オゼルクの残した熱が、体の中で冷えていくのを感じた。四肢がのびきってしまったようにだるく、腰の奥ににぶい痛みがあって、指先ひとつ動かすにも全身の力を吸いとられそうだった。
ざらついた布が裸の背に痛い。イーツェンはぼんやりとしたまま天井を見ていた。狂乱のような一瞬がすぎてしまえば、体のどこもかしこもが冷たく、石のようだった。
うすぐらい視界の外で影が動く。衣ずれの音がしばらくしていたが、やがていつも通りに黒衣をまといおわったオゼルクが立ち上がり、イーツェンをのぞきこんで目をほそめた。
「そんな顔では、死びとでも抱いていた気になるな」
それを愉しんでいるのだろうと思ったが、言い返す気力がなかった。唇を動かすのも、声を出すのもだるい。
オゼルクの右手がイーツェンの頭の横におかれる。イーツェンの体の上へ斜めにのりだすようにして間近から見おろすと、くくりそこねた金の髪がいくすじか、イーツェンの頬まで落ちた。
「シゼが恋しいか? なら、逃がすような真似をしなければいい。そばに置いておけばよかっただけのことだ。馬鹿だな、お前は」
「‥‥あなたは、シゼが嫌いなんでしょう」
かすれた声がイーツェンのにぶい唇からこぼれる。何かを考えるのも面倒だったが、言葉をとどめる力もなかった。
オゼルクは微笑のようなものを唇の右はじに溜めて、イーツェンを真上から見おろした。
「私が?」
「それとも」
イーツェンも弱い微笑を返す。彼らのどちらも本当に笑ってはいなかったが。
「怖いんですか」
「何故」
「シゼは‥‥あなたと、ちがう。この城の誰とも、ちがう。彼はまっすぐで、誠実だ」
「お前はまだ学んでいないな、イーツェン。そういうものに重きをおいてはいけない。お前から見えるものがいかなる時にも同じだとは限らん。物の形は一つでも、落ちる影は無数の形をつくる。人が見るのも、恐れるのも、物の形ではない。その影だ」
イーツェンはまばたきしたが、オゼルクの左手が裸の胸にふれる感触に、するどい喘ぎをこぼした。疲れていてもその感覚に体は反応しようとする。なじんで溺れた感覚だった。
意識を他人の指先からそらそうとするイーツェンの耳に、囁きのような声が吹きこまれる。その声は湿って、低い。
「恥知らずだな、イーツェン。傷ついている顔をしてみせれば、あの男は優しくしてくれたか?」
「オゼルク──」
「お前は自分が何をしたのか、わかっているのか?」
冷たい部屋の空気にとがった乳首を指の腹でつまんで、きつくもてあそばれる。イーツェンはオゼルクの腕を両手でつかんだ。与えられる快感よりも、それを求めてしまいそうになる自分自身の体の方がはるかにおそろしかった。
「城の傭兵をたぶらかして、挙句に城から追い出したんだぞ。給金も、寝床も、日の食事すら得られない場所にな。私からシゼを守った気でいるか? お前はただ目先の心配事に目がくらんで、目の前からその心配事を押しやっただけだ。それを考えたことはあるか?」
最後の一言がひどく皮肉っぽい笑いを含んでいたので、オゼルクが本気で言ったのか、ただイーツェンの反応を見るために言ったのか、判断ができなかった。
イーツェンはオゼルクをにらみ、腕を押しのけて起き上がる。体の至るところに痛みがはしった。痛んでいるのは、体だけではなかったが。
「殺そうと、したくせに」
「それはそうだ。野良犬を逃がすとろくなことにならないからな」
言いながらオゼルクは、イーツェンが拾い上げようとしている服を床からつかみ上げ、片手で放ってよこした。
「犬?」
「そうさ。お前があの男を野良犬にしたんだぞ、イーツェン」
冬の嵐が城の壁をこすっていく音がした。油燭の灯りひとつのくらがりに立つオゼルクの姿は、まとった黒衣の黒さもあって、闇にとけこむようだった。
「まあ城に残ろうと、所詮、犬にできることは飼い主の寝床をあたためることくらいだがな。奴があたためていたのは、お前の寝床だけではないぞ」
「知っていますよ」
レンギのことだろう、とイーツェンは思いながら素気なく返した。レンギと通じ、それがオゼルクの憎しみをあおったのだと、かつてシゼに打ちあけられたことがあった。
