がやついた喧騒が耳を覆うように響いていた。イーツェンは、汗ばむ手を何度も握りしめながら、喉にはりつこうとする息を呑みこんだ。
体中が冷たい汗に濡れ、まるで肌の上をどこといわず温度のない虫が這い回っているようだった。怯えきった心を悟られないように表情を押し殺したが、人の視線が何気なくこちらを向くたび、その場から走り去りたくなる。
低い梁が交差しながらのびた天井の下は、荒々しいほどの人の熱気で混みあっていた。
(──シゼ)
心の中の名にすがるように、イーツェンはサイコロやカードに興じる酒場の男たちの間を歩きはじめた。この大宿の一階は、食堂と酒場、盛り場までもを兼ねていて、特に兵たちが滞在している今、彼らと彼らのふところを当てにした者たちでごった返していた。
兵たちの支度金をまきあげようと、露骨な媚びを売る娼婦。ちょっとした用事を言いつけられるのを待つ子供。テーブルの間を歩き回りながら噂話にふしをつけて歌いあげる流浪の歌い手。賭けで一儲けもくろむ宿場のごろつき。壁際の大きなテーブルには商人らしき男が陣どって、片手の吊り天秤で銀貨や大きめの銅貨をはかっては、小さな銅貨に両替してやっていた。
笑い声、怒鳴るような話し声、けたたましい歌声──渦を巻く人の声はまるで城の無礼講の宴のようで、意識が押し流されそうになる。イーツェンは固く足元を見つめてテーブルの間を歩き抜け、一つの大卓へ歩みよると、その場に膝を折って頭を垂れた。
奴隷は、自分から直に話しかけることは許されていない。あくまで話しかけられるのを待つしかない。イーツェンは食べ物のカスや鳥の骨が散らかっている床を見つめた。心臓は、この宿に入ってきた時から、耳の中にまで早すぎる鼓動を打っていた。
カラカラと、骨の賽がころがる音が聞こえる。大卓の男たちはサイコロに興じながら、煙をあげる煙管を回していた。誰もイーツェンにかまわないまま、また賽がテーブルにはねる。一人が大声で毒づきながら、いきなり手をのばしてイーツェンの首根をひっつかんだ。
「俺はコイツを賭ける!」
荒い木肌のテーブルに頬を押しつけられ、イーツェンはざらつく恐怖と痛みにあえいだ。どっと揺れた笑い声が耳に反響して、頭の芯が焼き切れたように熱くなる。もがこうとしたが、体は粘土のようで、指先一つ動かなかった。
「振れよ!」
喝采のような掛け声がかかると同時に、サイコロが振られる音。ふいに沈黙がすべてを吸いこみ、男が落胆の息をつくと、イーツェンの首をおさえていた手が外れた。
「くっそ、文無しだ、持ってけ」
ドン、と顔の横に瓶がおかれてイーツェンはビクリとした。力の入らない指を机に押しあて、どうにか顔をおこす。頬についたワインの滴を手の甲で拭いながら、ふらつく足で立った。
「お前は、どうやら俺のものらしいな?」
腕をつかまれた瞬間、イーツェンは硬直したが、無理矢理に微笑をつくって声の主へ顔を向けた。
あごの平たい、鼻の上部がかすかに左にかしいだ皮肉っぽい顔は、この大部屋に入ってきた時、直接見ないようにしながらうかがった顔だった。男は口ひげをたくわえ、ユクィルスの騎士のあかしである青鉄の騎章を胸元に留めている。青みがかった灰色の目はひんやりするような醒めた色合いで、あたりに濃い酒香のくせにほとんど酔いを見せていなかった。
イーツェンはまぶたを伏せ、柔弱に一礼した。声がふるえぬよう、全身の力で低くおさえつける。
「お許しを。私はすでに、主人のものでありますので」
「こんなところに輪つきの奴隷が一人で、何をしている」
平坦な声で問われると、緊張と恐れのあまり、全身の血が皮膚で凝ってしまうような気がした。平静に、と自分に言い聞かせながら、自分たちについてシゼが宿場の入り口でしたのと同じ説明を、もっと端折って手早く行い、イーツェンは相手を見ないようにして一礼した。
「まことに失礼とは存じますが、お許しを得ておたずねしたいことがございます」
「言ってみろ」
その声にイーツェンに興味を持った様子はなく、ただ退屈そうに乾いていたので、イーツェンはほっとした息を殺す。この男が前の宿で言われた「隊長さん」なのかどうか確信は持てなかったが、とにかく望みをつないで、口をひらいた。
「ありがとうございます。ともに旅をしております者が、只今胸の調子が悪く、休んでおります。聞き及びましたところでは、こちらさまの天幕に薬師の御方が身をよせておられたそうで、その方が何かよいお薬をお持ちではないかと、おたずねに参りました。その方にお会いしてもよろしいでしょうか」
一言ずつを押し出すのに、全身の力がいった。周囲の喧騒や笑い声に、自分の意識が浮遊して呑み込まれてしまいそうになる。
下を向いたままのイーツェンの首元に男の手がのび、指が首の輪をなぞった。イーツェンは息を呑みこみ、嫌悪をこらえる。
「これは、どこでつけられた」
「王陛下のおられる城でございます、閣下」
「お前はどこの生まれだ?」
この問いはイーツェンの虚をついた。そんなことを気にされるとは思わなかった。首の輪のせいだろうか。城で輪をつけられた奴隷が、こんなところを一人でうろついていることが、この男の不信を呼んだのか?
