歩きついた村は何だか慌しく、村に入ってすぐの広場では女たちが大きな桶の中に立ち、赤く染まった素足でびしゃびしゃと音をたてながら何かを踏みつぶしていた。スカートをからげて結び、泣きわめく赤ん坊を背負ってあやしながら、全員で拍子を取って歌を歌っている。
 耳に迫ってくるようなにぎわいと、女たちの足の赤さに呆気にとられたイーツェンは、漂ってくる匂いで、彼女たちが葡萄を踏んでいるのだと気付いた。ワインの仕込みだ。
 桶のそばでは子供たちが、積み上げた藁から器用に大きな袋を編んだり、泥だらけの芋をひねくって虫がついていないことを確認してから、その袋につめこんだりしていた。あれこれと道具を持って駆け回っている子供たちもいる。少し離れたところでは、やはり仕込み用か、樽職人が木槌の音をたてながら大樽を組み上げていた。
 道が広場にぶつかるところに、目印のように腰高の杭が打たれていた。馬をつないだりもするのだろうが、どうしてか杭の足元に小石が山積みにされている。何かのまじないかと不思議に思いながら、イーツェンは杭の間を通って広場に足を踏み入れた。
 広場の中央にある柱の前で、役人らしい男が手にした鐘を鳴らしながら何かをがなっていた。女たちの歌や子供の笑い声、木槌の音に混じって負けじと大声をはりあげているが、ちょっと分が悪い。畑を何区画持つ者はどれだけ、牛を何頭持つ者はどれだけ、とつらつら続けている内容は、どうやら租税の布告に聞こえた。
 あらかじめ内容はわかっているのか、広場にあふれそうな女と子供たちは、汗を拭いながら声をはり上げる男に目も向けない。イーツェンは少し気の毒になって公告人を眺めた。男もあの騎士たちと同じ、ジノンの紋章が入った青い布を左の肩から斜めにかけている。服はもう埃っぽく、よれよれで、あたり一帯を駆けずり回っている様子だった。
 彼が背にした高い柱には斜めの桟がついた横木が打ちつけてあって、それは砦で死者の骸を吊っていたのと同じ柱に見えた。きっとこの広場で罪人を吊るすこともあるのだろう。まるで他所者を威嚇するかのように、風雨で黒ずんだ柱からイーツェンはそっと目をそらした。
 広場に男たちの姿は少なかった。農作業に出ているか、兵として出ているか。だが女子供の生命力にあふれたにぎやかさに圧倒されながら、イーツェンはキジムを引いて広場を抜けた。他所者に向けてちらちらと村人の視線が刺さるのを感じつつ、広場のすぐ向かいにある、2階建の建物へ向かう。
 村の建物のほとんどが平屋なので、2階建というだけで目立つのだが、その建物の軒先には血の染みた木の盾が吊り下げてあった。盾からは2本の鹿の角が生えている。
 鹿の盾を目印に宿屋へ行け、とあの騎士は言った。ここが目当ての宿にちがいない。
 シゼが近づくと、その気配を察したように少女が1階の入口からとび出してきた。ニコッと白い歯を見せて笑い、イーツェンの手からキジムの手綱を奪い取るように取って厩へ引いていく。2人に用件を聞きもしなかった。もう話が回っているのだろうか。
 どうしようかと迷ったイーツェンへ、シゼがついていくよう顎をしゃくった。主人らしい仕種も大分板についてきたものだ。イーツェンは微笑を隠して一礼し、少女とキジムを追って、宿の横にある草葺き屋根の馬小屋へ入った。横木にはすでに馬が2頭つながれているが、少女は手早くロバを逆の壁に寄せ、杭の金輪に手綱をつないだ。
 イーツェンは地面に散らばった藁の綺麗なところを拾い、キジムの毛並みを藁でごしごしと擦った。少女がさっさと荷をおろしはじめているのにとまどって、声をかける。
「それは、まだ‥‥」
 この宿に泊まると決めたわけではなく、食糧の手配や細かな道を聞くために立ち寄っただけの筈だ。
