火からのがれて丸1日ひたすらに歩きつめたせいか、翌日のイーツェンは体中が痛んで仕方なかった。筋肉が体の内側で固くちぢこまってしまったようで、こわばった体が自分のものだという実感を得ることすら難しい。
それでもシゼの手で足の筋肉を揉んでもらい、何だか雲でも踏むような気分で──あちこち小休止を入れながら──午前中を歩き通すと、さすがに体があたたまったようで少しずつ楽にはなった。
本当に面倒な体だ、とイーツェンは思う。いつも思いどおりにならず、いつも彼の枷のようになって重く心を引きもどす。
街道を2、3日行けば、地元領主の治める町がある。街道の周囲にも次第に田畑がふえ、きれいに麦を刈りとられた畑の間には、家がよりあつまった集落もちらほらと見える。その一方で、荒れ放題のまま、石や木の根がむき出しになり、地這いの蔦がからんでいる捨て畑もあった。
街道の幅も少し広くなったが、村から荷を運んだのか、荷車の轍がくっきりとついている道はかえって歩きづらい。
その街道脇で、わずかな売り物を地べたにならべて座りこんでいる農夫がいた。
2人は小休止がわりに立ちどまって、蜜のつまった蜂の巣をチーズの一片と引き替えた。歩きながら互いに分ける。木に垂れさがるような形の蜂の巣から蜜が溜まる部分だけを切り取ったものだということで、巣のまま口に入れると、強い苔くささのある特徴的な甘みが舌にねっとりとひろがった。その甘さで、疲れが少し癒える。
疲れているのはイーツェンだけではない。イーツェンをつれての2人旅はシゼにとっても警戒と緊張の連続であり、しかもろくに眠っていない。そのせいだろう、いつもに輪をかけてシゼは無口になっていた。気づいてはいたが、イーツェンにはどうにもならない。
ひたすらに歩きつづけ、まだ日の高いうちに寺院の建物が見えてくると、イーツェンは心底ほっとした。これでシゼを休ませることができる。
街道から脇道にそれ、ひらべったい丸屋根の建物がいくつもつらなった寺院に近づくと、門の脇ではまた物売りが小さな屋台をひろげていた。シゼは石鹸のかたまりと、イーツェンの足の傷にあてるためのやわらかい布を買う。何かほしいものはないかとイーツェンに目で聞いた。
奴隷らしくおとなしくそばに控えてはいたが、イーツェンは内心売りものに興味津々だった。城でも商人が持ちこむ売り物を見たことはあるが、その時に目にしたような贅沢で洗練された商品ではなく、何に使うのかもよくわからないガラクタがイーツェンの目の前で小さな山になっている。刺繍で飾られた幅広のリボンは半分くらいから千切れているし、海泡石を削った素朴な置物は割れている。どこから持ってきたのか、本のページらしきものもあった。
見ているだけでわくわくするが、役に立たないものを面白半分であさるわけにはいかないし、奴隷が本──の残骸──を手にすれば不審を呼ぶだろう。イーツェンは少しばかりためらってから、厚めの皮を古着の下からひっぱり出した。今使っている靴もやっと足になじんではきたのだが、旅向けの靴ではないため、靴底の薄さのせいでたまに足裏を刺されるような痛みが出る。これを入れれば、少しましになるかもしれない。
シゼはうなずき、短い値切りの交渉をしてから金を払った。それがユクィルスでの妥当な値段なのかどうか、イーツェンにはわからない。思えば本当に何も知らないまま、この国で2年以上をすごしてきた。イーツェンの知るユクィルスは、あの城の中にある世界だけだった。
こうしてシゼと2人の旅に歩き出してから、見るもの、手にふれるひとつひとつが心に新しくひびく。色々なものに自分の手でふれ、手ざわりを感じ、風景を見つめて匂いを吸いこみ、地図でしか知らない道を自分の足で歩く。地図ではわからない地面の凹凸を、足の裏の痛みに感じる。
地べたで眠り、蜂の蜜を味わい、手垢のついた銅貨と引きかえに皮を手に入れて──そうしたすべての物事が積み重なって、イーツェンの中に新しいユクィルスの景色をつくっていく。
憎しみや怒りを忘れたわけではない。忘れられるわけがない。だが、イーツェンにとってのユクィルスはもうあの城の中だけの狭い世界ではなく、ただの憎しみの対象でもなかった。
