雨がちな天気が数日続いたが、2人は油紙を貼り重ねた雨よけを荷にかぶせ、自分たちは濡れながら歩いた。
シゼは、雨でイーツェンの体が冷えるのを嫌ったが、雨用の外套まで手に入れる余裕はないし、休んでいては遅れが生じる。せめて日のあるうち半分は歩く──イーツェンはそう決めていた。
季節は晩夏を通りこし、秋にさしかかり、収穫期は終わりに近づいていた。休息の時に木の実や秋の野苺を見つけるのが楽しみの一方、雨は少しつめたい。夕方には風も涼しく、野営の場所にも気を使うようになっていた。
男たちの襲撃をのがれてから4日目と5日目には、2人で宿の大部屋に泊まった。10数人で雑魚寝するようなところだ。イーツェンは緊張したが、相部屋には兵や巡回商人だけでなく、職人や学生、驚いたことに1人旅の女性までもいて、その雑多な面子の中では剣を持った男と奴隷の2人づれなどほとんど注目を引かなかった。
他人の詮索はしないのが、その手の場所の礼儀らしい。商人は商売人らしい如才なさを発揮してしゃべりまくっていたが、イーツェンたちのことについてはたずねなかった。当のイーツェンは、宿で買った分厚いベーコンを中央の四角い炉で炙りながら、学生が火の明りに寄せて読んでいる本にちらちらと詮索するような視線を投げてしまい、シゼにやんわりとたしなめられたのだが。
もう長い間、本を読んでいない。荒い写筆の筆致を目のすみに入れながら、ふと城の蔵書室がなつかしくなった。インクの香り、紙と装丁の革の香り、レンギが本の修理に使っていたにかわの匂い。あの城はどこもかしこも冷え冷えと感じられたが、蔵書室だけは別だったような気がする。
宿場や合同の囲い地に泊まる時以外、剣の習練は続けられていた。ほんの少しずつ、まるで小さな子供の稽古のように。
イーツェンの腕にはまだ重いと見ると、シゼは棒をさらに短くし、手の握りを短剣で丁寧に削り出して、柄に麻紐を巻いた。両手での素振り、片手振り、半身にしての型構え。はじめは15回の素振りでへとへとだったイーツェンは、習練を重ね、腕の使い方を工夫して、彼の体に負担の少ない構えをシゼと一緒にためした。
15回、20回、30回──
次第に素振りの回数は増え、シゼは棒をかざしてイーツェンに打たせるようになった。カン、と木と木が打ち合う軽い音は、それでもくり返すごとに少しずつ力強くなる。些細なことが、今のイーツェンには嬉しい。
大きな町をよけ、木の標識を数え、時に人に道を聞きながら、2人は歩きつづける。腕が上まで上がらないイーツェンのためにシゼは下からすり上げるような突きを教え、そして、城では決して教えなかったこと──人を殺す急所を、教えた。
やわらかに盛り上がった水面が、傾いた陽をきらきらとはねている。浅い川は細かな流れのひだをよせ集めたようで、水はあちこちの砂州や岩にぶつかってくねり、無数の渦を巻いていた。
水の中に何かが動くのを見た気がして、イーツェンは目をほそめた。視線をこらし、重なりあった水の艶の底に、銀の鱗を持つすんなりとした小魚の姿を見つけ出す。尾びれを振って水の流れの中をくぐり抜けていく光のような姿を眺めて、しばらく楽しんだ。
1日歩きとおした両足を、そうして流れの中に投げ出しているのは心地よかった。足裏のまめがつぶれたので、今日は早目に道程を切り上げたのだ。イーツェンが背後にしている土手はかなり急で、その上を馬車がすれちがうのがやっとの細い街道が通っている。時おりに旅人が歩きすぎたが、距離があるので人目を気にせず、イーツェンは川べりに足をのばしてのんびりとくつろいでいた。キジムがあちらこちらをうろつきながら、河原の草をせっせと食んでいる。
シゼはイーツェンから少し離れて座り、脱いだ靴を調べていた。踝の部分が破れて外れそうになっている。イーツェンは声をかけた。
「どう?」
「修理してもらった方がよさそうですね」
「多分、もう少し行くと村がある。ジノンの荘園領に入ってからになるな。そこでたのもう」
言いながら、イーツェンはまだどこか信じられない気持ちだった。暦と、曲がった標識の数を刻んできた小さな木片は、今日でエナたちと別れて19日目なのだと示している。
