準備や段取り、先々のこと、何かやり残したことはないかなど、頭の中が色々な事柄で一杯になっていたので、自分の名を呼ぶ声に反応が遅れた。何か声がすると頭のすみで思ってから、それが自分の名であることに気づいて、イーツェンは柱廊のはじで振り向く。
中庭では男たちが昼食のパンを食べながら何かしゃべりあっており、呼び声を聞きおとしそうになったのはその声にまぎれたせいもある。男たちの間から立ち上がったギスフォールが、イーツェンに歩みよってきた。
何の話だろうと不思議に思いながら、イーツェンは待つ。ギスフォールは風雨にざらついた柱の間から柱廊に片足をかけたところで、そのまま立ちどまってイーツェンを見つめた。大柄な男だが、そうして一段下の地面にいるとイーツェンと視線がまっすぐ合う。じっとまなざしを据えられたイーツェンは、両手に服をかかえたまま、たじろぎを抑えた。
「何?」
「‥‥いや」
一歩、ギスフォールは前に出て、柱廊にのぼった。柱に左の拳を置き、長身の背中を少しだけまるめるようにしながらイーツェンを見おろす。表情はむっつりとしたものだったが、昨日ほどの険はなかった。
「元気そうですね」
昨日も言われた、と思いながら、イーツェンはうなずく。両手には乾いた服をかかえていた。朝方、旅にそなえてウェルナーに地理的なことをくわしく聞こうとしていたら、洗濯と取りこみを押しつけられたのだ。まあ、ウェルナーはイーツェンが洗濯物を足で踏んで洗う間、ずっと質問には答えてくれたのだったが。
レンギに地図の読み方を教わって、城の蔵書室で熱心に地図を見ていたことが役に立ち、ユクィルスの地理と街道は大まかに頭に入っていた。ウェルナーの話のおかげで今いる位置はほぼ正確にわかったし、意外と小街道に近いこともわかった。ただ、今はその街道へたどりつくための橋が落ちていると言う。頭の中の地図と実際の場所をつきあわせるのはまだ難しかったが、とにかくその情報をもとに、イーツェンは頭の中で計画を立てつつあった。
両手の洗濯物をかかえ直して、イーツェンはギスフォールにたずねた。
「明日、戻るんだってね」
「ええ」
ギスフォールはうなずいて、チラチラとイーツェンと洗濯物を見くらべていたが、ふいに思いきったように口をひらいた。
「あの話、考えてみますよ」
「エナのか? それは、よかった」
少し驚きつつ、イーツェンは力をこめてそう言った。もしギスフォールが戻ってきてくれたとしてもう自分はいないのだが、そのことを告げるわけにはいかなかった。
ギスフォールはうなずく。
「ここで技を教えて、療法師を育てるそうですよ。‥‥うまくいけば、いっぱしの癒し手になれる」
「ああ、成程」
いずれは人を育てると、そう言えばヘイルードもそう言っていた。イーツェンがアガインの手紙を見せてもらっていた時のことだ。ギスフォールたちはその点に気を引かれたようで、そう言えばユクィルスには療法師が少ないらしい──とイーツェンは思い出した。シゼが言っていたのだ。薬師や療法師のいない集落もあると。事実、シゼが熱を出したあの宿場には薬師すらいなかった。
エナが技を教えて人を育てれば、いずれはこの地から治療の技を持ったものが巣立ち、ユクィルスのあちこちで人を救うかもしれない。それは胸がほんのりあたたかくなるような想像で、イーツェンは口元をほころばせた。何もかもが夢のような話だったが、単なる聖域ではなく教えの場所としてこの場所から何かを送り出していく──その風景はどうしてか、はっきりとした手ごたえをもっていた。
「そうなるといいな」
「まあ、そうですがね」
また醒めたような口をきき、ギスフォールは腕組みして柱に肩でもたれた。彼が何か言いたがっている気配を不審に思いつつ、イーツェンは沈黙をすくいあげるように言った。
