水で絞った布で額を拭っていると、シゼのまぶたが引きつれのように動いた。イーツェンは手をとめてじっと見つめる。
 数度睫毛が揺れ、ゆっくりと開いた銅色の目は、どこかまぶしそうにイーツェンを見上げてまたたいた。
 何か言おうとする。イーツェンは一つ首を振って、丁寧な手でシゼの額から頬、首筋までを拭いおえてから、水筒に手をのばした。細い吸い口をシゼの口元に当てて、様子を見ながら少しずつ水を飲ませてやる。シゼの喉が飢えたように動いて、音をたてた。
 水を飲み終えると、シゼは大きな溜息をついて目をつぶった。イーツェンは横に座ってその様子を見守る。シゼは頬の不自然な赤みもとれ、一方で白っぽかった唇も乾いてはいるが自然な色に戻っていた。せわしなかった呼吸の音も、今は平坦に落ちついている。
 また眠ったのだろうと思って目をそらした時、シゼが少ししゃがれた声で呟いた。
「ここは?」
「ルルーシュの捨て寺院。大丈夫、安全だ。気分はどうだ?」
「‥‥すみません。あなたに迷惑をかけた」
「心配したよ」
 おだやかに言うと、イーツェンはシゼの髪をなでた。
「やっと起きたな。寝すぎだ、お前」
 とってつけたような軽口に、シゼの口元に小さな笑いのしわが刻まれた。だがまだどこかぼんやりと、彼の返事はとりとめがない。
「夢を、見た。イーツェン」
「うん」
 それが悪夢だったのを、イーツェンは知っている。シゼはしばらくおいてから、うつろな声でつぶやいた。
「‥‥あなたが死んだと言われた時‥‥あの時、罰だと、思った」
「罰?」
 反射的にそうたずねたが、まぶたが落ちたシゼはふたたびの眠りに沈みかかっていた。イーツェンはシゼの頬を撫でる。今度はきっと安らかな眠りだろう。そうであってほしかった。


 シゼが目覚めたことをつたえに、イーツェンは建物の外へ出た。
 昼下がりの空は白っぽく曇って、暑さはさほどでもない。だが動くとじんわりと肌に汗がにじんだ。
 表門の前に、大きな鳥のような銅製の釜がうずくまっていた。腹の大きくふくらんだ釜から、鶴の首のような細い管が流線を描いて優美にのびている、その様が鳥を思わせるのだ。管の先は丸い蓋をしたずんどうの鍋のようなものにつながっていて、鍋は水を満たした桶に浸かっていた。鍋の下部からは、短い注ぎ口がつきだしている。
 ウェルナーがあたりを忙しく行き交いながら釜の脇に薪をつみあげ、釜の周囲で火を炊く準備をしていた。まばらな木々の間では、放し飼いにされたヤギがあっちこっちと気まぐれに草をはんでいる。釜から少し離れて、エナとヘイルードがしゃがみこんでいた。
 イーツェンが近づいても、エナは顔もあげなかった。手にした棒で地面に何やら書いて説明している様子だ。説明されている相手のヘイルードが、立ち上がってにっこりした。
「彼、起きたんだな?」
「そうです」
 何でわかったのかとまたたくイーツェンに、ヘイルードはいたずらな目を投げる。それなりの年齢のはずなのに、ふしぎなほど仕種の子供っぽい男だった。
「笑ってるから、さ」
「‥‥‥」
 そんなにあからさまな表情をしていたかときまりの悪い笑みを返して、イーツェンはエナへ声をかけた。
「ありがとうございました」
 エナは小さくうなずくが、顔を上げようとしない。イーツェンの言葉をうるさがっているようにすら見えるが、エナはいつもそうなのでイーツェンは気にしないことにしていた。相変わらずイーツェンには口をきかないし、どういう人物なのかは謎のままだが、この二日間で彼はエナに深い信頼をおくようになっていた。
