夕暮れがさしせまる気配の中、下を向いて小走りに走りつづける。地面を踏みしめる一歩ごとに背中がきしみ、すぐに息があがって喉が焼けるようだった。歩くことには慣れていても、こんなふうに走るのは、鞭打ちを受けてからはじめてだ。
 主人の忘れ物を届けに急ぐかのような様子をよそおい、イーツェンはシゼのマントをかかえて走った。二日分の雨に濡れて形の崩れた靴が指をこすり、足指の皮がむけていたが、そんな痛みにかまってはいられなかった。
 あの男の意識も戻らず、まだ誰も探しに来ていないのだから、シゼが出ていったのもそう前のことではあるまい。熱で弱っているシゼがどこまで行けるのかわからないが、イーツェンは不安につき動かされていた。シゼがこうと決めた時の行動力はよく知っている。
 宿場の門が見えてくる。足取りをゆるめて門の近辺を注視しながら、イーツェンは柵の向こうに並ぶ兵の天幕に目をはしらせた。しゃがみこんでカードをしている男たちや、ぶらぶらと天幕の間を歩いている男、彼らについて歩く兵隊目当ての女の姿などを見て、ほっと息をつく。まだ何も、かわったことはおきていないようだった。シゼはまだ何もしていない。
 ──陽があるからだ。
 イーツェンはふいに立ちどまり、地平に傾いていく太陽を振り向いた。いくら熱で意識が混乱してようと、シゼはシゼだ。陽の明るいうちから兵たちの天幕に入っていくような、無計画な真似をする筈がなかった。
 陽の下端はすでに地平に近く、遠い空は赤っぽく黒ずんでいる。イーツェンは周囲を見回した。馬場の杭、宿場を囲む柵、宿場内の低い建物。門の近くに立ち並ぶ倉庫。どこだろう。シゼはどこで、闇の訪れを待つだろう。暗くなる前に見つけなければならない。
 門をちらっと見上げてから、イーツェンは道をそれ、建物の間を柵に向かって歩きはじめた。外には出ないだろう。どこか、門か柵の近くに身をひそめているにちがいない。門に向かって左には鍛冶職人の工房があり、まだ人の出入りもある。隠れるならその逆側だろうと思いながら、煉瓦で囲った水場のそばを抜け、倉庫の建物を一つずつ通りすぎた。
 シゼを大声で呼びたかった。自分はここにいると、だからもう心配ないと。ただシゼの名を叫びたかった。イーツェンの声がとどくまで。
 どこにいるのだろう。歩きながら建物の間に目を凝らし、イーツェンは段々と不安になる。別の目的で別の場所に出かけたのだろうか。それともここまで来れず、途中で力尽きているのだろうか。
 狭い建物の間をのぞきこんだ時、倉庫の壁によりかかってうずくまっている影を見つけた。イーツェンは息をつめたが、数歩近づいたところで、ぼろぼろの服をまとった男が顔を上げた。
 やせた見知らぬ顔から無言で目をそらし、イーツェンは男の前を通りすぎる。だが、しばらくたってもガサゴソと音がついてくるので振り向くと、男が後ろから寄ってきて、しわがれた声を絞り出した。
「‥‥お恵みを‥‥」
「何も持ってない」
 動揺を隠してぴしゃりとはねつけ、イーツェンは背を向けた。その一連の動作で、柵の横に立つ高やぐらが目に入り、上を仰ぐ。倉庫の屋根ごしに見えるそれは、見張り台として高く据えられた屋根つきの台だった。下から木の梯子で上がるようになっているが、今は無人だ。
 ──あのやぐらにのぼれば、柵の向こうへおりられる。
 外から柵をのぼるのは大変だが、中からそうやっておりるのはそれほど難しくない。夜の中、シゼはそんなふうに柵を越そうと思ったのかもしれない。だとすれば、やぐらの近くにいる。
 やぐらに向かって歩き出そうとしたイーツェンの手首が後ろからぐいとつかまれ、振り向いた彼へ、垢じみた顔が近づいた。酒の匂いが漂う。