「ソウキもここにつれてきたらどうだ?」
「は?」
完全に意表をつかれた様子で、ギスフォールが目をむいた。どうしていきなりソウキに話がとんだのか、わからなかったのだろう。イーツェンがソウキのことを思い出したのは、ギスフォールの醒めた口調のせいなのだが。このギスフォールが、ソウキにだけはどこかしら兄が弟に対するような親愛の情をのぞかせていたものだった。
呆気にとられている男の様子に、イーツェンは笑いを噛みころした。
「あの子は才があると思うよ。いい指をしていた。優しい指だ」
地下牢から半死半生で運び出されたイーツェンが命をとりとめたのは、ソウキの粘り強い看護があってこそだった。イーツェンが痛まぬよう、苦しまぬよう、丁寧に心をくばっていた彼の手を、イーツェンは今でもおぼえている。
ギスフォールは苦いものを噛んだように顔をしかめ、ひどくぶっきらぼうに言った。
「パン焼きの修行をするって言ってましたがね」
「いずれ、ここにもパン焼きは必要だろうな」
「‥‥‥」
「もし、の話だよ。もしここが軌道にのって、もしソウキがそのつもりなら、学ぶのはいいと思うよ」
何故か意固地な表情をしているギスフォールがおもしろくなって、ついニヤニヤしそうになりながら、イーツェンはあまり押しつけがましくならないよう言葉を切り上げた。後はギスフォールが考えるだろう。イーツェンはここに残ることはできないから、ギスフォールやソウキの決断に責任は持てない。
その考えを読んだかのように、ふいにギスフォールが言った。
「ここに残るつもりはないんですね?」
「え?」
「そういう顔をしてるので。──ああ」
ギクリとしたイーツェンの様子を見て、ギスフォールは手のひらで額をぱしりと打った。それから、うなずく。
「誰にも言わないよ」
「‥‥すまないな」
イーツェンがジノンに会いに旅立つと知っていても、ギスフォールはそんなふうに言ってくれるだろうか。後で知れば、イーツェンとシゼが裏切ったと思って彼はまた傷つくのだろうか。
心の底にある重いものを見すかされないように、イーツェンは微笑した。
「会えてよかった。本当にそう思うよ。いつか、商隊を持てるといいな」
「ああ、あの話‥‥」
ギスフォールは口の中で呟いて、面映ゆそうに2、3度うなずいた。
「まあ、あなたも無事帰れるように願ってますよ」
「ありがとう」
「まさかと思ってましたが、シゼとは何ともなかったんですね」
何を言われているのかわからず、イーツェンはぽかんとした。ギスフォールは真面目な顔をしていたが、口はじがわずかに持ち上がって、人の悪い笑みを小さく溜めている。その表情の中にある何かで、イーツェンはふいにピンときた。
言われた意味に気付いた瞬間、一気に頭の上まで血がのぼったようだった。耳がかっと熱くなって、本気でめまいを覚える。ギスフォールの問いよりも自分の露骨な反応にうろたえて、イーツェンは洗い物を取り落としそうになりながら、上ずった声で反問した。
「シゼが言ったのかっ?」
「俺が聞いたんですよ」
「何でだ!」
ギスフォールがよってくるので思わずうろうろと下がっていたら、敷石のはがれた穴に踵がつまずいた。ひょいと距離をつめ、ギスフォールはイーツェンの手から服のかたまりを半分ほど取って、落下をふせぐ。
「何でって‥‥つまり」
言いにくそうに言葉をつまらせ、ギスフォールは何か口の中で呟いたが、もうイーツェンは聞いていなかった。彼の手から乾いた服をひったくり、ねじれた皺がつくのもかまわず腕にしっかりとかかえこむと、身を翻す。きまり悪さで顔が燃えそうだった。