 エナがシゼを診る手際はよく、深い思いやりに満ちていた。表立っての優しい手や、表情ではない。だが彼女のまなざしはつねにシゼの様子を注意深くとらえ、はじめのうちは昼となく夜となくシゼの様子を見に立ち寄っては、細心の注意を払ってシゼにあらわれる変化を感じとろうとしていた。
 熱をさます薬、体によどむ毒を出す薬、体力がもつように濃く溶いた蜜などを与え、汗を拭い、水を与える。
 エナが肩から下げていた皮の袋は、筒状に皮を丸めたもので、ひろげた内側には細かな仕切りの布が縫いつけられ、細かく分類されたそれぞれのポケットに薬や道具がつまっていた。イーツェンの見たこともない青黒い色の練り薬などもあり、おそるおそる何からつくった薬なのかたずねると、その薬をシゼに与えるエナの向こうでヘイルードが「鉱石だよ」と応じた。どうやら彼女は、砕いた石まで使うらしい。それはイーツェンにとって驚きだった。
 何者であるにせよ、エナが癒し手であることにまちがいはない。イーツェンにはその確信が何より大事なよりどころだった。
「蒸留するんですか」
 何となく話の接ぎ穂を口にして、イーツェンは銅製の蒸留釜へ目を向ける。3人が荷馬にのせて運んでいた大きな荷は、この蒸留釜だったのだ。分解して持ち運ぶように作られた小型のもので、イーツェンはこれまでそんなものを見たことがない。彼が知っているのは、リグで使ったことのある重くて大きな蒸留釜だけだった。
 蒸留することによって、草木の薬効を凝縮させることができる。エナは自ら野を歩き、己の用途にかなう薬草を集めては蒸留しているらしい。高く売れるものもあるのだと、ヘイルードは冗談でもなさそうに口にしていた。
「うん」
 ヘイルードが大きくのびをした。ウェルナーが薪を集める一方、エナとともに歩き回って蒐集作業をするのはヘイルードの役目で、毎日汚れた格好をしているが、いつでも陽気だ。
 一瞬迷って、イーツェンはエナを見た。エナのそばには布を蓋のようにかぶせた籠があって、その中には蒸留にかける草葉がつまっているのだろう。そちらをにらむように、エナは何事か考える顔をしていた。
 どこかオゼルクを思い起こさせる顔立ちにも随分と慣れたし、もう普段はさして似ているとも思わないのだが、そうして眉をしかめて一点を見る表情はオゼルクの冷徹なまなざしとよく似ていた。反射的に、イーツェンの言葉は喉元でつまるように消える。
 ──まだ怖いのだろうか。
 ゆっくりと、彼は右の指を拳に握った。まだ怖がっているのだろうか。影一つにすら怯えるように。
 息を糸のように吐き出して、体の力を抜いてから、彼はあらためてエナに声をかけた。
「エナ」
「‥‥‥」
 細い顎を上げるように顔を上向きにし、エナはイーツェンを見上げた。彼らはイーツェンの首にはめられた奴隷の輪のことをどう思っているのか、普通の客人として対等に扱っていた。
 イーツェンの言葉を待って、うながすようにエナの睫毛がまたたく。
「手がすいたら、‥‥もし、よろしければ、私の背中を診てはいただけませんか? その‥‥痛みが少しでも引くように、何か‥‥できれば」
 歯切れ悪く途切れる言葉を重ねるイーツェンを、エナはじっと見つめていた。
 一度、エナに診てもらうようヘイルードからすすめられたこともあるのだが、その時のイーツェンはシゼのことで切羽つまっていたし、まだどこか彼らが薄気味悪くもあったので、断っていた。誰ともはっきりしない相手に背中を見せて、ふれられる。そのことを思っただけでも怖気がはしった。
 彼の行動の重石となり、枷となる。この傷と痛みをイーツェンは心底嫌悪していたが、同時にひどく恐れてもいた。二度と治癒しないのではないかと。
 ──エナはどう判断するだろう。
