部屋に戻ってからも2人は長い間、無言だった。
 イーツェンはもう何かを話すどころではなかった。口をひらせばそのままシゼをなじってしまいそうだったが、黙っていても肺が圧迫されているかのようにひどく息苦しい。苦しさを呑みこもうとしてどうにもならずに身をこわばらせているうちに、のろのろとした時間ばかりがすぎていった。
 シゼは、イーツェンのそばに水差しを置いてから部屋のすみで荷物を解いて、何かをしていた。その動きも存在も今は心からしめ出してしまいたいと思うのに、狭い部屋ではそれもままならない。彼の仕草のひとつひとつの音と気配、袖やズボンがすれるかすかな衣擦れまでも耳にはっきりと入ってくる。
 イーツェンは寝椅子に座って膝に肘をつき、両手に額をうずめるようにして身を丸めていたが、シゼがガサゴソと荷を動かしている音に、はっと顔を上げた。
「何を、している」
「荷づくりを」
 シゼは荷に向かってかがみこんだまま、イーツェンを見もしない。まなざしをあわせない横顔に何かを怒鳴りかかって、イーツェンはぐっと息を呑みこんだ。何を怒鳴りたいのか、自分でもよくわかってはいなかった。
「‥‥出立は3日後だろう」
 そう言ってみたが、シゼは小揺るぎもしない。
「足りないものがあれば、たのまねばならないので」
 そんなことを言いながら、ほつれを繕った服、布帯、イーツェンが靴底に入れて踵の痛みをやわらげていた小さな毛皮、革袋の水筒などを床にならべて調べている。忙しく手を動かす様子を、イーツェンはじっと見つめた。
 シゼの動きにはいつものように迷いがなかった。彼は何の揺らぎも見せようとしていない。ひとつひとつ丁寧に荷を確認しているその姿を見ていると、体の奥にまた針のような痛みが生じた。
「‥‥どうして勝手に決めた、シゼ」
 声が揺らがないよう、息をつめるようにしながらそう言ったが、ひび割れた語尾は耳ざわりな余韻となって狭い部屋にいつまでも漂った。
 シゼは肩ごしにすらイーツェンを見ようとしなかった。
「あなたはジノンに会う必要がある」
「だけど!」
 どうしてそんなに平気なんだ、と叫び出しそうだった。あっさりと一人で決めて、荷をつくりながら、まるで何もなかったかのように。
 たしかに、センドリスに譲る気がまるでない以上、ほかに方法はなかったのかもしれない。その決断は、仕方のないことだったのかもしれない。それはイーツェンにもわかっているつもりだった。
 だがそれでもイーツェンはシゼにそんなことを望んではいなかったし、シゼもそれを知っている筈だ。それなのに何も──何ひとつ言い訳も説明もしようとしない、そんなシゼが、イーツェンには理解できない。
「‥‥センドリスと何を話していた、シゼ」
 2人はかなり長い間話をしていたように見えたが、シゼの返事はそっけなかった。
「あなたの身の安全のことを。センドリスはあなたの無事を保証した」
「信じたのか、彼の言葉を?」
「あなたは、ヴォルを信じた」
 淡々としたシゼの言葉に棘はなかったが、イーツェンは切りつけられたようにひるんだ。すでに傾きはじめた陽光は小さな窓の外だけを照らし、イーツェンを見つめてたたずむシゼの姿は薄暗い部屋の中でさらに沈んで見えた。
「ヴォルを信じ、私の剣を手放した。覚悟してのことでしょう、イーツェン」
「私は‥‥」
 イーツェンは膝の上できつく拳を握りしめ、シゼをにらんだ。涙と怒りがこみあげてきて心臓の真上がひどく熱かったが、泣く理由など何もない。同じように怒りの理由もない筈だった。
 信じる──と、そう先に決めたのはイーツェンだ。シゼはそう言っていた。
 たしかに、そうだ。ヴォルを信じ、その言葉に従うことをイーツェンは選んだ。そしてそう決めたイーツェンに、シゼは従った。イーツェンの言葉ひとつで剣を手放したシゼの覚悟は、イーツェンが考えていた以上に深いものだったのだろうか。剣を渡せと深く考えもせずに言ってしまった瞬間が、今になってイーツェンの中に鮮やかによみがえる。