「‥‥アンセラの生まれでございます、閣下」
言いながら身をかがめ、さらに深く一礼した。男の手がイーツェンの首をかすめて離れる気配に、ぞっと首すじが汗ばむ。
「アンセラか。成程、奴隷に生まれついたにしては物腰がよすぎる」
「‥‥今の身には、余るお言葉にございます」
「薬師を探していると言ったな?」
「左様でございます。こちらの方々の天幕に身をよせておられると耳にいたしました」
話がやっと戻って、イーツェンはほっとする。従順に答えを待っていると、男の指先が傷だらけのテーブルをはじいて硬質な音を鳴らした。
「あの三人か。いや、もういない」
「どちらに行かれたのですか? いつ?」
全身が底のない泥に沈んでいくような重さの中で、イーツェンは必死にくいさがる。元々の施癒師が別の軍に徴用されて去り、この宿場には薬師ひとりいないのだ。
「さあな、旅の者のことなど知らん」
「どなたかご存知の方がいらっしゃらないでしょうか」
男はイーツェンから目を離して卓上の大杯に手をのばしながら、唇の片はじを上げた。
「いるかもな。自分で聞け」
「‥‥お許し、ありがとうございます」
もう一度深く頭を下げてから、イーツェンは大卓を離れた。薬師の居所や行方について知る者がいないかどうか、ほかに薬師や施癒師を知らないか、兵たちが所狭しと座るテーブルをたずね回っていく。
奴隷の輪を首に付けている身では、いきなり問いを切り出すことなどできない。まずテーブルの脇に立ち、「旦那様」と呼びかけてから床に膝を折って、声がかかるのを待つ。
自分たちの話に夢中の男たちはイーツェンを無視し、時に硬貨を投げて酒を取ってくるよう使い走りを命じ、気まぐれな軽口を叩いてからかった。
イーツェンにとって幸いなことに、服も旅の汚れにくたびれて獣小屋の臭いがうつった奴隷に、それ以上の関心を見せる男はいなかった。宿場では夜のしとねをあたためる女にも不自由していないのだろう、卑猥なからかいはどれも底がなく、軽い。
それでも一言一言に神経をとがらせ、体にわずかでもふれる手に身をこわばらせながら、イーツェンはどうにか曖昧な笑顔をつくりつづける。誰かがイーツェンの正体を疑わないかどうか、相手の挙動に目をこらし、わずかな沈黙にも身構えて、心はぎりぎりまではりつめ、苛立っていた。イーツェンに向けられる好奇や蔑みの目は無数にあるかのようなのに、男たちの誰一人、薬師の一行について何も知らないようだった。
疲労が骨に重く、膝をついてたずねるたびに背中の芯にズキズキとした痛みがくいこむ。そうして床を向いてうつむき、兵たちが周囲で交わす会話の喧騒につつまれていると、まるで自分があの城に戻ったような気がした。嘲られ、蔑まれ、どこにも逃げ場のなかった日々に。
わずかな気力をかきあつめ、イーツェンはまた次の席の横で膝をつく。今度は声をかけられるまで長くかかった。男たちの会話がイーツェンの疲れた意識をかすめていく。
「──戴冠式は──」
「入城されてからしたいようだが」
「‥‥でもまだ‥‥」
「8つ」
「8つで王か」