 その判断をあおぐのがおそろしい。それでも、聞かねばならなかった。もし治らないのなら、この傷を負ったまま生きて、生きのびていかなければならない。イーツェンが自分の面倒を見られなければ、シゼの苦労が増えるだけだ。そしてまたいつか、シゼはイーツェンのために無理をするだろう。
 エナは表情の読めない青い目でイーツェンを見上げていたが、うなずいて顔を戻した。イーツェンはほっと息をつき、2人に頭を下げてから、シゼの食事を用意するために軽い足取りで建物の中へと戻った。


 今度の眠りは短かった。
 目をさましたシゼへ、イーツェンはエナから──ヘイルードを通じて──指示されていたように、煮てやわらかく戻した干し肉を少しと、同じようにやわらかくした干しあんずを食べさせる。そうしながら、シゼが問うままに成りゆきを語った。
「申し訳ない」
 シゼはしきりにそうあやまる。イーツェンがいたたまれなくなるほど、その謝罪は真摯だった。熱で意識を失ってしまったことをひどく悔いている様子で、時おり自分自身への苛立ちも見せた。
 イーツェンは何とか明るい方に話をもっていこうとしたのだが、その試みはことごとく失敗し、何度目かにシゼが「申し訳ない」と言った時、ついに彼はシゼに指をつきつけた。
「二度と言うな、シゼ。お前があやまる必要なんかどこにもない」
「イーツェン」
「やめないと、次にお前が一度あやまるたびに、私は二回あやまるぞ。私が一体何回お前に迷惑をかけたと思っている。一つ一つあやまろうか? あやまってほしいか?」
 何故イーツェンがこうまで怒った口調なのか、シゼはわからない様子で一瞬うろたえてから、首を振った。
「ですが──」
 イーツェンはあぐらで座っているシゼの膝をかるく叩いて黙らせてから、微笑した。
「お前が治ってきて、私はうれしい。本当だ、シゼ。だから今は、とにかくよくなることだけ考えてくれ。たのむから」
「‥‥‥」
 まばたきもせずイーツェンを見つめるシゼの目の中に、ふっと何かが動いた。それが何なのか見きわめようと、イーツェンは無意識のうちに身をのり出す。そうして間近にしたシゼの表情のひとつひとつ、彼の見せる変化のひとつひとつに、なつかしいような胸苦しさがわき上がってくるのを感じた。
 シゼに怒った口をききながら、うっかりと何もかもを楽しんでしまいそうな自分を、イーツェンは少しもてあましていた。話しかけて返事がある、シゼの声や表情が彼に答える、そんなささいなことが心を高揚させて、ひどくはしゃいでしまいそうになる。
 ──自分がこれほど子供だったとは。
 王を裏切った母の子として、負い目と感謝をかかえて生きてきたイーツェンは、一歩控えて自分の意志を抑えることに慣れていた。慣れていたはずだった。それが、久々に見るシゼの何気ない仕種ひとつに、心がざわついてどうしようもない。
 シゼの目はゆっくりとイーツェンの動きを追っていた。引き寄せられるように彼の頬にかるく唇をあててから、イーツェンは体を戻して、微笑した。
「あやまってほしいなんて思ったことはない、シゼ。‥‥あ、でも、ひとつ」
「何ですか?」
 手をのばしてふれたシゼの額は、まだ少し熱を含んでいる。それでも高熱にうかされていた時の灼けるような熱さではなく、おだやかなものだった。
「もう、無理をするな。いつから具合が悪かった?」
「‥‥‥」
「エナは、何日も前からだろうと言っていた。すまない、シゼ。気付かなかった」
「‥‥昔」
 そう低い声で言って、シゼは目を伏せた。イーツェンは床に膝で座り直して、シゼがつづけるのを待つ。シゼはひどく言いづらそうだったが、視線を落としたままつぶやいた。
