それでもシゼは、真面目に聞いていたのだろう。翌朝、顔を洗いに井戸へ出たイーツェンは、中庭のすみでシゼとギスフォールがぎこちなく距離をあけて立っている様子を見て足をとめた。
人ひとり分ほどの間をあけて並んでいるくせに、会話をしているわけでもない。イーツェンに声が聞こえる距離ではないが、二人ともに口がまるで動いていないのだ。むっつりと口をとじたまま、横に並んで壁にもたれている。
右手を上げてどちらにともなく挨拶すると、イーツェンは井戸の水桶を引き上げ、眠りのうちに汗ばんだ顔と腕を冷えた水でさっぱりと洗った。
それがすんだ時にもまだ二人の様子は変わっていなかったが、胸ぐらをつかんで喧嘩がはじまるような雰囲気でもなかったので、イーツェンはまたかるく手を振って、建物の中に戻った。陽はのぼったばかりだが、空気の中に陽光の張りが感じられて、珍しく暑い日になりそうだ。夏が去る前の、最後の抵抗だろうか。
外扉はもう開放されていて、前庭ではヘイルードとウェルナーがどこかから見つけ出してきた樽の補修をしていた。イーツェンの腰あたりまで高さのある樽だ。立ちどまって見ていると、寺院の建物の中から木の櫃をかかえた男たちが出てきて、イーツェンはぎくりとした。ルルーシュの男たちだ。二人がかりで大きな木の櫃を持っている。
彼らもイーツェンをちらりと見たが、特に何も言わずに横を通りすぎ、ヘイルードたちのそばへ櫃をおろした。櫃は釘が抜けて、横木も取れ、もう板の寄せ集めのようになっている。
「使えるんじゃないか?」
片方の男がそう言うと、ウェルナーがうなずいた。
「やれそうだな。あとで火であぶって曲げよう」
「手伝うよ」
と、もう一人の男がウェルナーの支えている樽板を持った。
四人でいとも自然に作業がはじまる様子を、イーツェンが面くらって見ていると、ヘイルードが目をあわせ、唇のはじを上げてニヤリとした。それから建物の北側を指でさす。
動物の世話をしろ、ということだろう。イーツェンはうなずいて、寺院の脇へ角をぐるりと曲がって歩いていくと、馬たちとロバがつながれた杭へ歩みよった。杭にかかっているブラシを取り、まずはロバの脇腹からブラシをかけはじめる。
「なあ、キジム」
そう言えば名をつけたよな、と思いながらためしに呼んでみて、ポンポンと首すじを叩いてやると、ロバが口から唾をとばして無音でいなないた。まるで威嚇しているような勢いだが、多分、それなりに機嫌がいい。
「夕飯に食われなくてよかったな」
からかわれ、ロバはかゆい部分をイーツェンのブラシに押しつけようと、首を左右にひねった。
それにしても、ヘイルードとウェルナーはルルーシュの男たちといつ仲良くなったのだろう?
