夕暮れが押しせまる中庭に油燭がふたつ置かれていた。たれこめてくる薄闇に炎の色は浅くゆらめき、その一瞬ごとに火は少しずつ明るさをましてくる。
 だが、逆だ。炎が明るくなっているのではなく、空気が暗さをましているのだ。物の見え方というのはふしぎだ、とイーツェンは思う。置かれた景色や状況で、目にうつる色までも変える。
 中庭の古びて傾いた木のベンチに、ギスフォールはイーツェンと並んで座っていた。地面に埋めこまれた丸い石盤にもうひとり男が座りこみ、エナが彼の服の袖を抜いて、肩の傷の治療をしている。
 イーツェンが彼らの前へ出ていく条件として出したのが、まずギスフォールと直接話すことと、ヘイルードの矢で負傷した男の治療をエナがすることだった。後半の条件はエナが出したものだったが、イーツェンにも否やはない。エナが癒し手であると印象づけた方が、話の通りがよくなるという見込みもあった。
 水桶をそばに置き、エナは独特の集中した表情で男の傷口を洗っている。矢を無理に引き抜いたのか、肩口の傷は裂けて服は血にまみれ、傷は腫れあがっていた。エナが練り薬を傷にあてはじめると、男が痛みをこらえる苦鳴を喉につめる。
 その気配にたじろいだイーツェンを、ギスフォールが小さく笑った。
「あんたの背中の傷の方がずっとひどかった、イーツェン」
 彼は、あの平城でソウキがイーツェンの背の傷を洗うところを見たことがある。イーツェンはきまり悪く首をすくめた。
「痛いのは、きらいだ」
「具合、よさそうだな?」
 くだけた物言いは親しげというほどのものではなかったが、乱暴でもなかった。イーツェンはうなずいて、エナへまなざしを向ける。
「彼女のおかげだ。彼女がいなければ、シゼもあやういところだった。‥‥ひどい熱を出したんだ。2日、意識がなかった」
「あんたは、酒場に言付けをしていくべきだったよ」
「知らなかったんだ。そんな取り決めをしてたなんて」
 正直に答え、さらに正直につけくわえた。
「それにあの時、ルルーシュのことは頭になかった。シゼを助けたいだけだったから」
 ギスフォールが、はっと短い笑いをこぼす。
「それがあんたやシゼの困ったとこだ。お互いのことになると周りが見えない。はたから見てるとおっかなくてしょうがない。──俺にはわからん、イーツェン」
「何が?」
「シゼはいつも冷静で、物事をわきまえていた。あれが馬鹿になるのは、あんたのことに話が絡んだ時だけだ。もっともアガインはそれを利用してあいつに色々やらせてたふしがあったがね」
 その言葉を聞いたイーツェンは背すじが冷える気がした。
「色々って‥‥」
「手のかかる仕事さ。ああ、そんな汚れ仕事じゃない。あいつ、そういうことはあまり上手じゃないだろ?」
「‥‥‥」
 そういうことは、よくわからない。だが、生きていくためにシゼがこれまで何でもしてきただろうことはイーツェンも理解していた。選ぶ余地などなかっただろうことも。イーツェンの脚枷を外し、またつけたように。それがシゼの生きてきた道だ。
「シゼは‥‥」
 呟いたイーツェンは、唇がかわいているのに気付いて舌で湿した。言い直す。
「シゼは、私を守ってくれる。でも仲間を裏切ったりはしない、ギスフォール」
「本当に、そう思うか。本気でそう思っているのか?」
 ギスフォールはまだシゼを信じていない。イーツェンは、彼の声に押し殺されたゆらぎにそれを感じとる。だが信じたがっている。そのギスフォールの思いが、イーツェンのよりどころだった。
「本当にそう思うよ。ギスフォール、もしシゼが私を守るためにジノンに通じて取引をしたとする」
 まだギスフォールの中にこびりつく疑念を流そうと、イーツェンは言いながら一つ指をたてる。
「それはありえたかもしれない。あなたが疑っているのもそれだろう?」
 問われたギスフォールはうなずいたが、ややとまどい顔だった。イーツェンがシゼの裏切りの可能性を肯定したので、かまえていた心が肩すかしをくらったのだろう。イーツェンはつづけた。
