斜めの陽が地面に黒く長い影をおとす。森のどこかから鳥が群れをなして飛び立ち、イーツェンはギクリとした。シゼとギスフォールの間にはりつめた緊張はほとんど殺意のようで、今にもあふれ出しそうな荒々しい怒りと憎しみに、イーツェンの口はからからに乾いていた。
 ギスフォールが門石の影から出て、数歩近づいたが、シゼが警告のように右足を引いて構えると足をとめた。どちらもまだ剣に手をかけてはいなかったが、彼らの体にはするどい意志が満ちて、今にも互いに襲いかかりそうだった。
「ちがう、ギスフォール。シゼは何もしてない!」
 訴えかけるように叫んでから、イーツェンは自分の声を鎮めようとまた深く呼吸した。ここで感情的に騒ぎ立てても、事態が悪化するだけだ。シゼをにらみ続けるギスフォールは彼をまるで見ていなかったが、イーツェンは彼をまっすぐに見つめ、ゆっくりと声を押し出した。
「村の焼き打ちについては、今聞いたばかりだ。私たちは何も関りない。誓って本当だ」
 その言葉が宙に消えてからやっと、ギスフォールはシゼからイーツェンへ視線をうつした。いつものように彼は肩から脇腹へ斜めに剣帯をかけ、背中に湾曲した剣を吊っていたが、それを抜く様子はまだない。それだけが救いだった。
 イーツェンの全身にちらりと視線をはしらせ、ふ、とギスフォールは右の口元を歪めた。嫌な笑い方だった。こんな笑い方をする彼を、イーツェンは知らない。
「こいつはあんたのためには何でもする男だよ、イーツェン」
「でも、ちがう。シゼは仲間を売ったりはしない。春から一緒に戦ってた、そう私に言っただろう? お前だってシゼのことをよく知っている筈だ。無茶はするが、人をそんなふうに裏切ったりはしない。わかるだろう」
「ならどうして宿場から消えた? 奴らはお前らのいた宿場から来たんだぜ。あの兵隊に村の場所を教えて、逃げた。そうじゃないのか、シゼ?」
 馬鹿な、と言おうとした時、シゼが左手を動かしてイーツェンをとめた。けげんにシゼを見やったイーツェンへ、ギスフォールを見据えて前を見たまま、シゼは抑えた声で言った。
「彼は信じない、イーツェン」
「でも──」
「下がって」
「いやだ」
 目の裏が熱くなる。涙ではない。何か、怒りに近い感情のたかぶりがイーツェンの声を激しくゆさぶった。
「お前とギスフォールが争うなんていやだ、シゼ!」
「怪我をする。いいから下がって」
 シゼはイーツェンを振り向きもしなかった。もうすでに彼が戦いへ心を切りかえていることを、イーツェンは悟る。こうなると言葉が役に立たないことも。それがシゼの生きてきた世界であり、生きていくすべであった。ひとたび剣を向ける相手をさだめればもはや迷わない。それはまるで、彼の使う剣そのもののようにするどく、容赦がない。
 シゼはもはやこの状況を、言葉を費やすに値しないと判断して切り捨てたようだった。
「いやだ」
 イーツェンはくり返す。今直面しているものに自分が無力なのは身にしみていたが、だからと言って何もせずにいることなどできなかった。
 二人が宿場から姿を消し、その宿場にいた兵が村を襲ったのだ。ギスフォールの疑心には根拠がある。それもわかっていた。そしてジノンは、まるでイーツェンを追手から守るようにイーツェンの「処刑」を人々に知らしめた──そのつながりに、イーツェンたちとユクィルス側のある種の「取引」の影を見るのは当然かもしれない。
 それでも、イーツェンは引けなかった。
「シゼが病になって、癒し手に見てもらうために宿場を離れたんだ。私たちは誰も裏切ってない、ギスフォール。アガインにふたたび会って、約束を果たすつもりだ」
 上ずった声でどうにか言い切ると、ギスフォールはひどく攻撃的な表情で目をほそめた。
「今となりゃ何とでも言える。──アガインは消えた、イーツェン」
 虚をつかれて、イーツェンは口を半分あけた。世界は、彼の知らないところで激しくその渦を巻き、激流にさまざまなものを呑みこみつづけているようだった。
「何でだ。いつ?」
「参事会が襲われた。ユクィルスの兵に」
 短い、吐き捨てるような声にはするどい怒りがにじんでいた。イーツェンの反問をしらじらしいと思っているようだ。イーツェンは息を呑む。ルルーシュの者たちが集まって今後の展望を話しあう参事会のことまでも、ユクィルスに情報が流れていたのだろうか。わかっていて泳がされて、一度に叩かれた。そうとしか思えなかった。
「セクイドは?」
 やっとのことで、そう問う。アンセラの者たちも参事会での話し合いに加わっていた筈だ。
 ギスフォールは苦いものでも噛んだように顔をしかめた。
