窓を覆う薄いカーテンから透けた淡い陽光が、室内をたゆたっている。
 書見台の掛け棒に吊った小さな油燭の灯りが、歩みよってきたセンドリスに押されるように揺らいだ。
 センドリスの表情を、イーツェンは眺める。彼より頭半分以上背の高いこの男は、だがその身長差以上に威圧的だった。やや灰色がかってはいるが、その目の青さとするどさは充分にユクィルスの王族を想起させる。
 王族の遠縁、占領したアンセラを支配していた執政官、ジノンの古なじみ──センドリスについてイーツェンはほぼ表面的なことしか知らない。食卓を一度ともにしたことはあるが、その時ですら、彼自身について知ることはほとんどできなかった。
 センドリスは幅広の顎にぐっと力を入れ、眉を少ししかめて、イーツェンをにらむように見ている。だがその目も、手にした剣がはね返す鉄色の光も、イーツェンを怯えさせはしなかった。
 彼はずっと、探していたのだ。──ジノンへつながる足がかりを。
 静かな部屋にセンドリスの1歩ずつが大きくひびく。踵の拍車がカチリと鳴った。急いで馬を走らせてきたのだろうが、それにしても2日で来たと言うことは、あの砦よりずっと近くに滞在していたのではないかとイーツェンは疑う。ジノンの所領の近く、あるいは中に。
 センドリスの立ち位置は何だろう。アンセラの現地司令官だった彼が、砦ひとつの司令官に甘んじるわけがない。友としてジノンに力を貸しているのか、己の利のために権力へ寄っているのか。彼が1度はイーツェンを見逃した、それは慈悲や哀れみからだったのか、別の理由によるものか。
 ぐるぐるとめぐる疑問を押さえつけながら、イーツェンはセンドリスを待つ。自分から動いてはいけない気がした。
 センドリスは威圧的な空気をまとってイーツェンの前に立つと、剣の先で長椅子を示した。
「座れ」
「あなたも、どうぞ」
 言われたように座りながらもそう返し、イーツェンは扉口のヴォルへ目をやった。
「椅子を用意してもらえますか? よければヴォルも座って」
 センドリスの口元がぴくりと動く。
「あんたが決めるな」
「じゃあ皆で立ったまま話しますか」
 おだやかな口調を心がけようとしたが、イーツェンは自分の口調に挑むひびきがあるのに気がついていた。深く息を吸って、抜き身をつきつけたまま眼前に立つセンドリスを見上げる。
「私を斬るなら、庭でやった方がいいと思いますよ。ヴォルの掃除の手間がふえるのは、しのびない」
「言うようになったもんだな」
 あきれ顔のセンドリスの声は、イーツェンの声ほどとがってはいなかった。剣の切っ先を下げると、センドリスはヴォルが壁際から引き出して据えてくれた丸椅子にどさりと腰をおろし、ひらいた膝の間に抜き身の剣を立てた。貴石で飾られた柄頭に両手を重ねる。
 じろりと上から下までイーツェンを眺め、容赦のない目をイーツェンの首の輪へ向けた。
「輪つきのままうろつくのはいい考えじゃないな、イーツェン」
「外していただけたらうれしいのですが」
 本気ではないということがわかるように、イーツェンはそらぞらしく応じた。ヴォルはなめらかな動作で下がって、扉の脇に控えている。彼らの会話に加わることを拒むかのように無表情だった。
「それが目的か? なら、鍛冶屋を紹介してやろう」
 答えるセンドリスの言葉もそらぞらしかった。普通の鍛冶屋にはこの首輪を外せないと知っている。イーツェンはおだやかに返した。
「ありがたいことですが、私は鍛冶を探してここに来たわけではない」
「‥‥まさか、この屋敷に来るつもりだったとはな。茨にとびこむような真似をするとは思わなかったよ」
 感嘆とも嘲弄ともつかないつぶやきは、だが、1度はイーツェンを見逃したセンドリスの感慨なのだろう。
「私は、消えた方がよかったですか」
 センドリスが床に立てた幅広の剣を見て、イーツェンは口元だけで微笑む。怖くはなかった。イーツェンも城にいた時とは随分変わった。剣を抜いた相手に殺気があるかどうかくらいは何となく感じとれる。案の定、センドリスは怒りも見せずに渋い顔をした。