それが少し、不思議だ。
「行こう」
イーツェンをごく自然に呼んで、シゼが寺院の門へ向かう。イーツェンは商人に頭を下げるとロバの綱を引き、シゼを追って石の門をくぐった。
旅人に慣れているのだろう、寺院はあっさりとシゼの交渉に応じ、離れの棟にある一部屋を提供してくれた。食事は出ないが、厨房を使うのは自由だと言う。
軒先だけでも借りられればと思っていたので、予想外の扱いにイーツェンは喜んだ。しかし無論ただということはなく、イーツェンは薬草苑の手入れを、シゼは銅鍋磨きをすることになって、彼らはそれぞれの労働に午後遅くまでをついやした。
払う金が──道士たちは「寄進」という言葉を使ったが──ないわけではないが、イーツェンがいずれと計画している船旅に、一体いくらあれば足りるものなのか見当がつかない。無駄金を使わずにすむのなら、それにこしたことはなかった。
労働であがなえるなら願ってもないことだったが、疲れた体にはいささかきつい。イーツェンは汗を全身ににじませながら、タチジャコウの影にしゃがみこんで草とりをし、葉裏についた虫の卵を指の腹でつぶし、小石を拾いあつめた。奴隷の輪を首につけた者が不平を言ったり怠けたりするわけにはいかない。
しかし息をするたびにうっすらとした不快感が喉までせりあがってきて、疲弊しきった体の重さに閉口した。同じ姿勢でいると背中も痛みはじめる。だがまだ我慢できる筈だ。浅い息をどうにか深く鎮めながら、細い雑草を指にからめて引き抜き、作業の間にほそく切れた指先を口に含んで、血のまじった唾液を地面に吐いた。
「どこの人?」
そばに人が来ていることに気付かなかったので、いきなり話しかけられてとびあがりそうに驚いた。つい反射的に答えそうになった言葉を呑みこんで、どういう態度を取るべきか、どんな相手か、イーツェンは同じように横にしゃがみこんでいる人影を見た。
奴隷だ、とまず首元に巻かれた鎖を見て判断する。咄嗟にそこを見てしまった自分にかるい吐き気がしたが、曖昧な笑みをつくってざっくばらんに答えた。
「旅を、しているんだ」
「どこに?」
無邪気な好奇心を満面に浮かべているのは痩せぎすの少年で、ソウキよりは年上だろうが、まだ子供っぽさを残した大きな目をしていた。金がかった茶色の髪と白い肌はユクィルスでは珍しくないが、奴隷にはあまり見ないほど長い髪を首のうしろでくくって背中に垂らしていた。小綺麗な服装をしているから、この寺院に住んでいる奴隷なのだろう。
「ここから、西に。コバの砦は知ってる?」
「うん。乳丘の間にあるやつでしょ」
一瞬わからなかったが、それからイーツェンは吹き出しそうになった。乳丘。堡塁をはさむ二つの丘を、どうやらこのあたりの人間はそう呼んでいるらしい。これは後でシゼに教えてやろう、と思った。
少年は人なつっこい目でイーツェンを見ながら、またたずねてくる。
「どこに行くの?」
話に飢えているのだろうか。反射的な警戒を表情に出さないようにしながら、イーツェンはにこやかに聞き返した。
「あの砦って、今、誰がいるのか知ってる?」
質問に答えたくない時には質問で返すのが一番だ。案の定、少年はすらすらと答えた。
「兵隊がいるよ。こないだまで変なのがたむろっててちょっと困ってたんだけどね、こっちも。通行料を勝手に上げるし」
自分が困っているというわけではなく、こまっしゃくれた言い方は、誰かに聞かされた言葉をそのまま言っているようだった。
「誰の兵隊?」
「よくわかんないけど、王様のじゃないみたい。お行儀はいいから評判は悪くないよ」
王様というのは誰のことなのだろう。ローギスか、それともジノンの後ろ盾を得て即位したフェインか。そこを踏みこんで聞いていいものなのかどうか少し悩みながら、イーツェンは言葉を濁して相槌を打った。この寺院がどちらを支持しているのかわからないうちは、余計なことは言わない方がいいのかもしれない。
シゼが銅鍋を磨きながら厨房で情報を集めてきてくれているといいのだが。
「誰と旅をしてるの?」
考えこんでいると、また聞かれた。イーツェンがさりげなく場所をうつして別の薬草の前にしゃがみこんでも、少年は無邪気な顔でぴたりとついては質問をあびせようとする。