「アンセラは、襲撃をのがれた民をまとめて国へ戻った。それしか知らん。‥‥奴らもつるんでたのか? 奴らも裏切ったのか?」
 半ばひとりごとのように、吐き捨てた。
 アガインに対抗するためにセクイドを引きこんだこともあり、そう思われても仕方のない面もあったが、イーツェンは唇を結んで首を振った。セクイドはどうなったのだろう。彼の生死がわからないということが信じられなかった。あざやかで凛とした面ざしと、別れの時の言葉がよぎる。
 ──幸運を祈る。達者で行け。
 あの時ふたりでかわした言葉通り、セクイドは無事にアンセラへ向かえただろうか。たとえアンセラへたどりついても、彼らには己の国を取り戻すための戦いが待っている。イーツェンにとってリグが遠いのとは別の意味で、セクイドにとってもアンセラは遠い故国であった。
 腹の底がしんと冷たかった。イーツェンは一瞬目をとじる。確かだと思っていたものが何もかも打ち砕かれていく。
 どうすればいいのだろう。どこへ行けばいいのだろう。
 唇を噛み、イーツェンは腹に息を吸いこんで、拳を握った。ギスフォールの怒りの表情に向き合う。村は焼かれ、アガインは消え、セクイドの安否もわからない。アガインのそばについていただろうリッシュや、セクイドにつれ添っていたサンジャもどうなっただろう。何一つ、わからない。
 今のイーツェンにとってただ一つ確かなことは、ここにこうして自分が生きているということだけだった。そしてこの先も、抗えるかぎり抗って、生きていかねばならない。その決意を体にこめ、声にこめた。ここは引けない。
「アンセラのことはわからない。でも私もシゼも裏切ってなどいない」
「イーツェン、下がって」
 シゼがまた繰り返す。ギスフォールが鼻先で笑った。
「あんたのような能天気な人には、見えるものも見えないんだよ。シゼが言ったのが聞こえたろう、おとなしく下がってな、イーツェン」
「下がったらどうする。シゼを斬るつもりか? ただその疑いのために、ここで意味なく殺しあうか、二人で!」
 張りあげた声がかすれた。ギスフォールはイーツェンの言葉に一瞬たじろいだが、すぐに元の冷徹さをとりつくろって鋭い目をした。彼の中にたぎる怒りや苛立ちに、イーツェンは息が苦しくなる。その怒りはシゼだけに向けられたものではないだろう。自分自身の無力さや、ユクィルスへの憎しみが行き場を失って、感情の裂け目から噴き出しているように思えた。
 その時、目のはじの草むらが風とは別の方向に倒れた気がして、イーツェンは目をしばたたいた。錯覚かと思った次の刹那、ざわつく緑の中でギラリと何かが光って、彼は背すじをこわばらせた。誰かがいる。
 人がひそんでいるのがわかった瞬間、全身が凍った。何故シゼがイーツェンをしつこく下がらせようとしているのか、何故まだ剣を抜いていないのか。それを同時に悟る。
 もう戦いははじまっていたのだ。草むらに何人いるのだろう。木の影には? ギスフォールは一人ではない。シゼはとうにそれに気付いて、イーツェンの盾になろうとしていたのだった。彼らを刺激しまいと、剣に手をかけないままで。
 ギスフォールはひどく暗い目でイーツェンを見、シゼを見て、ゆっくりと口をひらいた。
「何故、何も言わない、シゼ。‥‥イーツェンに知られたくないか?」
「シゼは裏切ってない!」
 イーツェンがあまりに大きな声で怒鳴ったせいか、シゼが驚いたような目で肩ごしにちらりとイーツェンを見た。臨戦体勢なのに相手から視線をはなすなど、シゼらしくもない。だがイーツェン自身、自分の声の大きさに少々ばつが悪くなって、頬に朱がのぼるのを感じていた。さっきから、まるでこれでは馬鹿の一つおぼえだ。
 シゼはすぐに顔を戻したが、その寸前に笑ったように見えて、イーツェンは驚いた。気のせいだろうか。この状況で笑うのも、その表情自体も、そぐわない気がする。
「俺ではない、ギスフォール」
 後ろ姿から聞こえてきたシゼの声は落ちついていて、余裕があった。ゆっくりと言い切ったその響きが、うろたえかけていたイーツェンを落ちつかせる。その声に、その言葉によせる信頼が体にしみとおって、自然と背すじがのびた。
 ギスフォールは目をほそめ、口元を歪めた。
「お前は、イーツェンを逃がそうとした。お前は──アガインをまた裏切ろうとしてた」
 イーツェンをつれ出した、あの雨の日だろう。ギスフォールは知っていたのだろうかと、イーツェンは思う。知っていて、その時の彼はイーツェンをつれていくシゼを見のがしてくれたのかもしれなかった。ならばシゼが裏切ったと思った時、ギスフォールはそのことを激しく後悔したにちがいない。
 シゼがかすかにうなずいた。
