翌日にはイーツェンの熱も引き、午後の陽光が傾き出したころにヘイルードが食糧の袋をくくりつけた荷馬を引いて戻ってきた。彼がにこにこしながら差し出してきた服を、イーツェンはぽかんとして見つめ、それが自分の新しい服だと言われて驚きの顔をあげた。
「‥‥でも‥‥」
 イーツェンの驚き様に、ヘイルードが今度は目をぱちくりさせた。それから「へへえ」と言うような笑い方をする。この男はずっと年上のくせに、もともと下がっている目尻を下げながら笑うと幼げな愛嬌があって、釣りこまれるようにイーツェンも笑いそうになる。
「聞いてないんだな。シゼにたのまれたんだよ。金ももらってる」
 言いながら、イーツェンの胸に服のかたまりをぼすっと当てるように渡した。イーツェンはあわてて受けとめて、頭を下げる。
「ありがとう」
「着替えてきたら? 後で話をしよう」
 さらりとそう言われて、イーツェンは服をかかえたまま寺院の奥への廊下を歩き出したが、途中で言葉の含みに気づいて足をとめた。ヘイルードは「話」があるのだろうか。だとしたら、それは何だろう。
 振り向いてはみたが、ヘイルードやウェルナーが荷をおろし分けながら動き回るところに、わざわざ戻って割り込むのも気が引ける。とにかく、後だ。イーツェンは荷運びの役には立たないし、彼らの邪魔にはなりたくなかった。
 ひとりで手持ち無沙汰にしていたイーツェンを見かねて、ヘイルードは服を渡してくれたのだろうか。かもしれない。イーツェンは不安を振り払って、シゼと二人で使っている部屋へ入った。
 ヘイルードが手に入れてきてくれた服は新品ではなかったが、綺麗に洗ってつくろわれているところを見ると古着屋の「商品」のようだ。色あせた青のシャツと、丈夫な膝あてのついたズボン、それにイーツェンの痩せた腰にはかなり余るベルト。肘より少し長い袖口が緑色の細布でふちどられているのを見て、イーツェンの心がほんのりとやわらいだ。このシャツをしつらえた人の、ほんのちょっとした贅沢だったのだろう。緑色の布は高いのだ。緑に染められる染料はないので、黄と青の重ね染めになる。だから単純に倍の金がかかるし、色どめも面倒だ。
 その緑ももう褪せていたが、残った小さな贅沢はイーツェンの心をたのしませる。城で時おり贅をつくした衣装に手を通したことはあったが、この古着に着替える時ほど気持ちが明るくなったことはなかった。
 洗ってはいるが何日も着つづけている粗末なお仕着せを脱いで着替え、イーツェンは深く息を吸った。髪を指櫛でととのえ、服の皺をのばして、誰もいない部屋の中で背すじをのばして立ってみる。相変わらず粗末な格好であることにはちがいなく、少し滑稽な気はしたが、悪い気分ではなかった。
 部屋を出て正面扉へ歩いていく途中、袋荷をかついで厨房へ運んでいくシゼとウェルナーに出会った。
「お、お」
 と、ウェルナーが妙にうれしそうな声を上げる。イーツェンの新しい格好への反応らしい。大げさだ、とイーツェンは笑い返した。
 シゼはと見ると、豆か何かの入った袋を肩にかついだまま、口を結んでじっとイーツェンを見ていた。愛想とか愛嬌とか、いったいこの男のどこに眠っているのだろうと思いながらイーツェンは近づき、何も言わずにシゼの体に腕を回して、抱きしめた。ウェルナーが何かあきれたように何か言ったが、あまり意味がなかったのでそれは無視する。
 イーツェンが一歩下がっても、シゼは表情ひとつ変えずにその場に立っていた。よくよく観察すると眉間のあたりに緊張が漂っているのがわかって、イーツェンはこみあげてくる奇妙な笑いをあやういところでこらえた。困っているのだ、シゼは。
 満面の笑顔を向けてやった。昨日の仕返しだ。
「ありがとう」
「はあ」
