ぬるま湯から引き上げられるような感覚に目をあけると、すぐ眼前に見慣れた顔があった。イーツェンはぼんやりとまたたく。
「‥‥シゼ?」
名を呼んでから「あれ?」とつづけて呟き、自分がどこにいるのかと目だけで左右を見た。見慣れない天井と壁に記憶が段々と形を取り、シゼを待ちながら眠ってしまったらしいと思い出して、彼はまだ眠気の残る目をこすった。
「ごめん。待ってたんだけど。‥‥あれ、お前」
シゼはまだ覆いかぶさるようにイーツェンの右側に手をついて、彼をのぞきこんでいる。その髪が湿った艶をおびているのに気付き、イーツェンは手をのばした。髪にふれて、濡れた感触に自然と笑みがこみあげてくる。
「お前もヴォルに風呂に入れられたか。私もだ。替え湯までさせられたぞ」
イーツェンをじっと見おろしたまま、シゼは口を結んでうなずいた。あまり機嫌がよくない様子に、イーツェンの心がざわつく。
「何かあったか? 大丈夫か、シゼ?」
まず首を横に振り、それから縦に振って、シゼはイーツェンを見つめていたが、小さな溜息をついた。
「‥‥心配した」
呟いて、イーツェンの頬を左手の親指でなでる。その声がすとんと体の芯に落ちるようで、イーツェンは微笑して、指にはさんだ髪を引いた。
シゼは抵抗なく身を倒し、かるくイーツェンに唇をふれあわせた。甘い香りがふっと鼻先に漂って、イーツェンは眉をよせる。なつかしさのある香りなのに、まだ眠気が残っているせいか、名が口をつくまで一瞬の間があった。
「林檎?」
「食べますか?」
「いや‥‥いい」
食欲はなかった。意外と、乳粥の腹もちがいいのかもしれない。
シゼの首に両手を回し、湿った髪に指をさし入れて頭を撫でる。髪油ももらったのか、シゼの髪はいつもよりやわらかく指になじむ。それがおもしろくてかきまぜていると、シゼがふっと表情をやわらげた。
その顔を見たら何だかたまらなくなって、もう1度シゼを引き寄せる。シゼは逆らわずにイーツェンの上に体をかぶせ、イーツェンは彼の背中に回した腕でその重みを抱きしめた。離れていた時間は長くはないが、そうして鍛えられた固い体の感触を両腕でたしかめていると、安堵がこみあげてくる。頬にふれるシゼの髪の感触が心地いい。
眠っているうちに真昼はすぎたのか、部屋の空気は随分と涼しくなっている。だが体にはまだぼんやりとした熱気が棲みついて、シゼの服や肌がふれるたびにその熱気が身の内でざわついた。
耳元でシゼの少しくぐもった声がひびく。
「背中は?」
「大丈夫。馬に乗ってる間は少ししんどかったけど」
シゼが何も返事をしなかったので、シゼの背に手を添わせながらイーツェンは自分でつけ足した。
「随分と、丈夫になっただろ」
「ええ」
「でもヴォルに、そんなお姿になって、と言われてしまったよ」
冗談めかして言ったのだが、シゼが顔を上げ、まっすぐにイーツェンをのぞきこんだ。ふいのまなざしに、イーツェンは心臓を強く押されたような気がする。シゼの指がゆっくりと、イーツェンの頬からこめかみまでを撫でた。
「私も、そう思いましたよ。あなたを見た時に」
「もう随分と前のことだろう」
笑いながら、イーツェンはどこか不思議になる。シゼが弱りきったイーツェンを城から救い出したのは、まだこの夏のことだ。季節ひとつと、少し。それなのにもう遠い日のことのように、あの頃の記憶や痛みは曖昧に薄らいでいた。
シゼの中には、まだあの時のイーツェンが鮮やかに灼きついているのだろうか。イーツェンの変化に驚いてはいたのだろうが、シゼは何も言わなかった。嘆きも慰めも。何も言わず、ただ崩れそうなイーツェンのそばにいて、彼を支えようとした。
頬に添うシゼの手へ右手をかぶせ、イーツェンは自分をのぞきこむ目を見つめ返す。
「今はそうひどくもないだろ」
あの時の弱った、情けない自分をいつまでもシゼに覚えていてほしくはなかった。かと言ってその前の、城で人の言いなりに体をあけわたしていた自分のことは尚更忘れさせたい。
せめて今の、己の足で歩くことを覚え、己の腕で剣を振ろうとあがくイーツェンのことを、はっきり覚えていてほしかった。