 まだ12、3だろう少女は、荷をくくってある革帯の留め金を手早く外すと、意外な力で荷を丸ごとやせた肩に担ぎ上げた。丸っこい目でイーツェンを見る。後頭部で髪を結んでいて、大きな房に編んだ髪がこめかみから両方の頬に垂れていた。
「今日はもう、この村の先に宿はないよ。野営は禁じられてる」
「禁じられてる?」
 奴隷としては問い返してはいけないのかなと思ったが、驚いたイーツェンはほとんど問いただすように聞いていた。少女はイーツェンの作法などどうでもいい様子でうなずく。
 こうした村で奴隷がどう扱われているのか──そもそも、いるのかどうか──イーツェンにはよくわからないので、どういう態度がふさわしいのか見当もつかないまま、とりあえず口調だけ丁寧にたずねてみた。
「何故ですか?」
「ご領主の命令。森番役のいないところで森に入っちゃ駄目だよ。子供だって、クルミ拾いも係の大人と行かないと怒られるんだから。とにかくあたりはうろつかない方がいいねえ」
 言い方はさりげなかったが、他所者に対してのはっきりとした警告に聞こえた。実際、警告なのだろう。
 少女は宿の表側には戻らず、建物の間を通って裏に回り、裏口の扉から宿に入った。厨房の横を通る狭い廊下は二手に分かれていて、まっすぐ行けば宿の正面に出る。こういう宿は大抵、1階正面は大きな部屋になっていて、食堂や居酒屋を兼ねているものだ。やはりそちらから複数の話し声がして、イーツェンは聞き耳をたてたが内容まではよく聞こえなかった。
 廊下を左に折れ、少女は狭い階段をのぼった。食堂の方も気にしつつ、イーツェンもきしむ階段をのぼり、少女が選んだ奥の部屋へ入る。シゼがイーツェンをついて行かせたのは荷物から目を離すなという意味だ。彼女を格別に疑っているわけではなかったが、今は自分たち以外の誰も信じられなかった。
 狭い部屋は壁の漆喰がはがれ落ち、壁土がところどころ剥き出しになっている。だが部屋の半分あまりを占める木枠の寝台にかかった布は清潔で、床も丁寧に掃かれていた。少女はその床にどさりと荷をおろすと、壁の燭台受けをさした。今は空だ。
「灯りがほしいなら、下で。今ならうちのは蜜蝋の蝋燭だよ」
 言い方が誇らしげなのが、何ともほほえましかった。蜂の巣箱を回収して、蝋燭もつくったのだろう。もしかしたら彼女の仕事だったのかもしれない。
 食事や敷布についての値段の説明をしてから少女が去ると、イーツェンはいつのまにか緊張で固くなっていた肩から力を抜き、寝台に座りこんだ。尻が藁布団に少し沈んで驚き、思わずそんな自分に笑ってしまう。ずっと地面や固い床でばかり眠っていて、寝台の感触をすっかり忘れていた。こんな安寝台でさえ。
 今日は、この宿でゆっくり眠れるのだろうか。一晩の休息をとれるなら、ここにとどめられるのも悪くない気がした。
 
 
 寝台に横たわって手足をのばしてみる。全身の力がぼんやりと抜けて、うっかり眠りこみそうになった。靴紐をゆるめたらきっと眠ってしまうだろう。
 しばらく天井を見上げてぼうっとしていたが、やがてイーツェンは身を起こした。シゼが一向に姿を見せない。下まで様子を見に行った方がいいのかどうか迷った。宿の1階は大抵が食堂と酒場を兼ねていて、人や噂話が集まるものだ。もしシゼが情報収拾のために誰かと酒でも飲んでいるなら、イーツェンが邪魔しに行くのはまずい。
 考えながら待っていたがシゼはあらわれず、イーツェンは床の隅にある水桶を拾うと、いかにも水をもらいに行く様子をつくって部屋を出た。すぐ戻れば、荷の心配もあるまい。
 扉をしめ、実のついた小麦の束が小さな輪に編まれて扉にかかっているのに気付いた。豊穣の願いのための飾りだ。リグでもよく、木で作った動物の彫物を暖炉に飾ったと思い出しながら指先でふれ、イーツェンは神々への収穫の礼を口の中で呟いた。
