イーツェンがもっと歩けると主張しても、シゼは頑として1日の道程を短く区切った。
実際それですら歩き通すのはつらく、2日目には足裏が刺すように痛んで皮膚に小さな水泡ができ、朝は背中の芯が苦痛にこわばって、立ち上がれるまでに時間がかかった。
シゼが正しい。それはわかっているが、認めるのが悔しい時もある。とは言え4日目ともなるとイーツェンも素直になって、街道ぞいにひろがる林の中に夜をすごす場所を見つけると、言われるままに毛布でつくった寝床へねそべった。まだ陽も傾き出したばかりで、夕刻までも間がある。
「全然すすめない‥‥」
「ロバに乗りますか?」
シゼが、うつ伏せのイーツェンの足から靴を抜く。足がむくんでいる上に、甲の一部が靴擦れをおこしているので、人の手を借りないと脱ぐのに時間がかかるのだ。
「人目につくと、まずいんじゃないか」
奴隷をロバにのせてシゼが歩く、というのは問題な気がする。街道を歩くようになって、さすがに行き交う旅人もふえ、何気なく値踏みしてくる視線を意識せずにはいられない。
シゼがイーツェンの靴擦れに巻いた布を取り、水で濡らした布を足に押しあてた。傷にしみてくるヒリヒリした痛みにイーツェンが呻いていると、やがて考え深げな声が呟いた。
「足を傷めたということにして、添え木でもしますか」
「‥‥そこまでされなくとも‥‥」
思うように歩けないということとは別に、そうまでしてロバの背に乗るのも何だか恥ずかしい。その一方でそんな自分の意地が馬鹿らしくて、イーツェンは毛布の中に息を吐き出した。シゼの指がむきだしの踵を押し、足首を指の腹でもんでから、すそを上げてふくらはぎを手の腹で押し上げた。
「いたたたたたた」
イーツェンが呻くと手をゆるめ、ゆっくりと撫でさすって、こわばった足の筋肉をほぐそうとする。1日目に何もせずに寝たら翌朝に筋肉が張ってどうしようもなかったのだ。そのことがあってから、シゼはイーツェンの足をきちんとほぐしてから休ませるようになった。
シゼの少し固い手のひらが足をさするにつれ、こわばっていた筋肉が段々とゆるんでくるのを感じ、イーツェンは体から力を抜くと、つたわってくるシゼの手の熱に意識を向けた。
ふくらはぎ全体をほぐすと、シゼはやがて親指の腹に力をこめ、骨と筋にそってぐいと押し上げる。今度は痛みよりも、凝りかたまった場所をもまれる心地よさが勝った。
「焦らない方がいいですよ」
ひとしきりほぐしてから逆の足にうつって、シゼが言う。
「毎日、少しずつ体力をつけるんです。一気に消耗すると、かえって後が面倒になる」
「時間がない、シゼ。間に合うようにたどりつかないと‥‥」
「大丈夫です」
ポン、とふくらはぎを叩かれた。
「すぐによくなる、イーツェン。エナもそう言った。焦ったところで何もうまくいかない」
「うん‥‥」
「後で少し体を動かしましょう」
あれは痛いんだが、と思いながら、イーツェンは黙って目をとじ、服の上から手のひらで太腿を押しほぐされる感触に体をまかせた。エナから教わった動きを、彼らはまだ一度もためしていない。旅の負担は考えていた以上にイーツェンを疲弊させたし、人に見られる心配のない場所が必要だった。
そのまま横たわって短い仮眠を取り、夕刻シゼに起こされて、チーズと固パンと木の実で食事をすませる。それからイーツェンは言われるままに運動をはじめた。
シゼの手が背後からイーツェンの腕に添えられ、二人ともに見よう見真似で体を動かしてみようとはするのだが、エナがやってみせた時のようになめらかにはいかず、体がのびていくような感覚もない。どこがまちがっていて何が正しいのかわからないまま、どうにも彼らの動きはぎこちなかった。
「練習が必要ですね」
そう言ってシゼが運動を打ち切った時、イーツェンは心底ほっとして地面にへたりこんだ。血のめぐりはよくなった気もするが、動かそうと何度もこころみた全身は奇妙ににぶく、背中のあちこちにかすれた痛みがある。本当にこんなことでいいのだろうかと思ったが、それは言えなかった。