大股で歩くイーツェンに、ギスフォールがあっさり追いつき、追いこして、寺院の廊下に入ったところで両手を前に出しながらイーツェンをとめた。
「いや、だからね。あやまろうと思ったんですよ。俺はずっと、勘違いしてたから」
建物の中に入ったせいで、柱廊にいた時より声が大きくひびく。とにかくもう少し声を低くしてくれという願いだけで、イーツェンは小さな声で返事をした。
「あやまるとか勘違いとか、一体何だ」
「キツいことを言っちまったでしょう。‥‥何もないとは、思ってなかったもんで」
言いにくそうにそう言って、ギスフォールははねている髪をばりばりとかいた。ギスフォールの言いたいことがイーツェンには今いちわからないが、彼はとにかくそれどころではなかった。
どうして自分がこんなにうろたえているのかもわからないまま、ただ、やたらといたたまれない。ギスフォールの言うようにシゼと自分の間に完全に「何もない」のかは自信がないが、勿論「何かある」と言いきれる状態ではないし、どうやらギスフォールがシゼに聞いたのは「イーツェンと寝たか」と言うような露骨な事実なのだろうし、そういう意味では何もない──が、しかし。
あれこれ考えている間にまたわけがわからなくなってきて、イーツェンはその場にへたりこむようにしゃがみこんだ。洗濯物をかかえこんで、大きな息をつく。何でこんな話をギスフォールとしなければならないのだ。
ちらりと見上げて、ギスフォールがひどく心配そうにのぞきこんでいるのに気がついた。ふっと気合いの息を吐き、イーツェンは洗濯物をかかえ直してどうにか立ち上がった。
「別に、気にしてないし‥‥」
言いかかって、また溜息が出る。ギスフォールに対するものと言うより、ぐだぐだ考えてしまっている自分に対する溜息だったのだが、ギスフォールは誤解した様子で顔をしかめた。
「本当に悪かったと思ってるんですよ。はじめはてっきりシゼが貴族のお偉いさんに入れあげて、大変なことになってる程度の話だと思ったし」
「‥‥私がシゼをたぶらかしていると?」
「ええ、まあ」
ためしにたずねると、間髪入れずに返ってきた返事に、イーツェンはまためまいがした。だがギスフォールを責めることはできないような気がした。ギスフォールが知っているかどうかはわからないが、イーツェンはどう思われても仕方のないような淫らな関係を複数の男と結んできた。ギスフォールの想像は、もし彼がイーツェンについての話を知っていたなら──アガインは知っていた──当然と言えるものだったし、イーツェンが実際にしてきたことよりも遥かに生やさしい物事ではあった。
今さら動揺している自分が情けない。首を振って、イーツェンは体中にこみあげてくる熱と冷たさを呑み下そうとした。肌が熱く、身の内は冷たい。感情を抑制しようとした声はひどく低かった。
「かまわない。‥‥そう思われても、仕方ない」
「仕方のないことじゃないでしょうよ。勘ぐって勝手にあなたを疑ってたのは、俺だ。殴ってみますか?」
明るい声で言われて目をみはり、イーツェンは首を振った。ギスフォールの笑いにその言葉が冗談だったのだと気付き、やっとぎこちない笑みを返す。少しだけ体が楽になった。
「それで、疑いはとけたんだ?」
「まあ、そうですね。自分が下衆だったってことがつくづくわかりましたがね」
「そんなことは‥‥」
「あと、あんたたちがよっぽど変人だってことも」
ギスフォールがぽんぽんと叩く軽口には悪意がなかった。とは言え、この話題は終わらせたいイーツェンは、苦笑して首を振った。
その目の前に、ひょい、とギスフォールの顔が近づいてくる。呑まれたように見ていると、彼はイーツェンを間近に見据えて、真剣な声で囁いた。
「ごく正直なところ、シゼをどう思ってるんです?」
