いつまで続いたのか。まるでわからない。短いようでもあり、ひどく長い時間そうして苦しんでいたようでもあった。
何度目かの、内臓までねじれるような激痛の後、イーツェンの意識は朦朧としていた。ただ、ひどく寒いような気がする。痛みは奇妙に遠かったが、体中に痛みがなじんだだけにも思えた。
汗みどろの頬を、濡れた布が拭っていく。イーツェンは頭を上げようとして、火のような背の痛みに呻いた。
「動かないで」
シゼの声がきこえる。彼の手がうつ伏せのイーツェンの髪をかきあげ、首の輪に気をつけながら首すじを丁寧に拭った。おだやかな手と布の感触に、混濁していた記憶と意識がゆっくりと呼びさまされていく。
つめていた息をそろそろと吐き出し、体の内側に反響しつづける痛みをこらえながら、イーツェンは呟いた。
「シゼ」
「何ですか」
「寒い‥‥」
おかしな話だった。まだ夏で、体は汗でべたついているのに、イーツェンは骨を絞られるような寒さを感じる。シゼの返事は静かだった。
「出血したので寒いんです。大丈夫、もう傷はふさいだ。顔を上げられますか?」
「ん‥‥」
まばたきして、イーツェンは自分がまだ外に寝かされていることに気付いた。テーブルの上ではなく毛布の上だが。あたりには陽がさし、木洩れ陽の傾きからして、もう午後も遅い様子だった。
うつ伏せの頭を軽く動かしてみた。背中の傷が痛むが、少しなら大丈夫だ。シゼが丸めた布をイーツェンの頬の下へ入れて頭を上げさせると、イーツェンの口元に湯の入った椀をあてた。少しずつ飲ませる。
ただの湯ではない。苦みのある何かが入っていて、それを蜂蜜の甘さで覆っている。イーツェンはべたつく口の中を洗うように、数口のそれを飲み干して、シゼを無言で見上げた。
シゼは疲労のにじむ表情をしていたが、イーツェンと目があうと微笑した。
「あなたの言う通りだった、イーツェン。エナは、本物の癒し手だ」
「だろう」
応じた言葉がやたら得意気にひびいてしまい、イーツェンはかえってきまりが悪くなる。その時、ヘイルードの顔がひょいとさかさまにイーツェンをのぞきこんだ。シゼの逆側にいたらしい。じっくりとイーツェンの表情を見回してから、にやりと笑った。
「大丈夫か? もう泣いてないか?」
「なんで‥‥」
「なら、いい。がんばったな」
やさしい声だった。イーツェンはふしぎと胸がつまって、その言葉へ何を言ったらいいかわからない。小さな声でたずねた。
「エナ、は?」
「眠っている。少し疲れてな。ひどく痛むか?」
なら起こしてくる、と言うことだろう。イーツェンはほんのかすか、首を振った。
「大丈夫」
その言葉は強がりではあったが、嘘と言うほどのものではなかった。エナによって切りひらかれたはずの背中にはたしかに苦痛があったが、じっとしていれば痛みはそれなりにおさまってくる。骨までじかにくいこんでくるような、イーツェンに本能的な恐怖を与えるあのするどい痛みとはちがっていた。
ヘイルードはシゼのいる側へ回りこむと、片膝をついてかがんだ。イーツェンの目の前へ手をつき出し、ぱっとひらめかせる。一度はからに見えた手が、一瞬ののちに何か白っぽいものをつかんでいるのを見て、イーツェンは目をしばたたいた。
それは小さな骨のかけらのように見えた。はぎとられたように薄く、両端がとがっている。
「君の背中の中にあった」
ヘイルードが何でもないことのように言う。イーツェンが茫然としたままでいると、
「小さな石のかけらとかもね。でも、これが一番の問題だったらしい。傷の中で、新しい傷をつけていたそうだよ。ちょっと手を動かしてみて。右、左。──じゃあ、右足と左足。少しでいい」
そう言いながら慣れた様子でイーツェンの手足の動きを簡単にたしかめ、次には拳を握らせて開かせると、ヘイルードは「明日には立てるよ」と満足げに口笛を吹きつつどこかへ行ってしまった。
