イーツェンが驚いたことに、エナはイーツェンの背中の傷を動物の腱で作った細い糸で縫って出血をとめたのだということだった。「つくろいものをするのと同じ」というヘイルードの言葉に、自分がぼろ切れか何かになった気がして、ひどく微妙な心持ちになってしまう。
「まあ、たしかにほつれたようなものだけどな」
 森をのんびり歩きながらぼやいたイーツェンに、シゼは小さく笑った。
 昨日、シゼはイーツェンの手を借りて髪を少し短めに切った。額のあたりがこざっぱりとして、なかなかうまくいったとイーツェンは心の内で自画自賛している。いくらか若く見えるとひそかに思っていたが、シゼには言わなかった。
 シゼが足元の枯れ木を拾い上げると、ロバの横腹につるした編み籠に枝を放りこんだ。籠は、森から取った蔦でエナが手際よく編んだもので、目は荒いが薪集めの役に立つ。
「少し休みますか」
「うん」
 素直にうなずき、イーツェンはヤマナラシの木の足元に座りこむと、こぶのある幹に頭をもたせかけた。エナからは時間を見つけて歩くように、だが無理は絶対にしないようにと言い渡されていた。実際にはヘイルードやウェルナーから言われたのだが、イーツェンも慣れてきて、彼ら自身の言葉と彼らを通じたエナの言葉の聞き分けがつくようになっている。
 手綱を枝にかけられて、ロバは素直に立ち止まった。あのみすぼらしかった毛並みが、借りたブラシでイーツェンが暇つぶしにとかしてやったので、随分と見栄えがよくなっている。
 シゼが横に座り、一口飲んだ水筒をイーツェンに回した。ぬるい水を飲んでから返し、イーツェンは膝をかかえて上を見上げる。下生えの多い鬱蒼とした森だったが、イーツェンは、樹間が開いて歩きやすいあたりを散歩道にしていた。
 茂った葉の間から、まばゆい光が斜めに森へさし入る光のすじが見えた。そのいくつかは、あたたかな光の溜まりとなって地面を彩っている。昨日短い雨がふったので、土の湿った匂いがした。
 イーツェンは草木の清浄な匂いをゆっくりと吸いこんで、胸をふくらませた。座ってぼんやりしていると木々の向こうの音が浮き上がるように聞こえてくる。枝を抜けるゆるやかな風の音、キュッと鋭いアカゲラの鳴き声、蜂の群れが樹冠の花に群らがる羽音。音は匂いのように無数にたちこめて、静寂を満たす。
 足元の草を抜き、故郷でしていたように切れ目を入れてからねじり丸めて、唇の先に当てた。下唇に沿って息を吹き込むようにすると葉全体が振動し、高い音が響き出す。
 シゼの表情がけげんだったので、イーツェンは微笑した。
「草笛が珍しいか?」
「そうやって丸めたものは」
「そうか? リグの子なら、皆これを吹く。うまく作ると鳥寄せもできるんだぞ。私は下手だったけど」
 2、3度山鳥の声を真似てみようとしたが、やはりうまくいかない。笑って草を放り出し、イーツェンは用心しながら両手をあげて軽くのびた。まだ腕を真上には上げられないが、もう体中が引きつれるような強い苦痛はない。エナに調合されている痛み止めも、随分と量をへらされていた。
 少し力を入れて痛みの具合をたしかめてから、手をおろした。じっと様子を見ているシゼの目があまりにも真剣なので、また小さく笑った。
「大丈夫だ」
「腰は?」
「痛くないよ」
 3日ほどほとんどうつ伏せで横たわったままだったので、歩き始めた時には腰と背にかなり負担がきて、痛みが出た。その前から痛めた背中のせいでイーツェンの歩き方や動きには歪みがあって、腰を悪くしていたらしい。
 歯をむいた顔を草へ寄せているロバを眺めながら、イーツェンは膝に頬杖をついた。山桃の実と香りのある葉をいくらか摘んだので、もしウェルナーの仕掛けた罠に兎がかかっていれば、実をつぶして調味の足しにしようかと思う。芳醇な緑が香るようなユクィルスの森は風景もリグとは大きく異り、イーツェンには見知らぬものが多いが、中にはなじんだものもいくらかあって、そういうものを一つ見つけるごとに心が落ちつき、リグがなつかしくなった。
