窓の板戸の隙間から朝日がやわらかくさしこんでいる。その光がシゼの寝顔をぼんやりと照らしていた。
 珍しいな、と思いながら、イーツェンは身を起こさずにシゼの寝顔を眺めた。シゼは大抵イーツェンよりも早く起きるから、寝顔を見たことはあまりない。しかし考えてみれば、昨日のイーツェンは半日以上ゆっくりと体を休めていた上にうたた寝までしてしまったから、シゼの方がずっと疲れているし、眠りも足りていないのだろう。
 そういう理由があろうとも、こうして自分の方が先に目覚めたというのは、段々と体が癒えてきた証のようで少しうれしかった。
 シゼは左肩を下にし、右腕を胸元に引きこんだ体勢で眠っていた。彼はいつも右手が咄嗟の時に動きやすいよう、気をくばっている。眠っている時でさえ。
 おだやかに眠っているようだった。口元のきびしい線もやわらぎ、額や眉のあたりにもするどいものはない。そうして目がとじられていると、シゼの顔が与える印象はかなり異なったものになって、普段より若く、どこかやさしいほどくつろいで見えた。何だか不思議な気分のまま、イーツェンは気取られないよう気配をおさえて、飽かずにシゼの寝顔を眺めていた。
 用意された部屋に寝椅子はひとつしかなく、2人はそこに身をよせて寝ていた。ヴォルは床用の敷布を用意しようと申し出たが、イーツェンはそれを断った。大きな寝椅子は2人で眠るのに充分だったし、シゼとよりそって眠るのは慣れている。そもそもシゼは従者でもなければイーツェンの目下の存在でもなく、床に寝かせる相手ではない。ヴォルに対しての、それはさりげのない示唆でもあった。
 ヴォルはどう思ったのか、イーツェンは彼の反応をうかがおうとしたが、ジノンの召使頭は常のごとくにこやかに対応してイーツェンにその内面をつかませない。
 寝床を共にするということがそのまま性的な関係を示すわけではなく、ユクィルスでもリグでも足りない寝床を人と分けあうのはよくある習慣だ。無論イーツェンはユクィルスの城でそんな必要はなかったし、ジノンなどの王族には尚更縁のない習慣だろうが。イーツェンが追加の寝床を断わってシゼと同じ毛布を使ったからと言って、それが彼らの関り方を語ることにはならない。
 ──とは言え。
 昨日のことを思い出して、イーツェンは頬が熱っぽくなるのを感じた。シゼにふれた時の熱をまだ心も体もはっきりと覚えている。
 シゼはあの後、何も態度を変えなかった。2人はノイシュの用意してくれた夕食──マスの腹に野菜をつめた蒸しものや松の実のスープでイーツェンは久々に凝った味つけを堪能した──を食べ、寝る前にはイーツェンの筋肉をほぐす体操をした。剣の稽古はさすがにできなかったが、それだけにみっちりとイーツェンの体を動かしてのばしてから、シゼはへばって寝床に沈んだイーツェンの腰や足を揉んだ。
 体にふれてこわばりを揉みほぐす丁寧な手も、イーツェンの軽口に時おり答えるシゼの口調も、普段と変わるところはない。彼らはいつも通りにすごし、そのままいつものようによりそって眠った。
 あの熱や会話がなかったことにされているわけではない──シゼの寝顔を眺めながら、イーツェンはそう思う。そういうぎこちなさは彼らの間にはなかった。身を重ねるようにしてイーツェンの体を後ろからかかえ、腕や背をのばそうとしたシゼの動きも自然で、いつも通りだった。
 一線を踏みこえた行為はあったが、別にこれと言って何も変わらなかった、そういうことだ。
 それがどこか不思議でもあり、当然のような気もした。シゼとの間にあるものが恋情なのかどうか、はっきりとした答えのないまま、イーツェンは互いの間に強い絆があることだけは疑ったことがない。
 シゼがかすかに身じろぎ、唇から長い寝息がこぼれた。金の髪がこめかみから額にかぶさるように落ちる。目元が動いたように見えたが、まだおだやかな寝顔のまま、目を覚ます様子はなかった。
 イーツェンは静かな安らぎを感じながらシゼを見ていたが、ふっと唇に微笑をうかべた。昨日、はじめて見たシゼの表情を思い出していた。イーツェンの愛撫を受けながらシゼが見せた、どこか不確かに揺らいで快感を受けとめていたあの顔は、イーツェンがこれまで見たことのないシゼだった。