 気抜けしたような半端な返事を呟いて、シゼはさっさと荷物を運びに歩き出してしまった。何だか味わい深いなあと、イーツェンはその後ろ姿を眺める。だがいきなり後頭部をはたかれ、仰天して顔を上げると、ウェルナーがニヤニヤしながらシゼを追って歩き去っていくところだった。


 食糧を調達してきたということは、3人はまだしばらくここに腰を据えるつもりなのだろうか。イーツェンは機嫌よく歩き出しながらも、考えを切りかえる。それとも旅用にそろえた糧食なのだろうか。残るとすれば、この場所に何かまだ目的があるのだろうか。そもそも3人が何の目的でここにいるのかも、イーツェンは知らない。ヘイルードはまるで蒸留が目的のようなことを言っていたが、それを鵜呑みにはできなかった。
 ──イーツェンとシゼが出立するとなると、二人分の食糧が要る。
 ヘイルードに調達法や場所を相談してから発つ必要があるなと思った。彼らは旅慣れしている。色々と教わっておきたいことがあった。
「イーツェン、イーツェン」
 正面扉から前庭に出てうろうろしていると、厩舎へ続く角からヘイルードが顔だけ出して呼んだ。着替えにそんなに手間取っていたつもりはないが、いつのまにか正面に積みおろされた荷は残らずなくなっていた。
 消えたヘイルードの姿を追って、厩舎への角を曲がる。厩舎と言ってももう木の屋根は落ち、残っているのは石の基礎と、馬をくくりつけるための太い杭がなんとか10本ばかりだ。寺院の建物にさえぎられて長い日陰が落ち、影に足を踏みいれると肌がかすかにひやりとした。
 はじの馬杭にはエナたちの馬がつながれ、そのそばにはイーツェンたちのロバが綱を長くしてつながれていた。ロバは、最近、少し太った。キジム──馬鹿食いとは我ながらよくつけたと、イーツェンは思う。あまり人にはなつかないたちなのか、ロバはイーツェンの姿にも無反応で、ぐらつく柱に首のうしろをしきりにこすりつけては耳をパタパタと振っていた。
 別の柱に留めた荷馬から鞍を外しながら、ヘイルードがイーツェンを手まねいた。
「ブラシをかけてくれる?」
「はい」
 柱に残った釘にかかっているブラシを取って、イーツェンは注意深く荷馬へ寄る。うかつに後ろから近づいて驚かせると、蹴られることがあるのだ。首のつけ根あたりに手をのばしてポンポンと叩くようになで、まずは挨拶がわりに落ちつかせてから、ブラシをかけはじめた。
「休みながらでいいよ」
 かかえた荷鞍の泥をおとしながら、ヘイルードが言う。イーツェンはうなずいた。痛みはエナの施術後、かなり楽にはなったが、体力は前より落ちた。やむないとは言え、新たな傷を体につけたのでまた体が回復するまで少しかかる、とエナには説明されていた。
 鹿毛の荷馬はがっしりと肩が横に張り出し、背中の幅も広く、肩関節やそれを覆う筋肉が見事に盛り上がっている。ずんぐりと脚が短く太い、乗馬用の馬とくらべて不恰好と言ってもいい馬だったが、イーツェンはおとなしい顔をしたこの馬が好きだった。重量感のある無骨な姿に、理屈のない信頼をよせてもいる。
 ヘイルードが馬の体にぴたりと肩を当て、支えるようにしながら前脚を曲げさせると、足の裏の蹄鉄をしらべた。一本ずつ足を上げさせられても、馬は小揺るぎもせず落ちつきはらって尾で蝿を払っている。少しして尾を上に持ちあげるような仕種をしたので、イーツェンが用心しながら見ていると、ボトボトボトッとそれは見事な糞のかたまりが地面に落ちた。
 後ろの蹄鉄を見ようかとかがみこんだところだったヘイルードは、あやうい距離で難はのがれたものの、情けない顔で馬の尻を見上げた。
「落とし物だぞ」
 イーツェンは笑いをこらえながら、馬の下腹の毛をブラシで梳いてやる。毛にかわいてこびりついていた泥がパラパラと落ち、馬が心地よさそうに鼻息をついた。