そう考え、イーツェンは昨夜、眠る部屋まで聞こえた遠い笑い声を思い出した。ルルーシュの男たちが広間でくつろいでいるのだと思っていたが、もしかしたらあの時、ウェルナーやヘイルードも輪の中で一緒に盛り上がっていたのだろうか。
素早いな、と感心する一面、溜息が出た。そういう気の回し方やなじみの良さを少し学びたいものだ。イーツェンは人見知りというわけでもないが、器用なたちでもない。人と人とのつながりが身を助ける、そのことは身にしみていた。
そんなことを考えながら散漫に作業をしていたせいか、ブラシをかけようと無造作にのばした手の先で荷馬が不機嫌そうに足を踏みならし、イーツェンはびくりとした。一度引いた手をゆっくりとのばして馬を落ちつかせようとするが、やはり今にも蹴られそうで一歩下がる。荷馬の大きな体をふるわせて苛々と足踏みされると、その迫力にたじろいでしまう。
困ったな、とたたずんでいると、小さな足音が近づいてきた。両手に水桶を下げたエナが馬に歩みより、桶をおろす。あっというまに馬は頭を下げて機嫌よく水を呑みはじめた。気温が上がってきたので、水がほしかったのだろうか。
エナはイーツェンにちらっと微笑を向けてから、壁際に落ちているぼろ布を拾い上げて馬の首すじを拭った。イーツェンは礼を言ってブラシをかけはじめる。今度は馬も落ちついていた。
しばらく作業をしてから、エナがかるい手ぶりで背中の具合はどうかとたずねる。イーツェンはうなずいた。
「まだ少し痛いけど、随分いい。‥‥エナ」
話をしてくれ、とたのんできたウェルナーの言葉と表情が頭にあった。呼びかけられたエナは、かるく小首をかしげてイーツェンを見つめかえしている。イーツェンは用心深く言葉をえらんだが、口にしてみた言葉はひどく単純にひびいた。
「本当に、ありがとう。助けてくれて。何も返すものはないけれど、私の感謝はあなたのものだ。いつか恩を返せればいいと、心から思う」
エナは淡い微笑をイーツェンへ向ける。朝の澄みわたった空気の中で、さしてくる陽光を背後に影に立つその輪郭は、光から浮きあがってくるようだった。
イーツェンは、ゆっくりと息を吸いこんだ。
「エナ。私は、ユクィルスの本城で人質として暮らしていた人間だ。城から、逃げてきた。まだ逃げてる。だからここにはとどまれないけれど、とどまることができたらよかったと思う。ここにとどまって、あなたの手伝いをできたら」
言葉の途中で、さぼるな、と言いたげに馬が口をふるわせて音を出し、イーツェンは苦笑して馬の脇から尻の方へブラシをかけはじめた。エナは馬の首すじをやさしい手のひらで叩いてやってから、たてがみを指にからめる。細く、長い指。
「エナ。ユクィルスの本城に戻ることはないんですか?」
ふとたずねると、彼女は唐突な問いに嫌な顔をすることもなく、明確な否定を見せて首を横に振った。戻りたくないのだな、とはっきりわかる。次の問いは不躾だろうかとためらったが、エナが先をうながすように見ていたので、イーツェンは思いきってたずねた。
「ここでずっと、アガインを待つんですか?」
ふ、とエナがいたずらな微笑をうかべて、小首をかしげた。いきなりあどけない仕種を見せられて、イーツェンは何だかドキリとする。
どうでしょう、とでも言うようなその表情が、エナの答えらしかった。それでも待つのだろうな、とイーツェンは思う。アガインの語った夢は、アガインと彼女をつなぐ絆だ。おそらくどちらもまるで空想をつむぐように見た夢を、エナはここで、現実に形にしようとしている。その意志に、イーツェンは底のしれない強さを感じていた。
アンセラで、毒を用いて捕虜の尋問をしていたことをシゼに弾劾された時にも、エナはほとんど表情を変えなかった。あの時は押し殺したのかと思ったが、きっとそうではない。彼女は己の過去を受けとめ、受けいれているのだ。痛みがないわけではない。ただ、その痛みを我が身に引き受けて揺るぎがない。