「お前のおかげで、ここまで旅ができるほど元気になった」
「船旅も大丈夫ですね」
「‥‥そうだな。きっと」
行けるのだろうか、とイーツェンはぼんやり思う。ジノンに会い、通行証を手に入れ、川を下り、名前しか知らぬ港町へ──そして、その先にある海の旅へ。それはまだイーツェンの中で淡い幻のようなものだった。
「きっと、大丈夫だ」
溜息のように呟くと、イーツェンを間近から見おろしていたシゼが上体をのばしてイーツェンの額にくちづけた。肘で体を支えてはいるが、シゼの体はイーツェンをずしりと寝椅子に押しつける。だがその重みは心地いい。
イーツェンはシゼの背に回した腕に力をこめて、起き上がろうとするシゼを引きよせた。シゼが体の力を抜いて、覆いかぶさる。2人の体は寝椅子の上でぴたりと重なりあった。
シゼはイーツェンの背中に負担をかけたくない様子で、イーツェンを抱きかかえながら横にころがった。肩が下になる。視界がごろりと動くのがおもしろくて、イーツェンは小さく笑った。2人は互いの背に腕を絡めながら抱きあい、昨日闇の中でかわしたくちづけをたどるように、そっと唇をあわせる。
シゼの手がイーツェンの頬をなで、たしかめるように頬骨から耳元へと指を這わせた。その間も唇はふれあって、イーツェンはシゼの唇の内側を舌先で弄う。
シゼの舌がしのび出してイーツェンの舌にふれた──瞬間、ぞくりと熱が首すじから背中をかけおり、イーツェンは目をとじた。体の奥にわだかまっていた熱が、四肢のすみずみに向けて解放されていくようだった。
シゼの濡れた舌をなめながら、イーツェンは固い背に腕を回して、横倒しになった体をすりよせる。シゼの存在を丸ごと感じたかった。シゼの指が頬骨をなで、髪を乱す指が首のうしろへすべりこんで、イーツェンの顔をさらに引きよせる。荒々しく、だがやさしく頬を愛撫されて、イーツェンはくちづけの中で呻いた。
シゼが大きく動いてイーツェンの体を両腕で抱きこみ、角度をかえて唇をむさぼりながら、くり返しきつく抱きしめた。強い、我を忘れた仕種だった。
シゼのくちづけはどこか不器用だったが、こめられた情熱はまぎれもない。深く入ってきた舌が強く口腔をまさぐり、イーツェンの舌と絡んで粘ついた音をたてた。ざらついた熱を目をとじて味わいながら、イーツェンは足を絡め、シゼの背中を抱きしめた。シゼが姿勢を変えてくちづけをくり返すたび、イーツェンの手のひらの下で固い肩甲骨や、しなやかな背中の筋肉が動く。
その背に指をくいこませ、シゼの熱を求めて唇をひらき、くちづけにこたえた。寝椅子に押しつけられた髪がきしむ。
いきなり、身をふりほどくようにシゼが離れた。ほとんどつきとばされるような衝撃とともに取り残されて、イーツェンは茫然と目をあける。夢から叩きおこされたような、どこか浮いた心地のまま体をおこし、わけもわからず見つめた先で、シゼは苦りきった表情で寝椅子のはじに座って手の甲で口元を拭っていた。
「シゼ?」
あっけにとられるイーツェンを見もせずに、シゼが低い声で呟いた。
「駄目だ、イーツェン」
「‥‥何で」
イーツェンはまばたきをくり返しながら、座り直した。
「シゼ。どうした?」
シゼはイーツェンと目をあわせようともせずに、むすっとしたまま手をおろし、溜息をついた。
「とにかく‥‥駄目だ」
言いおいて立ち上がると、問答無用で扉の方へ歩き去ろうとする。イーツェンは咄嗟にのばした両手でシゼの左手にすがった。
「シゼ──」
シゼはとまろうとしない。勢いで前へ引きずられ、よろめいたイーツェンの体はすとんと尻から床へ落ちてしまう。ここぞとばかりに大仰に呻いてみせると、シゼが慌てて振り返っている隙に立ち上がり、尻を払いながらシゼに向き直った。このくらいの芝居はできる。
両手をさしのべ、立ちすくんでいるシゼの両肘をつかんだ。シゼは途方にくれているようだったが、イーツェンの手を振り払いはしなかった。
「シゼ」
名を呼んで、目を見つめながら身をよせていくと、シゼが小さく喉を動かして唾を嚥下した。銅色の目には陽に照らされたような光があって、情動をシゼが抑えこもうとしている、体の緊張がイーツェンにつたわってくる。