男の感触の残る素肌に、冷えた服をまとう。シゼと、レンギ。彼ら二人はどんなふうに身をよせあったのだろうと、ふとイーツェンは思った。寒さからのがれるように、痛みからのがれるように、ただ互いを抱きしめたのだろうか。それともそれは、少しは豊かな、ぬくもりのある関わりだったのだろうか。
そうであったならいいと思う一方、引きくらべると、こんなふうに情欲だけに溺れた身をさらしている自分がみじめで、切られたように心が痛んだ。オゼルクの声の中にはイーツェンを追いつめる鋭さがあった。それがイーツェンだけに向けられたものでないのは何となくわかったが、それでも、彼の容赦のない嘲りはイーツェンを削ぐ。削いで、奪って、まるでオゼルクは、最後に残るイーツェンの骨の形をたしかめようとでもしているようだった。
──何も残るまいと、イーツェンは気だるい痛みの中で思う。何も残るまい。彼はと言えば、もう、自分の中に痛みしか感じとれなかった。世界は痛みに満ちて彼を遠ざける。心の内からわきあがってくる激しい苦痛に体をゆさぶられて、イーツェンは切羽つまった声をあげた。
幾重にも小さく折りたたまれていくような痛みに全身がふるえる。悲鳴の間に呻いた。
「シゼ──」
その瞬間、はっと気がついた。シゼ。シゼはどうしている? どうなった?
宿場から出なくては──いや、すでに出た。そう。それから──
記憶と夢とが交錯する中、体の中を貫く痛みは本物だった。イーツェンは起きようとして呻く。体の至るところが痛みにきしみ、背中のあまりの激痛に本気で怯えた。昨日のさまざまな無理がたたって、どうにかなってしまったのだろうか?
肩に手が置かれ、彼を地面に押しとどめる。やっと焦点のあった目で見上げた顔に、イーツェンは息を呑んだ。
──オゼルク。
金の髪、強く冷たい青の目。かすかに皮肉っぽく引きしめられた口元。見たものは一瞬、イーツェンを夢の中へと引き戻す。
だが、まばたきして夢の幻影を振り払うと、それは別人の、それも女の顔だった。まるでユクィルスの王族のような金の髪と深い氷の目をして、イーツェンをじっとのぞきこんでいる。何か言うように唇が動いたが、イーツェンには何も聞こえなかった。
「動かない方がいいよ」
かわりに、横あいから男の声がする。何がおこっているのかわからず目をうごかしたイーツェンは、声の主を呆然と見つめた。
あの男だ。細い顔、目尻の少しさがった柔和な表情。雨の中で彼らに声をかけ、薬師の連れがいると口にした──その同じ男が、膝に手をおいて身をかがめ、イーツェンを見おろしていた。
これも夢かと思った。何故この男がここにいるのだろう。あれほど探しても探し出せなかった男が。だが、それを問うよりも、イーツェンの口からは呻きのような嘆願がこぼれた。
「シゼが──熱を、出して」
「知っている。無茶をしたね。薬師を探し回ったんだって?」
男が笑みをうかべてイーツェンをのぞきこんでいる間、女はにこりともしないままイーツェンの体のあちこちにふれた。血の脈でもたどるように、首から肩、肘、指先、そしてまた肩に戻っては胸からみぞおちへ下りていく。
「ウェルナーが君らの話を聞いて、後を追ったんだけど見つからなくてね。夜明けからぼくらも一緒に探してたら、君のロバが街道沿いで畑の麦を食ってるのを見つけた」
「‥‥‥」
たしかロバはつないでおいた筈だが、ほどいて脱走したらしい。イーツェンが笑いたいような情けないような気持ちになって、また起き上がろうとしたが、女の手が無言で押し返した。大した力ではないのに、肩のどこを押せば身動きがとれなくなるのか、はっきりと心得た様子だった。
──この女が薬師だ。
ふいにイーツェンは確信する。訴える目で女を見上げた。
「私は大丈夫だ。シゼを見てくれませんか」
それにも男が返事をする。
「もう見た。今、ウェルナーが馬に乗せて運ぶ準備をしてる」
「どこへ‥‥?」
「休める場所だ。立てるかい?」
女が手を引くと、男がイーツェンのそばに片膝をつき、立とうとする彼へ手を貸した。イーツェンはこわばった体のあちこちをかばいながら、どうにか立ち上がって周りを見回す。