「昔、アンセラに行った時‥‥病を得て、何日か高熱を出しました。薬師が言うには、山の病が体に入ったのだろうと。いつかまた同じことがおきるかもしれないと」
「ああ、成程」
 イーツェンはうなずく。土地によって色々な病があり、時にそれが慣れぬ他所者や旅人を苦しめるのは知っていた。
 シゼは顔を上げてイーツェンの反応を見ていたが、ぼそっと言った。
「私がアンセラへ行ったことを知っていたんですか?」
「セクイドに聞いた」
「すみません」
「何がだ?」
「私は、アンセラで戦って人を殺した。もし病になって戻されなければ、リグへも兵として入るはずだった」
「お前が悪いんじゃない、シゼ」
 シゼは小さな吐息をついて、寝ている間に凝りかたまったらしい首の筋肉を指の腹で押し揉んだ。イーツェンへぼそりと言う。
「剣を取ってくれませんか」
 うなずくと、イーツェンは自分の寝床──と言っても毛布一枚だが──のかたわらに寝かせてあるシゼの剣をつかんだ。ずしりと手に重いそれを手渡す。
 シゼは膝の上に剣を置き、使いこまれた皮鞘をじっと見つめていた。疲労か、それとも違う何かからか、シゼの首はかすかにうなだれ、まるで肩で重い荷を負っているかのようだった。イーツェンは手をのばして彼にふれたいと思ったが、シゼを包む沈鬱な空気はあまりにも重かった。
「私はアンセラで人を斬った、イーツェン。私は‥‥ユクィルスのために、大勢斬った。何かを感じたことなどほとんどなかった」
「生きていくためだろう、シゼ。‥‥私は、責めたりしない」
 シゼは小さく笑ったが、まなざしは苦かった。
「あなたは、いつでもそうだ。私が城であなたに枷をかけていたことも、彼らの手先となっていたことも、責めたりしなかった」
 その声の暗いひびきに、イーツェンは心臓をわしづかみにされたような気がする。シゼの声の中にあるのは感謝でも安堵でもなく、まるで永劫につづいていく深い苦しみのようだった。イーツェンが許そうとすることも、彼にとっては重荷でしかないのだろうか。
「‥‥シゼ‥‥」
 イーツェンは震えないよう声を押さえつけた。あの城で彼らはともに苦しみ、傷付いた。シゼを責めることなどできるわけがなかった。
「なら、私は、どうすればいい」
「‥‥‥」
 シゼはふっと我に返ったようにまばたきして、イーツェンを見つめ、首を振った。左腕をのばす。イーツェンの肩に腕を回すと、彼が驚くほど強引な力で引き寄せた。
 背によどむ痛みを気取られないように、イーツェンはそっと体のねじれを直す。シゼの手のひらが肩にふれて、ゆっくりと体の横をすべった。
「何も。‥‥あなたは悪くない、イーツェン」
「‥‥お前も悪くなどないだろう」
 シゼの背中に右腕を回して、イーツェンは囁いた。シゼの体はまだ熱っぽい。シゼの声にある曇りも痛みも、熱のせいだ。そう思いたかった。
「そうですか? 本当に──」
 ふいにシゼは言葉を切り、イーツェンの肩を左腕で抱いたまま、膝の上の剣の柄を右手でつかんだ。一瞬の動きのするどさに驚いたイーツェンはシゼの顔を見、その視線を追って戸口へ顔を回す。
 エナとヘイルードの姿を見て、ほっと息をついた。シゼの様子を見にきてくれたのだろう。
「大丈夫だ、シゼ。彼女がエナだ」
 空気の入れ替えのために扉口は開け放してある。二人はそこからそれ以上入ってこようとはしなかった。
 イーツェンはヘイルードの肩が下がり、その右手が腰の短剣にかかっているのに気がつく。シゼが見せた反応のせいだろう。あわてて立ち上がろうとしたが、シゼの左腕がイーツェンの肩にかかったままそれを許さなかった。耳元にきこえるシゼの声はひやりと厳しい。
「彼女が?」