日暮れが近い。街道ぞいのカラマツの林の奥、大きな倒木のそばに二人は野営の場所を取っていた。ロバには足縄だけをかけて、食べ物をあちこちであさるにまかせている。
まだ夏の名残りのこの時期に、こうして外で眠るのは好きだった。イーツェンは元来山育ちだ。リグでは、心地よい夏の夜には大勢が何気なく外で眠ったし、時にそうした夜に恋が生まれたという噂も聞いた──と、ふいにそんなことを思い出して、手渡された毛布をひろげながらイーツェンは赤面した。一度に色々な考えが他愛もなく頭の中をかけめぐる。疲れているな、と思いながら、毛布に横たわった。目のすみに、低い枝から葉をむしっているロバの姿がうつる。ひととおり腹を満たしたロバは、すぐそばの立木につながれていた。
人里が近くなれば、こんな自由にロバが食べて回る場所もなくなるだろうし、さだめられた野営場所か、宿で眠らねばならないだろう。気楽なのも今のうちかもしれない。
「お前は大丈夫か?」
と見上げると、倒木に背をもたせかけているシゼは、足元に剣を引き寄せながらうなずいた。
夜通し、張り番としてシゼが起きていることに気付いたのは2日目の夜だった。屋内ではない以上、そうするのが当然のことなのだろう。
シゼはイーツェンの体力をおもんばかって見張りをさせようとはしないが、夜中のうちに起きられれば、シゼと夜番をかわれる。そう思いながらイーツェンはまだ陽が残る空の下で目をとじ、眠りにつこうとした。
横にシゼの気配があって、時おり身じろぐ音が聞ここえてくる。その遠い気配と音が好きだった。シゼがそこにいる、すぐそばにいる。そのことを感じながら、イーツェンは眠りにおちていく。夢ともつかないまどろみの中で、頬にやわらかなくちづけを受けた気がした。
目をあけるとまだ暗く、夜闇は鼻腔の中で少し湿っぽい匂いがした。
こわばっている体をゆっくり起こそうとしていると、すぐ横で人の動く気配がして胸元をかるくおさえられた。星明かりの下で自分をのぞきこむ人影がシゼのものだと言うことは、低い声を聞くまでもなくすぐにわかる。
「まだ眠っていた方がいい」
「足りてる」
そうもごもごと返して、イーツェンはシゼの手をつかむと、手伝ってくれとうながした。たしか横向きに身を丸めて眠ったはずだが、いつ仰向けになったのだろう。背中の傷への警戒心がうすれてきたのだろうし、それはうれしいが、当の背中は体重の圧力を受けて少しばかり痛い。
シゼは身をかがめて、イーツェンの背中へ腕を回し、抱き起こした。体から毛布がずり落ちて、二人の間にわだかまる。
すぐ離れるだろうと思っていたがそのままゆるく抱きよせられて、イーツェンはシゼの肩に顔をのせ、まだ寝惚けた目でまたたいた。珍しいな、とぼんやり考えながら、シゼの体に両腕を回してためらいなく体を預ける。
シゼはイーツェンを抱きよせたまま、無言で髪をなで、たしかめるような手で背中をなでおろした。シゼのぬくもりを感じてうっかりまたまどろみそうになったが、背の内にあるかすかな痛みの脈動がイーツェンの意識を引き戻す。切羽つまるほどの痛みではなく、ただ背骨の中央に据わって時おりよじれる、にぶい痛み。
吐息を口の中で殺して、イーツェンはシゼの肩に頬を擦りつけた。つい甘えた仕種をしてしまうほど、じわりと体にうつってくるシゼの温度が心地いい。そうして身をよせていると、どうにも人恋しい気持ちがせりあがってくる。
その一方で、体の内にうずめられない空隙が口をあけているような虚無感が、ふつりと動く。欲望とは少しちがうが、己をどこかへせきたてていきそうな──それは、少し怖い。イーツェンは鍛えられたシゼの背をなで、そこにある確かな感触に心を向けた。
シゼはしばらくイーツェンの体に腕を回していたが、やがて無言で体を離し、イーツェンの頬をかるくなでた。
「一人で淋しかったか?」
イーツェンがわざと軽口を叩くと、相変わらず無言のままふっと笑う気配だけがつたわってきた。夜闇の中、シゼは一人で何か考えつめていたのではないかと思いながら、イーツェンは膝からたぐった毛布をシゼに押しつける。
「私が夜明けまで起きてる。お前は、眠れ」