このあたりは王の直轄領よりも諸侯の領地が多く、そのせいだろう、街道には妙に曲がりくねった箇所があった。領地の中に街道を引けば、通行料を取ることができる。権力に引きずられて道が左右に揺らいだのかと思うと、少しおかしかったが、妙な回り道を強いられる身としては笑ってばかりはいられなかった。ただでさえ、丘陵が多い。
戦乱の影響がまだ及んでいないのか、あたりに荒んだ雰囲気は少なかった。とは言えこの地域はユクィルスの「食糧庫」とも言われる豊かな穀物地帯の裾野でもあり、おそらくいつまでも争いと無縁ではいられないだろう。
たまに見回りの警固団のような騎士や剣士たちと行き合うことはあったが、特に深く身元を追求されることはなかった。ジノンの荘園が近くなるにつれてイーツェンは新しい話をこしらえ、シゼを「妹夫婦の家をたよるために旅をしている」元兵士にした。奴隷を1人手みやげに、収穫の残りと冬支度を手伝い、あわよくば冬の寝床を得ようとして妹をたよる男だ。
そんな話を思いついたのは、雑魚寝の宿で炉端を囲んだ男たちの会話を耳にはさんだからだった。彼らは冬をどこですごすか、誰をたよるか、それぞれの思惑を話しあっていた。
秋にうつりかわったばかりでもう冬の話が出るというところに、イーツェンは家を持たぬ者の厳しさを知る。収穫期が終われば、あちこちで冬仕度がはじまる。ユクィルスの冬はリグの冬ほどに過酷ではないが、それでもよるべのない者たちにとっては恐ろしい季節なのだった。
──彼らの冬は、どうなるのだろう。
イーツェンはぼんやりと水面を眺める。イーツェンとシゼはこの冬をどこですごすのだろう。無事ユクィルスを逃れ、リグへと向かっているのだろうか。さもなければ。
水音が立って、イーツェンは物思いから引き戻された。川辺では裸足で水に入ったシゼが、浅瀬の岩を引っくり返している。数回そんな仕種を水遊びのようにくり返してから、シゼは何かを持って戻ってきた。
「食べましょう」
両はじを絞って袋のようにした布の中で、薄っぺらい蟹が3匹、小さなはさみを振り回してじたばたと暴れていた。イーツェンは口元をゆるめる。
「取っていいの?」
非難する気は毛頭ないが、領内での川漁には手札が必要だった筈である。笑いながらたずねたイーツェンへ、シゼも笑みを返した。
「手で取る分には大丈夫です。道具を使うと、罰せられる」
「そうなんだ」
俄然興味が出てきて、イーツェンは身をのりだして3匹の沢蟹を眺めた。少し黄色がかった薄い色の甲羅は平ったく、イーツェンがリグで見知った沢蟹よりはさみが少し小さいようだ。足も長い気がする。もぞもぞと布から逃げようとする蟹を、はさみに注意しながら押し戻した。
「魚も手でつかめばいいってことか?」
「出来るなら」
「熊が浅瀬に魚を追い上げて手づかみしてたな。見たことある」
イーツェンの話がただの思い出話だとわかってはいたのだろうが、それを聞いたシゼはおもしろそうに唇のすみを上げた。
「やってみますか?」
「熊の真似はちょっと手に余るなあ‥‥お前こそ水練でもするか?」
見るからに浅い流れをさして、泳げないシゼをからかう。
2人は河原を掘って穴に石をならべると、その上に葉を敷き、石で頭を打った沢蟹を葉で包むようにして置いた。上にも石をならべてから、拾い集めた枯れ木で火をおこし、真上で火を焚く。
蒸し焼きでよく火を通した沢蟹は、食べる部分は少なかったが、それでも舌にひろがる久々の新鮮な味わいが楽しかった。甲羅の裏をしゃぶるイーツェンの様子に、シゼも機嫌がいい。
「村についたら、魚でも買いましょうか。食べたいものはありますか?」
「カブ」
「カブが好きなんですか?」
呆気に取られた様子のシゼに、イーツェンはきょとんとした。
「好きだよ。駄目? そう言えば城で食べたことがないな」
「‥‥貧乏人と獣の食糧と言いまして」
シゼはやや言いづらそうに説明する。イーツェンは小さく吹いた。
「今の私にはあってるな。ま、何でもいいけど芋と豆じゃない野菜が食べたいよ」
夕食用のベーコンを枝に刺して炙りながら、呑気にそんな会話を交わし、些細なことを2人で笑いあった。もうじき、ジノンの所領内へ入る。イーツェンが目指した場所が、もうすぐ目の前にある。あと2、3日で、彼らの旅にはひとつの結果が見えてくる筈だった。
