両手を前に出し、木や茂みにぶつかりながら進む。すぐ背後に息づかいがせまるようで、一瞬も立ちどまれない。
足音を殺すこともできなかった。暗がりに入りこみ、絡みあう枝に先をはばまれて引き返し、もう方向すら見失いそうになる。せめてと、木々の間に仰ぐ月の位置だけを確かめて、足取りを保った。
自分が正常な判断ができなくなっているのがわかった。このままでは駄目だと思いながら、立ちどまるのが恐ろしい。1歩ごとに膝が笑い、背中が痛みに引きつれて、とまってしまえば2度と動けなくなる気がした。
どうしよう、とそればかりが頭の中をめぐる。どうすればいい。
体がつんのめり、腕がぶつかった立木から大きな羽音が飛び去った。夜気をふるわせるような翼の音を見上げ、イーツェンは絶望的に立ちつくす。位置を知られたにちがいない。
振り向くと、傾いた枝のすぐ向こうに火が見えた。近づいてくる火を見つめ、イーツェンの足から力が抜けそうになる。手足が痺れたように動かない。
動け、と念じた。動け。
腹に力をこめ、火傷の痛む両手をぐっと握りしめる。苦痛にはじかれたように、体が自由を取り戻した。
周囲を見回した。すべる木の根を踏み、葉のつもった場所を選びながら歩き出す。今度は走らなかった。走れば無駄に体力を消耗するし、痕が残りすぎる。なるべく乾いた、足跡の残りづらい足場を探しながら息をととのえ、イーツェンはふと頭上を見上げた。
黒々と覆いかぶさる森の上にうかんだ月は青白く、その白さが今はうらめしい。遠くで、犬の群れが喉を絞るような長い咆哮を上げていた。
「犬に食われるぞ!」
背中から男の大声が浴びせられる。まるで、イーツェンの場所を知っているかのように。
──はったりだ。
本当にわかっているのなら、すぐ距離をつめてくる筈だった。脅して、怯えさせ、慌てふためくのを待っている。イーツェンが疲れきり、望みを失うのを。
(それとも、愉しんでいるのか?)
腹がぞっと冷たくなる。狩りのように、イーツェンを獲物にしてなぶっているのだろうか。
だが、そうだとしてもイーツェンにとっては時間稼ぎの手段になる。その時間を精一杯使うしかない。
問題は、イーツェンの体力がいつまで続くかと言うことだった。もうすでに1歩ずつが苦痛で、どうにもならないほど体が重く、足もこわばりはじめている。なるべく朽ち木や木の根を踏んで歩こうとしても、おぼつかない足取りは今にも転びそうだった。
体力勝負でかなうわけがない。あの男は夜が明けるまでイーツェンを追い回す。
(あの火が消えれば──)
月明かりだけなら、逃げられるかもしれない。小川か岩場を見つければ一通りの痕跡は消せる筈だ。少なくとも、夜にまぎれるほどには。
だが、夜が明けたらどうするか。どうなるか。陽光のもとならば、あの男はわずかな痕跡をも追って、いずれイーツェンを追いつめるだろう。
逃げきることは難しい。
歩きながら、イーツェンは慄然とした。闇の中で短時間なら身を隠せても、イーツェンだけではあの男から逃げきる手段がない。シゼに居場所を教えるすべもない。あの男さえいなければ、街道すじの水場でシゼと合流することもできるのだが、追われていては、それも無理だ。
森の中で隠れつづけることは不可能だし、街道に出たとして、イーツェン1人では旅を続けられない。奴隷が1人では、身の安全をはかることすら難しい。
だがあの男の手に落ちることも、イーツェンにとっては破滅を意味した。
イーツェンは息をととのえながら、残る手段を探す。生きのびて、ジノンのところへ通じる道を。シゼはイーツェンの目的地を知っている。そこへたどりつければ、必ず会える筈だった。
