冷たい指が背中をなぞっていく感覚が、奇妙なほど遠い。
ふしぎだった。痛みはあれほど強烈に、体の芯まで直接に響きわたるようなのに、そのほかの感覚は皮膚を数枚へだてているようににぶい。背中はまるで、彼の体の一部ではないようだった。
ずっと苦痛に気をとられてばかりいたが、イーツェンはあらためて自分の背が普通の状態ではないことを思い知りつつあった。エナにそうやってふれられても、はっきり感じるところと、うすぼんやりした感触しか得られないところがある。ふれられているのが背中なのかどうか、目をとじているとわからないことすらあった。
感覚はいつか戻るものなのだろうかと問うと、エナは小首をかしげた。わからないと言うことだろう。それとも一縷の望みがあるかどうかすらあやしいと言う意味なのだろうか。通訳がわりのヘイルードがいないと、それ以上のこまかい意味をエナから聞きとるのは難しかった。
はっきりとたずねて望みがないと告げられるのも怖い。イーツェンはうなずいて、エナが診立てを終えた身にシャツをまとった。元のように横たわると、エナが薄手の毛布を背中に引き上げてくれた。
イーツェンは朝から熱を出し、中庭の木の下で身を休めていた。傷の熱か、心の迷いが体に無理をかけたのか、ここまでの疲労が出たのか。とにかく今日一日は寝ているよう指示され、屋内は暑いとうったえると中庭の木陰に寝床をしつらえられた。わがままを言ったようで気恥ずかしいが、風のそよぐ樹下で横たわっているのは心地よかった。
エナはイーツェンの脇の木に背をもたせかけ、何か考えながらあぐらの膝にひろげた布の上に手をすべらせている。布には大小いくつもの仕切りが縫いつけられ、それらに様々な材料が小分けにされてつまっていた。エナはこれを筒のように丸めて、紐で肩にかけて持ち歩いている。癒し手としての彼女の道具箱だろう。
膝に視線を落としたエナの表情は静かで、そして、常のように少し悲しげだった。苦しげとすら言えるかもしれない。彼女はいつも内に何かを抑えこんでいるように、イーツェンには見える。そのことが余計に彼女をオゼルクに似て見せていることにも、気づいていた。
オゼルクもまた内にある心を抑えこみ、己から何かを削ぎおとすようなその抑制が、彼の鋭さをかたちづくっていたような気がする。城にいた時は近すぎてそういうことが見えなかったが。何を抑えこんでいたのだろうと、ふとイーツェンは思った。兄のこと、レンギのこと。そんなものを深くに秘めていたのだろうか。ああやって心にあるものを抑えつけ、激しいほどの抑制を己に示しながら、彼はずっと生きていたのだろうか。
イーツェンを組みしきながら、彼は何を思っていたのだろう。オゼルクにためされているようだと何度もイーツェンは思ったことがあるが、今にして思えばオゼルクには己自身をためしているようなところもあった。
オゼルクのことをそんなふうに考えるのは不思議な感覚だった。にぶい背中と同じように、ひどく遠いもののことを感じているようだ。苦痛の記憶は今でも時おり鮮やかによみがえってイーツェンを苦しめたが、あの日々の傷は少しずつ乾いているのだろうか。
決してオゼルクのことを理解はできまい。オゼルクもまた、イーツェンの共感や理解など求めていないことは確かだ。だがそれとは別に、もし──という思いはどこかにあった。もし、もう少しイーツェンが彼らの事情や成行きを知っていたならば、もう少しちがう関り方はあったのかもしれない。それがどんなものかはわからなかったが。
ぼんやりとそんなことを考えながら、イーツェンは毛布の上に横たわっていた。もう盛夏はすぎつつある。樹下の風は熱をもった肌に心地よく涼しげだ。まどろみはおだやかなものだった。
エナの気配が耳にきこえてくる。別にそこにいて自分のお守りをしてくれなくともいいのだと言おうとして、イーツェンはやめた。エナは、そうやって気をつかわれるのは嫌だろうと、何となくそう思った。
──エナに話をしてやってくれ。
