見上げるほどに背の高い杭が、街道をはさんで左右におよそ10本ずつ並んでいた。いざ街道を封じる時、ここに縄を張るのだろうか。杭と杭の間には横桟が渡された箇所がいくつかあり、そこからボロきれのような塊がだらりとぶら下がって布のはじが風にはためいていた。
何だろう、とはじめは思った。旗にも何かの備品にも見えない。遠目でわかるほど汚い塊だ。風に揺れる重みのある様子に、「まさか」と疑念が沸き、近づくにつれてイーツェンは蝿の群れに気づいて息を呑んだ。吊るされているのは、人の骸だった。
肉が目当てなのか、桟の上には黒々とした翼をすぼめた鴉が数羽とまっている。イーツェンたちが近づくと、その中の1羽が威嚇するように数度羽をひろげてみせた。
死骸は1人──いや、1体ではない。イーツェンは大小5つの骸を数える。
道から少し離れて柵で守られた囲い地があり、いかにも粗末そうな木の小屋が互いにもたれあうようにひしめいている。その裏からは、丘の中腹にある砦へのぼっていく道がついていて、丘からせり出すような堡塁の壁の上には弓を持った歩哨の姿が見てとれた。よく見ると、丘のあちこちにも杭が立てられて、何やら防御の仕掛けが施してありそうだった。
小屋は眠るためだけのものなのか、柵の内側では男たちが思い思いに時間をつぶしていた。100人は越えるだろう。剣や槍で打ち合っている者、素手でやりあって土煙をたてる者、水場とおぼしき石囲みのそばでごろりと横倒しになって昼寝をしている者、杭の上の鴉に弓で狙いをつけている者──矢を放つ寸前で鴉に石が投げつけられ、鳥は飛び去った。弓を放り出した男が石を投げた相手につかみかかってとっくみあいの喧嘩をはじめるや否や、あっというまに周囲を囲んだ人垣が大声ではやしたて、皿が回されて賭けがはじまっていた。
近づくにつれ圧倒的なほどの喧騒がせまってきて、イーツェンの体はこわばる。手が汗ばみ、怒号のような声の重なりがわんわんと耳に反響して、心をゆるめると自分を見失いそうだった。
──何でもないことだ。
そう、強く言いきかせる。センドリスたちがそばを通りすぎていったように。すぐに終わる。
杭に近づく。ぶら下がっている骸には目を向けないようにした。リグでもごくまれに人を吊るすことはあったが、刑罰は常に神々のものであって、こんなふうに無造作に骸がさらされているのを見たことはない。あたりを飛び交う蝿と、風に吹き散らされていく腐臭に胸がむかついた。
杭の手前には兵士が数人立ち、槍の石突きを地面に立てて、近づいてくるイーツェンたちを見ていた。
「どこへ行く」
アア、と鴉が鳴く。ゆるい風が頬にあたって、イーツェンはふっと空気が湿った重みを含んでいるのを感じた。いつのまにか陽も雲に隠れて、影の色も淡い。
「ラギスの市」
シゼが平坦な声で答え、男の1人がロバの背にのせた荷物をさぐる様子を眉をしかめて見ていた。
最初に声をかけてきた、上半身裸に革兜だけをかぶった大柄な兵がシゼを眺め、イーツェンを眺めた。シゼに少し似た、赤みのある灼けた肌の男だった。たくましく鍛えられた胸に新しい傷が斜めに走って、そこだけ肌が白く盛り上がっている。それを見せつけようと裸でいるように見えた。
「その奴隷は?」
「川向こうで買った。市につれていく」
あらかじめ、シゼとイーツェンで出来るだけ話の筋はつけてある。それに添ってシゼは答えを返し、イーツェンの方へのびた男の手を押さえた。
「売り物だ」
「傷をつけようってわけじゃないさ」
男はほがらかにシゼの手を押し返し、イーツェンへ1歩近づいて上体を傾けた。
