窓はないが、扉の隙間からわずかにさしこむ廊下の光で昼夜の区別はつく。だが一夜たっても、誰も彼らの様子を見には来なかった。
 まさかこのまま放っておくつもりかと不安と空腹にさいなまれはじめた頃、やっと扉がきしんで開いた。あふれるように流れこんできた光の方を見ようとしたが、闇に慣れたイーツェンの目はひどく痛んで、涙がにじんだ。
「奴隷から前へ出ろ。両手を垂らして」
 投げかけられた厳しい声は、昨日見たあの若い騎士のもののような気がするが、視界が白くぼやけて判然としない。イーツェンは立ち上がろうとしたが、床につこうとした手をシゼがつかんだ。
 イーツェンはその手を握り返す。無言のまま握りあった指にこめられた力にひとつうなずいて、その手をほどき、まっすぐに立った。
 言われた通りに前へ進むと、3歩行ったところでとまるよう鋭い指示がとんだ。そこで腕をつかまれて廊下へ出されたかと思うと、頭にすっぽりと布の袋をかぶせられる。視界が覆われ、いきなりのことに硬直していると、手首をまとめて前で縛られた。
 袋は土臭く、ごわごわとした麻地で、荒い織り目を透かしてわずかに外の様子が見える。後ろでシゼに同じことをしている様子が物音からうかがえて、イーツェンは気持ちが押しつぶされそうになった。細かいしきたりは知らないが、どう考えてもこれは罪人に対する扱いだった。
 ──ヴォルは、彼らを否定したのだろうか。
 それとも、あの手紙はヴォルまで届かなかったのだろうか。それは充分にありえた。
 縛られた腕をつかまれ、押し出すように歩かされる。階段につまずいたところを引き上げられ、こづかれながら進んだ。無言の命令に従わされ、まるで自分が完全な奴隷に戻った気がして、イーツェンは袋の下で歯をくいしばった。
 無力に引き立てられ、宿の裏手から外へ出る。空から照りつける陽はいつになく強く、あたりの地面が白く光って見えるのがどこか非現実的だった。そこを踏む自分の足は雲でも踏んでいるようにたよりない。浴びた陽の熱に全身があっというまに乾くような気がした。
「こっちだ」
 袋をかぶせられた頭をこづかれ、向きをかえさせられる。どこへつれていかれるのだろう。イーツェンの脳裏を、広場に立てられていた首くくりの処刑柱がかすめた。まさか、と思う。審問もなしで吊るされることはないだろう──そう思いながら、膝から力が抜けそうになる。のどかに見えるこの場所も、敵に向けて一致団結した、いわばジノンのための見えない要塞なのだ。正体をあやしまれた以上、何があってもおかしくはなかった。
 馬の足音が近づいてきた。キジムはちゃんと世話をしてもらっているだろうかとイーツェンは不安になって、それからロバの心配をしている自分が滑稽になる。己の身があやういのに。
 力のある腕でかかえられるように馬上へ押し上げられると、鞍の後ろに誰かがまたがり、イーツェンを腕に抱えこんで手綱を取った。
 馬はゆっくりと歩き出した。


 縛られた両手で鞍の前を掴もうとしたが、馬の1歩ごとに体が揺れて、視界のきかない体では均衡を保つのが難しい。今にも落馬してしまうのではないかと身を固くしていると、騎手の左腕がイーツェンの腰に回り、腰帯の前をつかんだ。
 おかげで少し体は安定したが、相変わらず馬の歩みにつれて頭がぐらぐらと前後に振られた。袋をかぶせられているせいで平衡感覚がおかしくなって、緊張と空腹で気持ちが悪い。シゼも同じようにつれてこられているのかどうか気になったが、振り向くことができなかった。
 宿屋の裏庭から、左右に壁がそびえる狭い通路を抜けて、馬は村の正面の広場にさしかかっていた。昨日通った広場だ。あのにぎやかな声がとびかう広場──そこにイーツェンの乗せられた馬が足を踏み入れた瞬間、そのすべてが幻聴だったかのように途絶えた。