なかなか長い午後になりそうだった。
喉に息が引きつり、肺が焼いた空気を呑んだように熱い。どうしても息が吸いこめずに必死にもがいていると、ふいに体中の空気を叩き出すような衝撃が全身にひびいて、世界が一瞬、白くなった。
気がつくと、くらがりの中でシゼがじっと見おろしていた。自分がどこにいるのかかけらも状況が思い出せないまま、混乱した頭でイーツェンはつぶやく。
「シゼ‥‥?」
「うなされていた」
短く言って、シゼはイーツェンにかぶせるようにしていた体をおこした。シゼでふさがっていた視界がひろがって、ぼんやりとした闇の中に木の梁が見える。寺院の宿坊だ、と理解するまでに一瞬かかった。開け放たれた窓からは月光がさしこんで、シゼの目はその光でまるでうすく濡れているようだった。
吐く息が喉にひっかかって小さく咳こみ、胸の痛みに顔をしかめた。どうやら、シゼに胸元を叩かれたらしい。拳か掌底かはわからないが、かなりの力のようだった。
「そんなに起きなかったか?」
肋骨の中心をおさえて座りこんだイーツェンに、シゼが水筒を手渡した。
「息がおかしかったので、つい。痛みますか?」
「‥‥次は加減してくれ」
「そうします」
冗談のつもりで言ったのだが、当のシゼは本気の様子で低く答え、イーツェンが数回に分けて水を飲みこむ様子をじっと見つめていた。イーツェンが水筒を返すと、彼も水に口をつける。
肌にあたる夜気は涼しいものだったが、覚えてもいない悪夢のせいか、体中が粘ついたような汗をかいている。風はほとんどなく、埃っぽい宿坊は少し息苦しかった。宿を与えてもらって文句を言うつもりはないが、この息苦しさが悪夢を誘ったのかもしれない。
胸をさすって息をととのえながら、窓の外からうなりのような人の声が聞こえてくるのに気付いて、イーツェンはぎょっとした。耳鳴りかと疑いながら唾を飲んでみるが、やはり低いうなりは窓の外から聞こえてくる。
大勢が声をそろえて詠唱しているのだ、と思いあたったのは、声に規則的な抑揚がついていたからだった。そう言えば寺院なのだ。夜の行があっても何の不思議もないが、羽音のように遠くひびいてくるそれは少々不気味である。これも夢に影響があったのかもしれないと思いながらイーツェンは耳を傾けたが、何を唱えているのかはさっぱりわからなかった。
あの奴隷の少年も行には出るのだろうか、とふいに思う。それとも、今は──
「足と背中はどうです?」
シゼがイーツェンの横に座りながら、抑えた声でたずねた。窓があいているから、誰に聞かれるとも限らないと用心しているのだろう。イーツェンもうなずいて、声を低く保った。
「疲れているけど、大丈夫。朝には発てるよ」
「もう1日休んだ方がいいんですけどね」
どちらもそんな余裕がゆるされないと知っていて、シゼは独り言のようにそんなことをつぶやいた。
「あなたに無理はさせたくない」
「大丈夫。したくても、できないよ」
あくびまじりにそう返すと、一瞬黙って、シゼがたずねた。
「何か、ありましたか」
「何かって?」
「うなされるのは久しぶりですよ」
「いや‥‥」
すぐに「何もない」と続けようとしたのだが、見すかされたかとたじろいでしまった段階で「何かあった」と白状したも同然だった。くらがりの中で、シゼがじっとイーツェンの顔をのぞきこむ。城にいた時は短く刈られていたシゼの髪はいつのまにかのびて、もうじき前髪が目にかかりそうだった。
「何です?」
「‥‥大したことじゃない。気にしすぎだ、シゼ」
「イーツェン」
「そのせいでうなされたわけじゃないよ」
シゼは何も返事をしなかった。そうなるとどうにも落ちつかない気持ちになって、しばしの沈黙の後、イーツェンは溜息をついた。
「寺院の奴隷と、薬苑で一緒になった話はしただろ」
あの聞きたがりの少年と肩をならべて作業をしながら、イーツェンは根掘り葉掘り放たれる質問を苦心してかわし、どうにか相手の愚痴の聞き役に徹することでそれ以上の質問を封じようとしたが、その愚痴を聞くのが予想以上に大変だった。よくもまあ細い体にあんな悪口が溜まっている、と感心するほどに、少年の口からはぽんぽんと罵倒の言葉がとび出しつづけたのである。