「私は」
 声が喉につまった。
「ジノンに会える、イーツェン」
 一拍おいて聞こえてきたシゼの声はおだやかだったが、どうしてかイーツェンを追いつめられた気持ちにさせた。
「今は、そのことだけを考えるのがいい」
「‥‥お前を置いては行きたくない」
 小さな声で、ほとんど口の中だけで呟くように言って、イーツェンは心のどこかが破れたような痛みに喉をつまらせた。はりつめていた緊張の糸が不意に切れ、こらえていた感情をそれ以上抑えきれずに膝の上で手が──いや体中が、小さくふるえていた。怒りではない。これは、直視できない恐怖だった。
「離れると、悪いことが起きる気がする‥‥」
 ふたたび会えない気がする、とは言えなかった。口に出してしまえばあまりに生々しい恐怖──その前に、イーツェンは言葉の残りを呑みこむ。だが彼はずっと、それこそ再会してからこれまでずっと、シゼを見失うたびにそう思ってきた。もしかしたら、もう会えないのではないかと。
 シゼの喪失は、考えただけで体のどこかをもぎとられるような苦痛を呼びおこした。自分がそれに耐えられるのかどうかすらイーツェンには自信がない。そんなことはおこるまいと言いきかせようとする一方で、恐れるあまりに現実の出来事になってしまうような、理屈のない怖さがつのっていくのをとめられない。恐れながら同時に直視もできず、思うだけで身動きがとれなかった。
 シゼがふいになめらかに動いて、イーツェンの目の前へ大きく歩みよった。彼の動きに一瞬遅れて部屋の空気が波立つ。
 頬に両手をあてられ、イーツェンはうつむきかかっていた顔をぐっと上げられて、否応なくシゼのまなざしと視線を合わせた。それはくいいるように強い。
 その瞳とは裏腹にシゼがおだやかに口にした言葉は、イーツェンの意表をついた。
「今日のあなたは立派だった、イーツェン」
 一瞬、イーツェンは何の返事もできなかった。
 頬にシゼの指がそい、やさしいが強靱な力が頬骨や頬から耳に向かってすべって、その静かな力にイーツェンは全身が崩れてしまいような脱力をおぼえる。シゼの仕種は、時に言葉や表情以上にイーツェンに深く何かを語りかけた。
 イーツェンは、潤んだ視界を払おうと目をまたたかせながら、呟く。
「ごめん」
 シゼが少し問うように睫毛を上げた。イーツェンは少したってから、もう1度くり返した。
「ごめん、シゼ。‥‥お前に選ばせた」
 イーツェンはあの時、選ぶことができなかった。どうしたらいいのか考えることすらできなかった。選べずに追いつめられたイーツェンのかわりに、シゼが選択したのだ。
 シゼにその選択をせまったのはセンドリスでもあったが、自分で決断できなかったイーツェンの優柔不断のせいでもあった。彼がシゼにあの言葉を言わせたのだ。私は残る、と。
 センドリスを説き伏せることができなかった。自分で決断することすらできなかった。それが情けなかった。こうしてシゼに怒りを向ける自分も。イーツェンの怒りはシゼに対してではなく、自分に対するものだったのに。
 シゼは無言だったが、ふっと前のめりになってイーツェンとかるく額をあわせてから、立ち上がった。離れていく指が髪をかすめる。
「あなたに渡すものがある」
「何?」
 シゼは腰帯の後ろに引っかけて吊っている小袋の中を指でいくらか探っていたが、やがて慎重な指先に小さな飾りのようなものをつまんで、イーツェンへと無造作に差し出した。思わず出した手のひらに落ちてきたものを、イーツェンは凝然と見つめる。
 それは翡翠のついた小さなピアスだった。青みがかった淡い緑の玉は少し形がいびつだが、ゆったりとした丸みとその色には、見る者の心をくつろがせるやさしい美しさがあった。