「好きだよ」
自分でも驚くほどあっさりと、イーツェンは答えていた。答えた瞬間、それまでの混乱した気持ちがすっと消えるのを感じた。長い間イーツェンを最後のところで支えてきたのは、この思いだった。イーツェンをこの世界に引きとめ、こごえそうだった彼の心をあたためた、最後の炎。
ギスフォールがふっと笑う。彼はどうしてか、少し悲しげに見えた。
「あなたはとんだお子様だ、イーツェン。あんまりシゼに夢を見せない方がいい」
「‥‥何の話だ?」
「幸運を祈ってますよ。いつか、あなたが安住の地にたどりつけるようにね」
思いがけないほどに、ただやさしい声だった。息を呑んだイーツェンの額に、ギスフォールの人差し指がふれる。それは何かのまじないを描くように動き、汗ばんだぬくもりを残してイーツェンの肌から離れた。
立ち去っていくギスフォールへ、我に返ったイーツェンが声をかける。
「あなたも。水に恵まれて、幸せであるように」
一瞬足をとめ、肩ごしにチラリと振り向いたが、ギスフォールはまた柱廊へとつづく出口へと歩き出した。扉のない出入口からは陽がさしこんで、彼の輪郭を黒くにじませていた。
右手を上げて、一度振る。その仕種を見つめて、イーツェンはたたずんでいた。ふしぎなざわつきはあったが、気持ちは静謐だった。
ギスフォールとシゼは、きっとまた友人同士に戻ったのだろう。ギスフォールの言葉のはしばしからそれを感じた。シゼが心配だからだろう、誤解をあやまりながらも前にもまして失礼な口をきかれた気はしたが、ギスフォールの気持ちもわかる今は、腹も立たなかった。イーツェンを傷つけようとしているわけではない。
──しかし。
「お子様じゃないぞ‥‥」
呟いて、洗濯物をまたかかえ直す。もう言われるほど子供っぽくはないつもりだが、やはり食い扶持を自分で稼ぎ出してきた男から見ると、イーツェンなどやわな「お子様」でしかないのかもしれない。
エナだってかなり若い方だと思うが、イーツェンよりはるかに落ちついて、肝が据わっている印象がある。もう少し口数少なくふるまった方が重みが出ていいのかな、などとらちもないことを考えながら、イーツェンは歩き出した。
陽の入りやすいように木窓を開け放った調理部屋で、洗い物を適当にたたみ直していると、開けてある扉からシゼが顔を出した。
「来れますか?」
「いいけど、何?」
シゼの顔を見た瞬間、ついさっきのギスフォールとのやりとりを思い出した。なるべく何でもないような顔で手早く作業を片付け、丸椅子の上に服を積む。各自、ここから取っていくだろう。
明確な返事をしないまま、シゼは先に立って表へ歩き出した。少なからずムッとして、イーツェンは追いつきながらたずねる。
「ギスフォールと、色々話したんだって?」
「いえ、あまり」
あっさりと否定され、文句を言ってやろうとかまえていた出鼻をくじかれた。正面扉から前庭へつづく三段の石段をおりながら、シゼはちらっとイーツェンを振り向き、目をほそめて微笑のような表情を見せる。
「あなたにあやまると言っていましたが。何か言われたんですか」
「‥‥大したことじゃない」
お前のせいでひどい目にあった、と言い返しそうになったが、それこそあまりにも子供な気がしてイーツェンは首を振った。シゼはうなずいただけで、前庭のはじにある石囲いの横をさした。
おそらく荷車を置く場所だったのだろう、石積みの囲いはもう半ば崩れている。比較的しっかりと残った囲いに腰をのせ、エナがイーツェンたちを待っていた。
一体何の用だろうと思いながら歩みよる。前庭には、どうやらヘイルードたちが直しているらしい樽や木箱や机がひろげられていて、何やら乱雑だった。彼らも休憩中らしく、物と道具を残して姿はない。