 草笛。山桃。土の匂い、苔の生えた樺の幹、あたりにころがっている灰がかった石の色。他愛もない、ひとつひとつの風景がイーツェンの心を動かす。リグへ。
(だが、まだ遠い──)
「名前はつけないんですか」
 前ぶれなくシゼが口にした問いに、イーツェンは反応を返せなかった。意味がわからなかったのだ。シゼがちらっとロバに視線を流したが、それでも理解できないでいると、シゼは言葉をつけ足した
「あのロバに」
「‥‥ロバだろう?」
 不思議そうに問い返してから、イーツェンは思いあたってうなずいた。
「そうか。馬に名前をつけるな、お前たちは。ロバにも?」
「名前をつけた方が扱いやすいと思いますが。リグではそういうことはしないんですか」
 少々意外そうにシゼがたずね返す。何と言ったものか考えあぐねて、イーツェンは頬杖の指で顎の腹をなでた。
「私たちはめったに獣に名前をつけない」
「理由が?」
「情がうつるとつらいだろう。冬の前には、かなりの数をつぶして肉にしなければならないから。‥‥変かなあ」
 そう問い返してしまってから、イーツェンは情けない気分になった。リグのならわしをユクィルスの風習に引きくらべて不安がる必要など、ないはずだ。
 シゼは表情を変えずにロバを見たままうなずいた。
「わかります」
「‥‥でも名前はつけた方がいいと思うか?」
 小首をかしげて考えていてから、シゼはイーツェンを見た。
「イーツェン。あなた方だって獣を区別する必要はあったのでは?」
「毛色で呼んだり、数と合わせたりして呼び名をつける。ああ、そう言うことか。あれなら‥‥」
 ロバはのんびりと首をのばし、丈のある草の先端についた棘付きの花殻をはんでいる。イーツェンは灰色と薄茶がまだらになったような痩せた尻のあたりを見、いくらとかしてもボサボサのままの尾を見、もしゃもしゃと動きつづける口元を見た。
「キジム」
 シゼが片眉を上げた。仕種にこたえて、イーツェンが補足をつけ足す。
「馬鹿食いって意味だ。リグの方言」
「馬鹿食い?」
「あいつ、チーゼルばっかり食べてる」
 棘だらけの花殻につづき、棘の密集した茎までばりばりと食べているロバを指す。ロバが好んで食べるのはイーツェンの腰上まで育つ大きな草の、棘だらけの花で、それを見つけるといそいそと食べに歩み寄るのだった。手で握るのも痛いような茎までも、大喜びで口いっぱいに咀嚼する。
「ああいうのを馬鹿食いと言うんだ。ほかにも食べるものがあるだろうに、何も口を棘だらけにしなくてもいいだろう。見てるだけで口の中がもぞもぞする」
 イーツェンがぶつぶつ呟いていると、シゼが頭をそらせてかるい笑い声をたてた。彼が笑う声はとても珍しい。イーツェンはあたたかな気分でシゼの笑顔をながめた。
 いつも厳しく口元を引きしめているシゼだが、笑うと目元の険がとれて時におどろくほどやわらかな表情になった。その顔を見ているだけで、イーツェンの心臓の奥に小さな熱がともる。いつもシゼが用心深く覆っている、繊細な部分。あとわずか手をのばせばそれにふれられる、そんな気がした。
 微笑を含んだままの目で、シゼがイーツェンを見た。イーツェンは微笑を返して腕をのばす。シゼがごく自然な動きで身をよせてイーツェンへ両腕を回し、二人はお互いから唇を重ねた。
 軽いくちづけだったが、まるでどこかへ浮き上がるような気がして、イーツェンは唇が離れてからシゼへしがみついた。シゼが用心深い手でイーツェンの背中をなで、髪の間を指で梳きながら耳の横にくちづけた。湿った息が耳元に囁く。
「背中は?」
「うん」
 少し痛むが、そうは言わず、イーツェンはシゼの肩に額をのせて深い溜息をついた。この前こんなふうに身をよせあったのはいつだっただろう。あの雨の日より前のことだ。