 昨日の行為を思い出すと少しばかり照れくさくはあっても、羞恥も狼狽も感じない。大胆なことをしたとは思うが、後悔はなかった。シゼへの愛撫は、指にふれた形やその熱、舌を這わせた感触までもはっきりと覚えている。だがその生々しさは嫌なものではなく、こうして思い返しながらもイーツェンは満ち足りていた。
 不思議だな、と思う。シゼにふれたいと思った気持ちはイーツェンの中からごく自然にあふれ出してきたが、あの時イーツェン自身は肉体の欲望や快楽を覚えてはいなかった。城で人を求めたように、切羽つまった快楽を求めてシゼにふれようとしたのではない。ただシゼにもっとふれたくてたまらなかった。髪をなでたり、頬にふれたりするように、彼の熱にふれてみたいと思った。シゼの体がイーツェンとのくちづけに反応したと知った時、素直にそのことが愛しく思えたし、ふれてもっと深くたしかめてみたかった。
 シゼがどんな熱を持っているのか、彼の肌の温度、息づかいや、湿り気や、気配。匂い。声、吐息──何もかもを感じたい。
 そんなふうに思ったことはこれまでなかった。愛撫を与えながら、相手のことを考えたことなどない。行為そのものは幾度となく城でしてきたことだ。強いられ、時には半ば、自ら。だがあれが一体何を生んだだろう。肉体の快楽だけにすべり落ちていく行為には、重苦しく行き場のない熱しかなかった。自分の欲望や快楽、嫌悪や恐れが嵐のように心を呑みこんでいくだけで、相手に気を向ける余裕などなかったし、拒んでもいた。
 だが昨日は、ただシゼのことだけを考え、感じていた。シゼがどんな反応を返すか、彼がどんなふうにイーツェンを感じているか──微細な反応を探り、ひとつずつたしかめながら、シゼのことだけで満たされていた。
(‥‥熱かったな)
 シゼの寝顔をじっと見ながら、イーツェンは細い息をそうっと吐き出す。シゼの中にあんな熱がある。その熱がイーツェン自身までもあたためたように、今もじんわりと心が熱かった。
 人にふれる、ということの意味がはじめてわかった気がした。己の快楽だけを求めた行為とはまるでくらべものにならないほど深くまで満たされて、ゆさぶられる。互いに同じ熱を分かちあった充足感が、イーツェンの体と心のすみずみまでも潤していた。
 シゼは、愛撫が終わったほとんどその瞬間にイーツェンの体をきしむほど抱きしめた。イーツェンの背の傷を気にしてそんなふうに力を入れたことのなかった彼が、昨日は我を失ったように強い力でイーツェンを抱きしめてくれた。
 あの抱擁こそがシゼの答えだったような気がする。強く抱きしめ、一瞬でまるでつき離すように離れた。そこにあるシゼの迷いのことを考えながら、イーツェンは少し目をとじる。
 身分がちがうと、彼はそう言った。いつまでもこんなことは続かないと。
 シゼの言う意味はイーツェンもよくわかるつもりだった。もしリグへ戻れたとして、今のようによりそっているだけというわけにはいかないだろう。彼らは新しい道を、生き方を探さなければならない。だがイーツェンはそのことをあまり心配してはいなかった。リグは彼にとってよく知った故郷だ。右も左もわからず、知己のいない異国とはちがう。戻れさえすれば何とかできる、という思いがある。
 とは言え、根拠のない「何とかなるよ」でシゼが説得できるわけはなかった。まったく頑固者だ、と思うとまた笑みがこぼれる。そういう頑ななところや、時に苦しいほどの誠実さ、厳しい生い立ちが削いだような冷徹な一面までもすべてがシゼを織りなす一部であって、イーツェンはそういうところも好きだった。シゼという人間の陰影をもっと知りたいと思う。シゼにふれてその熱を知ったように。
 もっと──
「イーツェン?」
 耳元で名を呼ばれて仰天しながら目をあけると、シゼとまなざしがあった。眠っていた時の体勢のままだが、いつのまにかすっかり目をさました様子で、彼はイーツェンをじっと見ている。
 一瞬狼狽し、狼狽した自分がおかしくて、イーツェンは思わず笑い出した。シゼにはイーツェンがどれほどよこしまなことを考えていたか、わかるまい。
 笑いながら、たずねた。
「いつ、起きた?」