昨日考えたような泉のそばではなかった。石に囲まれた大きな水場近くだ。水場の石囲みが打ち砕かれたように崩れ、雨で増水した水が囲みと水路の両方から流れ出して、周辺一帯をまるで小さな沼地のように変えていたのだった。水が幾度も溜まったからだろう、あたりは地面が広くくぼんで、じめじめとした地面がひろがっている。
水場の広場を囲んだ周囲に、木々がきまった一定間隔で生えていた。しかも同じ種類の樹ばかりだ。そろった光景の異様さにイーツェンは一瞬ぎょっとしたが、すぐにこれが果樹園なのに気づいた。前の冬に、ジノンの馬車から見た光景だ。木の畑のようなものだとわかってはいるが、どうにも慣れない景色だった。
リグでは、こんなふうに一種の木ばかりそろえて大規模に植えかためることはない。平地が足りないこともあるし、これだけの水を引いてくるのも一苦労なので、山に入った方が早いのだ。
はじめて見た時、生えそろった果樹たちは、イーツェンにユクィルスそのものを思いおこさせた。人に役目を与えてそろえ、たばねる。その数と、たばねの強さがユクィルスの強さだった。
──だが、これは。
半ば呆然と、イーツェンはあたりの木々を見回す。木々の多くが引き倒されて腹を地に倒し、かわいてもつれた根が力なく垂れていた。斧のようなもので打ち砕かれた木もある。昨夜、イーツェンが灌木だと思ってロバをつないだのは、半ばから折れてささくれた若木で、まるで無残な傷を覆うように、細枝が四方八方へのびだして、小さな葉むらをつくっていた。
「果樹園の持ち主がユクィルスに刃向かったんで、兵どもにやられたのさ。ま、人より木を切る方が害は少ない」
男が皮肉っぽい口調で言う。イーツェンはそれを話半分で聞きながら目をはしらせ、もう一人の連れの男の姿を見つけた。ほかの二人がどちらかと言うと華奢なのにくらべて、がっしりと肩の張った大柄な男だ。イーツェンに背を向けた状態で一頭の馬に向かい、ぐったりとした人の体を馬の背中へ横向きに押し上げていた。
シゼは意識がないようで、イーツェンは胸ぐるしい不安に息ができなくなる。薬師を見つけるのに手間どった上、一度はシゼとはぐれ、強行軍で宿場から逃げ出した。ゆっくり寝かせることもできぬままに自分の行動でシゼを引き回した、己の要領の悪さが歯がゆかった。
男は手早くシゼの腰帯に縄を通し、鞍の横についた輪に結びつけると、こちらを振り向いた。
「俺は先に行くぞ」
言うなり、鞍のうしろにまたがって、手綱を短く取る。シゼと男と、二人分の重みがかかった馬は不服そうにいなないたが、男のきっぱりとした手綱さばきの前にはひとたまりもなく、たちまち速歩をはじめて木々の間へ消えていった。
呆然と見おくってしまったイーツェンの肩を、そばにいる男がポンと叩く。
「あれが我らがウェルナーだ。ああ見えて弱点は蛇。蛇を首から下げると、女の子みたいに可愛くなるよ」
「‥‥‥」
話は耳に入ってはいたが、イーツェンはシゼの行き先が心配で、いてもたってもいられない。うろうろと歩き出そうとした彼の腕を男がつかんだ。
反射的に振りほどこうとして、背がねじれるような痛みにたじろぐ。男はぱっと手を離し、あやまった。
「悪い。でも君はロバに乗った方がいい。今にも倒れそうだよ」
「‥‥‥」
「俺はヘイルード、彼女はエナ」
軽い口調で言いながら自分の胸元に手をあて、男はニコッと笑った。まだ頭の中で砂が揺れ動いているようだったが、イーツェンは身についた礼儀で咄嗟に反応する。
「私は、イシェと申します」
とりあえず、シゼととりきめておいた偽名を名乗った。二人とも混乱するので本名に似せてある。
ヘイルードという男は何の反応も見せずにうなずくと、てきぱきと荷をまとめはじめた。
彼らは、3頭の馬で旅をしているようだった。1頭がシゼとウェルナーという男を乗せていったので、置いていかれた荷を2頭の馬に手早くふりわける。何が入っているのか、1頭の馬の背に大きな包みをくくっていた。荷馬だろう、ずんぐりとした鹿毛は、さらに両肩に振り分け荷をぶらさげ、尻の横にも大きくふくらんだ鞍袋を吊ってびくともしない。