誰かに聞きとがめられやしないかとひやひやするイーツェンにかまわず、少年はイーツェンにはさっぱりわからない相手の悪口を言いまくっては、相槌を求め、けらけらと笑った。
そのあたりのことは、夕食を取りながらシゼにも話してある。夕食を作ったのはイーツェンだ。寺院から厨房を使っていいと言われたものでうれしくなって、疲れてはいたが、薬苑の作業が終わってから厨房に行った。
料理係から小鍋を借り、シゼがもらってきた一杯のワインと水で干し肉と豆を煮こみ、こっそりと薬苑からいただいてきた──それくらいは目こぼししてもらえると少年に勢いよく保証され──香草で風味をつけた。固いパンのかたまりを最後に放りこんでスープを吸わせ、出来上がった煮込みに自分1人で悦に入ったのだった。実際なかなかにいい出来だった。
ここを発てば、またいつあたたかな食事を味わえるかわからない。シゼの難点は食べるものにあまり興味がないところで、それでなくとも似たりよったりになる旅の食事に変化をつける方法を、イーツェンは自分で探さなければならなかった。もっと余裕ができれば、野営しながらあたたかな食事を作ることもできるのかもしれないが、それはまだ彼には難しい。
久々に熱いスープを味わうと疲労もぐんと軽くなった気がして、得た情報を互いに交換し、イーツェンはご機嫌な気分で早目の眠りについた。その筈だった。
だが、心のどこかに少年のことが棘のように残って、それが悪夢を呼んだのだろうか。思い出しながら、イーツェンは溜息をついた。
「薬苑にいる時にあの子に言われた。この寺院にいれば、奴隷でも小遣い稼ぎができるって。‥‥旅の男が、通りかかるから」
「ほかには?」
「それだけだよ。道士に上前をはねられるけど、とか言われてびっくりしただけ」
そもそもそういう目的で、道士は幾人かの若い奴隷を市で買ってきては寺院に住まわせているのだと少年の口から聞いて、イーツェンはめまいがした。
──まるで、売春宿じゃないか‥‥
さすがに大っぴらに女を置いて売るわけにはいかないから、少年を使うのだろう。
茫然としたイーツェンへ、少年はけろりとして、情勢が不安定な外へ行くよりもここで旅人や道士の相手をしていた方が楽だと言った。食事にも寝床にも困らない。あと数年たてば、またどこかに売られていくのだろうとも言ったが、本気でその時のことを心配している様子はなかった。楽天的と言うよりも、目の前のことしか見ていないようだった。
それも生き方にはちがいないだろうが、イーツェンは目の前を何かにふさがれたような気がしたのだった。ここから出ていこうという考えがまるでない少年にも無性に腹が立ったし、かつての自分が、ふいに目の前の少年に重なって見えて愕然とした。イーツェン自身、あの城に飼われるようにしてただその日をすごし、金とは別のものと己を引き換えにして、目の前の日々の先にあるものを見ようともしていなかった。
あの時の自分と少年は、きっと似ている。
城の外に世界があるのだと、漠然とわかってはいても、その世界はイーツェンにとって何の関りもない、何の意味も持たないものだった。
──シゼと2人で、歩き出そうとするまでは。
「‥‥起こしてすまなかった」
つぶやいて、イーツェンはまた毛布の上に身を横たえた。折角屋根の下でゆっくり眠れる筈だったのに、シゼをイーツェンの悪夢で起こした。そのことに、小さな溜息が出た。
城でのことはどうにか割り切ったつもりでいても、傷を覆う薄皮が何かの拍子にやぶれれば、膿みがどろりとあふれ出すように悪夢が戻ってくる。それをくり返してばかりのようだった。シゼは何も言わなかったが、彼があれほど乱暴な起こし方をしたからには、イーツェンはひどい状態だったのだろう。
いつのまにか詠唱の声は途絶え、シゼもすぐ横で眠りに戻ったようだった。イーツェンも目をとじたが、心がまだざわついていてすぐには眠れなかった。それでも静寂の奥にシゼの規則的な寝息を聞いていると、少しずつ、体に残ったこわばりがとけてくる。