何事もなかったことにはならないのだった。エナが毒を用いた行為が消えないように。イーツェンの身にふりかかったことも、あの地下牢でイーツェンのしたことも。すべては傷となって刻まれる。だが、それとともに背すじをのばして生きていくことはできる筈だった。エナを見ていると、イーツェンは心の底からそう思うことができた。
エナに会えたことも、この場所に来られたことも、イーツェンにとっては幸運だった。背中の傷の施術を受けられたことも勿論だが、エナを知ることができた、そのこと自体にイーツェンは感謝していた。
別の馬が寄ってきて、水を飲みはじめる。エナは荷馬の鼻面をなでていた。つっ立っていたイーツェンは、いきなりぐいと背中を押されてぎょっと振り向いた。いつのまにか寄ってきていたロバが、杭のかわりにイーツェンで首のかゆいところをかこうとしていた。ひねった首をイーツェンに擦りつけている。
「‥‥馬鹿」
呟いて、イーツェンはロバの首のうしろをブラシでかいてやった。パタパタと耳を振るロバは機嫌がよさそうだ。そう言えば数日前、ヘイルードが「虫下しに効く」と言ってタチジャコウの葉を干したものを食べさせていたが、効き目があったのだろうか。多いと毒になる、とヘイルードはイーツェンに教えた。どんな薬も、多すぎると毒なのだと。
毒のことを考えた時、ふと心に浮かんだことがあった。ためらってから、イーツェンはエナを見つめ、なるべく何気なくたずねる。答えられないことなら、エナはそう意志を示すだろう。
「エナ。あなたは、王族のために毒を作ったことがありますか? 王家の誰か‥‥個人の、ために」
少しでも嫌がる様子があるなら、問いを引くつもりだった。だがエナは視線を上げてごく自然に考えこみ、一つうなずいた。イーツェンは息を呑んでから、ひそめた声で、さらにたずねる。
「オゼルク?」
首を振った。つづけて、ジノンとローギスの名にも。ほかにもいくらか名を上げてみたが手ごたえはなく、イーツェンが首をひねっていると、エナが人差し指でひょいと上をさした。
意味がわからずにきょとんとしてから、イーツェンははたと気付いた。身分が格上、ということだろうか。だが、この三人より格上の存在となると極端に限られる。勘違いかもしれないとためらいながら、イーツェンはおそるおそるたずねた。
「王に?」
まさかと思ったが、エナはうなずいた。
あんな立場になっても毒が必要なのか、とイーツェンは驚く。人を殺したいと思えば一言の囁きでことたりそうだし、イーツェンの知る王──今は亡き前王──は、病に身を弱らせて治政の多くを議会や弟のジノン、そして息子たちに分け与えていた。自ら精力的に政治の舵とりをしていた様子はない。そんな男が、毒を作らせて一体何に使うつもりだったのだろうか。
そんな彼も結局は毒に命を落としたというのが、奇妙に皮肉だった。
もし、ローギスやジノンが毒を求めたことがあるならば、誰が王を毒殺したのか見当がつくかもしれないと思ったのだが、あては外れたらしい。所詮、その場の思いつきは思いつきでしかない。
仕方ない、とイーツェンは話を切り上げ、ロバのブラシがけに精を出す。エナは別の馬を水桶の方へ引いていって水を飲ませ、ロバのためにもう一度水を汲み直した。
空気がじわりと暑い。汗がにじむと同時に肌が熱でかわいていくようで、風がかすかに流れるたびにほっとした。イーツェンは抜けるような青空を見上げ、目をほそめて、動かない雲を見た。
そう言えばと、井戸庭で動かなかったシゼとギスフォールのことを思い出す。今ごろはどうなっているだろう。まあ二人とも剣をおびている様子はなかったので、何かあったとしても大事に至るようなことはないだろうが。
