横穴の近くに、人が使っているらしい細い径を見つけた2人は、用心しながらそれをたどった。幸い案外と近いところに岩の間から湧き出す清水を見つけ、水袋を満たして、喉の渇きを潤す。
 汚れた顔や、あちこちの小さな傷も洗い清めて、血と泥で汚れたシゼのシャツもどうにか洗った。シャツの胸元にべったりと沁みた血は落とせなかったが、毒々しいほどの色が薄まると、一目でぎょっとするような見た目ではなくなった。
 イーツェンはルディスの城館でもらったお仕着せのシャツに着替えたが、シゼは余分なシャツを持っていない。水を絞ったシャツを棒にくくりつけて荷鞍にさし、旗のように吊り下げて乾かしながら、シゼは裸の上に皮の胴着を羽織っていた。肌に直に着るものではないだけに着心地は悪そうなのだが、それはそれでよく似合っている。
 縫い目があたるのか、シゼがしきりに嫌そうにしているのが何だか微笑ましくて、イーツェンはこっそり笑いを噛み殺していた。
 2刻ほど歩くと、木々の間にある小さな狩り小屋に行きあたった。イーツェンを待たせてシゼが中の様子を探りに行ったが、人の気配はなかった。
 あの赤毛の男が目指していたのはここだったのだろうかと、イーツェンは思う。ここでほかの連中と落ち合うつもりだったのか。
 馬ならば、ここから砦まではさほど時間はかからない。兵士たちが時おり狩りに興じていたとすれば、森にも、狩り小屋の位置にも詳しい筈だった。
 ──全員、死んだのだろうか。
 一方向だけに傾いた片流れの屋根を見つめ、イーツェンはふっと喉が締まるような息苦しさをおぼえる。イーツェンのことを知っている者、その話を聞いた者。あれで全員だったのだろうか?
「‥‥彼らが帰らなかったら、あやしまれるんじゃないか?」
 道は獣道のように細いが、人の足が草を踏み折り、土が固まった痕をたどっていく。人の気配はなかったが、またいきなり追手が現れるような気がして前後左右をきょろきょろと見るイーツェンへ、シゼは首を振った。
「脱走は珍しくない」
「‥‥でも、もし‥‥」
「進もう、イーツェン」
 シゼの言葉はやわらかかったが、その中にこめられたまっすぐな意志がイーツェンの背を押す。
 ──進もう。
 太陽が中天にのぼる頃、2人は森から出て街道沿いへと出た。10軒程度の小さな集落を囲むように畑がひろがっている。生垣と茨に囲まれた畑の間を抜ける間、農作業をしている夫婦の視線がずっと2人を追っていて、イーツェンは落ちつかなかった。略奪を警戒しているのだろう。
 その隣の畑を通りすぎようとした時、何やら畑に穴を掘っている老婆が金切り声で叫んだ。
「ロバにクソをさせてきな!」
 イーツェンは仰天したが、シゼは一瞬だけ考えて、うなずいた。イーツェンに合図して、畑をぐるりと囲む生垣を回りこみ、途切れたところから中へ入る。
 腰が水平に近いほど曲がった老婆は、つんのめるような歩き方で、だが意外なほどの速度で2人とキジムへ走りよってきた。
「そこの草を食べな」
 手入れがされずに雑草が生い茂った一画をさす。
 イモらしき葉がひろがる畑を横切ると、シゼはキジムを雑草の中に放した。老婆へたずねる。
「水は」
「小便の桶を持ってくるよ」
 話が噛みあっているのかどうかわからないまま、イーツェンがぼんやりと見ていると、老婆はイーツェンに向かってついてくるよう合図をした。シゼが前へ出ようとするのを目で制して、イーツェンは老婆を追って歩き出す。水だか桶だかわからないが、それくらいは運べるし、奴隷が運ばないのはおかしいだろう。