「今」
 そう答えて身を起こしながら、シゼはイーツェンをけげんそうに眺める。
「何かおもしろいことでも?」
「少し。ちょっといい夢を見たよ」
 答えになるようなならないような返事をすると、シゼはうなずいてそれ以上は聞かず、容赦なくイーツェンの上掛けをはいだ。もう起きろということらしい。うながされてしぶしぶ起き上がりながら、イーツェンはひとつ大きな欠伸をした。


 話をしようと言った筈だったが、ヴォルはその日、姿を見せなかった。
 ノイシュによれば荘園に猪が出たため、その対処で忙しい──とのことだったが、少年が述べる理由をイーツェンは額面通りに受け取ってはいなかった。ヴォルは何かの目的があってイーツェンの前に姿を見せようとしないのだ。だが不安はあっても、屋敷を立ち去るというわけにはいかない。待つしかすべはなかった。
 その間に、小さな砥石で短剣を研ぎながらシゼと互いの髪を切った。
 シゼの指がイーツェンの黒髪をすくい、濡らした短剣の刃を髪の上にすべらせて髪先を削いでいく。短剣と髪が擦れあう音が耳元でざらざらとひびいて背中がこそばゆかったが、髪の内側をシゼの指に撫でるようにされるのは気持ちがよかった。
 シゼはなかなか器用にイーツェンの髪をととのえ、今度はイーツェンがシゼの髪を切る番になる。だが人の髪を切るのは難しかった。旅の途中でも1度シゼの髪をととのえはしたが、あの時は時間もなかったので簡単にすませたし、今回は本腰を入れてもっと見栄えに気をつかっているので、余計に手間どる。シゼは「どうでもいい」と言うが、イーツェンにはどうでもよくはなかった。
 結局、ああでもないこうでもないとやりながら、午後の長い時間を費した。努力の甲斐あってか、こめかみあたりの髪を薄く削いで前髪をさっぱりと短くした髪型はシゼによく似合った。もっとも、やはりシゼはどうでもよさそうではあったが。
 時間が空いたので、ノイシュに豚の脂をもらって皮の胴衣や荷づくり用の巻き皮の手入れをした。膠も持ってきてくれたので、それを使ってシゼの靴の修理をすませ、剣の鞘のけばだった部分を固める。
 ここ数日の疲労が溜まったか、イーツェンは背中が少し痛みはじめていたが、シゼはノイシュに交渉してヒレハリソウの軟膏を手に入れた。金を払うという申し出をノイシュは断り、心付けの銅貨すら拒んだ。躾が行き届いている──少し行き届きすぎていると、イーツェンは思う。
 軟膏を手のひらであたためてやわらかくすると、シゼは涼しい香りのついたそれをイーツェンの背に塗って、また体の筋肉を丁寧に揉んだ。皮膚が厚くなってひび割れている足の裏や、旅で作ったあちこちの傷にも軟膏を塗りこむ。イーツェンも同じようにシゼの傷を手当した。
 体を休め、装備をととのえて、それは久々に安らげる1日だった。ヴォルを待っているということを除けば。
 結局夜になってもヴォルの居場所は知れず、イーツェンはまたシゼとよりそって寝椅子で眠りについた。


 陽が直接さしこまないよう窓に薄いカーテンを落とした遊戯室で、シゼは油燭の灯りで地図を綴じた本を眺めていた。的当てやカードが用意された部屋には小さな書見台もあり、斜めになった天板に本をのせて読むことができる。
 もう秋の風が時おりうっすらとカーテンをはためかせていた。夏にくらべれば陽も随分と低くなって、カーテンがなければ部屋の奥まで陽光がさしこむ。本に使われている皮紙に陽を直にあてないよう、イーツェンがカーテンを引いた。
「どこからがリグの国ですか」
 長椅子の前に書見台を据えて大判の地図を見ていたシゼが、横に座るイーツェンへたずねた。イーツェンは手にしていた小さな詩集を置いて、組んでいた足をとくと、身をのりだしながらシゼの前の地図をのぞきこんだ。書見台には油燭を吊る掛け棒もあって、小さな油燭にともした灯りの輪がシゼの手元をほのかに照らしている。
「ああ、この地図はアンセラまでしか見えないんだ。ここから山へ入っていく道があるんだよ。この嶺を登るとその先がカル=ザラの街道へ続いている。‥‥続いていた」