「水は?」
「着くちょっと前にたらふく飲ませた。クソするならそこですりゃいいのに」
 ぶつぶつ言いながら、ヘイルードは馬の糞を見おろしたが、とりあえずしばらく放っておくことにしたようだった。まあ、少し陽にあたっていれば乾くし、とイーツェンも思う。乾かした動物の糞は肥料にも、いい燃料にもなる。
 糞の異臭をよけて少し離れたところに馬をつなぎ直すと、ヘイルードは腰をかがめて、前から馬の後脚をかかえこむように馬の足を曲げさせた。馬につけた肩で馬体を安定させると、手の中におさまる小さなブラシで蹄の間から細かな泥を払い出しながら、彼はくだけた口調で言った。
「イーツェン。俺の正体を知ってる?」
 イーツェンはヘイルードへ視線を向けたが、半ば背中を向けられているためにその表情はうかがえなかった。
 敵意や悪意は感じない。だが無意味にヘイルードがイーツェン一人をここまでつれてきて、こんなふうに話を切り出すわけがない。この話の行きつく先がどこなのか、それがイーツェンの心にはっきりとした不安と疑心を呼びおこして、それと知らず、身がかたくなった。
「‥‥いいえ」
 答えた声がこわばっていたからだろう、ヘイルードは顔だけでイーツェンを振り返るといつもの陽気な笑みを見せた。
「俺は、盗人だ」
「‥‥‥」
 口をあけ、イーツェンは用心深くその口をつぐんだ。ヘイルードは立ち上がって手の泥を払いおとし、馬の尻をがりがりとかいてやりながら言葉を継いだ。
「今はちがうがね。‥‥まあ、たまにはやらんこともないが。昔はあちこち流れながら宿場のカモを身ぐるみはいだりしてたもんでな。こう見えて身が軽いんだ」
 そう言えば、馬にまたがる身ごなしがいい、と思ったことがあった。宙でひらりと足を回して馬の背に飛び乗るなめらかさはそういうことだったのか、とイーツェンは感心した。とは言っても感心しているのは彼のごく一部で、心の大部分はますます警戒をつのらせている。なぜヘイルードがいきなりこんな打ち明け話をはじめたのか、イーツェンには理解できないままだ。
 イーツェンが返事をしないことに気を悪くした様子もなく、ヘイルードは妙にのどかな口調でつづけた。
「前の前の秋口だな、薬師がいるって言う館に入ってその薬袋をくすねるように人にたのまれてね。しのびこんだところで、でっかい男につかまえられた。それがウェルナーだったんだが、あの時はびっくりしたよ。問答無用で人の首斬ろうとしやがってねえ。まあ、何だかんだで、それから俺はエナといっしょにいる」
「‥‥‥」
 内容にも少し驚いたが、これが話の本題ではないだろうと疑う心はますます強くなった。イーツェンがヘイルードについて詳しく問おうとしたことはないし、この手のことが二人の会話にのぼったこともない。今話さねばならないようなことだとは思えなかった。
 おそらく、何かの話への接ぎ穂に、ヘイルードは自分の話をしているのだ。
 ヘイルードいわくの「彼の正体」につながる話と言えば、同じくイーツェンたちの「正体」だろうか。自分の話をしてから、イーツェンたちの話へうつるつもりなのではないかと、イーツェンは思った。これまで興味を見せなかったヘイルードが何故今──と考えたのは一瞬だ。何故かは決まっている。糧食と情報を仕入れに行ったヘイルードはきっと、彼ら二人につながる情報を得たのだ。
 目の前の馬の腹に丁寧なブラシをあて、獣の体がもつ熱と弾力に意識を集中させながら、イーツェンは考えをめぐらせる。たとえその推測が正しいとして、何故イーツェン一人に話そうとするのだろう? 何故、シゼの目のとどかないここへイーツェンをつれてきたのだろう。まずはイーツェンの反応を見ようとしているのだろうか。何のために。その先に何がある?