シゼと話さないとな、と思った。昨夜の思いつきは、一夜あけてイーツェンの中で大体まとまっている。だがシゼが強硬に反対する様子が目に見えて、どういうふうに言ったものかとイーツェンは溜息をついた。イーツェンも人のことは言えないが、シゼも大概、頑固である。
しばらくエナと二人で並んで馬の世話をしながら、やがてイーツェンは問わず語りにぽつぽつとアガインの話をした。あまり話すほどのこともないが、自分の会ったアガインの様子を教えると、エナは唇に微笑を溜めて、何も言わずに聞いていた。
寺院の横あいにある細い道はもう、道と言うよりは道の名残りでしかなかった。大きなトチノキの横を抜け、石のころがる草の道をいくと、荒れ果てた小さな畑に出る。
畑と言っても、木々が切り払われた跡と朽ちかけた切り株、それに風雨に倒れた柵でそれとわかるだけで、かつて耕された地は荒れ果て、草と蔦のからみつくただの荒れ地となっていた。
ここを取り戻すのに、どれほどかかるのだろう。かつては人々が暮らし、今は死んだも同然の地。ここに「生活」と言えるほどのものがふたたび根づくまでには、想像もつかない粘り強さと、長い時間を要するだろう。あまりにも遠い道を、エナが行こうとしているのだけはわかった。
低い灌木が群れるように生えた向こうに、どうしてか草があまり生えていない地面があった。赤みがかった土が陽を照り返すその場所で、シゼが剣を振っていた。まばらな草を踏んで深々と踏みこみ、手にした直剣を様々な形で振りおろし、また元の正位置に戻る。荒々しく、独特の秩序に裏打ちされた動きには力がみなぎり、美しかった。
近付いてきたのがイーツェンだとわかっただろうが、シゼは動きをとめなかった。イーツェンは邪魔にならないよう充分な距離をおいて足をとめ、シゼの動きを眺める。
ただ剣を振っているのではない。まるで誰かを斬るようにシゼは動いていた。相手の剣をそらし、動きをかわして、突きこむ。間合いをつめ、叩きふせる。見つめていると、何もない空間にシゼと戦う相手の姿が見えてくるようで、イーツェンはすっかり引きこまれていた。
城にいる時、シゼに少しだけ剣術を教わった。剣の握り方、振り方、重心の取り方、呼吸の仕方──ほんの基本だけでも、実戦に裏打ちされたそれはイーツェンには目新しく、心の浮くようなことばかりだった。シゼはイーツェンの上達をほめたし、才があるとまで言ってくれたのだ。動きがよく見えていると。そうした「目」は生まれつきのものなのだとシゼは言って、それを言われた時の子供っぽい純粋な喜びを、イーツェンは今でも覚えていた。シゼが専門とする分野で、シゼに認められたのがただ嬉しかった。
シゼと彼の剣の動きをこうして眼前に見ていると、ふっと体中が浮き立つようで、イーツェンは息をつめた。動きたい、と思う。この背中がなければ、またああやってシゼに剣を教わり、習練として打ち合いたい。自分の剣がうまいと言えないことはわかっていたが、剣術は楽しくて、木剣を振っている最中は何もかもを忘れて没頭できた。
だが、もう剣を振ることはないのだろう。傷が引きつれて腕を真上へ上げることができないし、体をひねって振り向くこともできない。力がかかると背中の内側が痛む。馬の水桶を持つこともできないのに、力をこめて剣を振ることなどできるわけもなかった。
シゼが短い息を吐き出し、すばやく踏みこみながら渾身の力で剣を横に振りきった。
獰猛で容赦のない動きを見ながら、イーツェンは胸にこみあがってくるものを押し殺す。命があっただけで僥倖だったのだ。剣は、彼には高望みだった。それでも焦がれるように体の底が熱くなるのは、シゼといつか対等に向き合いたいと思った、剣をかわしたいと思った、あの時の望みがいまだイーツェンをとらえて離さないからだろうか。
すぐにシゼはひととおりの動きを終え、おろした剣をちらりと眺めてから皮鞘におさめた。イーツェンへ向き直る。イーツェンはついひそめていた息を吐き出し、シゼに気取られないよう、灼けるような羨望を心の底へ押しこめた。