「そうだ。‥‥すまない、ギスフォール」
「そんなお前が、その言葉だけを信じろと言うのか?」
「お前が信じる信じないは、俺の関るところではない」
 あまりあっさりとシゼがそう言うものだから、背後のイーツェンは頭をかかえたくなった。シゼが他人の判断を気にしていないのは知っているが、ここは気にするべきところだろう。イーツェンがどれだけ必死に言いつのっても、当のシゼにはギスフォールを説得しようという気がない。
「シゼ──」
「下がって」
 また、このくり返しだ。イーツェンは唇を噛む。下がった方がシゼの邪魔にはならない。だが、ここから引くのは嫌だった。
「できない、シゼ。私が下がればお前たちは斬りあいをはじめる」
「あなたがいたところで、彼らはためらわない」
 前を向いたままシゼはひどく静かに言った。彼ら、とその言い方から、やはりシゼは草むらに隠れた伏兵の存在を知っているのだと、イーツェンは悟る。すがるようにギスフォールを見た。
「たのむ、ギスフォール。引いてくれ。裏切り者はシゼではないし、それが誰なのか私は知らない。ここでこんなふうに争って、何になる?」
 ギスフォールのまなざしは変わらずけわしいままだったが、イーツェンに答える前に男は一拍の間をおいた。彼は背後の様子をうかがったようでもあった。
「‥‥俺にはわからん」
 苦い声だった。灼けつくような敵意は薄らいでいたが、その声にまだ憎しみはあざやかで、イーツェンは深く刺されるような痛みをおぼえる。憎しみ、怒り。ギスフォールは仲間たちとそれを共有し、シゼやイーツェンを追うことでやり場のない感情をどこかにぶつけようとしたのだろうか。
「だが、誰かが報いを受けないとならないんだ、イーツェン。何十人も死んだんだ。女や子供までもが焼かれて死んだ」
「だからって、私か? シゼか? そんなのはちがう! あなただって冷静になればわかる筈だ──」
 激昂して言いつのりながら、イーツェンは視界のすみ、草むらに斜めに積まれた石の柱の影に弓をかまえた男の動きを見た。右肘を引きしぼり、小弓で狙いをとっている。矢尻が夕方の陽をキラリとはねた。
 シゼの名を叫ぼうとした。警告を発そうとして、だが喉に水のように重い空気がつまってうまく声が出ない。一瞬のうちに全身に冷たい汗がにじみ、喉元まで苦しい鼓動がせり上がった。
 体が動かない。世界はイーツェンの周囲で動きをとめたようだった。凍りついた視界の中で、男が狙いをつける動作がゆっくりと、焦れったく見えてくる。そのほかの物事はなにもかもにじんで、ただその動きだけがイーツェンの目に灼きついた。握りにしっかりと指を回し、左腕をまっすぐにのばし、弦を指にかけた右肘を引きしぼって──
 ヒュン、と空気がうなった。首すじがぞわりと総毛立つ。意識よりも体が反応して、目をつぶっていた。
 絶叫は距離をおいて聞こえてきた。聞いたことのない声に目をみひらいたイーツェンは、草の間に弓の男がうずくまっている姿を見た。苦痛の声はその男からほとばしっていた。
 何がおこったのかわからずに立ちすくんだ一瞬、シゼに物凄い力でつきとばされた。イーツェンの足元に別の方向から飛来した矢がつき立ち、矢羽をむなしくふるわせる。シゼが怒鳴った。
「走れ!」
「こっちだ!」
 ほとんど同時に、背後からウェルナーの声がする。イーツェンはもつれかかった足で大股につんのめってから、どうにか体をたて直して寺院の正面扉へ走った。ウェルナーが扉を開けてけわしい顔で怒鳴る。
「シゼ!」
 背後に激しく剣がぶつかる音がひびきわたり、心臓が痛いほどちぢみあがったが、イーツェンは振り向かずに走った。たかだか十歩に満たない距離がとてつもなく遠い。どこかでまた弓弦の鳴る音がひびいて、恐怖に膝がふるえ、足がもつれて倒れこみそうになった。まるで水を踏むように足元がたよりない。情けなさに歯をくいしばりながら、イーツェンは最後の数歩を走りきって、ウェルナーがさっと大きくひらいた扉の間へとびこんだ。
 勢いあまりながら、つんのめって立ちどまる。激しく息を乱していた。へなへなと膝が崩れかかる彼に、ウェルナーが口元をあげた。
「2、3本あてられちまったか?」
 悪気のない軽口に、体の緊張が少しほどけ、イーツェンは首を振った。大きくあえごうとするが、しめつけられたように苦しい胸にうまく息が入っていかず、肩を上下させながら、途切れ途切れに言った。
「シゼは──」
 その瞬間、シゼの背中が扉の間から勢いよくとびこんできて、仰天する。剣をかまえたままのシゼが素早くとびすさるそばで、ウェルナーが肩でぶつかるようにして正面扉をしめた。けたたましい音にイーツェンははっとして、駆けよると、ずしりと重い閂棒をかかえあげた。シゼがすぐに手を貸して、彼らは扉に閂棒を渡した。