「お恵みを──」
「離せ──離せ!」
 握られた手首を引き剥がすように振りほどいた瞬間、背中の奥に激痛がはしって、イーツェンは膝をついた。男がしゃがみこんでイーツェンの腕からマントを引き抜こうとする。すりぬけていこうとするマントを必死で両手でつかみ、イーツェンと男は無言で荒々しくもみあった。
 マントを離せばすんだことかもしれないが、イーツェンはそうしなかった。これはシゼのものだ。シゼに、イーツェンが贈ったものだ。無事であれと、よい旅ができるようにと、できるかぎりの思いをこめて。それをこんなふうに自分の手から奪われたら、シゼを守ることなどできない気がした。
 痛みと怒りが熱となって血管を逆流し、イーツェンは歯をくいしばると、つかまれたマントごと体をよせながら男の膝の裏側をすくい、地面へぶつけるように倒した。相手の額をつかんで頭を地面へ押し付け、吐き捨てる。
「関わるな、あっちへ行け!」
 男のやせた腕から力が抜けて、地面へだらりと落ちてから、イーツェンは身を起こした。男をにらみつける。
「行け」
 男は咳き込みながら、はかるような目でイーツェンを上から下まで見ていたが、やがて踵を返してとぼとぼと重い足取りで離れた。ふるえる息をととのえながらそれを見送り、イーツェンは頬につたう涙をぬぐった。少し動くごとに、激痛が背中の芯を無数の火花のようにはじける。それこそ、息を吸うごとに。
 苦痛は、だがイーツェンを苦しめる一方で、意識をまっすぐに保つ役にも立った。
 一歩、また一歩。歩くたびに体を支える気力が折れ、そのままそこにうずくまってしまいたくなる。だが、そんなわけにはいかなかった。決して。
 たどりついたやぐらの足元には、小さな木の物置が据えられていた。イーツェンは周囲を見回してからそこに歩みより、木の握りがついた扉に手をかけた。引き開ける。
 たちこめる夕暮れの影の中、イーツェンはさらに暗い影に手をさしのべた。
「シゼ」
 答えがない。イーツェンはもう一度呼んだ。
「シゼ」
 シゼが、かかえた膝から、のろのろと顔をあげた。シゼの息はイーツェンの耳にとどくほど荒く、目が熱でうるんだように焦点を失っていた。剣を抱くようにかかえこんで、右手が柄にかかっている。
「‥‥イーツェン‥‥?」
 その声はかすれて揺れ、イーツェンの胸をしめつける響きがあった。
「私だ。もう大丈夫だ、行こう、シゼ」
 そうは言ったが、一体どこへ行けばいいのかイーツェンにはわからない。宿の男はイーツェンたちを追い出すと宣言したし、シゼがユクィルスの兵を殴り倒している。あの若者が目を覚ませば、厄介なことになるのはまちがいない。
 ──だが、シゼを見つけた。
 イーツェンは微笑する。それが何よりも重要なことだった。無事で、見つけた。
 シゼは差し出されたイーツェンの手を見ていたが、やがてのろのろと自分の手をのばした。その左手をつかみ、シゼの体がおしのけていた木槍の束が倒れないよう片手で押さえながら、イーツェンはシゼを小屋の表へ引き出す。シゼの手は熱く、小さくふるえているようだった。
 何か呟いたシゼが立ち上がろうとしてイーツェンにのめりかかり、肩に両腕を回して、ぐったりした体を預けてきた。自分で立とうとはしているのだが、かなりの重さがイーツェンにかかる。意識があるのがふしぎなほどシゼの体は熱く、支えようとしながらイーツェンは左手でシゼの背をなでた。
「シゼ」
 呟いて、イーツェンは囁いた。
「歩けるか?」
「‥‥‥」