 イーツェンはこわばった指をゆっくりと曲げ、手の中に小さな装身具を握りしめる。それは重さなどほとんどないほどに、小さい。
「‥‥これは‥‥お前のだ、シゼ。レンギがお前に渡した」
 レンギが故郷から持ってきた、翡翠のピアス。別れを──自分の死を──悟ったレンギはその片方をイーツェンに渡し、もう片方をシゼに託したのだが、イーツェンの分は鞭打ちや奴隷の輪をはめられたあの混乱の中でどこかへ失われてしまっていた。
 サリアドナは、翡翠の産地なのだという。きっとこのピアスはレンギにとって数少ない故郷のよすがだったのだろうと思いながら、イーツェンはそれをシゼに返そうとしたが、シゼがイーツェンの手を両手でそっと押し戻した。
「翡翠は身の守りになると、レンギは言っていた。持っていくといい」
「‥‥またなくしてしまうかもしれない」
 心を揺らがせながら、イーツェンはこもった口調で呟いた。城でイーツェンは様々なものを奪われた。数え上げればきりがないほどに。その中でも、このピアスがなくなったことに気づいた時は、自分と思い出とをつなぐ糸がぶっつりと切られたような痛みをおぼえたものだった。
 シゼはイーツェンの手をひらいて指先にピアスをつまむと、イーツェンへ顔をよせた。いきなり右の耳朶をなめられたイーツェンが「わっ」とか「あっ」とかなんだか自分でもよくわからない声でうろたえていると、シゼは身を引き、ピアスをつまんだ指をイーツェンの耳へ近づけた。指先が耳にふれる間、イーツェンは思わず息をつめていた。
「これでいいでしょう」
 イーツェンの耳にピアスをつけると、シゼは指の背でイーツェンの頬をかるくなでる。かすめるような手は一瞬離れ、だが戻って、イーツェンの頬を今度は手のひらで包むようにした。
「レンギは、あなたの守りになればとピアスを渡した」
 そう言って、シゼは少しためらってから、つづけた。
「私はついてはいけないが、イーツェン、今のあなたなら大丈夫だ。だが、もし‥‥」
 頬にふれる手から体温がうつるように、ゆっくりとした声がイーツェンの中へとしみこんでくる。イーツェンはただ彼を見つめて待った。
「もし、何か思いがけないことがおこれば。必ず助けに行く」
 シゼはぼそっとそう言い、手を引く。イーツェンの返事を待つことなくまた荷をたしかめに壁際へ戻っていく彼を、イーツェンは右耳にふれながらまなざしで追った。
 シゼは言葉の多い方ではないが、いつも言葉以上のものでイーツェンに語りかけた。声のひびき、沈黙の間、まなざし──そしてイーツェンにふれる温度。そばですごし、共に様々なものをくぐり抜けてきた時間の中で、イーツェンは、そんなふうにつたわってくるものを深く信じるようになっていた。
 苦しいほどに乱れていた身の内は、いつのまにか嘘のように静かだった。イーツェンはゆっくりと息を吸いこんで、歪んでいた姿勢をまっすぐに起こす。シゼの言葉と、言葉にはされなかったひびきがまだ耳元にさざめいているようで、彼は耳の飾りにふれながら小さく微笑した。
「離れても、守ってくれるんだな」
 いつも、そうだった。必ず最後にはイーツェンを守り、助けてくれた。そのためにどんな犠牲を払おうとも。
 シゼは振り向かなかったが、荷にかがみこんだままうなずいた。イーツェンは靴の留め金をゆるめると、シゼのそばによって荷をまとめる作業の手伝いを始める。選ぶほどの何も彼らは持っていなかったが、ひとつひとつのものをたしかめながら、出立に向けて自分の心がととのっていくのを感じていた。


 1日の緊張のせいか、夕食をとった後に背中が痛み出し、イーツェンは寝椅子にうつ伏してしばらく休んだ。エナが施術した傷の痛みはもうそれほど感じないが、まだ体の内は癒えていない部分も多いのか、時にぐずぐずと生々しい痛みが骨に沿ってうずく。
