靴とシャツを脱ぎ、イーツェンは口数も少ないままに早めの寝床にもぐりこんだ。
 同じ屋根の下に客がいるからだろう、シゼは用心深く扉の閂をたしかめている。その様子を毛布の中から見ながら、イーツェンは口の中で溜息を殺した。閂は嫌いだった。二度と自由に出ていけないような、切羽詰まった気持ちがわきあがってくる。城にいた時のように外から施錠されているわけでもないのに、おかしな話だったが、閂の音を聞くとどうしても世界から切り離されていくような感覚があった。
 扉の向こうから、ごく細くではあるが、男たちの笑い声が聞こえてきていた。どうも「客」は上機嫌らしい。ヘイルードが酒でも出したのかと勘繰ってしまいそうになるが、血気さかんな連中に酒を飲ませるような無謀をするとも思えない。それにしても何をそんなに盛り上がっているのか、不思議だった。不機嫌よりはいいのだろうが。
 明りとりの細い窓は開けたまま、シゼが油燭を消す。目の慣れない闇の中、イーツェンは晩夏のぬるんだ空気が揺らぐのを感じた。シゼの気配が闇を動き、やがて近づいてくる。
 枕元に剣を置いたのが、なじんだ音と気配でわかった。それから靴を脱ぐ音。安心させるように、毛布の上からかるくイーツェンの肩にふれてから、シゼはイーツェンのすぐかたわらに身を横たえた。
 少しの間、イーツェンはシゼの静かな呼吸を背中に聞いていた。やがてゆっくりと寝返りをうち、彼に体を向ける。そうやって動くと背中が痛んだが、遠い痛みだった。
「‥‥シゼ」
「はい」
 ほとんど即座に、返事がある。囁くように小さな声を、夜闇の向こうでシゼが真摯に聞いているのがつたわってきた。
「ヘイルードに‥‥ここに残らないかと、言われた」
「私も言われました」
 その返事は意外で、イーツェンは闇の中で目をみひらいた。少し慣れてきた視界に、シゼが横たわったままイーツェンへ向き直る動きが見える。
「ウェルナーに」
 と、シゼはつけくわえた。ふうん、とイーツェンが何となく納得していると、シゼがそっと言った。
「でも行くんでしょう?」
「‥‥うん」
 もぞもぞと、イーツェンは薄い毛布の中でどうもおさまりの悪い体を動かす。今日一日、あまりに多くのことがあって、まだ心がかき乱されたままうまく鎮まっていない。心も体もどこか熱っぽく、ざわついていた。
「どう、思う?」
「残りたいんですか」
 シゼの声にはかすかに驚いたようなひびきがあった。どうなのだろうと自分の心をさぐってから、イーツェンは呟く。
「‥‥疲れたよ」
 言葉にしてしまうと、体がその分ずしりと重くなった気がした。その重さを吐き出そうと、イーツェンは長い息をついて、目をとじた。
 シゼの手が毛布の上からかるく腰に回される。存在をたしかめるような、ごく軽い抱擁。それからひどく静かな声がイーツェンに囁いた。
「リグがなつかしい?」
「‥‥うん」
 シゼにはつたわったのだな、と思い、こみあげてくる強い熱をどうにか呑み下そうとしたが、うまくいかなかった。声をつまらせた自分を、イーツェンは小さく笑う。
「情けないな」
「そうしたいなら、残ってもいいと思いますよ。しばらくの間だけでも。彼らは信用できるでしょう」
「駄目だよ。私が生きていることがわかれば、ローギスはきっと、この場所をつぶしにかかる」
 そう言ってから、イーツェンは話の順番をまちがえたことに気付いた。うっかり忘れていたが、まだ自分の「処刑」のことをシゼに言っていない。今日はあまりに多くのことがあって、いつのまにかそれどころではなくなっていた。
 シゼも話の欠落に気付いたのか、返事をすることなくイーツェンの言葉のつづきを待っている。
 二人のほかに誰もいないことはわかっていたが、イーツェンは顔をシゼへよせ、声をひそめた。
「シゼ。ジノンが、私を処刑したと王の言葉を発布したそうだ」
「ジノンが?」
 シゼの声には驚きよりも不審があった。考えこむ気配がつたわってくる。やはりジノンの名に引っかかるものがあるのだろう。
 闇がしんと深さをましたような気がした。
「うん。ジノンは、フェインを王に擁立して、自らは執政として立ったそうだよ」
「──フェインの後ろ盾は? 彼は、第五子だったと思いますが‥‥」
 一瞬、フェインに敬称をつけようかどうか迷ったようで、わずかな間があいた。結局敬称をつけなかったのはこちらにあわせたのかな、とイーツェンは何だかほほえましくなる。