エナはイーツェンが近づくと立ち上がり、やはり直しかけの柵が倒れた箇所から外へ抜け、森へ向かって歩き出した。
イーツェンはシゼを見やる。
「何?」
「ちょっと」
言葉をにごしたまま、シゼはイーツェンに追っていくよう手で示した。不審ではあったが、エナを見失う前にとイーツェンは早足で歩き出す。シゼもすぐ後ろにつづいた。
エナが足をとめたのは、木々の奥に入ったところにあるほんの小さな窪地だった。湿っぽい土の上に苔や、葉の短いシダが密生していて、空気が肌にひやりと心地よい。
ここに何かあるのかと見回していると、シゼが横に立った。
「服を脱いでもらえますか、イーツェン」
「何で?」
さっぱり意味がわからない。水浴びというわけでもないだろうし、治療をここでするようにも思えない。色々なことが一度に頭の中をめぐって立ちつくすイーツェンに、シゼが淡々とつけ足した。
「上だけ」
「‥‥何でだ?」
そう問い返しつつも、とりあえずシゼに従ってイーツェンは胸元の紐を外した。腕が完全に上げられないため少し手間取りながら服を脱ぐ彼を、シゼが手伝う。シャツを脱がせ、リンネルの下着に手をかけてそれも脱がせながら、シゼは短い言葉で説明した。
「動きを見るので」
「‥‥‥」
やはりよくわからないまま、イーツェンは、やせた体を木洩れ陽のもとにさらして上半身裸になった。シゼとエナが相手だから傷に対するひけ目はあまり感じないが、とにかくただ場違いな気がして困っていると、エナがイーツェンの背中側に回り、後ろから右手首をつかんだ。
自分の腕をイーツェンの腕に添わせ、弧を描くように右腕を上へあげていく。腕が肩より上がったところで、腕につられて肩全体が持ちあがり、後ろ肩から背中にかけて皮膚と筋肉が強く攣った。イーツェンが「痛い」と呻くとエナはすぐ手をとめたが、腕をおろすことはなく、背中の傷をたしかめるように左手でふれた。
それから一度おろし、また腕を上げさせる。
そんなことを繰り返した。右腕、左腕、肩、首。上体をひねる動き。どうやら体の可動域をたしかめているのだとイーツェンは気付いた。筋肉や傷の動き方をくわしく見るために、服を脱がせたのだろう。
時おりエナは、イーツェンが本当に苦痛を訴えるギリギリまで彼の体を動かし、傷をのばした。イーツェンが耐えきれない痛みを訴えればそれ以上無理に動かすことはなかったが、こまかな痛みをともなう動きを繰り返すにつれ全身に汗がにじんできて、イーツェンの息はいつのまにか荒く上がっていた。苦痛への恐怖が反射的に体をかたくする。
そうなるとエナはまた動きをゆるめて、イーツェンの体と気持ちをほぐそうと、ゆったりした動きを繰り返した。
シゼは手を腰にあて、眉根をよせてじっとイーツェンとエナの動きを見ていたが、時おり──エナに合図されたのだろう──近づいて、肩のうしろや脇腹の動きを見た。一度ならず、イーツェンに断ってから体にふれ、イーツェンの動きを真剣な顔でたしかめていた。エナも時折、シゼに何かを耳打ちする。その様子が気になりつつも、人のことに気を配る余裕はなかった。
エナの手であやつられるように体を動かされていると、痛みを感じないようにとだけ心がけていたうちに、体がすっかりちぢこまってしまっていたのがわかる。腕をゆっくりと上げていくだけで、背中全体が引き絞られているように感じ、体中が痛みの予感にチリチリした。
やっとエナの手が彼を解放すると、イーツェンはぐったりと体の力をゆるめて息をついた。シゼがエナに礼を言っているのが聞こえるが、そちらを見る余裕もなく、へたりこんで息をととのえる。やっとイーツェンが顔を上げた時、エナの姿はもうなかった。
立ち上がってシゼから受けとった服を身につけながら、イーツェンは説明を求める。
