わき出してくる血を、イーツェンは口をあけて吐き出した。うつ伏せに鞍の前方に乗せられ、両手と両足がそれぞれ馬の両側に垂れている。夜の森の、それも道なき道を行く馬は、さすがに大した速度は出していなかったが、それでも1歩ごとに腹に接地の衝撃がまともにつたわって、手足が大きく揺さぶられた。殴られた腹と顔がずきずきと痛み、体が振られるたびに背中の内側で苦痛がねじれる。
 男の左手が、イーツェンの背中を上から押さえていた。軽い手だが、動けない。荷物のように馬に乗せられて、馬の脇腹にだらりと垂れた両手はいましめられ、もがこうにももがきようがない。男の手がなくとも、その状態から背筋を使って上体を持ち上げるのはイーツェンには無理だった。
 何の考えもなくもがいたとして、落ちるしかない。落馬すれば、打ちどころによっては無事ではすまないだろう──このまま男の思い通りにされるなら、その方がまだいいかもしれないという思いが、ちらりとかすめた。
 だが、馬から落ちたとして、それからどうなるだろう。仮に怪我なくすんだとして、今のイーツェンが追ってくる男から逃げるのは難しい。
 イーツェンは、下を向いた口からまた血を吐き出した。
 シゼはどうなっただろう。多勢に無勢ではあったが、シゼなら切り抜けてくれただろうと祈るような思いがあった。確信と不安が入り混じって胸を刺す。今のイーツェンは信じるしかなかった。
 だが無事だとしても──無事にちがいないが──イーツェンがどこへ運び去られたか、シゼにはわからない。方角の見当すらつかない筈だ。朝になれば足跡も追えるだろうが、今この瞬間、あるかなしかの細い月光だけをたよりに蹄の跡を探そうとしているシゼを思うと、体が締めつけられるようだった。
 シゼにつたえたい。どこへつれ去られていくのか。イーツェンは痕跡を残していく方法を必死で考えようとしたが、逆さに垂れた頭が馬の1歩ごとに揺さぶられる状態では何も出来ない。行く手の方向を見さだめることすら出来ず、どこに向かっているのかまるでわからなかった。
 喉がずきずきと痛む。血の混じった唾を吐き、イーツェンは息を深く吸いこもうとして、刺すような痛みに喉をつまらせた。男が手刀で喉を叩いたのだ。もし首の輪がなければもっとまともに打たれただろうが、皮肉にも奴隷の輪のおかげで喉の中心を打たれずにすんでいた。喉がつぶれるようなことはなかったが、まだ声はうまく出せそうにない。
 数度、ゆっくりと息を吸い、吐いてみた。刺々しい苦痛に喉を慣らし、咳こまないよう深い呼吸をくり返す。馬の揺れが腹にまともにつたわるので、息を吸うのも苦しいし、喉も痛い。何度か吸いこんで胸に充分な息を溜められるようになると、イーツェンはにじみ出る血で舌を濡らし、舌先を歯の裏につけた。
 喉がつまらないよう慎重に息を吸いこみ、肺を満たす。痛む喉が咳の前ぶれにふるえたが、それを抑えこみ、イーツェンは舌先と歯の間から勢いよく息を吹き抜いた。
 甲高く澄みわたった音が鳴る。ユクィルスに来てから歯笛を吹く必要がなかったので、充分に大きな音が出せたかどうかわからなかった。シゼに届いたかどうか。彼が、方角を知る手がかりになれたかどうか──
 首の後ろをわしづかみにされ、背中をそらされて、イーツェンは苦悶の声を上げた。男が右手でイーツェンをつかみながら悪態をつく。
「口ん中に土でもつめこんでほしいか、あァ? このっ──」
 暴れようとするイーツェンを易々と馬上に押さえつけ、男はざらついた声で「山育ちの馬鹿犬」と罵った。
 イーツェンは茫然とする。痛みの中で、それとまったく同じ言葉を聞いた記憶があった。記憶の奥底にある、輪郭を持たないどろりとした悪夢の中で、誰かがイーツェンにそれを言った。イーツェンが山あいのリグで生まれ育ったと知る、誰かが。