 しんと水を打ったように静まり返る。沈黙がするどく胸に刺さるようで、心臓の中心から鳩尾までずきんと痛みがさしこんだ。覆われた視界でうかがうまでもなく、四方から人の視線が注がれる感覚に首すじの毛が総毛立った。見られている。
 体中の毛穴がひらいたようなひどい寒気がして、それなのに肌だけがほてって汗が滴りおちた。沈黙がみなぎった広場を、まるで見せしめのように運ばれている。肌を刺す視線はひどくひややかなものだった。
 イーツェンは息を吸いこもうとしたが、首の輪がくいこんでくるようで喉が苦しい。馬の一足ずつが脳天までひびく。
 ──何が悪い。
 ふいに、胸の奥からこみあげてくる激情があった。イーツェンやシゼが一体何をしただろう。ただ2人は、身をよせあうようにしてリグへの道を求めてきただけだった。
 怒りの火を自分の中にかきたてながら、イーツェンは馬上で背をのばした。打ちひしがれる理由などない。この仕打ちに甘んじるいわれなど何もなかった。怒りで自分を支えながら、ただ袋にふさがれた視界の中でひたすら前に視線を据えた。
 ぼんやりと見える広場が、ゆっくりと後ろに消えていく。どうやら村の出口へ向かっているらしいと眉ををしかめた時、ガランガランと手振りの鐘の音がいきなり鳴りひびき、男の声が叫んだ。
「追放!」
 その声を追うように女子供が一斉に同じ言葉を叫び出す。静かだった広場に、はじけるような無数の声があふれ出した。
「追放!」
「追放!」
 腕に当たるものがあった。一瞬気のせいかと思うほどの感触。だが次にまた何かが肩にあたり、かるい痛みがはしった。ぱらぱら、と小さな音がそれに続く。
 石を投げられている。イーツェンはそのことに強い衝撃を受けた。広場にいるのは、多くが女と子供だ。彼らが足元の石を拾ってイーツェンに投げつけているのだ。茫然としてから、強く息を吸いこんだ。これまでくぐりぬけてきたことにくらべれば、こんなことは何でもない。
 だが、ほんの小さな子供までもがイーツェンめがけて礫を投げようと腕を振る姿は、心にくいこむようなするどさを持っていた。


 村の門を出た馬は、畑の間を進んでいく。じりりと照る陽がひどく熱い。風を感じることができなかった。
 息を呑みこみ、イーツェンは熱がつまったような頭の中を整理しようとする。追放──ということは、この領地から追い出されることになるのだろう。命は無事だが、ふたたび足を踏み入れれば、きっと次はない。
 命もあり、自由にもなれる。そのことを幸運と思おうとしたが、イーツェンの心は暗澹としていた。ここまで来て、目の前で橋が落ちたかのようだ。ほかの道を探すにはあまりにも時間がない。見つかれば命を落とすことも覚悟の上で、夜道をたどって目指す館に向かうしかないだろうか。だが村の中を通る道は使えないし、道なき場所を一晩で踏破できる自信はない。
 どうすればいいのか、考えを集中しようとしたが、畑のそばの畦道に出た馬が予想外の早足で走り出した。イーツェンの体ががくがくと上下に揺さぶられる。後ろにいる騎手の左腕が腹に回されているので落ちるようなことはなかったが、体の均衡を保つのに必死で、もう考えをまとめる余裕などない。頭が前後に揺れ、しまいには倒れるように背後の乗り手に体がぶつかって、きつく抱えられていた。
 蒸気で形をととのえられた革の胸当てが背中を押す。ごつごつした痛みにイーツェンは身を離そうとしたが、引き戻されてがっしりとつかまえられた。
 ぱたぱたと顔に袋があたって、ひどく不快だ。自分で歩いて出ていくからおろせと言いたいが、余計な騒ぎをおこすのも怖くて口を結んだ。それにしても急いでいるようだ。もしかしたら、所領の入口ではなく遠い街道すじまで戻って解放されるのではないかと思い、気が滅入った。戻ってくることも難しいかもしれない。
