翌日も風は強かったが、歩けないほどではなかった。
だが、口がかわいてしきりに水を飲みたがるイーツェンに、シゼは小石をひとつ含ませた。それだけでおもしろいように唾液が出て、かわきがおさまる。
「あまり水を飲むのも疲れるんですよ」
そんなことも言われて、へえ、と感心した。
「シゼは物知りだな」
思ったことをそのまま言うと、シゼが奇妙な顔をした。イーツェンは歩きながら言葉を足す。
「私は色々と物事を知りたくて随分とユクィルスで本を読んだが、あまり役に立つことは覚えられなかった。地図の読み方くらいか」
それだけは覚えておいてよかったと心底思っていた。もとはと言えば地図を見るのはレンギの楽しみで、あれやこれやと語らいながら一緒に地図を眺め、イーツェンも地図が好きになったのだった。ただの図にしか見えない線と文字のつらなりも、レンギが語ると生き生きとした風景のように大地の様子が浮き上がってくる。それが不思議で、楽しかった。そうやってイーツェンは地図の見方を覚え、地図の形を覚えた。その時の記憶が今の彼らの旅を助けている。
知識も力だ──そうイーツェンに言った時、レンギはこんな日がくることをわずかでも予期していただろうか。彼のことを思うと、イーツェンは胸の深いところがゆっくりとしめつけられる気がする。
「ユクィルスで、本を読んでいたんですか?」
「うん。お前がいなくなってから、もっぱら蔵書室で本ばかり読んでいたよ」
思えば、シゼが城を去ってからしばらく──リグの山崩れが露見するまでの間──イーツェンが城での日々をどうすごしていたかなど、話したこともなかったのだった。同様に、シゼがどんな暮らしをしていたのかも聞いていない。
イーツェンの中で、今さらの好奇心がむくりと頭をもたげた。
「シゼはどうしてた? ルルーシュに合流したのはもっと後だろう」
「ええ。ルルーシュを探したのは、あなたのことを聞いてからです」
鞭打ちのことだろうが、用心深くシゼは言葉をぼかした。
「それまでは? 城を出てから、どこに行っていたんだ? 仕事は?」
「騎士団に入ってましたよ」
さらりと言われて、イーツェンはもつれた足で転びそうになった。飲みこんでしまいそうになった小石をあわてて吐き出す。
綱をいきなり引かれたロバが、不服そうにうなって顔を振った。それをなだめて首すじを叩きながら、イーツェンは斜め前をさっさと歩いていくシゼの後ろ姿を凝視した。
「‥‥騎士?」
「騎士団」
訂正して、シゼは肩ごしにちらりと振り向く。
「城のものや貴族のものではなくて、民間のものです」
「そんなのあるのか」
「そのようですね」
いかにもそれで話が終わったように言葉を打ち切られるが、イーツェンは興味津々でシゼの足取りを追った。
「だって、シゼ。騎士を叙任できるのは王族と貴族だろう。あと、叙任権を与えられた騎士か。誰がお前を騎士に?」
「騎士には、なっていませんよ」
「全然わかんない」
シゼは歩きながら、しばらく言葉を選んでいる様子だったが、やがてぼそりと言った。
「‥‥あなたとジノンが、紹介状を書いてくれたでしょう」
「うん」
城を出るシゼに、イーツェンは自筆で紹介状を書いて持たせ、さらにジノンに乞うてその裏書きをしてもらったのだった。王族のお墨付きがあればきっと食うに困ることはないだろうと、よく知らぬままにそう願って。
「あれが効いて豪商の荷回りに雇い入れられたのですが、荷の差配を仕切っていたのが商人お抱えの私設騎士団だったので、私は見習いという形でそこに入団した」
「騎士見習い?」
「の、ようだった」
すぎたことには興味がなさそうなシゼの返事は素気ない。イーツェンは妙に浮かれた気分でシゼを追った。