ふいに背中に人の手がふれて、イーツェンは仰天した。顔を傾け、背後にエナと呼ばれた女が立っているのを目のはしで見たが、体が動かせない。どういうわけか、ふれただけの手の感触に背が吸いついてしまったようで、動けなかった。
骨ばった手が何かを探すように、背中の上をすべっていく。薄汚れた服ごしにその動きを感じとって、イーツェンは深い吐き気をおぼえた。体の内側からじくじくとした痛みがしみ出して、背中全体が痺れる。傷の一つ一つに奥まで水が入りこんで、傷口がゆっくりとひらかれていくようだった。
「やめて下さい──」
呻くのと、手がはなれるのとほとんど同時だった。動悸がはねる胸元をおさえて、イーツェンは女から距離をとろうとよろめく。エナは近づいてくることもなく、無表情に立っていた。
少ししてヘイルードがイーツェンのそばへロバを引いてくると、有無を言わせぬ手際のよさでイーツェンを鞍の上へ押し上げた。ロバの引き綱を持ったまま、自分はもう1頭の馬へまたがると、そのうしろへ女がひらりと乗った。足の割れた乗馬用のローブをまとっているらしい。
ヘイルードがピュイッと口笛を吹くと、もう1頭の荷馬がこたえるようにいなないた。ヘイルードはイーツェンへ1回うなずいてから、ゆっくりと馬を走らせはじめる。馬とロバとではかなり上背がちがうので、イーツェンは馬の腹を見ながら、揺れる荷鞍にしがみついた。
どこへ行くのかわからない不安はあった。だが同時に、強い安堵が胸にひろがっていた。この女が何者なのかはわからない。だが、彼女はたしかに癒し手だ。そう確信していた。
見つけたのだ。
やがて、さびれた果樹園を抜けると、両側が崖状に切りたった狭い道を抜けた。斜面の中腹からは白っぽい木が身を投げるように大きくせり出していて、イーツェンは少しびくびくしながら上をうかがったが、二人はほとんど気にしていなかった。
進む速度はゆっくりとしたものだったが、イーツェンにとって、ロバの背にしがみつくのがやっとの道行きだった。ここ数日の疲労が体中に重く、背中の芯が痛い。せめて何も弱音を吐くまいと歯をくいしばって、ロバにまたがった腿をしめた。
あたりはまだらに茂みや林が点在し、地面の隆起があちこちで丘のようになっていて、視界は悪い。道とも言えない、それはひどく古い通り道のようだった。踏みかためられたはずの地面の痕はところどころ消えかかっており、先導する者がいなければイーツェンは幾度も方向を見失うところだった。
人が通っている様子はほとんどない。ひとつだけ、ところどころ残ったひづめの跡は、シゼとウェルナーの残したものだろう。
斜面に鬱蒼と茂った木の間を抜けた時、目の前にふいに石の色がせまった。イーツェンは一瞬、呆然とする。しっとりと濡れたような色の木々にかこまれて、青みを帯びた丸屋根の石の寺院が建っていた。
古びた石の建物の、正面扉の上には、翼のある双頭の蛇が卵を抱く姿が彫られている。その頭は半ば欠けおちて、もう一つの頭も垂れ下がる蔦の葉に隠れていた。
「ルルーシュの捨て寺院だ」
ヘイルードは言いながら馬をとめ、すばやく降りるとエナに手を貸す。イーツェンもロバの首をかかえるようにして地面へ降りたち、よろめいて、凝りかたまったような背の痛みに呻きを殺した。
「遅ぇよ!」
片方が腐って外れた両開きの扉から、ウェルナーが顔を見せてどなった。シゼは、とイーツェンが口をひらくより早く、
「まったくエラい目にあったぞ。何だあのケダモノみたいな奴!」
その憎々しげな言い方に、イーツェンは体中から血という血が引いたようで、あわてて前へ出る。
「シゼは──」
「途中で、暴れて」
そう言われて、頭をかかえたくなった。当たり前だ。もしわずかにでも意識が戻って、馬にくくりつけられた状態で、イーツェンがいなければ、シゼには物事が呑みこめない。どうにかしてついて行くべきだった。
ウェルナーは両手のひらを上へ向け、ほがらかに言った。
「大丈夫、今は静かにしてる」
「‥‥‥」