 ひたすら揺れをこらえていると、刈株が点々と残る麦畑の角をぐるりと回りこんだ馬は、林檎の果樹園に走りこんで、ふいにとまった。
 頭から袋が取り除かれる。新鮮な空気を吸いこもうとイーツェンがあえいでいると、背後の騎手が「動かないように」と注意してから、イーツェンの手首のいましめを短剣で断ちほどいた。
 イーツェンは首をねじって後ろを振り向く。やはり後ろで手綱を握っているのは、昨日2度も顔をあわせたあの若い騎士で、彼らは2人だけだった。シゼの姿も、別の騎馬もない。勿論、キジムの姿も。
 問おうとした時、騎士が短剣を革鞘にしまって、イーツェンの肩にふれた。
「今からつれていく。なるべく身を伏せて」
 どこにという疑問と同時に、まさかという驚きがわきあがって、イーツェンは口ごもった。
「でも、シゼが──」
 言いかかった時にはもう馬は走り出していた。これまでとはくらべものにならない速度に、イーツェンは馬のたてがみをつかんでしがみつく。枝をひろげた林檎の木々の間を走り抜け、騎士はさらに速度を上げて丘陵を駆けくだり、道のない草地をよぎった。草は生えているがそのすぐ下は岩地のように固い地面で、ゴツゴツした衝撃にイーツェンは鞍から尻がはねあがって、数度ころげ落ちそうになったが、騎士は慣れた様子でイーツェンのシャツの背中をつかんで揺れを抑えた。
 回りこんだ丘陵の裏手は土手が崩れ、斜面の土が無残な傷のように剥き出しになっていた。その下を抜け、やがて森へと走りこむ。村からできるだけ離れた場所を通ろうとしているのだと、イーツェンにもわかってきた。
 森の浅い場所を走りながら、獣道にも似た木々の切れ目をたどり、やがて明らかな馬道に出た。
 シゼは、とイーツェンは道の途中で数度聞いたが、騎士は言葉少なに「後だ」と答えるだけだった。抑えつけるでもない、どこか困惑したような言い方に、イーツェンは問いつめる気をなくす。おそらくこの騎士は役目を言いつかっているだけで、それ以上のことはあまりわかっていないのだ。
 馬道をたどり、地面を水が浸す程度の小流れをいくつかこえて、何の前ぶれもなく目の前から森が消え、馬は陽の中へと走り出していた。世界がギラついて、その光の向こうから景色が押しせまってくる。
 イーツェンはめまいをこらえ、右後ろへちらりと視線をはしらせた。緑の生垣の向こうにひろがる田園と、赤っぽい屋根のより集まった村が遠く見えた。あれがさっきまでイーツェンのいた村の筈だ。田畑の間の畦道が、茶色い蜘蛛の巣のように見えていた。
 馬はそちらに背を向けて、低い石垣にはさまれた道を走っていく。石垣の上は土手になっていて、道はゆるやかに蛇行していた。
 じきに赤茶けた焼き瓦の屋根を持つ、2階建ての屋敷が見えてきた。くすんだ赤い丸瓦、焦げ茶の梁、先端に丸みをおびた雨よけをつけた煙突からは白い煙がたちのぼっている。煙はゆっくりと空に吸いこまれながら消えていた。
 ──この前この風景を見た時、空気は冷えきって息は白く、肌が痺れるほどだった。
 馬はひらかれた門をくぐる。門番の小屋の前を通ったが、誰も出てこなかった。そのまま前庭は横切らずに左に折れ、小川から敷地内へ引きこんでいる小さな水路の脇を走って、長い倉庫小屋の後ろを抜けた。薪や藁を貯蔵する板屋根の倉庫だ。
 館の裏まで回ってから、騎士はやっと馬をとめた。その位置からだと、家の裏手側についた煙突がよく見える。この昼間から炉に火をかけて何をしているのだろうと、イーツェンはぼんやり思った。
 馬からとびおりた騎士の手を借り、イーツェンが鞍から地面へおり立った時、裏口の扉がひらいた。
 背の高い男の姿が戸口からあらわれた。鷲鼻に張り出した額、口角が少し上がった厚めの唇。思った以上にその姿はなつかしく、イーツェンは息をとめて見つめた。この屋敷ですごした日々は──波乱を含んではいたが──静かで、くつろいだものだった。イーツェンがおだやかにすごせるよう、ヴォルが様々に心をくばり、彼をもてなしてくれていた。