頭に巻いていた日除けの布は、もう取っている。イーツェンは顔をしげしげと眺められ、全身が冷や汗で粘るのを感じた。従順をよそおって目を伏せ、ただ身を小さくして、ロバの端綱を握りしめながら待つ。奴隷は自ら口をきいてはならない。
少し緑がかった茶色の目で興味深そうにイーツェンを眺め回してから、男はシゼへたずねた。
「輪つきを売ってたのか?」
「弱って歩けなかったから、商人から安く買った。口べらしだろう」
「何でカズミサの町に売りに行かん。戻って北に向かえば、町まですぐだぜ」
首すじがひやりとした。それについての答えは決めていない。だがシゼはたじろぎもせず、相変わらず無関心な様子で答えた。
「輪つきは市に持っていった方が高く売れるし、余分な寄り道は好まない」
「用事か?」
「市に出る知り合いがいてな。うまく落ち合えば、仕事がくる」
ポン、とかるく剣の柄を叩いて、シゼはちらりと空へ目をやった。湿った空気と重そうな雲を、彼も気にしているのがわかった。
男の指がイーツェンの顎にかかる。顔をそむけたくなるのを我慢して、イーツェンは反射的な恐怖と吐き気をこらえた。強靭な指は顎を下からぐっとつかんで、首が痛むほどそらされる。
「かなり新しい輪だな。どこの奴隷だ?」
その声が首すじに生あたたかくひびき、イーツェンは肌を虫が這い回るようなざわつきを必死でおさえた。すぐにシゼの低い声が聞こえる。
「知らん」
「高く売りたいんじゃないのか。出所くらい聞き出しといた方がいいぞ。ここんとこ、素性のいい奴隷も出回っているらしいからな」
男のざらついた指先が、顎のつけ根のやわらかな部分に痛いほどにくいこんでくる。一瞬でイーツェンの首など握りつぶされそうな強靭な指であった。剣の手入れに使う油と、埃と、汗の酸い匂いが押しよせるように体の内側に入りこんできて、イーツェンはきつく奥歯を噛みしめた。
シゼは少しの間、何も言わなかった。不安に息をつめるイーツェンの耳に、やがてぼそりと呟く声がとどいた。
「御免だ。情がうつる。‥‥俺も奴隷の出だからな」
「そんなもんかね」
男の声にははっきりと侮蔑がにじんでいて、そう言えばユクィルスで奴隷商人は位階の低い、忌まれる職だったのだとイーツェンはぼんやり思い至る。こうして「行きずりで手に入れた奴隷を売りに行く」シゼも、同じような侮りを受けているのだろうか。
どうにも身動きができない。首を上に引き絞られるような、頭を反った体勢に、背中の芯が重く引きつれていた。イーツェンはキジムの綱を両手で強く握りしめながら、喉元にせり上がってくる恐怖と嫌悪をどうにか押しこめようとするが、自分にも正体のよくわかない怒りがこみあげてきて胸の内は焼けるようだった。
シゼは、荷を確認した兵に何かを話しかけられていた。男が指の腹でイーツェンの首の輪をなで、顎から手を離す。ほっとしたのも束の間、髪をつかまれてイーツェンは苦痛と動揺の悲鳴を殺した。目のすみでシゼが向き直るのが見え、余計なことをするなと警告したかったが、声を出すわけにはいかなかった。
「おい。どこの生まれだ、お前」
男はイーツェンに直接たずねてくる。イーツェンはからからの喉に唾を飲みこもうとしたが、刺すような痛みがはしっただけだった。
「アンセラ‥‥」
「どこだ、それ?」
からかわれているのかと思ったが、本気でぴんとこない様子の男にイーツェンの胸を強い憎しみがついて、怒りの熱さに自分で驚いた。たしかに小国ではあるが、セクイドの国──セクイドの失った国。人の血がおびただしく流れ、国ひとつが踏みにじられるように滅びた、そのことがユクィルスの兵の中ではこれほどに軽い。答えられず、喉がつまった。