噂話の意味がとれないまま、土の床に落ちている陶杯の破片を見つめた。ここは城ではない、と自分に言いきかせる。そして、ここにいる彼らはイーツェンを知らない。知らない筈だ。
──薬師を探しあてねばならなかった。
シゼの熱は高く、今日になって意識も途切れがちになり、イーツェンはもはや自分の手に負えないことをよくわかっていた。せいぜい水を飲ませ、火を呑んだような体から汗を拭ってやるくらいしかできない。シゼの肌から吹き出すようにしたたる汗には嫌な粘りがあり、普通の汗ではなかった。
(私のせいだ)
イーツェンはうつむいて唇を噛む。
熱が出るその日まで、シゼは具合が悪そうなそぶりを何一つイーツェンに見せず、ただ雨の中でイーツェンを気づかい続けた。これほど悪くなるまでシゼに耐えさせ、シゼに負担をかけたのは、イーツェンの存在だった。
うつむいて人の声を聞き、慎重に問いを返し、答えを求める心をおさえつけて礼儀正しくふるまう。誰か。ただシゼを救うすべを知る誰かが必要だった。自分の痛みにかかずりあっている余裕など、今のイーツェンにはない。長い時間かかって、一人一人に聞いて回る。
痛切な望みは一つずつすべりおち、喧騒に満ちた部屋のすみで、イーツェンは茫然と立ち尽くす。一つ一つ、手がかりをたどってここまで来た。それなのにここで途切れるのだろうか。誰一人薬師の居場所を知らず、この宿場にかわりになる者はいない。
もうどうしたらいいのかわからなかった。
背中の芯から沁み出す痛みと重さに、体も心も折れそうだった。イーツェンは人の邪魔にならないよう煤けた柱の影によりかかり、押しちぢめられたような肺に息を吸いこんだ。どうすればいい。次はどこに行けばいいのだろう。
「大丈夫か?」
すぐ顔の横で声がして、イーツェンはほとんどとびあがった。自分を見つめる灰色の目とまなざしがあう。あの騎士だ。のぞきこむように見つめられ、喉元に心臓がつまったようだった。
「あ‥‥」
「気分が悪そうだな。お前も病か?」
「いえ」
イーツェンはあわてふためいて首を振り、柱から身をおこした。目を床に伏せる。
「失礼いたしました。薬師について知る方がおらぬようで、途方にくれておりました」
「そうか。俺たちは二日後に発つが、お前も来るか?」
何を言われているのかわからないまま、イーツェンは咄嗟に笑顔をつくった。冗談かと思って流そうとしたが、イーツェンを見る男のまなざしは至って真顔で、隙がなかった。
ざらついた柱の木肌に手をあてて姿勢を支えながら、イーツェンはまた頭を下げた。背中がこらえきれないほど痛む。この徒労のために、今日はいったい、何回頭を下げただろう。
「ありがとうございます。ですが、身に余るお話かと」
「主人のところへ送りとどけてやるぞ。病のつれといるよりよかろう」
「私は‥‥」
どう答えたらいいのかわからず、イーツェンはうろたえて口ごもった。どんなふうに言えばいいのだろう。この男は何を考えているのだろう。いつからイーツェンを見ていたのだろう。単に親切なのか、関心があるのか──それとも、何かを疑って、こうやって探りを入れているのだろうか?