──センドリス。
あの石の砦が頭にうかんだ。センドリスはもう砦に戻っただろうか。もしセンドリスがいれば、イーツェンは彼に救いを求めることができる。センドリスがイーツェンをどう扱うか、それはひどく危険な賭けではあったが、赤毛の男とセンドリスの二択となればイーツェンに選択の余地はない。センドリスとならば、取引ができる可能性はあった。
砦に向かうか。道を引き返して。
傾いた岩を踏んだ足がたよりなくすべり、イーツェンはまともに転んだ。手を地面につくが、手首に火傷の痛みがはじけて体を支えられず、そのまま地面で胸を打つ。声を出さずに痛みをこらえて立ち上がり、後ろを振り向いた。
何も見えなかった。
ぞわりと体が冷たくなって、息がつまる。左右に目をはしらせ、進行方向までも見たが、木々の間に浮いていた炎の明るさはどこにも見つからなかった。どこにもあの灯火がない。
燃えつきたのだろうか。それを待っていたつもりだったが、いざそうなってみるとイーツェンを濃い恐怖がつかむ。男の位置も、距離もわからない。
音をたてないようそろそろと木の影に寄り、かがみこんだ。耳をすませて男の動きを聞こうとする。あの悪態や罵声、怒鳴り声、茂みを蹴る音などがどこかから聞こえてこないかどうか、全身の感覚を研ぎすまそうとした。
──どこにいる。
何を狙っている‥‥
犬の吠え声に、びくりと体をこわばらせる。その凶暴な声はもう遠い。彼らの狩りは終わったのだろうか。
枝がミシッときしんだ気がした。誰かの体重がかかる音だろうか。それとも風に揺らぐ森全体から聞こえてくる音か。闇の中では距離感がわからない。
いきなり何かがぶつかりあう音が重くひびきわたって、イーツェンは息を呑んだ。必死に方向を探す。木に物が叩きつけられるような音──低く激しい音が何度も重なりあって、覆いかぶせるように男の呻き声が聞こえた。イーツェンは木の影に身を寄せたまま、全身を凍りつかせ、ただ闇の奥を凝視する。
一段と高い叫び声が上がった。尋常な苦痛ではない、それが死に瀕する者の声なのだとイーツェンにもわかる。だが、きしるようなそれはまるで獣の叫びのようで、誰の声なのかはまるでわからなかった。
ふいに、すべてをかき消すような静寂が落ちる。耳の奥が張った。イーツェンは息もできずに立ちつくす。
闇の奥で何かが動いた。
「イーツェン?」
その声は低く、かすれて、まだ荒々しさがまとわりついている。イーツェンは息を吸おうとして喘いだ。体中が締めつけられたようで、ただ苦しい。
「‥‥ここだ」
絞り出すように、やっと呟く。すぐに足音が近づいた。
「大丈夫ですか?」
探すように動く足音の方へ、イーツェンもよろめいて歩き出す。木々を透かす淡い月光の向こうに影が動いた。
シゼの姿を見た途端に体から力が抜けて、イーツェンはへなへなとその場にしゃがみこんだ。シゼが大股に走り寄る。
「怪我を?」
「大丈夫」
細い声で返事をしたが、イーツェンは手首をつかまれて悲鳴を上げた。シゼがあわてて手を離し、イーツェンの手首をしげしげと見た。
「これは」
「火傷」
じんじんと熱を持つ手を引いて、イーツェンはよろめくように立ち上がった。シゼが肘をつかんでイーツェンを支える。その感触がまだ信じられなかった。
「どうやって、ここが‥‥」
「火が見えて」
シゼは短く言う。痕跡を追って近くまで来ていたのだろう。男が火を消したのは、近づくシゼの気配を感じたからだったのだろうか。
シゼは右手でイーツェンの切れた唇にふれ、顔をしかめた。
「ほかに、怪我は?」
「大したことはない。お前は──腕を」