「イーツェン──」
「お前が体調を崩したら、私たちはおしまいだ、シゼ。少しでも休んでくれ」
「‥‥何かあったらすぐに起こして下さい」
イーツェンの言葉に理を認めたのだろう、気はすすまない様子だったが、シゼは言われた通りイーツェンと場所をかわって横になった。すぐに静かすぎるほどの寝息をたてはじめる。それを聞きながら、イーツェンはこわばっている腕をかるくのばした。
シゼは夕刻や朝方に短い仮眠を取ってはいるが、いつまでもそれだけではしのいでいけないだろう。宿のある場所まで早くたどりつけるといいが、と思いながら、そこにたむろしているであろう人々と顔をあわせるのは気が重くもあった。もう公には「死んだ」身であるとは言え、人にあやしまれて困るのは以前とかわらない。
膝をかかえ、静かなシゼの息を聞きながら、イーツェンはあくびで眠気を払い、ひとつひとつ、指を折る。まずは休んで、眠って、しっかり回復し、体力をつけること。シゼに愚痴を言わないこと。イーツェンが不安になったり迷ったりすれば、シゼに負担がかかるだけだ。
──何を考えていたのだろうな、とふと思い、イーツェンはシゼが眠る方へ顔を向けた。シゼは時おり、イーツェンにはつたわってこないことを考えている。そのことはわかっていた。
シゼがイーツェンを抱きよせるのは珍しいほどのことではなかったが、その仕種はいつもイーツェンのためだった。イーツェンが心細い時、不安な時、シゼはその腕でよく彼を落ちつかせた。だが、今日はそうではない。シゼは何かの理由で、イーツェンのぬくもりを欲っしていた。そんなふうに必要とされること自体は心地いいし、こたえたいと思う。
しかし、わからない理由と、推しはかれないシゼの心が気にかかった。ぬくもりを追うように己の腕にふれてみたが、そんなことで答えが浮かんでくるわけもない。
答えの出ないことをあれこれ心に漂わせながら、イーツェンは頭上を見上げた。木の影すらほとんど見えないほどの夜闇だが、夜空の星の光がところどころ大きく欠け、そこに何かがあるとわかる。
世界はいつもこんなふうに見えてきた気がした。目の前を何かにふさがれて欠け落ちた、そんな形で。
本当は、光のあたった光景ではなく、闇にひそんで視界をさえぎるものにこそ、意識を向けるべきだったのかもしれない。欠落を見れば形が見えてくる、そんなことが何度もあった。
イーツェンはしばらくぼんやりと頭上を見上げながら、自分からは見えないところにひそむもののことを考えつづけた。シゼ、レンギ、オゼルク、ジノン、エナ、アガイン。誰もがそれぞれの影を、それぞれの欠落を持っている。
わからない、見えないもののことをただ考えていると、自分の心の中にもぽっかりと虚無が口をあけていきそうだった。
ふいにロバがするどい鼻息を鳴らした。
イーツェンははっとして、意識を現実に引き戻す。何がロバの警戒心にふれたのだろう。見回そうとした瞬間、夜気の向こうから流れてきたつんとする風を嗅ぎとって、全身が総毛立った。
「シゼ!」
瞬時にシゼがとびおきて剣を握った。イーツェンは立ち上がって風上をさす。
「火事だ」
煙の臭い、火の中心からあふれ出してくる破壊の気配。何度も故郷で嗅いだ山火事の、とがった臭い──ほとんど本能的な恐怖がイーツェンの奥底ではじけて、一気に心身が覚醒したかのようだった。
「本当に?」
シゼにはまだとどいていないと、その返事でわかった。この臭い。背すじがチリチリする。炎はまだ見えず、煙と言えるほどはっきりした臭いでもなかったが、イーツェンは全身で火の存在を感じとっていた。
「本当だ。信じてくれ──」
「どちらか、方角はわかりますか?」
うろたえかかったイーツェンをあっさり肯定するように、シゼはたずねながら、キジムの背に荷鞍をのせて、暗闇の中で取りつけはじめた。
「‥‥風が、回ってるから‥‥」
イーツェンは闇をにらみ、その中にまざる危険の気配をさぐろうとしたが、風がかわるたびにその方向から臭いがするようで、うまくいかなかった。