シゼがそばにいなければ、一体どうなってしまうだろう。シゼの存在を感じながら、イーツェンはふと胸がつまった。今だけではなく、シゼはいつでもイーツェンを悪夢から引き上げてきた。城を出てからも闇の中にいたイーツェンを絶望から引きずり出し、痛みに怯えきっていた彼をはげまして、イーツェンの中にまだ残っていた火をかきたてたのだ。
もしシゼがいなければ、エナたちと別れる決心も、ジノンに会いに行く勇気をふるいおこすことも、見知らぬ海を渡って故郷に帰るという決断も、イーツェンにはきっとできなかった。自分ひとりならば、手近な場所に身を丸めてちぢこまっていたかもしれない。
シゼは知らないだろう。まるで形のない夢のようだった故郷への夢に形を与え、イーツェンをリグへ向かって歩き出させたのは、シゼの言葉だったのだと。
(あなたを必ずリグへつれていく──)
あの言葉が、イーツェンをリグへと強くつき動かした。あの言葉が、どこかであきらめていたイーツェンに自分の望みを知らせた。
「イーツェン?」
静かな呼びかけにはっとして、イーツェンはシゼの方へ寝返りを打った。言葉ひとつ、名前の呼びかけひとつで、シゼが自分を心配しているのだとわかる。はっきりと言葉にされていないものが鮮やかなほどにつたわってくる、それが不思議だった。
「眠ったと思ってた」
くらがりの向こうで、シゼの声がかすかな笑みを含んだ。
「そういうのは得意だ、イーツェン」
「‥‥私が眠っていないと?」
「呼吸でわかる」
「お前の技を教えてもらわないとなあ」
つぶやきながら、毛布ごと動いてシゼのすぐそばによった。もう夜は充分に更けて、そうして身をよせても不快ではないほどに涼しい。
よりそって肩にシゼの温度を感じると、体から余分な緊張が抜け、途端に眠気がこみあげてくる。そんな自分に苦笑しながらあくびをしていると、シゼがごろりと体を回して肩を下にし、のばした腕でイーツェンの腰をかるく抱いた。
ドキリと、胸の奥が脈を打った。意味を含む仕種ではないとわかっていたが、喉が痺れるような、奇妙な熱がうっすらとひろがってくる。不快ではないが、どうしたらいいのかわからないまま、イーツェンはシゼが体の下に敷きこんでいる毛布のはじを指で握った。
「胸は痛くないですか?」
低い声がさっきまでよりもずっと近くで囁く。シゼのまなざしが闇の中から自分を見ていることもわかって、イーツェンは首すじが少しくすぐったくなった。
「もう大丈夫。‥‥なあ、シゼ」
「はい?」
「お前って、こんなに心配性だったっけ」
シゼが心配しているというより、イーツェンの方が心配をかけっぱなしなのだとは理解しているが、どうも四六時中世話を焼かれている気がしてならない。城を出てすぐの頃ならまだしも、最近はわりと元気になってきたつもりはあるのだが。
「リグへ戻るまで我慢して下さい」
どことなく噛みあわない返事をして、シゼは静かな言葉を重ねた。
「もう、眠って」
「‥‥いつも、そう言うな」
「あなたはたまに、とても寝つきが悪い」
「眠らなきゃいけないのはお前の方だろ」
手をのばしてシゼの腕にふれ、自分の体とはちがう無駄のない筋肉をかるくなでる。しっかりと鍛えられた体に少し羨望を覚えながら、イーツェンはなるべくおだやかな仕種で手のひらをのせた。
「お前も、眠れ」
「ええ」
低い声でつぶやくと、シゼはあらためて右腕を大きくのばし、イーツェンを腕に抱きこんだ。
「シゼ?」
「またうなされたら、すぐわかる」
「‥‥そうか」
子供じゃあるまいしとちょっと笑ってしまう一方で、そんな用心をさせるほどひどいうなされ方だったのかと自責の念が胸を刺す。悪夢のあまり、おかしなことでも口走っただろうか。
シゼは本気でその体勢で眠るつもりのようで、イーツェンの肩口に顔をよせて静かになった。おだやかな息がすぐ近くから聞こえてくる。
体にのせられたシゼの右腕の重みは心地よく、イーツェンの意識はゆっくりと眠りへ傾きかかっていく。涼しい夜とは言っても人の体温のぬくみは少しばかりあたたかすぎるが、シゼの温度は決して嫌ではなかった。まどろんでいるうちに、よりそったシゼの温度と自分の体温が入りまじって、溶けるように区別がつかなくなっていく。