「でもギスフォール、もしシゼが取引をしたとして、そのまま誰にも警告せずに黙っていると思うか? 仲間や、その愛する者が戦いに巻きこまれるかもしれないと、そうわかっていたらシゼは必ず何かの形で知らせ、そなえさせた。そうは思わないか?」
「‥‥‥」
「村を教えると言うことは、女子供が狙われ、殺されると言うことだ。あなたも言った、数多くが死んだと」
 イーツェンは声を低くした。知らぬ者たちの死であっても、死はいつも重い。襲撃の時、ギスフォールたちはもうその村に到着していたのだろう。あの荷馬車でイーツェンと一緒だった女や子供たちの顔が脳裏をかすめた。彼らも巻きこまれたのだろうか。
「そんなことをシゼが放っておくと思うか? いくつも手はある、ギスフォール。裏切りだけではなく。シゼならそういう方法を探す筈だ。裏切り、何の警告もなく逃げる──それがシゼのやり方だと思うなら、あなたがシゼという男をどう考えているのか、私にはわからない」
「──」
「彼をただ信じろとは言わない。だが、責める前によく考えてくれ。あなたの知るシゼを思い出してくれ、ギスフォール。そうすれば、あなたにはわかる筈だ」
「‥‥口がうまいなあ」
 ぼそりとギスフォールは呟き、顔をしかめて考えていたが、やがて左手を大きくのばして上へ振った。誰かに合図を送る様子をイーツェンが緊張して見つめていると、ギスフォールは腕をおろし、右肩をすくめた。
「前とは別人みたいに見えるぜ。アガインが今のあんたを見たら、右側に置いて使いたいと思っただろうさ」
 ギスフォールはもう怒っているようではなかったが、その声には奇妙にひややかな棘があった。どういう返事をしたものかわからず、イーツェンはあいまいな笑みを返す。
「それは‥‥困る」
「アガインがあんたを助けたのは、まちがいだったよ」
 今度はギスフォールは自分の声の棘を隠そうとしなかった。
「そのせいでルディスの城を取らなきゃならなくなったし、戦力が大きく二断された。ユクィルスが本腰入れて叩きにきたのも、多分人質に取られたルディスを取り戻しに来たからだろう。──それとも、あんたを取り戻しに来たのか?」
 口をとじたまま、イーツェンは首を振る。ずしりと体が重くなった気がした。ユクィルスがそのためだけに大きな兵力を投じるほど、自分が重要人物であるはずはない。だが、イーツェンの存在がアガインと彼の兵を動かし、ルディスを巻きこみ、結果としてユクィルスの介入を招いたのは事実かもしれなかった。
 すべての雪崩の引き金を引いた、それはイーツェンの存在だったのだろうか。
 ギスフォールはイーツェンをじっと見つめる。夕闇の中、油燭の明りを受けてかすかに光る目はするどく、どこか痛ましげでもあった。
「あんたは厄介と騒動のタネだ、イーツェン。あんたのせいじゃないけどな」
「‥‥すまない」
 ぽつりと呟く自分の声は、まるで泣き出しそうだとイーツェンは思った。手当てを終えたエナまでもがこちらを見ているのを感じ、イーツェンは喉のこわばりを取ろうと咳払いをする。すまない、と今度はもう少ししっかりした声で言うと、ギスフォールがあいまいに笑って、疲れたような息をついた。
「しょうがないさ。‥‥本当に、しょうがない」
「アガインにも、あなたにも感謝している。シゼを助けてくれたし、私を助けてくれた。こんなことになってすまないと思う」
 イーツェンはできるだけ声を保ちながら言おうとしたが、どうにも声は弱々しかった。アガイン、セクイド。彼らだけでなく、多くの者の運命が巻きこまれた。ギスフォール自身も今度のユクィルスの襲撃がなければルルーシュの戦いからは手を引き、アンセラにかかえられる形で新たな身分を手に入れていた筈だ。その発端が自分だと言われてしまえば、もう一言もなかった。
 エナの手が男の傷の上に布を巻きおわり、しっかりと結んだ布のはじをたくしこむ。その様子を見ていると男にぐっと強い目でにらまれ、たじろいで視線をそらしながら、イーツェンはギスフォールへたずねた。
「アンセラへ、向かうつもりはないのか」
「‥‥‥」
 ギスフォールが肩をすくめる仕種はどこか投げやりで、重い。シゼへの疑いはそれなりには解消したか、あの激情と憎しみはおさまった様子だったが、そのことが彼の心を軽くした様子はなかった。