目のすみに、男に近づくシゼのなめらかな動きがうつった。まずい、と全身がつめたくなる。シゼは冷静なようでいて、時として一気に踏みこえるように行動にうつる。城ではオゼルクをつきとばしてイーツェンをかばったし、再会してからもアガインの襟首を締めあげてリッシュと揉みあいになった。今ここであんなことになったら、事態をどう収拾していいかわからない。
ふいにドサッと重い音がして、イーツェンは思わず目をつぶっていた。腹の底からぞわりと恐怖がひろがって、全身が汗に濡れる。
男の手がイーツェンの髪を離れ、よろめいたイーツェンの上腕を誰かが強い力でつかんだ。目をあけると、シゼの顔が間近にイーツェンをのぞきこんでいた。シゼは無造作な手でイーツェンを支え、口を結んだまま、ロバの方へゆっくりと押した。
のろのろとキジムのそばへ寄りながら、イーツェンは一体何がおきたのかと目をさまよわせる。何かを見ている人々の視線を追って、杭のそばにさっきまでなかった塊が落ちていることに、やっと気付いた。
兵の1人が何か言いながらいびつに丸いものを思いきり蹴とばすと、それが道にはねて、周囲がどっと笑った。人の頭だと気づいたイーツェンは、吐き気をこらえて目をそらす。吊るされていた骸の首が抜け、首と体がバラバラに地面へ落下したのだ。その音に気を取られて男が手を離したのだった。
「雨宿りをしていくといいさ」
それまで聞いたことのない、低い艶をおびた声がすぐ背後からかかって、イーツェンは身をこわばらせた。おそるおそる後ろをうかがうと、陽に焼けた顔に赤い染料のようなもので模様を描いた男が、陽気な表情で歯を見せた。ちぢれの細かな赤褐色の髪を頭頂部にひっつめてくくっている。
いでたちが明らかに周囲の兵と異っていて、簡素な胸当てひとつつけていない。商人のようななりの服もサンダルも、小綺麗だった。兵士ではないのかと思ったが、崩れた立ち方や油断のない位置に置かれた右手から、イーツェンはどこか暴力に慣れた粗暴な雰囲気を嗅ぎとる。腰骨に幅広の分厚い革ベルトを斜めにひっかけ、刃の短い湾刀と、手槍のようなものを吊っていた。使いこんだ槍の持ち手が黒ずんでいる。口元は笑っているが、鷹のようなするどい目に笑みはなかった。
雨宿り、という言葉にとまどい、イーツェンは地面のあちこちに黒い染みが落ちはじめているのに気づいて驚いた。ぽつ、と顔にも重い滴があたり、水滴が顎へ向かってすべりおちる。いつから降り出していたのだろう。気付けば雨足はその勢いをまたたく間に強める。
振り向くとシゼは顔をしかめて空を見上げていたが、口を一文字に引いたままうなずいた。イーツェンの胸はずしりと重く沈む。
雨の中、無理にでも発つと言えば、それだけのいわくがある旅だと疑いを招く。だが、雨があがるまでここに足どめされるのは、たまらなく不安だった。
シゼと赤毛の男が短い言葉をかわし、イーツェンについてくるよう合図をして囲い地の方へと歩き出す。もう地面は黒々と濡れはじめ、兵士たちの動きもせわしなくなって、騒ぎながら小屋へ駆けこむ一方、いい水浴びの機会だとでも思うのか、服をはぎとって裸の体に雨を受けようとする者もいる。
馬用の水桶を忙しく並べている、若い──いっそ幼いほどの──従卒の横を歩き抜けながら、イーツェンは顔を伏せた。慌しく動き回る男たちの顔が、どれも見知った顔のような気がしてならない。
イーツェンの顔を知る者、イーツェンの名を知る者。首に輪をかけられたリグの王子について聞き及んでいる者。自分を知る者がどれほどいるのか。ここにいるのか。名も失い、身分も失った筈なのに、それらは亡霊のようにまとわりついて、彼をいまだにどこかへつなぎとめる。幻の鎖、幻の枷。