水をさけて土手の反対側に野営の場所をつくったが、イーツェンは眠る前に川べりに立って棒を振っていた。星の光をうつして水の流れがぼんやりと光り、水気を含んだ風が肌に心地いい。暗闇の中ではより体の動きだけに集中できる気がした。
右足を踏み出しながら、体の記憶に添って丁寧に棒を振りおろし、深く膝を落とす。それから体を直立の構えに戻し、ゆっくりと、できるところまでまた棒を振り上げる。ある箇所から左肩に力が入らなくなり、時によっては肩から腰まで刺し貫くような痛みがはしるのだが、イーツェンはやっとそうした自分の体の癖に慣れつつあった。もう少し上手に肩を回せるようになれば、今の限界より上まで手が上げられる気がする。右腕をうまく支えに使えれば。だが、まだその感覚がつかめない。
動きをためしながら4、5回ゆっくり振るだけで、じんわりと汗ばんだ。相変わらず振りはぎこちなく、子供でももう少しまともに振れるだろうが、もうイーツェンはそのことを気にしなかった。
もともと剣は好きでもなければ、得意でもなかった。自分にとって遠い存在だったものを、1からイーツェンに教えたのはシゼだ。もう1度、そのシゼに剣を教わることができる。今はそれをできるだけ楽しむだけだ。
そういうふうに、うまく気持ちを持ち上げられない時もある。シゼが教えようとすることに体がついていかず、苛々する気持ちをぶつけてしまったこともあったが、シゼは常に粘り強くイーツェンに接した。
彼の思いやりがあたたかい一方で、自身のこらえ性のなさが恥ずかしくもあった。シゼの強い言葉がなければ、剣を持とうともせず、いつまでも不貞腐れたようにうじうじとしていただろう。背中の傷よりも何よりも、そうした気持ちの弱さが己の邪魔をしている。
それを振り払おうとするように、イーツェンは棒を振る手に力をこめた。
「イーツェン」
呼ばれて目を向けると、暗闇の中でシゼが短い棒を持って立っていた。体の前にその棒をかざす。
「打って」
「わかった」
大きく踏みこみ、示されたように横なぎの動作で打ちこんだ。体にひねりを入れる動きにはまだ痛みとこわばりがともなう。ゆっくりと、だが今の自分なりの力をこめて打つ。
シゼは右、左、と1回ずつ棒の位置を変え、イーツェンもあわせて振る向きを変えた。右、左、右、左。20回ほども打ちこむと左肩が鈍い痺れをおびてきて、彼は棒をおろした。
「左がまだうまく動かないな。かと言って、片手じゃ打てないし」
そんな力は、今のイーツェンの右腕にはない。いずれ、そうした変則的な動きのことも考えねばならないかもしれないが、今はまだ基本の動きを体に覚えこませるだけだ。
川べりにしゃがみこんで、すくいあげた水で汗ばんだ手や顔を洗った。手首の火傷はほとんど消えかかっていて、いくらか残った痕も新しいつるりとした皮膚に覆われている。時おりくすぐったいような痒みは生じたが、痛みは消えていた。
水音をたてながら汗をさっぱりと洗いおとしていると、シゼが横にかがんだ。
「本当は小剣の方がいいかもしれませんね。片手で、相手の力をうまく受け流す型もある。私が教えられればいいのですが」
「お前のは、とことん実戦向きだからなあ」
笑って、イーツェンは草の茂る河原へ腰をおろし、顔から滴る水を腕で拭った。思ったより長く動きつづけていたのか、肌の内側が熱に潤んだようで、ひんやりとした夜風が心地いい。
シゼは、実戦の中で余分なものが削ぎ落とされていったような、無駄のない、厳しい剣を使う。力を必要とする豪放な剣にはついていけない今のイーツェンのために、彼が教えるのに色々苦心していることには、イーツェンも気付いていた。
とは言え、シゼにもこうして1から稽古をしていた時代がある筈だ。実戦で変化してはいるが、シゼの剣の根底には、きっちりとした美しい、正統派の型がある。子供の頃に居着いていた砦で元騎士という男から剣を教わったと言っていたが、奴隷の子供にそうまで剣術を仕込んだ騎士というのに興味がわいて、イーツェンは右側に座っているシゼを見た。