ウェルナーの言葉が浮き上がるように心にひびいた。そう、あの男は言ったのだ。ひどくたのみにくいものを、気合を入れてたのむ顔で。それに押されて引き受けてしまったが、しかしエナに何を話せばいいのかがイーツェンにはわからない。あまり話そうとすればどうしても自分自身のことにふれないわけにはいかないだろう。彼らもイーツェンたちがただの「傭兵と奴隷」でないのはわかっているだろうし、イーツェンの正体まで承知しているかもしれないが、あらためて己をあかすのはまだ怖かった。己が城からの逃亡者であると、言葉にして確信を与えた時にエナたちがどう態度を変えるか、それが不安だ。
そんなことを考えだしたせいか、なかなか眠れない。しばらくじっとしていてから、イーツェンは寝るのをあきらめてエナを見た。枕がわりにしているたたんだ上着に左の頬をのせ、寝そべったまま、彼女に呼びかける。
「エナ」
エナはローブの下で脚をあぐらに組んで、作業用の布をひろげ、その上で草を選り分けていた。ちらっとその右手がひらめいて、イーツェンはそれがエナの「返事」なのだと気付く。声のかわりに、エナは多くの仕種で返事をするのだ。
声が出ないのか、宗教的な誓いか、それともほかの理由があってか、彼女が口をきかない理由はわからなかった。だがイーツェンにはひとつ曖昧な記憶があった。エナがイーツェンの背中を切り、背の内にある異物を除く施術をした時のことだ。覚悟していたつもりでもあまりの痛みに我を失ったイーツェンが暴れた時、それまで聞いたことのない声が聞こえてきた気がする。言葉の意味も響きもおぼえていない。ただ、苦痛に曇った意識の中、しゃがれて引きつったような、男とも女ともつかない声──そんな声が耳にとどいた記憶が残っていた。その声は、何かをするどく命じていた。
施術の記憶があまりに強烈だったので、そのことはしばらく忘れていたが、ふと思い出してみればあの場にいたのはイーツェンのほかに4人しかいない。あの声がシゼやヘイルード、ウェルナーのどの声にも似ていない以上、あれはエナの声だったのではないだろうか。
そのうちシゼに聞いてみるかと思いながら、なんとなく聞いていなかった。シゼがまだエナに対して用心深い態度を崩していないのを、イーツェンは知っていた。どうしても話題にしづらいのだ。
(──いつか、聞こう)
そう心に思いつつ、それがいつかはわからない。あまり呑気にかまえていると「いつか」など永遠にこないものかもしれないな、と思いながら、イーツェンはエナを見上げた。エナは少しだけ、首を傾けてイーツェンを見ている。
イーツェンは一瞬ためらってから、前から気になっていることを口にのせた。
「あなたには‥‥たどりつく場所が、あるんですか?」
青い目が物問いたげにまたたいた。イーツェンはゆっくりと言葉をえらんでから、ふたたび口をひらく。
「旅の目的地と言うか‥‥目指すものが。あなたと、ヘイルードと、ウェルナーと‥‥」
3人は何のために旅をしているのか、イーツェンは前から不思議だった。これまで問わなかったのはイーツェン自身にその問いがはね返ってくるのを恐れたからだが、エナはあえて問い返しはしないだろう。口をきかないからというだけではなく。そういう確信があった。
エナはゆっくりとまたたきながらイーツェンを見ていた。そのまなざしは深く、沈黙も深い。彼女のまとう静寂は人の考えをうつす鏡のようだと、イーツェンは思った。
「私は、どうしたらいいか、わからないんです」
自分を見つめるまなざしへ、イーツェンはごく自然に正直な心の内を呟く。
「シゼは私を、故郷へ帰してくれると言った。‥‥でも、そのことが、彼に負担をかけている気がする。彼は‥‥そのために、色々なものを捨てている。それに私の帰りたい場所はとても遠い。私には、道すらわからない」
「──」
エナは考えこんでいる様子だったが、その間も手は枝から小さな葉をむしっていた。銀の毛がうっすらと裏に生えた、淡い色の楕円の葉だ。やがて指をすりあわせて葉くずを払いおとすと、彼女はイーツェンを見ながら己の額にふれ、ゆっくりとした動作で次に胸にふれた。