まだ圧倒された気持ちのまま、イーツェンは、とりとめなく目をさまよわせた。あれは、鞭打ちの衝撃で割れたイーツェンの骨の破片なのだろうか。そんなふうに自分の体が砕かれたことも、あんなものが傷の中にうずもれたまま自分の体の中にあったことも、信じられない思いだった。
シゼがイーツェンの体にかかっている毛布を直しながら、低く言った。
「日が暮れる前に、周りに天幕を張ります。今日はここで眠りましょう。まだ寒いですか?」
「さっきよりは、いい」
そう言いながら、もう少し何かしゃべろうとして、イーツェンは顔をしかめた。こめかみからズキンと首のうしろへ痛みがはしる。
「あごが、痛い」
「枝に歯型がついてましたよ」
「ああ‥‥」
枝を口に噛まされていたことを思い出した。そんなに噛んだのかとうんざりして、イーツェンは痛みに凝りかたまった体のあちこちをゆるめようとしながら目をとじた。さっき飲まされた薬のためか、背中の痛みや寒さはじんわりと遠いものになっている。
苦痛には、慣れていた。この2年以上。故郷を去ってユクィルスの城へ来てから、イーツェンはそれまで知らなかった心の痛みと体の痛みを知り、苦しんで、やがて慣れた。
どうしてか、城での日々がひどく遠く思えた。痛みからのがれようとながら、痛みしか心をまぎらわすものがないような暮らしだった。それでもあの暮らしがなければ、シゼと出会うこともレンギと出会うこともなかった。そしてこの痛みがなければ、きっとエナに出会うことはなかった。イーツェンは、それが少しふしぎになる。
痛みは彼の運命を変え、彼を変えた。
(──レンギも、そうだったのだろうか‥‥)
イーツェンはぼんやりと思う。レンギが城ですごした日々も痛みに満ちていただろう。レンギはどうやって、どんなふうに痛みをくぐって、あんなにおだやかにいられたのだろう。それが知りたかった。いつか、イーツェンもあんなふうにおだやかに、痛みを受けとめることができるのだろうか。
レンギと、もっと話をしたかった。日々の何気ないことでもいい。下らない話でも。ただあの低くゆっくりとした声で、自分に語りかけてほしかった。今はもういないとわかっていても、だからこそ、イーツェンは彼の声が聞きたくなる。
痛みにうかされたような体がただ虚しく、苦しい。さまよう思いの中、1年前の夏を思い出していた。シゼと3人でおだやかにすごしたわずかな時間。今はもう、夢のような。痛みとなつかしさが入り混じって、混濁した記憶の中に、熱っぽい意識がぼんやりと溶けていく。
目をとじていたのは一瞬のように思えたが、次に目をあけた時、あたりは塗りこめたような暗闇だった。イーツェンは闇の中でまばたきする。何も見えない。
そう言えば天幕を張ると言っていたか、と鉛がつまったような頭で思い出したのは、数秒たってからだった。
左側にあたたかい気配を感じ、何も考えずに手でたしかめようとする。途端に引き攣れのように背中にはしった痛みに身をこわばらせた。そのままじっとしていると、痛みは脈うちながら少しずつ静まっていく。
ずっとうつ伏せのままの体がいい加減重苦しいが、寝返りどころか、体を横に倒すことも出来ないだろう。そうっと溜息をついた。
「イーツェン?」
シゼの声がきこえ、イーツェンはどうにか左を向いた。どうせ何も見えてこないのだが。
「すまない。起こしたか」
「どこか痛みますか」
シゼの声は心配そうだった。
背中の傷も痛いし、あごも痛いし、暴れる体をおさえつけられたからだろう、肩や足も今になってズキズキとこわばっている。だがシゼは聞きたいのはそんなことではないだろうし、我慢できないほど鋭い痛みではなかった。
「大丈夫」
「そうですか。寒さは?」
たずねながら手をのばして、イーツェンの上にかかっている毛布を神経質なほどにたしかめる。寝返りなど打てないから毛布がずれる筈もないのだがと思うと、イーツェンは少しおかしかった。
「大丈夫だよ。お前も、ここで寝てるのか」
「私と一緒にいるのはもうあきましたか?」