シゼは、それでもイーツェンが迷いながらさすいくつかの方向を確認すると、それ以上逡巡することなくイーツェンの腕をつかんだ。
「街道へ出ます。ここにいて火が回ればどうしようもない。靴をはいて」
足の負担をへらすよう、靴を脱いで眠っていたのを忘れていた。イーツェンは焦ってしゃがみこみ、足元にひっかけていた靴に足をつっこむ。靴擦れが靴にこすれて熱いほどに痛んだが、かまわずに足首の紐を巻きつけてはじを靴の中へ押しこみ、立ち上がったところでシゼにいきなり襟首をつかまれた。
「シ、シゼ?」
思わずどもる。シゼは互いがしっかり見えるほどに顔を近づけ、おだやかだが強い声で言った。
「あわてないでいい、イーツェン」
その一言で、ざわめいていた体の中がすっと鎮まったようだった。イーツェンは息を吸い、うなずく。
「わかった」
シゼの手が襟元を離れ、ポンと胸のあたりを叩いた。心臓だけは一瞬の緊張の名残りでまだ高鳴っていたが、かえって意識は明瞭になったようで、心が目の前の物事に集中する。イーツェンはもう一度しゃがみこんで靴をきちんとととのえ、足首を留める靴紐をしっかり結び直した。
立ち上がり、こわばっている背中をのばす。シゼがロバの荷鞍にのせた荷をしっかりと固定し、二人分の毛布を筒に丸めて鞍の左右に吊っている間に、イーツェンはロバの綱を立木からほどいた。
「行こう」
シゼは無言でうなずき返すとロバの荷鞍の後ろをイーツェンにつかませ、自分はロバの綱を引いて、闇にはぐれないようにしながら歩き出した。
夜闇に一度方角を見失ったが、イーツェンは少しだけ星が読める。木々にさえぎられて見えづらい夜空をにらむようにして方角を見さだめ、大雑把に街道の方角をさした。
どうにか、それほど時間をかけることもなく古い街道のそばへ出たが、その時にはもう背後から吹きつける風はたっぷりと焦げ臭い熱気をはらんでいた。炎とは逆の方向へ歩いてこられたことにひとまずほっとしながら振り向くと、木々の影の向こうで空が赤黒く下から照らされているのが見えた。
街道にはちらほらと人の気配があってイーツェンは驚いたが、火に気づいた人々がそれぞれの野営地を出て道に立っているのだった。ざわざわと苛立った呟きがさざめき、時おり動物のいななきがまじる。
シゼは不安そうなロバの端綱をがっちりとつかんで、黙ったまま歩き出した。イーツェンも続こうとしたが、ふいにひびいた裂け割れるような音に首をすくめた。木が炎で割れた音だ。よほどの大木なのか、遠いが雷鳴のような音だった。
火勢が強くなったようで、天のはじがさっと明るくなる。頬をかすめた髪をうるさく払ったが、イーツェンははっとした。風が出ている。炎は風を呼び、風は炎を煽る。火は風とともに凄まじい勢いを得、時として疾るように地を焼きつくす。一度追いつかれれば、逃げられない。街道脇のまばらなだけの木々や足元の茂みでも、燃え出せばあっというまに人も獣も殺すことができる。
「シゼ」
聞こえるほど周囲に誰もいないことを確認してから呼ぶと、シゼは足をとめないまま、イーツェンが楽に追いつけるよう足どりをゆるめた。
不安そうなイーツェンの表情を見て、うなずく。
「街道ぞいに大きめの野営地がある筈です。そこまで行って、ひとまず夜明けを待ちます。とにかくここは離れないと」
「わかった。急ごう」
野営のための空き地ならば、周囲の木も払ってある筈で、そこにいれば火に巻かれる心配はないだろうか。イーツェンは脳裏に地図を思いうかべてみたが、まだ街道は川とそれほど遠くは離れていない筈で、いざとなれば川の方角へ逃げる手もあるかもしれない。
いくら自分にあれこれ言いきかせても不安はつのる一方で、イーツェンは乾いた喉に唾を飲みこみながらシゼとロバを追った。とにかく、歩くしかないのだ。
路傍でたいまつを持ち、その灯りで荷車に馬をつなごうと大騒ぎしている商隊の脇を通り抜けた。彼らに逆行して走ってきた無遠慮な騎馬をあやういところでよける。