無言の、だが雄弁な仕種に、イーツェンは微笑した。
頭と心の求めるものは、それぞれちがう。エナの仕種はそう言っていた。
「あなたは、どちらに従うんですか?」
そうたずねると、エナは秘密めいた笑みを浮かべた。ふっと印象が少女らしくなって、イーツェンは一瞬ドキリとする。
エナはイーツェンからまなざしを外し、また葉を分ける作業に戻っていた。汚れた指先がすばやく、正確に枝から葉をむしり取っていくなめらかな仕種をイーツェンは感心しながら眺めた。
心と頭の求めるものはちがう。言われてみれば、それは確かだった。イーツェンの心はまっすぐにリグを求めていたが、頭ではそこへの道の険しさや、そのためにシゼに払わせてきた──そして、これからも彼に強いるであろう──様々な犠牲のことを思ってたじろいでいる。自分の心と頭と、どちらを信じればいいのかイーツェンにはわからなかった。情けないが、どちらも信頼に値しないような気がする。
そして心ひとつにも、いくつも折り重なった望みがあった。
(生きていける場所はたくさんある)
シゼは、アガインとの対峙で気力が折れそうになったイーツェンを抱きしめて、あの時そう言った。もしリグへ戻れなくともイーツェンの生きる道はあると。そこへイーツェンをつれていく、と。
生きていくのがシゼの言うほどたやすくないことは、イーツェンもよくわかっている。だがそれでも、とイーツェンは思うのだった。リグへ戻れなくともかまわないかもしれない。リグでなくとも、シゼとともに、どこかで身をよせあうようにして生きていけるのだったら。
(──あなたより大切なものはない)
昨夜のシゼの言葉を、その声の低く何かを抑えたひびきを、自分を見つめていたシゼのはりつめたまなざしを思い出すと、体がさらなる熱に浮かされるようなざわつきを覚える。シゼによりそって、このままただ生きていきたいと、祈りのような願いが己の身の内に芽生えているのを感じていた。
もし、この首の輪がなければ。もし、この地に戦乱の予感がなければ。もし、イーツェンが、正体が露見すれば投獄されるような身でなければ。もし──
ユクィルスの中にすら、彼らの居場所はあったのかもしれなかった。
二人分。ほんの小さな居場所のように、イーツェンには思える。だがそれを手に入れるのも、守っていくのも難しいことを、今の彼は知っていた。
(あなたを必ずリグへつれていく──)
シゼはそう言った。彼が本気なのはわかっているが、リグへ通じるすべを持っていないのもわかっている。それがイーツェンには切ない。シゼはただイーツェンを守り、イーツェンを故郷へ帰そうとして、きっとイーツェンには見えないところでもがいている。
葉ずれの音がゆるく耳にひびく。空気はしっとりとした熱をおび、エナの作業の規則的な音を聞きながら、イーツェンはいつのまにかまどろんでいた。
短い夢の中で、イーツェンは自分にさしのべられる手を見る。くらがりの中からふいに彼をつかみ、光の中へ引き出した手。すべてが凍えたような世界の中で、その手は彼の肌を火傷させるのではないかと思うほど熱かった。
ユクィルスの城から助け出された時の、あの一瞬の記憶の残像だ。あの瞬間のことをイーツェンはほとんどおぼえていない。痛みと恐怖に引きつり、混濁した記憶の中で、さしのべられた手だけが記憶に灼きついていた。
──くりかえし、くりかえし。
夢の中に漂う心はその一瞬を思い出しつづけている。そう、くりかえし、シゼの手は彼を闇から引きずり出してきた。ユクィルスの城にいた時から、ずっと。シゼがいなくなった後ですら、イーツェンはシゼの記憶に、シゼが彼に残したぬくもりにすがるようにして崩れていきそうな己を保った。どんな痛みの中でも、どんな夢の中でも、あの手は彼をつかんで離さなかった。
ぬるま湯からふうっと体が引き上げられていくような、不思議な感覚があった。イーツェンは目をあける。エナと──いやエナに何かを話していて、それから一瞬またたきしたような、そんな気がしたのだが、体には眠りの重さが残っていた。