それは現実の枷より外すのが難しく、イーツェンを悩ませ続ける。何より、そんな幻にいつまでも怯えつづけている自分がみじめだった。至るところに影を見て恐れるばかりの己に、底のない虚しさがこみあげてきた。
雨音が大地を叩く音が、あたりに満ちる。入り乱れているようでどこか不思議に規則的なその音は、ふと気をゆるめると体を満たしてしまいそうだった。
巨大な旋律をかなでているかのような水と大地の音から心を引きはがし、イーツェンはとりとめなく乱れそうな気持ちを引きしめる。雨がやむまで。ただそれだけのことだ。
赤毛の男が2人をつれていったのは、雨よけの屋根があるだけの馬舎だった。壁はなく、風に流された雨粒が時おりに体にかかる。囲い地の奥の杭柵に沿うように長く建てられた廠舎の屋根の下には、数十頭の馬がつながれていて、あたりは獣の匂いがした。
馬舎のはじのがらんと空いた屋根の下に2人を呼びこむと、男はイーツェンを向いて、
「飼い葉を食わせていいぞ」
と言った。イーツェンは身をかがめて無言の礼をし、飼い葉の入った桶を探すとキジムの前へ据えた。あっというまに意地汚く頭をつっこんで飼い葉をがっつきはじめるロバの姿に、緊張がゆるんで小さく笑ってしまう。
だが、ふいに聞こえてきた言葉に、濡れた全身がこわばった。
「その奴隷、俺に売らないか?」
ちらりと盗むように見ると、男は地面に立てられた太い柱に肩をもたせかけて、シゼへ笑みを向けていた。間髪入れずにシゼの声がする。
「売り物ではない」
「どうせ市につれてくつってたろ。ここで売ってけよ。屋根もあるし、身ひとつで小金も稼げる。お偉方の部屋つきにでもなりゃ、食うに困らん。お前が食わせるよりいいもん食えるさ」
奇妙に粘るような、なれなれしい口調だった。イーツェンはシゼの顔を見る。シゼはどこか憂鬱そうに眉をしかめて、じっと赤毛の男の顔を見つめ、答えようとしなかった。
男は腰に手をあてて、意味ありげなまなざしをシゼへ向ける。
「それとも売れない理由があるか。お前が奴隷持ちなんぞ、どう考えてもおかしいだろ、シゼ」
イーツェンは息を呑んだ。シゼは1度も名乗ってはいない。この男はシゼを知っているのだ。
シゼはまた答えなかった。沈黙が長引いて、イーツェンの耳の中は雨音で満たされていく。湿った大地から埃っぽい匂いが漂って、あたりはひどく土くさかった。
ほとんど空になった桶にしつこく飼い葉をあさるキジムの鼻息が聞こえてくる。自分が落ちつくためにキジムの首をなで、イーツェンはまたシゼを見るが、シゼの表情は空洞のようでまるで読めなかった。それがどこか恐ろしい。名を呼びたくても、この男の前でそうするわけにもいかず、イーツェンは口をとざす。
親しげな呼びかけをしたくせに、赤毛の男は笑みを消し、探るような目でシゼを見ていた。
一体誰なのだろう。友人ではない。リッシュやギスフォールに対した時とは、シゼの雰囲気がまるでちがう。この駐屯地で自由に動き回っているあたり、ユクィルスの兵なのだろうか。赤毛も、目元の彫りの深さが独特の顔つきも、ユクィルスの血すじとは異なるが、シゼやリッシュがそうだったように異民族が兵士になるのはありふれたことだ。
イーツェンの顔を知っている様子はない──と言うことは、城の兵ではなかったのだろう。城にいてシゼを知っていたなら、シゼの役割も知っていた筈だ。ならばシゼがイーツェンにつく前か、アンセラ遠征の時の知り合いだろうか。
互いに旧交をあたためようという様子は微塵もない。考えてみれば、雨宿りのためなどと言ってこの男がここまで2人をつれてきたのは、こうしてシゼと話をするためだったのだろうか。だが、何のために。