 いくつもの問いが、たたみかけるように頭の中を抜けていく。内心の緊張を表に出さないように表情をとりつくろいながら、イーツェンは馬の毛並みを何度もすいた。
 数呼吸分、沈黙がおりた。ヘイルードが自分の気配をうかがっているのを感じながら、イーツェンはゆっくりと口をひらいた。
「ヘイルード。シゼに聞かせたくない話なんですか?」
「さて。彼を呼んだ方がいいかい?」
「‥‥ここで話して下さい」
 小さな溜息を口元に散らして、イーツェンは馬から目をはなし、腰に手をあてて立つヘイルードへ向き直った。何でもかんでもシゼにたよっているように見られるのも、困った子供のようにシゼを呼びにいくのも我慢ならなかった。
 ロバがまた耳のうしろを杭にこすりつけ、ギシギシとかわいた音をたてている。ヘイルードは一瞬おいてから、真面目な顔になった。
「俺はそんなふうに脛に傷持ってるから、な。君らを詮索したくはないが、ちょっとこれは事がデカい。イーツェン──君は、逃亡奴隷なんかじゃない。それどころか、王族だ。こんなとこで高貴な人に会うのはちょっと変な感じだな」
「‥‥エナも王族でしょう」
「そうだな、そう言えば」
 イーツェンの横やりに、ヘイルードの口元が一瞬ほころんだ。
「おかしな話だ。5人しかいないのに、2人は王族、1人は泥棒、1人は死刑執行人ときた。シゼは何者だ?」
「彼は‥‥見たとおりの」
 思わずそう答えながら、だがイーツェンは内心度肝を抜かれていた。死刑執行人? ヘイルードの話し方からいくとそれはウェルナーのことだが、死刑執行人はユクィルスの階層社会の中では底辺の底辺と言っても過言ではない。人との接触すら限定され、他人と同じ杯、同じ皿を使うことはおろか、同じ食卓につくことも許されない。婚姻や埋葬などの、人としての存在にかかわるような物事までもきびしく制限されている筈だった。公衆浴場への立ち入りも、礼拝への立ち入りも──ユクィルスの神々の祭礼においては──禁じられている。奴隷の鎖を作る鎖鍛冶と同じ、忌民だ。
 その男が、エナとともに旅をしている。彼ら3人が同じ杯で回し飲みをし、ひとつの大皿から肉をつつくのをイーツェンは何度も見た。3人の1人が王族、1人が泥棒、1人は死刑執行人。それが本当なら、異様なとりあわせとしか言い様がなかった。イーツェンとシゼ──王族であり人質であった彼と、見張りの傭兵──よりもはるかに極端で、異質だ。醜聞と言ってもいい。王家に知られたならば、エナもウェルナーもきびしい制裁を受けるほどに、許されない間柄だった。
 驚きを覆おうとはしたが、ヘイルードには動揺を見抜かれただろう。彼はイーツェンの手からブラシを取り上げると、手をのばして馬の背なみにブラシをかけはじめた。
「見た通りねえ。君が彼の主人なんだろう?」
「それは、ちがう」
 即答していた。ウェルナーのことで感情的に動揺していて舌がすべりやすくなっているのが自分でもわかったが、とにかくイーツェンは他人にシゼを見下すようなことを言われるのが我慢ならない。
「私たちはそういう間柄ではない、ヘイルード。彼はただ‥‥自分の意志で、私のそばにいてくれるだけで」
 どこまで納得したか、ヘイルードは馬の手入れをしながらうなずいた。イーツェンは手持ち無沙汰でそこにつっ立ちながら、つけくわえる。
「昔はそんな間柄だった。でも‥‥今は、もうちがう」
 多分、とさらに心の中でつけ足した。命じる者と命じられる者、従わせる者と従う者、そして見張る者と見張られる者としてあの石壁の中ですごした、あの時とはもうちがう筈だ。彼らはもう、そのどれでもない筈だった。
 ヘイルードは馬を見ながらうなずいて、考えこむ表情のまま静かに言った。
「リグのイーツェン王子。そうだね?」
 名前も、鞭の痕ももう知られている。否定したところで意味はないだろうし、ヘイルードの問いはすでに問いではなかった。イーツェンは溜息を吐き出した。
「ええ。追手が出てましたか?」
 あるいは賞金が。ヘイルードはそんな話をしようとしているのではないかと思ったが、彼は首を振った。
「いいや」