何を言い出したのかと思ってから、やっとシゼが冗談を言っているのに気付いて、イーツェンは小さく笑った。笑うと振動で背中の奥が痛んだが、気分はいい。このところ沈んでいた様子だったシゼが冗談を口にしたのもうれしいし、それに笑える自分自身もうれしかった。
「いや。いつも世話をかける」
「いいんですよ」
呟いて、シゼは元のように横になったようだった。うつ伏せのイーツェンの左手側にシゼの体があるのが、毛布ごしの動きに感じとれる。
天幕がきっちりと彼らを囲んでいるのか、夜は静かだった。シゼの呼吸と自分の呼吸が耳に重なってとどく。イーツェンはしばらく暗闇を眺めていたが、痛む顎をあまり動かさないようにしながらぼそぼそとシゼを呼んだ。
「シゼ」
「はい」
「レンギのことを、考えていた」
その名を聞いても、シゼは何も言わなかった。イーツェンは溜息をつく。
「会いたいよ」
「イーツェン。彼は、死んだ」
どちらもよくわかっていることを呟くシゼの声はしんと低い響きをはらんでいて、イーツェンは、レンギの処刑があった日の夜を思い出していた。闇の中、シゼはひとりでうずくまって、物も言わずに痛みをこらえようとしていた。
「あの人は‥‥城から、逃げ出せなかったんだろうか。そんな方法は、なかったんだろうか」
「レンギには、もう帰るところがなかった」
シゼはぼそっと言って、毛布の中で体の位置をかえた。頬杖をついたようで、声の位置が少し上になる。
「どうして今、そんなことを?」
「‥‥前から知りたかった。レンギが何を思ってたのか。レンギの話を、聞きたかった」
そう呟くように言って、イーツェンはふと言葉をとめた。シゼの中にも痛みがある。イーツェンの手のとどかない痛みが。それにふれていいのかどうかわからず、ためらった。
「聞かれるのは、嫌か‥‥?」
「いえ。でもイーツェン、私も知らないことがたくさんある。レンギはあまり、自分の話をしなかった。それに、彼は‥‥」
珍しくシゼが言いよどんで、イーツェンは迷った。嫌なことを話させたくはないが、今聞かないと、二度とこんなふうに聞けない気がした。少しおいて、なるべくおだやかに言う。
「シゼ。できれば、話してみてくれないか」
「‥‥レンギは、私を憎んでいた」
シゼは平坦な声でそう呟いた。驚いたイーツェンが何も言えずにいると、
「昔のことです。私も、少しの間、彼を憎んでいた。‥‥憎んでいたと言うより、怒っていた。あなたのことがなければ、私たちは二度とあんなふうに顔をあわせることはなかったと、思う」
「どうして‥‥」
「少し長い話だ、イーツェン。あなたが疲れていない時にしませんか」
「話してくれるか?」
耳にきこえる自分の声は不安でかぼそかった。シゼににべもなく断られるのではないかと、イーツェンは半ばあきらめの気持ちをつくる。まだシゼの中に痛みとして残っている事柄に、自分が土足で踏みこもうとしているような気はしたが、それでも知りたかった。シゼに話してほしかった。レンギの痛みを、そしてシゼの痛みを知りたかった。
シゼは何も言わなかった。表情が見えないので、彼がどんなふうにイーツェンの言葉を受けとめたのかがわからない。
イーツェンは後悔しながら黙っていたが、やがて暗闇の向こうで、シゼがゆっくりと呟いた。
「レンギは傷ついて、苦しんでいた。あなたと同じように。ただ、レンギには、オゼルクとのことがあった。‥‥自分をローギスに売り渡したオゼルクを、レンギは時おり、本心から憎んでいたのだと、私は思う」
「‥‥オゼルクは、どうして、そんなことを‥‥?」
小さな声でそうたずねながら、ふいにイーツェンはあのするどい声を思い出す。
(兄は私のものを奪えるだけ奪う。‥‥そして私は、彼が目に留めたものを差し出してやる。何でもな──)
ローギスとの情交の痕を残したイーツェンの体を荒々しく抱いてから、オゼルクはそう笑った。