 背中に傷の引きつれはあるが、身の内の痛みはずっと軽くなっていた。シゼの体にもたれるようにしがみついて、指が髪をなでていく優しい感触を感じる。いつものようにシゼの手はただ優しく、おだやかで、時折深くなる呼吸がイーツェンの体にじかにつたわってきた。
 そうしていると、体のすみずみまであたたかなものが満ち足りていく。すべてを許されるような気がした。これまでくぐりぬけてきた、すべてのものを。
 ──シゼを病で失うかもしれないと思った時にイーツェンを襲ったのは、圧倒されるような喪失感だった。あれほどに事態が切羽つまっていなければ、打ちのめされて身動きもできなかったかもしれない。シゼの存在がどれほど大切なのか、自分がどれほどシゼにたよりきり、シゼに守られるままになっていたかを思い知らされた。
 またこうして互いのぬくもりを感じられることが信じられない。いつまでこの平穏がつづくのかはわからないが、この一瞬がイーツェンには大切だった。
 顔を上げ、シゼの頬にかるく唇を当てる。
「いつも心配ばかりかけて、すまない」
「何も」
 ぼそっと呟いたシゼへ微笑して、イーツェンは体を離した。
 シゼにすすめられて、ロバ──名付けたばかりの「キジム」の背にまたがる。シゼがロバの端綱を取り、ゆっくりとした足取りで木々の間を歩きはじめた。鞍上の上下動で背中の傷が少し痛むが、イーツェンは気をつけて背すじをまっすぐに保った。
「ヘイルードがそろそろ戻ってくるな」
 少しして、話の続きのようにそう口にした。無言のまま行くのがいささか気恥ずかしい。
「そうですね」
 シゼは前を向いたまま相づちを打った。
 ヘイルードは食料の調達のために二日前から馬で出かけていた。おそらくほかにも用があるのだろうとイーツェンは思っていたが。エナたちがあの寺院に居続ける理由が、何かある。人を待っているか、少なくとも何かを待っているのではないかと感じていた。
「ギスフォールはどうしてるかな」
 そう呟いて、シゼの表情をうかがう。ギスフォールたちと離れ、待っているはずだった集落からも姿を消して、イーツェンたちは結果として「逃げた」ような形になってしまっている。そのことが気にかかっていたが、こうして二人の間で話題を持ち出したのははじめてだった。
 間をおいて、シゼは肩ごしにちらりとイーツェンを見た。
「気になりますか」
「そりゃあ‥‥」
 手応えのない反応に、イーツェンは一瞬きょとんとした。
「お前は気にならないのか? アガインにも、連絡取らないと」
「彼に?」
 その返事には何やら含んだ響きがあって、イーツェンは少し黙りこむ。シゼが枯れた小枝を踏んで、かわいた音が靴の下でポキンと鳴った。
「‥‥だって、約束したぞ。宣誓するって」
 ローギスが王に毒を盛った、と──
 その言葉は口に出さずにつけ足した。イーツェンの名をユクィルスとの戦いに利用しない、その代償に、アガインとの約定を引き換えにした。神々の名のもとに、ローギスを王殺しとして弾劾すると。
 シゼは黙りこんで歩いていたが、やがて足をとめ、ロバをとめてイーツェンを見上げた。今一つ読めない表情のシゼをロバの上から見おろして、イーツェンは不安げに問う。
「何だ?」
「一度アガインに協力したら、あなたを手ばなさなくなるかもしれませんよ」
「‥‥‥」
 確かに、その恐れがイーツェンの心をよぎったことはある。アガインの意志と、ユクィルスに対する憎しみは火のようで、彼はイーツェンのことなど戦いの道具としてしか見ていないようだった。いや、イーツェンだけでなく、周囲にいる者たち、そしておそらく自分自身のことすらも。
 約定はした。だがその取引を、アガインが守りつづけるかどうか、状況がそれを許すのか。仮にアガインがルルーシュの神の名にかけて誓ったところで、イーツェンもまた神々の前で嘘を誓う身だ。アガインを信じられるか。信じるべきか。そこには確かな不安が横たわっていた。