 シゼがうなずいた。状況がよくわかっていないのだろう、イーツェンの左肩を痛いほどの力でつかみ、誘導されるまま一歩ずつ歩き出す。体中が苦痛にきしんだが、イーツェンはこらえてシゼの体に腕を回し、のろい歩みをそろえた。
 ──宿場を出るしかない。
 頭に浮かんだのはそれだけだった。もうここにはいられない。少なくとも、あの兵たちが去るまでの二日間は、どこかに姿を隠さなければ。
 だが、こんな日暮れに宿場を発つ者はただでさえ目立つし、兵たちの間を抜けようとすればきっと見とがめられるだろう。到着した時のように。
 イーツェンは歯を噛み、荒い息のシゼの背をなでた。倉庫用の建物の間から、柵とその向こうの天幕の群れがうっすらと見える。宿場の門がしめられる前に、こことは逆の、北西側の門まで行かないとならない。
 だがそちらに向けて数歩、十数歩と歩みをすすめていくうちに、それが不可能なのがわかった。イーツェンの膝は疲労にふるえ、シゼの重みもくわわって、背中の痛みは限界だった。宿場の出口までたどりつけたとしても、そこから先ほとんど動けまい。それでは何にもならなかった。
「シゼ。金は持ってるか?」
 歩きながら、イーツェンはたずねた。シゼがしばらくして、かすれた声で呟く。
「‥‥剣帯の、裏に‥‥縫いこんで‥‥」
「馬を買えるくらいあるか?」
「‥‥‥」
 ぐらりとシゼの頭が揺れた。うなずいたと判断して、イーツェンは足を引きずるように歩きながら、苦しい息で言葉をつづける。
「馬を買って、それで宿場を出よう」
 水、食糧、そういったものもせめて最低限携えなくてはならないと、イーツェンは思う。そしてシゼを馬に乗せて、できる限り早くどこかの集落へたどりつき、治療の心得のある者を探し当てなくては。
 途中でシゼの肩にマントを回しかけて服装をとりつくろい、イーツェンはまたシゼを支えながら歩きはじめる。日暮れが近いので行き交う人の動きは早いが、道端に座りこんでいる酔っ払いの姿もあった。自分たちも酔った者のように見られればいいと、イーツェンは願う。酔った主人と、その奴隷。どこにでもいるような二人。
 ──本当にそうだったら、どんなによかっただろう。


 病なんだ、とイーツェンは幾度もくり返した。病で助けが必要で、馬が要る。主人が馬を必要としている。
 宿場にやってきた兵たちは豚だけでなく馬も徴用したため、宿場に馬は不足していたが、イーツェンには目星があった。薬師を探して宿から宿へと聞き回っていた途中、それとよくわかっていないままにあまり筋のよくない裏宿にも回ったのだ。薄暗い、うらぶれた雰囲気にイーツェンも内心すくんだものだが、そのうちの一つで、賭博で巻き上げられたらしい二人づれを見た。男二人、宿長の前のテーブルに持ち物をいくつか並べ、それを買い取ってくれるよう掛け合っていたところだった。
 二人が宿の床で荷をひろげ、鞍袋から出した荷を二つの担ぎ荷へ振り分けていたのを、イーツェンは見ている。最後まで見ていたわけではないが、鞍袋を空にしようとしていた様子だった。馬か、荷運びに使っていた動物を売り払ったのではないかと、イーツェンは思う。賭け代のカタに取られたのかもしれないが、イーツェンの見たところ、賭け場の胴元も宿長だった。ならばそこに動物が一頭、余っている筈である。
 希望をたぐって、イーツェンはきしむ扉をふたたびくぐり、小汚いテーブルをはさんで宿長と相対した。
「宿も追い出された」
 正直に、イーツェンはそう言う。事実を偽ったとしても、気持ちを偽りとおすことはできない。嘘に真実をまぜ、本心からの感情で人にうったえるしかない。ジノンやアガインとの対峙を通してイーツェンはそれを学んでいた。