 きしむ階段を踏み外さないよう注意しながら下まで降りた時、いきなり足音がひびいた。分厚い刃の短剣を右手にさげた男が荒々しい足取りであらわれ、イーツェンは思わず身をすくませた。
 上背のある男は、騎士ではないが農夫の格好でもなかった。袖を肩口までまくりあげた麻のシャツ、膝丈のズボンにやたらと大きく固そうな革靴。短剣を握る手も大きく、刃の厚い短剣がまるで子供のおもちゃのように見えた。まるで行く手をふさぐように階段の下に立っているだけで、威圧されそうになる。
 イーツェンは最後の段に立ちすくんでいたが、気をとりなおすと、桶をかかえたまま一礼した。だが男は道をあけずに立ちふさがったまま、イーツェンを上から下までじろりと見回した。
「逃亡奴隷か?」
 いきなりきつい口調で問いただされ、全身の毛がぞわりと逆立った。何を見抜かれたのだろう。だが、男の目が首の輪ではなく桶をかかえた手首を見ていることに気付き、イーツェンは唾を呑みこんで答えた。
「これは‥‥ちがいます」
 まだ手首に残る火傷の痕を、縄か手枷の痕とまちがわれたのだろう。じろじろ見られている手がむず痒くなって、引っこめたかったが、桶を持っていてはそれもできない。
「あの男がお前の主人か?」
 問いつめるような声は刺々しく、イーツェンは落ちつかない目で食堂の方を見た。そちらから聞こえてくる話し声は言葉の内容が聞き取れないものばかりだが、そのほとんどが鋭いひびきを帯びていることに胸が波立つ。シゼに何かあったのだろうか。
「主人に、何かございましたか」
 非礼を承知で反問しながら、なるべく従順に見えるよう腰をかがめ、首をうなだれる。奴隷の物腰を演じながら、動悸を沈めようとした。
「輪つきの奴隷をつれて、チェガの村にある妹の家をたよりに行くと言ってたが」
「その通りでございます」
 上から抑えつけるような言い方に、背すじがじっとりと痺れる。
「チェガから嫁いできた者に聞いたが、チェガには、奴が口にしたような名の女がいる家はない」
「‥‥それは」
 するどく息を呑んで、イーツェンは立ちすくんだ。宿長に妹の名を問われて、シゼは出鱈目な女の名を言ったにちがいなかった。
 ほとんど同時に、自分自身の失敗を悟る。あくまでただの誤解だと、自分は何もわからないと言い張らねばならなかったのだ。男の目はイーツェンの動揺を厳しく見さだめていた。
 守るように桶をかかえこんだイーツェンの腕を、男が強引な力でつかむ。
「何か知っているな」
「主人に会わせていただけませんか」
「駄目だ」
 一言で切って捨てられた、その冷たい言い方がシゼの身に何かあったことを示していた。イーツェンのは男に体をぶつけるように最後の段をとびおり、腕をふりほどいて食堂の方へ走って行こうとする。男が両腕でイーツェンを背後からかかえこんだ。その右手に握られている短剣から体をできるだけ離そうとイーツェンはもがき、床に落ちた桶がはねた。壁にあたってガラガラと音をたてながら転がっていく。
「お願いですから、主人と話を──」
「あの男は押しこめた」
 その声は、イーツェンが行こうとしていた方、すなわち宿の食堂の方からした。
 イーツェンは顔を上げ、簡素な革鎧をまとった騎士の姿を見た。剣帯に、紋章が縫いとられた青い小さな布をつけている。兜がなく茶色の髪が乱れて額にかかっているので一瞬わからなかったが、昼間に彼らと行きあった2人の騎士の片方だった。彼が先回りしていたのだろう。
「これから尋問する。お前も知っていることは残らず吐いた方が身のためだ。どこの奴隷だ? あの男は何者だ? 誰の手の者だ」