「お前に剣を教えたのは、どんな人だったんだ?」
「物好きな人でしたよ」
答えながら立ち上がったシゼはイーツェンの背後へ回ると、肩へふれ、熱をもった筋肉をさするようにほぐしはじめる。
「物好きって?」
「砦の奴隷や、物売りの子を集めて剣を教えていた。ただ、とてつもなく厳しくて‥‥」
何かを思い出したのか、シゼが小さく笑った気配がした。
「ほとんど誰もついていけなかった。剣を教わるのが嫌になった子供が彼に石を投げたりしていましたね」
「それはちょっと、あんまりだな」
「今にして思えば、彼はそんなことも含めて楽しんでいたようだった。色々と教わりましたよ」
シゼの声にはなつかしむようなやわらかな響きがあって、それがイーツェンをくつろがせる。厳しい、苛烈な暮らしでも、その中に時おりの楽しみはあって、その記憶は時経て心の奥底でやわらかな彩りをおびるようだった。イーツェンが城の蔵書室をなつかしく思うように。
「お前は脱落しなかったんだな」
「私には、ほかにできることがなかった」
呟いて、シゼは張りの残るイーツェンの首すじに親指をそわせ、じわりと力をこめた。痛みすれすれの熱が筋肉にしみとおってくる。イーツェンはその力に身をゆだねながら、細い溜息をついた。
囁くような水音が静かにひびいてくる。その音をしばらく聞いていたようだったが、やがてシゼはぽつりと続けた。
「生きていくための道は狭いと、彼は言った。剣1本では切りひらけぬほどに狭いかもしれないと」
その声はかわいていたが、イーツェンはどこか遠い痛みのようなものを聞きとる。首すじにあてられたシゼの手にイーツェンが右手をかぶせると、どちらからともなく指と指が絡んだ。
「お前は、切りひらいてきた」
「‥‥多くを望まなかったからだ、イーツェン。自分の手のとどかないものは、望まない」
シゼの指がイーツェンの指を握る。そこには思わぬ力がこめられていて、イーツェンは少し驚いたが、握り返しながら背後のシゼに頭をもたせかけた。
「それも教わった?」
「ええ。剣と一緒に、たくさんのことを学んだ」
低い声で返事をして、シゼは左手でイーツェンの髪をなでた。絡んだ指を静かに引き抜き、イーツェンの肩をかるく叩いてから立ち上がる。
「川べりの風は冷える。行きましょう」
口の中で返事をして、イーツェンも立った。手になじみはじめた棒を持ち、暗い足元に注意を払いながらシゼの後ろをついていく。
2人は言葉少なに毛布にもぐりこみ、イーツェンはいつものようにシゼに身をよせて眠りについた。
翌朝早く、青ざめた朝もやが漂う川辺を出立した。小さな丘を迂回し、休憩をはさんで歩きつづけ、2人は昼すぎにジノンの荘園領へと入った。道には柵が立てられていたが、おそらく夜間にとじるものなのだろう、今は開放されて自由な往来がゆるされていた。
境界石を道のはじに見ながら通りすぎ、イーツェンはふうっと深い息を胸の奥まで吸いこみ、吐き出す。
──ジノンの領地。
丘に囲まれた田園地帯が広がっていたが、通りすぎる畑はきちんと刈り入れられ、葡萄や林檎の果樹園も手入れされて、実った果実が収穫の時を待っているのが遠目にもわかった。小麦は収穫を終え、刈り株の残った畑に追いこまれた牛が呑気に草の根元をかじっている。少年が手製の笛を吹きながら張り番をしていた。
まるで戦乱も政治の乱れもとどいていないような風景を左右に見わたし、イーツェンは畑の中で働く人々の姿を見た。刈った干し草を大きな山にしている者、これから豆の種を蒔くのか牛に鋤を引かせて畑を耕している者、落穂を拾うような仕種をくり返している子供。放置されて荒れた畑はほとんどなく、人々は集団で整然と働いていた。女子供が多いが、男もちらほらとまざっている。
これまで通りすぎてきた土地と、ここは明らかに異なっていた。これこそが普通の田園の風景にはちがいない──だが、これまで通りすぎた田畑の多くが荒らされ、放置され、耕し手のないまま草がはびこっていた。
どうしてここはこうも状況がちがうのか、と見回しているイーツェンに、シゼが警告の合図の舌打ちをした。あわててシゼの視線を追ったイーツェンは、畑を囲んだあぜ道を巡回している2頭の騎馬を見た。