 石を練り土で固めた土台に、小屋のような小さな家がより集まって建っている。これが彼らの集落なのだろう。畑と畑の間には細い水路がめぐらされていたが、水路に水はない。井戸のそばには地面と水平の車輪が設置され、井戸の汲み上げに使っているのだとイーツェンにも見当はついたのだが、それも古びて、つなぐ牛も見当たらない。動物用の囲いの中は、豚と鶏ばかりだった。
 その井戸に歩みより、老婆は縄のついた水桶を放りこむと、汲み上げるよう手ぶりで命じる。奴隷に口をきく気はないようだ。
 指先や指の腹にも火ぶくれが残っていたが、イーツェンはその手で縄を握り、水桶を引き上げた。手に力を入れると手首の火傷がじくじくと痛痒く、縄を離してしまいそうになる。水をたたえた桶が見えてくると、ほっと息をついた。
 その間に老婆は低い窓が2つある家の中からよたよたと桶を持ち出し、イーツェンの足元へ置く。鉄枠の外れそうな桶へ用心深く水をうつすと、イーツェンは桶をかかえあげ、背中の張りと手首の痛みにたじろぎながら歩き出した。
 あたりの草を機嫌よく食べ回っているキジムは、イーツェンがやっとのことで置いた水桶へ顔をつっこみ、がぶがぶと音をたてて飲み出した。さっきも水場でたっぷり飲んだくせに、と少し呆れながらイーツェンが見ていると、尾を振りながら持ち上げ、ボトボトと糞を落とす。
 苦笑するイーツェンの横で、シゼが老婆へたずねた。
「古着はあるか?」
 老婆はいきなり右手を拳にして空へ振り上げ、歯の少ない口をあけてわめいた。
「ウェス! キーナ! あんたのガキが置いてったボロッきれを売ってやりな!」
 その声の先には、先程2人へ警戒を見せていたあの夫婦が、鍬を手に困惑の表情で立っていた。彼らが返事をする前にキジムが今度は小便をはじめ、老婆はロバの尿を取れとイーツェンにわめく。
 倒して空にした水桶をあわててキジムの腹の下に入れながら、イーツェンは情けない気分でいたが、何気なく見上げたシゼが毒気を抜かれた様子で立ちつくしているのを見て、思わず笑い出してしまった。


 夫婦の息子は、兵になると出て行ったきり戻らないらしい。何年も前のことだと言う。息子が置いていった服を夫婦が大事そうに見ていたので、買い求めるのは胸が痛んだが、彼らも金が必要な様子だった。
 彼らがやたらと怯えた目でシゼをうかがう様子をイーツェンはけげんに見ていたが、妻に同情的な表情を向けられてはっとした。イーツェンの唇の腫れと、頬の痣──この夫婦は、イーツェンをこうまで打擲したのがシゼだと思っているのだろう。
 それに気付いたかどうか、シゼは手早く交渉をまとめ、七分袖の薄茶色のシャツと、袖の短い厚地の麻シャツを買った。
 老婆はキジムの糞と小便に満足したのか、芋を2つ掘り出し、泥がついたままシゼに押しつける。シゼは困惑の表情のまま礼を言い、イーツェンは芋についている茎を荷にひっかけてキジムの脇に吊るした。
「燃料に使うのかな」
 街道に向かいながらイーツェンが畑を振り向くと、シゼが一瞬の間を置いた。
「糞は、肥料だと思いますよ」
「あ、そうか」
「リグでは燃料にするんですか」
「牛の糞をね。糞を乾かして集めるのは子供の仕事で‥‥そう言えば、鶏の糞は肥に使ってたっけな」
「尿は何に使うんですかね」
 シゼは不思議そうに首をひねり、イーツェンは肩をすくめようとして打ち身の痛みで失敗した。それは知っている。
「漂白するんだよ。布とか、あと敷石磨いたり」
 城で奴隷として使われていた時、まだ牢に追いやられる前、イーツェンもその不愉快な作業を体験していた。尿を溜めて使うので、尚更ひどく臭うのだ。