本当に大丈夫か? と思ったのがそのまま顔に出てしまったのだろう。ウェルナーは少し傷ついたような表情をしてみせ、イーツェンはとりつくろおうとして、口の中でどもった。
「イシェ」
すぐ横で呼ばれてから、それが自分の偽名だということに気付く。はっとヘイルードを見た。ほとんど同時に、ふしぎな形の皮袋を肩から吊り下げたエナがすべるように建物の中へ入っていくのが見える。ウェルナーが忠犬のようにそれにつづいた。
ヘイルードは、リネンとローブをイーツェンへ渡した。
「エナが診立てをするから、その間、君は体と服を洗っておいで」
汚ないから、と言外に言われたようでイーツェンは赤面したが、雨に濡れてからこのかた、身ぎれいにする余裕などなかったのはたしかだった。着たまま獣小屋で眠っていた服は見るからに汚れているし、肌にも埃をまとっているような気がする。
寺院の脇には両側に石柱がつらなった外廊があり、その先は、低い平屋根の奥堂につながっているようだったが、どうやら木で組まれていたらしい奥の建物は、基礎の石組みだけ残して焼けおちていた。いびつに残った石と黒い柱の間から草葉が茂っているところを見ると、炎は古い出来事らしい。
「ルルーシュはわかる?」
横を歩きながらヘイルードが軽い口調でたずねた。イーツェンはうなずく。
「はい」
「ここはルルーシュの一派が人里離れて修養するための寺院だったそうだ。心をしずめ、天地と人との関りをさぐるための。だが迫害がはじまり、自分たちの信徒が殺戮されたことを知った寺院の者たちは、自ら、堂に火を放った」
その言葉におどろいて、イーツェンは斜め前を歩く男の顔を見た。ヘイルードが振り向いてニヤッと笑う。左側のとがった犬歯がちらりとのぞいた。そうして笑うと、あの雨の中で彼らに声をかけてきた男とは別人のように子供っぽかった。
「二度とふたたび、自ら安んじることなかれ──それが彼らの誓いだった。そして事実、ここを去って戦いにのぞんだ彼らは、二度と帰ってこなかった。俺に言わせりゃ、誓いと言うより呪いだね」
「‥‥‥」
口の中であいまいな相槌をつぶやいて、イーツェンは回廊から中庭へ折れていくヘイルードの足取りを追った。痛みにこわばったイーツェンの動きを思いやってか、男の歩みはゆっくりとしたものだ。さとい男だ、と感じる一方で、そういう男がこうして語ってくる言葉にどう反応すればいいのか、イーツェンは怖かった。
何かを探っているのだろうか。どう答えるのが自然だろう?
こんな場所を知る彼らはルルーシュの縁者なのだろうか。エナの顔立ちがユクィルスの王族のものによく似ているのは、ただの偶然なのだろうか?
どうにも心を決めかねたまま、イーツェンは黙るしかない。疲れはてていて、利口な言葉など吐けそうにない今、沈黙以上に彼を守るものはないようだった。
中庭には小さな井戸があった。ヘイルードは数回水を汲みあげ、そばの大きな石の水盤を満たすと、自分の持ってきた2つの水筒にも水を入れた。
「焼けた奥堂には行かないようにね。危ないから」
そう言って、戻っていく。一人残されたイーツェンは、ふいにおちた静けさに茫然とした心持ちになった。
水盤のそばにころがっている切り株に腰をおろし、少しの間ぼんやりしていたが、やがて、水にのばした指先をくぐらせる。夏も終わりとは言え、まだ空気は肌にまとわりつくようなぬるみを帯びていたが、井戸からすくいあげた水は沁みるように冷たかった。
手にすくった水で顔を洗う。頭がさっぱりして、同時に、自分がどれほど汚れているかあらためて気付いた。そうなるといきなり我慢できなくなって、イーツェンはシャツとズボンを取り、下帯ひとつになると、濡らした布で身を洗うように拭いはじめる。水の冷たさが、肌の汚れをこそげ落としていくようで心地よかった。首輪を少しだけずらして、首の肌もどうにか拭う。
動くたびに背中の奥に熱のような疼痛がともった。それでもゆっくり動けば何とかなるもので、水盤の水を使いきったイーツェンは、吊り上げ器の把手を回して水桶を吊り上げた。水桶を吊るロープはまだ新しく、一年ほどの間に取りかえられたものに見える。立ち寄る誰かが手入れをしているのだろうか。あの三人だろうか?