「これで、何かわかったのか?」
「体の内側は、もう傷の心配はないと。傷は順調に治っているし、筋肉もさほど損なわれてないとのことで、安心しました。あなたは運がいい、イーツェン」
イーツェンは肌の間に汗が溜まって不愉快な首の輪を動かしながら、眉をひそめた。かるく腕を持ち上げ、痛みに引きつれるところで、またおろす。動かないようにしてきたのだから動けないのは当たり前だったが、ああやって人の手で動かされても、思った以上に体が動かないことは少なからぬ衝撃だった。
その様子を見ながら、シゼがおだやかに言った。
「今のような動きをするのがいいそうです。エナから教わって私が手伝います、イーツェン」
「‥‥‥」
それが何か役に立つのか、と問い返しそうになった口を、イーツェンはすんでのところでつぐむ。だがシゼはすぐにイーツェンの表情を読んだ。
「その体での動き方を訓練するんです。動かせば体もやわらかくなるし、動きの範囲もひろがる。体力もつきます」
「‥‥そうか」
シゼが手をのばし、襟の内側に入ったイーツェンの髪をかきあげて服の外へ出した。襟元を直しながら、うつむき加減のイーツェンをのぞきこむ。微笑んだ。
「いずれ、動けるようになりますよ。エナもそう言った」
「なら‥‥」
いつかまた剣も振れるようになるだろうか、という言葉がイーツェンの喉元まで出かかったが、彼はそれを呑みこんだ。エナやシゼの言う「動ける」が、己の渇望しているような自由なものではないのはわかっていた。
落胆してはならない。この体がもう少し楽になり、わずかでも自由な動きを取り戻せるなら、それだけでも充分な筈だ。喜ぶべきことだった。そう言いきかせようとして、だが、心に粘りつく嫌な重さはどうにも消えなかった。エナやシゼの心配りを素直に喜べずに苛立っている、そんな自分が一番嫌だ。
はあ、と溜息をつき、イーツェンはシゼに身をよせて、その肩に頬をのせた。シゼの体温を感じると心が少し鎮まってくる。とまどいがちに回されたシゼの腕に支えられながら、よせた体を預けるようにして、イーツェンは呟いた。
「私は欲深いな、シゼ‥‥はじめは、命があるだけでもいいと思っていた。今では、それだけでいいとは思えない」
「元気になったと言うことですよ。このごろは、段々と‥‥」
シゼが呑みこむように言葉を切る。一瞬何かあったのかと思ったが、自分を抱くシゼの腕にもよりそった体にも緊張の気配はなかったので、イーツェンはつづかない言葉の先をうながした。
「何だ。‥‥段々と?」
シゼは考えこんで言葉を選んでから、やけに慎重な口調で言った。
「生きている感じがしますよ」
「何だ、それ?」
「何と言うか‥‥」
二人はどちらからともなく身を離し、元来た方角へと歩きはじめる。イーツェンは、行きに見かけたハコヤナギの根元にあったクマツヅラが掘りおこされてなくなっているのに気がついた。エナが草を株ごと持ち帰ったのだろう。
たっぷり十歩分ほど考えて、またシゼが言った。
「このごろは元気ですね」
つくづく考え抜いた挙句に言うことがそれか、とイーツェンがじっと凝視していると、シゼはまるで悪事を白状するようにつけ足した。
「亡霊のように見えることも、なくなって」
「亡霊?」
「ええ。‥‥すみません」
言葉を選ぼうとしていた理由がわかって、イーツェンは笑いながら首を振った。亡霊。たしかにそうだったかもしれない。城から助け出されたはじめのうち、イーツェン自身、自分が生きている気がしなかった。世界はひどくたよりなく、温度も現実感もなく、あっというまに瓦解して彼を闇の中に呑みこんでしまいそうだった。