 ドン、と外側から大きく揺さぶられて扉が振動し、天井から埃が舞ってくる。両開きの扉の片方は蝶番の部分が腐ってゆるんでいて、一度はウェルナーが釘を打ちなおしてあったものの、このままでは見るからに長くもちそうになかった。向こう側でギスフォールが何か怒鳴っている。
 咳こむイーツェンの頭をウェルナーがポンと叩いた。
「よくやった。こっちだ」
 そう言って、走り出す。イーツェンもつられて走り出しながら背後を振り向くと、シゼが鞘に剣をおさめ、ちらりと扉へ──おそらくはその向こうにいるギスフォールへ目を向けてから、彼らについて駆け出した。


 中庭を抜け、あまりこれまで足を踏み入れたことのない奥の廊下を走り抜ける。イーツェンの息はあっというまに上がり、また背中が痛み出したが、彼は必死に規則的な呼吸を保とうとした。あちこち歩くだけならもう不自由を感じなくなっていた筈の体が、こうやって少し走っただけで脆さをあらわにする。うんざりだった。
 足が重く、背中の傷が引きつるような痛みをうったえるせいで腕もろくに振れず、走る足が着地しただけで膝がこらえきれなくなりそうになる。口の中はカラカラで、喉も肺も熱かった。ウェルナーが気を使って速度をゆるめているのはわかるが、それでもイーツェンにはつらい。
 ヘイルードが横の階段から駆けおりてきて彼らに合流する。彼の小脇にかかえられた弓を見て、イーツェンははじめてさっき何がおこったのか理解した。ヘイルードが建物の上から、草むらの男を射ったのだ。
 導かれるまま見知らぬ廊下を走って、半端に焼けおちた屋根つきの通路を抜け、半ば焼け落ちた奥の堂へ走りこんだ。火に舐められた痕も生々しい奥の堂は原形をとどめず、黒い煤で汚れた石壁ばかりが残っていた。崩れそうに斜めにかしいだ建物の基礎の間を、ウェルナーとヘイルードは迷うことなくひょいひょいと抜けていく。イーツェンはたじろいだが、息を一つついて彼らを追おうとした。
「石や柱の上を踏んで」
 と、背後から低く囁かれる。シゼの声だと、見なくてもわかった。喘いでいるイーツェンと対照的に、小憎らしいほどその口調は平坦だった。
 イーツェンはとまどったが、言われてみれば前を行く二人とも、土台の石や倒れたままの柱を踏んでいた。それを見習いながら、ぎこちなく後を追う。地面に足跡を残さない用心だとわかったのは、おっかなびっくり、倒れかかったまま互いに支えあっている石壁の間をくぐりぬけた後だった。
 炎がこの建物の上を通りすぎたのは、もう随分と前のことなのだろう。焦げた臭いなどはなかったが、黒く煤けた柱や石の表面に焼きついた何かの痕を見ていると、今にも火の焦げくさい臭いがしてきそうで、イーツェンは時おり息をつめた。焼け落ちて黒く崩れた天井の残骸にでもふれたのか、指先はいつのまにか黒く汚れていた。
 正面からは見えない奥の方は、思ったほど焼けてはいなかった。炎は中央の円形の部屋を中心に焼いたらしい。そこから同心円状にひろがった小部屋があって、残った壁がかなり入りくんだ構造になっている。
 その間を抜けた先に小さな伽藍があるのを見て、イーツェンは驚いた。瓦礫の外からは、そこにきちんとした建物が残っているようには見えていなかったのだ。伽藍の低い丸屋根は半ば落ちていたが、火よりも風雨の影響のようだった。堂と少し離れて建っていたためか、壁に残る火の痕も薄い。
 円形の伽藍には、四方の壁に小さな出入口があいていた。ヘイルードたちは迷わずそれをくぐり、イーツェンも後ろへつづく。
 半分残った天井が、丸い部屋の床に長い影をおとしていた。浮き彫りのある飾り石が敷きつめられた床には砂と落葉が積もり、聖壇のような低い木の台がほぼ中央に置かれている。煤けた色をして傾いだその台に、エナが腰をおろして彼らを待っていた。
「少し休め」
 息をきらしているイーツェンにウェルナーが一言かけ、シゼに親指で合図をした。そのまま、また出ていく。様子を見にいくのだろうとイーツェンは思い、ためらっているシゼへうなずいた。
「私は、大丈夫だ、シゼ」
 呼吸が荒くて格好がつかないまま、どうにか言いきる。言葉が続かず、行け、と手で合図をした。
「‥‥すぐ戻ります」
 低く言って、シゼは早足の踵を返してウェルナーを追った。それを見送りながら息をととのえていたが、イーツェンはふいにはっとヘイルードを見た。
「まさか──」
「何が?」
「反撃に行った、わけじゃないですよね?」
「援護もなしで?」