「あんたに名前がないうちは害もないんだがな。のこのこ出てくるつもりだとは思わなかった。金か?」
「物乞いに来たわけではありませんよ」
 挑発的な物言いを受け流す。
「望みは」
「ジノンと取引がしたい。私がほしいのは渡航証と身分証。くわえて、どなたかの裏書きのある紹介状を私の連れに。私たちはユクィルスを出る、センドリス。そのためにジノンに力を貸してほしい」
 柄にかかるセンドリスの指が互いを握り直し、くらりと剣身がゆらぐ。センドリスは目を細め、広い口元を引き歪めた。
「お前、何言ってるかわかってるか。ユクィルスの執政に偽の身分証を出せと言っているんだぞ。そこらの偽物とは違う、本物の身分証を作れと?」
「ジノンはお手のものでしょう。おそらくあの人は私の話に興味があると思いますが、嫌なら無理にと脅すような気はありませんよ。私も命は惜しい」
 わざと軽口めかして、イーツェンは余裕があるような口をきいてみせた。決してへつらわないよう、奴隷のような態度を取らないよう、まっすぐに背をのばして。
 首の輪はただ見た目だけのことで、イーツェンは奴隷ではない──そういうふうに、センドリスへ印象づけねばならなかった。奴隷としてあなどれば、センドリスはイーツェンの言葉に本気で耳を傾けてはくれまい。
 だが鞭痕の残る体を簡素な服につつみ、何ひとつ後ろ盾も身分もないまま、えぐるようなセンドリスの視線を受けとめるにはすべての気力が必要だった。膝下までのズボンからのびたイーツェンの足は旅の傷や虫食いだらけだし、シャツから出ている腕も痩せて、手首にはまだ火傷の痕といびつな裂傷の名残りが刻まれている。ところどころ、かさぶたがささくれたようになっている肌は、ろくな食事や休養の取れない旅の間にすっかり荒れていた。
 こうして威風堂々たるセンドリスに向き合うと、自分の姿のみすぼらしさを強く思い知らされる。だがイーツェンは腹腔に力をこめてセンドリスを見つめ返した。この体で、この足で、ここまで歩いてきたのだ。城で仕立てのよい服をまとい、いい食事を取り、愛想よくふるまっていた過去の自分にくらべて、今の自分が劣っているとは思えなかった。
 センドリスは大きな指輪のはまった指で剣の柄をぐっと握りこみ、青灰色の目をほそめてイーツェンを見据えていた。そのまなざしにはどこか獰猛なものがまとわりついていて、イーツェンは心臓が圧迫されるような苦しさを抑えこむ。センドリスの雰囲気が変わったのを感じて、口の中が乾いた。
 センドリスが、ゆっくりと口をひらく。
「あんたを城から逃したのはルディスだろう。そのルディスを、あんたはルルーシュに売ったな、イーツェン」
「‥‥‥」
 反射的に否定しようとした口を、イーツェンは無言のままとじた。イーツェンを城から逃がそうとして、シゼがルディスをたより、後にはルルーシュに「売り渡した」のは事実だった。
 自分のしたことではないと真正直に言えば、センドリスの目がシゼに向きかねない。言い抜けようとするのはやめて、イーツェンはひらき直った。
「ルディスはローギスや城の者の顔に泥を塗るために私を城から引き離しただけで、私を救おうとしたわけではない。ルルーシュについても、力をほしがったルディスが自分で引きこもうとしたと聞いている。彼は力さえ手に入れば満足で、その力を貸してくれるのが誰なのかと言うことについてはいささか無分別なところもあった。ご存知でしょう」
 センドリスがどこまで情報をつかんでいるのかはわからないが、詳細は知るまい。ルディスの無軌道さはよく知られている筈だと思いながら、真実と嘘を注意深くまぜた。たとえセンドリスの知る事実とくいちがったとしても、自分の思いちがいで押しきるしかない。
 窓から吹きこんだ風がカーテンをはためかせ、炎を揺らしはじめていた。もうその風はかなり涼しい。夕方が近いのだろう。イーツェンは身を油燭の方へずらすと、油燭に口元をよせて炎を吹き消した。
