大丈夫かとシゼは一言聞いて、イーツェンが無言でうなずくと、それ以上何も言わなかった。
かわりに手をのばし、イーツェンの手を握って、しっかりとした感触をつたえてくる。心臓が喉元までせり上がるような緊張がわずかにゆるんで、イーツェンは小さく微笑した。
エナにすべてをまかせると言った時にも、シゼはほとんど何も言わなかった。イーツェンが本当に自分の意志で決めているのかどうか──痛みや混乱に惑わされてはいないと、それだけを短い会話でたしかめた。
シゼの手を握り返し、イーツェンは夏の陽光を含んだ空気をゆっくりと吸いこんだ。2人が座る正面扉のあたりは建物の影になっているが、ヘイルードやウェルナーが動き回っている前庭にはまばゆい陽がさして空気は熱をはらみ、そうして影にいても肌が汗ばむのを感じた。
それは、前庭に据えられた蒸留釜と、その下で燃える炎のせいかもしれない。蒸留釜は蓋が外されて、中で煮える湯からはもうもうとした湯気がたちのぼり、夏の空気をゆらがせていた。
エナは布や糸束、さらにはイーツェンが見たことのないような繊細で小さなつくりの刃物などを、湯の中にぽいぽいと放りこんで煮ていた。今日の彼女は、作業用の白っぽい質素なローブをまとっている。白っぽいと言ってもローブには様々な汚れの痕とたび重なる漂白の痕が残っている上、その一部は赤黒く、どうしてもイーツェンは一つ一つの染みの原因に勝手な想像をめぐらせてしまう。
(──彼女を信じろ)
と、自分に言いきかせた。エナはただの薬師ではない、本物の癒し手だ。はじめて出会った時、服ごしにイーツェンの背にふれただけで、彼女はその奥に凝る痛みを見つけ出した。
その手になら、自分の決断と命を預けられる。エナ以外の誰かではなく、エナがここにいることこそが幸運なのだと、イーツェンはわかっていた。だが、それでも怖い。
エナが、木をくりぬいた丸椀を持ってイーツェンへ歩みよってきた。流れるような動作で片膝をつき、イーツェンへ丸椀をさし出す。
受けとった杯の中にはどろりとした茶褐色の液体が溜まっていた。土くさい、それでいてするどく舌と喉を刺す味を我慢して飲み下すと、イーツェンはチリチリとした苦味が胃から息になって上がってくるのをこらえた。腹の内側がどんよりと熱くなる。
ケシの実やヒヨスを中心にした、半ば毒にも近いものにエナがイーツェンにあわせて調合をくわえた薬だ。痛みを抑えるためのものだが、体に負担がかかるので、あまり強い薬を飲ませるわけにはいかないと言う。多少でも効力を強めるため、イーツェンは昨日の昼から何も食べていなかった。
そのまま座っていると、視界が明るくなって少しぼやけてきた。指先の感覚がゆるんでいく。
エナがイーツェンの横に座り、彼の背に華奢な手をあてた。じんわりと、服ごしに沁みいってくるやわらかで湿った感覚に、イーツェンはもう抵抗しなかった。
まるで体の内側をぬるま湯が通っていくようだった。感じたことのない違和感に肌がざわつくが、慣れてしまえば不快な感覚ではない。エナと呼吸がひとつに重なっていくのを感じながら、イーツェンも自分の体の中にひそむ何かを探ろうとする。だが当然、エナのようにはうまくいかなかった。
エナは、人の体の中にある「流れ」を感じとることができるのだという。それが呪術なのか、それとも癒し手として熟練をつんだがゆえの技なのか、イーツェンにはわからない。もしかしたら、そのどちらもであるのかもしれなかった。
イーツェンの背中では、本来あるべき「流れ」が無秩序に絡みあい、よどみ、固まっている。癒えるべきものが癒えていない。その原因は傷の内側にある、それがエナの診立てだった。
だがその原因を取り除くことができるかどうか、エナにもその時になってみないとわからないのだと、ヘイルードは説明した。つまり、傷を切りひらいて内側をその目で見なければわからないことなのだ。
これは賭けだった。
悪化する可能性もあった。それでも今のままでは回復はのぞめず、そしてその痛みは、いつかイーツェンを殺すかもしれないほど深いものだった。
エナに賭けを託すことには迷わなかったが、傷を開くことは思っただけでも恐ろしい。怯えが肌をざわつかせ、冷たい汗が体を湿らせる。
イーツェンは、準備に動くヘイルードたちを見ながら、身を小さくすくめた。
「うまくいく」
ふいにシゼがぼそりと言う。イーツェンは横を見て、シゼの目が自分をまっすぐ見ているのに気付いた。銅色の瞳を見つめ、しだいに感覚のにぶってきた唇で微笑する。
もしシゼがいなければ、きっとエナのことを信頼する気持ちにはなれなかっただろう。シゼはイーツェンに、信頼の大切さとその意味を教えた。己の判断を信じ、人を信じること。表にあらわれる物事ではなく、その奥にある人の心を信じることを。
ふたたび目の前に歩みよってきたエナを見上げた。いつものように表情を殺した顔で、エナはイーツェンの思いをうかがうように注意深い目をしている。彼女へ一つうなずいて、イーツェンはそっと言った。
「ありがとう。助けてくれて」