 あの城で、暗い地下牢で。イーツェンを陵辱した男の中に、いつもそんな罵りを投げた男がいた。
 誰にそれを聞いた、と問おうにも声は出ない。たとえ答えを得たとして、相手の名に意味があるわけもなかった。男たちの名などイーツェンはまるで覚えていないし、思い出そうとしても、ただ混沌とした痛みの記憶の中で、ほとんどは顔すら曖昧だった。丘のふもとの砦で顔を合わせても、イーツェンからはわからないほどに。
 砦に、いたのだ。イーツェンの顔を知る者が。赤毛の男はその相手からイーツェンの正体と、罵りの言葉を聞いたにちがいなかった。
(──どうすればいい)
 痛みと恐慌の中、イーツェンはばらばらになりそうな思考をかき集める。この男の狙いはもうシゼでも、シゼへの何らかの意趣返しでもなく、イーツェンの身柄なのだ。イーツェンがただの奴隷ではないと知っている。
 幸い、ユクィルスの軍としての動きではない。徒党を組んだ仲間によるものだ。軍の人数をたのめるならば昼間に囲いこんだ方がずっと有利だし、軍なら街道を封鎖して行く手を阻むこともできる。そういう手を打たず、夜間に少人数で襲撃した以上、男は仲間と組んで個人的に動いている筈だった。
 ならば、行きつく先はどこだろう。センドリスのいる砦か、それともイーツェンの首に賞金をかけていたローギスのところか──どこか、より高い値がつく方にちがいない。
 逆さに垂れたイーツェンの顔に汗がにじみ、刺すように目に沁みた。うつ伏せに馬の背にひっかけられているので、馬の1歩ごとに頭が上下に大きく揺れ、顔が馬の脇腹に擦れて気持ちが悪い。方向感覚が定まらず、進んでいる方角の見当すらつかなかった。
 ──街道筋ではない。
 まっすぐに向かえばもう街道に出ている筈だ。だがあたりの気配は森のまま、風や雫の音がざわざわと遠くまで反響している。この闇の中、どこへ行こうとしているにせよ、男は素直に街道へ向かう気はないようだった。
(どこへ?)
 一体、イーツェンをどこへつれていく気なのだろう──
 いきなり何の前ぶれもなく、地面に叩きつけられるような勢いで体が下がる。激しいいななきとともに、イーツェンの体は宙へはねとばされていた。
 もんどり打って、低い茂みに叩きつけられる。縛られた両手でどうにか頭だけは抱えこんだが、衝撃に息がつまった。肩が太い枝に当たって体中に痛みがひびき、ピシピシと音をたてて折れた枝がはね返って肌を擦った。
 咳こみながら、腹をかかえるように丸くなった。馬の悲鳴が耳にこだまし、体中が焼けるような痛みに痺れている。はっ、はっ、と荒い息をつき、苦い唾を吐き捨てながら、茂みにからまった髪を引き外し、よろめいて地面へまろび這った。馬の体勢が低かったのが幸いしてか、まともに落馬するほどの衝撃ではなかったが、それでも全身が震えていた。
 まだ馬は悲鳴を上げている。絞り出すような苦痛の声だった。耳をふさぎたくなるようなその悲鳴が、いきなりふつりと断たれた。
 何があったのか、何がおこっているのか、考える余裕もなく両手と膝で這う。どこかへ逃げこもうとしたが、膝を後ろから蹴られて地面にころがった。
 首根をつかまれて地面をずるずると引きずり戻された。馬の大きな体が横倒しになっている、そのそばへ放り出されて座りこみ、イーツェンは濃密な血の臭いを茫然と嗅いだ。見上げると、男は不機嫌そうに手槍の先を布で拭っていた。
「馬鹿が。こんな場所に仕掛けやがって」
 悪態をつき、腹立たしそうに馬の体を蹴る。馬はもう微動だにしない。こわごわ手をのばしたイーツェンが尻の筋肉の盛り上がりにふれると、毛皮はまだ生きているかのようにあたたかかった。