 コン、と鉄が床を打つ硬質な音がしたのはその時だった。油燭へ向けていた視線をセンドリスへ戻そうとした瞬間、襟首をぐいとつかまれて体が大きく前へのめった。傾いた視界を覆うようにセンドリスの体がのしかかり、その一方でソファから引きずり出すような力で襟元をぐいぐいと前へ引かれる。斜めにかしいだ不安定な上半身はほとんど襟をつかんだセンドリスの拳だけで支えられ、締まった喉で苦悶の息が鳴った。
 反射的にセンドリスの服を右手でつかんで男の体を押し離そうとしたが、肋骨の下に硬い感触がくいこんで、全身が恐怖にこわばった。見ずともそれが剣であることぐらいはわかる。背に力をこめて体を引き戻そうとしても、襟首をつかんだセンドリスの力にはまるでかなわなず、剣の腹をさらにきつく押しつけられて動きをとめるしかなかった。
 イーツェンの上体を左手で引きずりあげながら、センドリスは長椅子の座面を右足で踏んで、上からのしかかるようにイーツェンへ覆いかぶさった。間近からイーツェンをのぞきこむ目にはひどく冷酷な光が宿っていて、イーツェンは針に貫かれるようなするどい恐慌が心を刺すのを感じる。動けない。少しでも気をゆるめれば、心が自分から剥がれてどこかへすべり落ち、世界が色を失って崩れ去ってしまうような──
「ルディスは死んだ、イーツェン」
 唾でも吐きかけるように、センドリスがそう吐き捨てた。イーツェンはあえぐように息をしながら目をみはる。ルディスは、ルルーシュが──そしてアガインがユクィルスの軍勢から襲撃を受けた時、彼らと一緒にいた筈だった。その時の争いに巻きこまれたのかと思った時、センドリスがつづけた。
「ルルーシュの残党があいつを吊るした。髪は切られ‥‥素裸だったそうだ」
「‥‥‥」
 声を出そうとしてもこの体勢では出なかっただろうが、イーツェンは何と言ったものかわからなかった。自分を手ひどくいたぶったユクィルスの王子がどこかで死んだところで、何も言うことはない──その筈だ。
 それなのに衝撃に目の前が一瞬歪み、つめたい汗に濡れた全身が引きつって、喉元まで苦いものがつきあげてくる。ルディスの驕慢な笑い声が耳の奥にひびいた。いつでもイーツェンを追いつめ、体の弱みをあばき出すようにイーツェンを蹂躙したあの残酷さ。時にイーツェンは、オゼルクを恐れる以上にルディスを恐れた。人をもてあそぶと言うよりは人形を放り投げて遊ぶように、ルディスはイーツェンを使って楽しんでいたものだ。
 その男が、そんな辱めを受けて裸で吊るされた。そのことを、だがイーツェンは愉快だとは思えない。悲しいという思いもなかったが、ただ心が揺らぐほどひどい衝撃を受けていて、それが自分でも不思議だった。
「お前のいるところに、ろくなことはおこらんな」
 肋骨のすぐ下に剣が押し当てられ、服ごしの固い圧力に身がすくむ。だが恐怖と同時に胸がむかつくような怒りが腹腔からこみあげてきて、イーツェンは冷や汗を額ににじませながらセンドリスをにらんだ。
 背中の中心にじくじくとした嫌な痛みの予兆がある。力のかかる左肩も引きつれるようだ。襟首をつかまれて長椅子から上体を引きずり出されている一方で、のしかかってくるセンドリスの圧力に背すじがねじれて、息がまっすぐに肺へ入っていかない。
 嫌だ、と思った。ルディスの死で動揺している自分も嫌だったし、その動揺を見せていることも、彼の死に何かの意味があるかのようにセンドリスに詰問されるのも嫌だ。腹立たしい。ルディス1人が死んだからどうした、と面と向かって叩きつけてやりたかった。センドリスにも、自分にも。
 息がうまくできないせいで体の中に熱がこもって、血がざわつく。服の上から剣を当てられているのに、まるで鉄をじかに肌につきつけられているように腹ばかりが冷たい。全身が冷や汗に濡れていた。
