うっすらと濁った川の水は岸辺に小さな渦を巻きながら、木の葉や虫の死骸をのせて、ゆっくりと流れていく。
イーツェンは目で川の幅をはかりながら、こっそりと溜息を殺した。山あいのリグで言う「川」と、ユクィルスの平地での「川」とはまるでちがう。リグの川はきつい傾斜にしぶきをたてながら岩の間をくねり流れおちるものが多く、幅も十数歩というところだ。だが目の前にしたこの川はまるで絹をしいたようになめらかで、川幅もかるく100歩幅はあるように見えた。これで大河ではないらしい──かつてはこの川を使って荷の運搬も盛んだったのだが、川床の一部に泥が溜まって大きな荷船が通れなくなり、いきおい近くの街道すじもさびれることになったのだと、ヘイルードは言っていた。
本当に彼らは物知りだったなと、イーツェンはたった昨日別れたばかりの相手をなつかしむように思う。つつがなく旅をしていくには、きっとああいう知識と目配りが必要なのだろう。だがここからは不慣れなイーツェンとシゼのふたりで──彼らだけで、どうにか身を処していかねばならない。そのことを思うとあらためて身が引きしまった。
シゼは、交渉を終えたらしい。片屋根にきつい傾斜のついた渡し小屋を離れてイーツェンの方へ戻ってくると、低い声で言った。
「先客がいるようで、乗合いになります」
イーツェンはうなずいた。小屋のそばでこちらに背を向けて立つ渡し守までは、声がきこえるとは思えない距離があったが、用心にこしたことはない。人目のあるところではできるだけ口数をへらせ、というのがシゼの意見だった。
自分ではわからないが、イーツェンの話し方や発音には貴族的なひびきがまだ残っているらしい。リグ風の発音を取ろうとして、こちらに来てから城で耳にする話し方を真似た。そんな自分が、今となっては滑稽に思われた。そんなことに足をすくわれるような羽目になるのだけは御免だった。
昼すぎに船を出すと渡しの男が言うので、ロバの前足に歩ける長さだけの足縄をかけて遠くへ行かないようにしてから、イーツェンとシゼは川べりの岩に腰をおろした。川沿いの土手の上は古い道になっていて、川にせり出した桟橋と渡し小屋まで人の足で踏みかためられている。いくつか深い轍もあった。川向こうへ運ぶ荷をのせて荷車でも押して来たのだろうか。
「足はどうです?」
シゼがそっとたずねた。イーツェンはうなずく。筋肉がおち、歩き慣れない足は全体に痛むし、靴と当たる足の甲が一部すりむけてじんじんと痛みをうったえていた。
「大丈夫だ」
「川を渡れば、少しは楽になりますよ」
多分根拠なく言っているだろうなと思ったが、イーツェンはそうやってはげまそうとするシゼの気持ちに微笑した。いまだに口数は多くないが、シゼはずっとイーツェンに優しかった。イーツェンがそれと悟る、ずっと前から。その積み重ねが、シゼの短い言葉をイーツェンの心にひびかせる。
ロバは、何か好物の匂いを川辺の土の中に見つけたらしい。短くいななき、泥と石のまじった土を掘りはじめた。その背にくくりつけたままの荷をおろした方がいいのかどうか考えながら、イーツェンはたずねた。
「ロバものせられるって?」
「馬でも運べるそうです。横幅のあるがっちりした船ですよ」
「あの小屋の中にあるのか」
「ええ」
イーツェンは渡しの小屋を振り向き、目をほそめた。
短い芦がまばらに茂った川辺から流れに向かってせり出した小さな桟橋と、その下流側に建つ渡し小屋を眺めやる。ゆるい川の流れは桟橋を支える杭にぶつかってもったりと揺れ、陽の光をはね返して小さな渦になってから、また下流へくだっていく。
あの小屋の中に、そんな大きな渡し船があるのだろうか。