 右手でブラシをすべらせながら、左手でポンポンを馬のたてがみあたりを叩く。馬が勢いよく尾を振った。一瞬言葉を選ぶように黙ってから、少し困ったような茶色の目をイーツェンへ向けた。
「正直言って、君にかかってた賞金のことは気にならんでもないんだけどね。俺は、こそ泥だからさ。でももう無理だな。君は死んでる。と言うか、死んでたよ」
 何を言われたのかわからずに、イーツェンはヘイルードの目を凝視した。彼らのいる場所は建物の影に入っているが、ヘイルードの背後には陽と影の境い目がくっきりと浮き上がり、ゆらゆらと揺れる白っぽい陽光が彼の輪郭をにじませていた。
「死んでた?」
「リグの王子、イーツェン。ベオギルトの地においてとらえられ、王の名の裁きのもとに処刑される。──って話さ。正式な早馬のふれだ、まちがいない」
「‥‥‥」
 以前にも、イーツェンが処刑されたという話はあった。シゼがそれを耳にし、イーツェンの亡骸を取り返しに戻ったのだ。だがそれは出所のわからぬ不確定な噂であって、正式な早馬のもたらす王の公示とはまるでちがう。それは王の言葉であり、国の言葉だ。
 ユクィルスは公的にイーツェンを「処刑」したのだ。王の名において。
(何故‥‥どうやって──)
 それを考えた瞬間、足元が崩れた気がした。イーツェンは馬の体に拳をおき、ゆらぐ体を支えようとする。苦い液が喉元までこみあげてきて、熱い息がつまった。
 身代わりを、処刑したのだ。それしか考えられなかった。
 ローギスにちがいない。イーツェンを憎み、探していた男が、イーツェンの替え玉を仕立て、王の名のもとに処刑したのだ。体面を保つためか、裏切り者はこうなるという見せしめの仕上げか。
 腹の底からむかついて、吐くまいと、イーツェンはギリリと歯を噛んだ。くいしばった歯の間から、きしむような声を押し出していた。
「ローギス‥‥!」
「いや」
 やけに冷静な声に訂正されて、イーツェンは自分が王の名を呼び捨てに吐いたことに気付いた。冷静さを失っている。それはわかっていたが、頭にのぼった血がざわついて、耳の中に遠い嵐のような音が鳴りつづけていた。集中できない。
 息を深く吸いこみ、体がきしむような感覚をおぼえながら、ゆっくりと息を吐き出した。吸って、吐いて。シゼは、イーツェンを落ちつかせる時に、いつもそれをくりかえさせる。
 耳にきこえてきた己の声は、思いのほか静かだった。
「何がです?」
「公示は、聖母堂の執政からだ。前王の弟の──」
 言葉を切ったヘイルードが、心配そうにイーツェンを見つめた。
「大丈夫か? 真っ青だ」
 大丈夫、と言おうとして、イーツェンは無駄なことをやめた。足がやわらかくてたよりなく、体中の血が氷になったように、指先までもふるえていた。
「‥‥座ってもいいですか」
 返事を待たずに寺院の建物の方へ歩みよると、厩舎の基礎がむき出しになっている四角い切石の上へ腰をおろした。首の輪をおさえ、息苦しい喉元をこする。肌がうっすら汗をかいているのに、体中が冷たく、奇妙にざわついていた。
 ヘイルードがすぐそばまで歩みより、心配そうに眉根をよせてイーツェンを見ていた。彼が何を意図してイーツェン一人をここへつれてきたのかはわからなかったが、イーツェンだけに話をしてくれたのは、こうなるとありがたかった。仕立てあげられた自分の「死」。その意味と重みは自分ひとりで受けとめるべきものだと思う。たとえどれほど重くとも。いや、重いからこそ。
 彼の名前が、誰ともわからない一人の人間を殺したのだ。しかもジノンの手によって。
 ──聖母堂の執政、とヘイルードは言った。そして前王の弟、と。
 イーツェンを城からつれ出してすぐの頃、シゼは、ユクィルスの王の葬儀が二つ行なわれると説明した。ローギスがユクィルスの本城で行う葬儀と、城を離れたジノンが聖母堂でとり行う葬儀と。聖母堂は、ユクィルスの神殿の中でももっとも格式の高いものだ。
 あの時シゼは、ジノンがいずれ王として即位すると噂されているとも言った。ユクィルスはローギスとジノン、二人の王のもとに割られるのではないかと。
 だが、ちがったのだ。ジノンは自ら王とはならず、聖母堂で執政となった。ならば王は一体誰だ?
