないかのようなぼんやりとにぶい反応しかなかった。
のしかかっていた重みがふいに揺らいで、イーツェンは息を呑む。粘土のようだった存在が生々しい温度を持ってイーツェンの全身を圧迫しつつあった。いや体だけではない。心も、体中の神経も、すべてが押しつぶされていく。まるで、自分の体とのしかかってくる温度との間に境目がなくなって、その生あたたかさの中にずぶずぶと呑みこまれてしまいそうだった。
いくらもがこうとしても指先ひとつ動かず、イーツェンは身の内に入りこんでくるものの温度に総毛立った。逃れようもなく、体も意識も支配され、肌を溶かすように何かが沁みこんでくる。ひどく生々しい、おぞましいものが体の内を這いずった。
これは夢だ、とイーツェンは思う。いつもの悪夢だ。彼をとらえて決して離さない、どす黒い夢のひとつ。それはわかっていたが、イーツェンにはどうやって目をさませばいいのかわからなかった。
目ざめられなければ、夢だとわかったところで何の意味もない。四肢は動かず、汗ばんだ全身を何かが這っていく感触に喉をつまらせて、イーツェンは自分を押さえこむものを見ようとしたが、何かうっそりとした黒い固まりのようなものしか目にうつらなかった。決まった輪郭を持たず、目をこらすたびに形を変える、それは人のようでもあり、イーツェンの恐怖がつくり出した化け物のようでもあった。
──イーツェンを蝕む夢は、はじめのうち、知っている男の顔をしていた。ローギスやオゼルクやルディス。牢番の男。衛兵。どこの誰ともわからないが、牢につながれたイーツェンを幾度も訪れては嘲った褐色の肌の男。イーツェンの眠りの奥底で陵辱の記憶はくり返され、そのたびにシゼがイーツェンを起こした。
シゼはイーツェンが悪夢にうなされているのは知っていても、夢の内容を聞こうとはしなかった。それとも彼は知っていたのだろうか? イーツェンが何にさいなまれ、何から逃げようとしていたのか。たとえ聞かれても、自分をつかんでいるものが何なのか、イーツェンは彼には言えなかった。
いつしか夢はその顔を失い、ぼんやりとしたものになった。記憶が遠くなっているからなのか、それとも新たに浮き上がってきた顔も覚えていない男たちへの恐怖なのか、イーツェンには判断がつかない。牢にいた時の記憶は、その痛みや苦しみこそ今でも呼吸を奪うほどに鮮烈だが、そのほかの大部分は水ににじんだようにぼやけている。
だが今、そのすべてが異様な痛みをもってイーツェンを押しつぶそうとしているようだった。体の外から、そして内側から。
身の奥で何かが動いて、イーツェンはのたうった──いや、そうしようとした。だが重い体は、まるで鉛でも呑まされたかのように動かなかった。恐怖、怒り、屈辱。火のような感情がイーツェンの内で次々にはじけ、見えない枷と重さに全身で抗いながら、彼は力を振り絞って叫ぼうとした。どうにかして逃れなければならない。この悪夢に全身を蝕まれるまま、力尽きるわけにはいかなかった。
体が動かなくとも、声が出なくとも、あきらめるわけにはいかない。負ければまた夢を見る。イーツェンがこの恐怖を、嫌悪を打ち砕くまで、悪夢は顔を変えながらイーツェンを追ってくる。それはわかっていた。
熱い、湿った息が首筋を這って、イーツェンは歯をくいしばった。おぞましさがこみあげてくる。
動け、と念じた。足に、指先に。動く筈だった。杖1本にすがるのさえやっとだった体が、シゼの教えを受けて木剣を振れるまでになったのだ。いつか動く。必ず動ける筈だ。
恐怖と、おぞましさと、イーツェンのうちに棲みついてしまった屈服と──それらを打ち砕こうとしながら、イーツェンはすべての力を振り絞ってもがく。悪夢を、彼自身の恐怖をはねのけようと、わずかに残った意識のかたすみで、あたたかな名前にすがりついた。
(シゼ──)
頬を誰かが、かるく叩いた。
「イーツェン」
低く、荒々しさを押さえこんだ声で名を呼ばれて、イーツェンは呆然と目の前の顔を見上げた。がっしりと頑固そうな顎、眉間に刻まれた厳しい皺、ユクィルスの王家に独特のするどい頬骨と傲慢に見えるほど高い鼻筋。だが目の色はもっと灰色がかっていて、そこには心配そうな色が浮かんでいた。