そうやって見ると、やけに立派な渡し小屋に見えた。屋根はきちんと新しい木の皮で葺かれているし、小屋の壁も扉も風雨に褪せてはいるが、いかにも厚みのあるしっかりとした木だった。扉に鉄でできた大きな錠前がぶら下がっていたのを、イーツェンは目に焼きつけている。ユクィルスの暮らしを通じて錠前や閂が大嫌いになっていたので、頑丈そうな錠前の使いこまれたにぶい光は、イーツェンの心にするどい印象を残していた。
周囲を見回すが、川べりに民家はない。川下に堰があって、そこから水を引きこんでいく水路が見えるからその先に村があるのだろうとは思うが、イーツェンが目をほそめて遠目にはかってみても、それは小ぶりな水路に見える。その程度の水ですむ規模の村なのだろう。
川に目をもどし、イーツェンは流れてきた木の葉が、川面に回った小さな渦にくるりと呑みこまれるのを見た。水の中を流された葉はすぐに浮き上がって、濡れて色のかわった表面を薄陽に照らされながら流れ去っていく。小魚とでもまちがえたのか、一瞬その向こうに魚の影が浮きあがって、沈んだ。
水を眺めているうちに、踏みかためられた川辺の細道が頭をよぎった。轍の跡。それも新しい。うらぶれた人気のない景色にそぐわず、イーツェンが思うよりも多くの人間があの道を使っているのかもしれない。あるいはこの船を。
「‥‥誰と同船になるのか、聞けたか?」
たずねたイーツェンをシゼがすばやい目で見たが、そのまま問いにこたえた。
「村の者が、小麦を粉に挽いたものを市に運ぶのだとか」
「ふうん‥‥」
「何か、気になりますか」
空は白っぽく全体にくもっているが、雲の隙間をかき分けるように時おり陽がちらつく。イーツェンは口をひらく前に少し考えこんだ。
「気のせいだとは、思うが。正規の荷ではないかもしれない。ここは‥‥村の者たちが使っているだけにしては、船も小屋も立派すぎる。もしかしたら色々運んでいるんじゃないかと思って」
「たとえば、どんな荷を?」
「‥‥前にルディスが言っていた。森の中を勝手に開墾して、隠れて畑を作る者がいるのだとか」
農民にも土地持ちはいるのだが、多くは地主や地領から農地を借りて耕作する。かわりに作物をおさめるのだが、なかなかに租税は厳しいものらしく、隠れ農は後を断たないと──たしかそんな話を、ルディスと商人はしていたのだった。
ルディスはどうしてか、好んでイーツェンをそうした商人との懇親会につれ出した。まるでイーツェンを自分のものとして見せびらかすかのような言動にイーツェンはよく肝を冷やしたが、そうやって人を脅しつけて、ルディスは楽しんでいたのかもしれない。その折りのことが今になってイーツェンの知識になるとは、皮肉だった。
──そう言えばルディスはどうなったのだろう。
アガインが彼を人質にとっていた筈だが、一連の襲撃の後、ルディスの消息はまったく耳にしていない。
今の今まで彼のことをさっぱりと忘れていたのに気がついて、イーツェンはつい笑いをこぼした。行方のしれないルディスの境遇を笑ったのではない。その忘却が、城での記憶が心からはがれ落ちていっている証のようで、どこか爽快な気分だった。
「シゼ。もしかしたら、小麦の袋にはしるしがついていないかもしれない。小麦は挽いてから地領におさめられるが、必ず村でさだめた挽き臼で粉を挽き、はかったものを袋に入れて粉挽きが封蝋をつける。それがなければ、多分、違法な荷だ」
機嫌のいい声のまま、イーツェンはシゼへと説明した。しゃべることで筋がさだまって、自分の奥にある記憶がひっぱり出されてくる。
「だが、もし封蝋がなくても、気がつかないふりをしよう。無用ないさかいは避けたい。できるだけ、荷には近づかないようにしといた方がいいな」