 ──だが。
「アガインは恩人だ、シゼ。私が城から出られたのは彼のおかげだ」
「イーツェン。それを言うなら、ルディスもあなたの恩人だ」
 虚を突かれて、イーツェンは返す言葉を失った。シゼはロバの鼻先で端綱を短く取り、ゆっくりと歩き始める。
「そうでしょう。あなたを城から出すにはルディスの力を借りた。彼が協力してくれなければできなかったことだ」
「‥‥ルディスは、私を人質として利用しようと‥‥」
「アガインは、あなたを道具として使おうとして、あなたを助けた」
 シゼの声は静かだった。
「どう違います?」
「‥‥アガインはお前の恩人だろう」
「私はアガインのために働き、彼を利用してあなたを助けた。それだけだ、イーツェン。アガインに恩はないし、アガインも私に義理はない」
「‥‥‥」
 考えこんだイーツェンを見て、チラッと小さく笑った。苦いが、やさしい笑みだった。
「あなたは時おり、難しく考えすぎる」
「お前は‥‥アガインとの約束を破れと言うのか?」
「あなたは、私に言った。自分が神々の名のもとに嘘を言っても許すか、と。おぼえていますか?」
「忘れるわけがない」
 ローギスが毒殺者であると宣言する。その嘘を神々に誓うと決めた時、イーツェンはシゼにそう問うたのだった。私を許すか、と。誰に許されずともシゼに許されればそれでよかった。
「お前は、許すと言ってくれた」
 シゼは歩きながらうなずいた。
「ええ。今でもかわりません。ただ、私が思うに、神々の名のもとで嘘を言うより、アガインに嘘をついた方が負担は少ないのではありませんか」
「だが‥‥」
 自分でも驚くほどうろたえて、イーツェンは上下に揺れるロバの背の上で鞍の前側を握りしめた。アガインやギスフォール、そしてセクイド。彼らの顔が一度によぎって胸苦しくなる。
「彼らをだましたくない、シゼ」
「アガインはあなたの気持ちなどかまわずにあなたを利用する、イーツェン。あなたは‥‥死すら選ぼうとした。忘れたんですか?」
 シゼの声に非難のひびきはなかったが、イーツェンは背すじが冷たくなった。アガインに自分の名を利用させないため、戦いの「旗」などに仕立て上げられないため、イーツェンは確かに死を選択しようとした。それしか方法がないと思ったのだ、あの時は。
 あの時、シゼはイーツェンを抱きしめて言った。戦え、と。
「私は‥‥あれは‥‥でも、シゼ」
 追いつめられていた気持ちがふいによみがえって、イーツェンの言葉は舌でもつれた。シゼが首を振る。
「すみません、イーツェン。後でまたゆっくり話そう。ヘイルードが戻ってくれば、新しい情報も入る」
「ああ‥‥」
 自分が混乱しているのを感じながら、イーツェンはうなずき、額に手を当てた。痛みどめのせいもあるのか、頭に何かがつまってみしりとも動かない気がした。
 こうやってギスフォールやアガインとはぐれたことを利と取って、このままどこかへ消える。そのことは考えたことがなかった。やっと心にも体にも余裕が出てきたこの2、3日、イーツェンはギスフォールたちとどう連絡を取ればいいのか考えていたのだ。
 ──甘いのか。
 そう思わざるを得なかった。この期に及んで、他者との約定にこだわる己が甘いのだろう。生きのびること。リグへ戻ること。その二つの目的すらおぼつかないのに。
 シゼの方が自分よりはるかに現実を見据えていることをあらためて痛感し、同時に自分自身が腹立たしかった。どの道をとるかはともかくとして、選択肢として当然考えつくべきことだった。
 森の切れ間を抜け出して影と光の境目をくぐった瞬間、目の前がまばゆく輝いた。目を細めると渦のような光が踊って見えて、イーツェンはまるで夢の中にいるような気がする。シゼは下を向き、地を踏みしめる自分の足取りを見ながら、確実な歩みをすすめていた。
 彼らはもしかしたら、いつもそんなふうだったのだろうか。