イーツェンがさし出した水筒を大股に歩みよったシゼが受け取り、大きく喉を動かして水を飲んだ。彼の額も腕も、首すじも、磨いたように汗で光っていた。
「どうか、しましたか」
息は平坦だったが、胸が呼吸に大きくふくらんで、あえて抑えつけているのがわかる。まだ荒々しさを体にまとったシゼを、イーツェンは目をほそめて見やった。
「剣は誰に教わったんだ? 型があるように見えるけど」
「子供の頃にいた砦で、元は騎士だったと言う男に。‥‥私は、彼のおかげで生きてこれたようなものです」
ほんの一瞬、シゼはなつかしむような顔をした。いつかその話を聞けるだろうかと思いながら、イーツェンは荒れ地を囲む森の木々の方をさす。もう日は頭上に高く、肌が熱い。
「日陰に行こう」
シゼは布で額を拭いながら、イーツェンにつづいた。かつては水路だったらしいくぼみのそば、崩れかけた石積みの、残った基礎に二人並んで腰をおろした。相変わらず、シゼは右手をあけるためにイーツェンの右側へ座る。
日陰に座ると大きく息をつき、シゼは水筒から頭にじかに水をかぶった。ボタボタと落ちてくる水を手の甲で払い、イーツェンへ問うようなまなざしを向ける。赤みをおびた色の肌を汗と水が入りまじりながらつたいおち、服を濡らした。
イーツェンは自分の頬へとんできた水滴を指で拭ってから、膝に頬杖をついた。赤土が多いからか、このあたりの風には土の匂いが強くまざっていて、その匂いはイーツェンを落ちつかせた。
「シゼ。アンセラのあたりは、おそらくこれから戦いになる。戦いをのがれた人が山へ逃げこんだり、兵の一部が野盗になったりして、山道は危険だ。それに、リグはおそらく戦乱が終わるまで峠の門をとざす。リグに行くには、逆から行くしかないと思う」
シゼは首すじを布で拭いながら、口を結んで聞いていた。
「アレキオンの川を下って行けば、港町のルスタまでおよそ15日から20日の旅になるはずだ。だが国ざかいの川関番所ですべての船はとめられ、荷と人をあらためられる。ここで身分証か通行証、交易証、割符などを持っていないと、ユクィルスの外には出られない。まずここを通るために、私たちは身分を保証する何かの証書が要る」
もし、ルルーシュとの取引がうまくいけば、そのことをたのめるかもしれないと思っていた。アガインに借りを作ることが利口だとは思えなかったし、おそらくイーツェンはその代償を新たに支払う必要があっただろうが、ほかにその手のことに通じていそうな相手もいない。
だが今となっては、それも不可能だった。
「冬には船はとまってしまう。川でも、海でもだ。冬の頭、風が北に回る前までに、ルスタの船便をつかまえないとならない。私たちには、ユクィルスでこの冬を越える余裕はない。金が尽きれば動けなくなるし、ひとところにとどまるのも危ない」
一つずつ段階を踏んで説明した。自分の考えを押しつけるだけなら簡単だが、イーツェンの考えの筋道をシゼに理解してもらうことが、何より重要だった。これはイーツェン一人の旅ではなく、シゼの旅でもあるのだ。
言葉を切って、ここまでで何かわからないことはあるかと目でたずねてみると、シゼは大丈夫だとうなずいた。イーツェンは頬杖を外して背をのばし、息を吸いこむ。
「一人だけ、通行証書をくれる相手に心当たりがある、シゼ。ジノンだ」
「‥‥‥」
シゼは口を引いたままだったが、ジノンの名を聞いた途端、イーツェンを見つめる銅色の目がけわしくなった。強く反論されるのではないかと身がまえたが、シゼは何も言わず、イーツェンが話し終えるのを待っていた。イーツェンがすべてを話そうとするように、シゼはすべてを聞こうとしているのだった。
緊張に体が汗ばむのを感じた。それしか手がないと思いきわめてはいても、やはりどこまでも危険な賭けだと思う。その賭けの勝算が、イーツェンにはまるで見えてこない。そんなことでシゼを納得させられるとは思えなかったが、それでもイーツェンが考え出せた道はこれだけだった。