かるく体をふれあわせると、シゼの喉がまた動いた。イーツェンがよせた太腿でふれたその下で、彼の欲望ははっきりと固いきざしを見せていた。
イーツェンは吐息をついてシゼの肘を離し、右手をシゼの肩にのせて、首を抱くように手を回した。また逃げられてはかなわない。少なくとも、きちんと言葉にしてつたえる前に。
部屋の扉はしまっていた。彼らの会話が廊下へそのまま洩れる心配がないことを視界のすみでたしかめてから、イーツェンはシゼをまっすぐにのぞきこんだ。
「お前はもう、そんなに私を守ろうとしなくてもいいんだよ、シゼ」
「‥‥‥」
「私が嫌がるとでも思ったのか?」
シゼは頬骨のあたりをこわばらせ、この上なく頑固そうな顔をした。
「あなたは‥‥まだ傷ついている、イーツェン」
「たしかに、人と寝られる状態じゃないかもしれないけど」
イーツェンはそれを認める。背中の痛みが完全に癒えたわけではないし、それに何より、まだそこまで踏みこんでいけるかどうかが自分でもわからない。踏みこんでいきたいのかも。
シゼにふれたいと願い、くちづけに満たされる一方で、城で覚えたような肉体の快楽をもう1度受け入れられる気がしなかった。城でのことを直視しようとするたびに、まだ悪夢のようなどろどろしたものが体の奥にこびりついている気がするのだ。自分の深いところに、快楽への厭悪が棲みついている──そのことはうっすらと感じていた。
シゼが静かな手でイーツェンの頬をなでた。彼が気づいていたと、イーツェンは知らなかった。
「だから駄目だ、イーツェン」
「そうか?」
そうだろうか。イーツェンは自分の中に同じ問いを落とす。頬にふれるシゼの手は愛しいし、彼が欲望を感じたことは純粋に嬉しい。シゼにふれたいとも、ふれられたいとも思う。それだけでは駄目なのだろうか。この気持ちだけではどうにもならないのだろうか。
不確かな思いで立ちすくんだイーツェンの頬に手をあて、シゼはじっとイーツェンを見つめていた。剣を持ちつづけることで固く鍛えられ、関節がしっかりと張った指。イーツェンはこの指が好きだった。
シゼの目の中にも、イーツェンは自分と同じように不確かな迷いを見る。踏みこめないのは、シゼも同じなのだと思った。もしかしたら、踏みこんでいくのが怖いのも。
「‥‥今日、このまま吊るされるかもしれないと思った時、お前のことを考えていた」
イーツェンがぽつりと呟くと、頬にふれているシゼの指がぴくりと動いた。
「シゼ。私もお前も、今日死んでいたかもしれない。それとも明日。その時また私はきっと、お前のことを考えるんだろう。今、お前にふれていたいと思うのは、おかしなことか?」
「イーツェン──」
抑えた分だけ、シゼの声はかすれて聞こえた。イーツェンはシゼを見つめる。
ふれていたいと思う、それなのにその先にあるものはまだ怖い。彼らのどちらも、立ちすくんでいた。
「‥‥剣の訓練だって素振りからはじめるんだ、シゼ」
「は?」
虚をつかれた様子のシゼの手を取り、たぐるように左腕をつかみ、寝椅子の方へと引いた。シゼは逡巡しながらも、強引に引っぱるイーツェンに従いはしたが、首を振った。
「できない、イーツェン」
「わかってる」
ほとんど無理矢理にシゼを寝椅子に座らせて、しゃがみこんだイーツェンはシゼが履くサンダルの紐をほどきはじめた。シゼの両足から革のサンダルを抜き、顔を上げる。
シゼは途方にくれた様子で、それがイーツェンには少しおかしくもあり、切なくもあった。シゼがイーツェンへの欲望を持て余している、その様子が。ただ抱き合えばすむようなことが、どうして彼らにはいつも難しいのだろう。
いや。ここまで1歩ずつ、わずかな歩みを重ねてきた。彼らの旅はずっとそんなふうだった。今さらそれは変えられまい。
そばに座って、シゼの膝をかるく叩いた。
「大体、部屋を出ていってどうするつもりだった、シゼ」
「‥‥‥」
明らかにそこまでは考えていなかったらしく、返事はない。どうせ剣でも振りに行っただろうなと思いながら、イーツェンはまだ湿っている彼の髪をなでた。
それがシゼの望みなら、それでもいい。だが。