 容赦のない声でつづけざまに問われて、イーツェンは騎士をにらみつけた。
「古き神々に誓って、私たちは誰の間者でもない!」
 だが彼の前後をはさむ男のどちらもその訴えに反応を見せず、イーツェンをつめたい目で見ていた。彼らにしてみれば、目的を偽ってジノンの所領に入りこもうとしたあやしげな2人組だ。言い訳じみた言葉には耳を貸さないだろう。敵の間者だと見なされれば、苛烈な報復が待っているにちがいなかった。
 ──あと少し。ここまで来て。
 ほとばしるようなくやしさが身を熱くして、イーツェンは歯を噛んだ。熱をもった背中の傷が、早い鼓動にあわせてうずく。
 この村は、そしてこの宿は、やはりそういう役割を帯びていたのだ。領内を通りゆく者の身分と目的をあらため、不審ならばここにとどめおいて調べる。イーツェンとシゼは、仕掛けられた網にまっすぐ追いこまれたようなものだった。
「その言葉づかい。貴様、奴隷ではないな?」
 騎士の手がイーツェンの髪をつかんで、顔を上にねじ曲げさせる。痛みと、反射的な恐怖にイーツェンの全身が引き攣った。
「首の輪までして、なりすまして何をたくらんでいた。答えろ」
 どう言えばいいのか、どうすればいいのか。イーツェンは荒々しい力に頭をゆさぶられて喘ぐ。奴隷だと言いきれば、もはや自分の言葉に重きを持ってもらえないかもしれない。だが身分を明かすことなど絶対にできるわけがないし、信じてもらえるとも思えなかった。
 真実は言えない。だが嘘で切り抜けることのできる状況ではなかった。
「‥‥紙、と」
 イーツェンは乾ききった喉から言葉を押し出した。かぼそい声を聞こうと、騎士が口元に頭を傾け、イーツェンは震えをおびた声で言い直す。
「紙と、ペンを貸していただけませんか」
 騎士がくいいるようにイーツェンの目をのぞきこんだ。
「何のためだ」
「私どもは、お館のヴォル様にお届け物があって参ったのです。ですから、まずはあの方の裁定を仰いでいただきたい」
 ヴォルの名に反応があるかどうか見ようとしたが、騎士の灰色の目はまたたきもしなかった。何も読めない。失敗しただろうか。知らない名なのだろうか。
 一瞬ジノンの名を持ち出そうかと思い、すんでのところで思いとどまった。イーツェンの言っていることが苦しまぎれのでたらめだと思われれば、事態が悪くなるだけだ。奴隷と剣士。あやしげな旅人がジノンの名にすがろうとしたところで、何の信憑性もない。そしてイーツェンは、ジノンやヴォルとのつながりを裏付ける何をも持たない。
 輪がくいこむ喉に息を吸いこみ、イーツェンはまっすぐに騎士を見つめ返した。憐れむような、蔑むようなまなざしを返されて、かっと全身が熱くなる。
 2人がどんな思いでここまでたどりついたのか、それは目の前の男たちには何の意味もない。彼らの目にうつる2人は、ただの不審な他所者でしかないのだ。
 それは仕方のないことだったが、やりきれない怒りが心にあふれ出し、思わずするどい言葉を投げつけていた。
「とても大切な話です。ここであからさまにするわけにはいかない。あの方にせめて一言なりと伝えて、それから尋問でも何でも好きになさればいい。それすら許されないと? そうする権限がおありですか」
 挑むような口調が奴隷にふさわしいものではないのはわかっていたが、イーツェンは一気にまくしたて、吐き捨てた。腹立たしい。何もかもがただどうしようもなく腹立たしかった。
 騎士は目をついっとすがめてイーツェンの顔を眺めていた。イーツェンを抱えこんだままの男が、あきれた声を出す。
「こいつ、イカれてる」
 ちらりとそちらを見てから、騎士はイーツェンの髪をつかんだ手をゆるめた。
「字は書けるのか」