 途切れがちな会話で痛みから気をそらしながら、休み休み歩いていたが、陽が傾き出す頃にはイーツェンはすっかりへとへとになっていた。もともとろくに眠っていないし、痛みがなけなしの体力を削る。見かねたシゼがイーツェンをロバに乗せた。
 それでも、ロバの上下動のたびに顎や肩に痛みがはしる。背中の張りがひどく、同じ姿勢を長い間保っていられない。鞍をつかんで体を支えようにも、手首の火傷がくいいるように痛んだ。
「今日は早めにとまりましょうか」
 シゼがそう提案した時には、ほとんど泣き出しそうなくらいほっとした。情けないが、どうにもならない。打ち身や殴られた痕は明日にはもう少しよくなっているだろうと、その望みにすがりつくように、イーツェンはうなずいた。
 できることなら宿場に部屋を取って休みたかったが、また男の仲間が追ってくる可能性を無視できなかった。結局、街道沿いの森の中に野営地をさだめる。慎重に足取りの痕跡を消した。
 宿場で手に入れたパンを2人で分け、やはり宿場で買った兎肉を枝に刺して焙った。久々に腹が満足するまで食べると、随分と気分はよくなっていた。
 互いの傷の手当てをする。シゼの傷はきれいにふさがっていて、内心案じていたイーツェンは安心した。シゼは怪我をしている左腕を平気で使うので、見ているといつもはらはらするのだ。
 イーツェンの火傷も、数箇所まだやわらかく水っぽかったが、傷は全体にうっすらと膜がはって乾きはじめていた。顔の腫れもほとんど引き、肩や足の打ち身も順調に回復してきている。
 これなら明日も歩けるな、とイーツェンが毛布の上に座ってふくらはぎを揉みほぐしていると、シゼが呼んだ。
「イーツェン」
「うん」
 イーツェンは溜息をつく。日課になっている運動をするつもりなのだ。心底疲れて気はすすまなかったが、仕方ないと立ち上がってシゼに向き直る。だが、シゼが木の枝を手にしているのを見てきょとんとした。歩くのに杖を使ったらどうだという話があったな、と思い出すが、どう見ても杖には短い。
「何?」
「振ってみてもらえますか」
 それだけ言って、シゼは枝をイーツェンに手渡した。細かい枝を払ってまっすぐな棒にした枝は、渡されてみると見た目より重い。なめらかな樹皮は握りやすかったが、イーツェンはまだ呑みこめずにシゼを見つめた。
「振るって‥‥」
「剣を振るように」
 シゼは静かに言って、イーツェンを待っている。イーツェンは灰色の枝を両手で握ってはみたが、口ごもった。
「だって、上までは上がらないよ」
 背中がつれたように痛むので、両腕を充分に上げることができない。シゼもそれを知っている筈なのに。ちりりと心が苛立つ。
「それでもいいから。‥‥やってみて下さい」
「‥‥‥」
 シゼの目は真剣だった。
 イーツェンはそろりと息を吐き、左手の指で包むように棒を握り直し、右手を少しかぶせるように左手の上からのせると、余った指を木に添わせて握った。指の腹の火傷が、木のささくれに当たって痛い。体から離して構えると、棒がひどく重く感じて手首がぶれた。
「シゼ‥‥」
「やってみて」
 両腕で棒を振り上げていく。ひどく滑稽なことをしているような気がしてたまらなかった。かつて手ほどきを受けた剣の構えや足の位置の感覚だけは残っているのに、今のこわばった体は、その記憶をなぞることができない。両肘をのばして棒をしっかりと持つだけで背中に無視できない違和感が生じる。どうしても力を入れることのできない腕の向きがある。
 肩の高さまで上げたところで、イーツェンは腕から力を抜き、棒をおろした。
「無理だ、シゼ」