水盤に水と服を入れ、イーツェンはしばらく両足で服を踏んで泥をざっとおとした。足の靴擦れに水がしみるが、単純な動作をくりかえしていると、気持ちがおちつく。
一つずつ。目の前にあるものを片付けていくしかない。
渡されていた丈の短い麻のローブを羽織ったところで、ヘイルードがまた姿を見せた。様子をうかがっていたのか、彼は屈託ない様子でイーツェンの濡れた服を絞って、陽のあたるハンの木にひっかけた。
シゼのところへ行きたがるイーツェンに、細い笑みを見せる。
「エナが診て、今は眠らせてる。君も一休みしなさい。診る者が身を傷めては、病人も休まらない」
それでも、敷布に横たえられて眠っているシゼの姿を扉口から見せて、イーツェンを安心させてくれた。ぼんやりとしたくらがりの中で、シゼはおだやかに眠っているようだった。
言われるままにパンとチーズの食事を取ると、エナがイーツェンの足の擦り傷に軟膏をつけ、やわらかいリネンを巻いた。相変わらず彼女は口をきかないが、ヘイルードもウェルナーも彼女の言わんとするところを汲みとるのに苦労していない様子だった。
何やら忙しそうに動き回る3人に、イーツェンも何か手伝おうかと申し出たが、エナの手の一振りで却下される。休め、とヘイルードが渡してくれた毛布を手に、彼はシゼの眠る部屋へ入った。かつての住人の居室だろう、出入口には扉がなく、狭い部屋だったが、木の床はきれいに掃き清められていた。
近づくとシゼの息はまだ少し荒く、喉にこびりつくような音をたてていた。イーツェンは水桶から布を取り、額の汗を拭ってやる。顔を近づけると、シゼの息からは甘ったるい複雑な匂いがした。エナが何か飲ませたのだろう。
シゼの汚れた上衣とシャツは脱がされて、肩までかけられた上掛けの内は上半身裸だった。イーツェンは思いたって、3人が荷をおろしていた入口の広間へ行くと、わずかな自分の荷を見つけ、シゼの剣と剣帯をかかえて戻った。シゼはこの剣を大事にしている。目がさめた時にそばにないと落ちつかないだろう、そう思った。
喉にかかるような息の音とともにシゼの胸がふくらみ、沈む。シゼの額に乱れた髪を丁寧に払ってやって、イーツェンはしばらくその様子を見ていたが、エナの治療の邪魔にならないよう少し離れた部屋のすみで疲れた身を丸め、眠りについた。
眠りは浅いもので、エナの訪れに目をさまし、彼女がシゼに薬湯を飲ませて胸に軟膏を塗るのをぼんやりと見てから、またうつらうつら、まどろんだ。
眠りの内で現実と夢が入りまじって、イーツェンにねじれた幻を見せる。彼の恐怖をうつしてか、幻の内でふれたシゼの体は冷たかった。ひえびえとした肌の温度に愕然として、とび起きたイーツェンは、部屋の中央で前と同じように眠るシゼの姿を見る。ほっと息を吐き出し、脂汗のにじんだ額を拭った。
この3日間、夢などまったく見なかったのに。こうして助け手を見つけた今になって、恐怖が喉元までこみあげてくる気がする。恐怖にせきたてられている間は、その恐怖が鮮明に見えてこないのかもしれない。奇妙なことだった。
痛む背に気をつけながら、イーツェンは膝と手でシゼににじりより、廊下からさしこむ光の中でシゼの寝顔を見おろした。
あらためて見ると、シゼの顔にははっきりとこれまでの疲労が刻まれて、頬の線は削いだようにけわしく、目元はくぼんでいた。もう何日もまともに食べ物を口にしていない。
イーツェンは手をのばし、シゼの頬を指の背でなでた。たしかな感触に、ほっとする。あの、指に粘りつくような熱さは失せていた。早かった息も、少し長く、深さを取りもどしているような気がする。
何度も、シゼの頬をなぞるようになでながら、イーツェンはシゼを見つめた。こんなにけわしいシゼの顔を見るのは久々な気がした。シゼがイーツェンへ向ける顔は、いつもやさしかった。
──城を出てから、ずっと。
いつもやさしい顔をしていたと、イーツェンはシゼを見おろしながら、ふれながら思う。城で何があったか、一言もきかずに、ただシゼはおだやかにイーツェンを受けとめていた。その奥でシゼは何を心に押し殺し、何からイーツェンを守りつづけていたのだろう。