 半分は嘘、半分は真実。
「宿にも残らず聞き回った。でも、どんどん悪くなるばかりで。助かるには、先に発った薬師に追いつくしかない」
「‥‥金は?」
 腕ぐみして聞いていた男が、頭に横巻きにした布の下からじろりとイーツェンを見る。幅広の口元にかすかな歪みがあった。いいカモを見つけたと値踏みされているのがわかったが、イーツェンは駆け引きの余裕のない無知な奴隷をよそおった。時間がない。手段もない。金でかたのつくことなら、今は惜しむ時ではなかった。
「これだけある」
 銀貨3枚を無造作に置くと、男の目がほそまった。イーツェンは腰の革袋をほどき、すぼめた口をあけて、中から振り出した大粒や小粒の銅貨をテーブルに積んだ。
「これで何とかしてほしい。お願いだ」
「‥‥病じゃしょうがねぇな」
 買う物も見ずに有り金をほとんど出そうとする馬鹿な奴隷に、男は小さな笑みを見せ、あごをしゃくった。
「裏へ回んな」
 イーツェンはうなずいて、裏道で待っているシゼのことを思った。もう時間がない。弱りきったシゼをつれて、宿場の門がとざされる前にまにあうだろうか。焦りばかりが身の内を灼く。
 じりじりとするイーツェンを前に、男が小屋から引き出してきたのは一頭のロバだった。荷運び用のロバで、骨太だが貧弱なほどにやせている。毛もぼさぼさでみすぼらしい様子の獣に近づくと、イーツェンはロバの耳の中をのぞき、肩と前脚にふれ、四本足のひづめの裏を見た。
 イーツェンはロバをよく知らないが、リグで山牛の世話をしたことならある。その経験に照らしてもこの獣は健康そうだし、筋肉もしっかりついている。やせてはいるが、本当に必要な肉が削げ落ちるほど飢えてはいない。
 反応を見ている男へ、イーツェンはうなずいた。やせこけたロバにユクィルスの銀貨3枚。まともな値段ではないが、まともな時でも、場所でもない。このロバがほとんど唯一の、彼らの命綱だった。


 ぐらりとシゼの体がかしぐたび、イーツェンは腹の底が不安でかたくなるのをおぼえる。そもそも人が乗るのに向いた鞍ではない、荷物を積む固い鞍だが、シゼは荷鞍の前側のめくれた皮を握ってどうにかロバの上で身を支えていた。あぶみがないので、どうしても体が安定しない。
 ──急がないと。
 背中の痛みと焦りで、イーツェンは全身に汗を吹いていた。靴と擦れた足も痛い。
 もう陽の残りはほとんどなかった。薄暗い道にはぽつりぽつりと窓からの灯りがおちていたが、その数は少ない。油も貴重なのだろう。
 イーツェンはロバの引き綱を左手に持ち直し、右手をロバの首すじに置いた。その手で体を支え、背中の痛みを少しでもやわらげようとする。一歩ごとに背中の奥で何かが裂けていくような激痛だった。
「‥‥イーツェン?」
 かすれた声にはっとあおぐと、シゼがぼんやりとイーツェンを見おろしていた。イーツェンはあわてて歩みを元の速度に早め、笑みをつくる。
「大丈夫だ、しっかり前を見て。もう少しがんばれ、シゼ」
「‥‥‥」
 シゼが何かつぶやいたようだった。え、とイーツェンが問い返すと、ぼそぼそと、荒い息の下から少しだけはっきりと言った。
「通行料、を」
「用意してある。人二人と、ロバ一頭分」
 そう答えて、イーツェンは思わず本心から微笑した。どんなに口うるさい言葉でも、今は聞きたかった。
 道の向こうに、木を格子に組んだ門が見えてくる。それがまだ開け放たれているのを見て、イーツェンはほっと腹の底から息をついた。まだ間に合う。引き綱を握り直した。
「行こう」
 シゼにというより自分に向けてつぶやき、痛む足を一歩ずつ動かす。その一歩ごとに、門はじれったい速度で近づいた。