「じゃあ、しばらくいれば騎士になれたんじゃないか?」
「さあ‥‥」
「見習いって、そういうことだろう。すごいぞシゼ。もうちょっとで大出世だったんじゃないか」
ユクィルスで騎士になれば、貴族階級の娘を妻に娶ることもできる。御前試合や剣の腕前を競う騎士の競技会にも出られるし、そこで貴族のひいきを得れば、その家の客分ともなれる。
土地持ちでなければ騎士の暮らし向きとて楽なものではないが、とにかく騎士となれば正餐で貴族と同じ食卓につくこともできるのだ。身分としては、一介の剣士や傭兵とはまるでくらべものにならない。
「騎士には‥‥」
1人で盛り上がっているイーツェンに、シゼは少々とまどっている様子だったが、ふいに表情を引き締めて道を振り返った。腰の後ろに回っていた剣を、抜きやすいようにぐいと左腰へ回す。イーツェンはキジムの手綱を短く持ち直し、街道はじへ寄ってからシゼの視線を追った。
馬蹄の音が近づいてくるのに気付いて目をこらす。地を慣らす蹄のリズムは早い。埃に薄くけぶった大地から、全速力で走る騎馬の姿はいきなり浮き上がってきたかに見えた。
乗り手はかるく尻を浮かせて馬上にぴたりと身を伏せ、緋染めの手綱を短く持って、イーツェンが思わず見惚れるほどに見事な姿勢のまま街道を走り抜けていった。
もうもうとたちのぼった土煙に、イーツェンは口を覆って咳こむ。埃がおさまってから、やっとのことでシゼへたずねた。
「早馬かな?」
伝使の早馬が街道沿いにそなえられているのは知っている。シゼはぐっと口元を引いて小さくなる馬の姿を見送っていたが、うなずいた。
「緋色の手綱は、王の伝使をあらわします」
「‥‥‥」
イーツェンは口を半開きにしたが、それ以上の言葉はなく、ただシゼと同じ方角を見送った。木々がまばらに立ち並ぶ景色の中心を、茶色い街道が裂くように走っていく。その先は盛り上がった斜面にさえぎられて見えないが、いずれ道は2つの丘の間へと吸いこまれていく筈だった。そこにコバの砦がある。伝使はそこへ行くのだろうと思った。
──王の伝使。
誰から、何を、そして誰につたえにいくと言うのだろう。2人の王の名が頭をよぎったが、こうして土煙のからむ道を歩くだけの自分には、どちらの名もひたすらに遠い存在でしかなかった。
雑木林の中を抜けると、道はごくゆるやかなのぼりに変わり、こんもりと大地に土を盛ったような2つの丘が行く手にはっきりと見えてくる。イーツェンは寺院で奴隷の少年から聞いた話を思い出し、丘を指した。
「あれを、このあたりの人は乳丘と言うらしいよ、シゼ」
歩き疲れてしばらく黙りこんでいたイーツェンがいきなりそんなことを言ったので、横を歩いていたシゼは不意をつかれたようにイーツェンをまじまじと見てから、丘へ目を向けて、一拍おいた。
「‥‥ああ、成程」
真面目にうなずく。イーツェンは指のつけ根が痛む足を動かしながら、同じように丘を眺めた。丘の下部は今のぼっているなだらかな斜面にさえぎられているため、丘はまるでいきなり大地に椀をかぶせたかのように見える。ふっくらと盛り上がった対の形には、たしかにイーツェンを納得させるものがあった。
「なかなかだな。少し右が小さいけど」
「そうですね」
シゼも満更でもなさそうに丘を眺めていたが、ふっと思い出したようにつぶやいた。
「そう言えば、レンギが言っていたことがあります。故郷に、かなり下品な呼び名の岩山があったとか」
シゼが自分からレンギのことを口に出すのは珍しい。イーツェンは路傍の石を蹴りながらたずねた。
「何て名前?」
「発音は忘れましたが‥‥サリアドナの言い方で、男の3本目の足、という意味だとか」
