いつしか雨は細い糸のようになっていた。二人は歩きつづけた。
 イーツェンのために定期的な小休止をはさみながらの移動だったが、自分で思うよりイーツェンは長く、それなりの速度を保って歩くことができた。
 溜まった疲労が全身を泥のようににぶくしたが、何かを考える余裕がなくなるのはありがたかった。ただ一歩ずつ、足を持ち上げ、前に出し、ぬかるみに吸いつく靴を持ち上げ、前に出す。
 なにもかもが永劫につづいていくような気がした。雨は天地の間をつなぎ、彼らは二人きりで大きく曲がった道を歩いていく。このままどこにもたどりつかないのかと思えるほど、雨音だけに満たされた世界は静かだった。
 開拓中の荒れ地に、大きく水が溜まっている。池のようになった横を通り抜けながら、ふいにシゼが言いづらそうに口をひらいた。
「宿を取る時に、身分が必要なんですが」
 そのことはイーツェンの頭にもあった。
「お前が私の主人なんだろ」
 なるべく軽口にきこえるように言ってみると、自分の声が思いのほか明るくひびいたので、イーツェンはほっとした。ついでにさらに軽口を叩いてみる。
「お前の靴を脱がせたり、服をたたんだり、寝床をととのえたりするんだろう。おもしろそうだな」
 ふざけて言ってみただけの言葉は、だがイーツェンの唇に笑いをともした。今の自分に大したことができるわけでもないが、シゼの面倒をあれこれと見るのは何だか楽しそうな気がした。
 首の輪を布か何かで隠すにも、今の粗末ななりではあまりにも不自然だし、何かの拍子に輪を見られればかえって事情を疑われる。それなら、イーツェンはシゼに仕える奴隷ということにするのが一番いいだろう。
 だが、シゼは真顔のまま首を振った。
「そういうわけにはいかない。私のように主も持たない傭兵が、あなたのような‥‥奴隷をつれているのは、不自然だ」
「私の値段は、お前が買えるより高いと言うことか?」
 イーツェンはとまどいに顔をしかめて、雨のつたう頬を拭った。奴隷の相場と言うものを、イーツェンは知らない。自分の値がいくらなのか知りたくもなかったが、高くとも安くとも腹立たしい気がした。もっとも今は、そんな腹立ちに気をそらしている場合ではない。
「首の輪のせいか?」
「それもあります。その輪をつけるよう鎖鍛冶に命じられるのは、王族かそれにつらなる貴族なので」
「貴族から下賜されたと言っておいたらどうだろう」
「不自然ですよ」
「ふむ‥‥」
 イーツェンは立ちどまって、痛む背を数秒のばしてから、待っているシゼを追った。
「ヤティも言ってたな。お前は私の主人ではなかろうと。そういうことか」
 あの女は一体いくらで男にイーツェンを「斡旋」したのかと思うと、何だかひどく馬鹿らしくなって溜息が出た。イーツェンの値段。今のイーツェン自身が思うよりも、彼らのつける値段の方がはるかに高いのかもしれないと、皮肉な思いがうごいた。
「お前が奴隷商人のふりをすればいいんじゃないか」
 言ってみると、シゼが心底仰天した顔をイーツェンへ向けた。冗談だ、と笑いながらイーツェンは手を振る。シゼに奴隷商人の芝居ができるとは思っていない。
「こういうのはどうだろう、シゼ。お前は届け物の最中だ。お前と私の仕える主人は急ぎの用で屋敷をあけて旅立ったが、その時、奴隷の私は病に伏していた。それがまあまあよくなったので、主人はお前を護衛につけて私を呼び寄せようとしている。──どうだ?」
「‥‥悪くないかもしれませんね」
 しばらく考えこんでいてから、シゼはうなずいた。