「そうだよ。フェインの母御はユクィルスの神殿の司の一人だ。そして、亡くなった王の従兄弟でもあった。王が療養で離宮に行かれた時にお世話をなさって、フェインを身ごもったそうだ。ある意味フェインは、今の王子の中でもっとも正統な王家の血を継いでいる。父方と、母方の両方から」
 ユクィルスでは、非嫡子であっても嫡子と同等に王位継承の権利を持つ。王統は王の血を通じて受け継がれ、その一点において婚姻はあまり関係がないのだ。たとえ愛人の子であっても、王の息子であると王が認めれば、その男子は王家の直系として扱われる。とは言えやはり、正妻の長子がもっとも重く扱われるが。
 前王の正妻はアンティロサ──ローギスとオゼルクの母であるその人だが、そのことがローギスやオゼルクの王位継承を確実にするわけではない。王子として承認されているフェインにも、継承の権利があった。
 オゼルクの下には、五人目のフェインに至るまで第三、第四の王子がいる。しかしその二人をイーツェンは名でしか知らず、その母の名も知らない。彼らはすでに異国の娘との婚姻を結び、ユクィルスを去っていた。おそらく内部での継承者争いに破れ、国を出されたのだろう。
「フェインの母御は普段は神殿にこもっておられて、城に顔を見せないお人だと聞いたな」
「では、ユクィルスの神殿はフェインとジノンについたんですか?」
「多分‥‥そうなるんだろうな」
 神殿の司の子を担ぐということには、そういう意味あいもあるのだろう。そう返事をしながら、イーツェンにはふと思いあたることがあった。
 ルルーシュへの襲撃の裏で糸を引いたのがジノンだとして、その理由は、ユクィルスの神殿だったのではないだろうか。フェインの後ろ盾となる神殿の意向を受けて、ジノンは異教のルルーシュを叩いた。そう思えば、わかりやすい構図が見えてくる。彼には、神殿の機嫌を取る必要があったのだ。
 イーツェンが考えこんでいるうちに、シゼが姿勢を変えた。どうやら左で頬杖をついたらしく、声は少し上からした。
「どちらが優勢なんですか」
「ローギスとジノンか?‥‥どうだろうな。軍はローギスが把握していると思っていたけど、それならジノンが城を出て立つこともないだろう。あの人は勝つ手のない喧嘩はしない人だし」
「神殿は、独自の兵を持っていますよ」
「それは知ってる。でも、使いものになる兵なのか?」
「強い、そうですが」
「ふうん‥‥」
 あまり表舞台に立たない、神殿子飼いの私兵だけをジノンが戦力のたのみにするとも思えなかったが、そのあたりを判断するには情報が足りない。軍と言えば、アンセラで駐留軍の執政官をしていたセンドリスがジノンと親しかったほどだし、ジノンも軍には通じるものを持っていたのかもしれない──と、あやふやに考える程度だ。
 短い沈黙をとらえて、シゼがそっとたずねた。
「ジノンは、どうしてあなたを‥‥?」
「殺した、か?」
 自分の声が少し投げやりにひびいて、イーツェンは口元を引きしめた。そうやって言葉にすると足元が崩れたような虚脱感がよみがえって、腹の底がぞわりとした。
「わからないんだ、シゼ。多分‥‥ルルーシュのために宣誓させたくなかったのかもしれない。ルルーシュが政情に影響力を持つのをきらって、私の宣誓をああいう形で封じたのかも。死人が何を言っても、人は信じないからな」
「──そこまでジノンがつかんでいたなら、あなたを本当に殺した方が早い」
 ぼそりとシゼが呟いた言葉に、背すじが冷水をかけられたように凍った。
「それは‥‥」
 イーツェンは口ごもった。シゼの言うことにも一理ある。だがそのことはイーツェンの心にうかばなかった。やはりどこかでジノンを甘く見ているのだろうか──よもや、本当にイーツェンを殺すことはないだろうと。
 考えをひねくり回しながら、ぼそぼそと呟いた。
「間に合わなかったのかも、しれない。私とアガインが宣誓の件で同意して、そのまま、私たちはすぐに出立しただろ。その途中で、ルルーシュとも離れたから‥‥ジノンが何かしようとしても、私の居場所がわからなかったとか」
 もしルルーシュとともにいれば、ジノンは実際にイーツェンを殺しただろうか? いくら考えても真意がわかるはずはなかった。見失ったのだとして、あえてイーツェンを探し出そうとはせず偽の「処刑」を布告してすませた、そのことに意味を見てしまうのは危険だろうか。
 ジノンの意図をあれこれと考えていると、思考が堂々めぐりに入って、こめかみがズキズキと張ってくる。