「私にふれられるのは嫌か、シゼ? 城で、お前がしてくれたように」
シゼはたじろいだ表情でまばたきをした。イーツェンは身をよせ、シゼの頬にかすめるようなくちづけをして、唇にかるく唇でふれる。シゼは応えなかったが、避けようとはしなかった。
城にいた時、シゼはイーツェンのものに手で愛撫を与えたことがある。2度。どちらも快楽の残り火に苦しむイーツェンを見かねてのことだったが、その時の記憶は後々になってからもイーツェンの深いところをゆさぶった。
膝を手のひらでなでると、シゼが長い息をついた。
「あれは‥‥」
「お前の役目だった?」
「ちがう、イーツェン」
悪気のない問いに、真摯な言葉がはね返った。シゼはイーツェンの腕をつかむ。
「あれはちがう」
「わかってるよ。お前はいつも、私にやさしかった」
まっすぐに見つめ、もう1度、唇にくちづけた。かつてはシゼが義務感からしたことではないかと思いもしたが、それだけで人の体に手をふれられる男ではないことも、今はわかっていた。
いびつな形の愛撫ではあったが、あの手の中に、イーツェンは自分を思いやるシゼの気持ちを感じとっていたのかもしれない。与えられた行為に、嫌悪も後悔もなかった。すがるように思い出したこともある。そんな自分を滑稽だと思いながら、あのあたたかな快楽の存在が心のどこかで支えになっていた。誰かがあんなふうに、やさしく自分にふれたという記憶が。
「あの時は──」
シゼは大きな息をつく。
「あなたにふれてみたいと、思った」
まるで罪を打ちあけるように早口にそう言い、顔をしかめた。
「‥‥よこしまな気持ちもあった」
「よかった」
イーツェンは寝椅子にのぼると、シゼの左膝を両手でつかんで寝椅子に足を上げさせた。とまどい顔で従うシゼへ微笑する。もしかしたら、あの記憶を大切にしていたのは、自分で思うほど滑稽なことではなかったのかもしれない。
「なら、わかるだろ。今の私もすごく不埒な気分だよ。そっちの足も上げて」
シゼはまだためらっていたが、イーツェンがさらにうながすと、言われるように両足を寝椅子に上げ、膝をのばして座り直した。イーツェンはその左足を膝でまたぐと、膝立ちで近づいて、シゼの唇にゆっくりと唇を重ねた。
シゼの頬に指を添わせる。シゼの肌はしっとりと汗ばんで、首すじにすべらせた指先にコトコトと早い鼓動が感じられた。今度のくちづけにシゼは素直に応じて、2人はゆっくりと唇をふれあわせる。
感触をたしかめながら、イーツェンは右手をシゼの脚へすべらせた。太腿にふれてから、ゆっくりと股間のふくらみに手をうつしていくと、シゼの体が一瞬こわばった。
シゼの唇をなめて、ゆっくりと指でそこをなで上げる。ズボンの上からでもそれが固く張ってくるのがわかった。
シゼが重ねられた唇をひらき、こもった息を吐く。イーツェンはくちづけをずらしてシゼの唇の横をなめながら、ゆっくりと手でシゼの腰帯を外し、ズボンの合わせをひらいて前をくつろげた。少しずつ、丁寧に。ただの行為ではなく、愛しさがつたわるよう、シゼにくちづけをくり返し、あごに唇をすべらせる。
ズボンの中に手をさし入れ、下帯の上からシゼの屹立にふれる。はっきりと形を持ったそれを布の上から愛撫すると、シゼは喉の奥で呻いた。
シゼが感じている、その反応にイーツェンの背すじが熱くなる。シゼの唇をねっとりとなめてから、イーツェンは額をよせて銅色の目をのぞきこんだ。
「さわってもいい?」
シゼの許しが、求めがほしかった。
目の奥に抑えきれない興奮を光らせて、シゼが無言のままうなずく。イーツェンは唇を押しあてるだけのくちづけをすると、シゼのズボンを押し下げ、両手で下帯をほどいた。熱く屹立したものを布の間からつかんで、指を絡めるように握る。
根元からゆっくりと擦り上げると、シゼが聞こえるような息を吐き出し、屹立はさらに固くはりつめた。五指で握りこみ、イーツェンは敏感な先端のふくらみを親指の腹でなでる。じわりとにじんできた滴りを塗りこめるように指を動かした。
幾度もくり返し、慣れきった行為だ。だがこの愛撫も、それに対する反応も、イーツェンにはひとつひとつが新鮮だった。シゼの欲望の感触、首すじにはりつめた緊張と荒い息、時おり洩れる呻き。湿った肌。何もかも、感じたことのないものだった。