 イーツェンの脳裏を、がやついた騒音と男たちのしゃべり声がよぎった。癒し手を求めて宿場の酒場を回った時、彼はテーブルのそばに膝をついて、兵士たちが交わす噂話を遠いものに聞いていた。焦燥に心が騒いで話の内容には何の興味も持てなかったが、言葉は記憶に残り、後に何度か思い出してはイーツェンはその奥にある意味を組み立てようとしていた。それがやっと今、カチリと音をたてて正しい形にはまりこんだようだった。あの声、あの言葉。
(──戴冠式は──)
(8つで王か)
 彼らはそう言った。
 あどけない笑顔が胸の奥を去来して、イーツェンは胸がつまる。ジノンが執政となるには、誰かを王として担ぐ必要があった。ローギスに対抗する「旗」に、ジノンはまだ8つの少年を選んだにちがいない。
 ──彼はよく、イーツェンにリグのおとぎ話をせがんだものだった。王の5人目の息子、ローギスとオゼルクの末弟。
(フェイン‥‥)
 何かが轟流の渦のように流れていて、自分がどこかに置き去りにされたままでいるようだった。フェインの笑い声、よりかかってくる重み、子供っぽくくるくると変わる表情。いくつもの記憶が重なりあって、まるで嵐の夜の影のようにめまぐるしく形を変える。そのどれもが遠く、今の彼とはもう離れている筈なのに、イーツェンの思いとは別に、いまだ彼の運命の一端はそこに結びつけられてあるのだった。
 確信はあったが、イーツェンはヘイルードを見上げて確認した。
「ジノンが?」
 ヘイルードがうなずく。体がずしりと重かった。
「フェインが‥‥彼の、王なんですね? ジノンは、フェインの執政となった」
 その問いにも、ヘイルードはうなずいた。イーツェンは一瞬、痛む目蓋をとじる。成程。ジノンは自ら一歩引き、フェインの後ろ盾として立ったのだ。
 そこまではわかる。ジノンの引いた糸は見える。だが、何故そのジノンがイーツェンを「処刑した」のだろう? 身代わりを仕立ててイーツェンを殺して、何が狙いなのだろう。イーツェンを追い、イーツェンの身柄をほしがっていたのはローギスの筈だ。
 ──まさか。
 イーツェンをローギスから守ろうとして死を偽装したのだろうかと一瞬考え、イーツェンはすぐにその考えを心の中で押しつぶした。ありえない。ジノンが動くには、彼に利となる理由があってのことで、それ以外の動機ではない筈だ。
 何かある。イーツェンには見えない、何かが。
 ひとつ首を振って、彼はこわばった笑みをとりつくろいながらヘイルードを見上げた。
「あなたは、私の首にかかった賞金を取りそびれたわけだ」
「多分ね」
 首をすくめるようにして、ヘイルードは笑った。彼は本当にイーツェンを売っただろうかとイーツェンは思ったが、よくわからなかった。どちらの行動であれ、何かを確信できるほどヘイルードを知らない。たしかに彼らは、傷ついて救いを求めたイーツェンたちを助けたが、イーツェンが癒えつつある今となっては別の利用法を見つけてもおかしくないような気がする。
 イーツェンがあれこれ考えているのに気付いたか、ヘイルードはイーツェンの前にしゃがみこむと、秘密でも言うように声をひそめた。
「色々、手はあったんだよ。君をつれてくだろ。賞金をもらうだろ。適当に見はからって助け出す。──多分、2、3回は稼げたと思うぜ。惜しかった」
「‥‥‥」
 イーツェンは思わず苦笑した。なんとなく、骨を投げられては取ってくる犬を想像する。
 ヘイルードが目の前に右手をさし出した。イーツェンはその手を仕種で断って、一人で立ち上がると尻の砂を払った。その様子を一歩引いて見ていたが、ヘイルードがそっと言った。