「‥‥どうして戻ってきた、シゼ?」
シゼの上にのりだすようにして、イーツェンは囁く。自分の声なのに、自分にすら聞きとれないほどその声はかぼそかった。
「私には、何もない。この先、どうしたらいいかもわからない。お前の重荷になるだけだ」
唇にふれた指先に、シゼの息吹を感じる。イーツェンは体を沈めるように顔を近づけ、シゼの唇の横にくちづけた。
「会いたかった」
溜息のように囁く。どれほど会いたいと思っただろう。牢の暗闇でイーツェンが夢見ていたものはリグでもなければ故郷の日々でもなく、シゼが彼を抱きしめた、彼がシゼを抱きしめた、あの瞬間のことばかりだった。
あれから、何もかもが夢のようだった。城からシゼに助け出され、シゼに守られてここまで来た。どこへ行くかはあてどもないまま、シゼによりそうその1日1日が、イーツェンにとってはまるで夢のようだった。
だが、これは現実なのだ。
イーツェンは、少しのびたシゼの金髪を額から払ってやる。これは現実で、シゼにだけその重みを背負わせるわけにはいかない。いつまでもただシゼにもたれかかって、自分の痛みにだけとらわれているわけにはいかないのだ。
シゼの息を数えるように、自分の息をそれにあわせて、イーツェンはじっとシゼを見つめる。言ってないことがたくさんあった。言葉にしていない、シゼにつたえていないことが。シゼを失うかもしれないと思ったとき、イーツェンはそのことに気づいた。
シゼの頬骨を親指でゆっくりとなでていると、ふいにシゼの睫毛が動き、イーツェンはぎょっとして動きをとめた。凍ったように見つめているうち、シゼはそのまま眠りに戻ったかと思ったが、やがてまぶたが開いて、焦点のあわない銅色の目が宙をさまよった。
何を見ているかわからないように、イーツェンの方向を見る。シゼのまなざしはまるで幻を見るようで、唇からしゃがれた声がこぼれた。
「‥‥イーツェン‥‥?」
「シゼ」
そっと、イーツェンはシゼの名を呼ぶ。名を呼ばれ、名を呼びかえす、それだけのことに心が大きくゆさぶられていた。
「シゼ」
「あなたは‥‥」
シゼはうつろな目をほそめる。やがて、まなざしよりはるかにうつろな声で、呟いた。
「あなたは死んだ、イーツェン」
イーツェンは言葉もなく茫然と目をみひらいた。
「どうして──」
語尾が苦痛にひきつれて、シゼは言葉を失い、大きくあえぐ。
「どうしてだ、イーツェン‥‥」
イーツェンは体の内側がからっぽになって、どこか深みへ引きずりこまれるような感覚におそわれた。シゼは過去を見ている。イーツェンが死んだと思った時の。熱のせいか、エナの与えた薬のせいか、記憶が混濁しているのだ。
ふるえる指先でシゼの頬をなでる。シゼはぼんやりとした目でイーツェンの動きを追っている。頬に手のひらをあて、イーツェンはできる限りおだやかに言った。
「シゼ。私は生きてる」
語りかけが聞こえているのかどうか、シゼの目は動かなかった。イーツェンはくりかえす。
「生きている。大丈夫だ。私はここにいる、シゼ」
少しおいて、シゼの唇がかすかな息を吐き出した。
「‥‥イーツェン‥‥?」
「そうだ、私だ」
イーツェンは微笑をつくった。シゼは悪夢を見るようなまなざしで、恐れるようにイーツェンを見つめていた。苦痛にかすれた声がイーツェンの心にぎりぎりとくいいる。
「イーツェン‥‥」
のろのろとシゼの右手が動き、自分の頬にあてられたイーツェンの手をさぐった。そこにたしかにイーツェンの手があると、まどろっこしい指先でたしかめたシゼは、離すまいと言うように手首に指を回してぐっと握りしめた。イーツェンが苦痛の声を殺すほど、その力は強い。
うむを言わせぬその力に、イーツェンの中に深く根付いた恐怖が呼びおこされそうになる。動けない。口がかわいて、息が喉にはりつくのを感じた。首の輪が重く、ぎりりとくいこむ。
これはシゼだ、と心でくりかえす。シゼだ。この手は、シゼの手だ。
イーツェンは手を引かず、真上からシゼをのぞきこんだ。