ぬめりをおびた指を裏筋につっとすべらせ、シゼの呻きを聞きながら、シャツの襟元からのぞく鎖骨に何度もくちづけた。
ちらりと見上げたシゼの表情はほとんど険しいほどで、ぐっと眉をよせている。彼はこういう顔をするのだな、と思ってイーツェンは微笑した。
「こらえなくていいよ」
首すじに囁くと、膝で下がって身をかがめる。ためらいや嫌悪はなかった。ただシゼにもっとふれたい。そうすることがごく自然に思えた。
赤黒くはりつめた屹立の先端を舌でなめると、シゼが慌てたような声をたてた。イーツェンの口の中に独特の苦味がひろがる。こわばった太腿をなだめるように叩き、イーツェンはゆっくりとシゼのものに唇をかぶせた。舌で敏感な粘膜を擦り、やさしくこねるように舌腹を押しあてながら、さらにあふれてきた滴りを呑みこむ。しばらくしゃぶるように舌を動かし、口から外すと、のばした舌で根元からぞろりとなめあげた。
限界が近づいているのだろう。シゼのそれは、はりつめてひくりと震えていた。イーツェンはやや深くまでくわえこみながら、添えた指も使って丁寧に愛撫していく。口の中にシゼの屹立を感じ、生々しい味と匂いが体にしみこんでくる、その流れに身をゆだねた。
欲望とは少しちがう──いやこれも、イーツェンがこれまで知らなかった欲望なのかもしれない。快楽ばかりを追う急いた気持ちはなく、ただ今はシゼにイーツェンを感じてほしかった。彼の反応のひとつひとつ、手を置いた太腿の張りや、息づかい、呻き、口の中で感じとる微細だがあからさまな反応、そのすべてが愛しい。すべてを味わおうとしながら、イーツェンはシゼの屹立に舌をからめた。
「イーツェン──」
かすれた、上ずった声が名を呼ぶ。髪にシゼの指がふれた。顔を上げさせられるのかとイーツェンはかまえたが、その指はイーツェンの髪を指先にすくって、そっと頭をなでた。
「イーツェン。もう、いい」
一瞬、ふっと涙ぐみそうになった。どうしてだかわからない。押しせまったようなシゼの声が、そのくせあまりにやさしかったからかもしれない。
イーツェンは顔を伏せたまま小さく首を振った。もう1度全体をゆっくりくわえこんでから、頭を戻し、ぬるりとした先端をなめる。シゼが喘ぐように息を吸いこむ、そのするどい音が聞こえた。彼の全身に力がはりつめ、荒々しい情欲の匂いがむせかえりそうなほど押しよせる。そのまま、イーツェンは前ぶれを与えずに強く吸い上げた。
口の中にシゼの精がはじける。生あたたかな奔流をイーツェンは何のためらいもなく口に受けとめ、吐精を呑みほした。青くさく濃密な牡の匂いにくらくらと圧倒されそうになりながら、シゼの萎えたものに手をそえ、舌でなめて綺麗にすると、顔を上げてシゼを見た。
シゼは、半ば茫然としているように見えた。肩で大きく息をついている。顔や首すじがうっすらと上気して、湿り気をおびた肌が一呼吸ごとに大きく息づいた。
見ひらいた目がイーツェンを見る。その目の中に、生命に満ちあふれた荒々しい光が見えて、イーツェンは微笑んだ。無言のままシゼは手をのばし、イーツェンの唇を指で拭うと、身を倒すようにイーツェンを両腕に抱きしめた。
イーツェンがそれに応えようとした時にはもう離れている。急いだ動作で起き上がったシゼは、ほどけた下帯とずり落ちそうなズボンを一緒に左手で押さえながら、壁際に置かれている水さしを右手につかんで大股に戻った。
「ありがとう」
イーツェンは笑みをこらえながら礼を言って、水で口の中をすすぐ。シゼは手早く自分の服をととのえると、イーツェンの手から水さしを取って自分も大きく水を飲み、肺が空になるような溜息をついた。
「‥‥イーツェン」
「お前を困らせるつもりはなかったんだけど」
乱れた髪を手で直しながら、イーツェンは面映ゆい気分でシゼの表情をうかがう。シゼは明らかに困った顔をしていたが、ひとつ首を振ってイーツェンの前に膝をつくと、床に落ちているサンダルを拾って無言のままイーツェンに履かせはじめた。