ところどころで人を抜き、時に追いこされながらできるかぎり早足で歩いていると、思いもよらずに子供の群れにつきあった。粗末な薄汚れたなりの痩せた子供たちが10人近く、連れの大人がいる様子もなく、道端によりあつまって炎の色にあからんだ空をぼうっと眺めてつっ立っている。一体何をしているのかと唖然として、イーツェンは何も考えずに子供の腕をつかんだ。
「ボサッとしてないで、逃げるんだ!」
揺さぶられた少年は、まだ10歳になるかならずだろう。呆けたような顔でイーツェンを見て、じりっと後ずさった。イーツェンは怒鳴りつけそうになるが、その時シゼがするどく呼んだ。
「イシェ」
自分の偽名であると一瞬遅れて気付き、イーツェンは気まずい思いで少年の腕を離した。
「‥‥ごめん」
追いついて息を切らしているイーツェンを見ていたが、シゼはやがて道端にロバをとめる、荷鞍の荷を後ろ側にずらした。何をのんびり荷をいじっているのかと焦るイーツェンを手招きする。
「乗って」
「シゼ‥‥」
「足を引きずっている」
それは確かだった。靴擦れしている箇所へ、昨日は布を当てて傷を覆ってから靴をはいていたのだが、さっきはそんな時間はなかった。ごわつく靴の皮にじかに擦られた傷は皮膚が大きくむけ、一歩ごとにやすりで削られるように痛い。
シゼはイーツェンをかかえあげるように荷鞍の前へ押し上げると、鞍にくくってあった毛布を一枚ほどいてイーツェンの肩にかけた。
「首を隠して」
囁かれ、うなずいたイーツェンは肩に毛布を巻きつけ、首すじが見えないように襟元を高く覆った。シゼはイーツェンと荷物が安定していることを確かめてから、それまでとうってかわったような大股で歩き出す。
小柄なロバの背に荷といっしょに乗っているのは楽ではないが、イーツェンは揺さぶられる体でどうにかバランスを取りながら、両足でしっかりとロバの体をはさむ。荷鞍は人を乗せるようには出来ていない上、腰の後ろに荷があたるので、体が段々と前にずれてくる。時おりシゼにとめてもらって位置を直しているうちに、それでも乗るコツを少しずつつかんだ。
やがて同じ方向を目指す人影がふえ、いつしか行列のようになり、野営地用の囲い地にたどりついた時には思いもよらない人数にふくれあがっていた。こんなにこの街道を旅する者がいたのかと、30人はいるだろう人の群れを見ながらイーツェンは驚く。
野営地はいざと言う時の兵站地も兼ねて作られたのか、広い空き地を杭柵でしっかりと囲いこんであった。周囲の木々はきれいに払われて見通しはいい。囲い地の中で忙しく荷をまとめて動き回る者もいる一方、焼けたような空を凝視して動かない者も多かった。
シゼは囲い地には入らず、柵の外をぐるりと回って適当な空き地にロバをとめ、イーツェンを鞍からおろした。ロバに乗っていただけなのに緊張で疲れきって、イーツェンはその場にしゃがみこむ。
「‥‥どうする?」
小声でたずねると、シゼが柵にロバの綱を巻きながら同じように低く返した。
「陽が出たらすぐに発ちます。体を休ませていて下さい。できれば、眠って」
とても眠れないだろうと思いながらもイーツェンはうなずき、シゼが渡してきた水筒から水を一口飲んだ。疲労のせいか、ロバの上で体を緊張させていたせいか、やけに痛む背中をどうにか丸めて膝をかかえ、目をとじる。
そのまま、自分でも滑稽なほどすぐに眠りこんでしまった。
揺りおこされて、眠い目をあける。ぼんやりしたままイーツェンは何か言おうとしたが、目の前にかがみこんだシゼがイーツェンの唇に指をあてた。
油断するととじてしまいそうな目をこすってから、火事のことをやっと思い出し、イーツェンははっとする。あたりにたちこめる静けさにすべてが夢だったのかとも思ったが、地面にうずくまったり身を丸めて寝ころがったりしている人々を周囲に見て、やはり現実だったのだと思い知る。
風向きがかわったのだろう、あたりに煙の臭いはない。薄闇がたちこめる空にも炎の色は見えず、炎に追われずにすんだようだった。
「火の出た方角には、村があるそうです」
イーツェンが眠っている間に噂話を仕入れたのか、シゼが早口に説明する。イーツェンはまばたきして、シゼにだけ聞こえるようにたずねた。
「そこが焼けたのか?」