「シゼ、この人たちは大丈夫だ」
「あなたはだまされている、イーツェン」
 エナもヘイルードも扉口に立ったまま、シゼのけわしい言葉に表情を動かさなかった。いや、そもそも彼らの顔には表情らしい表情がない──拭ったように、感情を見せず、こちらへ視線を据えている。
 ふいに喉がからからに乾くのを感じた。イーツェンは狼狽する気持ちを隠して、どうにか事態を把握しようとしながらシゼと二人の顔を見比べた。シゼがまた熱の名残りで何かを口走っているのかと思いもしたが、疲労の痕を濃くきざんでいるものの、シゼは至って平静に見えた。
 イーツェンの肩をつかんだ手に一瞬力をこめ、自分のそばを離れないよう無言でつたえてから、シゼは左手をそろそろと剣の柄に動かす。一瞬で刃を抜けるように。それに対し、ヘイルードがさらに露骨なかまえで警告するのを見ながら、イーツェンは上ずりそうな声をおさえた。
「どういうことだ。説明しろ、シゼ」
「この女はユクィルスの王族です」
 口をあけ、何か言いかかって、イーツェンはまたとじた。エナの姿を見る。強い意志を見せる鼻すじ、薄いくちびる、頬にかけて少し削いだようなするどい線をつくる高い頬骨。一度はイーツェン自身、彼女をオゼルクと見間違えた。ただのそら似だと自分に言いきかせながら、あきらかにエナの姿にユクィルスの王族たちと同じ面影が見えるのを、イーツェンも薄々わかってはいた。
 エナはかすかに右の眉を上げた。相変わらず何も言わない。イーツェンは誰も刺激しないよう、用心深く声をおさえて口をひらいた。
「剣に手をかけるな、シゼ」
「ですが、イーツェン」
「お前が何と言おうと彼らは私たちの恩人だ。ゆえもなく刃を向けることはゆるされない。大体、病み上がりの身で剣を振り回してどうする?」
 そう言いながら、イーツェンはじっとヘイルードに視線を向け、短剣から手を離してくれるよう目でうったえた。シゼがゆっくりとした動きで剣の柄から手を離すのに呼応して、ヘイルードの肩から力が抜ける。
 緊張のせいか、イーツェンの背中の奥で嫌な痛みが動いた。だがとにかく、ここで感情的な混乱だけはさけなければならない。早まりそうな息を殺して、イーツェンは必死に考えをめぐらせた。
 シゼが抑えた動きで立ち上がり、イーツェンを立たせる。
「行こう、イーツェン。ここにはいられない」
「お前はまだ──」
「この女は信用できない」
 何かを押さえつけているような声だった。
「イーツェン、私はアンセラで彼女を見た。戦いに同道していた」
「薬師だからだろう──」
「彼女は」
 シゼは押し出すように言葉をつづける。
「毒の使い手だ、イーツェン。捕虜に毒を強いて弱らせ、時に痛みを与え、秘密をしゃべらせるのが役目だった。誰かを癒すためについてきていたのではない」
 ぞっと全身から血が引き、肌がこわばる。イーツェンは呆然としてシゼを振り向いた。
「馬鹿な」
「本当だよ」
 それはヘイルードの声で、イーツェンが顔を向けるとヘイルードの顔からはいつもの陽気さが消えていた。いつのまにか彼ら二人のうしろにウェルナーまでもが控えて扉口をふさいでいるのを見て、イーツェンは追いつめられた圧迫感に息ぐるしくなる。助け手であった三人が、まるで狐を囲い込んだ狩人に変貌したかのようだった。
 救いを求めるように横合いのシゼを見たが、シゼは厳しい目で三人をにらんで身じろぎもしない。病み上がりの身に残る体力をひたすら溜めて、その一瞬にそなえているのだろう、額に汗がにじむのが見えた。
「君に毒を盛ることなどたやすいことだった、そうは思わないかシゼ?」