 馬の後ろ足に縄がからんでいるのが見えた。夜闇の中、不用意に獣用の罠に踏みこんで、足を取られたのだろう。その時にどこかを痛めて、苦痛の声を上げていたのか。呆気なく死んだ獣を、イーツェンは無意識のうちに何度もなでた。
 男は手槍の穂先に鞘をかけて腰に吊り、馬の鞍袋から軽そうな荷をまとめてかつぐと、イーツェンをまた蹴った。
「立て。行くぞ」
 イーツェンは立とうとして、数度転び、足をくじいた芝居をしてみせたが、男はまるで意に介さずイーツェンの腰帯を左手でつかんでぐんぐん歩き出す。よろめき、足を引きずるふりをしながらも、結局のところイーツェンはついて行くしかなかった。
 靴の先で地面に擦った跡を残し、積もった葉を散らして、できるだけ痕跡を残そうとする。どれだけ役に立つかはわからないが、シゼが追ってきた時の手がかりになるように。できるだけ跡を残し、できるだけ男の足取りを遅らせようと、小さな試みをくり返した。
 イーツェンがもたもたとして歩いたり転んだりしていると、男は罵倒しながら手首を結んでいる布をほどいた。そのせいでもたついていると思ったのかもしれない。腕をつかみ、引ったてながら歩いたが、イーツェンが今度は意図せずに木の根に足をかけて転ぶと、男は大声を上げてイーツェンの頬を殴った。
「ぶち殺されたいか?」
 耳ががんがんして、怒鳴る声の半分ほどしか聞こえない。鼻の奥が切れて鼻血が逆流したのか、鉄の匂いのする嫌な生あたたかさが口にひろがり、イーツェンは咳こみながら唾を吐いた。
 尻もちをついたままの彼を赤毛の男が引きずり上げ、荒々しく凄む。
「歩け!」
 がくがくと乱暴に揺すられて、背中の痛みにイーツェンは弱々しくうなずいた。苦痛でにじんだ涙を拭うと、男が嘲笑う。
「王子だ何だと言ったって、こう落ちぶれちゃどうしようもねえな」
 ──やはり知っている。
 イーツェンの身分を、誰かから聞いたのだ。
 用心深く暗い足元を見ながら、イーツェンは男に引きずられて歩き出す。体中、背中も腹も喉も顔も痛かったし、怯えてはいたが、痛みのおかげでかえって落ちつきを取り戻しつつあった。
 殴ろうが蹴ろうが、男はイーツェンの命までは取るまい。取れまい。イーツェンの身柄に何かの価値があると思って奪ったのだ。それをふいにするようなことはない。打算的な男だ。
 そして馬を失った今、イーツェンをこれ以上手ひどく打擲することもできない。もしイーツェンが歩けないほど弱ったり、気を失ったりすれば、男は人ひとりかかえて夜の森を歩かねばならないのだ。そうとわかれば、さほどの怖さはなかった。
 痛みに耐えるすべなら、この身に叩きこんで学んだ。かつてイーツェンが味わった、終わりも望みもない緩慢な苦痛にくらべれば、この男が与える痛みなど表面的なものでしかなかった。
 うつむいて、時おりよろめきながら、イーツェンはいかにも打ちのめされた様をよそおう。怯えて、弱りきったふりをしながら、考えをめぐらせ、逃げ道を探しつづけた。


 馬の血の匂いを嗅ぎつけたのか、野犬の遠吠えがどこかから近づいてくる。
 移動は遅々としたものだった。疲労と芝居が入り混じったイーツェンは転びつづけ、男は1度イーツェンをかついだが、当のイーツェンが非協力でもあり、夜の森はただでさえ歩きづらい。濡れた根を踏んですべり、結局のところ、悪態をつきながらイーツェンを引きずっていくしかなかった。
 山犬が嫌いなイーツェンが、遠吠えのたびにびくびくしている様子を男ははじめ笑っていたが、声が群れになって近づいてくるとさすがに落ちつかなくなった。イーツェンが犬を大嫌いな理由の1つがこれだ──群れて狩りをする。リグでもよく旅人や羊を襲った。時に、自分より大きな山牛までも。
「くそっ」
 岩がせり出した斜面のそばで立ちどまって、男は行く手へ視線を投げる。距離をはかるような仕種だった。やはりどこかで仲間と落ち合う手筈になっているのではないかと、イーツェンは男の仕種を読む。