しめくくって話を片付けようとしたが、シゼは眉根をしかめて何かをじっと考えこんでいた。気になることがあるのかとイーツェンが見つめていると、やがてシゼはかたい声で呟いた。
「剣を出せ、と言われましたよ」
「渡し船と、乗合い馬車はそうだろう?」
これは、かつてレンギから仕入れたユクィルスの知識だ。そうした手段での移動中、武器は船頭や御者の管理下に預ける。特に渡し船はひとつの治外法権で、船の中では、たとえ王命を受けた者や仇同士であっても争いは禁じられているとのことだった。イーツェンの国リグでは、鉱山の中がそれにあたっており、罪人が鉱山に逃げこめばそれを奥まで追うことはしなかった。どこの国にもそういう不可侵の場所が、形をかえて存在するのだろうかと、イーツェンは不思議に思ったものだ。
シゼは左肩をかるくそびやかした。
「実際には珍しいことです。馬車はわかりませんが、こんな外れの渡し船で剣を預けたことはない」
「気になるのか?」
「あなたの話と合わせると」
難しい顔をして口をぐっと結び、シゼは左腰に吊った剣の柄に手をふれた。使いこまれ、いかにも手になじんだその剣は、ほとんどシゼの分身のようでもある。それをよく知らぬ相手に預けると言うのも嫌なのだろうし、その相手がもしかしたら作物の闇売買に一枚噛んでいるかもしれないとなると、余計に嫌なようだった。
イーツェンは両手を前にのばし、かるく上に上げながら、背中に引きつれる痛みに顔をしかめた。
「とは言え、そんなに難しく考えることもないだろう。何も川を渡る旅人をかたはじから取って食っているわけじゃなかろうし。私たちにはほかの手段はないし」
「川ぞいに歩いていけば、いずれは橋か、ほかの船に‥‥」
「ここから上流には道がないよ。足を取られてぐずぐず歩いてたら、収穫祭がすぎてしまう」
秋半ばの収穫祭がすぎれば、目の前はもう冬だ。とてもそんなわけにはいかないし、川沿いに行けばどちらに向かおうがイーツェンの目指す方角とは大きく離れてしまう。とにかくここで川を渡らねばならないのだとイーツェンはシゼに説き、シゼはその言葉を反論せずに受け入れはしたものの、相変わらず難しい顔つきをして落ちつかない様子だった。
不確かな疑いについては黙っていた方がよかったかな、と思ったが、イーツェンはその考えを心で打ち消した。決めたのだ。シゼには何も隠さないと。話しあって、ふたりで決める。それが、シゼに対する信頼をあらわす方法だと思った。
とは言え、シゼも慣れない様子で、まだ話しあうというまではいかない。もともと己の意見に口が重いのはシゼの常であって、とにかく時間を重ねるしかないだろうとイーツェンは考えていた。シゼがイーツェンを信じ、信頼するまで。どれくらいかかるかはわからないが、自分がシゼを信頼するまで2年あまりかかったことを思うと、焦ってすぐさまシゼに何かを求めるのは勝手な要求に思えた。
「泳いで渡れそうなら、泳ぐけど」
わざと冗談めかしたイーツェンの言葉に、シゼがかたい口元をやわらげる。
「私は泳げません」
「‥‥ほんとに?」
声が踊り上がると、面くらった様子でシゼが少し身を引き、やがて妙に重々しくうなずいた。たじろぎの色がちらりと表情をよぎって、イーツェンはシゼが少々恥ずかしがっているのだと気づく。同時に、自分の剣幕が気まずくなって、言いつくろおうとしながら思わずどもった。
「悪い、その‥‥意外だった。お前にできないことがあるなんて」
「たくさんありますよ」
「んー‥‥水がこわいとか?」
「そもそも、泳ぐことがなかったので。縁がない」
「あ、そうか」
「あなたは?」
「子供の頃から水練はよくやったよ。水浴びがわりに滝つぼにとびこんだりするから、泳げないとまずい」