長居をするべきではなかった。そうは思ったが、今も、さっきも、イーツェンには選択の余地がない。
イーツェンは息をゆっくりと吸い込み、男と目をあわせた。
「それは、私の判断するところにはございません。ご親切には心より感謝いたします、閣下。失礼してもよろしいでしょうか?」
目をほそめた男の口元にうっすらとした笑みが浮いたが、イーツェンにはその意味がわからない。
「気がかわったら、また来い」
「ありがとうございます」
最後に一つ深い礼をすると、イーツェンは男の脇を抜けて大部屋の出口へと歩き出した。視線に追われる感覚に背中全体がむずがゆく、肉が骨から浮き上がってくるかのようだった。肌がねっとりと汗ばむ。
ゆっくり、と自分に言いきかせた。ゆっくり。とまらず。一歩ずつ、丁寧に。出口へ向かって。走ったり、慌てたりしてはいけない。
最後の一歩。扉を抜けて外へ出ると、イーツェンは足早に宿を離れ、路地に入ってしゃがみこむ。吐きそうな胃をおさえてどうにか苦いものを飲み下した。今日はもう雨の気配もなく、乾いた空からあたたかな陽がさしているというのに、体中が冷たかった。
もう一つ、大きな酒場を回ってはみたがそれも徒労におわり、どうにか旅人向けの露店で熱冷ましの薬草を手に入れた。足元を見られたか、やたらに高い値をふっかけられる。軍が人や物資をかき集めているのか、薬師も薬草も、貴重になりつつあるようだった。
シゼから借り受けてきた革袋の中身は、すっかり軽くなっていた。
イーツェンは溜息をつく。シゼはほかに蓄えを持っているはずだが、どこに持っているかまでははっきり知らなかったし、彼の持ち物を探し回るのは嫌だった。だが、このままというわけにもいかない。
二日後に発つと言った男の言葉を、あらためて考えた。言葉通りにあの男と兵たちが宿場からいなくなれば、宿に空きが出るはずだ。金があれば、シゼをもっとましなところで休ませられるかもしれない──
いや。病の人間を新たに受け入れる宿はないだろう。
道のはじを歩きながら、イーツェンはふっと身をふるわせた。もう夕暮れ近く、道に埃を舞わせる風は涼しい。何かが燃え尽きたように、夏は終わっていくようだった。
ここで待てば、いずれギスフォールが迎えに来るとシゼは言ったが、いったいそれがいつなのかイーツェンにはわからない。ギスフォールたちが目的の村につき、一度落ちついてからということになれば、短くても4、5日はかかるだろう。おそらくは、もっと。
(それまで──)
シゼを守らなければならない。どうにか、イーツェン一人の手で。
明日はまた、病に心得のある者がいないかどうか宿場の客に聞いて回ろうと、イーツェンは腹の底まで息を深く吸い込んだ。足をはやめる。
午後の長い間、シゼを放っておいた。戻って様子を見て、どうにか粥だけでも食べさせないとならない。もしこのまま治療の助け手が得られなければ、シゼの体力だけがたよりなのだ。
一歩ごと、疲れた背中の奥に痛みがねじれ、イーツェンは重い足取りを引きずるように歩いた。自分の体がいまいましい。
迷い込んできた野犬を追いかけながら宿場の男たちが道の脇を駆けていく。夕暮れ時も近くなってあちこちの煙突から煮炊きの煙があがり、あたりには食事の匂いが漂っていた。午後中何も食べていないイーツェンの腹も、空腹を訴えはじめている。夕食用に粥を作ってくれるよう宿の男にたのんでおいたので、それをシゼとわけるつもりだった。
人の行き交う道を外れて路地へ入り、細かな建物が並ぶ町並みを抜け、宿へと急いだ。ごく小さな畑を通りすぎた狭い道の先、見覚えのある屋根を見てほっと息をつき、イーツェンは宿の横にある裏口の扉を開く。石段をのぼって台所へ顔をのぞかせた。
「すみません──」
火の前に立って鍋をにらんでいた男がイーツェンを見るや、物凄い勢いでつかつかと歩みよった。無愛想だが、きつい物の言い方をする男ではない。それが険しい表情でイーツェンをにらみ、吐き捨てるような口をきいた。
「病が相当重いらしいじゃないか!」
反射的に身をすくませたイーツェンへ、煤で汚れた指をつきつける。
「こんなところで死なれちゃかなわん。もう出てってくれ」
「‥‥‥」
イーツェンは何か言おうと口をあけ、またとじて、男の赤ら顔を見つめた。氷でなで下ろされたように、背すじがぞっと冷えた。男の口ぶりは、じかにシゼの様子を見たようではなかった。
「誰か、小屋に入れたんですか?」
「様子を見に来た奴が」
「誰です?」
さえぎったイーツェンの剣幕に、男は鼻白んだ様子で顔をしかめた。口の聞き方を知らない奴隷を殴ろうかどうか考えているような表情で、
「兵隊だよ。一体何をしでかして──」
瞬間、イーツェンは男へ背を向け、小走りに駆け出していた。