 いささかあきれた口調で言われて、イーツェンは赤面し、曖昧な声で曖昧な返事を呟いた。ヘイルードに手で示されて、エナの座る壇へ歩みよる。イーツェン以外の人間は皆、自分が何をするべきかきちんと状況を把握している様子なのに、イーツェンにできることと言ったら右往左往することぐらいだ。いや、右往左往すらままならないが。
 情けなかったが、もう立っているのもつらかった。ありがたくエナの横に座りこみ、イーツェンは何度も深い呼吸をくりかえして、にじんだ汗を額から拭った。
「あれは、誰だい?」
 イーツェンが一息つくのを見はからったように、ヘイルードがたずねる。イーツェンは答える前に少しの間をおいたが、それは答えたくないからではなく、どう答えるのが一番わかりやすいかと迷ったからだった。
「‥‥ルルーシュに協力していた人です。私とシゼは、ルルーシュの助けで城を脱出したんです」
 こまかく説明している場合でもないので、ざっくりとまとめる。ヘイルードたちが知りたいのは過去のいきさつではなく、現在の状況だろう。
「私はその代償としてルルーシュに協力する約束をしていましたが、シゼの病で彼らと離れざるを得なかった。その間に、ルルーシュの会合と、隠れ村がユクィルスに襲撃されて、彼は私とシゼが裏切って密告したのだと思っている」
 本当はちがうのだ、という響きを言葉にこめたが、ヘイルードもエナもそれについては反問しなかった。
 ヘイルードがエナの傍らに立ったまま拳を額にあて、小さく舌打ちして、エナを見おろした。エナは座ったままわずかに前かがみになり、膝に肘をのせて、じっと目の前にまなざしを据えている。イーツェンの言葉をどこまで聞いていたのか、そう疑問に思うほど、エナの表情に動くものは何もなかった。
 ヘイルードの靴先が、苛々と床石を叩く。
「何てこった。エナ、奴はこないぞ」
 エナはヘイルードの方を見もしなかった。ただ夕刻の陽がおとす斜めの影と光のさかいを見つめている。イーツェンがぼんやりとその横顔を見ていると、ふいにエナの青い目がイーツェンのまなざしを真っ向からとらえて、わけもなく息がつまった。
 かすれた、いびつな声が聞こえる。
「アガイン?」
 耳にとどいた音を、言葉だと感じるのに一瞬かかった。イーツェンは目を見開く。エナの唇が動いたのは見ていたが、きしるようなその音が、彼女の口から出たものだとは咄嗟に思えなかった。ひどく聞きとりづらい、かすれとともに絞り出すような、それはほとんど人の声のようには聞こえなかった。
 エナはじっとイーツェンを見ている。驚きを息とともに呑みこみ、イーツェンはうなずいた。
「そうです。‥‥アガインを知ってるんですか?」
「彼、は?」
 これもどうにか聞きとる。二人の会話──らしきもの──をヘイルードがひどく緊張したおももちで見守っている様子に気付いて、こんな場合だと言うのにイーツェンはこみあげてくる微笑をこらえた。エナのことが心配でたまらないのだ、この男は。
「わかりません。ギスフォール──さっきの男が言うには、ルルーシュの参事会が襲われて、アガインはそれきり行方不明だと」
 まばたきもせずにイーツェンの言葉を聞き終えてから、エナは無表情のままうなずいた。かたわらから何かをつかみ上げる。それがエナの薬を入れた巻き皮の物入れであると、イーツェンは今さら気付いた。膝にのせて皮をひろげはじめるエナは、ほかに何も持っている様子はなかった。荷物も、武器も。何も取らずにここへまっすぐ逃げてきたのだろう。
 その時になってやっと、自分たちの問題に彼らを巻きこんでいることに気がつき、イーツェンはあわてた。そもそもは、彼ら二人だけの話なのだ。
「すみません。その‥‥こんなことになって。でも、ギスフォールは話せばわかってくれると」
「あっちじゃそういう感じじゃなかったね?」
 ヘイルードが左手に持った小弓を示してみせる。
「血気にはやってる奴らが散って、狙ってた。5人までは数えたけど」
「そんなに?」
 愕然として、それからイーツェンは小さく身ぶるいした。何も見えていない。何もわかっていない。そんな自分に小さな怒りをおぼえていた。もっと物事がわかれば、状況が見えれば、シゼの足を引っぱるだけでなく動きのとりようもあった筈だ。ひたすらにギスフォールのことしか見ていなかった自分が馬鹿らしかった。
 黙りこんだイーツェンに、ヘイルードは弓の張りを指でたしかめながら明るい笑みを見せた。その横で、エナは何やら袋のはじをほどきながら中をさぐっている。
 自分だけが、ただ何もしていない気がした。急にいたたまれないものがこみあげてきて、イーツェンは立ち上がった。
「あの」
「ん?」
「助けてくれてありがとうございました」