「人は売らんよ。エナはね」
 一瞬動きをとめてヘイルードを見る。ふいに何かがしっくりと心になじんで、イーツェンは安堵していた。これに裏はない。ただヘイルードはイーツェンを案じ、その身にかかわる情報をつたえようとしたのだ。
 ヘイルードが相変わらず心配そうに彼をのぞいていたので、冗談めかして笑いかえす。
「でも金はあった方がいい?」
「そういうこと」
 ヘイルードの手に髪をくしゃっと撫でられて、おどろくと同時に一瞬身がこわばった。まだ人の手が近づくのが苦手だ。反射的なもので、感情とは直接関係ない。悪いと思って反応を見せまいとすると、かえって動きがぎくしゃくする。気づいたのだろう、ヘイルードは目をやさしく細めて笑った。
 話は終わったと言うようにイーツェンに背を向け、ヘイルードは鞍の手入れをはじめる。イーツェンは一瞬迷ったが、礼をつぶやいてから建物の正面に向かって歩き出した。まだ色々と、彼の仕入れただろう情報について聞きたいとも思ったが、今はとにかく一度頭を整理しなければならなかった。シゼに話して、このことを相談したい。
 ──イーツェンは死んだ。
 そうジノンは知らせを出した。イーツェンをとらえ、裁き、処刑したと。彼の意図がどこにあるのかはわからないが、王の名で放たれた言葉はイーツェンの立場を大きく変える。イーツェンの手配は解かれ、彼の名は死者の名として扱われることになる。
 ならばここで生きている己は何だろう、と奇妙にうそ寒い空虚が胸を満たした。ユクィルスの城で宣誓に己の名を使い、イーツェンは本当の名を失った。鞭打たれ、奴隷の輪をはめられて、身分を失った。そして今また、わずかに残った影のようなものまで失ったのだ。ユクィルスは首の輪だけを残して、彼からすべてを奪い去っていったようだった。
 他人にとって、もはや彼は己を証明するすべを持たない。人からすれば今のイーツェンはまるで亡霊でしかない。
「‥‥‥」
 建物の影から一歩出たところで、イーツェンははっと足をとめた。全身が一瞬すくむ。そうだ、と思った。ルルーシュ。イーツェンが「死んだ」今、イーツェンの証言も宣誓もその意味をなくす。亡霊の言葉を誰が問題にするだろう。ルルーシュにとって、もはやイーツェンは利用したくともできない駒だ。
 先手を打ったのだろうかと思った。ジノンの狙いがそれだとすれば、少しはわかる。ルルーシュがイーツェンの名を使って何かする前にと手を回し、イーツェンの存在そのものを封じたのなら。
 イーツェンは王の毒殺でローギスを弾劾し、ジノンには有利な証言をする筈だったが、そこまではジノンも知らなかったか、彼には不要のことだったのかもしれない。ルルーシュの力を削ぎ、ルルーシュやアガインが手に入れかけた影響力を封じる。それがジノンの目的だったのだろうか。
 ‥‥イーツェンとルルーシュの動きを、ジノンがそこまで知っていたとするならば。動きがつつぬけだと言うことだ。
 背中がちりりとした。
(ルルーシュの中に、ジノンの密偵がいる──)
 考えこみながら角を曲がった瞬間、そこにいたエナと鉢合わせしそうになって、イーツェンは仰天した。両手に何かの包みをかかえたエナは、表情も変えずにいつものように静かに立っている。何だかしどろもどろに謝って、イーツェンはエナの横を抜けた。早足に歩きながらふと振り向くと、エナはじっとイーツェンを見おくっていて、イーツェンはまたきまり悪く頭を下げた。
 それからシゼを探そうと、歩きながら顔を正面へ戻し──いきなり目の前に当のシゼを見て、「わっ」と驚きの声を上げていた。