イーツェンの問いが聞こえたかのように、シゼが呟いた。
「何を言いたい」
「金になる仕事か?」
「いや」
「ふううん」
信用してない声でうなずいて、男は粘っこい目でイーツェンを上から下まで眺め回し、もう1度うなずいた。
「逃亡奴隷だろ。どこからだ? ワケありだろ、どうせ。お前が奴隷の売り買いをするわけがない」
ちらりとイーツェンを見た目はひどく冷たかった。シゼは目を細めるようにして男の言葉を聞いていたが、男が沈黙すると、ふっと声を落とした。
「センドリスはいつ戻る?」
「‥‥‥」
いきなりセンドリスの名が出てきてイーツェンは驚いたが、男はもっとひるんだ。雨音に消えそうなシゼの声は、だがあからさまな刃をはらんでするどく、男の沈黙をとらえて低い語を継いだ。
「素性を知られて吊るされたいか」
「お前の話なんか司令が聞くとでも?」
「賭けるか」
押しこむようにシゼが問うと、男は苛立たしげな笑みで口元を歪めて腕にとまった蝿を乱暴に払った。桶に何もなくなるまで飼い葉をがっついたキジムが妙な鼻息をたて、地面を右足でひっかく。なだめようとして、イーツェンは2人が短く交わした言葉を雨音に聞き取りそびれた。
雨音の激しさは一瞬で、駆けぬけるように薄れる。耳を打つ音が弱まった時、シゼの固い声が聞こえた。
「俺がここを抜けられない時は、お前も道連れだ」
それきり、2人は黙った。
木肌で葺かれた粗末な屋根の間から、ポトリ、ポトリと水の滴が落ちては地面に沁み入っていく。イーツェンは黒ずんで濡れる土を見つめながら、雨がやむ時をひたすらに待ちわびていた。
雨の中、兵が屋根の下に1人寄り、2人寄りして、いつしか5人ばかりが車座になって暇つぶしに賽を振っていた。
シゼは1度加わったが、すぐに抜けて、今はイーツェンと兵の間に立つように柱にもたれ、兵の1人からもらったリコリスの枝を噛んでいた。イーツェンは柱の根元にしゃがみこんで膝をかかえ、鈍色にけぶる景色をじっと眺めながら、ただこの雨がやむよう念じる。
湿気のせいか、緊張のせいか、背中の中心に深い痛みが居座っていた。だがそれを見せてはならないとも思う。また足止めされるような口実をあの男に与えるわけにはいかない。
兵士たちの会話は筋道のないもので、乱暴な口調で交わされるのは、行きずりらしい娼婦の話、宿舎の食事への不満、蚤だらけの敷布、戦いの噂、かつての戦争での己の戦功、給金、出世、故郷の話──そんなものが入り混じった、どこか虚実さだまらないものだった。
くり返し笑い声が上がり、時おりいかがわしい当てこすりがイーツェンやシゼに投げかけられる。シゼはうるさそうにそれを無視していたが、男たちの視線を向けられるたびにイーツェンは身が細りそうだった。その中に伺うような、探るような視線があると思うのは、きっと恐れのせいだろう。そう言いきかせても言いきかせても、足りない。視線ひとつで、心臓が早鐘のように打つ。
シゼの声が聞きたかった。不安な気持ちを鎮めてもらいたかった。だが人目のあるところで会話などできるわけもない。イーツェンはただ口を結んで、雨を凝視しながら痛みをこらえていた。
雨は降り出した時と同じようにいきなり上がった。夕暮れになる前にと祈りつづけたイーツェンの心の声がとどいたか、空から払ったように雲は失せ、影は長かったがまだ夕暮れには時がある。
また何かあるのではないかとイーツェンは懸念していたが、赤毛の男はあっさりとシゼをうながして街道へ出た。杭から下がった骸はたっぷりと雨を含み、重そうに揺れている。見上げれば空洞になった眼窩に見おろされそうで、イーツェンは骸のそばを歩きながらうつむいた。