体を動かす前に用心深く顔を動かすと、エナがいた木の下に、今はシゼが右膝を立てて座っているのが見えた。薪を取りに出かけていたのだが、イーツェンが眠っているうちに戻ったのだろう。エナの姿はもうなかった。
イーツェンはゆっくりと手をつき、毛布の上に起き上がる。シゼはじっとイーツェンの様子を見ていたが、イーツェンの体に痛みがない様子を見てほっとしたようだった。
膝で座りこみ、黙ったまま、イーツェンはシゼに両手をのばす。どこかまだ夢のつづきのような気がした。自分をつかんだシゼの手の熱さをまだおぼえている。その感覚はイーツェンに刻みこまれて消えないのかもしれなかった。
シゼも黙ったままイーツェンのそばへ寄ると、よりかかる彼の体に両腕を回した。その抱擁はやさしい。イーツェンはシゼの首すじに顔をよせ、汗ばんだ匂いのする首すじにくちづけた。シゼの肌の感触を唇で感じるのは心地よかった。ゆるく動かした唇の下で、シゼの肌がぴくりと反応する。夢ではないのだなと、イーツェンは今さら感じながら、呟いた。
「シゼ。ありがとう」
シゼは体をかるく後ろに引いて、ふしぎそうにイーツェンを見た。
「何がです?」
「全部」
イーツェンは微笑して、シゼの腕をつかんだ。
「あの城にいた時のことも、私を助けに来てくれたことも。今、こうやっていっしょにいてくれることも。ありがとう。どれだけ感謝してるか、うまく言える言葉があればいいんだが」
「イーツェン‥‥?」
シゼはとまどった様子だったが、それ以上に何故か用心深い表情でイーツェンの目をじっとのぞきこんでいた。言葉の裏に何があるのか探すような様子に、イーツェンは苦笑して首を振る。
「何も、たくらんでない。本当だ。ただ、ずっと言いたかった」
「‥‥‥」
「そんなに私は信用ないのか?」
すねた響きで言うと、シゼも苦笑してふっと体から力を抜いた。
「あなたは‥‥いつも、一人で思いつめて、一人で決めるから」
「お前もそうだ」
呟いて、イーツェンはシゼの右手を両手につつんで引きよせた。イーツェンを守り、イーツェンにさしのべられ続けた手。唇に近づけて指の背にくちづけると、シゼが目をほそめて笑った。
「くすぐったいですよ」
「うん」
イーツェンも笑ってシゼの手を離す。短いが深い眠りで、ずいぶんと気分がすっきりしたのを感じながら、背をのばしてシゼを見つめた。考えてばかりでも仕方がない。
「相談したいことがある、シゼ。私たちはあまり‥‥相談したことがない。そうじゃないか?」
シゼは少しまばたきしながら考えていた。イーツェンはまっすぐにまなざしを向けたまま、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ふたりでいっしょに、もっと色々、話しあおう。それで、いっしょに決めよう。どうするか、どこへ向かうか。これまで、何もかもお前にたよっていてすまなかった」
「あやまるようなことではない、イーツェン」
シゼは静かにそう言って、それから顎を引いてうなずいた。
「でもあなたの言うことは正しい。アガインのことは、私一人で決めるべきではなかった。あなたに話すべきだった」
「そのことなんだが、シゼ。私はやはり、アガインに会いにいこうと思う」
かなり思いきってイーツェンは言ってみたのだが、シゼは小さくうなずいただけでイーツェンが予期したような反論はなかった。イーツェンは少し待ってから、たずねる。
「どう思う?」
その口調がたよりなくて、言ってから自分で苦笑した。理詰めで相談していると言うより、賛成してほしいだけの子供のようだ。シゼは腕組みして、考えこみながら口をひらいた。
「私は、反対です。その理由はもう言った。でもあなたは、それでもアガインを放ってはおけないと思っている。それがあなたの考えなら、戻りましょう」
「うん。‥‥すまない」
「あやまらないでいい」
ややぶっきらぼうに言って、シゼはじっとイーツェンを見つめた。