「‥‥少し考える時間をくれ」
 めまいが揺らぐ頭を振って、イーツェンはつぶやいた。自分で決めて、自分で歩かねばならない。それだけはわかっていた。


 ふいに目がさめたイーツェンは闇の中でとまどっていた。しんとした夜気があたりをつつみ、漆黒の中でぼんやりと天井の方角を見上げるが、当然何も見えない。
 すぐそばからシゼの静かな寝息が聞こえてくる。しばらくそれに聞き入っていたが、午後に長い昼寝をとってしまったせいか、どうにも眠気は戻ってこないままそうっと起きあがった。このままここで目を覚ましていたら、きっと気配でシゼを起こしてしまうだろう。
 シゼに気付かれぬよう注意を払って手探りでサンダルを拾い上げ、立ち上がる。シャツとズボンは着ているので、そのまま裸足の足音をしのばせて部屋を出た。ざらついた石の床とあちこちに落ちている破片で、足の裏が痛い。
 廊下を歩いて部屋から遠ざかったところで、かがみこんで足裏の埃を払い、サンダルをはく。眠っている間に汗ばんでいた体に、廊下の窓から入ってくる夜気の涼しさが心地よかった。首の輪と肌との間に汗がべたついていたが、この不快感ばかりはどうにもならない。
 夜のうちは正面扉をしっかりと閉ざしているので、廊下を別方向へ折れ、その先にある扉のない出口をくぐった。ところどころ屋根が落ちた柱廊へ出る。柱廊は中庭をぐるりと囲むようにのびていて、柱の間からそのまま庭へ降りられるようになっていた。中庭で時間をつぶそうと思った。
 考えなければならないことが多い。
 アガインたちとのことをどうするのか。もし彼らに背を向けるのならば、次にどこを目指し、どうやってリグを目指すのか。いずれ夏も終わる。そうなれば秋が訪れ、次の冬をどういうふうに越せばいいのかイーツェンにはわからない。シゼの手持ちの金も、一冬すごすには足りないだろう。そもそも、アガインやルディスに合流するために、シゼはかなりの額を使ったらしかった。
 それでもシゼ一人なら、何とでもなる。兵としてアガインに従うことも、ユクィルスの兵としてどこかの陣に加わることすらも。だがイーツェンといては、それも無理だ。城の輪をつけた奴隷をつれて、一体どこでどんなふうに生きられると言うのだろう。
(──リグへ)
 帰らねば、と心ばかりが焦る。この地にイーツェンの生きる場所はない。
 だがいかにして帰るか。もう少し体が癒えれば、あるいはアンセラからリグへと通じる険しい山道を行くことができるかもしれない。だが、アンセラはすでに戦いの地になっているのではないだろうか。そうでなくとも、セクイドたちはいずれアンセラを取り戻しに戦いを挑むだろう。兵や焼け出された人々が山へのがれれば、それは野盗となり、あの道はとても無事に旅ができる道ではなくなる。さらに、もし兵が流れてくることを知れば、リグは山門を建てて道を封じるだろう。少なくとも、戦いがおさまるまでは。あの道は使えない。
 道はもう一つある。──セクイドは、イーツェンへそう言った。
 川を南東へくだり、海に面した港町ルスタに出る。そこから船を使ってゼルニエレードという港町へ行き、沼地を西へのぼっていけば、道はリグに向かう山道へと続くと。沼地をつらぬくように流れる大河カシャがユクィルスの工兵によって治水されていれば、川のぼりはそれほど厳しいものではないだろう。セクイドの読み通り、リグの東側にユクィルスが道を作っていたのなら。その道が、ある程度形になってさえいれば。
 異国へ船で渡るか。そのためにどうやってユクィルスを出るか。川港での検閲と、身分のあらためをどうやってかいくぐる? その前に、ユクィルスは本当に沼地に道を作っていたのだろうか。どうやればそれがわかるだろう。確信のないまま伝聞をたよりに行ったとして、その先で行く道を見失ったら、今度こそ見知らぬ異国でどうやって生きていける?