 口をひらけばまた強い言葉をぶつけてしまいそうだった。イーツェンは無言で、かすかにうなずく。真正面から見つめた騎士が、思っていたより若いことにやっと気づいた。25歳と言ったところか。シゼやレンギと同年代に見える。
「どこの国の生まれだ」
 その問いには唇を結んだ。答えられないし、答えたところでリグの名がこの男たちに何かの意味を持つとは思えない。
 騎士の左手がイーツェンの首すじにのび、輪をつかんだ。イーツェンは息をつめ、知らない男の手が輪をなで回すように確認する間、背中にはしる寒気をこらえる。この間もシゼはどうしているのだろう。何かされてはいないだろうか。
 恐怖と焦燥にこみあげてくる吐き気を喉の奥に押さえつけながら、目の前の男が答えを出すのをただ待った。


 重い音をたてて背後の扉がしまると、いきなり夜になったような暗がりにつつまれて、イーツェンは立ちつくした。押しこまれたのが一瞬のことで、部屋の中の様子をかいま見る隙もなかった。
「シゼ?」
 とりあえず、呼んでみる。距離はよくとれないまま、右手の方から聞き慣れた声の返事があった。
「こっちです」
 その声は平坦で、いつも通りのシゼの声に聞こえた。ほっとしたイーツェンは両手をふらふらとひろげ、何かにあたらないようにしながら、おぼつかない足取りで歩き出す。
 扉の隙間からほんのわずかな廊下の光が入ってくるだけで、この部屋には窓がない。人を押しこめるために幾度も使われているのか、埃っぽく黴くさい木の匂いの奥に汗のような生臭い気配がうっすらと漂っていて、イーツェンは全身がぞわりとする。もっと濃密ではあったが、ユクィルスの地下牢もこんな臭いがしていた。イーツェンの体にこびりついた腐臭を洗いおとすのに、ソウキは長い間苦心していた。
 3歩ほどであっというまに漆喰の壁に手がつきあたり、皿のようなものに蹴つまずいてけたたましい音をたてた。思ったより近くで、シゼが「こっちです」と呼ぶ。
「お前、動けないのか? 怪我してるのか?」
「縛られているだけです」
 その言葉に、安堵よりもムッとした不快感がこみあげてきて、イーツェンは壁に右手を添わせながらシゼの声の方へと大股で踏み出し、今度はシゼに蹴つまずいた。
「御免」
 あやまりながら膝をついてしゃがみこみ、シゼの体をせわしなくさぐって、細い縄でいましめられた両手にふれる。結び目は見つけ出したものの、固く縛りあわされた麻縄をほどくことができずに苛々と指先を動かしていると、シゼが囁くような声で言った。
「あなたは逃げられますよ」
「何の話だ」
 麻をよりあわせた縄は太くはないが、それだけに結び目がきつく締まっている。切る刃物など当然持ち合わせてないし、シゼの剣も取り上げられただろう。爪をたててどうにか結びをゆるめようとあがきながら、イーツェンは闇の中で顔をしかめた。部屋の外まで声が聞こえるかどうかはわからないが、2人ともに会話は小声だ。
「主人を失った奴隷だと言って、領主に助けを求めるんです。ここの領主は──」
「建前はジノンだな。でも、ジノンがわざわざ奴隷の処遇を自分ですると思うか? 普通の奴隷扱いをされてきっと次の市に出されるだけだよ、シゼ。名乗るわけにもいかないし」
「それでも、このまま疑われていては身動きが取れない。私があなたをさらってきたことにすれば、あなたに害は及ばない」
「それでお前はどうなる。嘘をついてまで村に入ろうとした理由をどう説明する?」
「どうにかしますよ」
「それなら今するか、少し黙ってろ」
 爪先が結び目にかかったように思って、指を引いたが、パチンと爪がはじかれてしまう。集中したいのにやたらと話しかけられては気を散らされ、イーツェンは闇の中で苛々とシゼに当たったが、シゼは黙らなかった。