 しばらくしてから、低い声でひとりごとのように言った。
「戻りますかね」
「どこに?」
「どこに、ってのは言えませんが」
 以前のようにまた口調が丁寧になる。イーツェンと距離をおこうとして、意識的にそうしているのだろう。結局彼がイーツェンに心をゆるすことはないのだろうと思うと、イーツェンは何だかやるせない。
「負傷者や生き残りが身をよせて集まっててね。どうにかしないと、ならんでしょうよ。畑も塩でつぶされたし、とにかく生きてく方法を考えないと」
 かすかに笑って、火によってきた羽虫を手の甲で払った。
「男はあたりかまわず剣を振り回しゃいいけど、女子供は残った瓦礫をかじってでも生きていかなきゃならん」
「どのくらい、生きのびた?」
 その問いに、ギスフォールは小さく首を振っただけで答えようとはしなかった。彼に答える気がないと見きわめるだけの時間をおいてから、イーツェンはあらためて表情をつくった。
「エナは癒し手だ、ギスフォール」
「それで?」
 チラリとギスフォールがエナに投げた目はするどいものだった。どうにも正体を知れぬ者を見さだめようとしている。エナは平然としていた。
 イーツェンはやわらかな口調を心がけながら、続ける。
「怪我人を、彼女にまかせるといい。腕も確かだ」
「信頼できない人間をつれてく気はないよ、イーツェン」
「つれて行く必要はない。つれて来ればいいんだ」
 わけのわからないことを言う、と眉をひそめたギスフォールへ指を上げて反論をとめると、イーツェンはエナの方へ身を傾けて手をのばした。エナが薬袋の内側から巻いた紙を取り出し、イーツェンへ手渡す。
 イーツェンはそれをそのままギスフォールへさし出した。
「読んでくれ」
 ギスフォールはまだ眉根を寄せてイーツェンを見ていたが、イーツェンが紙を出したまま見つめ返していると、やがて細い筒状に巻かれた紙を手にとった。すっかり巻き癖がついてしまっているそれをやや苦労しながらひろげ、油燭の灯りに身を傾ける。
 商隊の護衛をしていたと聞いたし、自分の商隊を持ちたいとも言った。そのことからギスフォールには読み書きの心得があるだろうと思ったのだが、その推測は正しかったらしい。迷いなく文字の上へ目をはしらせている。その様子を見ながら、イーツェンはそっと言った。
「署名を見てくれ、ギスフォール。アガインからの手紙だ」
「‥‥‥」
 しきりに丸まってくる紙の下端を指ではさんでおさえ、ギスフォールは灯りがまだらに揺れる紙の表面を見つめていた。ゆっくりと顔を上げる。
「これが‥‥アガイン本人の書いたものだとして、それが、何だ? 俺には関りがない」
「アガインはエナに、癒し手の存在を中心とした小さな集落を作るようすすめていた。どこに属しているとか、どこの民だとか、そういうことに関りなく傷ついた者を誰でも受けいれ、癒やす場所だ。‥‥彼はそのために、この」
 と、イーツェンは中庭を囲む古びた建物を手でぐるりと示した。エナはじっと動かず、地面に埋めこまれた石盤にあぐらで座って成りゆきをただ見まもっている。
「ルルーシュの捨て寺院を使え、と、ルルーシュの祭主の名でもってエナに認めを出してる。その手紙はそれを文章にしたものだ。エナは今回、ここでアガインに会ってふたたびその話をする筈だった」
「‥‥その女が誰でアガインと何の話をしようが、俺には──」
「関りない、そうだな。でもギスフォール、その手紙を見ればわかるだろう。それはアガインの夢だった」
 おだやかに、イーツェンは語りかけた。手紙の中身をイーツェンも見た。いかにもイーツェンの知るアガインらしい、率直で短い言葉から、アガインの抑えた真情がにじみ出していた。戦いを憂い、傷つく者たちを憂い、そのことに対して無力な己を憂いて、アガインはエナの存在にひとすじの光を見ていたかのようだった。