 そんなことを際限なく考えながら、イーツェンは袋小路に押しちぢめられるような気持ちで中庭におりた。足先で石段をさぐりながら転ばないようにと注意を傾けていたせいで、そこに人がいるのに気付いたのは、闇からむくりと人影がわかれてからだった。
 うち捨てられて荒れた庭に、石のベンチのようなものが転がっている。影はそこから立ち上がっていて、さらにイーツェンはもう一つの影が座ったままなのを見た。ヘイルードはまだ戻ってないから──エナとウェルナーだ。
 しまったと立ちすくんだが、もう遅かった。ウェルナーから離れて自分へ近づいてくるエナへ、イーツェンは気まずい思いで頭を下げた。
「すみません、気がつかなくて」
 途端に、夜目にも白い手がぬっと顔の前にあらわれて、心臓が縮み上がる。エナはイーツェンの額にふれて熱をとり、首すじで脈の早さを見てから、何事もなかったかのように手を引いた。ひとつうなずいて、そのまま建物の中へ入っていってしまう。
 イーツェンはうろたえた視線をウェルナーへ向けた。
「すみません‥‥邪魔して」
「ばぁか。余計な気、回すな」
 陽気な声が戻ってきた。何を言ったらいいか言葉につまっているイーツェンに、立ち上がったウェルナーは歯を見せてニッと笑った。
「エナも眠れねぇんだと。こういうの、いつもつきあうのはヘイルードの方なんだがな。俺じゃ肩がこってしょうがねえ」
 筋肉の盛り上がった肩をこれ見よがしに回した。立ちつくしたままのイーツェンへ歩みより、ウェルナーは遠慮なく彼の肩を叩こうとして、寸前にとめた手で軽く肩先にふれるだけにとどめた。
「何だか知らんが、あんまり思いつめるなよ」
 驚きに目をみはったイーツェンを、人なつっこい笑顔で見おろした。剣呑な雰囲気を持つ男で、そうして上背のあるウェルナーにのぞきこまれると圧迫感があったが、イーツェンはどうにか小さな笑みを返した。
 手を引いて、立ち去るのかと思いきや、ウェルナーはそこに立ってイーツェンをじっと見た。首の輪を見ていると気付いてつい目を伏せそうになるが、イーツェンは上げた顔を平静に保った。恥じるべきことなどないはずだった。
「‥‥それ」
 ウェルナーが慎重に口をひらき、自分の首すじに輪がはまる仕種をしてみせる。
「苦しいだろ?」
「慣れましたから‥‥」
 用心深く答えて、イーツェンはふいにこみあげてきた苛立ちを抑えこんだ。仕方がない。慣れるしかないことだ。だが言葉通り、慣れた自分自身が憎いほどの時もあった。
 ──彼の首にこれをはめた、あの人鎖の鍛冶師はどうしているだろうか。ふとそう思った。すまないと言って、首の輪をきつく閉じた。その声が記憶の底からよみがえって、イーツェンは小さく首を振った。時おりまだこの首から鎖がつながって、あの日のあの場所につなぎとめられている気がする。逃げて逃げて、まだ逃げられない。
「大嫌いだ、こんな輪」
 吐き捨てるように呟いた声は小さかったが、予期した以上に闇にするどくひびいた。自分でたじろいだイーツェンへ、ウェルナーがうなずく。
「似合ってないよ」
「‥‥すみません」
「いいんだ。なあ、今度、エナに話をしてやってくれないか?」
「話? でも‥‥」
 エナは、イーツェンには返事をしない。一度も。
 何をどう話せと言うのか。当惑していると、ウェルナーがぼさぼさと頭を掻いてから、慣れてなさそうな口調でおぼつかなく付け足した。
「あいつはあんなんだし、ちょっとあれなんだが。わりとあれでも女らしいところもあって。つまりだな」
「‥‥‥」
「色々、あってな‥‥昔のことは、聞いたろう」
 毒を使って捕虜などから話を聞き出していた、とシゼがエナを糾弾したことだろう。そう思ってイーツェンはうなずく。ウェルナーもうなずき返して、また頭を掻いた。
「そんなわけで、あいつは時々、眠れない。だからな‥‥ヘイルードに言わせると、エナには、人を助ける必要があるんだそうだ」
 ちらっと天を見上げた、その顔は真摯だった。
「俺が思うに、助けた相手の話なんかもあいつを眠れるようにするかもしれん」
 もごもごと呟くように言った。
 イーツェンはウェルナーの言葉を一度頭の中で整理してみる。完全に言われたことを飲みこめたかどうかは自信がなかったが、うなずいた。肝心の「何を」話せばいいのかはさっぱりわからないままだが、ウェルナーもその答えは持ってなさそうだった。
 だが、エナにも見えない鎖があるのだと、それだけはよくわかった。その鎖は彼女を、どこか彼女にしかわからない深みにつなぎとめている。