「とにかく自由になれば、あなたには打つ手がある。逃げることもできるし、きっと助け手が見つかる。私は兵士だから疑われるのも仕方ないが、あなたの背中の傷を見れば誰もあなたが奴隷でないとは思わない。彼らもあなたをこれ以上傷つけはしない」
「お前を置いていくと思うのか?」
 呆れた声を出しながら、イーツェンはシゼの肘を曲げて後ろ手の手首を上げさせ、固められた土の床に膝をついてかがみこんだ。結び目に歯をたてて、麻縄をほどこうとする。
「あなたには時間がない、イーツェン」
「やかましい」
 もごもごと口の中で呟いて、枯れ草のような匂いのする縄を歯で引いた。塊のようだった結び目が少しゆるんだ気がして、もう1度歯をたてる。シゼはまだ何か言っていた。
「間者の疑いを1度かけられたら、長引くものなんです。荷物を調べられれば、私がユクィルスの王の城で働いていたこともすぐ知られる。尚更、疑われる。あなたを巻きこむわけにはいかない」
 シゼの荷の中には、城からもらった身分を証明する書類が隠してしまいこまれている。城の裏付けがいつ役立つかわからないので取っておいたのだが、確かにあれを見られてしまうと、城の後ろ盾を持つ者として勘ぐりを受けるかもしれない。
 歯のあたっている綱がゆるんだ気がして、イーツェンは口を離し、爪で結び目を引いた。しばらくの抵抗の後、ずるりと綱が抜けてくる。ほっとして短い笑いをこぼし、力を入れすぎて痛みはじめた爪で結び目をほどいた。シゼの手首にくいついていた麻縄を取る。
 シゼは手をさすって、どうやら自分で足のいましめに取りかかったらしい。暗がりに目が慣れてきて、薄ぼんやりとシゼの動きの輪郭が浮かんできていた。イーツェンはシゼの横に座りこみながら、埃っぽい味が残る口元を拭う。
「シゼ。とにかく、待とう」
「尋問を受けるのをですか。彼らはどうせ耳を貸さないし、あなたは身分を明かすわけにはいかない。今のままではどうにもならない、イーツェン」
「話を聞け」
 苛立った声をぴしゃりと一蹴して、イーツェンは手をのばし、シゼの後ろ髪をかるく引っぱった。心配しているのだろうが、それにしてもいつになくうるさい。1人で縛られて暗闇に押しこめられ、ずっとイーツェンのことを案じつづけていたのだろうと思うと、切ないような気持ちがこみあげてきたが、それにしても困ったものだ。
 髪を指の間でもてあそびながら、イーツェンはこっそりと微笑した。
「話を聞け」
 やわらかい声で、くり返す。シゼは足の縄をほどきながら黙っていた。イーツェンはシゼの髪をなでて、続けた。
「手紙を書いた。館のヴォルに届けてくれるよう、彼らにたのんである。ヴォルが私たちの身分の保証をしてくれれば、助かる」
「‥‥イーツェン」
「賭けなのはわかっている。たのむから、何も言わないでくれ。もう書いちゃったんだ」
 そう言って、イーツェンは笑おうとしたが語尾がたよりなく揺らぎ、思わず苦笑した。情けないと言うより、そんな自分が何だかばかばかしい。虚勢では足りないほどに怯えている。自分が正しかったのかどうか、自信がない。
「ほかに、手を見つけられなかった」
「信用できる相手ですか?」
「どうだろう‥‥彼は私の味方じゃなくて、ジノンの味方だ」
 それにイーツェンはジノンの名のもとで「処刑」されている。ヴォルはその虚偽を知っているだろうか。それとも死者を騙ろうとした手紙だとして、無視するだろうか。それとも、ジノンの名をあやうくしないため、イーツェンたちの存在をこのまま闇に葬ろうとするだろうか。
 考えれば考えるほど、わからなくなっていく。じかに会えば言葉を尽くすこともできた筈だが、今はすべてをたよりのない手紙に託すしかない。歯がゆく、いたたまれなかった。