 どうしていきなり、シゼがこんなことをやろうとしているのかわからない。体を曲げのばしする運動だけでもイーツェンは手一杯なのに、剣を振る真似事などさせて、一体何の意味があると言うのだろう。
 急に情けなくなってきて、イーツェンは布を巻いた自分の両手首を見つめた。火傷の痛みがたえまなく肌を刺している。だがその傷がなくとも、やせた腕は吐き気がするほど貧弱だった。剣の似合う腕ではない。
 地面にイーツェンが放り出した棒を、シゼは表情も変えずに拾い上げた。じっと見つめられて、イーツェンはきまり悪く口ごもる。苛立ちが言葉の響きをするどくした。
「何でこんなことをしなきゃならない。どうせ、まともに振れやしないよ。知ってるだろう」
「思ったより体が動いた、と言っていたでしょう。これもやってみないとわからない、イーツェン」
「嫌だ」
 意地になっているのは自分でもわかった。疲れきり、怪我も負っている。そんな今、どうしてこんな意味のないことを強いられなければならないのか。イーツェンはシゼをにらみつける。
「嫌なものは嫌だ」
「イーツェン」
 シゼは棒の重さを計るような仕種をしながら、小さな溜息をついた。イーツェンが持つよりはるかになじんだ手つきで棒を手にする、その小さな動きでさえなめらかで、イーツェンはふっと浮かされたように指先が熱くなるのを感じた。シゼが剣を振る、一連の力強い動きを見た時の、強い羨望と焦燥が喉元までせり上がってくる。一瞬、ふくれあがる感情を抑えるのにひどい力が要った。
「どうせ、お前のようには振れない」
「そんなことをさせたいわけでは‥‥」
「じゃあ何だ!」
 反射的に怒鳴り返す。しまったと思ったが、もう遅い。
 体から何かが流れ出すような無力感に襲われながら、イーツェンは乾いた喉に唾を呑みこんだ。声がしゃがれる。
「‥‥無理だ、シゼ」
 シゼは何も言わず、いつもの、何かを押し殺したような表情でじっとイーツェンを見ていた。彼の沈黙がひどく重い。
 どう言えばいいのかわからないまま、イーツェンは立ちすくんだ。何を言えばいいのだろう。シゼのように剣を振れたらいいと思っていた。あの城での追いつめられたような日々の中で、シゼに剣を教わっていた時間だけは、イーツェンは無心になれた。
 シゼはイーツェンを、イーツェンの剣の才をほめた。目がいいと。そうやって言葉少なにほめられるたびに、イーツェンがどれほど自分を誇らしく思えたか、シゼは知っているだろうか。シゼにとってそれは些細なことだったかもしれない。だが剣でシゼに認められ、少しずつ教えられた通りに剣を振れるようになっていく、わずかな上達の日々をイーツェンは心から楽しんでいた。
 ──すべての記憶が、棘となって胸を貫くようだった。
 たとえただの棒であっても、握って振ればかつての感触を思い出さずにはいられないだろう。だが心が思い出しても、彼の体はそんなふうには動かない。かつてのように、シゼがイーツェンの剣をほめることは2度とないのだ。
 もう決してあんな時間を取り戻すことはできない。それを思い知りたくはなかった。
 シゼはまだイーツェンを凝視している。イーツェンは目をそらし、うつろな口調で呟いた。
「私には‥‥できない」
「イーツェン」
 おだやかで辛抱づよい声だった。イーツェンは首を振る。
「‥‥できない」
「あなたは思っているよりも、動ける筈だ。これもやってみれば──」
「嫌だ!」
 ほとんど悲鳴のように叫んで、イーツェンは自分の声にうろたえた。言葉をさえぎられたシゼは少し黙ったが、まだ引くつもりはないようで、イーツェンを見つめたままゆっくりと口をひらいた。