 もうあの道はない。リグの民が山を崩して埋めた。言い直し、イーツェンは地図の表面を指でなぞった。ユクィルスの国土全体をおさめようとした広域の地図なので、ひとつひとつの地域が爪先ほどもない。いびつに南北へのびた国の形を見ると、あらためていかに広大な土地をこの国が征服してきたのかと溜息の出る思いだった。
「今いるのが大体このあたり。ここがユクィルスの城だろ」
 シゼはじっと地図を眺めて、イーツェンの指先が解説とともに示す場所を目で追っていた。
 今日もまだ、ヴォルは屋敷に戻っていない。ノイシュは平謝りだったが、イーツェンがほしいのは彼の謝罪ではなかった。苛立ちを少年にぶつけてもどうしようもないのだが、狭い部屋で無為にすごすのが嫌だとつたえると、少年は頃合いを見はからって本棟の遊戯室にイーツェンたちをつれてきてくれた。
 さらに駄目元でたのんでみると、数冊の本と地図をジノンの書斎から快く持ってきてくれもした。高価な本をぽんと彼らに預けたことにも驚いたが、少年が書斎に入れるらしいことにも驚いた。あそこにはジノンの私物や手紙も置いてあり、入口の落とし金には仕掛けがあって誰でも入れる部屋ではない。ノイシュは余程の信頼をおかれているにちがいなかった。
 その信頼する少年を彼らにあてがって、当のヴォルは一体どこへ行っているのか──不安を押しこめて、イーツェンは地図に見知った綴りを探しあてる。
「ここがフェイギアだよ、シゼ。レンギの生まれた国だ」
「サリアドナ?」
「昔の名前はね」
 シゼはレンギから故郷の名を聞かされていたのだろう。すぐに古い国の名を言った。その名のひびきには心をほどくようなやわらかさがあって、イーツェンは微笑む。
 サリアドナ。レンギがその身を捨てて8つで人質となり、守ろうとした国は今はもうない。チェンリーカに呑みこまれ、今はフェイギアと名を変えた自治区となった。
 それは、あの国の民が生き残ろうとあがいた末の、煩悶の形なのだろう。だが、とイーツェンは思う。レンギにとって守るべき故郷は失われ、それが心を支えていた芯の1つを折ったのだった。故国は崩れ、8つの時から異国で守ろうとしたものは、手をのばすこともできない遠い場所で壊れていった。そのことがレンギにどれほど深い傷をつけたのか、それを思うとイーツェンは吐き気にも近い息苦しさをおぼえる。
 もしリグが失われていたら。──山を崩して街道を封じることに失敗したなら、いずれユクィルスはリグを手中におさめただろう。他国の属領として呑みこまれたサリアドナの姿は、そのままリグの行く末でもあった。それを思えば、故国が失われたことを遠いユクィルスの城で知るしかなかったレンギの姿は、あるいはイーツェンの姿であったかもしれないのだ。
 自分がそんなことをあの城で知らされたなら、正気ではいられなかっただろう。塔から飛びおりたレンギの心が、イーツェンには身に迫るようにありありとわかった。レンギはきっと、死を願ったのではない。ただ、支えを失ったままあの城で日々を重ねていくことに耐えられなかったのだ。
 ──それでも、彼は生き残った。
 元の名を捨て、ただ司書を意味する「エリテ」とだけ呼ばれながらあの蔵書室で生きつづけ、シゼが運びこんだイーツェンへおだやかな微笑を向けた。己の傷跡を見せることなく、イーツェンを静かに支えようとした。
 その彼が守ろうとした国は──
 イーツェンは指先で、フェイギアの名が記された場所をなぞる。
「‥‥どんな国だったのだろうな」
 溜息のように呟き、インクで描かれた線と名前を見つめた。ユクィルスのほとんどの人間にとって、サリアドナはもはや過去の存在でしかなく、フェイギアですらそんなふうに「名前」を地図に記されただけのなきに等しい場所だ。リグにおいては、なおさら。フェイギアだろうとサリアドナだろうと、名を知る者も多くはあるまい。
「踊りの盛んな国だったそうですよ」
 シゼは地図を見て考えこみながら、ゆっくりと言う。イーツェンは思わず顔を上げ、明るい笑みをうかべた。レンギは、シゼに故郷の話をしたのだろう。
「そうなんだ。どんな踊りなんだろ」
 その問いには、シゼは少し首をかしげる。イーツェンはなつかしさに目をほそめた。