イーツェンたちの歩く街道と騎馬のいる畑ぞいの道は、低い土手と草地をはさんでほぼ並行に走っており、距離が少しある。馬の足どりはゆるいもので、イーツェンは警戒しながら視線のすみで乗り手の様子を観察した。鎧を着て、剣を帯びている。騎士のようだ。
彼らのまとった鎧は動きやすく簡素なものだったが、2人ともに履いている膝丈のブーツの縁を飾る毛皮の白さが目を引く。鞍の横腹には紋章を白く染め抜いた青い布を垂らしていて、剣尖の形にたたまれた布の先が1歩ごとにはためいていた。その紋章が、イーツェンの目に焼きつくようにせまってくる。
──ヘラジカの角に弓。
ジノンの紋章だ。
彼らはゆっくりと畑の柵を回りながら、農民たちと何か話をしている様子だった。なごやかな様子に何となくほっとしながら歩きすぎようとした時、農民の1人がいきなり手にした鍬の柄でこちらをさし示したので、イーツェンの心臓がはね上がった。騎士の片方が手を上げる。とまれ、と言う仕種にシゼが立ちどまり、イーツェンも従って、キジムの端綱を短く持った。
騎士たちはゆるやかな土手を馬でくだると、夏の刈りこみが終わった草地を横切り、イーツェンたちが立つ道へ馬を寄せた。1人が兜を後ろにずらして顔を見せ、馬上から誰何する。
「ユクイルス王フェインの執政、ジノン侯の領地と知ってのお通りですか」
声は上からだったが、物腰も声音もやわらかで礼儀正しかった。イーツェンは頭を下げて地面を見つめながら控え、いつも通りのシゼの返答を聞いた。
「チェガの村にいる妹をたずねる途中です。この先の村で、食糧なりと分けて頂きたいと」
「ならばクーディスの宿に行くとよろしかろう。旅人のお世話の采配は宿長の役割となっておりますので。鹿の盾を目印になされよ」
「承知しました」
シゼの返事が終わってから一瞬の間があり、イーツェンは自分のことを聞かれるのではないかと緊張したが、そのまま何事もなく、騎馬が遠ざかっていく音がした。蹄が土を鳴らす音が充分離れたと判断してから顔を上げ、騎馬の後ろ姿を確認して、イーツェンは知らぬうちにこわばっていた肩からほっと力を抜いた。
何事もなくすんだと思っていたのだが、向き直ると、シゼが眉をしかめて騎馬を見送っていた。イーツェンはキジムの鼻をなでながらたずねる。
「何か気になることが?」
シゼは考えこむ表情のまま、道を歩き出した。
「気のせいかもしれませんが、あまりにもあっさりしていたので」
「そうかな」
そう言われると確かに引っかかりはあるが、用心のあまりに深く勘ぐりすぎている気もする。イーツェンはキジムの綱を引いてシゼを追いながら、なるべく明るい声をかけた。
「2人づれなど、そんなものだろう。彼らはきっと、もっとこう‥‥強そうな相手を警戒しているんじゃないかな。いや、お前が強くないわけじゃないけど」
つけくわえ方が性急だったせいか、シゼはおもしろそうな表情で振り向き、すぐに口元を引きしめた。
「とにかくここは、ほかとちがいすぎる。整いすぎているし、旅人に対する目も行きとどいているようだ。用心した方がいい」
「そうだな」
シゼの言いたいことはイーツェンにもよくわかる。平和な田園の至って平凡な風景なのだが、荒んだ場所を多く通り抜けてきた2人にとって、この平穏さこそが警戒をおこさせるのだった。そこに何かがひそんでいる気がして仕方ない。
景色には多少の起伏があり、遠い丘に囲まれてはいるが、全体にはなだらかで遠くまで見はらしがいい。果樹苑や畑の間には用水路がめぐらされ、小さな子供たちが水路に溜まった落葉やごみをさらっていた。棒を手に奮闘する姿をほほえましく遠目に眺めていたが、イーツェンはふと喉元がざわつくような違和感をおぼえた。
何がひっかかるのかよくわからない。警戒心が高ぶっているだけで、何でもないのだろうか。1度は目をそらしたがどうにも気になって、歩きながら5人の子供たちの様子を観察した。7歳くらいの少年が1番の年嵩なのか、長い棒を手にしてあれやこれやと指図しながら、皆をまとめようとしている様子が可愛らしい。
その少年がくるりと動いて、腰に下げた剣が揺れた。イーツェンははっと息を呑む。違和感の正体に気付いていた。剣だ。