少々言いにくそうにそう言ったシゼを振り向いて、イーツェンは「ふ、ふ」と妙な含み笑いをこぼしてしまう。シゼとレンギが2人でそんな話をしている様子を想像すると、尚更おかしい。
「リグには乙女の泉という泉があるぞ。道がこう、三つ股になったところの‥‥」
と、ロバの端綱を持たない左手を動かし、1本の道が2つに分かれる様子を空に描いた。
「いわば、人の股ぐらあたりにある泉なんだ。しかも茂みにかこまれているから、そんな名前がついたらしい」
「乙女でよかったですね」
少々的を外したシゼの返事に思わず考えこんでから、イーツェンは吹き出した。
「たしかにね。飲む気もおこらないような名前がつけられてもおかしくはなかったな」
そうやって馬鹿な話をしながら歩いていると少し気がまぎれて、棒のように疲れた足も軽くなってくる。
今朝、彼らは町へ向かう街道から西側の道へとそれた。エナたちの寺院を出立してから、今日で9日になる。はじめの日よりも歩くこと自体は楽になったが、疲労が蓄積して、体は毎日重い。それでも人の体は不思議なもので、その重さやしんどさにすら、イーツェンの体は慣れてきつつあった。
水ぶくれが幾度も剥けた足の裏も、子供のようにやわらかかった皮膚が厚みを持って少し丈夫になってきている。もともと、リグでは山歩きになじんでいた。ユクィルスの城内に押しこめられるような暮らしと、その後の鞭打ちや牢獄の日々ですっかり体が忘れたものを、少しずつ──本当にわずかずつ、彼の体は取り戻してきている。じれったくなるほどにかすかなその変化を、イーツェンはひとつひとつ見つけるたびに、噛みしめるような思いだった。
今日中にあそこを通り抜けられるだろうか──と、イーツェンはなだらかにのぼってゆく道の行く手を見る。2つの丘の間には、コバの砦と呼ばれる石の堡塁が街道をはさんで建つという話だが、手前の斜面にさえぎられてまだ見えてこない。
寺院や、街道すじの水場で顔を合わせた旅人から聞いた話を寄せ集めると、どうやら今その堡塁にいる男たちはフェインの旗を持っているということだった。つまりはジノンの側だ。
ローギス側の兵ではないことにイーツェンはほっとしたのだったが、よく考えれば、どちらでも危険なことに変わりはない。ユクィルスの兵にあやしまれ、とらえられでもしたら、自分の身もシゼの身もどうなるかわからないのだ。砦を通る時に誰何されるだろうし、通行料も求められる。どうすれば不審に思われないか、その時にあやしまれたらどうしたらいいか、イーツェンは散々考えつめていた。
首に城の輪をつけた奴隷と剣士。この組み合わせはそれだけで目立つ。だが、どうやら近頃の動乱のせいで、輪つきの奴隷が主人を失ってうろつくこともあるらしい──と、それはシゼが寺院の厨房で聞きこんできた噂で、イーツェンの望みもそこにあった。輪つきの奴隷を我がものにして、競りにつれていこうとする兵士。そんな存在にまぎれてこの道を抜けていければいいと思う。
コバの砦を抜ければ、もはやイーツェンの目指す場所までは道の半ばをすぎる。際限なく歩くだけの日々のように見えて、目的の場所は、歩いた分だけたしかに近づいてきていた。
その先に、リグへの道がある。ある筈だった。きっと。
道の先に石の砦がぼんやり見えてくると、イーツェンは自然と早まりそうになる足どりをおさえた。決して自分のペースを崩すなとシゼから言われている。早めてしまえばその時はいいが、余分な疲労が蓄積し、後から必ず身にのしかかる。1度ならず身にしみていたイーツェンは、今ではおとなしくシゼの忠告に従うようにしていたが、心ははやった。