「動くのを怖がっているのは、わかる。ですがイーツェン、多分、あなたは自分が思っているよりもきっと動けるし、動けるようになる」
「‥‥だからって、どうして」
 いきなり剣を振れなんてところまで飛ぶのかと、イーツェンはシゼが手にした棒を目で指す。シゼは棒をかるい仕種で持ち上げて、言った。
「私には、これしかあなたに教えられることがない」
「‥‥‥」
 喉に大きな塊がつかえたようで、何も返せなかった。
 シゼは、ぽつりと言葉を選ぶようにしながら続ける。
「昨日のようなことが、またないとも限らない。‥‥イーツェン。私は、あなたに、もう1度剣をおぼえてほしい。あなたが、自分の身を守れるように」
 その言葉はひたむきで、答えることができずにイーツェンは立ちすくんだ。傾いた陽が彼らの立つ小さな空き地にさしこんで、木々の長い影がシゼの姿をまだらに染めていた。
 シゼは静かな表情でイーツェンの答えを待っている。だがイーツェンは何の返事も見つけられないまま、シゼの手にある棒へ追いつめられた視線をはしらせ、うつろに首を振った。求めるものは、もう2度と身につけられない。だがそれを言ったところで、シゼは引かないだろう。
 シゼがイーツェンに求めるものと、イーツェン自身が求めるものはちがう。シゼはもはやイーツェンの剣に何も期待していない。上達したり、技を身につけられるとは思っていない。ただ少しでも何かの足しになればと考えているだけだ。それはわかっていた。
 体が小刻みに震えていた。イーツェンは救いを求めるようにシゼを見る。どう言えばいいのだろう。
「私は‥‥」
 言葉にしようとした途端に涙がこみあげてきて、イーツェンは息を呑んでこらえた。剣を持つことはもうあきらめた。思い切ったつもりでいた。その筈だった。
(──臆病だ)
 イーツェンの中で、自分を激しく罵る声がする。イーツェンがしがみついて大切にしようとしているものは、もう2度と戻ってこないものだった。剣を握った感触も、思い通りに狙いさだめて踏みこむ一瞬の緊張も、シゼの剣を受けとめた時の昂揚感も。
 剣をまた持ちたくないわけではない。ふたたび持ちたいと、心の奥底にくすぶる自分の望みを知っている。だから怖い。
 数度息をととのえ、イーツェンはシゼを見つめて、一息に言った。
「いつか、お前と打ち合えるようになるのが夢だったんだ」
 シゼが意表をつかれた様子で顎を引いた。ふっ、とするどく息を吐く音が聞こえる。シゼは一瞬目をそらして右手の棒を見おろし、またイーツェンを見て、ゆっくりとまたたいた。
「‥‥イーツェン」
「もう、無理だ。それは、わかっている‥‥」
 それ以上の言葉が出てこないまま、声は喉につぶれるように消えた。
 シゼが大股にイーツェンとの距離をつめ、イーツェンの肩を左手でつかんだ。左腕の傷が痛まないかとイーツェンはたじろぐが、シゼの表情はまるでゆらがず、イーツェンをのぞきこむ目は怖いほどに真剣だった。
「イーツェン。聞いて下さい」
 唾を呑みこんで、イーツェンはシゼの銅色の瞳を見つめ返す。シゼはかすかに頬を歪めてから、ひどく静かな声で言った。
「イーツェン。あなたがどんなに望んでも、その傷はあなたから消えない」
「わかってる──」
「いや」
 肩をつかむシゼの指はくいこむほどに強く、イーツェンは驚いてシゼを凝視した。つかまれた右肩に体中の熱が集まって、全身がうっすらと汗ばむ。
「2度と、消えない。だからあなたはその傷と一緒に生きていくしかない」
 何かを抑えこんだようなシゼの声もひどく熱く、言葉には激しいひびきがあった。