シゼの左腕に布が巻かれているのに気付いたイーツェンは青ざめた。シゼの服も大きく血で汚れている。だがシゼは何でもないかのように、その左手でイーツェンの手を押しとどめた。
「少し待っていて下さい」
そう言いおいて歩いていくシゼを、イーツェンものろのろとした足取りで追っていく。疲れ果てていたが、シゼを見失うのが嫌だった。
ふしくれだった太い幹の木の根元に、倒れ伏した男の体があった。シゼがその傍らにしゃがみこんで手際よく男の持ち物を調べる様子を、イーツェンはぼんやりと眺めた。
シゼは男の腰から短剣と、小さな硬貨袋を取ったようだった。2つとも剣帯にひっかけるともう男には目も向けず、イーツェンへ歩み寄る。顔に泥がついているのかイーツェンの頬を指で何度か拭ったが、うまく取れなかった様子で手を引いた。
「歩けますか」
「うん」
イーツェンはうなずいて、男の骸から視線を引きはがした。もう2度と追ってはこない。それがわかっていても、背を向けるのに躊躇する。あの声が今にも背中から聞こえてくるような気がした。
シゼがイーツェンの背に腕を回し、ゆっくりと向きを変えて歩き出した。
少し歩いてから、シゼがイーツェンへたずねた。
「口笛、吹けますか?」
「今?」
シゼがうなずくのを見て、イーツェンは舌を歯の裏につけ、やや弱めに音を鳴らした。口の中がからからで、まだ喉も痛い。少し苦労したが、立ちどまって吹いてみると、やがて闇のどこかから小さないななきが聞こえた。キジムだ。
どうやらロバをつないだ方角をはっきりと見きわめたかったらしい。そちらへ歩き出したシゼについていきながら、イーツェンは思わず微笑した。
「途中で口笛を吹いたの、聞こえたか?」
「聞こえましたよ」
静かな返事に、胸の中心がぼんやりとあたたまった。どれほど役に立ったかはわからないが、必死で出したあの音がシゼに届いたのだと思うと、不思議とおだやかな気持ちになった。やっと息が楽にできる、そんな気がする。
「よく‥‥探せたな」
「時間を稼いだでしょう。助かった」
「もう会えないかと思ったよ」
冗談めかして言おうとしたが、語尾がふるえ、イーツェンは苦笑した。
シゼがふいに立ちどまった。イーツェンの肩に手がかかる。何、と小さく聞き返そうとした時には、身をよせてきたシゼの腕に抱きしめられていた。
夜露と汗に湿って、シゼの服は土の匂いがした。背中へ回された腕はいつものように優しいが、確かな力がこもっている。
「決して」
短い、ざらついた囁きが耳元にひびいた。
イーツェンが言葉を返せないでいるうちに、シゼは一瞬の抱擁をといて歩き出した。すぐにこちらの足音を聞きつけたキジムの不安そうないななきが上がり、2人は立木につながれたロバを見つける。
シゼは予備の水袋を取って、イーツェンの両手に中の水を残らずかけた。焼けた傷にひどく沁みて、イーツェンは思わずしゃがみこんでこらえる。
「手当をしないと」
シゼはひどく心配そうだった。自分も怪我をしているくせにと思いながら、イーツェンは疲れた息を思いきり吐き出し、立ち上がって、顔を寄せてきたキジムの鼻っ面をかるく叩いてやった。
「あっちに岩穴がある。そこで休もう」
2人ともに、休息と手当が必要だった。
大まかな方角はつかんでいたとは言え、岩穴まで戻るのに思いのほか手こずった。最後には自分と男の痕跡をたどって、イーツェンはあの横穴を見つけ出す。思っていたよりはずっと遠くまで逃げていたことに少し驚いた。
立ち木にキジムをつなぎ、蔦をからげて、倒れこみたい気分で岩穴の中へ入りこんだ。燻されたような穴の匂いももう気にならなかった。道すがら、シゼが乾いた枯れ木を見つけて拾っていたので、それを使って火を作る。