なつかしく言いながら、ふと、もうあんなこともできないのだろうかと思った。高い岩から波打つ水面めがけてとびこみ、細かな水流と泡が渦になってからみあう中で、肌をこする泡つぶを感じながら舞うように遊んだ。あんな自在には、体がきくまい。
失われたものはひとつひとつ、そうやって目の前にたちあらわれてゆくのだろう。鎖を足にかけられることも、男との行為を強いられることもなくなり、様々なものから自由になった今だからこそ、やっと鮮やかになってくるものがある。ただ日々の物事や痛みをやりすごすことだけに必死だった頃とはちがう。今のイーツェンには色々なものが見えはじめていた。戻りたい場所、変えられた己、失われたものの形。
ひとつ、ひとつ──
ふいに溜息をついて膝に顔を伏せたイーツェンに、シゼは何も言わなかったが、やがてかすかな手が髪をかすめたのを、イーツェンは感じる。ここにいる、とただそれだけをつたえるような、どこまでも優しく不器用な手だった。
午後もやや入ったころに男3人が荷車を引きながらあらわれ、イーツェンはできるだけ無関心をよそおって顔を伏せていた。
彼らがただの農民なのかどうか知りたいとは思うが、相手に悟られずに目のはしからうかがうような器用な真似が自分にできないのもわかっている。厄介は避けねばならないし、イーツェン自身、人の注意を引くわけにはいかなかった。
ただ黙ってシゼの後ろにひかえ、乱暴にかわされている男同士の会話を聞いていた。早口の上に発音がくずれた彼らの言葉は、イーツェンにはなかなか意味がとれない。わざとそうしているのかと考えると、また警戒心がわきあがって、いつのまにか口がかわいた。
渡し守は船小屋から平船を引き出していた。がっちりとした船はイーツェンの想像よりずっと幅広で、荷を安定して置くためだろう、船内に何本か横桟が渡されている。男たちは荷車に山づみの袋を手際よく船の中央に積みこむと上から蔦で編んだ網をかぶせて全体をおさえ、次に荷車を分解して積みこんだ。慣れているのだろう、作業は目まぐるしいほどに手早く、いつしかイーツェンは警戒も忘れて感心しながら見ていた。
男たちが荷の前後に陣どると、渡し守がシゼをうながした。シゼはちらりとイーツェンを見てから、先に渡し板を踏んで船に乗りこむ。
シゼが船べりに身を落ちつけると、イーツェンはキジムの鼻先で端綱を短く持ち、ロバが左右に気をそらさないようにしながら船を寄せた桟橋へ踏み出した。
「キジム。‥‥おいで」
不安そうに顔を振ろうとするロバを低く呼びながら、まず自分が渡し板を踏み、船底へ足をおろした。足がぐらりと持っていかれそうになる。もやい綱はしっかりと杭につながれているが、水の流れに押されては引き戻される船はゆらゆらと揺れていて、イーツェンは足を踏んばり、ロバが渡し板の上をまっすぐ歩くよう綱を引いた。
ロバは渡し板に足をかけて、斜めの板が揺れていることに気づいたのか、途端に硬直した。前膝をのばしてしまい、イーツェンが引いても頑として動かない。口元が少しめくれて歯が見えた。興奮しているのだ。
まずい、とイーツェンは思った。後ずさりしようとするロバを綱で引きとめるが、逆に綱を引かれると腕がぴんとのびて上に引き上げられてしまい、背中にかけて痛みがはしった。反射的に息がつまり、全身が汗ばむ。
立ち上がったシゼがひょいと身をよせ、イーツェンの手から綱を取り上げると渡し板へ片足をのせた。ロバの首すじをポンと叩き、何かつぶやきながら無造作な仕種で引きよせて、いともあっさりと船へとロバをおろしてしまう。