 センドリスのぎらついたまなざしを、イーツェンは全身の力をこめてにらみ返した。センドリスが何をもくろんでいるかはわかっている。アガインも、そしてかつて彼を詰問しようとしたオゼルクもやったことだ。動揺させ、本心を透かし見ようとしている。どんな反応を見せ、どんな隙を見せるのか。彼の思惑通りに心を揺らがせたくはない。ただ意地と怒りだけをかきたてて、己を一心に保った。
 ふいに、横からぬっと出た腕に前から肩をかかえこまれ、息を呑む。
 ヴォルがそばに来ていることにまるで気付かなかった。ヴォルは長い腕を回してイーツェンの身を起こし、長椅子へ戻す。ヴォルに押し戻されたセンドリスは、イーツェンの襟から手を離していた。
「私のお客様です」
 緊張にひりついた場にそぐわないほどおだやかに、ヴォルは一言そう言って、センドリスへかるく頭を下げた。手早くイーツェンの乱れた襟元を直すと、イーツェンに何を言う隙も与えずなめらかな足どりで窓へ向かう。丸く湾曲した部屋角に沿って歩きながら、彼はひとつひとつカーテンを開け放っていった。
 なだれこんでくるような陽の白さにくらみ、イーツェンは目を覆うように右手を上げた。思ったより部屋の中は暗かったようだ。
 センドリスはヴォルに押しのけられた位置に立ったまま、右手に抜き身の剣を下げ、召使頭のなめらかで無駄のない動きを目で追っていた。あっというまにカーテンがすべてがひらいて紐がかけられ、部屋が明るい光に照らし出される。
 やけに長い息をついて剣を鞘へしまうと、センドリスは踵の拍車をカチッと鳴らし、イーツェンを振り向いた。
「あんたはまだルルーシュとつながっているのか」
「そう思いますか?」
 イーツェンは汗でべたつく額を拭って、手をおろした。輪の内側に汗がにじんで気持ちが悪かったが、センドリスの目の前で首の輪にふれるのははばかられた。奴隷の輪。
「だったら、ジノンに頼みごとをするような真似はしなくてもすんだ。私は‥‥ジノンが私を処刑したと公布したあの時、ルルーシュにとって役に立たないただの荷物になったんです」
 実際はその前からルルーシュ──アガイン──とは別れていたのだが、ジノンの公布がイーツェンの利用価値を消したのは本当のことだった。
 センドリスは、奇妙な表情でイーツェンを見おろしていた。
「だからって、ジノンか」
「ほかに誰が?」
 少しばかり言い方が投げやりになったのは、センドリスの言葉にある棘が、まさに図星だったからかもしれない。イーツェンはおかしくもないのに笑みをうかべた。いや、少しおかしい──ユクィルスはイーツェンを人質として城にとどめ、見せしめに鞭を打って首に輪を掛け、奴隷に落とし、ついには獄につないだ。城から救い出されなければ、イーツェンはユクィルス王の葬儀で供として殺されていた筈だ。
 そんなユクィルスの、しかも王族に救いの手を求めてすり寄ろうとする姿が、センドリスの目には滑稽に見えているのかもしれなかった。弱さや、怯懦のしるしとして。
 イーツェンは立ったままのセンドリスを見上げ、まだ少し痛む背をのばして声に力をこめた。センドリスがどう思おうと彼にはどうでもよかった。
「私はただリグへ帰りたい。私が生まれ、育ち‥‥私が守った、あの国へ。ユクィルスに私の居場所などない、センドリス。この1度だけ、力を貸してはくれませんか。ジノンに会えば、あなたの望み通り、それきり私は消える」
「俺は‥‥」
「私はジノンに含むところはない」
 非礼ではあったが、イーツェンは少し不確かな様子のセンドリスの語尾に言葉をかぶせた。ここは押せる、そう思った。
「ユクィルスの王族にうらみ言を言うために来たわけではない。リグの為したことの報復を罰として受けた身ではあるが、それももう私にとってはすぎ去ったことだ。リグ自らも、ユクィルスと対抗する意図などなかった。己の身を守らねばならなかっただけだ。それを責めますか? また私を罰しますか」
 イーツェンは息を吐き出しながら、肩に入っていた力を抜こうとした。背中のこわばりが痛みなのか緊張なのか区別がつかないまま、ただ心にはりつめたものを揺らがせずに意識を集め、じっとセンドリスを見つめる。