「‥‥怖くはある」
正直にそう言って、イーツェンは深い息をついた。
「だが、ジノンは私が生きていることを知っている。彼が偽の処刑を命じたんだからな。私がローギスにとらえられるようなことは困る筈だ。彼の嘘がばれて、王の名をもって発布した言葉が嘘だと暴かれかねない。今そんなことで体面に傷がつくのをよしとはすまい。私がユクィルスの外へ出ることは、ジノンにとっても利であると思う」
シゼは、まだ濡れて額にはりついている金の髪を指先で払った。すぐ鼻の先をにらむように目をほそめていたが、やがて姿勢を正してイーツェンへ体を向けた。
「手のとどくところに来れば、あなたを始末してしまうだけかもしれない」
「うん」
イーツェンはうなずいた。その可能性は充分に考えた。ジノンはいざ選択を迫られれば、イーツェンの命など簡単に切り捨てるだろう。
「だが、ジノンは無駄なことはしない。私を殺すより、私を生かす方が得だと思えばそうする。リグの王子に恩を売るのは、長い目で見れば彼に益をもたらすかもしれない。‥‥それに、損得のからまないところでは親切だ、たまに」
そうつけくわえ、イーツェンは一人で笑った。ジノンのことは今でもよくわからないし、オゼルクやローギスに対するのとはまるで別な気持ちで、どこかジノンが怖い。だがそれでも、酷薄な男でないことはよく知っていた。イーツェンに対して立場を嵩にかかったこともないし、傷つけようとしたこともない。その印象をたよりに出来ないことは身にしみていたが。
ジノンへの近づき方が、すべての鍵となるだろう。彼を敵としないこと。彼にとって、イーツェンを邪魔な存在にしないこと。そこに、賭けのわずかな勝機がある。
「これが私の考えだ。お前の思うところを教えてくれ、シゼ」
シゼは地面に立てた剣の柄に両手をのせ、じっとイーツェンを見ながら、厳しく口を引いて考えこんでいた。反論ならいくらでも覚悟していたが、シゼはすぐには口をひらかない。表情をすみずみまでさぐられるような鋭いまなざしに、イーツェンは体中が落ちつかなくなってくる。それでもただ待った。
やがて、シゼがゆっくりと言った。
「ジノンは、ルルーシュとアンセラの敵だ、イーツェン。彼はユクィルスの指導者だ」
「うん」
「覚悟の上ですね?」
「‥‥うん」
ひとつ息を呑みこんでから、イーツェンはうなずいた。ひとたびジノンの協力を得れば──得られれば──ルルーシュとアンセラの人間は、ユクィルスの王族になびいたイーツェンを許すまい。ギスフォールがシゼを責めた裏切りには根拠がなかったが、今度は本当に「裏切り者」とそしられ、憎まれても仕方のない行為だった。
「私は、ルルーシュとアンセラの情報を売るつもりはない。お前にも、売らせるつもりはない」
自分が真剣だとわからせるために、イーツェンはシゼの目をのぞきこむように見つめながら、はっきりと言葉を区切った。
「幸い私の知っている情報など塵のようなものだし、今回のルルーシュ襲撃でお前の知っている情報も意味はなくなった。ルルーシュは布陣も動きも変えるだろうからな」
ユクィルスは当然、ルルーシュの捕虜を取っただろうし、ルルーシュもそれを見こして動く。すでにシゼの持つ情報は古い──そのことも、イーツェンは考えていた。
「だが、ジノンに近づくこと自体が彼らへの裏切りとなるなら、それは仕方がない。甘んじて受ける」
「そうですか」
シゼはイーツェンを見つめたままでいたが、ふっとそのまなざしがやわらぎ、声から険がとれた。
「ならば、あなたの行く道が私の道だ、イーツェン」
「‥‥うまくはいかないかもしれないよ」
「あなたの首の輪は目立つ。正直なところ、私はあなたを冬中守りきる自信はない。ジノンがルルーシュの中に間者をもぐりこませていたなら、ローギスの手の者がいた可能性もある。彼らに追われて見つかるよりは、ジノンの方がましだと私も思う」