つっ立ったままのイーツェンをよそに手際よくロバの足の位置を決め、荷を背負っているロバの尻を叩き、横向きに座らせた。シゼに無言で手招きされて、イーツェンはあわててロバのそばに自分の場所をとり、足を折ったキジムの横に座りこむ。目で礼を言うと、シゼがかすかにうなずいた。
渡し守が船に乗りこむと板を船内へ引きこんで手早くもやいをとき、棒のような櫂を操って船を流れに押し出した。ぐん、と水にのりあげる浮遊感に、イーツェンは吐き気をおぼえる。そう言えば船にはほとんど乗ったことがない。こんな流れの弱いところで体がうろたえていては、いずれしようとしている船旅が不安だ。唾を飲みこんで膝をかかえこみ、深い呼吸をくり返した。
シゼはイーツェンの右側に座り、水面を眺めている。だが全身に油断のない力がみなぎり、船の舳先──シゼのさらに右側にいる男たちへ注意を向けているのが、イーツェンにはわかった。
時おり流れに舳先を立てるようにしながら、渡し守は慣れた様子で船をあやつり、流れを読んで川面の流木をさけた。荷と荷車、それにロバまでもが積まれた船は動きが重く、水がゆるい渦になったところでは渦の中心へ向かってぐっと吸いよせられそうになるが、あわてずに少し船を流してから、渦の力を利用して一気に船を押し出す。
イーツェンはシゼの横に小さくうずくまって、川の行く手を見つめていた。下流へ流れくだっていく水の左右にはなだらかな起伏が土手をつくり、大きくせり出した河岸にはえたハコヤナギの木が、水につきそうに枝を低く垂れ下げていた。
ロバはおとなしく足を折って座ってはいたが、耳をしきりにパタパタさせながら目を大きくしている。イーツェンはふと思い立ち、ロバの背負い荷にくくりつけてあった小袋から岩塩のかけらを取ると手のひらにのせてさし出した。ロバは珍しくやたらと甘えた仕種で鼻つらをすりつけながら、ざらついた長い舌で巻きとるように塩をなめた。
こうして見ると獣もかわいいものだな、とイーツェンは思う。リグでは、家畜は一部を除いてみないずれ食糧になるので、あまり愛着を与える相手として認識したことがない。意識して冷たくあしらっていたわけではなく、ただそれはそういうものだと思っていた。それがこんなふうに甘えるロバを見ている。少し、不思議だ。
当然だと感じていたものが、ふとした時に、自分の目の前にだけあったものなのだと気づく。その向こうには、他人の目にうつるちがう景色がある。イーツェンの見てこなかった、イーツェンからは見えなかった、そんな景色がたくさんあるのだろう。
そう思いながらイーツェンが首すじをポンポンと叩いてやると、キジムはすっかり機嫌のよくなった鼻息を鳴らした。単純だ、と思いながら、イーツェンも機嫌よく微笑した。
渡し船が対岸につくと、シゼは残る半金を渡し守へ払い、預けていた剣を返された。荷をおろした男たちは、がなりたてながら荷車を組み上げはじめる。横を通りすぎながらイーツェンはつい緊張したが、忙しく立ち働く彼らの関心はこちらにはないようだった。
「考えすぎだったな」
川ぞいの土手を上流に向かって少し歩き、街道の方角へ向かう細道へ入ったところで、イーツェンは後ろを歩くシゼに声をかけた。本来なら奴隷格のイーツェンは道ではシゼの後ろを歩かねばならないらしいのだが、馬を引いている場合は前を行ってもいいらしい。
奴隷として城で数月をすごしたとは言え、とてもではないがイーツェンに奴隷の立ち居ふるまいを身につける余裕などなかった。その前にはソウキをそばに置いて使ってもいたのだが、格別に彼のふるまい方を気にかけたこともない。要するに、奴隷らしくふるまおうにもイーツェンはほとんどやり方を知らなかった。
「‥‥そうですね」
シゼの返事までに一拍あった。
「気にしてるのか? 正規の荷だったろう」