「‥‥センドリス?」
呼んだ声は口の中にくぐもった。イーツェンの口にあてられていた手が離れる。イーツェンは起き上がろうとしたが、めまいを感じて頭を枕に戻し、力なくつぶやいた。
「すみません。声を出しましたか」
「少し」
淡々と言って、センドリスはイーツェンから離れていった。ぼんやりとした影が天幕の垂れ幕に動き、イーツェンはやっと自分がセンドリスの天幕のすみで眠っているのを思い出した。
旅がはじまってから4日目になる。センドリスは昼はイーツェンを自分の馬車に乗せ、夜はこうして天幕でイーツェンを眠らせてくれた。毛布ひとつで地面に眠るより──奴隷がそうするべきように──はるかに快適だったが、そばに置いて一挙一動を見張られているような気もしていた。
イーツェンの反応でも見るつもりか、不意打ちでするどい問いを投げつけてくるセンドリスに、イーツェンはつい同じほどにするどい声で返事をしそうになることがあった。状況からして仕方がないが、彼らの間はひどくぎこちない。
冷や汗に濡れた体を小さく震わせ、吐き気をこらえてゆっくりと呼吸をしながら、イーツェンは腹の内に凝った緊張の塊をどうにかほぐそうとした。
もう、夜半はすぎているだろう。センドリスはまだ起きていたのか、油燭がぼんやりとした光をともしていた。彼はいつも夜遅くまで衣装箱に向かって書き物をしている。
センドリスの眠りを邪魔したわけではないことだけが小さな慰めだったが、それでイーツェンの気分がよくなるわけではない。本当は小さく丸まって頭の上まで毛布をかぶり、すべての世界を自分のそばから締め出してしまいたかったが、そうもいかずにイーツェンはそのままじっとしていた。センドリスの前で、これ以上弱い姿をさらすわけにはいかなかった。
1人きりだったなら、また耐えやすいのに──そう思って、イーツェンは歯を強く噛んだ。本当にそうだろうか。1人で眠っていたら、どうやってあの悪夢から目ざめられたというのだろう。起こされて気まずい思いをするのと、悪夢の中でのたうち回るのとどちらがいいか。まだイーツェンは1人であの夢から起きることができない。
うつむいていると、すぐ近くで影が動いた。
「ワインでも飲むか?」
はっと見上げて、イーツェンはセンドリスが膝をつき、心配そうに眉をしかめてイーツェンをのぞきこんでいるのに驚いた。悪夢から起こしただけで、あとは放っておかれるだろうと勝手に思っていたのだが、センドリスはかなり真剣にイーツェンの答えを待っている。
ワインは好まないが、このままでは簡単に眠りに戻れそうもない。センドリスの親切に甘えることにして、イーツェンはうなずいた。
「いただきます」
「うん」
どちらも低い、ひっそりとしたやりとりだった。センドリスはもう従僕を引き取らせ、天幕には彼らしかいない。静まりかえった夜の底から、時おり夜哨が巡回する足音や遠い鳥の羽ばたきが聞こえてくるだけだ。
イーツェンは毛布を肩から胸元へかき合わせながら起き上がった。礼儀も何もあったものではないが、下着しか身につけていないので仕方ない。もそもそと毛布の塊のようになって座っていると、センドリスが書き物用に使っている衣装箱の横でワインを小さな木の器に注ぎ、持ってきた。
「まだあたたかい。飲め」
「ありがとうございます」
丁寧に礼を言って受けとった。センドリスの寝酒用に従僕が壺ごとあたためておいたものだろう、言葉通りほんのりあたたかく、渋みのある香りが気を落ちつかせてくれるようだった。
「お仕事の邪魔をしてすみません」
センドリスへあやまると、イーツェンの前にどっかりとあぐらで座りこんだ男は、大きな口のはじをニヤリと持ち上げた。
「これも仕事だ」
その言葉の意味がよくつかめずにイーツェンは聞き返そうかと迷ったが、センドリスは自分のワインを一口すすって、くだけた口調で続けた。
「悪い夢か」
「‥‥‥」