 また犬が吠えた。さっきより近い。男は舌打ちし、風上へと道を変えた。切り立った斜面に添ってぐるりと回りこむ。
 手槍を抜き、ゴソゴソと斜面を覆う蔦葉を探りながら進んでいたが、やがて立ちどまった。垂れ下がった葉をかき分けて、中へ入るようイーツェンの靴を蹴る。
 闇しか見えない暗がりへ、イーツェンは恐る恐る足を踏み入れた。わずかばかりの月光はたちまち失せ、足元もおぼつかない。手足でさぐりながら岩が盛り上がったゆるやかな斜面をのぼっていくと、音の反響具合で空間がひらけたのがわかった。岩のつめたい匂いに混じって、独特の焦げたような匂いがつんと鼻をつく。地面が平らかになったのを確かめ、イーツェンは用心しながら体をおこした。もっと奥へ進めと男がイーツェンを押しやる。壁に手をあてながら進んだ。
 カチッと音がして、小さな火花が散った。闇に慣れた目には刺すような光だった。カチカチッと男が続けて火打金を打ち合わせ、そのたびに小さな光が周囲を照らす。イーツェンはその光をとらえて、あたりをきょろきょろと見回した。
 崖の斜面にえぐりこまれた、浅い横穴のようだった。入口は覆いかぶさるような蔦で隠されていて、そのせいだろう、昨日の雨にもかかわらず中は乾燥している。男の足元には石を積んで囲った火床があり、焦げた燃えさしが折り重なっていて、この鼻をつく匂いは煙のせいなのかとイーツェンはいぶかしげに燃えさしを見つめた。
 独特の匂いだった。煙で何かをいぶしたような、焦げくさい匂いだ。どこか生々しい獣じみた匂いもその奥にひそんでいて、イーツェンは火をおこそうとする男を落ちつかない気分で見ていた。狩りの拠点なのだろうか。肉や皮を燻すのに使っているとか。
 男は燃えさしの1つに火をつけるのに成功すると、しばらくその火を大きくするのにかかりきりになっていた。その間にイーツェンは何か使えるものがないかと見回したが、道具のようなものは何も見当たらない。岩のかけらでもないかと地面をさぐったが、丸いすべすべとした石しか見つからなかった。
 火を作ると、赤毛の男はまた悪態を吐き散らしながら立ち上がって、イーツェンの手首を布で後ろ手にきつく縛った。頬をぱんぱんとはたく。
「犬どもが寄ってきたらてめェをエサにしてやるからな。ったく、さっさとお前を売りとばしてあいつに吠えヅラかかせてやりてえよ」
 あいつ、はシゼを指すのだろう。やはり含むものがあるらしい。シゼはこの男の名も知らないのに。
 火床の横に、まだ少し乾いた木が残っている。それをかき集めて火の中へ放りこみ、男は苛々と犬の遠吠えに耳をすませた。
 イーツェンは後ろ手に縛られた体を丸め、全身にじんじんと反響する痛みをこらえて細い息を吸いこんだ。森を引きずられたせいで体中土まみれで、乾いた唇を舌でなめると口の中に泥の味がひろがった。左唇のはじが切れて、血がこびりついている。
 前に体を傾けて、わずかな唾を吐き出す。乾いた喉が痛い。顔を殴られたせいか、鼓動のたびに頭の芯まで痛みがうずいた。手を動かそうとしてみるが、布帯できつく締めあげられた両手にはわずかの隙間もない。
 力を入れると肩から背中にかけて引きつったような痛みがはしり、イーツェンはひとまずほどくのをあきらめ、男の様子を観察した。襲われてからまともに相手を見ていない。
 全身に凶暴な気配を満たし、男は火の中に暗いまなざしを据えていた。汗のにじんだ琥珀色の肌がチラチラと揺れる炎に艶をおびている。細く編んだ赤毛を頭上でひっつめているのは昼間に見た通りだが、顔に描いてあった模様は洗い流され、むしろ素顔の方が獰猛な印象は強まっているようだった。炎に見入る男の目は殺気にギラついて、イーツェンの存在などまるで頭にないように見えた。