「おそらく。近ごろこのあたりを略奪している一団がいるとか」
村の建物か畑に放った炎が周囲の木々に燃えうつり、遠目にもはっきりとわかるほどの大火となったのだろう。イーツェンは小さく身をふるわせた。
疲れが体の芯までしみこんでしまったようで、全身が重い。シゼにうながされるまま、靴擦れの傷に布をあてて靴をはき直し、立ち上がった。
夜半ほど暗くはないが、薄闇は朝の気配でもない。野営地全体はしずまりかえっていて、動いているのは彼らを含めてもわずかな人数のようだった。だが、シゼはすでにロバに荷を積み終えており、今すぐに発つつもりなのがわかった。皆が起き出すと混雑するから面倒なのだろうか。
こわばる体や膝を曲げてのばし、イーツェンは自分の体がしっかり動くことをたしかめる。毛布と服の土を払うと、シゼからロバの端綱を受けとった。
野営地の囲いを回りこんでぐるりと歩く。まるで行き倒れのごとくあたりに転がって休む人影の中に、昨夜行きあたった子供の一群を見て、イーツェンは少しほっとした。人の流れに押されてだろうが、ここまでたどりついたらしい。
二人が街道へ出たころには、空もわずかに白んでいた。すでに道を行く影もいくつか見える。イーツェンが疲労感を追い払おうと深呼吸をくり返しながら歩き出した背後で、シゼが何か呟いて、削いだ干し肉を後ろから手渡してきた。
「よく噛んで」
子供にするような注意である。とは言え、塩で水分を抜いて幾日も干された肉はカチカチで、半端に飲みこもうとすると、噛み切ることもできずに喉につまる。イーツェンは言われたようによく噛みながら、口にひろがる塩気の強い獣脂を飲みこみ、口に残る肉をまた噛んだ。
ロバは不機嫌そうだった。昨夜は人までのせて歩かされ、今日は朝食も水も与えられないままに出立したのが不服なのだろう。水場まで遠くないといいが、と思いながら、イーツェンはあらためてシゼがこんなに急いで発った理由が不思議になった。あの囲い地のそばにも水場はあった筈である。
周囲に人影がないのをたしかめてから、シゼにたずねた。
「何か心配事が?」
シゼはしばらく、どう説明しようか考えている様子だった。
古い街道はその大部分が土をならして踏みかためられただけで、ところどころ傷みがはげしく、時おり馬蹄や轍の跡に足をとられそうになる。気をつけながら歩くイーツェンの後ろから、シゼはやがてぼそりと言った。
「村が略奪されて火までかけられたとすれば、逃げる者は街道すじを目指すものです。‥‥その人数が下手に多ければ、今度は、彼ら自身が略奪する側に回る」
「‥‥‥」
そう言えば、シゼもまた小さな頃、己の住む村を襲撃されて帰る場所を失ったのだった。色々なものを見てきたのだろうと思いながら、イーツェンは地面の穴につめこまれた小石を用心深く踏んだ。荷車の車輪がはまりこまないよう、ところどころこうやって窪みに石や砂がつめこまれているのだが、歩く側としては足が不安定になって歩きづらい。
シゼは少しおいてから、続けた。
「それでなくとも、あの場所は剣呑な感じがします。昨夜声をかけた子供を覚えていますか?」
「うん。追いついてきてたみたいだな」
互いに身を押しつけるようにして地面で眠っていた子供のことを思い出して、イーツェンはうなずいた。親も連れもいない様子で、子供だけで何をしているのかは気になるが、彼にはどうしようもない。
「彼らは多分、競りにかけられる奴隷ですよ」
シゼの声は低かった。
「どこかの村が襲撃された折りにでも、さらわれたのでしょう。昨夜、おそらく盗賊たちのところを逃げ出してきた」
「‥‥何でそう思う。鎖も縄もなかっただろ」
「全員、裸足だった」
呟いて、シゼはしばらく何も言わなかった。イーツェンは溜息をつく。そこまでは見なかった。だがイーツェンにはわからない欠落を、シゼの目はすばやく見ていたのだった。
「彼らはどうするんだろう。故郷に戻るのかな」
「親は殺されているでしょうし、戻るところがあるとは思えない。逃げ場所を探しているのだと思いますが‥‥」
「このあたりにも地方領主がいるだろう。何もしてくれないのか?」