「私もリグではたまに踊ったな。夏にね、5歳になった子供たちの影を返す祭りがあって、そこではもう少し年のいった子供たちが踊るんだ。15の年までそこで踊ったよ」
「影を返す?」
「子供には生まれた時から影がついてきているから、それに礼を言って返すんだよ」
 当然のようにそう答え、一瞬の間を置いて、イーツェンは「あー」ときまり悪くつぶやいた。あれはリグやアンセラの慣習であって、シゼにはわからないのだろう。
「ええとね」
 うまく説明できるよう言葉を探して宙をにらんだ。イーツェンにとっては自分の肌のようになじんだ物事が、シゼやユクィルスの者たちにとってはそうではない。もういちいちそのことにひるんだりはしないが、いつでもうまく言い表せず、もどかしい思いをする。
「幼い子供は、まだ魂がやわらかいだろう。だから影が、魂の回廊からずっと子供たちを導いてくる」
「魂の回廊?」
 そこもか、と呻いてイーツェンは腕を組んだ。
「人の魂が抜けてくる場所だ。新しい魂も、古い魂も。神々と人の界の境。生と死のあわい」
「人は死ぬとそこに行くんですか」
「‥‥お前の神々は何と言ってる、シゼ?」
 シゼの問いに一口で答えるのは難しい。少し困って見上げると、シゼの口元にちらりとよぎった笑みが見えた。珍しく、それは暗い。
「その時々にそこにある神々が私の神だ、イーツェン。私は‥‥何にでも祈る」
「‥‥‥」
 イーツェンはじっとシゼを見ていたが、両手をのばしてシゼの手をつかむと、自分の膝の上へ引きよせた。包むように握りながら、体の向きを変え、まっすぐにシゼへと向き合う。
 シゼは指にも手にも力を入れず、表情を動かさずにイーツェンを見ていた。問うたわりには、彼は答えに興味がある様子ではなかった。
「魂の回廊というのは」
 イーツェンはおだやかな声で話しはじめた。
「魂にとっての子宮なのだと言う。その回廊をくぐって、人はこの世に生まれてくるのだと。死んだ者が皆そこへ行くのかは、私は知らない、シゼ。だがリグでは、人と人が時として不思議な縁でつながれるのは、かつて魂の回廊でふれあったもの同士の魂だからなのだと言われている」
 シゼは唇を引いたままイーツェンの言葉を聞いていたが、ふと何か言いたそうに一瞬躊躇した。イーツェンはシゼの手を握る手に力をこめて、それをうながす。
 ぎこちない沈黙の後、押し出すようにシゼがつぶやいた。
「‥‥レンギも、そこへ?」
 息がふっと心臓の真上でつまったようだった。どこか不確かな表情で自分を見つめているシゼのまなざしを受けとめながら、イーツェンはゆっくりと口をひらく。自分がその問いへの答えを持っていたならどんなにかよかっただろう。彼を安らがせるような、やわらかでやさしい答えを。
「わからない、シゼ。レンギにはレンギの神々がいるから。でもきっと‥‥そういう場所には、神々のへだてはないのではないかと思う。国と国のへだてや、人の間の身分のへだてがないように」
 シゼの手の甲をかるくなでながら、イーツェンはくすっと笑った。
「だってそうだろう。魂に、国や身分が名札のようにぶら下がっていると思うのは、おかしなことだ」
 まばたきしたまま答えずにじっと考えこんでいるシゼへ、左手を持ち上げて、首についている輪を指先でなぞってみせる。
「この輪は人の手がつけた、シゼ。もし私が死んだとして、私の魂にこの輪がはめられていると思うか? 奴隷の鎖や枷につながれたまま、魂の回廊をくぐることなど想像できないよ。人のつけた輪や鎖や身分の上下が、魂にまでついていく筈がない」
「‥‥私にはわからない、イーツェン」
 シゼがぽつりとつぶやいた声にはいつもの彼らしい確固としたひびきはなく、どうしてか疲れているように聞こえた。
「生きのびることしか、考えたことがない。死者は死者だ。‥‥彼らの行く末など、心に思ったことはない」
「だけどお前は、レンギのことを聞いた」
 そっと、できるだけ静かに囁いて、イーツェンはのばした左手でシゼの肩を抱くようにふれた。
 ひろげたままの地図には小さな油燭の灯が落ちて、丁寧に磨かれた皮紙の表面に黄色っぽい輪を揺らしている。照らされたインクの線や顔料の粒が浮かぶ彩色は、レンギのいたあの書庫をイーツェンに思いおこさせた。つめたいあの城の中で、あの場所だけにあった確かなぬくもりを。