 頭を下げ、よくわかっていない様子のヘイルードに、彼が手にしている弓を示してみせる。ヘイルードは意外そうな顔をしてから、肩をすくめた。
「別に。ああいう、盛り上がってるのってのはタチ悪いからな。先手打っとかないと好き放題するんだよ」
 そういうものなのかとイーツェンは思って、小さく身震いした。争いたくなどない。ギスフォールと一緒にここまで来たということは、ルルーシュの男たちだろう。彼らと争う理由は、イーツェンの方には見つからない。
「話せばなんとかなる、ってのは甘くないか?」
 ヘイルードの言葉はそんなイーツェンの心を見すかしたようだった。イーツェンはぎくりとする。
「ギスフォールは、わかってくれると思う──」
「イーツェン」
 言葉半ばで、ヘイルードは溜息のようにイーツェンの言葉をさえぎる。
「背中に鞭の傷を負って、首に奴隷の輪をして、怖さは思い知ってるだろう。人はあてにならないよ。平気で手のひらを返す」
「‥‥‥」
 イーツェンは言葉を探したが、何も言えなかった。揶揄されたような気がして頬が熱くなったが、ヘイルードが心配そうな目で彼の様子をうかがっているのに気付いて、喉元のきまり悪さを呑みこんだ。そう、ヘイルードの言う意味はよくわかる。人はあてにならない、信じたい気持ちだけで人を信じてはいけないと、イーツェンは城でそれを学んだ。
 だがあの城の中で、イーツェンは同時に人を信じることも学んだのだ。シゼ、レンギ。イーツェンは彼らを信じ、彼らはイーツェンを支え、救ってきた。
 ──ギスフォールを、そんなふうに信じられるだろうか?
 イーツェンは両手を脇に垂らして、かるく拳を握り、じっと考えこんだ。ギスフォールのことをよく知っているとは言い難い。しかもあの時のイーツェンは弱り、痛みと怒りで不安定になって、他人のことなど見ている余裕はなかった。
 よく知らない筈なのに、ギスフォールを信じたいという気持ちはふしぎなほど強い。それがどこから来ているのか、何を心のたよりにしているのか、イーツェンは自分の内側をさぐってみる。何があっただろう。会話の数もそれほど多くはない。はじめのうち、ギスフォールはイーツェンの存在を厄介に思っているふしもあった。
 ふいに、皮肉っぽい声が記憶からあざやかによみがえった。
(──正直俺には、あいつがあなたのためにそこまでする理由がわかりませんね‥‥)
 ああこれか、と思う。イーツェンの心をギスフォールに結びつけているのは、あの時のギスフォールの言葉だ。
 まだイーツェンをよく知らぬ相手として扱っていたころ、ギスフォールはイーツェンにかなりぶっきらぼうな口調でそう言った。シゼがイーツェンのためにアガインを無理に動かし、ルディスを裏切った、そのいきさつを聞いた時のことだ。イーツェンを救うためにいくつものものを投げ捨てる、そんなシゼをギスフォールはいぶかしがっているようでもあり、いきどおっているようでもあった。
 無茶をするシゼを、ギスフォールは心配していたのだ。そしてその心配と不安を、原因であるイーツェンへ向けた。
 ギスフォールのさめたような態度の下に、友や仲間へ向けるまっすぐな真情がひそんでいるのを、イーツェンはあの時に感じとっていた。そういうところが好きでもあった。やさしい男なのだ。そのやさしさは信じられる筈だと、イーツェンは思う。
 今は頭に血がのぼっているのだろうから、少し待てば──と考えながら腕組みし、それからヘイルードが持つ弓を見て、イーツェンははっとした。イーツェンたちを守るためとは言え、もう矢は放たれ、相手を傷つけたのだ。このまま何事もなかったかのように、時間さえたてばおさまるなどという甘い考えが通るわけがなかった。
「さて」
 あごをつるりとなでて、ヘイルードが目をほそめ、日の光が薄くなった空を見上げた。
「どうする? あっちの建物をあいつらが探して回るうちに日が暮れるだろうな。夜のうちに君を逃がすこともできるよ、イーツェン。俺らは俺らで、どうにかなるし」
「‥‥それは」
 たしかに心が動いて、イーツェンは口ごもった。しかしそう甘えるわけにもいかないし、もしここで逃げたら、ギスフォールの疑心は確信になってしまうだろう。シゼを裏切り者だと思って、憎みつづける。それは嫌だった。どちらも相手を憎みたくも、憎まれたくもない筈だ。
 少し考えてから、イーツェンは体の緊張を長い息で吐き出し、あらためてヘイルードを見やった。
「私はやはり、話しあいたい。ギスフォールと二人で。落ちつけば、彼ならわかってくれる」
「君が話してすむのか? 彼が疑っているのは君ではなくシゼなんだろ」