 シゼが服の上から手のひらを当ててじんわりと押し揉んだが、筋肉がすっかりこわばっていて痛みの方が強く、おさまらないと見た彼はイーツェンの服を脱がせて背に香油を塗った。
 どうにか眠りにはついたが、イーツェンはうなされて、数度シゼに揺り起こされた。悪夢の内容は覚えていない。センドリスに対峙した時のはりつめた気持ちがイーツェンの中に残っていて、心のどこかがまだ結び目のように固いこわばりを呑んでいるようだった。
 奇妙に切羽つまった心持ちで動悸は早く、体は嫌な汗に湿って、吐き気がした。どんよりとした眠気の中でイーツェンが体を丸めようとすると、シゼが毛布の下で腕を回してイーツェンに身をよせた。2人の間にたるんだ毛布の襞が邪魔で、イーツェンは左手で毛布を押しやって、シゼに体を近づける。夜になると窓をしめても随分と空気が涼しく、疲れた体は人肌のぬくもりにあたたかくなじんだ。
 首の輪がくいこんでこないよう気をつけながら顔をシゼの肩によせ、互いの体に腕を重ねるようにしてよりそった。シゼの匂いを感じる。そこにはいつも、土のような、少し鉄のような気配がざらりとまとわりついている。
 体や心に粘りついていたよどみが少しずつはがれ落ち、遠い痛みがシゼのぬくもりに溶けて消えていく気がした。溜息をつき、シゼの肩にくちづけて、イーツェンは半分眠りながら呟いた。
「‥‥お前がいないと、誰に起こしてもらえばいいのかわからないな」
 シゼは無言だったが、右手がかるく動いてイーツェンの肩にふれ、頬をなでてから耳元にその指先がすべった。何かを語るような、探すような指先にイーツェンは目をとじて、くすくすと笑った。
「そっちの耳じゃない、シゼ‥‥」
 レンギの翡翠のピアスは、下側に向いた右の耳朶に飾られている。奴隷が身につけるには贅沢な色石の飾りはいずれ外さなければならないだろうが、今はまだシゼと2人きりで、ほかに誰が見るわけでもない。
 シゼがイーツェンの髪に指をさし入れ、数度なでた。その仕種は丁寧で、細やかな情に満ちていた。ただやさしいというだけでなく、イーツェンのことを心にかけ、イーツェンの痛みや苦しみを取り除こうとする──その思いがつたわってくる。静かで抑制された、だがそれは愛しげな仕種だった。
 髪の中をすべる指の動きを感じていると、うっすらとした欲望が呼びさまされそうになる。だがシゼが残そうとしているわずかな距離を、イーツェンの方から踏みこむのは愚かなことに思えた。少なくとも、彼がこうしてやさしさとぬくもりだけをイーツェンに与えようとしている、この時に。
 イーツェンはかるく身をねじってシゼの肩に額を押し当て、小さな息を吐き出した。この一瞬ずつを心地よいと思いながら、もっと深くふれてほしいという思いもある。そのことを恐れるような気持ちもある。このままでいいとも感じながら、シゼの肌や温度をまた深く感じてみたい。
 イーツェンは自分の中にある望みの多さに、思わず苦笑した。こうしてやさしくされるだけで足りない己が少し情けない。
「‥‥私は、欲が深いのかもな‥‥」
「誰でもそうですよ」
 返事を期待していなかった呟きに、思いもかけずにシゼの答えがあった。だがシゼの声も不思議と独り言のようで、まるで闇を漂うように遠くイーツェンの耳にひびいた。
 答えようかどうかイーツェンが迷っているうちに、シゼが低い声でつけくわえた。
「誰でも何かがほしい。だがほしいものに手をのばす者ばかりではないし、手に入れられる者はほとんどいない」
 それはどこか、シゼの中から出てきた言葉というより何かのくり返しのようだった。イーツェンの頭からふっと眠気が引く。それは、誰かがシゼに言った言葉なのだろうか。シゼに剣と生き方を教えたという男のことが、脳裏をかすめた。