「シゼ」
 呼ばれると、シゼは数度、またたいた。
 彼の中によどんでいる何かを、イーツェンは感じとる。シゼがいつもは他人に、そして己にすら見せようとしない、彼の中のやわらかな部分──そこに傷のように食いこんだ痛み。自分が何かの答えを持っていたならいいのにと願いながら、イーツェンは銅色の目を見つめてもう一度、はっきりと名前を呼んだ。
「シゼ」
 シゼは何も返事をしなかったが、イーツェンをまっすぐに見つめ返して動かない。イーツェンは視線を据えたままゆっくりと言葉をつづける。
「レンギはきっと、安らぎの中にいる。そこが魂の回廊なのかどうか、私にはわからないけれど。もしそうなら‥‥私たちはいつかまたそこで、出会えるのかもしれない。そうだといいと思う」
 微笑んだ。
「大丈夫だ、まためぐりあったなら、次はきっとお前はレンギを守りきれるよ」
 瞬間、シゼがわずかに目を見ひらいた。イーツェンはシゼの肩に乗せていた左手でぽんぽんと肩を叩いてから、シゼの髪をなでる。いつもシゼがイーツェンにするように、どこか子供をなでるような手で。指の間にシゼの髪をすくって、固めの髪をかきまぜた。
「だから、いつまでも自分を責めるな」
「私は──」
 シゼは反論するかのように一瞬口元をかたくなに歪めたが、ふいに視線を下にそらせて、肩が落ちるような重い息をついた。イーツェンは親指でシゼのこめかみをなでる。
 シゼがつぶやいた。
「私は、レンギを助けたかった」
「うん」
 右手に握ったままのシゼの手に、力をこめた。ほんの少し。ただ彼が1人ではないと知らせるために。
「レンギは‥‥私を助けてくれた。砦で暮らしていた私を城に入れ、言葉づかいや城での作法を教えた」
 ぽつぽつとそれだけを語って、シゼは口をとざした。それがイーツェンには歯がゆい。もっと苦しいものを吐き出すようにぶつけてもいいのだと思う。だがシゼには、それができないのだろう。
 指先でシゼの頬骨から顎までの線をなでてから、イーツェンは手を戻した。シゼもイーツェンの膝から手を引き、無言のまま、何かを考えている視線を宙へとばす。
 彼の中によどむものに、ひとつでも答えを与えられたのかどうか。わからないままシゼの横顔を見ていたが、ふとイーツェンの口を言葉がついて出た。
「なあ、シゼ。もしリグへ戻る道が見つからなければ、その時はフェイギアへ行ってみようか。レンギの故郷へ」
 ゆっくりとした視線をイーツェンへ向け、シゼはまた無言でまたたいた。目元がやわらいで、彼はかすかに笑ったようだった。
 答える声はおだやかで、揺るぎがない。
「私はあなたを必ずリグへつれていく、イーツェン」
 この頑固者、と思いながら一瞬だけシゼをにらみ、それからイーツェンも微笑した。フェイギアへというのは無論本気ではないが、でまかせでもなく、ただどこか遠い思いのようなものだった。
「わかってる」
 シゼもひとつうなずき返したが、地図へ向き直ろうとした瞬間、ふと扉の方へ視線をとばして立ち上がった。大股に、だが足音を立てずに歩み寄って、廊下へ続く扉を押しあける。
「あ」
 驚いた顔で廊下に立ちつくしていたのは、ノイシュだった。中をうかがおうとしていたのだろう。立ち聞きするには少し扉が厚すぎるだろうにと冷静に考えながら、イーツェンは長椅子から愛想よく微笑みかけた。
「ヴォルは戻ってきましたか?」
「それは、まだなのですが」
 狼狽をすぐにとりつくろって、ノイシュは何事もなかったかのようにシゼへと向き直った。
「剣の研ぎをやっている者が村におります。お望みならば一昼夜で研ぎ上げさせます。いかがいたしましょう」
 シゼは返事をせず、眉根をしかめて考えこんでいた。小さな砥石や革砥で手入れはしているが、しばらくきちんと剣を研いでいない。そのことが彼をずっと悩ませていたのはイーツェンも知っていた。ノイシュに相談するようすすめたのもイーツェンだ。
 研いでもらえばいいだろうと口をひらこうとした時、ノイシュが沈黙をすくい上げるように言った。
「お気にかかるようでしたら、その間、かわりの剣をお持ちしますが」
「それは申し訳ない」