シゼはキジムの背にくくりつけられていた荷を運びこみ、壁際におろした。その荷物の中から、イーツェンはエナにもらった布袋をひっぱり出した。エナは旅に有用と思えるものをいくつか選り出してイーツェンに使い方を教え、持たせてくれたのだった。
乾燥したアグリモニーの茎葉を手で砕いて陶の丸椀に入れ、水を注いで、炎が当たるように置く。同じ袋の中から木をくりぬいた小さな円筒の容器を取り出し、蓋を取った。蜜蝋と薬草のエキスを混ぜあわせて固めた、濁った琥珀色の軟膏が入っている。オトギリソウとヤロウ──エナが木の蓋に短剣の先で刻んだ印をたしかめ、イーツェンは細く裂いたリンネルの布に軟膏をのばした。
色々と手間どっているうちに、外の痕跡を消しに行っていたシゼが戻ってきた。火の明かりのもとであらためて見ると、シゼのシャツの胸元は浴びたように血まみれで、イーツェンは何も言えずに見上げる。シゼはあぐらでイーツェンの前に座りこみ、両手を取った。
手首と手の甲にかけてずる剥けた皮膚と水泡を見て、溜息をつく。
「‥‥無茶をする」
ぼそりと言って、布を取り、軟膏があたるようにイーツェンの手首に巻いた。指先と指の腹の火傷には、注意深く軟膏を塗る。
それが終わると、少量の水を手布に含ませてイーツェンの頬を拭った。男に殴られたほかにも、枝で擦った細かな傷がちくちくと痛む。腫れてきた唇のはじに溜まった血の塊を丁寧に取りながら、シゼは唇を真一文字に引いていた。
「‥‥ひどい?」
恐る恐るたずねてみると、イーツェンと目をあわせて、ふっと口元をほころばせる。無言で首を振って、イーツェンの唇の傷を親指の腹でなでた。
イーツェンはシゼのシャツを引いた。
「お前の傷を見ないと」
「大丈夫ですよ。かすり傷だ」
「駄目だ。見せて」
言いつのると、やっとシゼは左の二の腕に巻いてある布をほどき、下の傷を見せた。イーツェンが案じていたほど深い傷ではないが、切れ味の悪い刃だったのか、斜めに長い傷の切り口ははぜたように汚ない。抑えていた布が外れると、血があふれてきて肘へつたった。
残っている水のほとんどを使ってイーツェンが丁寧に傷を洗う間、シゼは身じろぎひとつしなかった。それから湯が沸いている陶の器を火から遠ざけると、イーツェンはシゼが傷を押さえていた布──シャツの一部を裂いたものらしかった──を、アグリモニーを煮出した湯の中へ浸した。湯気に注意しながら布のはじをつまんで引き上げ、肌にあてられる温度にまで冷ますと、濡れた布でシゼの傷を洗うように拭った。
こうして空気の動かない岩室にいると、シゼがまとう血臭が濃くたちのぼってくる。もう1度薬液を含ませた布で傷を押さえ、その上から、裂いたリンネルできつく巻いて血どめをした。
「ほかに、傷は?」
たずねるとシゼは首を振るが、両方の腕のあちこちに細かい傷があって、イーツェンは溜息まじりにその傷も薬液で洗った。幸い、シャツに沁みた大きな血の痕はすべて返り血のようだった。
一通り作業をすませ、イーツェンはシゼの拳に両手を重ねた。
「どこも痛くないか?」
たずねる。シゼは首を振った。
「それはあなたでしょう」
「‥‥まあね」
火傷の肌は裂けるように痛いし、肩や足に作った打ち身もズキズキと重く痛い。一体こんな状態で眠れるだろうかと思いながら、イーツェンはあくびをした。眠気よりも疲労がこみあげてくる。口を大きく動かすと、顎がきしんだ。
シゼが毛布をひろげながら、何でもないことのように言った。
「体を少し動かしておきましょう」
「‥‥えっ」