夜気が首の輪につたわって、金属の輪が肌につめたい。毛布の中で首をすくめて、イーツェンは力なくうなずいた。
夢にうなされてシゼに起こしてもらうことには慣れていたが、こうして他人に起こされてみると、ひたすらにきまりが悪い。自分を見つめるセンドリスの目が、イーツェンの中にある弱さを見透かしている気がする。夢にうなされて悲鳴を上げるしかない、弱い人間の底にあるものを。イーツェンがどうにか隠そうとして、どうやっても隠しおおせることができないものを。
どうして自分がこんなに弱いのか、彼には理解できなかった。城にいた時からそうだ。どれほど耐えようとしても、強くあろうとして歯をくいしばっても、自分自身にたやすく裏切られる。彼の体はあっさりと快楽や痛みの前に屈服したし、彼の心は今なお悪夢に縛られて、こうして人の前に弱さをさらけ出す。
いや、多分、ユクィルスに来る前──リグで暮らしていた時から、彼はずっと弱かったのだ。5つの時に母を失い、王子としての身分だけは持ちながら、王宮からは遠ざけられて育った。その間ずっと王に対する母の裏切りを後ろめたく思い、同時に、どうして自分がその重荷を負わねばならないのかと問いつづけていた。時に母をうらみ、父をうらみ、兄たちをうらやんで苛立っていた自分をイーツェンは知っている。時にその感情がひどく暗いものだったことも。
ユクィルスが人質を求めた時、その身代わりとなるようイーツェンをつき動かしたもののひとつは、その暗い感情だった──今は、そのことをわかっていた。
あの時にはまるでわからなかった。
たとえ誰かに心の底を見抜かれても、イーツェンは絶対に認めなかっただろう。自分を駆り立てたものがそんな暗い思いだとは。だが、リグのためだと己の表面をとりつくろい、そしてそれはたしかに真実のひとつでもあったが、イーツェンの中には深く沈んだ怒りがあった。直視したことのない怒りが。
これが弱さでなくて何だろう。己から目をそらして運命をころげ落ち、人の前にくじけ、今となってはぴたりと背を追ってくる悪夢に怯えている。いくら木剣を握って強くあろうとしても、シゼのように強くなりたいと願っても、自分の中にそれだけの強さがないことにイーツェンは心底うんざりしていた。彼はシゼのようにはなれない。これだけ多くのものをくぐり抜けたつもりでも、弱いままだ。
(──人は、自分で思っているほど強くはない‥‥)
レンギの残した言葉が、今の彼には灼けつくように痛い。
溜息を唇の内側に隠し、イーツェンは舌に苦みを残すワインをゆっくりと飲んだ。底の丸い、小さな椀のような器のふちは、唇に少しざらつく。
自分の弱さをも受け入れて耐えなければならないと、レンギは言った。だがそのレンギにしても、イーツェンがこれほど弱いと思っていただろうか。レンギその人は、過去の弱さをのりこえていつも毅然としていたように、イーツェンには思える。イーツェンはレンギのようにもなれはしない。
だからオゼルクやルディスは、イーツェンに目をとめたのかもしれない。虫が匂いに引きつけられるように、彼らはイーツェンの中にある弱さを嗅ぎつけたのかもしれなかった。自分がこれほど弱くなければ、城でのことはおこらなかったのかもしれないと──そのひどく気持ちの滅入る考えを、イーツェンは心のすみに押しやろうとしたが、それはうまくいかなかった。特に、これほど疲れている時には。
センドリスの体がイーツェンの方へ動き、考えに沈んでいたイーツェンはぎくりと息をつめた。だがセンドリスは、毛皮の上に足を組んで座り直しただけだった。飲み干した硝子の杯を横に置き、膝に頬杖をついてイーツェンをじっと見つめる。青みがかった灰色の中には子供のような光があって、そういう人なつっこい顔をする時の彼はユクィルスの王族というよりもどこか悪ガキのようだった。
「俺といると気づまりだろ」
「そういう、わけでは」
「あと2日でディーエンの聖堂につく。もうちょっと我慢しろ」