まばらな木々の向こうで、2つの丘は視界の中をせり上がるように少しずつ大きくなり、その中腹やふもとにある建物の形も見えてくる。のぼりの斜面をこえると、丘に向かって道はゆるやかに下っていた。
イーツェンは何となく、街道の中央にどんと居座るような建物を想像していたが、実際に見えてきたものは両丘の中腹に向き合うように建てられた2つの石の堡塁だった。街道をはさむ形で見おろしている。
丘の間隔がせばまったところでは街道の左右に十数本の杭が打ちこまれ、そこだけがまるで柱廊のようになっていた。向かって右の丘のふもとには杭囲いで囲われた集落があり、遠目ながらもその周囲を人影がにぎやかに動き回っているのがわかる。
人の数を数えるようにぼんやりと囲いのあたりを眺めていたが、ふっとイーツェンはその様子が尋常ではない気がした。キジムを引きながら目をほそめ、よく見ようとしたが、まだ距離がある。囲いの周囲を動き回る人影はやけに多く、動きが慌ただしいように思えるのだが、もしかしたらいつものことかもしれないと考えながらシゼを見た。
だがシゼも何か感じとっていた様子で、じっと人の動きを注視していた。イーツェンに向けて小さくうなずく。2人は足どりをゆるめ、後ろから来ていた1人旅の男へ道をゆずった。
まばらではあるが、この道を行き交う旅人の姿は珍しいものではない。不躾にじろじろ見るわけにはいかないままに、それでも彼らの身なりや荷物の様子から職業や目的を想像するのがイーツェンの気ばらしのひとつであった。
追いこしていった男は日によく焼けて体つきもたくましく、剣を腰に下げてはいるが、手甲も足甲もつけていない。傭兵ではなさそうだ。ふくらんだ裾を紐でしばった職人用のズボンをはいて、肩にかけた大きな皮袋には重そうな道具袋がくくりつけられていた。職人、それも大工か石工ではないかと思いながら漠然と見送り、男の背中が充分に遠くなるまで待ってから、イーツェンはまた丘のふもとへ目をやった。
「騒がしいような気がするんだけど」
さっきの緋色の手綱の伝使に関係があるのかもしれないと思ったが、それ以上推しはかるすべはない。
シゼはすぐには答えなかったが、少し眺めてからぼそりと言った。
「一休みしましょう」
「わかった」
様子を見る、ということだろう。
イーツェンはあたりを見回すと、丈の高い草むらをさけ、街道から少し離れたところに転がっている岩に腰をおろした。棒のように疲労した両足を前へ投げ出して、長い息をつく。
イーツェンの横に座ったシゼも、両手を上げて体をのばしながら、イーツェンに足の様子をたずねた。
「痛くないですか」
「指のつけ根がちょっと痛い。でも大丈夫」
「坂もふえそうですし、そろそろ杖があった方がいいかもしれませんね。もう姿勢を崩すこともないでしょう」
杖を使って歩く習練をしていた時、イーツェンは杖によりかかって姿勢に癖がつき、少し腰を痛めた。そのことをシゼはずっと気にしていた様子だった。
「人目を引かないかな」
奴隷が杖を使って旅をするというのが普通のことなのかどうか、判断がつきかねてイーツェンは首をひねる。シゼは考えこんで、顎をかるくなでた。
「気にする者はいないと思いますが。足を傷めたと思われるくらいでしょう。嫌ですか?」
淡々と問いの矛先を向けられたイーツェンは思わず口ごもった。杖でどうにか歩いていた頃から、彼は杖が大嫌いだった。杖に慣れてしまえば二度と自分の足だけで歩けなくなるような漠然とした恐怖があったし、杖にたよるしかない自分自身に苛立ちもあった。