 シゼはその声に驚いたらしい。はねあがった動悸と一瞬の恐慌をおさえようと息を呑みこむイーツェンを、一歩下がってじっと見ていた。イーツェンを探しに出てきていたのだろう。もう荷物は持っていない。
 イーツェンの呼吸がととのったと見ると、シゼがごく自然な仕種で肩を抱くように左腕を回し、彼の耳元に口を傾けて囁いた。
「ルルーシュの隠れ村が、焼き打ちされたそうです」
 イーツェンは目を見はる。それは、ギスフォールたちとともに彼らが向かっていた村ではないだろうか。やはりルルーシュの情報が洩れているのか。
 ヘイルードが持ち帰った情報の一部を、シゼは荷運びの間にウェルナーから聞き出したらしかった。だが彼はまだイーツェンの「死」のことまでは知らない様子で、どう話そう、とイーツェンは思う。状況は大きく変わった。シゼに聞いてほしいことが多すぎて、どう切り出したらいいかわからない。
 シゼも話の続きがある様子で、ちらりと周囲を見回してから、イーツェンの右肘をつかんで歩き出そうとした。
 小さな石を靴の下に踏み、ざりっと地面が音をたてる。その瞬間、シゼの足がとまった。右手が剣の柄にのびる。同時に左手でイーツェンを自分の後ろへ引きこんだ。
「出てこい」
 するどい声で言いながら、イーツェンを背中にかばってじりじりと寺院の門の方へと動く。まだ剣は抜いていないが、いつでも抜き放てるよう余分な力が一切抜けた彼の右肩を、イーツェンは背後からじっと見つめた。熱で数日伏して少しやせたが、すぐにシゼは休息と鍛錬で力強い動きを取り戻し、そうして前を見据える背中には獰猛な力が満ちていた。
 シゼの見据える先に何があるのか、イーツェンにはわからない。森までは距離があり、その間を腰近くまである草群れが点々とつないでいる。打ち捨てられて朽ちた馬車や、かつて立派な門だったであろう石積みを目で忙しく追った。
 傾いた陽がゆらぎ、光が草に水滴のように反射してイーツェンは物の形を一瞬見失う。目をしばたたいて眩暈を払うと、門石の向こうからむくりと人影が起き上がるのが見えた。
 細身で背の高い男だった。陽に焼けた顔を見て、イーツェンは驚きに息を呑む。
「ギスフォール!」
 男は物憂げに目をほそめてイーツェンを見た。あの陽気な笑みはどこにもない。イーツェンにうちとける前の、用心深く他人を警戒する表情ともちがう。するどい顔にあからさまな敵意を見て、イーツェンの胸にこみあげてきたなつかしさはたちまちに凍りついた。同時に、シゼの体から緊張と警戒が消えていないことにも気付いていた。
 ギスフォールは刺すような視線をシゼの肩ごしにイーツェンへ向け、ゆっくりとシゼを見た。その目の冷たさにイーツェンはぞっとする。それはほとんど、城でイーツェンを蔑む男たちが見せた嘲りや敵意と同じ表情に見えた。
「下がって」
 前を向いたまま、シゼが低い声で言った。それが自分への指示だとはわかったが、イーツェンは動けない。下がってこの場を彼らにまかせてしまえば、何かとんでもないことがおきるような気がした。
「‥‥駄目だ」
 絞り出した声がふるえて、イーツェンは息を吸いこもうとしたが、肺がちぢんだようでうまく息が入らない。ちがう。まず吐いて、それから深く吸って──シゼは何度もそう教えた。吐いて、吸う。今度はうまくいった。腹まで息が入ったと感じてもう一度ギスフォールを呼ぼうとした時、ギスフォールが低く言った。
「裏切ったな、シゼ」
 その声は問いではない。断罪の、冷徹な敵意に満ちた声音だった。
 イーツェンは呆然として、半ば口を開いたまま言葉を失う。彼に向けられたシゼの背中は微動だにせず、何も語らず、ただ彼を守っていた。