 半ば慌てて、イーツェンが口をはさむ。客として受け入れられ、遇されているのに、あからさまに剣による用心を求めるのは非礼というものだ。
 シゼはイーツェンにやや非難するような目を向けたが、イーツェンはにっこりとうなずいてみせた。どちらにしろシゼの剣には専門の研ぎが必要だ。人を斬ってからきちんとした手入れをしていない。シゼはそれを気にしているし、シゼの懸念はイーツェンにとっても重要なことだ。
「研いでもらった方がいい、シゼ」
 イーツェンの言葉に、ノイシュがにこやかに賛同した。
「腕はいいですよ。この館の物もたのんでおりますし」
 シゼは黙ったままイーツェンを見ていたが、間を置いてうなずいた。ノイシュがぱっと表情を輝かせる。
「ではすぐに手配いたします。剣をお借りできますか?」
 ふたたび向けられたシゼのまなざしに、イーツェンは小さなうなずきを返した。シゼは屋敷内で剣を帯びることなく、部屋に置いてきている。飾りとしてならともかく、用心のために屋敷内で剣を帯びるのは客として迎えられた者の礼儀にもとったし、不信を示すことはできなかった。シゼはそのことに不満げではあったが、護身用の短剣を目立たぬよう2本帯びることでイーツェンに妥協していた。
 行っていいとつたえたつもりだったが、シゼはまだ気づかわしげにイーツェンを見ている。ノイシュの視線を気にしたイーツェンが気付かないふりをしていると、シゼはつかつかと歩みよってきて、イーツェンの顔をのぞきこんだ。
 まっすぐに見つめられて、イーツェンは理由もなくドキリとした鼓動を抑え、まばたきした。シゼはイーツェンの耳元に口をよせて小さく囁く。
「信用しているんですか」
 問われたイーツェンはすぐには答えなかった。客として遇すると、ヴォルはたしかに言った。だがそれをすべて信じていいのかどうかはイーツェンにもわからない。
 ただ、ヴォルに対しての不信や敵意を示すことが、自分たちの命取りになりかねないことはわかっていた。ヴォルの心ひとつに彼らの身がかかっている。信じることより、信じられることの方が肝心だった。
 客としてそのヴォルに招かれた以上、客として対する──それが、イーツェンの出した結論だ。危険だと判断すれば、ヴォルは決してジノンへの橋渡しをしようとしないだろう。もし今こうしてヴォルにためされているなら尚更、彼に対する信頼を示すことが重要に思えた。
 手をのばし、イーツェンはシゼの腕をそっと叩いた。
「剣を預けて、手入れをしてもらうといい。私はここにいるから」
「‥‥わかった」
 シゼはイーツェンを見たまま低く答え、かがんでいた身をおこした。納得はしていない。それはあらわだった。だがイーツェンの意志をたしかめて、それに沿おうとしているのがわかって、ぶっきらぼうなシゼの態度ではあったがイーツェンは気持ちの芯があたたかくなった。シゼはただ一方的に従おうとしているのではなく、イーツェンの意志を聞き、自分の意見を示し、その上でイーツェンを尊重してくれたのだ。
 ノイシュに続いて遊戯室を出ていくシゼへ、イーツェンはかるく手を振る。ちらりと振り向いたようだったが、シゼは反応ひとつ返さずに後ろ手で扉をしめた。それがまたシゼらしい。イーツェンは笑みを溜めたまま、椅子の中心に体をずらすと、書見台にひらかれたままの地図をのぞきこんだ。
 ユクィルスの本城にある地図を写本したものなのか、それともどちらも同じ底本を持つのか、この地図は城の蔵書室でイーツェンが飽かずに見ていた地図と色合いや装飾がよく似ていて、ただ金泥で右上に入れられた紋はジノンのものだった。
 のばした指先はさだまった目的も持たずに、美しくなめされた皮紙の表面をすべる。ざらつくインクの線をたどり、丁寧に色を刷りこまれた彩色に注意深くふれた。
 ──フェイギア。
 ふとその場所を探して、指先はすべる。北のチェンリーカとの国境を越えて、多くの領土に分割された群れのような場所の一端。フェイギアと名を変える前のサリアドナはもっと大きな領土を持つ国だったのだろうと思いはしたが、この地図からはもうわからない。