一気に目がさめて、イーツェンはぽかんと口をあけた。この状況で、いつもの運動をしようと言うつもりらしい。何をとんでもないことを、と思わずにらみつけたその前で、シゼはやや神妙な、だが頑固な顔をしていた。
「あちこちの筋肉が痛んでいるでしょう。今ゆるめておかないと、起きた時にはもっとひどいことになります」
「‥‥‥」
「イーツェン。あなたはこの旅には時間がないと言った。私たちは、明日も歩かねばならない」
「‥‥うん」
ずきずきと痛む頭をうなだれてうなずき、イーツェンは溜息を殺した。シゼが正しい。それは確かによくわかっていたが、何だか最後の最後になって落とし穴にでも落ちた気分だった。
返り血のついたシャツを気にしたのか、シゼはシャツを脱いで上半身裸になると、いつものようにイーツェンに後ろから体を添わせ、腕と腕を合わせた。手首の火傷にふれないよう、その仕種は注意深い。
「左手はいい。自分でできる」
傷のついた左腕を動かそうとしているシゼへ、イーツェンはあわてて言った。立って動くだけの余力がなさそうだったので、2人は毛布に座っている。
体をゆっくりと前へ倒すと、背中も腰も張りつめたようにこわばっていて、体全体が引きつれるのを感じた。落馬した時に打った左の肩も痛いし、固い緊張が残った腕の筋肉も痛い。シゼの言う通り、このままでは、明日は体を動かすこと自体が苦痛だっただろう。
重い体をのばしながら、背中にうずく痛みをこらえて、イーツェンは細く長い息を吐いた。体が前に倒れすぎないよう、シゼの右腕がイーツェンを後ろからかかえ、しっかりと支えている。
筋肉の張りを呼吸にそってゆるめようとしながら、イーツェンは呟いた。
「思ってたより‥‥走ったり、体を曲げたり、できたよ」
追いつめられてのことだとは言え、イーツェンの体は、考えていた以上によく動いてくれた気がする。
「あなたは、段々治ってきているんですよ」
シゼは低い声でそう言うと、イーツェンを毛布にうつ伏せで寝かせ、靴を脱がせた。服の上から脚の筋肉をもみほぐしはじめる。体中がぼんやりとあたたまってきて、イーツェンは重いまぶたが下がってくるのをまばたきでこらえた。
「‥‥すまないな。お前も疲れているだろう」
ぽんぽん、と無言で太腿を叩かれた。黙っていろと言うことらしい。イーツェンは口をつぐんだ。
体に粘りつくように残っていた緊張と恐怖が、シゼの手の感触でゆっくりときほぐされていく。顎の痛みも手首の痛みもズキズキと増し、鼓動に合わせて脈打っていたが、その一方で全身にひろがるぬくもりはイーツェンを安心させ、くつろがせる。
いきなり首根をつかまれた気がしてはっと顔を上げると、陽の光が見えた。
イーツェンはしばらくの間、垂れ下がった蔦の間からさし入ってくる陽を、茫然として見つめていた。シゼの手の感触をたった今のことのようにまざまざと覚えていたが、どうやらそのまま眠ってしまっていたらしい。
悪夢のような昨夜の記憶が徐々によみがえり、小さく首すじを震わせた。どれも夢ではないのだと、体のあちこちにうずく痛みが裏づける。
──とんでもない夜だった。
溜息をつき、腫れ上がった唇のにぶい感触にぎょっとした。顔の痛みはあまり感じなかったが、腹と手首には重く、熱っぽい痛みがあった。イーツェンは用心深く、時間をかけてそろそろと起き上がった。
さしこむ陽で穴全体はぼんやりと明るい。薄紗のかかったようなやわらかな陰影の中、シゼが入口に近い岩壁に背をもたせかけ、立てた右膝に肘をのせて眠っていた。昨夜はわからなかったが、血の沁みたシャツは全体に泥で汚れ、あちこちに無残なほどのかぎ裂きができている。