「嘘を誓いに戻るんですよ。あなたはそれで、いいんですか」
「もっとひどいことはたくさんあった」
その言葉があまり深刻に響かないようできるだけ軽く言って、イーツェンは自分を見つめる銅色の瞳へ微笑した。
「これも、きっと大丈夫だ。やってみせる。それに、シゼ。ルルーシュの持つ情報と、彼らの協力が必要だ。私が‥‥リグへ帰るために。ユクィルスの川港を通り抜けるには、身分証が必要になる。地図も要る。私たちだけでは用意できない」
「川?」
「うん。セクイドの教えてくれた道だ。海まで出て、東回りでリグへの道を探すつもりだ。‥‥どれほど遠い道になるかはわからないが」
イーツェンはゆっくりと息を吸いこみ、シゼのおだやかな瞳を見ながら、ことさらにゆっくりと言葉を口にした。これは彼にとって大事な言葉だった。
「一緒に来てくれるか? その‥‥お前が、私の考えに、賛成してくれるなら、だが」
シゼは腕組みしたまま、少し目をほそめた。唇を結んで、何かを言う気配もなくイーツェンを見ている。たまに彼が見せる、内面の読めない表情だった。
その顔を見ながらイーツェンはじっとシゼの返事を待っていたが、長びく沈黙が段々と重くなっていくにつれ、心に不安がかたまりとなって湧いてきた。何だろう。シゼは何かを考えているのか、それとも何か言いたいことを呑みこんでそんな顔をしているのだろうか。城にいた時のシゼがこういう顔をしたのは、イーツェンとの間に用心深く距離をへだてておこうとするような時だった。当時はまだ「エリテ」と呼んでいたレンギとのことについてイーツェンがふれた時、シゼの過去についてふれた時。イーツェンが踏みこもうとして、シゼがやんわりとそれを拒む。そんなことが、数回あった。
今、どうしてそんな顔をしているのだろう。何か妙なことを言ってしまったかと、イーツェンは目ざめてからの会話や、昨日の夜の会話を思い返して頭の中でつつき回してみるが、よくわからない。怒らせたか、イーツェンがわかっていない何かを心配しているか、それとも──
不安がほとんど痛みのようになって、つい小さな声がこぼれた。
「シゼ」
シゼはまたたいて、自分が長い間黙っていたことにやっと気付いたようだった。イーツェンの不確かな様子にも。
腕をとくと、左手をのばしてかるくイーツェンの肘にふれた。
「わかりました。そうしましょう」
「何を考えてた? 私が何か言ったか? 何か気になることがあるのか?」
「いえ。元気になってよかったと思ってただけです」
イーツェンを安心させるためだろう、あからさまな嘘をつく、そんなシゼに心の奥が重く湿ったような気分になる。イーツェンは腕をのばして、シゼの手を両手でつかんだ。
「何かあるなら、言ってくれ。‥‥いつでもいいから。お前の考えていることが知りたい」
その言葉に、シゼはとまどった顔でイーツェンを見ていたが、ふっと微笑して自分の手をつかむイーツェンの手を親指でなでた。自分でわかってはいるが、この微笑に、イーツェンは心底弱い。いつも何かを警戒しているようなシゼが、この瞬間だけは無防備に見える。きびしい目元がやわらかくなって、同じようにやわらいだ唇の線に何とも言えないあたたかみがあった。イーツェンに向けられた目はひどく優しくて、そんな彼を見ていると何もかもを許されているような、何か安心できるものにつつまれているような気持ちになるのだった。
駄目だなあ、と思うが、何だか体からも心からも余計な力が抜けてしまい、もうイーツェンはシゼに問いを押しつけることができなかった。何か心にかかっているならいつか話してくれるだろうと、祈るような気持ちでシゼの手を握る。シゼの中にはまだイーツェンの知らないことがたくさんある。知らない傷、重荷。少しずつ知っていきたかった。
「‥‥お前のことが知りたいんだ」
そう呟くイーツェンの額を、シゼが空いている右手でなでた。
「また横になった方がいいですよ。アガインのところへ行くにも、とにかく体を休めないと」
「うん」