 それから二人でイーツェンの考えた話を練り直し、いくらか変更をくわえてから肉付けをして、細部にもっともらしい話をつけくわえた。イーツェンとシゼが向かっているのは二人の「主人」の元ではなく、主人の妹の屋敷であり、主人はユクィルスの参集に応じて旅立ち、妹の元でしばらく働くようにと彼らを送り出した──そうあらすじを書き換え、主人の名や身分をつけて、イーツェンは満足した。ユクィルスの王族の中でも傍流で、子だくさんな人物の庶子の一人ということにする。これならそうそうボロは出まい。
 満足するばかりでも仕方がないので、あれこれの名前と身分をシゼに覚えさせた上、さらに問答を重ねてシゼを相手にさまざまな状況をためした。ただ、「主人」が参集した先がジノンなのかローギスなのかは、決めかねた。このあたりでどちらの勢力が強いのかにもよるし、思わせぶりにぼかしておいた方がもっともらしい気もした。宿場につけば、何か役に立つ情報も手に入るだろう。
 そうやって二人で話しているうちに周囲にちらほらと家が増え、家畜小屋のついた農家の横あいを抜けると、道の先にかすんだ宿場の門が見えてきた。
 ほっとしながら、イーツェンの足取りが軽くなる。空を覆う雲で日の位置はわからなかったが、いつ暗くなりはじめてもおかしくない頃合いであった。
 だが、木組みの宿場門に近づいた二人の目にうつったのは、宿場入口の馬場にところせましと並べられた天幕だった。天幕の間を兵が行き交い、天幕に垂らされた帯旗に染め抜かれているのは、数々のユクィルスの紋章であった。


 心臓が喉にせりあがりそうな圧迫感に、イーツェンの息が喉でとまった。くいいるように、紋章のかたちを凝視する。鹿角と、彼らが海を渡った民であることを示す波の流線と──その二つが組み合わさったユクィルス王家の紋の下に槍が横たわった、それは軍の紋だった。
 弱まった雨の下、十数張りある天幕の間にはユクィルスの兵たちの姿があった。ひときわ大きな天幕の、丸くすぼめた屋根の中央からは木の煙筒が斜めに突き出し、煮炊きの煙をうっすらと雨かすみの中に吐いていた。
「とまらないで」
 シゼの囁きが体の中へ入ってきて、見入っていたイーツェンは我に返った。
「不審に思われる、イーツェン」
「‥‥そういう時は“とまるな”と命令するものだ、シゼ」
 せめてもの軽口を叩き返して、イーツェンは言われたとおりシゼの足取りにあわせて半歩うしろを歩きつづける。緊張が体中をしめつけ、ユクィルスの兵陣に近づくにつれ息が砂のように喉にざらついたが、ひたすらシゼの後ろ姿に意識を集中させた。シゼの歩きは、体の上下動が少ない。重心を低く安定させたまま、右足を出す時に左の肩が少し下がり、その肩が、左足を出す時の重心のうつりとともに少し上がる。よどみなく、揺らがない。一連の動きのくりかえしは、シゼの鼓動のリズムと同じ確かさでイーツェンを安心させた。
 一つずつ。そうやってシゼの歩みについて、目の前にあるものをのりこえてきた。雨に濡れた手を握りしめながら、イーツェンはそのことを思う。シゼの存在を心のともしびのようにして、ただここまで歩いてきた。一歩ずつ。
 息が落ちついてくる。一つ一つ、足どりにあわせて息を吸いこみ、吐き出しながら、イーツェンはシゼの後ろで歩みをすすめつづけた。
 けぶるような雨霧の向こうに、ユクィルスの紋章と、ユクィルスの兵の声が近づいてきた。


 宿場の門をくぐろうとした彼らに兵からの誰何がとび、イーツェンは顔を見せるよう命じられた。おとなしく従い、雨よけのマントをたぐって顔をあらわにする。
 シゼは単調な、飽きているような声で自分たちの身柄を説明した。つくりあげたばかりの説明をなぞる声を聞きながら、イーツェンはじっとうつむいて従順にシゼのうしろにひかえていたが、わずかな言いよどみやためらい、そして応じる兵の声音ひとつひとつに全身が凍る思いだった。