かつて、シゼが用意してくれた杖を手にしながら、イーツェンはレンギのことをよく考えていた。塔からとびおりた時に傷めたという右足を、レンギはいつも引きずっていて、歩く補助に杖を使っていた。コトン、コトンと床に反響する杖の音を、イーツェンは今でも耳の中にひびくように思い出せる。
ああやって杖をひとつ突くごとに、レンギは何を思っていたのだろう。
それはもう2度とわからないことだった。だが、動かない足に、無力な自分に、それをもたらした己の運命に、レンギは怒りを感じなかったのだろうか。イーツェンの中には今ですら消えていかない怒りがくすぶり、時おりその熱に心臓をつかまれたようになると言うのに。
──杖は、体の弱さだけでなく、イーツェンの心の弱さをもあばき出す。
そんなふうに杖を嫌っていた心を残らず見抜かれたようで、イーツェンはシゼの言葉にドキリとした。だが、単にシゼはイーツェンが杖を手にしたがらないことを様子から察していたのだろう。シゼの方を見ると、含むところのない銅色の瞳がまっすぐに彼を見ていた。
イーツェンは少し考えてから、落ちついた気持ちで口をひらいた。
「もう、いいんだ」
「‥‥‥」
「杖を持つのは、もうそんなに嫌じゃない」
反応のないシゼに、言葉をつけ足す。シゼが何も言わないので、さらに足した。
「杖を使うよ」
もう、杖がなくとも自分が歩けることを知っている。求めるほどに自由にではなくとも、体が動くことを知っている。心のわだかまりは小さかった。
シゼはやっとうなずいたが、ふいに丘の方角へ顔を向けながら勢いよく立った。
「イーツェン」
注意を呼びかける響きにイーツェンも反応して立ち上がり、シゼの見ているものを探す。うっすらと土埃にくもった景色の向こう、丘のふもとから続々と騎馬らしき影が街道にくり出し、イーツェンたちへ向かってきているのが見えた。
その動きは明らかに統率された集団のもので、そうして見ているうちにもみるみる大きくなってくる。せまりくる馬列にイーツェンがうろたえて立ちすくむと、シゼが低い声で言った。
「道のそばまで行って、彼らが通りすぎるまで待ちます」
「何で──」
このまま離れてやりすごしたい。そう思ったが、シゼは言葉をかぶせた。
「旗を持っている、イーツェン」
指で示す。たしかに、列の先導とおぼしき一頭の騎馬からは天に向かって旗竿が立ち、尾のように長くたなびく布の色は、先刻見た手綱と同じ緋色であった。
呑みこめずにぽかんとしたイーツェンへ、シゼが口早に説明する。
「王か王族の旗印だ。あれを持つ者の前に立ちふさがってはならず、背を向けてもならない。通りすぎるまで道端に控える。でないとあやしまれる」
「‥‥‥」
王族、という言葉にただ身がすくみ、イーツェンは動くことができなかった。あの旗の向こうにいるのは誰だろう。彼の顔を知る者かもしれない。名を知る者かもしれない。
城にいた時とはくらべものにならないほど粗末な格好だ。旅の汚れがなじんでくたびれ果てた奴隷になど、いちいち目をとめるわけがない──そう思いながら、全身が緊張にひりついて動悸が喉までせり上がってくる。ここで正体があばかれれば、彼らは終わりだ。
風をつらぬくように喇叭の甲高い音が鳴りひびく。耳ある者は聞け、と。
立ちすくんだままのイーツェンの前で、シゼがふいにしゃがみこんで土を右手にすくい上げた。口を結んだまま、何も言わずにイーツェンの顎を左手でつかみ、右手でぐいと土をなすりつけた。
イーツェンが反応できないでいるうちに、急いだ、少し乱暴な手つきでイーツェンの頬や額に土をこすりつけ、余分な土を払ってから、シゼは1歩下がって検分するような目つきでイーツェンを見た。続いてロバの鞍袋から日よけに使っていた長細い麻布をひっぱり出し、イーツェンの頭にぐるりとかぶせて、首のうしろでゆるく結ぶ。