船から降りる時、イーツェンは男たちが運んでいる袋の口が紐でくくられ、結び目に封蝋がしてあったのを見ている。正式な粉挽きの小屋で挽かれた粉だ。懸念していた違法な取引などではなさそうだった。
「私が気にしているのは、渡し守の方です」
「何で?」
「どこへ行くのか、しつこく聞かれた」
振り向くと、シゼは頬骨のあたりをこわばらせて顔をしかめていた。イーツェンがキジムを桟橋におろして陸へ引いている間、シゼが渡しの男と話をしていたのは目のはじで見ていたが、その時のことだろうか。それにしてもここまで露骨に不機嫌そうなシゼは珍しかった。
「それだけか?」
ためしにたずねると、驚いたようにまたたいて、ふっと溜息をつく。それからシゼはあからさまに話を変えようとした。
「足はどうです? 今日は早めに休みましょう」
「大丈夫。問題ないとしても、やっぱり彼らと距離を取っておきたいし‥‥シゼ、何を言われたんだ?」
「──」
「いいから。言ってくれ」
どうにも話したくないといったシゼの様子から、おそらくイーツェンに関することを言われたのだろうと、それくらいはピンとくる。イーツェンはやわらかくうながしながら、細い道のそばに規則的にならべられた白い石にふと目をとめた。人の手がならべたもののようだ。何かの標識がわりか、それとも暗号や合図のようなものだろうか。
見た目より、意外と人の動きがある場所なのかもしれない。あの渡し守にも見かけ以上のものがあるのだろうかと色々考えをめぐらせているイーツェンの背後で、シゼがぼそりと言った。
「あなたにいくら払った、と」
「ふうん」
売買された奴隷と思われたところで、今さらどうと言うこともなかった。しかしそれだけにしてはシゼの声がよどんでいるように感じて、イーツェンはさらにうながす。
「それで?」
「‥‥それより高く売れるといいな、と」
前を向いたまま、イーツェンは口元で小さく吹き出した。シゼが心底腹立たしげなのがおかしかったのだ。
「お前は、私を奴隷扱いすることに慣れないと」
軽口を叩きながらちらりと振り向くと、シゼは苦笑をうかべていた。とりあえず、不機嫌な雰囲気はゆるむ。
微笑を返しながら、イーツェンはふと首をひねった。イーツェンの首の輪は王族や貴族の奴隷につけられるものであって、そうした奴隷の値は高く、自分のようなただの剣士が主人というのはおかしいと──人からそうは見えないだろうと、シゼは前に言っていた。それが、あの渡し守はシゼをイーツェンの持ち主であると断じていたらしい。短い間に値が落ちたのだろうか。
値段自体はどうでもいいが、仕組みは気になる。たずねてみると、シゼは「どこかの城が落ちたのでしょう」と返事をした。
「どういう意味?」
よくわからずに聞き返したイーツェンへ、シゼが肩をならべる。
「城や貴族の館が落とされたり、そこの主が死んだりすると、輪つきの奴隷が大勢流れて競りにかけられることがあります。おそらく、あの渡し守は最近そういう奴隷を運んだのかと」
「ああ、同じだと思われたか」
見知らぬ彼らの運命を思ってイーツェンは反射的な嫌悪に顔をしかめたが、考えてみればそういう動きは、自分にとってはいい隠れみのになるかもしれなかった。どこの城か貴族か、できるだけ早目に情報を入れようと決心する。もっともイーツェンがあれこれ聞いて回れるわけもないので、旅籠の大部屋か食堂あたりでシゼにがんばってもらわねばならないが。
「兵が奴隷を買ったり売ったりって、よくあることなのか?」
「戦いの中でとらえた奴隷を、商人に売って小銭を稼ぐことはあります」
「ふうん‥‥」