 雨の中だが、夕食時らしくまばらに兵が行き交っている。彼らにちらちら見られているのを感じた。雨の中の旅を不審に思われても仕方あるまいが、この中にたった一人でも城でイーツェンの顔を見たことがある者がいれば、二人はおわりだ。
 わずかな物事、そのひとつひとつに恐れがかきたてられる。体の内側がこまかな氷になって、粉々に砕けてしまいそうだった。気をゆるめると自分がどこにいるのかまた見失ってしまいそうで、泥に体が沈みこむような虚脱感に沈んでしまう。どうしたらいいのかわからないまま、イーツェンは小さくふるえていた。
「まだ病から治ってないんじゃないか?」
 若い男がいきなり横からイーツェンをのぞきこむ。周囲の何人かがいっせいにイーツェンを見た。
「可哀想にな。メネイト様がここにとどまる間は、宿はいっぱいだぞ」
 同情的な声で言う男から身をすくめて顔をさらに伏せ、イーツェンはやっとのことで小さな礼を返した。濡れた首の輪が肌に重く吸いつくようだった。
 シゼが何か言ったが、もうそれは聞きとれなかった。腕をつかまれて、イーツェンは硬直する。
「行こう」
 耳元で低い囁きが揺れた。誰よりもよく知っている声。すんでのところで悲鳴をこらえ、シゼの声にすがりつくように、一歩、イーツェンは踏み出す。ぬかるんだ土が靴裏に吸いついて足が重い。
 一歩。また一歩。宿場の木の門をくぐり、右に折れて、低い木の建物が両側にならぶ一番太い通りへと入っていく。
 雨に透かして人の匂いが押しよせ、イーツェンの目の前がふっとくらんだ。吐き気、背中の痛み、めまい。怯えと疲労に自分が極限まではりつめ、引きのばされてしまったようだった。
 シゼの手が自分をつかんでいなければ、崩れてしまっただろう。だがその手は外れず、イーツェンは歩きつづけた。宿とおぼしき建物の多くからはユクィルスの軍紋と、イーツェンにもかすかに覚えがあるユクィルス貴族の紋が下がり、路上に客引きの姿はなかった。
 シゼは路地に数歩入ったところにイーツェンをよりかからせると、マントをあげて頭まですっぽり覆わせ、待っているように言いおいて建物の表へ回っていった。
 ポタポタと、目の前のマントのふちから滴がおちる。イーツェンはマントの下で胸元に手をあて、ゆっくりと息を吸いこんだ。
 シゼはすぐに戻ってくると、また次の宿を探した。どうやらどこも兵でいっぱいなのだろう、ゆっくりと通りを移動しながら4軒目の宿を空振りした時、雨の中から彼らに声がかかった。
「私たちの天幕へ来ますか?」
 聞きおぼえのない男の声にイーツェンはとびあがるほど驚いたが、シゼは低い声でこたえた。
「結構だ」
 足音がイーツェンに近づいたが、シゼがすばやく動いてその前をさえぎる。イーツェンはまぶかなマントとシゼの肩ごしに、声の主を見た。そう若くはない男で、しっかりと脂のすりこまれた雨天用のマントとフードをまとっている。フードの中の顔は細く、体つきからしても兵には見えなかったが、商人という風情でもない。
 シゼが態度に見せた険を、男は無視した。細い目でイーツェンをじっと見ている。イーツェンは下を向き、泥に汚れた足元へ視線を据えた。
「宿にあきはありませんよ。それに、そちらの人は病んでいるでしょう? 手当てなら、私のつれが得手とするところです」
「‥‥薬師か?」
 シゼがためらうのがわかった。イーツェンの体と痛みのことを考えたのだろう。だがイーツェンは手をのばし、シゼのマントの背中を小さく引いて、嫌だとつたえた。相手の得体がしれないし、背中を他人に見せる気にもなれない。この男がいつからか二人の様子を観察していた様子なのも、気持ちが悪かった。