 ヘイルードによれば、アンセラで、二人は出会ったのだと言う。その時アガインはユクィルスの軍の妨害工作をするために戦場の酒保隊に潜りこみ、エナはその軍の中で、毒を用いて捕虜の尋問をしていた。そのことについては、かつてシゼが激しく弾劾した。だが同時にその行為の裏で、彼女はこっそりと怪我人に治療の手をさしのべてもいたのだった。そのことが、アガインとエナを結びつけたらしい。
 アガインはエナに自らの正体を明かし、この手紙を与えて去った。いつか寺院を使うつもりがあるならば、いつであれ、それはエナのものであると。
 アガインの後、エナもすぐに軍を去った。そしてこの夏に入ってからルルーシュと連絡を取り、アガインに言付けて、この場所へとやってきたのだった。
 ギスフォールはふたたびアガインの手紙に目を戻し、時間をかけてすみずみの文字まで読んでいた。傷の手当のおわった男がその手元を横からのぞきこみ、口元を曲げる。
「‥‥バカバカしい」
 イーツェンは何も言わなかった。ギスフォールも何も言わず、やがて手紙を元の形に丸めると、エナへと直接さし出して返した。ふうっと太い息を吐き出し、首を振る。
「俺にはわからん、イーツェン。俺は‥‥別にアガインの尻拭いをしにここに来たわけじゃない。こんなもんを見せられても困る」
「アガインのことはいい。ただ、アンセラへ行くのをあきらめたなら、ここでエナを手伝ってみないか」
「本気か?」
 あきれたような声だったが、棘はなかった。イーツェンはうなずく。
「傷ついた者を、ここへつれてくればいい。ここで暮らせる」
「何でだ。そんなわけのわからない話のためにか? ここに人をつれてきたところで、またユクィルスにつぶされる。どうせルルーシュの集まりだと思われるのがオチさ」
「そうさせないための、癒し手だ」
 イーツェンはエナをまなざしでさし示した。エナがイーツェンを見返す、その青い目はやわらかい微笑を含んでいた。彼女が成行を楽しんでいる様子に、イーツェンの緊張もほぐれてくる。
「ルルーシュの者たちでなく、ここではどこの者も受けいれる。ユクィルスの者も、どこにも属さぬ者も。ここがすべての者の避難所となれば、ユクィルスの王たちも聖域として認めざるを得なくなる」
 あえて「王たち」という言葉を使い、ユクィルスの現状をそれなりに把握しているとつたえる。
「でもそれはまだ先の‥‥確かならない話だ。あなたの言うように。ただ、ここに癒し手がいて、寺院を修復し、畑をたがやす手を求めている。そしてあなたがたの方には、傷つき、逃げ場を求める人がいる。私が言っているのは、そういうことだ」
 ギスフォールも傷の手当を受けた男も、口を結んだままイーツェンを凝視していた。あまりにも現実味のない話なのだろう。イーツェン自身、アガインの手紙の内容に驚きもしたし、あの苛烈とも言えるほどの男の中にあった思いもかけない夢のかたちに、胸を衝かれた。
 イーツェンはできるだけおだやかに、ゆっくりと言葉を継ぐ。説き伏せるのではなく、問いかけるように。
「ここにあるものには、まだ形がない。それを信じろと言うのは無理なことかもしれないし、形にするのはとても難しいだろう。すぐに答えが要るわけではない、ギスフォール。ただ、エナがつたえてほしいのは‥‥癒し手はここにいる、ということだ。彼女はあなたがたを助けられるし、あなたがたは彼女を助けられる。それを覚えておいてほしい」
 それでいいか、とエナに目を向けると、エナはほんのかすか、うなずいた。膝の上にひろげていた薬袋を慎重な手つきで丸め、ぐるりと紐を巻く。二人の来訪者へ向けて胸元に手をあてる軽い礼の仕種をしてから、彼女は優雅な動きで立ち上がった。
 去っていく後ろ姿を見おくって、ギスフォールがぼそっとたずねた。
「何者?」
「見たままの人」
 そう答えて、ふいにおかしくなったイーツェンは小さな笑い声をこぼした。見たままでも充分に謎な人ではある。おまけに、実はユクィルスの王族だ──と、これはいつかは言わなければならないことだろうが、今でもなければ、イーツェンの役割でもなかった。その日がくるならば、いつか、エナが自分で対処することだ。
「あんな話を真に受ける気か?」