言われる通りにまた体を木陰に横たえながら、そう言えばとイーツェンはシゼを見上げた。言おうと思っていたことがもう一つあった。
「私は死んだりしないよ、シゼ」
「‥‥はい?」
中庭をかこむ建物の方に視線をとばしていたシゼが、虚をつかれた様子でイーツェンを見た。イーツェンはうつ伏せの頬を、上着をたたんだ枕にのせる。
「たとえアガインがまた無理を言ってもね。切り抜けてみせるよ、シゼ。もう死ぬつもりなんてない。だからまた、アガインに会える。お前が、言うから」
「イーツェン?」
「うん」
自分でも言葉の順序がおかしいのがわかって、イーツェンは小さく笑った。木陰を抜ける風は葉の香りをはこんでいて、肌に心地よい。そこにシゼがいるだけで安心して、心がどこかへ漂い出してしまいそうだった。
「お前がいてくれれば、アガインに負けたりはしない。‥‥シゼ、お前が私を大切だと言ってくれたように、私にもお前が大切だ。お前を裏切ったりだますようなことは、絶対にしない。それはわかってほしい」
シゼが昨日言ったように、イーツェンは一度はリグのために自分の命を捨てようと思った。そうすることが当然としか思えなかった。だが、あの瞬間から距離をおいた今、そんな己の決断がどれほどシゼを傷つけたのか、イーツェンにはよく見えていた。
シゼを病に失うかもしれないと、その恐怖だけでイーツェンは自分が引き裂かれるような苦しみを味わったのだ。もしあのままシゼを失っていたら、彼は自分を許すことができなかっただろう。シゼに無理をさせ、負担をかけつづけた、そのことで自分を責めつづけたにちがいなかった。
アガインに追いつめられた時、イーツェンはそれと同じ思いを──いや、もっと悪い思いを、シゼにさせるところだったのだ。自分を守ろうとしている相手を手ひどく裏切り、傷つけて、一人で放り出す。もちろん悪意からではないが、だからこそそれはあまりにも残酷な行為だった。
シゼはそのことで、用心深くなっている。イーツェンを信用していない。だからこそ、何も言わず強引にアガインからイーツェンを引き離そうとした。
彼を安心させたかった。彼に信頼されたかった。一度傷つけてしまった以上、そのどちらにも時間がかかるだろう。そう思いながら、イーツェンはせめてと言葉を重ねる。
「お前に助けてもらった命だ。もうあんな勝手は考えない。だから、そのことで心をわずらわせるのはもうやめてくれ。私は大丈夫だよ」
そう語りかけている最中にシゼが手をのばし、無言でイーツェンの髪をポンポンと叩いた。犬猫でも撫でるように、どことなく無造作な手だ。少しの間そうしながらイーツェンを見おろしていたが、やがてシゼは妙なことをたずねた。
「変な夢でも見たんですか?」
「‥‥何が。いつ?」
「今、私が来る前に」
イーツェンは首輪が喉に引きつれないよう用心しながら、首を回してシゼを見上げた。
「何で?」
「何と言うか‥‥」
言いよどんで、シゼはイーツェンを撫でていた手で首のうしろをかいた。言葉をうまく選べずに考えこんでいるようだ。しばらく考えてから、シゼはぼそりと言った。
「何だか、心細そうなことばかり言うので。悪い夢でも見たかな、と」
「‥‥そうか?」
「別に、私は何があってもあなたを置いていったりしませんよ。そんなに色々言って、安心させようとしなくても大丈夫です」
イーツェンは首や頬、さらに耳までもがかっと熱くなるのを感じた。まるでイーツェンの言葉が何かの駆け引きの材料であるかのように片付ける、この言い方はあんまりだ。しかも「悪い夢を見て心細くなったから」そんなことを言っているんじゃないか、ときた。
シゼが言ったのでなければ、何かの嫌味かあてこすりだと思っただろう。わざとではないとわかっていたが、一体何て言い種だと、怒りときまり悪さで頭の中が真っ白になった。
シゼが熱で倒れた時、イーツェンは彼につたえられていないあれやこれやの言葉や思いがあることに、半ば呆然としたのだった。いつでも言えると甘く見ていたり、わかってくれていると思って言わずにいると、いつか本当に言えなくなるかもしれない。ぽかりとあいた空隙にすべての言葉と思いが呑みこまれてしまったようで、心底ぞっとした。