 まさにそのヴォルがそこに立って、イーツェンを見つめていた。
 だがその顔にあの陽気な笑みはなく、イーツェンから数歩のところまで歩みよると、彼はひどくけわしい表情でイーツェンを凝視した。口をきびしく結び、頭をかるく後ろにそらし、灰色の目にははっきりとした怒りが見える。
(──そうか)
 冬の風が身の内を抜けたように、全身がすうっと冷えた。ジノンの居場所を知るすべもなく、じかに近づこうとするのも危険だと判断し、この館を目指そうと決めたのはイーツェンだ。ここにはヴォルがいる。イーツェンにとって、ジノンにつながるほとんど唯一の糸。誰かをたよるならば、ヴォルをおいてほかにはいないと思った。
 だがそうして立つヴォルに、イーツェンを歓迎する気配はない。
 当然、そうだろう。彼にとってイーツェンはわずかな期間だけ滞在した「主人の客」の1人、しかもすでに死んだと思っていた相手だ。今回のように名を出され、助けを求めてすがりつかれる筋合いなどない。たのみにされたことが迷惑なのだろうと、イーツェンはしんとした気持ちで考えた。
 仕方のないことだった。それでもこうしてイーツェンを呼びよせ、会ってくれただけで感謝しなければなるまい。会えさえすれば、糸口になる。うとまれようが軽んじられようが、それは重要ではない。
 ヴォルはじっとイーツェンを凝視しつづけている。見通そうとするような強い目を見つめ返し、イーツェンは心を決めて右手を拳に握った。引くことはできないのだ。
 その時、ふう、とヴォルがはっきり聞こえてくるほどに大きな溜息をつき、しみじみと首を振った。
「‥‥そんなお姿になられて‥‥」
「──いや」
 イーツェンは思わず口ごもりながら、自分の格好を見おろした。ヴォルの記憶にあるイーツェンは城で仕立てられた裏つきのやわらかな服をまとい、人に見た目であなどられないよう、よそおいにはそれなりの気を配っていた。それが今となっては首に奴隷の輪をはめられ、やせた体は旅のうちに陽に焼け、手足には道中でついた傷や痣、それに野営の時にくわれた虫の噛み痕があちこちに残っている。穴があき、埃に変色した粗末な古着をまとった格好はたしかにみすぼらしく、ヴォルにはいかにも落ちぶれた姿に見えたにちがいなかった。
「これも、そんなに悪くないよ」
 そう言うと、ヴォルは顔全体を歪めて、まるで子供のようなくしゃくしゃの笑顔を見せた。あけっぴろげに笑いかけられて、イーツェンは茫然とした心持ちでヴォルを見つめる。
 怒っていたのではない──少なくとも、ヴォルが怒っているのはイーツェンに対してではなかったのだ。まざまざと目にしたイーツェンの姿の変化に、彼は険しい顔をしていたのだった。
 ヴォルが胸元に右手をあて、信仰の印を切る。
「よく、ご無事で。あなたには神々のご加護がある、イーツェン」
 信じられないと言わんばかりの驚きと、まぎれもない思いやりにあふれた声だった。そのひびきがイーツェンの胸をつかむ。ヴォルの態度を誤解した自分自身がきまり悪くなって、痒くなった首すじをすくめた。
「私をここまでつれてくるために、シゼが骨折ってくれたんだ」
 言いながら背後をちらっとうかがったのに気付いたか、ヴォルが微笑した。イーツェンをつれてきた騎士はもう馬を引いて建物の影へ遠ざかっていくところだった。
「お連れの方は、少し時間をおいて正面から入っていただきます。申し訳ありませんが、素性を隠していただかねばなりません」
「ヴォル、私は──」
「今は何も言わないで下さい」
 ジノンが信頼をよせる召使はやわらかに言葉をさえぎり、イーツェンのやせた肩にそっとふれた。
「少しの間だけ、私のお客様としてこちらにご滞在下さい」