 ヘイルードは少しだけいつもの陽気さを取り戻して、そう肩をすくめてみせる。シゼは応じないまま、するどい表情は動かなかった。
 空気は緊張をはらんで水のように重く、イーツェンの全身に冷たい汗がにじむ。
「イーツェン。行こう」
 シゼの手がうしろからイーツェンの右腕をつかんだ。その手にはくいこむような、痛いほどの力がこめられている。
 イーツェンは一瞬ためらってから、エナへと顔を向けた。
「昔のことはわかった。今のあなたは何者だ、エナ?」
「イーツェン──」
「シゼ」
 苛立たしそうな声に振り向いて、シゼを見つめる。病の残る体の苦しさをこらえて隠そうとしている、シゼのひたむきな表情に胸がつまった。それほどまでに弱り、イーツェンを守ろうと一心に思いつめていなければ、シゼにもわかるはずだ。わかったはずだ。
「私もお前も、今の自分とはちがう役割を演じていた。己の望みではないままに。そうだろう?」
「‥‥‥」
「少しだけ、待ってくれ。3日も寝てたんだ、もうちょっと待てるだろう」
 精一杯の軽口にシゼの口元が苦笑の形にまがり、背後からも笑いを洩らす息が聞こえてきた。ヘイルードかウェルナーか。とにかくその笑いの気配は、はりつめていたイーツェンの神経をほんのかすか、やわらげる。
 だが体の芯に冷たく凝った痛みはゆるまなかった。背中の中心、骨の随のような奥底に重苦しい痛みが揺れている。それは深く浸透していくような嫌な痛みで、イーツェンは痛みの増大につれて動悸が喉元まであがってくるのを感じた。今はだめだ。この瞬間、この緊張をのりきらなければ。
 ふっとエナが眉をよせてイーツェンを注視した。イーツェンは痛みを振り切るように背をのばして、エナの目をまっすぐ見つめ、瞳の青さにたじろぐ心と、背の痛みを押し隠した。
「エナ。答えてほしい。教えてほしい。今のあなたが、何者なのか‥‥」
 息がするどい音をたてて喉につまった。目の前に燃え立つような光が明滅し、その光がたえられない痛みとなって全身を刺しつらぬく。前によろめくイーツェンの体をシゼの腕がひきとめた瞬間、引かれたわずかな力にはじかれたようにイーツェンの全身がそりかえった。
 背中を鞭でずたずたにされた時の煮えたぎるような激痛。それがもう一度イーツェンの背によみがえったようだった。支えようとするシゼの腕にすがりつこうとしたが、全身がはげしくふるえて、思うように動くこともできない。周囲で人の声がとび交っているのを遠く、轟々と耳に鳴る滝のような音の向こうに聞いた。その音も声も渦を巻いて、イーツェンの意識と体を痛みの奔流に呑みこみ、意志を押しつぶし、彼を砕く。
 自分の中にあふれているのが現実の苦痛なのか、消えない苦痛の記憶なのか、イーツェンにはわからない。首の輪は重く重く、彼を床へ引きずり落とす。
 もつれた意識の中でイーツェンはあえいだ。息が入ってこない。何かどろりとしたものが口に押し入って窒息しそうになる。
「飲んで、イーツェン。‥‥がんばって」
 耳元に囁く声はやさしかった。深くおだやかなこの声はいつでもイーツェンをつなぎとめ、引き戻す。イーツェンが必死にそれを飲みこむと、その声はまた何かをつぶやいて、口からこぼれた分を拭われた。
 イーツェンは泣くような呻きをこぼして、あいまいな視線をさまよわせた。くりかえした悲鳴にかすれた声で呟く。
「シゼ‥‥」
「ここに」
 頬に手がふれて、イーツェンの輪郭をなぞった。たしかで優しいその感触に、ちらばったイーツェンの意識がゆっくりとつながっていく。体から意識が覚醒していく中で、イーツェンはくりかえしシゼの名を呼ぶ。