そう言えば、と思ってイーツェンが我が身を見ると、自分の服はもっとひどい状態だった。どろどろに汚れ、至るところが裂け、するどい枝にひっかけられた肩口や膝には血がにじんでいる。感触から察するに肩の後ろや背中にも大きな裂け口ができているようで、イーツェンは思わず溜息をついた。
それが聞こえたように、シゼがうつむいていた顔を上げる。
「どうしました?」
「いや‥‥」
起こすつもりはなかったと、もごもごあやまって、イーツェンは服の胸元をつまんだ。緑色の染め色が残っていた袖口の布にまで、樹液の汚れがべったりと沁みている。
「この服、気に入っていたんだ」
シゼは意表をつかれたように目を見ひらき、短い笑い声をたてた。ぼさぼさの髪に指を通しながら立ち上がる。
「服はまた手に入りますよ」
「お前の服こそ早く何とかしなきゃな。傷を見せて」
シゼの左腕の傷が熱を持っていないことを確認すると、イーツェンは昨夜作ったアグリモニーの煮出し液の残りで盛り上がった傷口を洗った。エナがイーツェンの背中のために持たせてくれたヒレハリソウの香油を傷に塗って、もう1度布で覆う。筋肉にもいいが、傷の治癒にも効く筈だ。香油や軟膏をこの旅の途中で補充するのは難しく、貴重なものだったが、今使わないでどうするという覚悟でたっぷりと使った。
それからシゼの手を借り、イーツェン自身の体をあらためた。肩や手足の打ち身は痣になり、殴られた腹部も一部が紫色に鬱血しているが、力がかからなければそう痛まない。火傷がむけた手首の傷はまだ濡れたように生々しく、最もひどい左手首の内側は白っぽく変色した傷が盛り上がって、まだ空気にふれるだけでするどく痛むようだった。これは、オトギリソウとヤロウの軟膏を塗り直した布でもう1度つつむ。
顎にはまだ痛みが残り、口の動きがやや不自由で、声も微妙にはっきりしなかった。顔もどうやら左頬から唇にかけて腫れ、痣になっているらしい。水場を見つけて冷やしましょう、とシゼがイーツェンを見ながら呟いた。
わずかに残しておいた水で口の渇きをうるおし、痛む顎を動かしてチーズを食べ、イーツェンは岩穴の外へ出る。昨夜はよく見えなかったが、岩の斜面にこんもりと群れているコケモモを見つけ、早速食べられそうな実をいくつか取って口に放りこむと、言葉を失うほど酸っぱかった。まだ少し残っていた眠気がさめ、苦笑しながら唾を地面に吐き出した。
外の立木につながれていたキジムは上機嫌で、朝露の残る丸いシダの葉に舌を巻きつけるようにして食べている。イーツェンの足音に尾を振った。
森に満ちる陽の気配はおだやかで、ちろちろと揺らぐ木洩れ陽が地面に金色の模様をつけていた。光は、まるで波紋のようだ。まだどこか昨日の雨の匂いのする空気をゆっくりと吸いこみながら、イーツェンはこわばった両膝を曲げてみた。
悪くない。体のあちこちの痛みも、耐えきれないほどではない。今日も何とか歩けそうだと、地面に落ちた影の向きから方角を見さだめていると、ガサリと蔦の葉を分けて、右肩に荷をかけたシゼが外へ出てきた。
イーツェンの姿を見たシゼは、何か言いたそうに少し目をほそめたが、結局無言のままだった。目が少し落ちくぼんで、疲れているのがありありとわかる。それでもまなざしはやさしかった。
イーツェンは微笑を返す。自分も同じほどに疲れて見えるだろうと思った。
どちらも疲れ、傷と痛みをかかえている。それでもシゼが言ったように、イーツェンが覚悟したように、2人は行きつく先を目指して歩きつづけなければならないのだった。それがイーツェンの、そして2人の選んだ旅だった。