「今はただ、私は国へ戻りたい、センドリス。力を貸してくれませんか」
 センドリスは、苛烈な訓練をくぐり抜けてきた者特有の無駄のない立ち方をしたまま、身じろぎもせずにイーツェンを見ていた。その目にうつっているのは誰だろう、とイーツェンは思う。粗末な格好をした奴隷か、かつてセンドリスと食事をともにした城の人質か、それともリグの王族としてのイーツェンの姿か。
 センドリスのまなざしにその答えはない。だが彼の目の中にあなどりはないと、イーツェンは感じていた。願望がそう見せるのだろうか。
 ひょいと大きな体をかがめて丸椅子に腰をおろし、センドリスはまたイーツェンに向き合って座る。温度のない声で言った。
「それでもあんたは城からの逃亡者だ。ジノンの前に現れて無事でいられると思ったか?」
「私はもう、死んだ人間です。ふたたび牢に入れるのなら、ジノンは私を生き返らせないと」
 ご丁寧に、ジノンが彼を「殺して」くれたのだ。イーツェンが微笑すると、センドリスは眉をしかめた。
「死人なら尚更。‥‥今のあんたを助ける義理は、誰にもない」
 次の瞬間、彼はイーツェンの笑い声にとまどった様子でまなざしを強めた。イーツェンは小さな笑い声をすぐにおさめ、ゆっくりと首を振る。
「あなたは、自分が目の前にしているのがリグの王子であるということを忘れている、センドリス」
「リグの王子とやらは死んだぞ。自分でそう言ったろう、イーツェン」
「ユクィルスの中ではね。国へ戻れば別ですよ」
「それが何の役に立つ」
「それは、ジノンに話す。私はジノンに取引を持ってきた。あなたにではない」
 なるべくやわらかく聞こえるように言ったが、イーツェン自身の耳にもその言葉はするどくひびいた。イーツェンは息を吸う。手の内を必要以上に明かさず、かと言ってただのはったりと思われないようにしなければならない。
 センドリスの顔には怒気よりも考えあぐねるような色があって、その気配をうかがいながら、イーツェンは切り札を切った。
「センドリス。シェナ・シーリア様をご存知ですか?」
 沈黙の数秒、くいいるようなセンドリスのまなざしはイーツェンの肌に焼きつきそうに熱かった。イーツェンはからからの喉にかすかな舌の動きで唾を呑みこみ、腹の底が恐れに凝っているのを気取られないよう、平坦な声を押し出した。
「アンセラでともに任を果たしておられたのですから、存じていらっしゃるとは思いますが。あの方からジノンへの言付けを、預かっています」
「お前──シーリアがどこにいるのか知っているのか」
 シーリア、という呼び名は新鮮だ。同時にそれは、あの深いたたずまいの癒し手には似合わないような気がした。聞き慣れていないからだろうか。
 もっとも、それを言うなら「シェナ・シーリア」という名そのものが耳に慣れない。「エナ」というのは舌足らずで「シェナ」と言えなかった小さな頃のあだ名だったらしいが、そんな幼い彼女を想像するのも難しかった。
 イーツェンは膝にのせた両手を重ねながら、うなずいた。
「存じていますが、ここでは申し上げられない」
「そればかりだな」
 当たり前だ、とは言えずにうっすらと笑みを返す。
「ジノンにじかにつたえてくれとのことなので、あの人は、見つけられたくないのですよ」
「‥‥わかった」
 重い息を吐き出し、センドリスは一動作で立ち上がった。
「それなりに中身は持っているようだな。そんなに会いたいならつれていってやる」
「ありがとうございます──」
「ただし」
 喜びと安堵の入り混じったイーツェンの礼を、センドリスは言葉半ばで切る。
「1人で来い」
「‥‥‥」
 一瞬、何を言われているのかわからずに、イーツェンはぼうっとセンドリスを見ていた。
 シゼのことだと気付いた瞬間、足元がいきなり崩れたような衝撃に声も出せない。それまで保っていた集中が粉々になって、表情だけはどうにかとりつくろおうとしたが、頬も唇もまなざしもこわばってふるえた。右手が知らず左の指を強く握りしめる。痛むほど。