はは、と歯を見せて笑うセンドリスへ、イーツェンは曖昧な微笑しか返せなかった。到着が近づいて一息ついたからか、センドリスの立ち居振る舞いにあった険が薄らいでいるのを感じる。それを突き放すような真似はしたくなかったが、疲労で全身が重かった。
「私の方があなたの邪魔なんじゃないですか、センドリス」
「まあな」
聞いた方が悪いのだが、あっさりと肯定されるとまた気が滅入る。さっさとワインを飲んで寝るかと、いつのまにか渋みを増したようなワインを舌の上で無為にころがしていると、センドリスが静かな口調で言った。
「俺がいない方がいいなら、別のやつをつけるぞ。悪いが1人にはできん」
「あなたの邪魔なら──」
「言っとくがな。どこに誰といようが、俺はずっとあんたに目を光らせてなきゃならん。少なくともジノンのところに届けるまで、傷ひとつ増やすわけにはいかんのさ。だから俺のことは気にするな」
「‥‥‥」
「俺の機嫌を取ろうとするな、イーツェン」
言葉ほどには、その口調はきつくなかった。センドリスの笑みにはイーツェンの緊張の角を取るだけのやわらかさがあって、それでもイーツェンは何と返事をしたらいいのかわからない。どういう口をきいていいのかも。
センドリスが今のイーツェンをどう見ているのかがまるでわからなかった。逃亡した人質や奴隷か、ジノンの客か、リグの王子か、それともただの迷惑な荷物か。
センドリスはやけにあけっぴろげな表情でイーツェンへ身をのり出していたが、この4日間ずっとイーツェンをひややかに──少しばかり敵意すら感じるほど──扱ってきた男が手のひらを返したようで、それも少々気味が悪い。
「とばした伝令から、ジノンの返事が届いた。ジノンもあんたに会いたがってる。だからそんなに心配するな、ちゃんとつれてってやるから」
ひとつ息を呑み、イーツェンはセンドリスの目を見て小さくうなずいた。ジノンがそしらぬ顔をするつもりはないとわかって、肩から大きな重荷がおりる。ジノンに会うために旅をしてきたのだ。とにかく会わないことにはどうしようもない。
センドリスの態度の変化も腑に落ちる。イーツェンを荷物としてではなく、ジノンの客として扱うことにしたのだろう。しかし返事の内容によっては、センドリスはイーツェンをどうするつもりだったのか。そばにおき、目を離さないようにして──ひややかな距離をあけながら、センドリスはジノンの返事に何を予期していたのだろう?
上半身をつつんだ毛布の下に夜気がしのびこんできて、イーツェンの腕をちりりと冷やす。体をうつして紙やインクを片付け始めたセンドリスの横顔は静かで、口元の笑みから読みとれるものはなかった。センドリスが何者なのか、イーツェンは彼のその顔の裏にあるものを何ひとつ知らない。だが時おり、彼はこの男が怖かった。
センドリスは王のために働いていた──かつてオゼルクは、そう言った。ずっと昔、ジノンが機織り部屋の娘をはらませた時、王がセンドリスを送りこんでその始末をつけさせたのだと。どういう形での「始末」なのかは、オゼルクも知らなかった。そのことが、センドリスをこうして近くで見るたびにイーツェンの胸の内をよぎる。
手際よくまとめた紙を鍵のついた箱へしまうと、センドリスは自分の杯を拾い上げてワインの残りを注ぎ、ざっくばらんな口調でイーツェンへたずねた。
「いつも同じ夢か?」
「‥‥大体は」
問いにひるんだ自分を隠し、イーツェンは用心深くこたえる。夢の内容をよもやセンドリスは知るまいが、自分が何かうかつな寝言を口にしてはいないかと思うと背すじがぞっとした。
「ジノンが怖いか?」
「え?」
センドリスの言葉はイーツェンの意表をつく。続く言葉も。
「だからうなされてるんじゃないのか」
「それは‥‥」
目をみひらいてまばたきし、それからイーツェンは冗談だと解釈して小さく笑った。
「ジノンの夢を見ているわけじゃないですよ」
「だが城の夢だ、そうだろ? ジノンのせいで思い出したんじゃないか?」
──城の夢。
夢の中身までは、知るまい。知る筈がない。センドリスはイーツェンが城で何を強いられていたか知らない筈だ。それとも知っているのだろうか?