「‥‥お前のほしいものは?」
 イーツェンは闇の中から囁くようにたずねる。よりそわせた体から、シゼが息を吸いこんで大きく胸元がふくらんだのを感じとった。
 それを全部吐き出すように長い息をついてから、シゼは夜をそのまま映したような静かな声で言った。
「イーツェン、私は幼い頃、馬がほしいと家族に言ったことがある」
 イーツェンは息を呑んでシゼの言葉を聞いた。子供の頃──まだ家族と共にシゼが暮らしていた、その短い時期のことをシゼが語ろうとするのは初めてのことだった。
「馬の世話をするのが、好きだった。‥‥次の春に雌馬が子を生めば、その仔馬の面倒は私が見るのだと、誰かが約束してくれた。もうそれが誰だったのかは覚えていないが」
 シゼの声に痛みはなく、たじろぎやわずかな湿り気さえもなかった。もう戻ってこないものを悔やむひびきも、なつかしむ気配も。彼がそんな声で思い出を語るようになるまでに、一体どれほどの時がかかったのだろう。まるで他人のことのように、揺らぎを己に許すことなく、だがシゼの奥にはずっと捨てられない記憶が焼きつくように残っているのだった。
「だが結局、その春の前にあの家はなくなった」
 相変わらず痛みのない声で呟いて、シゼは短い息をついた。その先にシゼが言わずにおいたことを、イーツェンは知っている。6歳だったシゼはとらえられ、奴隷として売られ、それからずっと故郷と呼べるものを持たずに生きてきたのだった。
 まだ子供だったシゼは、春が来るたびにその約束のことを思い出したのだろうか。誰にも言わずに1人で待っていたのではないかと、イーツェンは思う。ただあきらめて、望むのをやめるには、子供すぎた筈だ。
 いつまで待ったのだろう。彼の待つ春は来ないのだと思い知るまで、シゼはどれほど苦しんだのだろう。そう思いながらイーツェンは、腕をのばしてシゼの胸元にそっと沿わせた。シゼのくぐりぬけてきたものを思うとひどく切なかったが、同情しているのだと思われたくはなくて、彼は意識して淡々と抑えた声で囁いた。
「馬はまたいつか手に入れることができるよ、シゼ」
「イーツェン。私はもし馬を手に入れたとして、今となってはどうしたらいいのかわからない」
 シゼの声はかすかに笑っていて、イーツェンに気を使うようなその声がイーツェンの胸を強くしめつけた。のばした腕で、彼はやわらかくシゼを抱きしめる。
「一緒にリグへ行こう、シゼ。私が教えてやる」
 シゼが失ったのも、欲していたのも馬だけではなく、シゼが語っているのも馬についてだけではない。馬はシゼが失った──奪われた、すべてのものの象徴にすぎない。そのことはわかっていた。
 彼がなくしたものを今さら取り戻してやれるわけもない。だがせめて、とイーツェンは思う。リグで、もしかしたら彼らは文字通り馬を飼うようなところから始められるかもしれない。そしていつかシゼは、かつての望みの向こうに何があったのか、心の深みから思い出すことができるかもしれなかった。
 シゼはイーツェンの言葉に答えることなく、毛布の中で足をずらしてイーツェンが寝やすいように空間を作ると、かるく彼の髪をなでた。
「もう、眠って。移動の前によく体を休めておかないと」
 その声はやさしい。シゼが人に立ち入らせないようにしている壁を感じながら、イーツェンは言われたように目をとじた。それでもこうして語ってくれた、今はそれで充分だった。
 シゼの中にある痛みはイーツェンのものと違って古く、遠いものだが、深くくいこんでもうシゼの一部になってしまっている。今のイーツェンにはどうにもならないが、それでもいつの日か、いつか──こんなふうに守られてばかりではなく、対等にシゼと向き合って、彼の痛みを受けとめられる日がくるかもしれない。