 私の、と言うところに力がこもっていた。ジノンの名を出すな、というそれはやさしい警告だ。その名が出ないうちはイーツェンをヴォルの「客」として自分の裁量のうちでもてなすことができるが、ジノンの話になればそうはいかないと。
「‥‥でも、時間がないんだ」
「せめて一夜。お断わりにはなれませんよ」
 白い歯を見せてにっと笑い、ヴォルはイーツェンの肩にのせた手をかるく押して裏口から入るよううながす。その手はやさしく、誠意に満ちて、信頼できそうに思える。イーツェンはだが、足を動かすことができなかった。
 ──信じられるだろうか。
 ヴォルのこの手を、あたたかい言葉をたよっていいのだろうか。この表情の裏に、声の裏に、何かありはしないかとイーツェンは思わずヴォルの顔を見つめる。
 ヴォルはイーツェンの顔を見つめ返し、頬を持ち上げるようにニヤッとした。
「とにかく、今夜。風呂と、食事と、寝床をお使い下さい。お客様として以上のことは何もいたしません。神々と、私の母の名においてあなたがたの無事を誓います」
「ごめん」
 自分の中にある疑いを見透されたイーツェンは顔を赤らめたが、ヴォルはからからと豪放に笑いとばした。
「なりはそんなですが、中味にはすっかり骨がついたようで。──失礼」
 からかうように軽口を叩いて、おざなりにあやまる。はじめて会った時もジノンに同じような口をきいていたことを思い出して、イーツェンは知らず微笑していた。2人が交わす軽い会話に、イーツェンは彼らをつなぐ信頼を感じたのだった。ジノンが誰かを信頼しているところなどほかに見たことがない。その結びつきこそ、イーツェンがここまでたのみにしてきたものだ。
「わかった。お礼に煙突の掃除をするよ」
「それは楽しみですね」
 笑いあって、ヴォルは使用人の出入口からイーツェンを招く。輪つきの奴隷などを正面から入れては、いかにも人の疑念を呼ぶだろう。気くばりは相変わらずだった。
 肩にのせられた手の重みを感じながら、彼を疑いはすまいとイーツェンは決める。せめて一夜、明日までは。旅の荷を1度ここにおろし、明日また行く先のことを考えよう。


 何が何でもまずは風呂に入れ、とヴォルがひどく強硬に言いつのったのが、イーツェンにはおかしくて仕方なかった。それほどに自分が薄汚れて見えるのかと思うと、それはそれで旅の成果のような気がして、奇妙なことにどこか爽快でもある。
 すでに風呂の用意がされていた手回しのよさに舌を巻きつつ、ヴォルの心づかいに感謝した。
 屋敷の1階には湯を使う専用の部屋があって、浅めの石の湯船が据えられている。ぬるい湯には一束の香草が入れられていて、イーツェンは涼しい香りのする湯で丁寧に体を洗った。
 機会があれば旅の途中で水浴びはしていたが、こうして風呂と言えるものを使ったのはいつだっただろう──と思って、ふとなつかしさに胸がつまる。ルディスの城館で。シゼが、弱りきったイーツェンを背負って階下にはこび、風呂に入れたのだった。
 あの時のやさしい、まるで壊れものにふれるような指を思い出しながら、イーツェンは目の粗い麻布でゆっくりと肩を拭う。シゼの手を借りなくては浅い湯船をまたぐことさえできないほど弱っていた体は、今では不恰好ながらも木剣を振れるほどになった。
 湯を滴らせながら右腕を目の前に持ち上げてみて、イーツェンは自分の変化をじっくりと眺めた。まだ痩せてはいるが、旅の間歩きつづけたおかげで、手足から折れそうな脆さはなくなって、少しではあるが筋肉がついてきているように思えた。一時期は爪もしなびて黄変し、指に埋もれそうにちぢこまっていたが、新しくのびてきた爪には波打ちもなく、色もそう悪くはなかった。自分でそうやって眺めてみても、もう病人のような体ではないと思う。