 手負いの獣のようだ、とイーツェンは思って、背中をぞくりと震わせる。罠にかかり、傷ついて、激しく牙を剥く山の獣。決して飼い馴らせない、殺すか食われるかしかない。男の姿はそんなものを思わせた。
 男が腰に下げている、使いこまれた手槍に視線が吸いよせられる。躊躇せず馬を殺した手際の鮮やかさを思い出していた。何のためらいもなく、男は一突きでとどめをさしたのだ。苦痛に身をよじる馬の大きな体のどこが急所なのかはっきり知っていて、そこを一瞬で刺し貫いた。並みの腕ではなかった。
 男は横穴の入口に垂れた蔦を分けて外を眺め、また舌打ちしてイーツェンを振り向いた。大股に歩き戻り、しゃがみこむと、そむけようとしたイーツェンの顎をぐいと下からつかむ。
「いくらになるかな、あんたは」
「‥‥‥」
 イーツェンは目を伏せたまま、身を小さくした。殴られた顔はまだ痛む。男が指に力をこめると、顎から頭頂までつき抜けるようなするどい苦痛がはしった。
「最近はさ、貴族の奴隷を集める金持ちもいるんだよ。仕込んで異国に売りとばす。怖いか?」
 こわばったイーツェンの表情を見て、唇を歪めるように笑った。
「おとなしくしてりゃ、いい目も見られるってもんだ。地べたで寝なくてもいい。あったかい寝床で寝られるようにしてやる。俺に感謝しろよ、お前はさ。あいつよりいい客に売ってやるからな」
 男の生あたたかい息が顔にかかる。顎をつかむ手は強く、イーツェンはギシリと奥歯のきしむ音が耳の中にひびく気がした。全身に冷汗がにじむ。
 男のざらついた舌が左頬にふれ、顎から頬骨までを舐め上げた。
「王族だ貴族だと威張ったところで、輪っかはめられりゃ何でもするんだよ。お前らだって、一皮むきゃ汚ねえ肉の塊なんだ」
 言葉そのものより、こめられた嘲りと憎しみがイーツェンの中にきつく食い入ってくる。飢えた声だった。
 乱暴な手で突き放され、後ろへ倒れた。縛られた手が体の下敷になって痛む。横倒しになろうともがくと、低い笑い声が聞こえた。
 何とか右肩を下に身をひねり、イーツェンは踊るように岩壁にのび縮みする男の影を見つめる。男は何かの作業をしているようだったが、それを見ようと顎をねじると、左顎から耳にかけてピンと痛みが張りつめ、輪がくいこんで息がつまった。
 火が動いていた。男は炎のついた木を手にしては、舌打ちして戻す。何かを探しているのだろうか。少ししてイーツェンのそばに歩みよってきたので思わず全身を緊張させたが、男は今度は何も言わずにイーツェンの腰帯をほどき、それを使って足首を縛った。
 イーツェンは頬を岩に押しつけたまま、男が歩き去る足音を聞いていた。がさがさと蔦を分け、外へと出ていく。足音が消えると横穴の中はしんと静かになった。
 イーツェンは膝をちぢめ、肩を使って起き上がろうとした。体重のかかった右腕がねじれ、背中が肩の動きに引きつれて痛んだが、何度か向きを変えながらもがく。どうにか体を起こしたが、腹を殴られたせいだろう、ふいに吐き気がして顔をそむけ、苦い唾を吐いた。
 足を動かしてみる。足首も手首と同じようにきっちりと縛り上げられていて、立ち上がるのは難しそうだった。たとえ立てても、すぐに転ぶ。
 男が消えた入口を見つめた。まだ戻ってはこない。とにかく男がいないうちに何とかしなければならなかった。
 手の血流がさまたげられて、指の先がうっすらと痺れてきている。顔をしかめ、イーツェンはちろちろと燃えている火を見つめた。男が何をしていたのか考える。乱雑に散らばった木を見ると、どうやら長めの木を選り出そうとして、途中でやめた様子だった。火のついた焚き木をためすように手に持っていた仕種を思い出して、イーツェンははっとする。
 ──たいまつか?