「そうだ。私は大丈夫だ、シゼ。お前が救ってくれた。あの城から、お前が私を助け出したんだ」
「‥‥‥」
「お前は戻ってきて、私を救ってくれた。私の命も、私の魂も」
言葉以上のものがあふれてきそうで、イーツェンは息をつめたが、やがて押し出すように囁きをつづけた。
「もう眠っていい、シゼ。そばにいるから。今は休め」
シゼは何かつぶやいたようだったが、それはイーツェンには聞きとれない言葉だった。だが体からこわばりが抜け、やがてまぶたが落ちて、かすれた溜息が唇の間からこぼれた。
シゼの息が平坦になって、ふくらんだ胸がおだやかな呼吸に沈みこむまで、イーツェンはじっとシゼを見ていた。それから顔をしかめ、シゼを起こさないよう細心の注意を払って、手首からシゼの指を外す。じんと痺れの残る手首をおさえ、床にへたりこんだ。イーツェンが幻だとでも疑ったのか、くいこむようなシゼの指はくっきりとした痕を肌に残していた。
少し動くたび、かがんでいた背中が痛みをうったえる。溜息をついてシゼから離れようとした時、人影が目のすみにうつり、イーツェンはあわてて仰ぎ見た。
もとから開いていた扉口にヘイルードが立っていた。いつからそこにいたのか。イーツェンは茫然とする。
目があうとヘイルードはうなずいて室内へ入り、足音をしのばせて近づいた。どういうわけか彼は随分と汚れた格好をしていた。
手にしていた皿をイーツェンのそばへ置いた。黒緑色の、軟泥のようなものが入っている。泥をくわえて練り上げた薬草だ。つんとする匂いをかいで、イーツェンはヘイルードを見上げた。
膝をついてかがんだヘイルードは、シゼの毛布を少しめくって胸元にあててある布を示す。
「乾いてたら、水で拭いてから、新しい薬泥を塗ってくれ。熱さましだ。エナの話だと、肺が炎症をおこしかかっているらしい」
イーツェンは無言でうなずいた。ヘイルードは服にまとわりついている葉を指でつまみながら、つづけた。
「ウェルナーが罠を仕掛けて回ってたから、夕飯には新鮮な肉にありつけるよ、イーツェン」
さらりと名前を呼ばれる。イーツェンはうなずいて、小さい微笑をかえした。ヘイルードは一瞬黙ったが、イーツェンに視線をあわせてまっすぐに見た。
「背中の傷は、鞭の痕だな?」
「そうです」
「そうか」
溜息をついて、ヘイルードは立ち上がった。去っていく様子を見せる彼へ、イーツェンは思わず声をかける。
「ヘイルード」
足をとめて、彼は小首をかしげた。イーツェンは一瞬ためらってから、小声でたずねる。
「どうして私たちに声をかけたんですか?」
「ああ」
チラッと口元で笑って、ヘイルードは一歩戻った。イーツェンの方へ身をかがめて、同じように小声になる。
「エナがね。きみの歩き方がおかしいと言うから、心配で。でもまさか、彼の方がばてるとは思わなかったよ。あの時もっとくいさがればよかったな」
「すみません」
イーツェンも微笑をかえした。本当にそれだけだったのだろうかと疑心がかすめたが、これ以上聞いたところでどうしようもない。とにかく今は、彼らの助けにすがって力を借りるしかなかった。
ヘイルードが立ち去ると、イーツェンはシゼの胸の布をはずし、言われたように胸元を水できれいに拭ってから、新しい薬泥をまた胸に貼りつけた。指についたきめのこまかい泥はしっとりとして、肌に清涼な刺激を残した。
シゼの横に座りこんで、イーツェンはじっと彼の様子をながめる。シゼはおだやかに眠っているように見えた。その規則的な呼吸はイーツェンを安心させる。時折の咳や、苦しげに引っかかる息のたびにのぞきこんで様子をたしかめたが、全体としてシゼの眠りは静かだった。
手首にはまだ痛みが残っていた。赤い痕の消えない右手首をさすりながら、イーツェンは彼の名を呼んだシゼの声を思い出していた。ただイーツェンだけを呼んでいた、あの苦しげで、絶望したような声を。
悪夢から戻ってこい、と祈った。そんなふうにイーツェンのとどかない暗闇で苦しんでいないで、戻ってこい。痛む手首にシゼの感触を感じながら、ただ祈りつづけた。