蜜蜂の羽音が遠い樹冠からゆったりとひびいてくる。イーツェンは木々の間に漂う土と陽の匂いを深く吸いこみ、腹の底に空気のぬくもりを感じながら、己にうなずいた。あれから、思ったよりも遠くまで来たのかもしれない。
そしてまだ先がある、とイーツェンは思う。この手で、この足で、たどりつかねばならない先が。心と体が動く限り。
歩きながらイーツェンは背すじをのばし、自分の手足を見おろして呟いた。
「動けるようになるかな?」
「なりますよ」
シゼがしっかりとした口調で答える。安請け合いなどして、本当はイーツェンが「剣を振りたい」などと考えていることがわかったらどうするつもりだ、と思いながら、イーツェンは微笑する。きっとその本心を言っても、シゼは「大丈夫だ」と答え、自分はその言葉に安心してしまうだろう。そんな気がした。
ギスフォールたちがひとまず去り、さらにその翌日の早朝、イーツェンとシゼは寺院を離れた。
ロバの背に食糧と、エナたちから分けてもらった毛布を積みこむ。食糧と毛布の分は銀貨で払ったが、エナは頑として治療費を受けようとしなかった。
ロバは、すっかり慣れた場所から離れるのが不満なのか、久々に荷を背負わされたのが嫌なのか、尾で朝もやを払いながら低く鼻を鳴らしていた。
「幸運を祈る」
そう言って、ヘイルードがまじないの手つきを胸元で切る。ユクィルスには少数しか住まない異民の神のまじないだったので、イーツェンはおやっと思った。ヘイルードはそちらの出自なのだろうか。
ウェルナーは荷崩れなどおこさないようロバの背の荷をたしかめていたが、イーツェンを見てニヤッと笑った。
「またどこかで行き倒れんなよ。今度は拾ってやれねえぞ」
「気をつけるよ。でもまた誰か落ちてたら、私に免じて拾ってやってくれ」
笑ってそう返し、イーツェンはすぐそばに立っているエナへと向き直った。ウェルナーが今度はからかいまじりの声をシゼにかけ、シゼが生真面目に答えているのを頭の後ろに聞きながら、彼はエナへ深く腰をかがめる。
「ありがとう、エナ。あなたの恩は忘れない。この恩は返すことができないほど大きなものだ。私の命があるかぎり、私の水は、あなたの水となる」
エナの手がイーツェンの肩にやわらかい仕種で置かれた。イーツェンは顔を上げ、静寂をたたえたエナの瞳を見つめた。
エナにだけは、ここから二人でジノンのところを目指すと告げてあった。ヘイルードとウェルナーに言わなかったのは信じていないからではなく、言うことで彼らを何かの災難に巻きこみたくなかったからだ。
エナの青い目に見つめられるとふっと胸の奥が切なくなって、イーツェンは囁くような声で言った。
「いつか、また」
きっと二度と会うことはないだろう。それはどちらもよくわかっていた。それでも、その言葉はまぎれもないイーツェンの本心だった。
エナが唇にかすかな笑みを浮かべたかと思うと、イーツェンに顔を近づける。面喰らったイーツェンが動けずにいるうちに、エナの唇が唇にかるくふれて、離れた。
イーツェンが仰天したまま、半開きの口をとじるのも忘れてエナを凝視していると、エナが笑った。声はなかったが頭をうしろにそらせながら白い歯を見せる、それはあけっぴろげで子供っぽい、はじけるような笑いだった。
ウェルナーとヘイルードもニヤニヤしている。イーツェンは顔が赤くなっているのを感じながら精一杯彼らをにらんだが、すぐにこらえきれずに笑い出した。手を振る。
「色々、ありがとう。頑張って」
「お前もな」
ウェルナーは両手を上にあげて陽気に振り回している。イーツェンは最後の笑いを投げ、ロバの端綱を引いて歩き出したシゼに続いた。
唇に残る感触を何となく指でこすっていると、横のシゼと目があった。にこりともしないシゼに、イーツェンは真面目くさってうなずいてみせる。