やはり同じように雨宿りをしていた旅人たちと並んで、求められるままに通行料を支払うと、シゼは赤毛の男に何も言わずに歩き出した。「じゃあな」とわざとらしく明るくはり上げられた声に、イーツェンも振り向かなかった。
街道は雨にぬかるんで歩きづらい。泥が靴の裏にまつわりついて、1歩が重い。靴を道からはがすように歩きながら水たまりをよけるが、ズボンの裾に泥はねが細かくとんだ。
「あれは誰?」
イーツェンがやっとたずねたのは、ゆるい丘陵を回りこんで、振り向いても砦が見えなくなってからだった。
「名前は知らない」
シゼもやっとイーツェンを見て、口をひらく。物問いたげなイーツェンの様子につけくわえた。
「ルルーシュの間者です。何度か、連絡役として顔をあわせたことがある」
「アガインの手下?」
「アガインは彼を信用していなかった。元々、どちらの側についているのかあやしい男だ。ルルーシュの引きこみもしながら、そこでつかんだ情報を元にユクィルスの軍での立身をもくろんでいた」
それでシゼが「センドリスに正体をばらす」と相手の男に脅しをかけたのか、とイーツェンは合点がいく。ルルーシュのために情報を流したことを知られればただではすまない。センドリスの名を使ったことで、いかにも訳知りのように脅しに重みもついた。
「‥‥あやしんでいたな」
肩ごしに道を振り向き、イーツェンは呟く。幾度も自分に投げかけられた、刺すような視線を思い出していた。
「誰かに進言したりしないといいが‥‥」
「私がつかまれば、彼の首もとぶ。それだけのことをしてきた男だ」
そう切り捨てるシゼは、すでに男に関心を失った様子だった。イーツェンも口をつぐんだが、あの男の粘るような言い回しがどうにも気になって、首の後ろにざわつきが残った。あの男の中に、シゼに対して何か含むものがあるように感じられてならなかった。
賽遊びをしながら、男は幾度かシゼにするどいからかいを投げた。残って隊に加わらないかという誘いすら、「尻じゃなくて腕の方を買ってやるからさ」というように攻撃的な言い回しを使った。シゼを怒らせようとしているかのようだった。
聞いているイーツェンはひやひやしたが、シゼはまるで挑発にのらなかった。それがまた男を苛立たせていたような気がする。そう──シゼに対するあの男の目には、拭おうとして拭い去れない苛立ちがあった。
気がかりは残ったが、じきにイーツェンは、日暮までに遅れを取り戻そうとするシゼの歩幅についていくだけで精一杯になった。背の痛みは歩いているうちに薄れたが、緊張のせいで疲労感が強く、歩くことに集中するのが難しい。
道はまた1つゆるやかな丘陵をこえ、周囲の木々は密度を増し、道は次第に森へと呑みこまれていく。この森を無事抜ければ、イーツェンの目指す場所はもう近い筈だった。
──もうすぐだ。
イーツェンは恐れを振り払うように、顔を上げて歩幅をひろげる。丘の堡塁は抜けた。そう思うと気持ちが軽くなる。芯から疲れていたし、まだ背に居座る痛みに悩まされていたが、1歩ずつシゼを追って歩きつづけた。
森に入ってしばらく行くと、道脇の赤樫の木に刃物で刻みこまれた目印があった。斜めの線は、水場があると言う旅人の印。2人は街道を外れてあるかなしかの細い径を分け入り、岩の間から滴る清水を見つけて喉を潤した。
キジムが周囲の下生えをはみながらうろうろと遠ざかっていくので、イーツェンは注意を引こうと口笛を吹く。舌先を歯裏につけてヒュイッと甲高い音を鳴らすと、シゼが水で洗っていた顔を驚いた様子で上げた。
音が大きすぎたようだ。おとなしく戻ってくるキジムに手をのばしながら、イーツェンは苦笑した。