「‥‥もしお前がうなされたら、私が起こすよ」
眠る寸前、何とはなしにそんなことをつぶやいた。シゼは悪夢など見ないかもしれない。人に悪夢から起こしてもらう必要などないかもしれない。ただ、シゼが自分のそばにいてくれるように、自分もシゼのそばにいるのだと、それをつたえたい気持ちがぽつりと言葉になっただけだった。
だから、低い声で返事があった時には驚いた。
「お願いします」
「‥‥うん」
どうしてか空気が通ったように胸の内がかるくなって、イーツェンの意識はそのまま深い眠りへと沈んでいった。
翌日から強い風が出た。
横風をまともに受けないよう、シゼはなるべくイーツェンがロバを風よけにできるようはからったが、平地を吹きわたる風は大量の砂埃を巻き上げ、四方から叩きつけた。体中がざらついて頬が痛み、時おり立ちどまっては目に入った砂を取らねばならなかった。なによりも進もうとする体を押しもどす風の力に、イーツェンは閉口した。
足取りがどうにもはかどらず、1歩がまるで10歩分あるかのようだ。体中に力をこめて風の中を歩き抜けようとするが、疲労はどんどん積み重なった。荷物にくくった毛布があまりにバタつくので、荷をといて作り直そうとして、それにもひどく手間どる。油断すると色々なものが風にさらわれてしまいそうになるのだ。シゼの指示もほとんど聞こえず、耳元で怒鳴るようにしゃべらなければならなかった。
午後になって、砂埃の向こうに小さな集落が見えたので、その日はもうそこでとまることにした。進みがのろすぎるし、危険を感じるほどの強風になってきていた。
宿のあるような村ではなかったが、シゼは交渉のすえに畑の脇にある獣の見張り小屋を借りた。畑を荒らしにくる獣を収穫期に見張るための小屋なので、かがみこんで入らなければならないほど天井が低くて狭いが、眠るだけならどうとでもなる。しかし小屋全体が風にガタガタと鳴動するのは少し怖い。
ロバを表に出しておくのも心配だったが、とりあえず小屋の風下につないで、獣の怯えた顔は見なかったふりをした。どうにかしてロバを小屋につめこめたとしても、ロバが寝返りでも打てば、2人のどちらかがつぶされるにちがいない。
小屋のつくりは粗雑なもので、壁板の隙間から埃を含んだ風が吹きこんでおり、大きな穴の前にシゼが荷物をたてかけてふさいだ。立つと頭が屋根につっかえるので、かがんだままの動きになる。
壁に叩きつける荒れ狂うような風のうねりを聞きながら、イーツェンが衣服に入りこんだ砂を払っていると、シゼがふいに向き直った。
「一休みしたら、少し体を動かしましょう」
2人で立って動くには場所が足りないが、座ったままできる分だけでも、体をのばしておこうというつもりらしい。
正直疲れているのだが、嫌とは言いづらかった。シゼがイーツェンのためにやっているのはわかっているし、やらねばならないということもわかっている。
気がすすまないのは、動きに痛みがともなうことよりも、どうやっても望むようには動かない自分の体を見せつけられている気がするからかもしれない。動かそうとして、動かない。旅の中でもどかしい思いをしながら、こうしてまたシゼの手で不自由な身を思い知らされるのがつらく、苛立たしく、情けなくもあった。
今のところ成果らしきものがあるようには思えない。そんなにすぐわかるものではないのだろうが、それにしてもシゼは強引なまでにイーツェンにその運動をくり返させた。イーツェンがうんざりしていることはわかっているにちがいないが、それを汲み取ろうというつもりはまるで見せない。
──いつ、彼はあきらめるのだろう。
そわせた腕をのばされる痛みに顔をしかめながら、イーツェンはそんなことを考えてしまってドキリとする。同時に、背すじがつめたくなった。そんなふうにシゼがイーツェンをあきらめる時がくるかもしれないと、そう思うのは嫌だった。シゼを失望させたくはない。それなのに、彼の体はどうやっても彼の思い通りにはなってくれなかった。
どうにか動きをこなすと、疲れて汗ばんだ体を狭い小屋に横たえ、重苦しい手足の筋肉をシゼの手で揉まれた。凝ったところを的確に探りあててほぐされる、その心地よさに体が芯から脱力し、沈んでいた気分が浮上してくる。