半ば恐慌にかられ、イーツェンの全身にじわりと嫌な汗がにじんだ。裁きにかけられて鞭打たれ、奴隷の輪をつけられ、投獄の末に死にかけた──センドリスが言いたいのはそういうもののことだと、自分に言いきかせる。イーツェンにこびりついた陵辱の記憶について語るにしては、センドリスの口調はあっけらかんとしたものだった。
「‥‥わかりません。でもどこにいても、見る時は見る」
「ふうん」
納得したのかしてないのか、どうでもいいのか、適当な相槌を打って、センドリスはふいに話題の方向を変える。
「あんたさ。ジノンが怖くないか? 俺は結構怖い」
「友達でしょう?」
今度はセンドリスが何の話に向かっているのかよくわからないまま、イーツェンはできるだけかるい口調をよそおった。この2人の関係を、オゼルクが知りたがっていたのをどうしても思い出す。何を言っていいのかわからなかった。
センドリスは唇のはじを持ち上げて、うす暗い天幕の中でも白い犬歯を見せた。あまりいい笑い方には見えない。
「たまに、な」
「‥‥仲よさそうでしたけど」
「たまに、な」
何だか、言われていることがよく読みとれない。話を終わらせたいイーツェンは、あくまで冗談めかして返した。
「怖がらなきゃいけないようなことをしたんじゃないですか」
「俺は昔、ジノンから恋人を取ったことがあるんだよ」
あっさり言われて、イーツェンは返事ができなかった。恋人を取った、という言葉の裏に色々な想像が頭をかすめ、それをセンドリスから隠そうと表情をつくる。センドリスはまるで友人に対するような笑みを浮かべてイーツェンを見ていたが、その笑みが少しイーツェンには怖い。
「びっくりしたか。もう何年も前のことだけどな。だから今でもちょっとジノンに頭が上がらないわけだよ」
「‥‥その、人は」
「もう死んだ」
淡々とした声と表情の向こうに、イーツェンの読みとれるようなものは何もなかった。痛みも、怒りも。
「色々とな、後悔するようなことが山ほどあった。そいつが束になって俺の背中を追っかけてくる。俺も夢を見るよ、イーツェン。そんな時は夜中に汗まみれでとび起きる。人には言えんがな」
センドリスは手をのばし、イーツェンが置いた空の器を拾い上げた。体を回して油燭へ手をのばす彼の背中へ、何か言わなければならない気がして、イーツェンは抑えた声をかける。
「どうして私に、そんな話を?」
「あんたは誰にも言わないだろ。少なくとも、俺が困るような相手には」
「‥‥たとえばジノンとか」
言ってみると、センドリスは頭をそらして顎をはね上げ、喉の奥で低い笑いをたてた。
「そうそう、ジノンとか」
話は終わり、というように、ほとんどもうイーツェンを見なかった。
油燭の位置を動かすと、センドリスは肩に羽織っていた室内用のマントを外してたたみ始めた。ひょいと毛皮の敷物の中にすべりこんだ手が襞の内側から細い剣の鞘をつかみ出し、イーツェンはぎょっとしたが、センドリスはそれを自分の毛布の横に置き直しただけだった。手に届くところにそうして剣を置いておく、そんな習慣ひとつにシゼを思い出して、イーツェンはなつかしく、そして息苦しくなる。
毛布にもぐりこんだイーツェンがもそもそと体を横倒しにしている間に、センドリスは紋章の縫い取りのある厚地のマントを羽織り、ブーツを引き寄せて片足ずつ履きはじめた。立ち上がり、眠る前の見回りに出ていく。
センドリスがからげた天幕の入口から夜気が流れこんで、イーツェンは吐息をついた。もう収穫期もすぎ、空気は肌につめたい。シゼと彼の旅は、冬になる前の船に間に合うだろうか。
だが今は、そんな先のことを思いわずらっている場合ではない。ひたすら目の前にあるものを、ひとつずつ乗りこえていくしかなかった。何度そう言い聞かせても、イーツェンの心のわずらいは消えなかったが。
身をかがめて出ていく寸前、センドリスが肩ごしに振り向いた。油燭を右手に、左手に剣の鞘を握っている。油燭の黄色い光が、彼の顎から頬にかけてまだらな斑点をおとしていた。
「イーツェン、みんな悪夢を見る。多分ジノンもな。そのうち折り合いがつくよ」