「‥‥どうしてですか」
 全身の力をこめないと声がかすれてしまいそうだった。つめたい肌の内側を、ドクドクと早い鼓動が揺らしている。脈にあわせて血が波打っているのを、耳の先まで感じた。
 センドリスは目をほそめる。わかりきったことを、と言いたげだった。
「剣に慣れてる男をジノンのそばにつれて行けるか。どこの馬の骨ともわからん、それもルルーシュの男だろう?」
「ちがう。彼は城の傭兵だった。ジノンも彼を知っている。私の部屋つきだった──」
「ああ、オゼルクを殴った男だな」
「殴ってはいない」
 こみあげてくる遠い記憶は胸がしめつけられるほどに切ないものだったが、イーツェンはあえて自分の感情を覆おうとした。あの日、シゼはイーツェンを守ろうとしてオゼルクをつきとばし、城における自分の立場どころか命までも危険にさらしたのだ。あの瞬間のことを、イーツェンは牢に入れられてからも何度も思い返した。自分を守ろうとしたシゼの姿を、何度も心にくり返して、地獄のような日々をやりすごそうとしたのだった。
「私が牢につながれた後、彼はルディスに近づいて、私を救い出そうとした。成行で私と一緒にルルーシュに巻きこまれはしたが、それだけだ、センドリス」
 勿論、それだけではない。シゼはイーツェンを城から救う手段を得るためにアガインの元で働き、しまいにはルディスの身をルルーシュに「売り渡し」てのけたが、それは決して知られてはならないことだった。
 彼の言葉をどう受けとったか、それを聞くセンドリスの表情はどこか物憂げで、イーツェンはひどく不安になる。
「センドリス。彼は私を守ろうとしているだけだ。‥‥お願いだ」
「俺もジノンを守らんとならんのでな。王族に手を上げたことのある男なら尚更、つれてはいけん。城雇いの兵士に許されることではない」
「あれは私のためだ!」
 ひどく強い声が出た。あの日城内の一部屋で何があったか、センドリスは知るまい。ジノンの前に引きすえられたイーツェンを、オゼルクはその場で陵辱しようとしたのだった。城から逃亡した奴隷について口を割らせようとした、それは脅しだったのかもしれないが、シゼが間に入らなければオゼルクはイーツェンの矜持や意志を粉々に踏み砕くまでとまろうとはしなかっただろう。
 センドリスが知る筈がない。それともあの混乱を知った上でシゼの行為を罪のように言っているのだろうか。知っても、許されないと言うだろうか。傭兵が王族の前に立ちふさがることは、それだけで大きな罪であるのだと。
 イーツェンは痛むほど拳を握り、身の内の感情を抑えこもうとした。動揺してはならないと思いながら、つきあげるような怒りに体が丸ごとゆらぎそうだった。
「私を守るためだ。ほかにはない」
 言いながら、じっとしていることができずに椅子から立ち上がる。センドリスへ真っ向から向き合って丁寧な口調に戻そうとしたが、はりつめた言葉の角がするどくとがった。
「シゼを置いてなどいけない、センドリス」
「取引だ、イーツェン」
 イーツェンが自ら言った言葉を、今度はセンドリスがイーツェンへ向ける。彼はかるく顎を上げると、わざわざはっきりとイーツェンを見おろした。
「俺は君をジノンのところへつれて行く。君は1人で来る。譲歩はない。わかるな?」
「‥‥‥」
 そんなことができるか、と喉元までこみあげたが、口が動かなかった。ジノンへ会うためにはセンドリスがたよりだ。だがどうしてそんな条件を呑めるだろうか。
「大丈夫だ。ちゃんと君はここへ帰してやる」
 まるで約束のように、センドリスはそう言う。その言葉は真実のようにひびく。だが、イーツェンは動けなかった。