 闇の中でシゼが動く音がして、彼はおだやかな仕種でイーツェンの体を両腕で引き寄せ、腕の中に抱いた。イーツェンはシゼの肩に額をのせ、シゼの体に手を回す。鍛えられた体にそうして身を預けるようによりそっていると、こんな時でさえ安心できた。自分の中にこびりつくようにある苛立ちや怯えが、互いのぬくもりの向こうに溶け去っていく。
 シゼもそうなのだろうか、と思う。そうならいい。気持ちをこめて、まだどこか緊張の残るシゼの背をなでた。
「ヴォルの判断は、私には読めない。でも祈ろう、シゼ」
「何と書いたんです?」
「冬のもてなしに感謝している、カードは楽しかった、ついては存じよりのあの方についてお話がある、と‥‥そんなことを」
 手紙が封じられたまま届くとはイーツェンも思っていない。本当に手紙を届けてくれるかどうかもあやしいし、もし思惑通りにヴォルに届けられたとしても、その前に誰かに目を通されるだろう。署名をするわけにも、詳しい事情を書くわけにもいかない以上、ひどくぼやけた言い回しになるのは仕方がなかった。
 ただ、その曖昧な内容を、イーツェンは与えられたぼろ布のような紙を使って、まるで正式の文書のような仰々しい文字で仕上げた。ユクィルスの城で手ほどきを受けた飾り文字の書き方にのっとったあの手紙を見れば、ヴォルには書いた者がそれなりの身分であるとわかる筈だ。
 あの屋敷に招かれる客は珍しいのだとヴォルは言った。それが本当ならば、おそらく内容と考えあわせてイーツェンのことを思い出してくれるか、そうでなくとも何かを嗅ぎとってくれるだろう。そう考えながら、何か雲をつかもうとするようなことをしているとイーツェンは自分で思った。その雲をつかめるかどうかに、彼らの身がかかっている。
 シゼの肩に頬をのせ、背をなでていく手を感じながら、イーツェンは溜息を口元にくもらせた。失敗した時の策を講じなければならないと思いはしても、どうしたらいいのかよくわからなかった。すべて本当のことを話したとして、彼らの話には何の信憑性もない。ぼろ服を着てロバをつれて歩いている剣士と奴隷の2人組、その片方が実は死んだ筈のリグの王子だと言い出したところで、ほら吹きか狂人扱いされるだけだ。イーツェンの顔と正体を知る者に、今なら会いたいとすら思った。
「‥‥きっとヴォルが来てくれる」
 シゼがイーツェンの髪をなでた。答える声はやさしかった。
「そうですね」
「もし‥‥もし駄目だったとしても、私は満足だ」
「イーツェン。そんなことは考えない方がいい。あなたは大丈夫だ。あなたに手をふれさせたりはしない」
「たとえ何があっても、ここまでお前と一緒に来ることができて本当によかった。お前にはいくら感謝しても足りない、シゼ」
「私は、あなたをリグへつれて行くと言った」
 頑固に、シゼはくり返す。闇の中でも、彼が頑なな口元をしてそう言っている様子が想像できて、イーツェンは微笑した。回した腕で精一杯シゼを抱きしめる。
「そうだな、シゼ。言ってくれた。‥‥ありがとう」
 シゼの手が髪をなで、指が髪の内側をまさぐって、イーツェンの首すじまでをやさしくなぞる。両腕でイーツェンをかかえこみ、抱きしめて、彼は何か言ったようだった。低くかすれたその声は、耳元でさらさらと髪が鳴る音にまぎれてよく聞きとれないほど小さい。何を言った、とイーツェンは顔を上げて問いかかり、あまりにもシゼの顔が近くにあって、息を呑みこんだ。
 暗闇に輪郭だけがぼんやりと沈んで、表情はほとんどわからない。だがシゼの吐息が自分の肌にそのままつたわってくる気がした。こもった部屋の空気がひどく濃密なものになったようで、ふいに息ができなくなる。