作業に集中しているシゼを見おろし、イーツェンは手をのばして彼の髪を直した。またのびたな、と思う。ここを立つ前に、ヴォルに切れ味のいい剃刀を借りてそいだ方がいいだろうか。そう言えば、いずれ彼らが向かおうとしている港町では、剣士や奴隷はどういう髪型をしていればいいものだろう。
革紐をイーツェンの足の甲で交差させて丁寧に結び、シゼは身をおこした。手を動かすことで考えを整理したのか、さっきよりは落ちついた表情でイーツェンの横に座ると、じっと彼の顔を見る。
やがて、ゆっくりと口をひらいた。
「あなたは? その‥‥」
曖昧な手ぶりをする。それで大体呑みこんで、イーツェンは驚き、それから微笑した。
「私は、いい。お前にさわられたくないわけじゃないんだけど、やっぱりまだ難しいみたいだ」
あれだけ濃厚な愛撫をしながら、イーツェンの体はほとんど反応しなかった。満ちたりたぬくもりはあるが、それ以上の飢えや求めを感じない。シゼがもし、ふれてくれれば──と思いはしても、そこに踏みこむ心の準備がまだなかった。体や心が癒えていくには、それぞれの時間がかかるのだろう。今はシゼにふれた、それだけで満足だった。
シゼはうなずき、イーツェンの頬を手のひらでたしかめるようになでていた。
また長い間黙っていたが、ぼそりと呟く。
「‥‥やはり、こういうことがいい考えだとは思えない、イーツェン」
イーツェンは少し考えてから、おだやかにたずねた。
「何でだ?」
「あなたは、いずれリグへ帰る」
それで全部説明がつくとシゼは言いたげだったが、イーツェンはさっぱりわからない。
「だから?」
「あなたはリグの王子であって、ほかの誰でもない」
早口で言って、シゼは抑えていたものを吐き出すような息をついた。
「それを忘れてはいけない、イーツェン。リグへ帰ればあなたにはあなたの立場がある。今とはちがう。‥‥こんなことはいつまでも続かない」
イーツェンはしばらくシゼの横顔と、ぐいと口元を結んだ頑固な表情を見ていた。
「お前とは身分がちがうから駄目だと言うことか?」
シゼはうなずいた。イーツェンを見ようとはしない。イーツェンはふっと微笑した。シゼの中にあるためらいには気付いていたが、それを彼がはっきりと言葉にしたのははじめてのことだ。
シゼはイーツェンを拒もうとしているのではない。その向こうに透かし見える別のものを拒もうとして、求めながら、揺らいでいる。
「そうだな。でもシゼ、リグへ戻っても私は何も変わらない。身分は問題じゃない。お前が好きだよ」
シゼは返事をせずにうつむいて、自分のサンダルを拾い上げ、左足から履きはじめた。
言葉ではきっと駄目なのだろう。そう思いながら、イーツェンはのばした手でシゼの髪をなでた。シゼの中にあるものは、イーツェンの言葉ではくつがえせないものだ。
(──多くを望まなかったからだ)
2日前に川べりで聞いた言葉の意味を、イーツェンは痛いほどに悟る。自分の手のとどかないものは望まない。そうやってずっと生きて、生きのびてきたと、そうシゼは言った。望みを心に押し殺していくような、それはシゼの生き方であって、たったひとつの言葉や1度の愛撫では変えられないものなのだった。
「明日、髪を切ろうか」
ところによって褐色がかった金髪を指の間でもてあそびながら言うと、シゼは小さく目をみはったが、イーツェンの方を見ないままうなずいた。イーツェンは微笑して、どのくらい切ればいいだろうかと指先でうなじの毛をつまんでみる。
まだ時間がかかるのだろう。シゼがイーツェンを信頼し、彼らが自分の思いとまっすぐに向き合えるまで。
それまでは、こんなふうに日々を重ねていくしかないと思った。共に旅をし、食べ、眠り、言葉をかわして。そんなくり返しの中で、きっとシゼの中にも積み重なっていくものがある。その日々をひとつずつ大切にしようと思いながら、イーツェンは黙ってシゼの背を抱いた。
しばらくためらってから、シゼの腕がイーツェンをゆるく抱く。
いつか、辿りついた先でシゼがどういう答えを出すか。それはイーツェンにはわからないことだ。だがきっと、どこかに答えはある。答えの出る日がくる。きっと、いつか。