 信じられるわけがない。ユクィルスの軍人、ジノンのために働く男の言葉を。今は本気で言っているのかもしれない。だがもしジノンがイーツェンを邪魔に思ったならばどうなるか。イーツェンを殺すも、獄につなぐも、ローギスへ引き渡すも──センドリスはためらわずにやるだろう。彼が身にまとう荒々しさの下には、ひどく冷酷な芯がある。この男は剣を使うように己を使うことを知っている、イーツェンはそれを嗅ぎとっていた。
 戻ってこられるという保証はない。その間、シゼが無事でいられるという確信も持てない。
 センドリスに従うほかに、ジノンへたどりつくすべがあるだろうか。必死に考えをめぐらせようとしたが、イーツェンはジノンが今どこにいるのかさえ知らないのだった。旅の途中で聞こえてきた噂はほとんどがばらばらの場所を指していて、ジノンが自陣とともに移動しつづけているということしかわからなかった。
 ジノンに会うためには、センドリスの力がどうしても必要だ。だが。
 ──1人で。
 シゼを置いていく、それを思うだけで体がからっぽになるようだった。怖いとか嫌だとかそういう感情の波ではなく、ただ自分がうつろになり、皮膚の内側にあるものがどこかへ流れ出し、己の体も心も小さくちぢんでいくような、得体のしれない喪失感が這いのぼってくる。悪夢に呑みこまれるようなおぞましい感覚を押し戻そうとしながら、イーツェンは息苦しい喉元に手をやり、喉を巻く輪のひえびえとした感触に立ちすくんだ。
 無理だ、と思う。シゼと離れることなどできない。ふたたび会えるかもわからないのに。だが、ジノンに会わねばならないのもたしかだった。陸路であれ川路であれ、ユクィルスから出るには書面による身分の裏付けが必要だ。奴隷や逃亡兵が国外へ逃げ出すことへの警戒はきびしく、イーツェンもシゼも、国境いできつい調べを受けるにちがいなかった。
「どうする、イーツェン」
 センドリスの声には静かな余裕があった。彼に弱みを握られたことを悟って、イーツェンはその場に凍りつく。彼にはどうしても答えが出せなかった。
 どれほどそのまま立ちつくしていたのだろう。センドリスは体重を左足にかけながらイーツェンを見ていたが、ふいに扉の方へ問いを投げた。
「お前はどう思う」
 愕然と向き直ったイーツェンのまなざしの先で、いつのまにか扉はうすくあいていた。いつからあいていたのか、イーツェンにはまるで記憶がない。センドリスの言葉を受けて重い樫の扉がなめらかに押しひらかれ、足音をたてずに部屋に入ってきたのはシゼであった。
「そこでとまれ」
 センドリスのするどい声に応じ、数歩進んだところで足をとめる。シゼに動揺した様子はなく、ただ彼は口を結んだままじっとセンドリスを見ていた。すがるように見つめるイーツェンとは視線が合わない。
 センドリスはまるで罪人を見るようなきついまなざしをシゼへ浴びせたが、シゼの顔には読みとれるような表情はなく、かるく一礼した仕種は自然だった。
「少し、あちらでお話できますか。2人で」
 シゼは、そう言いながら遊戯台のある部屋のはじを示す。相変わらずイーツェンを見ない。その態度と言葉がイーツェンをさらに動揺させたが、どうしたらいいかわからないでいるうちにセンドリスがうなずき、2人はイーツェンなど関係ないかのように部屋のかたすみへ歩いていって、聞こえない会話をはじめた。
 思わず歩み出しかかりそうになるイーツェンを、ヴォルがおだやかな仕種でさえぎる。
「座って」
 長椅子に座らされながら、肩に置かれた大きな手をイーツェンは思わずつかんだ。
「でも」
「きっと考えがあるんですよ」
「‥‥でも」
 子供のようにまたくり返すが、その先がつづかない。自分でも滑稽だと思いながらどもったイーツェンの肩を、ヴォルがさするように撫でた。
 シゼとセンドリスは腰高の遊戯台の向こう側に立ち、ごく近い距離に顔をよせながら2人で話しこんでいた。センドリスの方が上背があるが、姿勢よく背をのばしたシゼは臆した様子もなく、両手は自然に横に垂れて、見たところ2人の間に切迫した緊張はないようだった。
 だがセンドリスの左手は腰に下げた剣の柄の先端にのっている。無手のシゼに剣を奪われるのを用心しているのだろうかと思いながら、イーツェンは息をつめて彼らの様子に見入った。