──だから、言おうと決めたのだ。
色々なことを、聞いたり言ったりしようと思った。ふれるぬくもりを通してだけでなく、言葉でつたわるものも大事だと、そう思ったのだが。
そんなんじゃない、と怒鳴りそうな衝動のままにイーツェンは口をあけ、それから大きな溜息をついて、枕がわりの上着に額を沈めた。まとめて言いすぎただろうか。ありがとうとか大切だとか。肩すかしをくらうと、こんなに恥ずかしいとは思ってもみなかった。
「私はお前の機嫌を取るためにあれこれ言ったわけじゃないぞ!」
もごもごと、枕の中に怒鳴った。じかに怒鳴るよりはマシだろう。シゼが何か呟いて、また犬でも撫でるようにイーツェンの頭を撫でた。優しくする気ならいくらでもできるくせに、何故そんな子供をあやすような手つきなのかもわからない。
それでも何を呟いたのか気になって、イーツェンはまだ下を向いたまま不機嫌に言った。
「何。聞こえなかった」
あやまっても許してやらん、と無言でつけ足すくらいには気が立っている。だが聞こえてきたのは謝罪ではなかった。
「久しぶりですね」
「何が!」
「あなたが怒るのが」
そう言うシゼの声が楽しそうに聞こえて、イーツェンは何だかめまいがした。どうしてシゼの注目点がそこなのだ。そして何故、そんなに楽しそうなのだ。
思わず顔を向けてたしかめたが、すぐそばにあぐらで座っているシゼは確かにうれしそうで、独り言のように呟いた。
「本当に元気になってきたんですね」
「‥‥‥」
頭の中にどろどろと溜まっていた嫌な熱が、その一言ですっと引いた。イーツェンはまた枕に額をうずめる。半分あきれて、半分は笑い出したかった。自分にも、シゼにも。自分はあまりにも子供っぽいし、シゼは何だかずれている。
暑い。急に肌に夏の熱気を感じて、彼は小さく開いた口から「はあ」と吐息を洩らした。それで何の話をしていたんだっけ、と脱力した頭で考えながら、何だかまたたまらなくなってきて足をバタバタさせる。
「お前の機嫌なんて取ってないぞ。取らないぞ」
「ええ」
「言いたいことを言っただけだからな」
「わかりました」
シゼの相槌はまだ楽しそうだった。ポンポン、とイーツェンの頭をなでている。イーツェンはぶつぶつ言いながら、裸の腕に這い上がってきた小蟻を払って、目をとじた。とりあえずもう考えていても仕方ない、と頭の中のもやもやを追い払おうとする。実際、言いたいことはもう言ったのだ。手はじめは失敗。それも仕方ない。
静かだった。一瞬前までしゃべっていたせいだろうか。静寂の深さが体をやわらかくつつむ。葉ずれの音も、シゼがそこにいる気配のような音も聞こえるし、横たわっているので大地に近いゆるやかな空気の流れの音もきこえる。それなのに、静かだった。
体が深いところからしんとして、力が抜ける。シゼの手がふれた拍子にその指先がイーツェンの髪を少し乱して、さらりと髪が流れた、それが耳にやけに大きくひびいた。
シゼがイーツェンの髪にふれたまま、ぽつっと言った。
「でも、聞いて安心しました」
イーツェンは目をとじて笑いをこらえた。言うのが遅い、と思う。それは一番最初に言うべきことだろう。だがシゼはシゼなりに、イーツェンの言ったことを時間をかけて咀嚼していたのかもしれなかった。きわめて、真面目に。
慣れていないのかもしれない、横にいるだけではなく、対等に向きあって話し合ったり相談する、そういうことに。だから言葉の後ろを見たり、イーツェンにずれた気をつかったり、シゼはシゼなりに忙しい。
──ま、いいか。
しのび笑いと溜息を同時について、イーツェンは脱力した体をのびのびとのばした。腕はまだ完全にはあげられないが、少しずつ、そういうこともできるようになっている。少々すねた気持ちが残っていたので、シゼに背中を向けて体をゆるく丸め、彼はまたうたたねに戻った。目をとじていても日だまりを感じるように、シゼの気配を背中に感じるのが心地よかった。