 たいまつの火を獣よけに、夜の森を移動するつもりなのだろうか。この横穴に置いてあった木は細く乾いた楓やとねりこばかりで、よく燃えるが、たいまつには向かない。男は雨に濡れていない松の枯れ枝でも探しに行ったものか。
 だとすれば、遠くまでは行かないだろうが、雨上がりの森で乾いた大枝を探すには少し手間がかかる。その間に逃げ道を見つけなければとイーツェンはあちこちを見回したが、やはり役に立ちそうなものは何もなかった。尖っている岩の角を探し、這いよって、後ろ手の結び目を擦りつけてもみたが、手首が擦れただけだった。背中と肩が痛くて、後ろ手では力が入らない。布を切ることなどとても出来そうになかった。
 パチン、と木がはじけて火の粉がとび、イーツェンは反射的に身をすくめた。熱っぽい空気がふくらんで頬にふれ、消える。失せた火の粉を、イーツェンはしばらく見つめていた。
 息をつき、縛られた足をのばすと、膝を曲げながら体を引きよせる。そうやって進んでいると、ごつごつした岩に擦れる尻が痛んだ。岩の傾きに乗った体が均衡を失って右へ倒れ、したたか肩を打つ。息がとまった。
 呼吸をととのえ、肩で這うように火へにじり寄る。どうにか身をおこし、両足を使って焚き木の1本を火の外へ押し出した。その木が充分に燃えつづけているのを確かめる。
 両手を岩について体の向きを変え、火に背を向けると、イーツェンは焚き木の方へ手をのばした。
「熱っ!」
 後ろ向きなので、見当とずれたところに火があって、指が炙られる熱さに悲鳴を上げた。喉は痛いが、声はもう出る。
 歯を噛んで、縛られた両手をもう1度後ろにのばした。手首に熱があたる。また叫んでしまいそうだった。ほとんど痛みのように強烈な熱をこらえ、手の位置をずらして火の場所を探した。
 手首が煮えるように熱い。ふつふつと額に汗の粒が浮き、つたいおちた。呻きを殺し、腕をのばしながら体を前に丸め、膝を胸に押しつけて全身を小刻みにゆすりながら痛みをこらえた。背中や顔の痛みに意識を向け、手首を焼く熱さから気をそらそうとする。
 焦げる匂いが鼻をついた。肌が炙られる。イーツェンは半ば恐慌に陥りながら手首を動かそうとした。熱さに腕までも焼けてくるようだ。
 ほどけない。悲鳴を上げ、前に倒れるように火から離れて体を横倒しにしたが、火のついた布は手首から外れず、ますますイーツェンの手首に食いこんでくるようだった。腕を下に転がり、背中で炎を揉み消そうとする。岩に当たる肩と背が激しく痛んだが、それどころではない。
 体を小刻みに動かして転げ回り、火が消えたとわかってからも必死になって手首の熱を取ろうとした。岩の冷たさが心地いい。やがて荒い息をつきながら汗みどろで岩に横たわり、イーツェンは喉の奥からくり返し苦痛の呻きをこぼした。手も背中もまだ燃えるように痛む。
 だが、時間がない。
 横倒しになって、手首を動かす。火傷に布が食いこみ、肉がむしられるような痛みがはしった。いましめがゆるむ気配はない。涙が頬をつたった。息をつき、呻く声を上げ、歯をくいしばって腕に力をこめる。もう1度。
 抵抗がふいにゆるんで、ずるりと布が動いた。燃えた布の一部が切れたらしい。ほどけはしなかったが、ゆるみが大きくなったところから必死で手首を抜いた。
 震える腕を前に回す。焦げて絡みつく布を払うと、白っぽい火ぶくれに覆われて、皮膚が数箇所ずる剥けた手首が目に入った。傷の凄惨さに自分で息を呑んだが、動かせば指は自由に動く。震えて力の入らない指で、どうにか足のいましめをほどこうとした。ほどけない。
 思い通りに動かない指に苛立ちながら、息を吸い、いったん心を鎮めた。もう1度結び目に挑む。今度はうまくいった。布から足を引き抜き、ほどいた布帯を手早く腰に巻きつける。頬につたった涙を手の甲で拭った。
 その時、ガサッと葉の擦れる音が聞こえて全身が総毛立った。横穴の入口を幕のように覆う蔦が揺れる。向こう側から無造作につきこまれた太い枯れ枝が、ぬっと動いた。
 イーツェンは火の中から燃える枝を2本つかみあげ、入口に走った。右手側の壁に沿って身を寄せ、蔦の中から出てきた男の顔面へ火をつきこむ。そのまま投げつけるように手を離した。
 闇に慣れた目が眩んだのだろう、男は驚いた声を上げてのけぞった。だが腕をのばしてイーツェンをとらえようとする。のびてきた手を1度はかわしたが、男の左手に服をつかまれた。