あの男の青灰色の目が脳裏をよぎる。イーツェンを見ていた、あの目。イーツェンの何かをあやしんでいたのだろうか。
うかつだった。いくつかの宿で、薬師を見かけたら伝言してやると言われ、イーツェンはこの宿の看板を教えた。あの男が、あるいはユクィルスのほかの兵が、イーツェンの居場所を探す気になればたやすかった筈だ。
狭い建物の間をよろめきながら走り、肩を壁にぶつけたが、かまわずに走り抜けた。
小屋の扉が大きく開け放たれている。不安が全身をきつく締めつけ、イーツェンは荒い息を吸いこんで小屋の中へとびこんだ。
斜めの陽がわずかにさしこむ薄暗い小屋の奥、シゼが横たわっていた寝床を目で探す。人の痕を残して寝乱れた敷布は、からっぽだった。
「───」
一瞬、指先までふるえた。もつれる足で近づく。
敷布のそばの地面には踏み荒らされた痕跡があり、壁際の木桶が四方に散乱していた。そのさなかに、男が一人うつぶせに倒れている。服装と体つきからしてシゼではない。
イーツェンは歩みよると、膝をついてかがみこみ、男の顔を慎重にのぞきこんだ。
若い男だった。イーツェンと大してかわらないだろう。村男のような質素な服装に、不釣り合いな鎖帷子つきの袖なし胴衣をまとっている。腰には古びた剣を、腰帯にくくりつけるように下げていた。このあたりの村で隊にくわわった新兵だろうか。
酒場で見た中にこの顔があったかどうか考えたが、思い出せなかった。あそこには大勢いたし、イーツェンは大抵下を向いていた。
男は目をとじ、唇は半開きで、顔に殴られた跡があった。イーツェンは指をのばして男の口元に近づける。息があるのをたしかめてから立ち上がり、小屋の中をぐるりと見まわした。
シゼの姿がどこにもなかった。
荷も、敷布も、そのまま残されている。それが荒らされた気配はない。イーツェンはふるえる手を握ったり開いたりしながら、うろうろと敷布の周囲を歩き回った。この男を殴ったのはシゼだろうか。シゼはどこに行ったのだろう。彼らの仲間につれていかれたのだろうか。だが、ならば、どうしてこの男が気絶したまま残されているのだろう?
剣がない、とやっと気がついて、はたと立ち止まる。荷の後ろに寝かせておいたシゼの長剣が、剣帯ごとなくなっている。あらためてひとつずつ観察すると、シゼの靴もなかった。
──自分で出ていったのだろうか。
イーツェンは眉を寄せて立ち止まる。剣を取り、靴を履いて。だが、どこに、何のために?
「‥‥‥」
男が何かを呻く声に、イーツェンはギクリとすくんだ。見おろして息をつめたが、男の意識が戻る気配はなく、イーツェンはそろそろと忍び足で距離を取った。さだまらない視線であたりを見まわす。
剣。剣帯。靴。最低限の身支度はしていったということだ。
シゼが男を殴り、自ら小屋を出ていったとして、いったい何故そんなことをしたのだろう。あの熱で、弱った体で、彼はどこに行こうとしているのだろう。
(何故──どこに)
頭の中がざわついて考えがまとまらず、イーツェンは自分の頬を平手でひっぱたいた。一瞬の熱い痛みに思考がすっきりする。息を深く吸い、痛む背をのばして、もう一度小屋を見回した。
倒れている男は服装からして兵の中でも新入りか、下っ端にちがいない。命じられてシゼの様子を見に来たか、もしかしたら連行するつもりだったのか。ここに倒れたまま誰の助けもないと言うことは、仲間づれなどではなく一人で来たはずだ。一人で来て、彼がシゼを起こそうとした──その様子を、イーツェンは想像してみる。
シゼはどう思っただろう。熱に浮かされて朦朧とした意識の中、男に揺りおこされて。剣と鎖帷子を見れば男がユクィルスの兵だとわかっただろうし、男が自らそれを名乗ったかもしれない。
どう思ったか、どう見えたか、イーツェンはシゼの様子を思い描く。イーツェンがどうあっても薬師を探しに行く決心をした昼すぎ、シゼにはほとんど意識がなかった。どこへ何をしに出かけるのか説明はしたが、シゼの記憶にそれが残ったかどうかは疑わしい。
ならばシゼは、目をさまして、熱に浮かされた意識のまま見知らぬ男──それもユクィルスの兵──を見、イーツェンがいないことにそこではじめて気付いたことになる。シゼはどう思っただろう。イーツェンが知らないうちに姿を消し、かわりにユクィルスの兵と向き合って。
イーツェンがどこへ消えたか、シゼは状況を誤解したのだろうか。だからこの男を殴って、姿を消した。
「‥‥大変だ‥‥」
茫然と呟き、イーツェンは荷物の一番上からシゼの旅装用マントを引っつかんだ。それを肘にかけ、早足で小屋を出る。こまかな汗が額や頬をつたいおちていくのを感じた。急がないと手遅れになる。
シゼは、イーツェンを探しに出たのだ。探しに──いや、おそらくは、取り戻しに。ユクィルスの兵陣へ。