 背中の痛みを意識することも減った。相変わらず、疲労すると傷の内側が引き攣れるような疼痛にうずいたが、エナの施術を受ける以前にイーツェンを苦しめた、痛みに殺されるのではないかと恐怖するような激痛は消えた。
 湯に腕を沈める。腕にまとわりついたこまかな気泡を拭い、指先でぱしゃんと湯面を叩いて、イーツェンは微笑した。人の手を借りず、1人で風呂に入れるようになった、そんなことを喜んでいる自分が少しおかしい。それでもあの日のイーツェンは、いつか治ることがあるなどと希望を持つことはできなかった。ただ自分にふれるシゼの手が夢のようで、今にも自分も世界も粉々に砕けていきそうで──そんなふうに心がすくみ上がっていたことを、ぼんやり覚えている。
 ──シゼはあの時、どういう気持ちでいたのだろう。
 濡れた髪から頬に滴ってくる水を拭い、イーツェンはそんなことを思った。イーツェンは己のことだけで一杯だったが、シゼはあの時一体どんな思いでイーツェンを風呂に入れ、肌を洗ったのだろう。慰めひとつ口にしなかったが、頬をなで、髪を洗った彼の手はやさしかった。
 額から頬をつたった滴が唇にふれて、イーツェンは指の背で拭いながら目をほそめた。昨日のくちづけの感触がかすめるようによみがえって、湯がなでる肌にさざ波のような感覚がはしった。
 シゼに会いたいな、と思う。離されてそれほど時間がたっていないのに、もう何かが足りないような気がして、あの声が聞きたくて仕方がなかった。


 ヴォルがイーツェンに用意した服は、膝下丈の麻のズボンとやわらかい亜麻布のシャツだった。飾り気はほとんどないが、白い貝釦が胸元についている。
 イーツェンはありがたくその服に手を通した。どうやら領民への下げ渡しのために余り布で作られた服のようで、少し大きいが、布の帯で腰の上をゆるく結んで形をとりつくろった。回復してきたと言っても、やはりまだ、イーツェンの体は子供のようにやせている。
 ヴォルがイーツェンをつれて行ったのは本館と廊下でつながった、召使用の別棟だった。本館の客室はジノンの客のためのもので勝手には使えないし、そんなところでもてなされても、目立ちすぎる。
「収穫期なので、屋敷内にはほとんど人を残していませんでね。静かにおすごし頂けますよ」
 そう言われて見せられた部屋は、召使棟の中でもはじの、普段は使われていない部屋のようだった。急ごしらえなのだろう、寝台がわりの大きな寝椅子が運びこまれた部屋に入り、イーツェンはヴォルに頭を下げた。
「手間をとらせてすまない。ありがとう」
「少しここでお休みを。お連れももうすぐですよ」
 大きな口でにいっと笑い、ヴォルは後ろをついてきていた少年に合図をした。少年は目を伏せたまま、手にしている水差しと錫の脚付杯を小さな円卓に置く。年はまだ12、3歳か、小柄だが、すんなりとした手足に、大きく成長しそうなのびやかさがある少年だった。
 ヴォルは戸口まで下がった少年を示す。
「御用がありましたら、このノイシュがおりますので、何でもお申しつけ下さい。まだ年若ですが、お役に立ちます」
 ヴォルがそう保証するからには、口も固いのだろう。イーツェンが「よろしく」と声をかけると少年は腰をかがめて身ごなしのきれいな礼をし、ヴォルの目配せを受けて去っていった。ヴォルは少しの間、やさしい目でその背中を見送っていたが、イーツェンが自分を見ていることに気付くと唇のはじを持ち上げた。
「13です。私がこの屋敷に来たのもその頃でしたよ」
「そうなんだ」
 イーツェンはうなずく。その時からのジノンとの関りかと、問いが喉元までのぼったが、ジノンの名を出すのは早いと思いとどまった。問いを呑みこんだイーツェンへ、ヴォルがたずねる。
「背中のお具合はいかがですか?」
「随分といい」
「それはよかった。私も子供の頃、鞭打ちを受けたことがありましてね」