 しのびよってくる眠りに身をゆだねながら、イーツェンはシゼの指がまた髪をなでるのを感じる。体が重くなって、シゼからつたわってくるぬくもりの中に意識がとけていく。そのまま悪夢を見ずに眠った。


 翌日、2人は朝まだ早くに起き出して、キジムの世話をした。
 ロバはシゼと一緒に館につれてこられたらしいが、今は館のロバと一緒に厩舎につながれていた。小屋に渡された木の桟に端綱をくくられているが、ゆったりとした長さがあるのでかなり自由に動き回れる。そうやってほかのロバとならべて見ると、肉があまりついてない後ろ足やすり減ったひづめがいささかみすぼらしくて、イーツェンは何だかかわいそうな気持ちになって藁でキジムの全身を拭いてやった。
 しかし当のキジムは風もよけられる上に藁がしいてある厩舎に満足している様子で、ふんふんと尾を振りながらイーツェンのふところに鼻をつっこもうとする。餌をねだる時の癖である。
「食べる藁ならいっぱいあるだろう」
 油断してキジムの涎がべっとりとなすりつけられたシャツを情けない顔で見おろしながら、イーツェンが愚痴ると、桶に水を汲んできたシゼが小さく笑った。
「甘えてるんですよ」
「そうかな」
 体良くいなされた気もしつつ、イーツェンは少し機嫌をよくしてキジムの耳のうしろをぼりぼりとひっかいてやった。この小屋の動物は皆きちんと手入れをされていて、湿った藁は片端に掃きよせられ、ほかの4匹のロバの前にはそれぞれ飼い葉の桶が据えてある。長細い小屋の先は腰高の柵に仕切られて、その先には豚がいるようだった。
 キジムの肩の、骨が高くなった箇所に荷鞍の帯と擦れた傷ができていたのだが、そこにイーツェンの覚えのない軟膏があててあった。きちんと面倒を見てもらっているようだ。しばらくここにいても安心だろうと思いながらシゼを振り向こうとした時、ぐいっと胸元を引かれて、イーツェンはたたらを踏む。
 キジムが彼のシャツをくわえて引っぱっていた。何かをねだる、無邪気だが意味深な目にイーツェンは溜息をつき、ロバの顔を両手ではさむ。
「私は少し遠くへ行かないといけないんだよ。戻ってきたら、林檎持って会いにくるから」
 戻ってこれたら、と言いそうになって少し舌先を噛んだ。シゼは長熊手を持って、藁の汚れた部分を小屋のはじにかき寄せている。真面目な顔で作業をしている姿を目のはじに見ながら、ロバじゃ駄目かなあ、とイーツェンは頭のすみで考えた。キジムも可愛いと思うのだが。
 馬何匹飼おうかな、とかイーツェンの頭の中は一瞬、そんな方までとんでいた。たとえリグに戻ったところでそうそう馬をたくさん飼えるわけはないのだが、考えるだけなら勝手だ。
 この館には馬専用の厩舎もあって、イーツェンも以前の滞在の時に遠乗りさせてもらったことがあるのだが、リグの馬とは随分とちがった。ユクィルスの馬でも、戦馬や荷馬はまたちがうようだが──イーツェンはユクィルスへ来てはじめてあれほど多くの種類の馬を見た──遠乗りのためにジノンの厩舎から引き出されてきた馬は、すんなりと優美な体つきで腰高、後ろ足は鹿のように長くて、イーツェンを驚かせた。同じ馬とは思えなかったほどだ。
 リグの馬はもっと毛足が長く、特に腹の毛が長いので、子供らが秋から冬に梳き櫛をかけて毛布用の毛を取ったりもする。体つきもずんぐりとして一回り以上小さく、肩と腰が張り、額のあたりもずっと平べったい。
 優美さはないが、無骨でよく働くあの馬を、イーツェンはことさら可愛がるような目で見たことはないが、今はあの馬の姿もなつかしい。シゼがあの馬を見たらどんな印象を受けるのだろうと考えながら、彼がこっそり笑っていると、背後からシゼの声がした。
「センドリスはどんな人ですか?」
「‥‥私もよく知っているわけじゃないけれど」