 どのあたりから聞いていたのか、ヘイルードはイーツェンの置かれた状況をそれなりに察しているらしい。イーツェンはうなずいた。
「それでも、私が話さないと。‥‥シゼはたよりにならないし。話すのは」
 小さな声で最後の言葉を言い足すと、ヘイルードがクスッと笑ってくれたので、少し心がかるくなった。イーツェンはシゼを信頼しているのだが、こと話し合いのたぐいになった時だけは別である。口下手というほどではないが、シゼは言葉にあまり重きをおいていない。
「それで、その。できたら、一緒に来てくれますか?」
 ヘイルードは眉を動かして、イーツェンの説明を待っている。
「シゼが病だったこととか、会った時のいきさつとかを説明してもらえれば、ギスフォールも納得しやすいのではないかと思うので」
「成程。じゃあ──」
「わたしが、行く」
 聞きとりづらいという以上に、一瞬言葉の意味がわからなかった。
 ヘイルードが仰天した顔をし、イーツェンも言葉を失ってエナを振り向いた。優雅な唇からかすれた声を絞り出したエナは、二人を見やって小首をかしげ、右手の指にはさんだ紙をひらりと振った。さっきから、彼女はそれを探していたらしい。
 細く丸められていたのか、強い癖のついた紙をイーツェンがわけもわからず見ていると、ヘイルードのあきれたような呟きが耳に入った。
「‥‥まだ持ってたのか」
 それは手紙のように見えた。封蝋の痕が残っているし、エナがつかんだ手元に署名が見える。もっとよく見ようとイーツェンが近づきかけた時、ウェルナーとシゼが早足に入口から入ってきた。シゼはぐっと口元を結んで厳しい顔をしている。どうした、とイーツェンが問うより前に、ウェルナーが両手のひらを上へ向けて、うんざりと言った。
「出てこないと馬を殺すと脅してるぜ。タチの悪いのがまじってるな」
 たじろいだイーツェンの横で、ヘイルードが肩をすくめた。
「実際にはやらないだろ。訓練された馬だぜ。つれてきゃいい金になるんだ、バカバカしい」
「晩飯はロバにするそうだ」
 その言葉にイーツェンは口を半分あけ、それからとじて、腕組みした。他にロバがいない以上、あのロバだろう。「キジム」とイーツェンが名付けてやった、あの馬鹿食いのロバ。その馬鹿食いのおかげで最近太ったから、食べ甲斐も多少はあるだろうか。
 ロバって美味しいんだろうかと、素朴な疑問が頭をかすめた。そう言えば食べたことがない。リグでは荷運びや農作業には山牛を使うことが多いので、ロバにあまり縁がないのだ。とは言えここでロバの味について聞くのは場違いなので、イーツェンはその疑問を頭から追い払った。
 子供の頃からの習慣で獣に情はうつさないようにしているが、それでも食べられるまま放っておくのは哀れな気がする。思えばあのロバのおかげで宿場から出られたし、エナたちにも会えたのだ。煮たり焼いたりされるのは寝ざめが悪かった。
「話をしに行きます」
 そう言ったイーツェンへ、ヘイルードがおもしろそうな笑みをうかべてあごをしゃくった。つられてその先を見ると、ぐっと顎に力をこめて険しい顔をしているシゼと目が合う。
「シゼ──」
「反対だ」
 ほとんどイーツェンが口を開くと同時に、シゼが押しかぶせるように言い放った。頭ごなしにはねつけられて、イーツェンは口元がこわばるのを感じる。いかにも頑なな顔をしているだろうと思ったが、かまっていられなかった。肩を前につき出して、シゼに顔を近づけ、彼は言葉を区切るように言い返した。
「じゃあどうする。戦うか? 逃げるか?」
「危険だ、イーツェン」
「どのみちこうなっては危険はさけられないだろ」
 そう言うと、何か言いたそうな顔のまま、シゼは仕方なさそうに溜息をついた。ウェルナーとヘイルードはエナの周囲に集まって3人で何か話しはじめ、イーツェンは彼らの話の内容が気になってちらちらと様子をうかがうが、低く交わされている会話まではよく聞きとれなかった。
 シゼが苛立たしげな仕種で腰の剣を少し抜き、皮鞘に叩きこむ。準備をして剣をたしかめている、その音にイーツェンは一番肝心なことを言い忘れていることに気づいた。息を吸いこむ。最大の難関。
「お前は残るんだ、シゼ」
 シゼの、銅色の目がまるでうがつようにイーツェンを見据える。反射的に腹の底が冷たくなったが、イーツェンは声を平坦に保った。
「お前が行くと話しあいにならない。私がエナと一緒に行って、成りゆきを説明してくるから」
「私も──」
「駄目だ、シゼ」
 ぴしゃりと言うと、シゼが口を引き結んだ。顎から首にかけて力が凝っているのがわかる。首すじがはっきり動き、何か言おうとした言葉を無理矢理に飲み下して、彼はかるく目を伏せた。