 だが、近づいた門の両側に立つ人影がはっきり見えてくるにつれ、イーツェンは口の中が乾くのを感じた。左側にいるのは宿場の門番のようだが、右側の門柱にもたれて腕組みしているのは、長剣を下げたユクィルス兵だった。
 じっと、近づいてくるイーツェンたちを見ている。
 乾いた唇をなめようとしたが、口の中もカラカラだった。だがもう逃げるわけにはいかないし、逃げ場もない。歩き続けながら、イーツェンは鞍の横にくくりつけたシゼの長剣をちらりと見た。自分にこれが扱えるかはともかく、いざとなれば抜くしかあるまい。
 道端に茂る草むらの影から、羽虫が数匹とびたった。顔近くにはためいてきたそれを手で払い、イーツェンは門へ近づきながら、門番の方へ丁寧な声をかけた。
「旦那さま、主人からの滞在の礼でございます」
 門番はうなずいて、イーツェンがさしだす通行料の銅貨を受けとった。兵が門柱から身をおこし、ゆっくりとイーツェンに歩みよる。イーツェンは苦痛と緊張をこらえて一礼した。
「こんな時間に発つのか?」
 年配の男の声は心配そうだったが、イーツェンの耳はその声の裏に不信を聞く。それが自分の不信をうつしたものなのか、本当にそこにあるものなのか、イーツェンにはわからない。
「病ゆえ、宿貸しを断られました。主人のためにも、一刻も早く薬師を探しに参らねばなりません」
「薬師なら、裏の陣にいたと思うが‥‥」
「もうおられぬとうかがいました」
 こみあげる苛立ちを覆い隠すのに、ひどく苦労した。シゼが鞍皮をつかむ指の関節が白い。痛むほどにつかんで、その痛みで自分を支えているのだとイーツェンにはわかった。
 兵が小首をかしげて門番の男を見る。
「発ったか?」
「さぁ‥‥夕番だし、俺」
 背の低い男はがさついた声でそう言いながら、イーツェンの渡した金を指の間でもてあそんだ。兵は小さくうなずき、シゼにちらりと目をやる。鞍の横にくくりつけた剣にも視線をはしらせたのが、イーツェンにはわかった。
「発ってなければまだいるかもしれんな。探してやろうか」
「ご親切には感謝いたしますが‥‥」
 イーツェンは言いよどんで、息を吸った。あまり強硬な言い方で相手を怒らせたくはない。
「私どもも、先を急がねばなりません。主人の決めたことでもございます」
「だが夜の旅は危険だぞ。野党に会ったらどうする」
「このあたりの街道すじは、兵隊の方々のおかげで随分よくなったとうかがいました。皆様に神々の誉れがございますように」
 でまかせである。だが兵が野党を縛り首にして回っているという噂は聞いたから、あながち嘘というわけではない。
 はたして、思い当たることがあるらしい男はニッと破顔した。
「まあな。だが危ないことにかわりはない。休む場所くらいは探してやるから、一晩待ったらどうだ」
「ありがとうございます。ですがご迷惑をおかけできませんし、心配で眠ることなどできぬかと存じます」
 できるかぎりにこやかに言って、それ以上の間を与えず、イーツェンは一礼して歩き出した。二人の男の間を通り抜け、門を出るまでの数歩、緊張で喉から胃までがこわばったが、何ごともおこらなかった。
 門石の外へ出て、イーツェンはつめていた息をそろりと吐き出す。だが夕暮れの道を十数歩ほど行ったところで、背後から軽い駆け足と兵の声がせまってきた。
「待ちなさい」
 逃げようか、と馬鹿な考えが頭をかすめる。だがイーツェンはロバの引き綱を握りしめたまま、ゆっくりと振り向いて、近づいてくる男を見つめた。
 男は走るのをやめて歩みよりながら、右手をさし出した。