 唇にシゼの唇がふれた。イーツェンはシゼの背中に回した手で、シャツを握りしめた。全身が湿った熱をおびて、首すじがぞわりと痺れる。どちらから最後の距離をつめたのかはわからない。どうでもいいことだった。
 ゆっくりと重なった唇から、シゼの吐息が感じとれた。ごく当然のような気持ちで、イーツェンはシゼの体に身を預けながら、口をひらく。シゼの唇がその唇をやわらかく愛撫して、しのび出た舌と舌がかすかにふれ、口の中に互いの湿った息がこぼれた。
 くちづけは深くはなかった。唇をあわせ、舌をかるくふれあわせながら、シゼはイーツェンの髪の間に指をさし入れて頭を引きよせ、やさしい仕種でかき抱く。ゆるやかなくちづけに身をゆだねながら、イーツェンは安らいだ心地で体の力を抜いた。
 求めると言うよりは、ただ互いの熱を分かちあうように。シゼの唇がイーツェンの唇を擦り、湿った息がくぐもる。舌先がふれて、数度の動きでゆっくりと相手の存在をたしかめた。
 イーツェンの髪に指をくぐらせたまま、シゼが唇を離した。イーツェンは暗がりの中でシゼのシャツの胸元にすがり、手さぐりでシゼの頬と口元をなでる。
「もう1度」
 囁くと、シゼの口元がかすかに動いたのが指先でわかった。笑ったのかな、と思って、イーツェンもつい微笑する。もう1度引きよせられて唇が重なった時も、まだその微笑が残ったままだった。
 じれったいほどゆっくりと唇を愛撫され、溜息をこぼしてシゼの頬をなでた。顔の角度が動き、少し強く唇があわさる。やがてシゼの唇は、そっと離れた。
 全身から力が抜けてよりかかるだけのイーツェンを、シゼが左腕で頭をかかえこむように強く引きよせ、抱きしめた。イーツェンの身の奥にある何かがきしむような、それはただ一途な抱擁だった。
 イーツェンはシゼの首すじに頬をつけ、少し荒いシゼの息づかいを聞きながら、汗ばんだ肌の熱をぼうっと感じていた。潤むような熱さが体の内にしみわたって、ただ愛しい。くちづけだけでこんなふうにやさしく満たされることを、イーツェンはずっと知らずにいた。
 どれほど時間がたったのか、イーツェンにはわからない。やがてシゼがイーツェンの背をかるく叩いた。
「イーツェン」
「‥‥うん」
 囁くようなシゼの声に口の中で返事をして、うながされながら体をおこす。頬におちかかった髪を指で払い、もぞもぞとシゼの横に座り直して、壁によりかかった。立てた膝に両肘をのせ、まだ湿ったような息をつく。
 肌にうっすらとしたほてりが残り、唇に痺れたような熱が心地いい。身の内によどんでいたものがどこかへ溶けて消えてしまったようだった。気持ちの奥に何かが据わったような落ちつきがある。
 何があろうと大丈夫だ、と思った。シゼがいる。何があろうと、どうなろうと、こうして2人でここまで来た日々が自分たちを支えてくれる筈だった。
 イーツェンは手をのばし、シゼの背をなでた。
「少し眠ったらどうだ、シゼ。何かあったら起こすから」
「今、ですか」
「うん」
 シゼはいかにも意表をつかれたようだったが、彼がここ数日続いた野営での張り番をしていたのはイーツェンも知っている。時おりイーツェンが番をかわることはあってもその時間は限られ、シゼは眠りが足りていない。
「休んで、そなえよう」
 この先に何がおこるかはわからないが、とにかく今彼らにできることは何もないのだ。無為にすごすより、この時間を大切にして、何がおこっても対応できるようにしなければならなかった。
「わかりました」
 シゼはイーツェンのすぐそばで、左腕を下にして丸くなった。1度決めれば、彼が眠りに落ちるのは早い。
 静かな寝息を聞きながら微笑して、イーツェンは闇を見つめて待った。心は随分とおだやかだった。