 何を話しているのかはまるで聞こえてこない。どうやら能弁なのはシゼの方で、珍しく積極的にセンドリスへ何かを語りかけていた。滅多にないことだ。センドリスは時おり短く口をはさんだり、首を振ったりと、相槌側に回っているように見える。
 見ているだけで段々と胸が息苦しさでいっぱいになってきて、イーツェンは汗ばんだ拳を握った。一体シゼがどういうつもりなのかわからない。シゼの行動の意味が理解できないことが、ひどく不安を煽りたてた。
「申し訳ない」
 2人の様子にあまりに集中していたので、はじめイーツェンはそれが自分へ向けられた言葉だと気付かなかった。はっと顔を上げると、ヴォルがイーツェンの肩に右手を乗せたまま彼を見おろしている。灰色の瞳はやわらかいが、真摯だった。
「すまなかった」
 イーツェンはゆっくりと首を振り、また前を向いた。ヴォルへの怒りはない。彼が何よりジノンのために動くだろうことは予想していた。わからなかったのは、それがどういう形となって出てくるかだ。それでも、ジノンにたどりつくにはここへ来るほかなかった。
 今はそのことよりも、シゼとセンドリスのやりとりが気にかかる。息をつめて凝視していたが、恐れていたような争いになることもなく、口論のひとつすらなく、2人はふいに話をやめた。センドリスへ一礼したシゼが彼へ背を向け、なめらかな身ごなしでイーツェンの方へ大股に歩いてくる。
 一体どういう話をしたのか、すぐさま問いただしたい口をつぐんで、イーツェンはじりじりしながらシゼを待った。シゼはイーツェンの前で腰をかがめて目の高さをあわせる。注意深く表情を殺したその顔からシゼの内面をうかがうのは難しかった。淡々とした声からも。
「センドリスは元の予定を早めて、3日後にジノンのところへ出立してくれるそうです」
 予定というのが何なのか呑みこめなかったが、今はどうでもいい。イーツェンはシゼの銅色の目を見上げて、かすれた声でたずねた。
「お前は?」
「私は残る」
 何でもないことのようにシゼはそう言い、身をおこした。
「何で──何でだ、シゼ‥‥」
 イーツェンは、ほとんど自失したまま、くり返しつぶやいた。
 シゼがあっさりと自分から離れようとすることが信じられなかった。何の抵抗もなく、まるでこうなることがわかっていたかのように。
「シゼ‥‥」
 声は聞きとれないほどふるえていた。ふるえているのは声だけではない。膝に拳を押しつけて抑えていないと、体中がふるえ出してしまいそうだった。
 シゼは立ったまま、強い目でイーツェンを見おろす。彼の声は静かだったが、イーツェンの臓腑にその声と言葉のひとつひとつがくいこむ。
「何のために旅をしているのか忘れてはいけない、イーツェン。あなた1人ならジノンに会える。ならば1人で行くべきだ」
「‥‥シゼ」
「リグへ戻りたいでしょう」
 卑怯だ、と思った。イーツェンの反論できない急所を、シゼは知っている。そこを一瞬で貫く。
 黙りこくったまま、イーツェンはにらむようにシゼを見上げた。何も言えなかった。それでも体中にあふれる激情と痛みはほとばしる先を求めていたが、喉がつぶれたように声が出ない。シゼも何も言わず、ただまっすぐにイーツェンを見おろしてまなざしを据えていた。
 視界のすみをセンドリスの大柄な姿が横切った。
「3日後だ、イーツェン」
 まるで約束のような言葉を残して扉がひらき、しまる。すべてがおさまるべきところにおさまったとでも言うように、その声は落ちついて深い。彼にとっては何もかもがさだまったのだ。
 イーツェンははじかれたように立ち上がり、センドリスの去った扉へ向かって走っていこうとする。だがシゼが立ちはだかって体ごと抱きとめるように腕を回し、もがくイーツェンを両腕で押しとどめた。どちらにも言葉はない。無言のまま抗い、無言のまま立ちふさがる。沈黙ばかりが深く、するどく、痛みをはらんでいた。