 気がつけば、うつ伏せに寝かされていた。背の中心には重い痛みが居座って、イーツェンは動けない。右頬を下にして左を向いた状態で、目だけを動かしてシゼを見る。口の中には何か苦い粘り気があって、おそらくエナの薬を飲まされたのだとわかった。そのせいか、舌が痺れてうまく動かず、言葉がもつれた。
「シゼ」
 シゼはイーツェンが寝かされた毛布の横にかがみこみ、疲労をにじませた重い表情でうなずいた。イーツェンの言葉がつづかないと見て、口をひらく。
「エナに、背中を診てくれとたのんだそうですね」
 エナの名を呼ぶその声に棘はなく、優しいひびきにイーツェンはまばたきした。
「うん」
「あなたはエナを信頼しているんですか? 何者だったのかがわかった、今も?」
「‥‥うん」
 短く、イーツェンはうなずく。エナのしてきたことが気にならないわけではない。すべてにおいて信頼していいのかどうかもわからない。だがエナがシゼへ見せたいたわりの仕種や心づかいは本物で、薬師としての彼女には嘘がない。それがイーツェンの信頼であり、確信だった。
 シゼは指の背でイーツェンの額をなで、うなずいた。
「エナは、あなたの背には施療が必要だと言っている。背の内に、痛みを生むものが残っていて‥‥いつかそれは、あなたを殺すかもしれないと」
 低く言って、イーツェンの髪にかるく指先をはしらせた。
「彼女に施療をまかせますか?」
「そう、したい」
 痺れの残る舌を動かして、イーツェンはかすれた声でこたえる。背中の痛みが思ったように癒えていかないことへの恐れは感じていた。何かが決定的に間違っていて、もう二度と治らないのではないかと。どんな形であっても、その不安への答えがほしかった。
 シゼは静かな目でじっとイーツェンを見おろしていた。彼の顔は病の数日の疲労をうつしてはいたが、表情は落ちついていた。
 イーツェンの額におちる髪をゆっくりとかきあげてから、彼はうなずく。
「わかりました」
「‥‥お前はそれでいいのか?」
 痛みに襲われる前のシゼの剣幕とはあまりにもちがうので、イーツェンはかえって落ちつかなくなった。起き上がろうとしたが、シゼが肩に手をのせて伏したままでいるよう指示する。体の力を抜いたイーツェンへ、シゼはもう一度うなずいた。
「私はエナをよく知らないし、今の彼女を信頼していいのか判断はできない。ですが、イーツェン。私はあなたを信じる」
「いいのか‥‥?」
 シゼの顔をうっすらと笑みがよぎって、彼は無言でイーツェンの頬をなでた。その表情はおだやかで、そんなふうにシゼに信頼をよせられていると言うことがイーツェンには面映い。一方で、子供っぽい誇りが胸にあたたかくひろがるのを抑えることはできなかった。
 シゼが手を引いて、立ち上がる。歩き出した姿がイーツェンの視界から消えたが、声が聞こえた。
「エナを呼んできます。じっとして、休んでいて」
 歩き去っていく足音を聞きながら、イーツェンはゆっくりと息を吐き出し、背中のこわばりと痛みをゆるめようとした。骨の芯がじくじくとうずいている気がするが、薬のためか、うっすらとした痺れがその痛みをくるんでいた。
 ──これもきっと、一時しのぎなのだろう。
 目をとじて、イーツェンはエナの足音が近づいてくるのを待つ。その間、ぼんやりとした頭の奥でシゼの言葉が揺れていた。
(毒を‥‥)
 シゼはユクィルスのためにアンセラで人を斬り、エナはユクィルスのためにその手を暗い仕事に染めた。彼らがくぐりぬけてきた暗闇はよく似ているように、イーツェンには思える。
 そして今、シゼは何のよるべもないままに、イーツェンとともにこの地を流れている。エナは一体、どこへ向かっているのだろう。彼女の行く手には、彼らの行く手には、何が待つのだろう。