目のせいかとまばたきしたが、確かに護身用の短剣などとはちがう長剣が──子供用に小ぶりではあったが──少年の腰の後ろに下がっている。5人の中で、彼だけが剣を帯びていた。
騎士の子が、農作業をしている。農民の子らを従え、共に泥だらけになって。それはイーツェンがこの国ではじめて見た光景だった。
背後を振り向き、イーツェンは畑の巡回を続けている騎士2人を見やった。また作業中の農民と話し合っている。
「‥‥そうか」
呟いたイーツェンへシゼがけげんな目を向けた。イーツェンは、鼻先の蝶に目がうつって道を踏み外しそうになっていたキジムを引き戻し、歩き出す。
「荘園の中では、彼らが集団で目を光らせているんだ。騎士と、農民と‥‥きっと村の人も、職人も。皆が働きながら余所者に目をくばり、互いの情報をつたえあっている。だからきっと、私たちのこともすぐに皆に知れ渡る。どんな人間が領内へ入ってきたのか、どこへ向かっているのか」
農民が見張り、騎士がその情報を集めて、さらに上の人間がそれを掌握する。そういう仕組みがきっちりと出来ているのではないかとイーツェンは感じていた。
騎士階級と農民との意志疎通をたやすくするために、子供同士を一緒に働かせているのだろう。それは想像にすぎなかったが、この荘園内で情報網が組織立てられているのはまずまちがいない。一見のどかに見えるが、この荘園はその裏で注意深く管理され、守られているのだ。
誰がここを采配しているのだろう。ジノンの領地ではあっても、荘園の管理をいちいちジノンが仕切るわけがない。
──ヴォル。
知った顔がイーツェンの脳裏をかすめた。ジネンが信頼を見せた、ただ1人の男。「召使頭」とジノンは彼を紹介したが、どう見ても召使達のことだけでなく、あの館のすべてを取りしきっていた。荘園を管理しているのも、あの陽気な立居振舞いの大男なのだろうか。
館につけばわかる。だが、一挙手一投足を見つめられるようなこの荘園を抜けて、その奥にあるジノンの館へと余所者がたどりつくのは難しそうだった。
あれこれと考えているうちにシゼと距離が少しあいてしまい、イーツェンはキジムを引きながら大股で追った。この旅をはじめた時よりもずっと体が強くなって、歩くことにはもう不安を感じない。歩ききる距離が1日ごとにのびている実感もある。
1歩ずつ、1日ずつ。そうやってここまで歩いてきた、そのことが当然のようでもあり、不思議でもあった。
(とにかく、ここまで来た‥‥)
行く手にひろがる田園の景色の中に、村が小さく見えている。四隅に尖塔の見張り櫓を持つ村を見つめ、イーツェンは胸の奥まで息を吸いこんだ。左手にのびた丘陵の向こう側は、もう黒々と地を這うような鬱蒼たる森。あの森の中で、イーツェンは馬を走らせたことがあった。まだ背の傷も首の輪もなかった頃に。
何もかもが変わった。ユクィルスを取り巻く状況も、イーツェン自身も。鞭の傷は体に残り、重く忌々しい輪を首にはめられて、この場所まで戻ってきた。
もう1度深く息を吸い、体のすみずみまで土の香りのする風が沁みこんでいくのを感じながら、イーツェンは前を見つめる。刈株の残された畑と、そこに追いこまれた豚の群れ、まだ青い葉が波のように揺れる畑、その中を横切る茶色い畦道。遠くかすむ丘陵と森。何かに驚いたのか、鳥の群れが青い空をめがけて樹冠から飛び立っていった。
色を散らしたようなその風景を背後にして、シゼが振り向いた。いつもの声がイーツェンを呼ぶ。
「イーツェン?」
「‥‥何でもない」
微笑を返し、イーツェンはふたたび足取りを早めた。そう。多くが変わった。彼の内にも外にも傷は刻みこまれたが、変わったのはそれだけではない。
シゼの手を借り、支えられてここまで歩いてきた。1歩ずつ、1日ずつ。そうして重ねた日々と歩みこそがイーツェンを変え、傷よりも深くイーツェンの中に刻まれている。今はそのことがよくわかっていた。
おだやかな陽ざしを受けながら、2人は村へ向かって道をたどる。シゼの足取りを追いながら、イーツェンは剣を握るように右手でかるい拳をつくった。もうすぐ、きっと答えが出る。いや、必ず手に入れる。そのためにここまで歩きつづけてきたのだ。