 イーツェンはもう1本の焚き木を握りしめ、火のついた部分を男の手の甲に押しつけた。叫び声とともに手が離れる。足をひっかけられそうになったが、体が勝手に動いた。男がのばしてきた足をとびこえ、闇の中へまろび出る。岩の斜面を転ばずに駆けおりたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。
 後ろから凄まじい怒号が聞こえた。男の服に火が落ちたようだ。イーツェンはためらいなく走って木々の間にとびこむ。茂みの影に身をひそめながら、すくい上げた小石と土を自分と逆方向へ投げ、大きな音をたてた。
 身を小さくして這い進み、見つけた灌木の下へくぐりこむ。絡みあった枝の下をもぐって肘で体を引き寄せると、葉群れの下へすっぽりと体が入りこんだ。亀のように身を丸めて荒い息を殺す。体の至るところが痛んでいたが、とにかくちぎれるのではないかと言うような手首の痛みが耐えがたい。声を出さないよう手の下にあった枝を拾って歯に噛み、身を小さくして、イーツェンは骨にくいいるような苦痛と恐怖をこらえた。全身が痙攣のように小さく震え、鼓動がひとつ打つごとに体中にこだまする。
 男は遠くで何かわめきちらしていたが、その声がぴたりととまった。イーツェンは全身に汗をにじませながら、必死でじっと耳をすます。
 ガン、といきなり激しい音がして、とびあがりそうになった。木の幹を男が棒か何かで殴りつけたらしい。数度そんな音が続き、また位置を変えて音が鳴る。
 段々と、音は近づいてきた。近くの木の幹が凶暴に叩かれ、茂みに棒をつっこんではガサゴソと探っている。イーツェンは愕然と凍りついたが、もう逃げ道などなかった。茂みから今出たら、絶対に見つかる。体をちぢめ、近づいてくる足音と激しく木々が叩かれる音に耳をすました。
 ガン、ガンという音が鳴りひびき、葉が揺れる。男の足取りは、まるでイーツェンのいる場所を知っているかのようにまっすぐに向かってきていた。
 身を小さく丸め、気配を殺そうとする。心臓が喉につまりそうだった。
 頭上でまるで木が砕けんばかりの音がして、イーツェンはきつく目をつぶる。体に振動がつたわってきた。男は幹を4回叩くと、イーツェンのいる灌木の茂みへ棒をつきこんだ。
 体に棒がこすれる感触。棒はイーツェンの脇すれすれをかすめる。そのまま勢いよく茂みを貫き、ざっくりと土をえぐった。棒を引き抜くと、男は何か大声を上げて茂みを叩き、たわんだ枝がイーツェンの頬を熱く擦った。
 今にも引きずり出されるのではないかと身が凍ったが、手はのびてこなかった。足音は数歩行きすぎ、近くの下生えを探っている。
「足の指を切り落としてやるぞ!」
 怒号はひどく凶暴なものだった。荒れ狂う声を聞きながら、噛んでいた枝を吐き出し、イーツェンはこみあげる安堵に全身を弛緩させた。体がぐずぐずになったようで、もうわずかも動ける気がしない。だが、ここにいてはいずれ見つかる。離れなければ。
 声がやや遠ざかったところで、息を呑みこみ、茂みから這い出した。方角の見当だけはつけていたが、男がどこにいるか探すようなことはしなかった。イーツェンに男が見つけられるなら、男からもイーツェンが見つけられると言うことだ。月は細く、森の中は暗かったが、ところどころに濡れたように青ざめた月光が落ちていた。
 茂みを離れようとしたが、枝が服に引っかかっている。じりじりと焦りながらそれを外し、歩き出そうとして、背中の痛みにたじろいだ。少し動くたびに痛みが頭にひびいて、気をそらすとその場に膝が崩れてしまいそうだった。
 イーツェンはできるだけ背をかがめるようにしながら歩き出した。あえて走らない。走るだけの余力などほとんどなかったし、早い動きはかえって闇の中で目を引く気がした。あの男も、シゼのように気配を読むだろう。
 いつしか音がやんでいた。その静寂が気がかりだったが、イーツェンは振り向かなかった。今はそんな余裕がない。1歩でも遠くへ離れなければ。
 傾いた木の幹の下をくぐり、湿った土を踏んで、土が沈む感触にぎょっとした。跡がつく。頭上を仰いだ。月は雲に半ば隠れていたが、男には火がある──
 振り向く。木々の間に明るい炎が浮いているのを見て、息を呑んだ。松の枝に火をつけ、男はその灯りでイーツェンが地面に残した痕跡を追っていた。
 まろぶように、イーツェンは走り出す。のろのろと、だが全身の力を振り絞り、痛みをこらえて走りつづけた。