 エナの手当を受けた男が、苛立たしくとがった声で言った。忌々しそうに、傷を覆った布を見ている。はじめのうちは痛がっていた男が、今はそれほど傷をかばうそぶりも見せないことにイーツェンは気がついたが、ギスフォールや当の男が気づいているかどうかはわからなかった。
 問われたギスフォールは顔をしかめた。
「俺の決めることじゃない‥‥イーツェン、俺はそんな立場にはいないよ」
 後半の言葉を向けられて、イーツェンはうなずいた。
「つたえてほしい。それだけでいいんだ」
「信じられるか?」
 また男が口をはさみ、刺すような目でイーツェンをにらんだ。イーツェンは何も言い返さなかった。弓を引いてシゼを射とうと──そこまで血気にはやっていた男が簡単にその怒りをおさめらるとは、イーツェンも思っていない。だが男が見せる怒りはためらい混じりで、自分に言いきかせるようにわざととがった口をきいているようだった。
 一笑に付されるのではないかとかまえていたので、彼らのとまどいがちな反応が意外だった。エナの持つ独特の雰囲気と確かな治療の腕が、二人につたわったのかもしれない。イーツェンがここまで回復していることも、ギスフォールには強い印象を与えた筈だった。
 ギスフォールは長身を少し屈めるように座り、膝に肘をのせてイーツェンを眺めている。しげしげと、まるで初対面の相手を見るような目つきにイーツェンは少々居心地が悪くなったが、表情をあらためた。
「今夜はとにかくもういいだろう、ギスフォール。争いたくないんだ。あなたがたには眠る場所と食事を提供する。だから弓と剣をおさめて、私のロバを食べないでもらえるとうれしい」
 最後の一言にギスフォールが苦笑した。イーツェンがさし出した右手に一瞬ためらってから、彼はその手を握り返す。
「わかった。今夜のところは、客とならせてもらう」
「こんな形だが、また会えてよかったよ」
 やっとほっとして、イーツェンは相手に笑いかけた。ギスフォールはたじろいだが、イーツェンの手を握ったまま肩をすくめる。
「俺も、と言えればよかったんだけどな‥‥」
「わかるよ」
 手を引いて立ち上がり、イーツェンはヘイルードやシゼが待つ方へ片手を振った。柱廊の影は暗く、誰の姿も見えないが、あちらからは見えている筈だ。
 ギスフォールを振り返り、会釈する。
「客人としてあなたとあなたの友を歓迎する、ギスフォール。この屋根の下で身をやすめられよ」
「感謝する」
 ギスフォールはうなずき、不意に深いため息をついて宙空に視線を投げた。さまざまなものが宙ぶらりんになったような、ひどくあいまいで重い顔つきをしていた。シゼへの疑いを晴らしたところで、彼の痛みは何も解決していないのかもしれない。その表情が心にかかったが、イーツェンにできることはもう何もなかった。


 ギスフォールを含めて8人の男たちには広間を使わせることにして、イーツェンは夕食を作るヘイルードを手伝った。昼前にウェルナーが狩ってきたウサギがあるので、内臓ごと大量の豆と一緒に煮込む。調理部屋のすみに転がっていた大鍋を、暇な時に磨いておいたのが役に立った。
 舌がいいからとヘイルードにおだてられ、イーツェンは気分よく塩と香草で煮込みの味をととのえると、古くなった固パンを入れてとろみをつけた。リグの辛みのある香辛料や香りのついた岩塩がなつかしいが、ユクィルスのものにももう舌がなじんでいた。
「大奮発だ」
 そう呟いて、ヘイルードがチーズのかたまりを客用の盆の上にどんとのせる。持っていこうかと申し出たがあっさり断られ、イーツェンはヘイルードが客に食事を運んでいく間、自分たちの分をテーブルにととのえた。椅子の数がないので、テーブルを囲んでの立ち食いになる。
 手早く食事をしていると、広間の方で大きな笑い声が上がってイーツェンはドキリとした。近ごろ静かな生活をしていたんだな、とつくづく感じる。なにしろエナはしゃべらないし、シゼは余計なことを言わないので、いくらにぎやかになってもウェルナーとヘイルードが軽口を叩きあう程度だ。大勢の声を聞くのも久々で、声がひびいてくるたびに緊張した。
 エナは以前と変わらず、食事の間も口をきかないままだった。かなり無理をして声を出していたようだったから、もしかしてしゃべると痛むのだろうかとイーツェンは思うが、聞きづらい。