 わかっている、とイーツェンはくり返そうとする。だが喉がふさがれたようで、言葉も声も出てこなかった。視界がにじんで、歪む口元を噛みしめる。シゼの言葉が、その激しさが、耳の中で鳴りつづけていた。
 シゼの左手がイーツェンの肩をそっと離し、イーツェンの目尻を拭った。
「元には戻れない」
 ざらついた指が頬をなで、こめかみをなでる。イーツェンの汗ばんだ肌に、シゼの指はもっと熱い。
「私があなたに教えられるのは、剣の使い方だけだ。前のようにではなくとも、今のあなたのために。私には、それしかあなたにできることがない」
 シゼのまなざしには押し殺した痛みがあった。イーツェンはシゼを凝視する。互いの視線が強く絡みあって、ひどく息苦しいのにそらすことができなかった。
 シゼはイーツェンの答えを待つように口を結んで見つめている。イーツェンはどこか痺れをおびたような手をのばし、シゼの腕にふれ、シゼの胸にふれた。胸元に拳を置くと、シゼの息づかいが手につたわってくる。今は荒く、強い。
 ゆっくりと身をよせると、シゼの両腕がイーツェンを抱きとった。無言のまま、シゼはイーツェンの髪をなでる。よりそわせた全身にシゼの息づかいを感じながら、イーツェンは汗ばんだ首すじに唇をあてた。唇の下で一瞬、シゼの肌がぴくりと動く。
「‥‥お前のように、強くなりたかった」
 呟いたイーツェンを、シゼは無言で抱きしめた。イーツェンはシゼの背に腕を回し、ごわついたシャツをなでる。シゼの言葉が、熱が、体中にひびいてつたわってくるようだった。
「でもまだ‥‥お前から教わることは、できるんだな。学べることが、きっとまだ、たくさんある」
「できることは全部教える、イーツェン」
 シゼの声は低くかすれていた。
 その首すじにもう1度くちづけ、イーツェンは体を離した。頬の涙を拭い、息をつくと、彼はシゼが右手に持ったままの棒を取ろうとする。だが、シゼは少したじろいだ。
「‥‥今、と言うわけでは」
 イーツェンはきょとんとシゼを見つめる。
「振れと言ったろう」
 シゼはきまりが悪そうに、イーツェンの唇があたった右の首すじを押さえる。虫さされでも掻くような手付きに、イーツェンは笑いそうになった。
「言いましたが、少し急ぎすぎだったかなと」
「同感だけど、言う前に考えてくれ」
 こみあげる笑いをこらえながら、イーツェンはシゼの右手からむしり取るように棒を取った。本当に、今さら何を言う。だがシゼはシゼなりに、昨日の出来事があって焦っていたのかもしれない。そう思うとまた胸の奥が熱くなった。
「でも、お前は正しい」
 両手で握り、右足を少し前に出して脇をしめ、軽く振ってみた。腕が真上に上がらず、左肩にねじれるような痛みがあるので不恰好な振りだったが、シゼは真剣な顔でイーツェンの動作を見ていた。
「私は、こうやって生きていくしかないんだ」
 シゼにと言うよりは自分に、イーツェンは呟いた。無様であっても、自分の望んだような姿でなくとも。背に傷を負い、首に奴隷の輪をはめられて、それでもイーツェンは生きると決めたのだった。かつて、シゼの腕の中で誓った。生きて、戦うと。
 立ったまま見つめているシゼへ、かるい調子でたずねた。
「何回?」
「‥‥15回。力を入れずに、上のことは気にしないで、前へ腕をのばすだけの気持ちで。どうしても痛かったらすぐにやめて下さい」
「わかった」
「息をしっかりと吐いて」
「わかった」
 うなずき、どうしてもこわばってくる肩の力を抜いて、構えてみる。さっきよりはずっと自然な気がした。
 シゼのまなざしを感じながら、イーツェンはゆっくりと、ぎこちない素振りをはじめた。