イーツェンの肩をしっかりとつかみ、シゼは強い目でイーツェンをのぞきこんだ。
「不安な顔を見せてはいけない、イーツェン。何があっても。誰がいても」
「‥‥わかった」
かわいた喉に唾を呑みこみ、イーツェンはうなずいた。土で汚れた顔から埃っぽい匂いがたちのぼって、ひとつ小さなくしゃみをしてから、キジムの手綱をつかんで街道へ向かう。
何度も息を深く吸いこみ、近づいてくる騎馬へ向かって顔を上げると、掲げられた旗竿からたなびく旗に白く染め抜かれた紋章が見えた。炎のように赤くひるがえった旗に続き、2列に並んだ馬がゆったりと地を蹴りながら走ってくる。まだ少し距離があると言うのに、せまりくる馬列には凄まじい圧迫感があった。
普段見かける馬とは桁ちがいに大きくがっしりとした馬は、戦馬だろう。高価なため騎士や上位の剣士たちしか持つことのできない、戦闘用に訓練された貴重な馬だ。騎手はほとんど皆がユクィルス独特の鍛冶の技術で薄く叩いた鉄の胸甲と背甲、さらに皮の手甲と具足で身を鎧っていた。うっすらとした青鈍の輝きが馬上にきらめき、馬蹄をとどろかせながら駆けてくる彼らの姿はどこかまがまがしく、抜き身の剣のような恐しさがあった。
たたずんで待ちながら、イーツェンはどんどん息苦しくなってくる。どうにか呼吸を鎮めようとしながら、顔の区別ができるほどにせまってきた乗り手の姿を見た瞬間、喉元をつらぬかれたように息がとまった。
先導する旗騎のすぐ後ろで黒毛の戦馬にまたがっているのは、緋裏の黒いマントを肩からたっぷりと流して金の肩留めで襞を留めた、見事ないでたちの騎手であった。金箔で模様が打ち出された鎧が薄い陽に豪奢にかがやき、兜はかぶらず、金の髪が風になびくにまかせている。
威風をたたえた大柄な男の姿は、彼こそが統率者だと見る者に一目でしらしめるほどのものであった。馬の横腹に吊った槍は朱に塗られ、腰に帯びた長剣の鞘は珍しい蜥蜴の皮を美しい縞模様に研ぎ出されている。
(王家の遠縁と言えんこともない男のくせに──)
ジノンの言葉が記憶の向こうから浮き上がった。そうだった、とイーツェンは動揺にふるえる手で汗の感触を握りつぶすようにしながら、馬上にある金の髪の男を見つめた。彼と同じ食卓についたのはまだ1年とたたない冬のことなのに、もう遠い昔のように思える。
センドリスの表情は、あの冬の別荘で会った時とはうって変わって厳しく怜悧なものだった。陽気な豪放さはなりをひそめ、絢爛たる鎧と長いマントを見事に着こなした姿に、王族の遠縁だというジノンの言葉をイーツェンは今さら納得する。ジノンはほかに何を言っただろうと、センドリスについての数少ない記憶をさぐった。アンセラ。そしてイーツェンの母の話、遠縁の親戚の話。そんなものが一瞬に頭の中を駆けめぐっていく。
センドリスは、アンセラの執政官だった──
アンセラでシゼと顔を合わせたことがあるかもしれない。イーツェンははっとしたが、シゼにそれを問うにはもう騎馬が近すぎた。ただ奴隷らしく、しかし奇異に思われない程度に顔をうつむけて立つしかない。膝は折らなくていいとシゼは言ったが、本当にこれでいいのだろうか。近づく騎馬の列と大きな軍馬にキジムが怯えているのはわかったが、イーツェンにできることは手綱をしっかりと握ることだけだった。怯えているのは、彼も同じだ。
馬蹄の音が近づく。腹の底にひびくような音に、身の内が緊張にきりりと締めあげられる。イーツェンは地面に揺らぐ馬の影だけをじっと見つめ、無表情をよそおいながら、ただ彼らが通りすぎていくのを待った。