イーツェンが返す言葉を見つける前に、センドリスの姿は夜の中へもぐりこむように消えていった。
灯りのなくなった天幕が闇に沈むと、イーツェンは背中に負担がかからないよう毛皮の上で身を丸め、毛布をもう1度体に巻き付けた。裏打ちされた毛皮は厚みがあって、ほとんどその下の地面の存在を感じない。地面から小石や枝を払っただけで薄い毛布にくるまっていたシゼとの旅と比べ、贅沢にしつらえられた野営だったが、毎夜イーツェンは眠りにつくのに苦労していた。
気をそらすものもなく1人でそうして横たわっていると、体のどこかにぽっかりとうつろな空洞があいているような気持ちになる。体も心もたよりない。
足りないものはわかっていた。シゼがそばにいない。彼の存在をどこにも感じとれないことが、自分でも信じられないほどに淋しい。
彼らはいつも一緒に眠ったわけではなく、シゼはよく夜番のために起きていたが、すぐそこにある存在をイーツェンはいつもたしかに感じていた。呼吸の気配や、身をよせているとつたわってくる体温、低い声、イーツェンが軽口を叩くとやわらぐあのまなざし。ここにシゼがいないということが、どうしてか時に信じられない気持ちになる。
息苦しい喉元に拳を押しあて、イーツェンは深く息を吸いこもうとした。悪夢から目ざめた瞬間のように鼓動が早まって、胸の奥底がじわりと熱くなる。つきあがってくる感情は激しく、全身をわしづかみにするほど獰猛なもので、一瞬、イーツェンはほとんど声をあげそうになった。
こんなふうに人を恋しいと思ったことはなかった。リグを去ってからずっとこの異国で、彼は毎日故郷を恋うていたが、これほど強烈な、身をもがれるような痛みに襲われたことはない。
毛布を拳の間に握りしめて、イーツェンは、背中の傷が痛めばいいと願う。それほどに苦しかった。傷が痛めば少しは心をそらすことができる。シゼがそばにいないだけで自分はこれほど孤独なのだということからも、シゼがいないことに耐えきれない自分の弱さからも。何も直視せずにすむ。
天幕の内に満ちた闇を吸いこみ、イーツェンはその愚かな考えを追い払った。痛みを別の痛みでまぎらわすことはできない。城で、イーツェンはそうやって痛みから逃れようとして深みへ落ちた。痛みはただ、それと向き合うことでしか越えられないものだ。
だが、こらえきれないほどの痛みだった。1度心が揺れてしまうと、シゼのことしか浮かんでこない。イーツェンの名を呼ぶ低くかすかな錆びをおびた声、剣の型を教えようとイーツェンを背後から抱いた腕、背中に押しあててイーツェンの姿勢を支えた強靱な体。頬にふれた指や、イーツェンの中を深くのぞきこんだ銅色の瞳。この4日、遠ざけて考えないようにしていたことが、膜を破って1度にあふれ出してくるようだった。
耳にふれたシゼの指を思い出す。イーツェンは目をとじると、右耳に指先をあてた。今はピアスは外して、腰帯から吊る小袋にしまいこんである。だがピアスをつけたシゼの仕種をまだそこに、まざまざと感じた。
レンギの形見をイーツェンの耳につけたシゼは、今のイーツェンなら1人でも大丈夫だと言った。大丈夫だと、彼はイーツェンを信じて、イーツェンから手を離した。
その信頼を裏切るわけにはいかない。どれだけイーツェンが弱くとも、これは彼が1人でやりとげなければならないことだ。
今まで、シゼによりかかってばかりいた。彼がそばにいることに慣れ、いつでも支えてくれると心でたよりきっていた。だがもうそれでは駄目なのだ。シゼのためにも、自分のためにも。
イーツェンはそう心に決めながら、毛布の下で1人の身を抱くようにして深い呼吸をくり返し、動悸を沈めようとする。それだけのことにひどく時間がかかって、肌がじわりと汗ばむ。
ただ流れすぎていく日々の間でもがいてきただけなのに、その1歩ずつがどうしてこれほどに痛むのだろう。かつてはこんな痛みを知らずにすごしていた、そんな日があったことすら信じられない。あの頃のようにまたすべての痛みが失せる日がくるのか、イーツェンにはわからない。今は確かなものなど何もない気がした。
シゼに応えられるほどの強さが、自分の中にあるように。ただ今は、ほとんど祈りのようにそう願うだけだった。