「‥‥‥」
エナは少し目をほそめて、何か言いたげに見えた。まだ無事に終わるかもわからないうちから、何を言っているのかと思ったのかもしれない。イーツェンはシゼの手を借り、痛みつづける背中に負担をかけないように立ち上がった。
エナの仕種に導かれるまま、明るい木陰に据えられた大テーブルへ歩みよる。食堂で埃をかぶっていたテーブルをシゼも含めた男3人が担ぎ出してきたもので、重い樫で作られた無骨なテーブルだった。
そばに立ってシャツのボタンを外そうとしたが、指先の痺れのせいでうまくいかない。シゼが手をのばしてボタンを外し、イーツェンのシャツを上に引っぱりあげて脱がせた。その顔は真剣で、彼が緊張しているのがよくわかる。いや、シゼだけではない。エナの横で何かあれば手伝いをしようと構えているヘイルードも、湯気をたてる大釜の横に立つウェルナーも、皆の目が厳しかった。
ズボンも取り、下帯ひとつになって、イーツェンはテーブルの上に腹ばいになる。テーブルの木はごわついていた。頬をあてると古い木の、大地にも似た香りが息とともに体へしみこむようだった。
首の輪が喉にくいこまないよう顔の位置を直すと、かすれた声で言った。
「たのむ」
ヘイルードの手がイーツェンの足首をそろえ、足同士がきつくあたらないようにそれぞれに布を回してから、一つに縛り上げる。布のはじはテーブルの脚にしっかりと結ばれる筈だった。
その間、エナの手がイーツェンの背をやわらかな布で幾度も拭った。傷の一つ一つ、その形や深さをはかるように、彼女の指先が丁寧に背をなぞる。つたわってくる感触は、にぶいものになっていた。さっき呑んだ薬が大分回ってきているのだろう。
シゼはイーツェンの頭側に回って、上にのばしたイーツェンの腕を両手首でまとめてつかんだ。軽く力をこめてテーブルに押しつけ、保定をためしながらたずねる。
「痛くないですか」
「大丈夫。それに、痛くてもいい。気にするな」
舌がうまく回らなくなっていた。もごもごとイーツェンは言い、何か軽口でも叩いてシゼの気をまぎらわせたいと思ったが、もう頭が回らなかった。シゼの手が外れてもだらりと両腕をのばしたまま、重くなってきた肺に息を吸いこもうとする。呼吸がしづらくなっても慌てないようにと注意は受けていたが、吸いごむ空気はまるで水のようだった。
シゼがイーツェンの頭を支え、頬の下にたたんだ布を入れてくれる。その手と入れかわるように、エナが大きめのさじをイーツェンの鼻先によせた。
真鍮のさじは火で熱せられていて、内側に黒っぽい煤のようなものがこびりついている。その煤から漂い出す煙を吸いこむと、イーツェンは世界が回りはじめるのを感じた。台も、地面も、すべてから自分がどこかへすべり落ちていく。
何だか体がぐにゃぐにゃして気持ち悪い。シゼの声が耳元で囁いた。
「口をあけて」
言われるようにしていると、ふいに今度は得体のしれない浮遊感につつまれた。浮き上がる感覚に吸いこまれ、意識が砕かれるように遠ざかっていく。歯の間に木の枝をくわえさせられながら、イーツェンは目をとじた。
次の瞬間、激痛に意識が引きもどされ、身がそり返った。いや、体はがっちりとテーブルに抑えつけられて動くことができない。
痛みはするどいもので、まっすぐにイーツェンの内側へ入りこみ、血が逆流したように目の前が真っ赤に染まった。痛む喉が、声にならない悲鳴にこわばる。
くわえた枝を歯がくいこむほど噛みしめた。顎からこめかみへ痛みの渦が抜けたが、ささいな痛みは逆に救いだった。背中の痛みからどうにか意識をそらそうとする。
だが痛みはくりかえすごとに深くなって、まるで背全体が大きく深く切りひらかれているようだった。エナの刃がそんな大きさをしているわけはないが、何がおこなわれているかを知るすべなどない。背中から脇腹へつたい落ちる血の生あたたかさが恐怖をかきたて、イーツェンは全身を引き攣らせた。
何か、声のようなものが聞こえた。聞いたことのない、男のものとも女のものともつかない声。
イーツェンの腕を抑えていたシゼの手がゆるみ、かわりに別の手がイーツェンの肩をテーブルへ抑えつける。その圧力と薬のもたらす痺れ、痛みと恐慌とで、イーツェンは息ができなくなっていた。首の輪が喉にくいこみ、目に何かがしみて視界がにごる。血ではなく汗だろう、そうはわかっていても何も見えなくなると、全身が震え出してとめられなかった。
誰かの手がイーツェンの手をつかんだ。イーツェンは苦痛の呻きを洩らしながら、のばした指ですがりつき、爪がくいこむほどただ握りしめる。その手はしっかりと彼の手を握り返してきた。
シゼだ、と思う。シゼの手だ、これは。ごわつく剣だこや固い手のひら、節のしっかりした指。感覚がにぶっていてもわかる。揺るぎなく、イーツェンの手を握りしめて離さない力。
イーツェンはただシゼの手の感触に意識を集中させ、意識と呼吸の平衡をたもとうとした。
彼らは二人で、数えきれないほどの痛みを乗りこえてきた。ならば、この痛みを乗りこえられないわけがなかった。