 イーツェンがまちがいに気付いたのは、その瞬間だった。シゼの表情を見、剣柄を握る手にはっきり浮き上がった力のすじを見て、はっと息を呑み、彼はシゼへ一歩よる。声が少し揺れた。
「ごめん」
 シゼはまばたきして、じっとイーツェンを見つめている。きまり悪く言いよどみながら、イーツェンはもう一度くりかえした。
「ごめん、シゼ。お前に命令するつもりじゃないんだ。そういうことじゃない。そんなつもりじゃなかったけど‥‥上から、物を言った。すまない」
 まるで彼らがまだ城にいて、身分の上下があるかのように。もう自分が何者でもないことはわかっているのに、習慣が抜けない。シゼへ対等に話そうと言いながら、それをさせていないのはイーツェン自身だった。
 シゼが剣から手を離し、かすかに表情をやわらげてイーツェンを見た。
「あやまらなくていいんですよ」
 その声は低かったが、おだやかだった。イーツェンは感謝のしるしに淡い笑みを向けてから、表情を引きしめた。声を落ちつけながら、上からの物言いにならないよう気をつける。
「でも行かなくてはならない。ギスフォールを放ってはおけないよ、シゼ」
「引っこみがつかなくなった者は怖い」
 ぼそりとシゼが言って、イーツェンはきょとんとした。その顔を見て、シゼはあっさりとつけくわえる。
「ギスフォールはもう、本当に疑ってはいないと思いますよ」
「‥‥そうなのか?」
「あなたのおかげです。あんまり、必死に言うから。呑まれていた」
「‥‥そう、なのか」
 照れたような情けないような妙な心持ちになって、イーツェンは頬をかいた。そんなふうな変化がギスフォールにあったことには気がつかなかった。気付けないことが多すぎて、少し自分にうんざりする。シゼの口元に笑みがあるのが救いだった。
 ふっと息を吐き出した。
「でも、このままじゃどうしようもない。大丈夫、シゼ。ギスフォールだってこのままじゃ嫌なはずだ。きっかけさえあれば、こっちの話を聞いてくれる」
「ギスフォールはそうでも、向こうには7、8人はいますよ。中には頭に血がのぼっているのもいる」
「だから、お前をつれてはいけない。私とエナで行く。奴隷と、女だ。あっちの警戒もゆるむだろう? いきなり射ったりはしない」
 首の輪をしめしながらシゼに問いかけると、シゼはじっと考えこむように黙った。さっきのような頑固な表情ではなく、イーツェンの言ったことを一つ一つ咀嚼しているような顔だった。
 イーツェンはその表情を見ながら、シゼが答えを出すのを待つ。
 やがて、彼はうなずいた。
「わかりました。でも条件がある」
「何だ」
「ギスフォール一人か、せいぜい二人で話し合いにのぞむこと。私も立ちあいに行くこと」
 反論しかかったイーツェンを、左手でとめる。
「その場には行かない。でも、目のとどかないところにあなたを行かせるつもりはない。絶対に」
「‥‥わかった。やり方を考えよう」
 シゼがイーツェンの言葉を考えて、自分なりに譲歩したのがわかった。こんな場合だというのにイーツェンはそれがうれしくなって、ふっと口元がゆるむ。話しあって、互いの言葉を聞いて、二人で結論を出す。──やってみれば、単純なことだ。
「大丈夫だ」
 イーツェンはうなずき、シゼの胸元に手のひらで軽くふれた。左胸、心臓の上。シゼの鼓動を手のひらに感じながら、誓うように丁寧な口調でくりかえした。
「何もおきない。平気だ、シゼ」
 ふう、とシゼが息をつく。イーツェンは指の下にシゼの呼吸の動きを感じた。
「‥‥イーツェン」
「何?」
 シゼが何か大切なことを言おうとしているのがつたわってきて、イーツェンの声は自然とやさしくなった。彼が何かをこんなふうに言いかかるのは珍しい。何かをわかってほしいと言うように。
 少しおいて、シゼは低い声でつぶやいた。
「私は、裏切っていない」
「わかってる」
「だが、やったかもしれない。機会があれば」
 シゼの鼓動の上に手をおいたまま、イーツェンはまっすぐにシゼの目をのぞきこんだ。
「お前には無理だ、シゼ」
 疑うように目をほそめたシゼのまなざしをとらえて、自分の信頼を、確信をつたえる。ギスフォールの疑いは、シゼの心を針のようについたのだ。その痛みを取り去ってやりたかった。
「仲間もいる、友もいる。そんな人たちをお前は裏切れない。お前は、そんなことはしないよ。絶対にできない」
「‥‥‥」
 シゼは無言だったが、ふいにイーツェンの手をつかむと身をかがめ、指の背に唇をあてた。唇のあたたかな感触がイーツェンの指をかすめる。イーツェンが驚いて目をみはっていると、シゼはそんな彼に小さい笑みを投げ、手を離してエナたちの方へと静かに歩いていった。