いい気なもので、そうなると、うじうじと悩んでいる自分の子供っぽさが突如としておかしくなった。何回も、何回も、堂々めぐりのように同じことばかり考えている。自分ではどうしようもないことをくり返して、よく飽きないものだ。
小さく笑っていると、ふくらはぎをさすりながらシゼが不思議そうに呼んだ。
「イーツェン?」
「いや‥‥なかなか、気持ちがまっすぐにならないな、と思って」
ささいなことに苛立ったり、後ろめたくなったり、落ちこんだり、恐れたり。挙句の果てに悪夢を見る。その一方で、こうして簡単なほどすぐ幸福になったりもする。シゼの言葉ひとつ、ふれる手のあたたかさひとつで。
「そんなものですよ」
筋が痛むふくらはぎを丁寧な指でほぐしながら、シゼがおだやかな声で言う。小屋が狭くて体がのばしきれないので、イーツェンはうつ伏せで膝を折り、足はシゼの手で支えられていた。
叩きつける風にガタガタと小屋全体が動き、壁がきしんで、つづけてシゼが何か言ったような気がしたが、イーツェンにはよく聞きとれなかった。
「何?」
「いえ。あなたは、よく笑うようになった」
そう言って、シゼは膝まで上げていたイーツェンのズボンの裾を戻した。イーツェンはくつろいだ気分で起き上がりながら、あくびをする。背中がまだ痛いが、それはいつもの鈍い痛みだった。
「そうかなあ」
髪の中がざりざりとするので、指をさしこんで梳いてみると砂がばらばらと落ちてきて、イーツェンは苦笑した。シゼは耳の中に入った砂がまだ取りきれていないらしく、頭をかたむけて何回も振っている。
「お前と一緒に旅をするのは楽しいよ、シゼ」
シゼが動きをとめてイーツェンを見た。何か言うのかと思ったが、そのまま沈黙が続いて少し気まずくなり、イーツェンはぽつりぽつりと言葉を継ぐ。
「色々‥‥知らなかったことが、わかったりするし。景色を見るのも好きだ。歩くのはまだ大変だけど」
幸福を感じたり、苛立たしくなったり、文句を言い、軽口を叩き──疲れ果てて悪夢を見ることすら、自分が生きていることをイーツェンに知らせる。まるで生きた気のしなかった体に、血が通いはじめたかのように。世界は日ましに鮮やかになる。
「お前は?」
何気なくそうたずねて、イーツェンは口ごもってから、続けた。
「お前は、どうだろう、シゼ。私と旅をするのは楽しいか?」
シゼは少し考えこんでいたが、膝をたてて靴の紐をほどきながら、おだやかな口調で言った。
「あなたは、前にも似たようなことを私に聞いた。自分といっしょに食事をするのはつまらないかと」
「ああ。覚えてる」
城であの塔の部屋にいた時、1人で食事をするのはあまりにも寒々しく、イーツェンは無理を言ってシゼに相伴させていた。だが味わう様子もなく口に食べ物をはこぶだけのシゼの様子が気になって、思わずたずねたのだった。
(私と食べていてもつまらないか?)
あの時はまだ、今ほどシゼを知らなかった。
不思議になつかしく思い出しながら、イーツェンは腕組みして、冗談まじりにシゼをにらんだ。
「お前はあの時、食事を楽しいとか、そういう考え方はしないと言ったな。‥‥まだ同じか?」
シゼは考えながら汚れた靴紐を見ている。ほどいた革紐を目的のない指先がもてあそんだ。
「そうですね。移動することも、食べることも、私にとってはあまりかわらなかった。楽しんだりとか、そういうことは考えたこともない。でもあなたとこうやって旅をするのは少しちがう」
「‥‥‥」
「そう、思う」
どこか言いきかせるような調子で言うと、シゼは靴からぐいと足を抜いた。イーツェンは風にがたつく壁に肩をもたせかけ、シゼが足首を揉んで足の疲労を取る様子をながめていた。
イーツェンが変わってきたように、シゼも変わってきているのかもしれない。それがどんな変化なのか、シゼに何をもたらすのかはわからないが、不思議とおだやかな気持ちだった。波紋のように、心にひびいて残るものがある。
この先に何があるとしても、何があったとしても、よりそうようにこうしてすごした一瞬ずつは、イーツェンの中にもシゼの中にも残っていくのだろう。いつまでも、消えずに。