「ごめん」
シゼは手の甲で額と頬から滴を払って、体をおこした。淡褐色のイーツェンの肌とちがって、シゼの肌の色は赤みがかかっている。旅の陽にも焼けて締まった肌をつたう水滴が、木々をさし入ってきた細い陽をはね返し、一瞬きらめいた。
「いえ。よく口笛でそんな音が出せますね」
「舌を、こう押しつけるんだ」
自分の口元を示してイーツェンは口をあけ、舌の動きを見せる。
「リグの子は皆、小さい頃からこれができるよ。山でもよくひびくから、合図に使う」
山肌に反響するあの音もなつかしくて、思わず微笑した。リグの音、リグの風景。必死にたどってきたこの道の先に、それがあるのだろうか。
2人は水場からほどよく離れた場所に、野営できそうな乾いた地面を見つけた。1度倒れたのか、ねじれて斜めになった古いアカマツの幹から驚くほど多くの細い枝が上に向かってのび、そこに蔦がからんでところどころ苔まで生え、小さな屋根のようになっている。その下の地面は雨の跡ひとつなく、乾いて、やわらかかった。
落葉まじりの土にべったりと座りこんで、イーツェンは大きな溜息をついた。今日はあまりにも色々なことがあって、血の一滴までも使い果たしたかのように疲れきっていた。腹がからっぽなのは感じても、食欲すらわかない。
シゼはキジムの背から荷鞍ごと荷をおろしながら、イーツェンへ声をかける。
「何か食べますか」
「‥‥まだ、いい」
疲れた声で返事をすると、シゼはひとつうなずいて荷を置き、向き直った。
「じゃあ、少し体をほぐしておきましょう」
「‥‥‥」
うう、と喉の奥で思わずうなってから、イーツェンはうながされてしぶしぶと立ち上がった。シゼは相変わらず、イーツェンの運動のことになると強引で、何の言い訳も認めようとしない。
それでも、続けるうちにどちらも少しずつ慣れてきて、添わせた体を動かす行為は前ほどイーツェンの心を波立たせなかった。慣れてきているだけでなく、わずかでも癒えてきているのならいいと思いながら、イーツェンは黙々と腕をのばし、回らない肩を限界まで上げられる痛みに顔をしかめる。イーツェンの身が固くなったのを感じたのか、シゼの力がゆるんだ。
森の奥では葉に溜まった滴があちこちに落ちて、森中が遠い雨のような音をたてていた。
かすかに肩をゆすられて、イーツェンは目をあける。何、と言おうとした唇にシゼの指があてられて、口をつぐんだ。昼間の緊張と疲労が体中にこびりついていたせいだろう、眠りは浅く、目覚めは重苦しい。
わずかな星明かりはあるが、森はその明るみも吸いこんで、深みのある闇一色に沈んでいる。すぐそばのシゼの姿を見るのもやっとだ。動きを、目よりは耳で感じとるように、イーツェンはシゼが耳元に囁く声に集中した。
「誰か、いる」
「‥‥‥」
押し殺された声の意味がしみ通ると、だるい眠気を残した体がすうっと冷えた。夜闇に乗じて何者かがしのびよってきたのだ。盗賊か、兵士か、それともイーツェンの追手か。丘を抜けた時、誰かに見とがめられただろうか。
音をたてないよう毛布を丸め、靴をはいて起き上がると、シゼがキジムの背に荷鞍をのせるのを手伝った。尋常ではない空気を感じとったのか、それとも今日は満腹だからか、ロバはおとなしい。
荷の位置をさだめると、鞍帯をイーツェンにまかせてシゼが離れた。剣を抜き放つ気配を感じながら手早くキジムの腹の下に帯を回し、イーツェンは乾いた喉に唾を呑みこむ。留金を留める指がもどかしい。準備ができるとシゼがイーツェンの腕を左手でつかんでゆっくりと歩き出し、イーツェンはキジムの綱を短く握って続いた。