「うらやましいか」
「‥‥‥」
シゼは何も言わずに前を向いたが、口元がかすかに笑ったようだった。
道と言えるものはあっというまに木々の中に呑まれた。盛り上がった木の根を踏みながら、獣道に似た細い道を大きく曲がる寸前、イーツェンは背後を振り向く。木々の間に、それと思えば石の屋根が見えるようにも思ったが、その色は樹冠のきらめきにまぎれた目の迷いのようにも思われた。
(いつか、あの地に──)
夢が形となればいいと、イーツェンは思う。ギスフォールが戻り、ソウキがやってきて、いつの日かアガインもここに戻ればいい。ここが彼らの安らぐ地となる、そんな日がくればいい。
一瞬、焦がれた。彼の目にすることはない未来に。
前へ向き直り、イーツェンは二歩ほど先へ行くシゼに大股で追いつく。昨日、皮と綿で補強した靴は、前より随分と歩きやすい。
「残ってもいいんですよ」
ふいに、草を踏みしだきながらシゼがそう言った。イーツェンは首を振る。
「行こう」
まずは、旧街道を目指して北へ。途中をさえぎる川は橋が壊れたままだと言うが、上流へしばらく行けば村があり、渡し守がいるとヘイルードは言った。
ふいに森の中を騒々しい葉音がはしり、小さいが短い苦鳴があがった。イーツェンは足をとめ、剣に手をやろうとしたシゼを片手で制する。
「大丈夫だ」
その言葉がおわらぬうちに、大きな鳥が幅広の翼をはばたかせ、凄まじい速度で木々の間からとび出してきた。太った野ネズミを鉤爪にぶらさげている。翼をななめに倒して枝の間を見事にすり抜けながら、焦げ茶と白のまだらな翼の残像だけ残し、鳥はすぐに森の奥に吸いこまれていった。
最後のはばたきが消えると、森にはまた元のような、だがどことなく張りつめた静寂がたちもどった。
シゼが肩から力を抜いて、柄から手を離し、ロバの端綱を拾った。イーツェンは鳥の消えた方角を見おくっていたが、シゼへ満面の笑みを向ける。
「やった! 鷹だ、シゼ」
「森に?」
「森にもいるんだぞ。リグでは鷹は神々の使いのひとつで、良い先触れだ。特に獲物を持った鷹は。私も子供の頃に出くわしたことがある」
機嫌よく歩き出すイーツェンに肩をならべながら、シゼがたずねた。
「その時は、何かいいことが?」
「ぼうっとして鷹の様子を見ていたら、足をすべらせて岩から落ちた挙句、肩が抜けた」
「それは‥‥」
「おかげで次の日から牛番をしなくてもよかったし、導院に滞在していた詩人が、かわいそうに思ったらしくて珍しい手品を見せてくれた。シゼ、吉兆だよ。必ずうまくいく」
そう言って、イーツェンは自分で笑い出した。あの日の、胸にくいこむような情けなさを今でも覚えている。鷹を見た晴れがましさがあっというまに肩の激痛に変わり、左腕をだらりと下げたまま、足を引きずるように戻った。何があったか問われて、岩から落ちたことは正直に言ったが、鷹をすぐそばで見たことだけは誰にも話さなかった。
今となっては滑稽な思い出だ。だがあざやかに立ち戻ったその記憶に、まるでリグに戻ったようななつかしさをおぼえ、イーツェンは深い息を吸いこんだ。今たどっているこの道があの風景につながっているのなら、どんなによかっただろう。
横にそれそうになったロバの首をシゼがかるく叩き、ロバの口元につないだ端綱を少し短く持ち直した。イーツェンは盛り上がった根に足をすべらせないよう気をつけながら、行く手を見る。鬱蒼とした木々にこぼれてくる光と影がちらついて、行く先は遠く吸いこまれていくように見えた。
かつてここにあった、今は森に埋もれた道を、ふたりはたどっていく。濃い緑の森の影の中、まだらにさし入る陽の中を、わずかな道を見出しながら、一歩ずつ。
[4部完]