そう言えばセクイドは戦場となったアンセラで、サンジャにつかまえられて奴隷商人に売りとばされたと言っていた。彼を競りで買い戻したのも、また当のサンジャだったらしいが。
「兵と言っても、傭兵や下っ端は、目先の金にくらんで強盗でも何でもしますよ、イーツェン」
シゼの声にはうっすらとした棘があって、それはもしかしたら自己嫌悪のひびきなのではないかとイーツェンは思ったが、何気ない話のついでに聞くのははばかられた。
かわりに彼は声をゆるめて、おだやかに言った。
「次に誰かが私に値をつけようとしたら、値段交渉でもしてみるといい、シゼ。その方がもっともらしく見えるかもしれない」
「‥‥‥」
「私は平気だ、シゼ。人がどう見ようが、どう言おうが。勿論、本当に売られたら困るけど。どうせならなるべく高い値段がついてほしいところだが、傷物だから安いかな」
つけくわえて笑っていると、シゼが低い声で言った。
「あなたは奴隷ではない、イーツェン」
「うん、本当はね。お前がわかっていればいいことだよ」
実際にあからさまに奴隷扱いされたら腹が立ってみじめにもなるのだろうが、それは、この首の輪がある限りどうしようもないことだった。今の己はそういう存在でしかないのだと、真正面からそう思えばそれなりに腹も据わる。それでいいのだ。今は。
イーツェンが軽い調子でこたえると、ふいにシゼが長い溜息をついて、左肩の荷をゆすりあげた。
「リグには、奴隷はいないんですか?」
「いないよ」
「どうりで‥‥」
何かを納得したような呟きに、イーツェンはシゼを見た。よほど呑気な言葉に聞こえたのだろうが、まあ呑気は事実だ。
「奉仕というのはあるけどね。身分や、一族とのつながりを返上して、何一つつながりを持たない者として相手に仕える。その間、命令に逆らうことは許されない。懲罰や償いとして期間を区切った使役だが、あれが一番近いかな」
「売り買いされるわけではないのでしょう」
「うん。人に値をつける習慣はない。だから、ユクィルスが人質をほしがった時に、みんな仰天したようだよ。ユクィルスで奴隷を売り買いされているのは知っていても、まさか物のようにリグの人間を要求するとは、誰も思っていなかった」
今にして思えば、無邪気な話である。イーツェンは目をほそめ、ゆるやかにのぼっていく石だらけの斜面を見やった。斜面の上には縦長の石が見え、あれは何かの標識ではないかと思う。もうじき街道だろうか。
「私もまさか、自分に鎖がかけられるとは思っていなかった」
人を鎖につないで日々を飼うようにすごさせる、それはイーツェンにとっては理解の及ばないことだった。値踏みされ、見下され、物のように扱われる。
今は、城ですごしていたあの時とはちがう。首に奴隷のしるしである輪をはめられ、あの日々よりも粗末な服をまとってはいるが、それでも城にいた時よりはるかに自由だった。たとえ誰がさげすもうと、誰が見下そうと、こうやってシゼがそばにいて、すべてを理解している。だからこそ奴隷のように他人から扱われてもかまわないのだが、それを言葉でシゼにうまくつたえるのは難しそうだった。
シゼはどうやら、イーツェンを奴隷扱いする相手が気に入らないのだ。それが他人であれ、イーツェン自身であれ、同じことらしい。
この先ずっとこのままでは少しばかり困るなと思いながら、イーツェンは微笑を口元にうかべ、ロバを引いて坂をのぼりはじめた。そういう、頑固で融通のきかないところが好きでもあって、それ以上あれこれと言い含める気にはなれなかった。
いずれにせよ、一時の安息の地を離れてこうしてふたりだけで歩き出した今、いつかは思い知らされる時がくる。その時のために腹をくくって、自分で受けとめられるものだけでも、しっかりと受けとめなければならなかった。