「‥‥あの人のことは、さっぱりわからない」
 文句をつぶやきながら、イーツェンは吐息をついた。
「オゼルクの方が、まだわかりやすかったよ」
 シゼは、返事をしなかった。
 うっかり嫌な名を出してしまったかと、イーツェンは首すじがひやりとする。レンギを含めた確執もあって、シゼはオゼルクのことをまるで許していないのだろう。とりつくろうように、ジノンについての言葉をつづけた。
「権力争いに興味があるようでもなかったし、元々ユクィルスの本城にもあまりよりつかないと噂の人だったのに。それが今回、ローギスに対抗してユクィルスを割った。それがどうしてかもわからないし、どうして自分が立たずにフェインを擁立したのかもわからない。まだ8つだよ?」
「だから、でしょう」
 子供は操りやすい。暗にシゼはそう言っていた。
 シゼがまた動いて頬杖を外し、体を横向きに倒してイーツェンと向きあった。薄暗くて表情の細部までは見えない。
「あなたが公式に処刑されたなら、もう追われる心配もないのでは?」
「‥‥ローギスは、ジノンの言葉を信じないと思うんだ」
 声がかたくなったのが、自分でもわかった。少しおいて、シゼが低くたずねる。
「ローギスが処刑を信じずに、あなたを個人的に追うということですか」
「わからない‥‥でも、もし私が生きているとわかったり、居場所を知れば、彼はきっとただではおかない。きっと‥‥」
 ふいに舌がうまく動かなくなって言葉を呑み、イーツェンは息をつめた。すぐにまちがいに気付いて息苦しくなった胸の空気を吐こうとするが、喉に何かがつまったようで、無理に吐き出す息が小さな呻きのような音をたてた。全身に、粘るような汗がじわりとにじむ。喉の輪がくいこむように苦しくて、また息がきしんだ。
 シゼが身をよせ、毛布の上から右腕を回してイーツェンを抱きかかえた。引きよせられるまま体を崩し、イーツェンはシゼの肩に額をもたせかける。脈が指先までじんじん打っていて、こわばった背中の奥に痺れるような痛みがはしった。
「何があったんです、イーツェン」
 耳元でシゼが囁く。その声は奇妙にはげしく、イーツェンの心臓が一瞬はねた。
「何でそんなに怖がるんです。彼は、あなたに何をしたんです?」
「‥‥‥」
 一度も、シゼは聞こうとしなかった。何があったか、何をされたか。城からイーツェンをつれ出してから、一度たりとも。城での話が話題にのばらないよう、注意ぶかくさけているようだった。今、この瞬間まで。
 目をとじて、イーツェンは闇に耐えきれず、また目をあける。暗がりに見えるのはシゼの輪郭だけだ。左手をのばし、毛布の下をさぐってシゼへ手をのばすと、ふれたシャツの胸元をつかんだ。
 くたびれたシャツの、やわらかくよじれた布がイーツェンの指の下でしわをつくる。イーツェンに服を買ったのに、シゼは自分の服はそのままだった。
「ローギスは‥‥裁きの場で私が彼に暴言を吐いたと言って、私に口をきくなと命じた。口をきいたら、舌を切ると」
 自分を抱くシゼの手にぐっと力がこもったのがわかった。イーツェンは身の内の苦しさにつき動かされ、早口につづける。
「そして私の首に輪をつけ、鞭打たせ、牢の奴隷にした。牢番や番兵に、私を、好きにさせた。私は‥‥あそこで死ぬのだと本当に思ったよ、シゼ。生きたまま、死んでいるようだった」
 シゼの手が動き、毛布の上からイーツェンの背中をなでた。ゆっくりと体にふれながらその手は肩から首すじへと上がって、イーツェンの頬をなでる。指の背で、無言のまま、何度もなでた。
 イーツェンは目をとじた。シゼがそこにいるとわかっていれば、暗闇はそれほど恐ろしくはなかった。だが気をゆるめると、あの地下牢の腐った泥の臭いが体の内によみがえって、むせかえりそうになる。何もかもを、イーツェンはあそこではぎとられた。身分も、名も、誇りも、意地も。かけらほど残っていた、自分自身さえも。
 あきらめ、屈服し、自分の存在さえうつろになっていた。そんな己を知っている。そのことが時おり、ただ苦しい。あれほどに弱くてみじめな自分が大嫌いだった。憎んでさえいた。そして、怖かった。あんなふうに崩れていく、まるで腐臭を放つような部分が自分の中にあるのだということが。
 シゼの指がイーツェンの頬にふれ、また少しのびた髪を払って、丁寧にイーツェンの輪郭をたしかめる。彼の手は熱かった。
「何て言ったんです?」