 イーツェンはかるく腕を上げて体をのばし、シゼを振り向いた。あまり外をうろうろするわけにもいかないので、体がなまっているような、どうにもにぶい感じがある。剣を振りたいな、とふと思った。体力の尽きるまでシゼと思いきり打ち合ったらさぞ気持ちがいいだろう。色々な迷いを、自分の中から叩き出すこともできそうだ。
「アンセラで、ユクィルスの執政官をしていたということくらいしか知らないんだよな。王族の遠縁だとも言う。ジノンとは、古いなじみらしいよ」
「彼らの仲は?」
「どうだろう。冬にここで見た時は、わりと仲良さそうに見えたけど──」
 脳裏をふっと鮮やかな記憶がよぎり、イーツェンは口をつぐむとシゼとの距離をつめ、じっとしているシゼに耳打ちした。誰も聞いてないにせよ、あまり大声で言いたい話ではない。
「本当かどうかわからないが、昔、王の命を受けて、ジノンの恋人をどこかへ追いやったのがセンドリスだとも聞いた」
 シゼはイーツェンへ顔を向けて眉をよせ、地面にたてた長熊手の柄に両手をのせた。
「誰に聞いたんです?」
「‥‥オゼルクに」
 一瞬たじろいでから、正直に答える。その名を聞くやいなやシゼの目元がはっきりと険しくなって、イーツェンは話しはじめたのを少しばかり後悔しながら、早口につけ足した。
「ジノンは巫女の血を引いているから、婚姻や子供を為すことも自由にはできない。でもその時、こっそり恋人を作っていたのがバレたんだとかで。あの人にもそんな頃があったんだね」
「‥‥‥」
 シゼはまだ鋭い目のまま、うなずいた。イーツェンは小さな溜息を口の中で殺す。滅多には感情的にならないシゼだが、オゼルクについてはまだ強く含むものがあるのだろう、きわめて不穏な空気すら漂わせることもあった。イーツェンはさっさと話を先にすすめる。
「でも本当のところはオゼルクにもわからなかったらしい。それにもしそれが本当なら、センドリスがこんなにジノンの近くで働くわけもないと思うし、結局のところは謎のままだけど」
「ジノンへの償い、という可能性は?」
 一瞬考えこんでから、イーツェンは首を振った。
「センドリスは、意に反してまでそういうものには縛られないだろう」
 センドリスは、もっと前向きなものに動かされる男だ。それが何かまではわからないが、イーツェンはその確信があった。
 センドリスからイーツェンが感じるのは、他のユクィルスの王族にはない陽性のしたたかさ、たくましさだ。一筋縄ではいかない気配もあるが、仕種や言葉全体を明るい雰囲気が貫いている。見かけだけがすべてではないにしても、それでもあの男が、ただ後悔や償いのためにジノンの側についているとは思えなかった。
 シゼは相変わらず眉根をきつくして考えこんでいたが、イーツェンはわざと明るい仕種で彼から長熊手を取り上げた。剣のように構えるふりをしてみせる。
「稽古でもしようか?」
「ロバが怯えますよ」
 口のはじを小さく持ち上げて、シゼはイーツェンの手から取り返した長熊手を、小屋のすみに立てかけた。キジム以外のロバは、見知らぬ人間がうろうろしていることにも無関心な様子で、時おり呑気に鼻を鳴らしたり、横につながれているロバ同士で鼻面をすりあわせたりしている。獣と敷藁の匂いが入りまじった小屋は泥臭いが、館の部屋にこもって人の気配をうかがっているよりはずっとのびやかな気分だった。
 イーツェンは両手を上に上げ、小屋の低い梁に気をつけながら、ゆっくりと背中をのばしてみた。今日は背すじの痛みも随分とやわらいだものになっていて、これなら数日の旅にも無理なく耐えられるだろう、と自分でひとつうなずく。
 センドリスの望みが何であれ、今は彼を信じるしかない。彼の向こうにはジノンがいる。イーツェンとシゼが2人で歩きつづけ、ここまで求めてきたものを持つ男がいる。
 その男から、イーツェンは望むものをもぎとって、リグへ帰らなければならなかった。自分のために、そしてシゼのために。