 やわらかい口調で言いながら、腕にかけていた大きな亜麻布を背もたれのない寝椅子の上へひろげ、敷布をととのえた。
「あなたがご無事で、本当によかった、イーツェン」
 心のこめられた言葉に、イーツェンは返事が見つからなかった。どれほど多くの人々の助けがあってここまでたどりつけたのか。自分1人ではとてもここまでは歩いてこれなかった。そして今も、ヴォルにこうして助けられている。
「ヴォル。‥‥ありがとう」
 何と言っていいかわからないまま、そう頭を下げた。
 立ち去りかけていたヴォルは足をとめ、くすぐったそうな笑みをイーツェンへ向けた。
「いいえ。ですがイーツェン、私はこれ以上、あなたの力にはなれないかもしれない」
「うん。わかっている。明日、話だけでも聞いてくれるか?」
 あくまでヴォルはジノンの側の人間だ。そのことはイーツェンもよくわかっていた。もしジノンの利にならないと判断すれば、ヴォルが今の彼とはまるでちがう、冷徹な顔を見せるであろうことも。
 ヴォルはイーツェンをまっすぐに見つめ、うなずいた。
「今は休息なさって下さい。後で食事をお持ちします」
「シゼがついたら、ここへ」
 言わずもがなだとわかっていたが、つい早口に口走ったイーツェンへヴォルはからかうような視線を投げ、姿を消した。
 イーツェンは寝椅子へ座りこみ、清潔な布の張りのある肌ざわりを心地よく感じながら、錫の杯を手に取る。指がふれた瞬間、杯が冷えていることに驚いた。流水で冷やしていてくれたのだろうか。
 中に入っていたのは、蜂蜜で甘く味をつけた乳粥だった。漉されているので口あたりはさらりとして、飲みやすい。涼やかな甘みが疲れた体に沁み入ってくるようで、イーツェンはたちまち杯を空にした。
 杯を置き、まだ湿っている髪を首の後ろでまとめ直して、開け放たれた窓を眺めた。窓は水路を引きこんだ小さな作業場に面していて、すぐ目の前にはまだ背の低いハシバミの木が、丸っこい葉を茂らせていた。枝の向こうでは、吊るされた洗濯物がゆるやかに揺れている。
 秋だと言うのに、室内に吹きこんでくる風は肌を押すような暑さをはらんでいた。扉に煉瓦をひとつはさんであり、風は部屋の中を通りぬけていく。それでも肌は少し汗ばんで、本当なら外にいた方が快適なのだが、うろつくのは避けた方がいいだろう。イーツェンは天井を見上げて、息を大きく吐き出した。
 ヴォルが貸してくれたやわらかな部屋用サンダルをはいた足を前に投げ出して、しばらくぼんやりしていたが、少し邪魔になってきたサンダルを脱ぐ。
 ──明日、か。
 明日、ヴォルにどういうふうに話をしたものかと、イーツェンは天井の染みを眺めて考えこみながら、次第にヴォルその人のことを考えていた。忠実な召使。ジノンが荘園と館の管理までもまかせ、信頼する男。時に友人よりも、ジノンに近しく見える。ヴォルの忠誠もまっすぐにジノンへ向けられているように思えた。
 どこか、シゼに通じる頑固さを内に持っている気がする。だからだろうか、イーツェンがヴォルは信頼できると、ほとんどはじめて会った時に感じたのは。
 ──だが、過信はできない。
 イーツェンは、冷静に自分の立場を値踏みする。あてにはするなと、ヴォルは釘を刺した。彼の好意に甘えられるのは今だけだ。明日になって、イーツェンがジノンの邪魔になると思えばヴォルは手の平を返す。
 彼は手段を選ぶまい。シゼがイーツェンを守るために方法を選ばず、多くを捨ててきたように。
 ざわざわと、窓の外でハシバミの葉がさわいだ。イーツェンは風に淡い裏葉を返す木を眺め、頬に落ちる髪を払った。指先に湿り気がうつる。その感触にどうしてかまた溜息がこぼれた。シゼに相談したいことが山のようにあった。
 丘向こうの鐘の音が、風にのって遠い囁きのように聞こえている。その音に耳をすませながら、イーツェンはいつしか足音ばかりを探していた。