 ふいにたずねられて、イーツェンはまばたきする。問いの意味が、彼にはよくつかめなかった。こわばった喉から声を押し出す。
「何てって、何?」
「ローギスに暴言を吐いたと言った。何か言ったんでしょう? 何と言ったんです」
「ああ‥‥」
 体の緊張がゆるんだ。イーツェンはかすかに笑い、額をシゼの肩にもたせかけた。
「くそくらえ、と言った。みんなの前で」
 シゼが笑い声をたてた。意表をつかれたイーツェンが頭をもたげ、薄暗がりに彼の顔を見ていると、シゼは笑いながらイーツェンの頭をくしゃくしゃになでた。
「よく言った、イーツェン」
 彼は本当におもしろがっている様子だった。シゼの肩に頭を戻し、まだその体が笑いに揺れているのを感じながら、イーツェンはふいにすうっと心が軽くなる。重石が取り除かれたように。どうしてだかひどく痛快な気分で、あの出来事がただ滑稽なものに思えた。
 微笑して、それでも口をとがらせる。何もかもを冗談にしてしまおうと言うように。
「でも、高くついたんだぞ」
「いつか、彼は報いを払いますよ」
 シゼの指先が髪を擦く感触が心地よかった。
「ユクィルスの神々のもとで?」
「神々はわかりませんが。誰でもいつか、何かの形で報いを支払う」
 静かに言って、シゼはかるく姿勢を直した。重いかな、とイーツェンが離れようとすると、シゼが回した右腕で引きもどしたので、また頭半分、シゼの肩にのせた体勢に戻った。二人でくっついていると少々暑苦しいのだが、イーツェンはシゼの体温を感じるのが好きだった。そこにシゼが本当にいて、今この瞬間が確かな現実なのだと安心できる。
 名を失ったことも、ジノンの手で己が死んだとされたことも、今はどうでもいいことのように思えた。今ここにいるイーツェンは、こうやって、たしかに生きている。シゼの傍らでシゼの温度にふれている──ここにある自分の存在をまっすぐに信じられる。その確信が、彼の芯となって彼を支える。
 つたわってくるぬくもりに身をゆだねて力を抜き、イーツェンは静かに囁いた。
「私の居場所をつかめば、ローギスは放ってはおかないだろう。ここは駄目だ、シゼ。この場所を危険にはさらせない。ここは‥‥アガインとエナの夢だ」
「川を下りますか」
 川を船で下り、ルスタの港からゼルニエレードの港町へ。海路で嶺々の裏側へ回って、東側からリグを目指す──イーツェンが説明したことを、シゼはきっちりと覚えていた。
「そうだな。でも通行証が要る。ただ川旅をするだけじゃない、国境いの港関番所をこえないと‥‥」
「何か、考えが?」
 問うと言うよりは、物静かに確認するような言い方だった。シゼはいつも鋭い。考えと言えるほど確固としたものではないが、イーツェンにはひとつだけ、身分証入手に使えそうな心あたりがあった。
 とは言え、もやもやとしていた考えがイーツェンの中で形になりはじめたのはこうやってシゼと話している間のことで、イーツェン自身まだ自分の考えをきちんと組み立てられていない。
「もう少しかたまったら、話すよ」
「イーツェン──」
「隠してるわけじゃないんだ。ただ、まだ整理できてない。大丈夫、明日にでも話す。‥‥今日はとにかく疲れたよ、シゼ」
 あくびまじりにそう言って、イーツェンは横倒しにした身をもそもそと丸めた。額をシゼの肩にくっつけて、目をとじる。何だか飼い主になつく犬のようだと思ったが、そう思っても悪い気はしなかった。
 シゼが短い息をつき、イーツェンの髪をなでながら、眠る体勢を取った。またあくびをして、イーツェンは呟く。
「あと、シゼ。ギスフォールが発つ前に、彼と話をした方がいい」
「何を話すんです?」
 心底不思議がっているような声に、イーツェンは手をのばしてシゼの脇腹を拳でこづいた。まったく、この男は。
「何でもいいんだ。でもとにかく、何も言わずにこのまま離れては駄目だ」
「傭兵なんて、いきなり会っていきなり別れる。慣れていますよ」
「ギスフォールはお前の友達だよ、シゼ。ただの傭兵仲間じゃない」
「‥‥‥」
「ああもういい、さよならでもまた会おうでも、一言挨拶をしてくれ。たのむから」
 溜息まじりのイーツェンへ、シゼは「はあ」と「はい」の中間のような曖昧な返事をかえした。納得したのかどうなのか。明日また言おう、と思いながら、イーツェンはもう重いまぶたをあげられなかった。疲れて、心も体もまだざわついていたが、それでもシゼがそばにいれば、眠ることはたやすく思えた。