ややぶっきらぼうに、だが率直にシゼは言い切る。イーツェンはまだ滴のつたう彼の顔を見つめ、手をのばしてシゼの左肩にふれた。剣を振った熱がまだシゼの体に残っていて、ふれた手のひらからはこもったような熱さがつたわってくる。
「賭けだ、シゼ。どんなことになるか、わからない。それでも一緒に来てくれるか?」
まっすぐに見つめて、たずねた。もしジノンがイーツェンを殺す気になれば、シゼを生かしておくこともない。これはイーツェンだけでなく、シゼの身もあやうくしかねない選択だった。
シゼはかるくうなずき、立てていた鞘をつかんで立ち上がった。腰の剣帯に鞘を吊りながら、何でもないことのように言う。
「行きます」
「シゼ。これはとても危険な──」
「あなたはあまり余計なことを考え回さない方がいい、イーツェン。私は自分の行動は自分で決める」
シゼの承諾にほっとするよりずけずけとした物言いにムッとして、イーツェンはつい何か言い返しそうになったが、シゼは一人で話を片付けてしまったらしい。先にあっさり話をかえた。
「いつ行くんですか」
「‥‥なるべく、早く」
自分でも曖昧な表現だと思いながら、イーツェンは答える。急ぎではあるが、旅に要る物をそろえる必要もあることだし、ヘイルードにそのあたりを相談してからだなと思っていると、シゼが天気を占うように空をチラッとにらんでからうなずいた。
「二日」
「え?」
「ギスフォールは明日、発つそうです。彼らの後に出た方がいいでしょう」
ギスフォールたちにイーツェンの出立と行き先の手がかりを教えないための用心、と言うことだろう。イーツェンもそれには同感だったが、ほかに考えることがある。
「だって、準備は」
「今からします」
わかりきったことを、と言うような口調だった。
そうと決まればと言うことなのか、シゼは足早に歩み去りかけ、途中でふと思いついたように大股で歩き戻って、イーツェンをのぞきこんだ。
「あなたは、しっかり休んで。日陰で。いいですね?」
「子供じゃないぞ、シゼ」
「子供だったら、もっと簡単ですよ」
妙にきっぱりした口調だった。
あっけに取られて反応できずにいるイーツェンを残し、シゼはふたたび向きを変えてさっさと歩み去っていってしまう。後ろ姿を見おくりながら、イーツェンは無言の口だけで「やかましい」と言い返した。
いつのまにか汗ばんでいた額を拭い、水筒から水を飲もうとしたが、すでにシゼが水を使い果たした後だった。さらに悪態を呟きながらイーツェンは立ち上がって、もう姿の見えないシゼを追って歩き出す。
ジノンの話をどうやって持ち出そうかと、起きた時から考えぬいて気合を入れていたのに、その気合がまるごと肩透かしをくらったようだった。ジノンの名が出ただけで、シゼは反対するだろうと思っていたのだが。
丈の高い草をさけ、一歩ずつ、光の色もあざやかな地面を踏みしめて歩いていると、あらためて身の内に浮き立つような爽快感と恐れが同時にわきあがってくる。この場所から出て、踏み出すのは怖い。その先に待つものも怖い。それでも、どう進むか見さだめた今、心は新ただった。
これははじめてイーツェンが自ら考え、自ら選択した道だった。この先に何があろうと、その悔いはすべて己が身に引き受けねばならない。だが切り開いていける、と思った。シゼがいる。シゼも共に行くと言ってくれた。
陽の匂いがする息を吸いこみ、吐き出して、イーツェンは右手を拳に握った。故郷を出、ユクィルスの城での日々をすごして、城から救い出され、ここまで来た。またここから、この足で踏み出していく。
傷を負い、名も失い、首には奴隷の輪をつけられた。すべてが変わった。剣はもう振れないかもしれない。だがそれでも、イーツェンがその足で歩いていける道はまだある筈だった。