「今ごろは誰につくかで忙しいんでしょう」
シゼの口調に棘はなく、ただどこかあきらめたような響きだけがあって、イーツェンはそれ以上くい下がれなかった。そもそもシゼを相手に言いつのることでもない。どうすることもできないのは、シゼもイーツェンも同じだった。
もしエナたちが、あの場所を作りあげることができたなら。イーツェンはふとそう思う。傷ついたものを受け入れる場所。もしかしたら、そこはあの子供たちのようなよるべのない者たちの逃げ場にもなるだろうか。彼らを、エナなら救えるのだろうか。
そう思いながら、イーツェンは重い足を動かしつづけて、後ろにしてきたものから離れていく。何一つ変える力などない。わかってはいたが、ただ身をよせあって眠っていた子供たちが、この先も無事で生きていけるようにと祈った。
そのまま陽が高くなるまで歩きつづけた。陽よけ用の薄布を頭に巻いてはいたが、その日はやけに暑く、大地も熱をおびて、イーツェンは時おりかるい眩暈をおぼえた。
昼前に、やっと街道ぞいの小さな囲い地と水場にたどりつく。古いとは言え、街道すじはさすがに色々ととのっていて、旅の苦労は随分と軽減される。
とは言え、「色々」の中身もよいことばかりではない。たどりついた水場の周囲には10人近い男たちがたむろしていて、列にならぶ旅人たちから小銭や持ち物を巻き上げていた。
彼らも、ロバに水を飲ませ、自分たち用の水袋を満たすために金を払わねばならなかった。
「正規の関守りでも、税吏でもないだろう‥‥」
男たちから離れてふたたび街道を行きながら、イーツェンはぶつくさつぶやいた。疲れていたので、水場でのロバの水やりをついシゼにまかせてしまったが、あれも自分の仕事だったのだろうと後から反省していた。わかっているつもりで、なかなか何をどうするべきか、咄嗟には体が動かない。
道いっぱいに馬車や荷車をひろげた一隊が向かいからやってきて、やむなく道をゆずった彼らはいったん草地に踏みこんだ。平坦であっても草に足をとられて歩きづらいが、ロバは喜んで左右の草を食べている。ついでに丁度いい木陰を見つけて少し休み、木の実と少量のチーズを腹に入れると、また日暮れ近くまで歩いた。
その日は、3歩でまたげるような細い小川にそって街道を離れ、柳と芦の影で休んだ。シゼはいくらか芦を刈り取って、ロバのために小さく束ねる。
その間にイーツェンは小さな石づみをつくると、落ちている柳の枝をあつめ、火口金を使って小さな火をおこした。厚く切ったチーズを枝に刺して火であぶり、パンにのせる。
どうにもあたたかいものが食べたくなったからだが、チーズの表面がふつふつと焼け、香りがたちのぼりはじめると、口元に笑みがうかぶのをおさえられなかった。食欲のままにかぶりつくとどろりと溶けたチーズの熱がひろがって、芳醇な香りが鼻に抜け、火傷すれすれの熱さを口の中でさましながらイーツェンは笑った。些細な贅沢。
火をおこしたついでに、陶の丸椀を火にかけて川の水を一度沸かし、岩塩をひとかけら溶かす。用心深く器を布でくるんで、シゼと回し飲んだ。
「リグでは、山歩きの時によくこうやって山羊や羊の乳を沸かして、塩を入れて呑むんだ。あれば、巣蜜を入れたりもする」
なつかしくなって説明すると、シゼが「山羊乳」とつぶやいてひどく嫌そうな顔をしたので、イーツェンはにやりとしてしまった。
「山羊乳が嫌いか? チーズは食べてるじゃないか」
ヘイルードから分けてもらった旅の糧食のうち、一番重要で大きなものが山羊のチーズである。まだそれは手つかずで、今食べているのは羊のチーズだが、城でもよく山羊のチーズが出た。
「動物の乳をそのまま飲むのは‥‥」
ちょっと、とつぶやいて、シゼがいかにも深刻そうに考えこんだのがまたおかしかった。そう言えばユクィルスにはない習慣かもしれない。少なくともイーツェンは、城での食事で獣の乳を飲み物として出されたことはなかった。乳酒はあるし、滋養をつけるための乳粥もあるが、ユクィルスの乳粥は未成熟のチーズを溶かしたようなものであって、乳をそのまま使っているようではなかった。