「ほら。これを持っていきなさい」
「‥‥‥」
 イーツェンは、さし出された手のひらにのっている銅貨をぽかんと見つめた。さっき自分が門番に渡した通行料だと気がつき、うろたえた目をあげる。
「ですが‥‥これは‥‥」
「かまわんよ。忠義な奴隷というのも昨今少ない。気をつけてな」
「ありがとうございます」
 人肌の温度がうつった金をイーツェンが受けとると、男は目元のしわを深くして笑い、長い影を引きながら門の方へと戻っていった。


 わずかな陽はすぐに地平に没し、宿場が見えなくなると、イーツェンは顔をしかめて靴を脱いだ。右も左も、指の上とくるぶしから足の甲へ回ったところの皮がずるりと剥けている。雨に濡れた靴が変形したまま乾いてしまったため、ひどい靴ずれをおこしていた。
 鞍の後ろに結びつけた麻袋をあけ、わずかな荷物の上に靴を押しこんだ。宿の男から水筒と三日分の食糧、それに少量の塩を分けてもらっている。と言っても親切ではなく、ロバにつけた法外な値段に含まれているだけだが、それでも心底ありがたかった。
 道が踏み固められているので裸足でも歩きやすいかと思ったが、道のあちこちで石のかけらが足の裏に刺さる。イーツェンはシャツの腰に巻いていた腰帯を取ると、歯を使って布地を縦に裂き、足の裏を覆うように両足にぐるぐると巻いて、足の甲で結んだ。
 シゼは背を丸くしてロバの首すじにもたれかかっていた。貧弱なロバの頭が前のめりにがくりと落ちそうだ。イーツェンは水筒の口をシゼの口元にあてて水を飲ませると、自分も一口飲み、引き綱を引いて暗い道を歩きはじめた。
 星の明るい夜ではあるが、陽が深く沈んでしまえば足元の確認などほとんどできない。目の前は塗りつぶされたように暗く、歩みをいくら用心深くしても、イーツェンは二度ばかり道を踏み外した。二度目で軽く足首をひねったらしい。顔をしかめ、引きずるような歩みをつづけた。
「‥‥どこへ?」
 ふいに闇の中でシゼが呟いた声に、イーツェンはとびあがらんばかりに驚いた。
「とりあえず──」
 そこまで言って、口ごもる。どこへ。本当に、それを知りたいのはイーツェンの方だった。
「‥‥もう少し行ったら、休めるところを探そう」
 とりあえず、そう口にする。聞こえたのかどうか、シゼの返事はなかった。
 イーツェンはロバのすぐ横に寄って、ロバの上で揺れるシゼの背中にふれる。熱い。吐息をついて、どうにか歩みを早めた。
 背中の痛みと足の痛みが交互に襲ってきて、意識が苦痛の中に埋没してしまいそうになる。一歩一歩、そして次の一歩。その先は考えず、ただ一歩ずつに集中し、ただ歩く。あの牢で、ただ一日ずつ、一瞬ずつを生きていたように。
 歩け、と自分に念じた。歩け。もう少し。どこか安全なところへシゼをつれていかなければ。
 はっ、はっ、と荒い息が耳にこだまする。自分自身の息だった。浅く、浅く、息がうまく胸に入っていかない。


 道を外れていることを悟ったのは、いつのまにやら奇妙にやわらかい地面を歩いていることに気付いた時だった。気付くまで、いったいどのくらいそんな地面を歩いてきたのか、わからない。茫然としたまま踏み出した無意識の一歩が、水っぽい地面にぐにゃりと沈んだ。
 はっと足を戻し、行きすぎようとするロバをとめる。
「戻れ!」
 湿地だ、という恐怖が頭をかすめた。暗い中で湿地に踏みこんではまりこんでしまったら、決して助からない。だがロバはイーツェンの制止をぐいと鼻で押しのけた。必死でとめようと、イーツェンは思いきり引き綱を引いたが、獣は荒々しい動きで頭と耳を振っていやがり、次の瞬間、いきなりイーツェンの上にシゼがドサリと落ちてきた。