 食事を終えると自分たちの分を片づけ、炉の火をおとした。シゼとウェルナーはいつものようにあたりの見回りと馬の世話に出て、エナはどこかへ姿を消している。瞑想か、祈りか、たまにそういうことがあった。
 イーツェンが炉の始末をしている横で、ヘイルードは調理部屋の横にある食糧庫の中身を数え直しながら何か考えていた。ギスフォールがもし人をつれて戻ってきた場合の、たくわえのことを考えているのかもしれない。
 さめた炉床の灰を注意深く灰かき棒でかきよせていると、一段落した様子のヘイルードがイーツェンに声をかけた。
「君らも行くのかい?」
 イーツェンがきょとんとした顔を向けると、ヘイルードがつけ足した。
「彼らについて一緒に行くのか? 多分、明日かあさってには発つだろうと思うよ」
「‥‥‥」
「ルルーシュに義理立てしてるように見えたけどな」
 すぐには返事のしようがなく、イーツェンは考えこみながら灰かき棒を置き、炉の前に古びた柵を引いた。立ち上がって、灰で汚れた手を払う。
「アガインには借りがありますからね」
「でも。──そう続くんだな?」
 ヘイルードは食糧庫の扉に肩をもたせかけて、イーツェンを見ていた。イーツェンはうなずく。
「アガインがいないなら、次の道を考えないとならない。ルルーシュと関りつづける余裕は、私にはないし」
 ジノンに「処刑」された今のイーツェンにはルルーシュも用がないだろう。使い道がない以上、取引を持ちかけることもできない。そんなところに戻っていって、ただいたずらに戦いに巻きこまれるのは避けたかった。
「彼らとは行かないよ、ヘイルード」
「じゃあ、ここに残らないか?」
 問いかけの声は優しくて、イーツェンは目をみはったまま、すぐには答えられなかった。ヘイルードが唇のはじを持ち上げる。
「どうせ俺たちは今度の冬はここですごす。もしかして、うまくいけば、その次もね。行く場所がないならここにいればいい、イーツェン。君がいてくれると助かる。ここに残って、エナを手伝ってくれないか」
「私は‥‥」
 ここにいていい、と。
 イーツェンの正体をはっきり知る筈のヘイルードの言葉に、心の深くがうずいた。ここでエナたちとともに、エナとアガインの夢を追う。その想像に、気持ちが大きくゆさぶられる。
 居場所があると感じたのは、リグを出て以来はじめてのことだった。この場所も、ヘイルードたちも、イーツェンを受け入れてくれている。
 故郷にいた時の、怯えるということをまだ知らなかった──誰かが本当に自分を傷つけることなど恐れてもいなかった、あの頃の無邪気な安心感がふいによみがえってきて、イーツェンは膝が崩れそうになった。帰りたい。ただ痛切にそう思う。
 その時はじめて、どれほど自分が疲れているかに気付いた。故郷から遠く離れて3年近く、己の中で何かが大きくすりへってしまっていたのかもしれない。その空虚にヘイルードの言葉がすとんと入りこんで、イーツェンは一度にわきあがってきたなつかしさと寂しさに呑みこまれてしまいそうだった。
 感情をこらえようとした体が一瞬ふるえて、イーツェンはゆっくりとテーブルのはじをつかみ、心配そうな目をしたヘイルードへ小さな微笑を向けた。
「ありがとう。本当に‥‥うれしい」
「──でも?」
 そう続くんだろ、とヘイルードは笑った。すべてが軽い冗談だったように。イーツェンも笑って、なるべくさりげなく返そうとしたが、声が揺らいだのが自分でもわかった。
「行かないと。すみません」
「いいさ。ためしに聞いただけだから。でも気がかわったら、いつでもまたおいで。しばらくはここにいる」
 明るく言って、ヘイルードは右手をひらひらさせた。イーツェンはうなずいて、汚れた鍋に灰を放りこみ、蔦を束ねたたわしでこすりはじめる。もう日がおちているので明日に回そうということになっていた作業だが、何かしていないとひどく心が騒いで仕方ない。
 炎を絞った油燭のたよりない灯りの下でいきなり作業をはじめたイーツェンに、ヘイルードは何も言わなかった。