馬の鼻息が聞こえるほどに、もう距離は近い。それを体中に感じた。全身が汗ばんでいるのに背すじが凍るようにつめたい。シゼのことも気になったが、顔を上げればセンドリスと目が合ってしまいそうで恐ろしかった。粗末な服、奴隷の輪、土埃に汚れた顔。髪もセンドリスと会った時よりはずっと短いし、日除けの布を巻いている。きっとセンドリスには今のイーツェンを見分けることなどできまい、そう言いきかせながらも、イーツェンの口はからからに乾いていた。
馬蹄のリズムがいきなり変わって息を呑む。馬の速度が、イーツェンの目の前でゆるんだ。
だが、それはそのまま彼らの前を駆け抜けていく。たちまちあたりは土埃でけぶった。
すべての馬が走り抜けていくまで、そのままじっと待った。一頭、また一頭。体を打つような蹄の音を蹴たてて駆け去る。最後の騎馬と馬蹄の音が遠ざかると、イーツェンは膝から力が抜けそうな安堵にへなへなと背を丸めた。つめていた息を吐き出しながら、埃が入った目の涙を拭う。緊張にまばたきを忘れていた。
何もなかった。それはそうだろう。道端に立つ奴隷の顔など、いちいち見ない。人と言うより、そのへんの小石程度の認識しかしていない。それがわかっていても、薄氷を踏んだように全身が汗ばんで、顔を拭う拳はかすかにふるえていた。
「知った顔ですか」
シゼが騎馬の列を見おくりながら、イーツェンに問う。
「うん。センドリスだ。アンセラで執政官をしていた‥‥ジノンの別荘で、会った」
「ジノンの側の人間ですか?」
「うーん‥‥」
イーツェンは言葉を濁しながら、怯えているキジムの首すじを叩いて街道を歩き出した。センドリスがどこへ行くかは知らないが、まかりまちがって彼が戻ってこないうちに丘を抜けてしまいたかった。
「よく、わからないんだ。オゼルクに聞いた話だと、センドリスは前王の命令でジノンを昔の恋人と別れさせたりしたそうだし」
あれもおかしな話だったと、今になって思う。かつて、城の許しがないままジノンの子を孕んだ娘を、王がセンドリスを使って「始末」させたのだとオゼルクは言った。嘘やでたらめを言っている様子はなかったが、その話が本当ならセンドリスとジノンの関係というものがしっくりこないのも確かだ。イーツェンの見た2人は親しそうだったが、自分を覆い隠すことに長けたジノンの様子をそのまま信用できるわけもなかった。
ジノンのことを考えると少し憂鬱になって、イーツェンは首を振った。彼をたよるしかないのだが、それにしてもわからない相手だ。
「でも旗持ちはフェインの旗を持ってたから、今のセンドリスはフェインとジノンについてるんだろう」
「あれがフェインの旗? ユクィルスの旗に見えましたが」
「うん。同じヘラジカの角に獣の爪の紋だが、右上に星があったろう。あれがフェインの紋だよ」
説明しながら、イーツェンは考えこんでいる様子のシゼを振り向いた。
「センドリスを見るのははじめて?」
「だと思います」
ならば、シゼたちがアンセラを攻めた時にはまだセンドリスはいなかったか、兵卒とは顔を合わせないような場所にいたのかもしれない。ほっとして、イーツェンは少しずつ近づく丘と石の砦へ視線を戻した。
駆け去っていったセンドリスのことをいつまでも考えている余裕はない。センドリスがこの地にいたように、目の前の砦にも、ユクィルスの城にいた剣士や兵がいるかもしれないのだ。そしてその中には、イーツェンの顔や名を知る者がいるかもしれない。
顔になすりつけられた土埃の感触を、指先でなぞった。そして首すじの輪のなめらかな感触を。これが彼の名も身分も、すべてを覆い隠してくれればいい。そう心の底から願いながら、キジムを引いて歩きつづけた。