兄弟の、支配と服従のかけ引き。彼らはそんなふうに、奪い奪われながら育ってきたのかもしれない。ジノンはかつて、12歳のオゼルクの頭をローギスが池の中に押さえつけ、溺れさせる寸前までいったと語った。ジノンの話によるならば、彼らの母はオゼルクだけを溺愛し、ローギスを除こうとした。ローギスはそれに対して激しい手段で抵抗し、オゼルクの命を脅しにかけることで母親に対抗したのだ。
オゼルクを支配することは、ローギスにとって自らの母親を支配することだったのだろうか。オゼルクを通して、己の力を母に示す。
そんな兄の要求に応じ、オゼルクはすべてを差し出してみせた。恋人までも。
それは一面的な服従だったのか。イーツェンの知るオゼルクは、服従を強いる兄のことも、従う己のことも、さめた嘲りの目で見ていたようだった。
シゼが深い溜息をつく。だが、つづいて聞こえてきた声は、思いのほかおだやかなものだった。
「私にはわからない。2人は‥‥ずっと互いに心があったのだと思うが、それと同じくらい、憎しみあったり傷つけあったりしていた。どちらにも、自分をおさえられないようだった。イーツェン、私は‥‥レンギを助けようとした。本当に。だが、どうにもならなかった」
何か言わねばと思ったが、何を言えばいいのかわからず、イーツェンは静かな相槌だけを打った。シゼの声は低い。
「何もできなかっただけでなく、レンギの脚に枷をかけ、時に‥‥命じられて、それを外した。わかるだろう、イーツェン。レンギは私に怒っていた。彼を傷つけ、追いつめるのは私も同じだと。何度も私をなじった」
「それは」
イーツェンはまばたきした。彼の知らない、意外と激しいレンギの顔に驚いてはいたが、その怒りには思い当たるものがあった。イーツェン自身、シゼにはどうしようもないとわかってながら、似たような怒りを向けたことがある。自分の痛みを、鬱屈を、決して反撃してこないとわかっているシゼにぶつけた。一方的に。
「レンギは‥‥お前を怒ってたんじゃない、シゼ。色々な怒りのやり場が、お前しかなかったんだ」
自分のことも重なって、つい弁解がましい口調になる。
「ええ。わかってます、今はね。でもあの時はわからなかった。私はレンギに反発し‥‥レンギはそのうち、誰とも口をきかなくなった。すると、仕返しのようにオゼルクがレンギをまったく無視しはじめた。そんな時、レンギの故国で王族が全員処刑されたという知らせが届いたんです」
イーツェンは一瞬、目をとじた。レンギが残してきたもの、8つの時にユクィルスへつれて来られてからずっと一人で守ってきたものが、すべて滅ぼされ、殺されたのだ。それがすでに追いつめられていたレンギにどれほどの痛みを与えたのか。それを思うだけで息がつまりそうだった。
すべてが、無意味なものに感じられたにちがいない。自分が耐えてきた痛みも、故郷から離れてすごした長い時間も。あらゆるものが。
シゼは少しの間また黙っていたが、低い声でつづけた。
「レンギは何日も一人で泣いていて、私はどうしたらいいのかわからなかった。オゼルクは時おり、レンギに会いに来て‥‥もしかしたら、レンギを助けようとしていたのかもしれない。だが、そのことはどうしてか、ますますレンギを傷つけたようだった。私がレンギと寝たのは、その時です」
最後の言葉をやけに早口に言って、イーツェンの反応をうかがうように間をおいた。
いきなりドンと心臓を叩かれたようだったが、イーツェンは口の中であいまいな相槌をつぶやく。それから、相槌だけでは悪いような気がして、つけくわえた。
「そんなに‥‥まずいことだとは思わないよ、シゼ」
その言葉がいかにもとってつけたように響いた気がして、またつけくわえる。
「私にはレンギの気持ちがわかる。私も、お前にすがろうとした」
痛みとは別の何かで──あるいは別の痛みでまぎらわせようとして、ただ目の前にいるシゼにすがりつこうとした。今、こうして口に出すとひどくきまり悪かったが、あの時のイーツェンはイーツェンなりに必死だった。
「ああ‥‥」