数歩。それからとまって、周囲の気配をうかがう。また数歩。そんなことをくり返した。
2人の靴とキジムの蹄の下で、踏まれた落葉がかすれた音をたてた。森は鬱蒼とした闇を呑んで、敏感になった耳には葉擦れや虫の羽音を含んだ無数の小さなざわめきが聞こえてくる。その奥に誰かの気配、誰かの動きを感じとろうと耳をすましたが、イーツェンの耳の奥には自分の鼓動ばかりが鳴って、うまく集中することができなかった。
枝の形が人の影に見え、葉擦れが足音に聞こえる。手が汗ばんで、体の中が冷たい。
「ついてきている」
シゼがイーツェンの耳元に口をよせ、そう囁いた。イーツェンが反応を返す前にふいに風が鳴るような音がして、息を呑んだ彼の眼前で刃と刃が甲高く噛み合った。ギラリと闇の中にするどい光が浮いて、沈む。
シゼが左手でイーツェンを強くつき放し、闇の中からあらわれた襲撃者と刃を合わせたまま、ぐいと前へ出た。
イーツェンは身を低くしゃがみこみ、キジムの端綱を灌木の枝にひっかけると、茂みの影に身を小さくしてうずくまった。加勢しようとしてもシゼの邪魔になるだけだし、夜の森でシゼとはぐれるわけにはいかない。息を殺して全身を耳にしながら、足元から手さぐりで先のするどい枝を拾った。
荒々しく地面を踏みならす音が闇の中にひびき、剣の音が森の静寂をかき乱す。足音の重なり具合からするとシゼの相手は複数いるようだったが、闇を通してでは状況などほとんどわからない。剣を持つ腕や誰かの動きが一瞬浮くように見えては、すぐに沈む。
その奥から誰ともわからない苦鳴がほとばしって、イーツェンははっと身をかたくした。
シゼの声ではない──そう思いはしても、闇を通して聞くしゃがれた声が、はっきりとシゼのものでないと言い切る自信はなかった。暗闇と緊張が感覚を歪めている。イーツェンは汗ばんだ額をこすりながら、深く息を吸いこんだ。
「子羊ちゃん」
いきなりあまりにも近くから囁かれて、心臓が凍りついた。誰かに腕を強い力でつかまれて引きずり上げられ、腹にドンと衝撃がはしって、視界が白くくらむ。息という息がすべて叩き出されるような、痛みと言うより、体中が焼ける一撃だった。抗うこともできないまま背中から抱きかかえられる。
「か、はっ‥‥」
空気を求めてあえぎながら、イーツェンは握った枝を震える手で男の手に突き立てた。ほとんどろくな力は入らなかったが、それでも悪態のような声がして、イーツェンをかかえる力がゆるむ。闇からシゼの叫びがとんだ。
「イーツェン?」
つづいて剣の打ち合う音。シゼは数人に囲まれて身動きが取れないようだった。
シゼ、と呼ぼうとしたが、顎をかかえこまれて頭がそった次の瞬間、喉元に手刀が叩きこまれて、イーツェンの声はつぶされるように消えた。息ができず、全身に苦悶の脂汗がにじむ。その場に崩れた。
「イーツェン!」
シゼの声。世界が回っているような気がした。ただシゼの方へ這うように動こうとしたが、今度は背中を蹴とばされ、瞬間、あまりにも強烈な痛みが脳天まではじけた。
「子羊ちゃん」
なすすべなくかかえ上げられながら、またその声を聞く。あの声だ、と思った。粘るような、低い声。あの赤毛の男。
つたえないと、ともがく。せめて相手の正体を、シゼにつたえておかないと。だが痺れたような喉からは声が出ない。息すらうまく出なかった。咳こみながら力なく暴れるイーツェンを男が肩にかつぎ上げ、思いもよらない速さで走り出した。
上下動する体の上で、イーツェンはそれでも数度暴れたが、途中で乱暴に地面に投げ出されると今度は顔面を殴られた。意識が朦朧としているうちに運ばれ、気づいた時には手を縛られて、闇を走る馬上に乗せられていた。