「慣れるとうまいよ。カルザ茶を覚えているだろう?」
「ええ」
リグの豆茶だ。城で、ジノンからもらった茶を、イーツェンはシゼに分けながら大事に飲んだ。独特の香味と酸味がある、なつかしい故郷の味。
「私たちはあれを乳で煮出したりもする。ちょっとした贅沢だけど」
「‥‥‥」
まったく味の見当がつかない、という顔をしているシゼに、イーツェンはうっかり声をたてて笑いそうになった。リグについたら真っ先に飲ませてやろう、と心に決める。口に出しはしなかったが。
夕食を終え、火をしっかりおとして燃えがらを土に埋めると、シゼはいつものようにイーツェンの足をもみほぐし、痛みが残る背中にエナからもらった香油をつけた。
「体をのばしましょう」
きっぱりと言われて正直げんなりしたが、嫌だとは言えない。疲れているからこそ体をほぐす必要があるという、シゼの意見もよくわかる。
立ち上がって、ふたりでエナの記憶を思い返しながら、教えられたように弧を描くような動きの運動をくり返してみた。相変わらずイーツェンの動きもイーツェンに体をそえたシゼの動きもぎこちなかったが、前の日よりは少しましになった気がした。
とは言え、どちらも加減がわからない。シゼがひどく気をつかってイーツェンの腕や背にふれているのはわかるのだが、その気づかいを痛みとともに感じれば感じるだけ、何かが決定的に噛みあっていないという思いが強まった。
それが何なのか、イーツェンはさぐろうとするが、体を少しのばそうとするだけで生じる痛みに苛立ちがつのって、うまくいかない。歩いているだけならもうそれほど意識せずともすむのだが、あらためてこんなふうに動かない体を思い知らされるのが、イーツェンはどうにも嫌いだった。
わがままだとは承知している。シゼの手をどれほどわずらわせているかも。それだけにシゼには言えないまま、ひどく長く思える時間を動きについやし、終わるとイーツェンは疲労に座りこんだ。体だけでなく、心も消耗していた。
シゼが頭をポン、となでる。
「一息ついたら、眠って」
「‥‥今日は、番をかわる。途中で起こしてくれ、シゼ」
「大丈夫だ、イーツェン」
「シゼ──」
「野営地で商人から聞いた話だと、明日の道程の途中で寺院がある。明日はそこに宿を取りましょう」
そこで自分も眠るから今日はいい、ということだろう。イーツェンはなおも何か言いたい気持ちでシゼを見つめたが、言葉を見つけるより先にシゼがやんわりと言った。
「私たちのような人間は、見張りをしながら体を休ませることには慣れている、イーツェン。気にしないでいい」
「‥‥私が早く起きられたら、寝番をかわるんだぞ」
「それなら尚更、あなたには早く眠ってもらわないと」
あっさり返されて、一言もなかった。
イーツェンは小石や枝を除いておいた地面で毛布にくるまって丸くなる。小川までは15歩あまりの距離があるが、目をとじるとせせらぎの音が夜の中に静かに満ちて、炎を見てからずっと騒いでいた気持ちが水音につつみこまれていくのを感じた。
地図からイーツェンが読みとった距離感がたしかなら、明後日には街道が二股に分かれる。イーツェンたちは西の道を取る予定だったが、町の方角をよけ、丘陵と田園が入りまじった中を抜けていくその道には、一箇所だけイーツェンの気になるところがあった。
丘と丘がほとんど接し、その間を道が抜けていく場所に、古い堡塁があるのだ。
──あそこは今、誰の持ち物なのだろう。
それとも無人か。それによって、予定を大きく変えねばならないかもしれない。もし通ることが難しそうなら、ほかの手段を探さなければ。
明日、寺院に乞うて一夜の屋根を借りるなら、その時に人々から情報を入れられるかもしれない。そう思いながら、イーツェンはまだ暑くて寝苦しい体で寝返りを打った。
眠り、歩き、食べて、また眠る。そのくり返しだが、何事もなくそれをくり返す程度のことが、思いのほか難しい。とにかく今はただ、ひとつひとつ、目の前にあるものをのりこえていくしかなかった。ずっとそうやってきたように。