シゼがやけにしんとした声で呟いた。やや長すぎる沈黙をおいて、
「成程」
淡々と納得している物言いに、イーツェンは恥ずかしいようないたたまれないような熱さが顔にのぼってくるのを感じる。何が「成程」だ、と聞き返していいものかどうか煮えきらずに逡巡しているうちに、シゼが言葉を継いだ。
「私はその時、ひどい勘違いをした、イーツェン。レンギが‥‥私をたよって、私を求めたのだと。何でああ思えたのかはわからないが。だがレンギは、オゼルクを傷つけるために私と寝ただけだった。彼は、それほど自暴自棄になっていた」
「シゼ──」
「レンギとオゼルクは、そのことでひどく言い争った‥‥オゼルクは今にもレンギを殺しそうな剣幕だった。私は──レンギに対して怒っていた。レンギがなぜあんなことをしたのかも、彼がどれほど傷ついていたかも、わかろうとしなかった。‥‥馬鹿だった」
シゼは溜息をついた。
「レンギが塔からとびおりたのは、その後だ。それで私はレンギと離された。話をしたこともなかった、あの日まで」
「‥‥‥」
イーツェンは重い目をとじる。あの城で感じた荒々しい痛みを思い出していた。傷つき、時に傷つけながら──レンギはそんなふうにしか痛みをくぐりぬけてこられなかったのだろう。痛みを痛みで覆うしかない、そんな時がある。イーツェンはそれを知っていた。そのために次の痛みを求め、己を傷つける。イーツェン自身、見た闇だ。
あの日。シゼは弱ったイーツェンをつれて、レンギのいる扉を叩いた。あれはシゼにとって切羽つまった決断だったのだろう。それをレンギも知っていた。だから問い返すことなくイーツェンを、そしてシゼを受け入れた。彼らの間にはまだ絆があったのだ。
年月を経て、レンギはあんなふうにおだやかにイーツェンを受けとめてくれた。そのことがイーツェンの胸を深くしめつける。どれほどの間、レンギは自分の中の闇をのぞいてきたのだろう。
長い沈黙がおちた。シゼの言葉は尽きたようだった。シゼにふれたいと思ったが、腕を少し持ち上げようとしただけで背中に痛みがはしって、イーツェンはシゼを呼んだ。
「シゼ。‥‥手を握ってもらっていいか?」
「はい?」
唐突だったか、少々面くらった答えを返したが、聞きちがいでないとわかるとシゼは左手をのばしてイーツェンの毛布の下をさぐり、彼の左手をつつむように握ってくれた。少し汗ばんだ指に指をしっかりとからめて握り返し、イーツェンは呟く。
「ありがとう。話してくれて」
シゼの手は汗ばんでいるのに、少し冷たい。これだけのことを話すのに、心が痛みを思い出さないわけがなかった。それでもイーツェンを信頼して話した。それは重く、心地良い重みだった。
シゼがそっと言う。
「‥‥私もあなたに礼を言いたかった、イーツェン」
「うん?」
「あなたのおかげで、レンギにまた会えた」
シゼの親指がイーツェンの手の甲をなでた。
「すまないことをしたと、そうつたえた。彼を‥‥もう、怒ってはいないと」
「よかった」
心の底から、イーツェンはそう言って、微笑した。意図せずとは言え、彼らをもう一度結びつけることができたのなら、あの日の痛みも思ったほど悪いものではない。
あの城での日々、イーツェンは自分の痛みで周囲が見えず、レンギの痛みにも、シゼの痛みにも気付かなかった。だが痛みをかかえていたのも、傷ついていたのも、彼ひとりではないのだった。
(そして、レンギやシゼたちだけでもない──)
「もう、休んで」
シゼが低く、そう囁く。イーツェンは目をとじた。話している間は意識の外に押し出されていた気怠い疲れが、体中に重くひろがっていく。腕から力が抜け、シゼの手に手を預けたまま、長い溜息をついた。
体の至るところに凝る痛みがぼんやりとつながりあって、ただ全身がズキズキと痛む。世界は痛みに満ちて、だがそのことは、前のようにはイーツェンを絶望させなかった。痛みの向こうに、シゼの手からつたわるおだやかなぬくもりを感じながら、彼は眠りに沈んでいった。