 不意打ちに、イーツェンはシゼの下じきになって地面へ叩きつけられ、つらぬきとおるような背中の激痛に声を失ったまま呻いた。やわらかい地面だったのがわずかな救いだが、頭を打ちつけて、頭蓋の中にしばらくその衝撃が反響していた。
 苦悶の喘ぎをこぼして、イーツェンはシゼの重みに腕をばたつかせた。体がねじれた状態で倒れ、左腕を下じきにしてしまっているせいで動きがうまくとれない。ねじれた体を戻そうとしたが、シゼの体が思った以上に重く、左肩に痛みがはしった。
 荒い息をつきながら、イーツェンはいったん動きをとめる。そうしてじっとしているうちに息がととのい、少しだけ冷静にもなった。意識を失っている様子のシゼの体と自分の体の間からゆっくりと右腕を引き抜き、手を自由にすると、シゼの背中へ手を回す。足をシゼの足に絡めるようにかけ、体を密着させたままぐるりと一緒に半回転した。一度ではうまくいかなかったが、何とか起き上がり、シゼの上にかがみこんだ。体の至るところが痛みにきしんで、めまいがした。
「シゼ‥‥」
 頬にふれるが、シゼの熱い肌には汗がにじみ、返事がない。水を飲ませようとして、イーツェンはロバの荷に水筒をくくりつけていたことを思い出した。水だけではない。荷も、残った金も、シゼの剣も、全部あのロバが背負っている。
 そしてそのロバは、湿地を闇の中へと歩き去っていった。
 茫然として座りこみ、イーツェンはとりとめなく闇を見つめていたが、何かが光った気がしてはっとした。目をこらす。じっと見ていると、また闇の奥で何かが光った。
 その時、獣が頭を振って口を鳴らす「ブルルルル」という息が聞こえてきた。イーツェンは疲労にがくがくする膝で立ち上がり、湿り気をおびた地面を足でさぐりながら慎重に歩き出した。
 近づくにつれ、光が揺れているのが見えた。水だ、とイーツェンは思う。水面に月の反射がうつっている。いつのまにか、細いながらも月が天に姿を見せていた。そう思って耳をすますと、葉擦れの音の向こうにかすかな水音も聞こえている。
 その光の前で動く影があった。
 ロバは、水辺で頭を下げてピチャピチャと水を飲んでいた。イーツェンはそっと濡れた土を踏み、水たまりに足を濡らしながら歩みよって、獣の首をやさしく叩く。耳の後ろをかいてやると、ロバはごく小さくいなないた。
 沼ではなかった。泉か、雨でできた一時的な溜まり水か。何にしても、たんなる濡れ地だ。イーツェンは怯えた自分がひどく滑稽になって、喉の奥でかすれた笑いを洩らす。このロバが水の匂いをかぎつけて道を外れ、ここまで自分たちをつれてきたのだと悟っていた。
 水をたっぷり飲んだロバを、月明かりをたよりに引いて戻ると、イーツェンは暗がりに見つけた手近な潅木にロバの手綱をくくった。それから少し乾いた地面までシゼの体をどうにか引っぱり、荒い息をつくシゼの唇を水で湿す。
 ロバの鞍からおろした荷物をさぐって、干し肉を取り出した。空腹のあまり何も食べたくないほどだったが、どうにかいくらかを飲み下し、次のひとかけをよく噛んで口の中で固い肉の繊維をほぐした。それを指で取り出し、シゼの口の中へ押しこむ。
「食べて。シゼ」
 囁きがきこえたのかどうか、シゼはゆっくりとそれを嚥下した。もう一度水を飲ませて汗を拭ってやると、イーツェンはシゼの剣を抱くようにかかえて横たわり、自分とシゼの上にシゼのマントをひろげた。
 もう疲れきっていた。背中の強い痛みに眠りを邪魔されたのもわずかな時間で、イーツェンの意識は、刃で断ち切ったようにそこで途切れた。