 フェイギアへ、という自分の言葉を思い出しながら地図を眺めたが、大陸の広い範囲をおさめた地図ではひとつひとつの場所があまりにも小さく、はっきりとした道筋などわからない。何気なく山にそってすべらせていた指があっという間にユクィルスからアンセラへと動き、リグへと続く峰のふもとにふれて、イーツェンは溜息をついた。その先は装飾的な枠に呑みこまれている。
 紙の上なら、これほどに近い。山も一瞬でこえられそうだ。彼らが20日近くも歩きつづけてきた距離すら指先ひとつにすぎず、そのことに苦笑いしながら、別の地図を見ようと頁を丁寧な手でめくった。
 フェイギアの周辺をもう少し詳細に記した地図が、綴りの中にある筈だった。この屋敷に滞在していた冬の間、イーツェンは何度かこの地図を見たことがあって、大体のことは覚えている。
 目当ての頁を探していたが、イーツェンはやがて当惑して手をとめた。
 分厚い本に両手をかけて表に返し、1枚ずつ見逃さないようにめくっていく。だが20枚以上に及ぶ地図の綴りを最後まで見て、彼は親指の背で額をこすった。
 ない。フェイギアを含めたチェンリーカ国境の大地図が、綴りになかった。確かにあったはずだと記憶をさぐりながら地図のあちこちを見回していたが、イーツェンはふと綴じ紐が新しいのに気付いた。地図には1枚ずつ綴じ用の耳がつけられ、等間隔で穴を打って、紐でかがって1綴りにしてある。だが全体を綴じたばねた皮紐はまだ脂の艶を残し、ふれた指先にもやわらかかった。
 ──誰かが前の紐を切って、地図を抜いた。
 だから新しい紐で綴じ直したのだ。
 だが、誰が?
 この屋敷に入れる者は限られており、蔵書が置かれたジノンの書斎に入れる者はさらに少ない。誰でも地図を持ち出せるわけではないし、そもそも一体誰が、北の国境いの地図など必要とするだろう。
 凝然と地図を見おろしていたが、ふいに扉がひらく音がして、イーツェンは体をそちらへ向けた。シゼが戻ったにしては早いと思ったが、許可も求めずに歩み入ってくるヴォルの姿を見て小さく息を呑む。やはり屋敷に帰っていたのだ。
 さらに。
「久しぶりですな」
 無表情を保つ召使頭の後ろから低い挨拶を投げたのは、かつてこの屋敷で同じ食卓につき──そして10日あまり前にも、旅路の途中で見かけた男であった。
 あの時は鎧をまとって、騎馬にまたがっていた。センドリスは大きな体に似合わないなめらかな動作で部屋へ入ると、イーツェンを見据えたまま後ろ手に扉をしめた。
「折角、見逃したのに。あなたは」
 溜息まじりにこぼれた言葉が、あの時の邂逅をさしたものだとイーツェンが呑みこむまで一瞬の間があいた。馬上のセンドリスは道端の彼らをちらりとも見ず、騎馬を率いてすぎていったのだが、言葉通りならばイーツェンのことをわかっていながらあえて無視したことになる。
 ヴォルはセンドリスへ道をあけるように1歩脇に控えて、静かに口をとざしていた。
 イーツェンは息を吐き出して背すじをのばし、無用な緊張を引きおこさないよう、ゆったりとした動作で立ち上がった。両手を体の脇に自然に垂らし、センドリスへ向き直る。
 センドリスは先日見かけた鎧姿ではなく、簡素なシャツに大きな襟のついた裾長の袖無し胴衣をまとっているが、満ちる気迫が彼の姿を鎧以上に堂々と見せていた。腰には長剣が下がっている。ヴォルの腰の後ろにも山刀に似た護身用の小湾刀が下がっていることを、イーツェンは知っていた。
 怯えを出さぬよう、しっかりと頭を上げてセンドリスに向き合う。かつて共にした食卓で陽気に笑っていた男は、今は怖いほど真剣に、半ばにらむような目でイーツェンの一挙手一投足をうかがって隙がない。
 ──戻ってくるな。
 そう、心で念じた。
 策略で遠ざけられたと気付けば、シゼはすぐさまここへ戻ろうとするだろう。だがきっとそれは混乱を生むし、シゼが危険だった。彼は、どんな手段を使おうともイーツェンを守ろうとするだろうから。
 センドリスを見つめたまま一瞬も目をそらすことなく、イーツェンは膝をかるくかがめて会釈をした。奴隷の礼でも臣従の礼でもない、まるで城内で貴族同士がかわすような優雅な挨拶。
 イーツェンがゆるやかな礼を終えるやセンドリスは腰の剣を抜き払い、抜き身を右手につかつかと歩みよってきた。