「役に立てるかどうかはわからないけど、話してみる」
「すまんな」
「いえ。‥‥ウェルナー」
 呼びかけると、柱廊の間へ歩み入りかかっていた男は半身で振り向いた。イーツェンはかるく頭を下げる。
「ありがとう、助けてくれて。あの日」
 癒し手を探し回っていたイーツェンのことを集落で聞いて、ウェルナーか彼らを追ってきてくれたのだった。エナたちは一歩先に発っていたが、ウェルナーは鍛冶に出していた馬の蹄鉄の仕上がりが遅れて、まだ集落に残っていたらしい。
 右手を上げて、ウェルナーは打ち消すように大きく振った。
「言ったろ。あいつには、人を助ける必要があるんだよ」
 立ち去る姿を見送って、イーツェンは二人のいた石の台に腰をおろすと、涼しい夜気を胸の奥まで吸いこんだ。
 人を助ける必要。エナにとって、人に与える癒しは贖罪なのだろうか。自分を癒し、自分の中にある闇をうずめるための。ゆらぎなく見えるエナの中にも、かかえきれない何かがある。
 さっきのウェルナーの、いかにも言いつけないことを言おうとしていた様子を思い出して、イーツェンはつい微笑した。エナの眠れない夜に黙ってつきあっていたのだろうか。ヘイルードも含めて、彼ら3人の関わりも不思議だった。だがきっと、イーツェンとシゼの関わりも、人から見ればおかしなことに見えるだろう。身分も、国も、育ちも異なる。かつては見張る者と見張られる者であり、枷をかける者とかけられる者だった。
 いつのまにか、随分と遠くまで来た気がした。
 遠くまで来て、この先は見えない。だがいつもそうだった、とイーツェンは思った。いつも先が不安で、足元があやうかった。今は自分の意志で道を選ぶことができる。あの時とはちがう怖さはあるが、それでも、なすすべのないあの無力さよりはいい。ずっといい。
(それに、シゼがいる──)
 足音がして、イーツェンは顔を上げた。柱廊の方へ視線を向けると、うっすらと闇に浮かぶ石の柱の間からシゼがあらわれるのが見えた。
 もしかしたら、部屋を出てきた時からシゼは起きていたのかもしれない。そんな気がした。
「すまない。眠れなくて」
 イーツェンの言葉に小さくうなずき、歩みよったシゼは薄手のシャツをイーツェンに手渡した。上着のかわりに一枚羽織った方がいいと言うことだろう。
「ありがとう」
 礼を言って受け取ると、シゼが微笑のようなものを向けた。踵を返して無言のまま戻っていこうとする彼へ、イーツェンが静かな声をかける。
「一つ、教えてくれるか」
 振り向いたシゼは、無言でイーツェンの言葉を待っていた。イーツェンは渡されたシャツを手でなで、呟くようにたずねる。
「もしかして‥‥はじめから、私とアガインを離す気だったのか? あの雨の日、私をつれて馬車から離れたのは‥‥」
「はじめから、いずれ時を見はからってあなたを逃がそうとは思っていた。あの時、と言うつもりではなかったが」
 シゼはひっそりとした声で答え、イーツェンの方へ一歩戻った。彼の両目は薄い月光をはらんでイーツェンを見ていた。
「‥‥そうか」
 イーツェンは小さな息をついた。
「私に嘘をつかせないためか?」
「あなたがアガインに追いつめられて、死のうと考えたからだ。二度とあんなことは御免だ、イーツェン」
「もうしない。そう言っただろう」
 シゼは頭を振った。
「また追いつめられれば、あなたはまた死を選択肢に入れるはずだ。あなたには、自分の命より大切なものがある。あなたはそういう人だ」
「‥‥‥」
「私には、あなたより大切なものはない」
 溜息のような声だったが、シゼのまなざしは強く、イーツェンは返事ができなかった。一瞬体が痺れたようになって、どうやれば声を出せるのかわからなかった。
 シゼはイーツェンを向いたまま半歩下がって、柱廊のくらがりへ入る。闇から漂うように静かな声がきこえた。
「あなたを必ずリグへつれていく。だから、あなたは‥‥」
 イーツェンは息をつめて待ったが、言葉の先はつづかなかった。肌の内側が汗ばんでいるような、ざわつく熱が消えない。体中がシゼの言葉を待っている。
 シゼは立ちつくすようにしてそこに立ち、彼が何を言おうとしているのか、言おうとしたのか、わからないままにイーツェンはシゼの名を呼ぶ。
「シゼ」
「‥‥あまり外にいると、風邪を引きます。その前に戻ってください」
 あいまいな呟きを残してシゼはイーツェンへ背を向け、ほとんど足音を立てることなく建物の中へと戻っていった。