 シゼが首を振った。
「失礼する」
「そうですか」
 ぶっきらぼうな拒否にそれ以上くいさがらず、男は無表情でうなずいて彼らに背を向けた。シゼはその姿が充分遠ざかるまで見送ってから、また次の宿をあたりはじめる。そして、次。その次。やがて表通りは歩き尽くした。
 細い路地を入った先の、まるで普通の家のような小さな建物に入ったきりシゼはしばらく出てこなかったが、やがて丸顔の男を一人つれて扉から出てくると、イーツェンを手招きした。
 陰気そうに押しだまった男が中庭へつづく腰高の木戸を開く。隣の家との細い間を抜け、数軒が面した裏庭へ二人をつれていった。背の低い横長の小屋の扉をあける。
 ムッとするような獣臭がたちこめていた。イーツェンはシゼにつづいて扉をくぐったが、その扉も低く、頭を下げて入らねばならない。小屋の中は土床で、土の上に汚れた敷き藁がちらばり、泥のついた平たい水桶がいくつも重ねられて、板葺きの屋根の間から雨が滴っていた。
 男はシゼに何か言って、イーツェンには目もくれずに小屋から出ていった。扉がしまると、シゼはイーツェンに歩みよって濡れそぼったマントを取る。
「すみません。ひとまずここで休みましょう。また部屋を探します」
 イーツェンは疲労にぼうっとしたまま、無言で頭を振った。シゼが疲れているのもよくわかっていたし、誰の目もないところで雨をしのげるならどこでもよかった。
 マントを外された体が軽くなる。小屋にしみついた獣臭は生々しいほどのものだったが、小屋はそれなりにこざっぱりと掃除され、当の獣の姿はどこにもなかった。馬かと思ったが、それにしては屋根が低く、仕切りもない。
「豚小屋?」
「そうです。豚は軍が全部買い上げていったそうで」
 シゼは後ろめたそうにそう答えると、小屋のすみのかわいた場所にできるだけきれいな敷き藁をよせ、イーツェンを座らせた。荷をそばに置く。
「火を使ってもいいそうなので、薪を買ってきます。あと何か、あたたかいものも。夏でも雨で体が冷えますからね」
「豚が残っていれば、焼いて食うのにな」
 上出来とは言えないが、どうにか押し出したイーツェンの冗談に、シゼはチラッと笑みを見せてから出ていった。


 薪を小さな一束、それに長首の壺であたためられたエールを持って戻ると、シゼはイーツェンにエールを飲ませる。
 濃くどろりと濁った、粥と言ってもいいほどのそれは、ほとんど酒の匂いがしない。冷えた唇にはひどく熱く感じられるそれを、イーツェンはゆっくりと飲んだ。
 その間にシゼは小屋のすみに積まれていた鉄の火桶をひっくり返し、地面に据えると、中に薪を重ねて小さな火を作った。それから手際よくイーツェンの靴を脱がせ、シャツにふれようとして、その手がためらった。
「いいですか?」
「‥‥何?」
 まるで頭の中にまで濃いエールがつまっているようで、頭が重く、思考がのろい。イーツェンはぼんやりとシゼを見た。
「‥‥ふれても」
 シゼは言いづらそうに、そう言う。イーツェンは一瞬どもりかかってから、ゆっくりとうなずいた。
「平気だ」
 一つうなずき返して、シゼはイーツェンがシャツを脱ぐのを手伝うと、濡れた上半身をいつものおだやかな手つきで拭った。
「背中はどうですか?」
「痛い。でも大丈夫」
 イーツェンは体を少し丸めて痛みをやわらげながら、答える。シゼは小さな息をつくと、防水皮につつまれた荷物をひらいて薄い上掛けを取り出し、イーツェンの肩に回してかけた。
 シゼは手早く自分のシャツを脱いで水を絞った。自分に向けられた裸の背を、イーツェンは相変わらずぼんやりと眺める。イーツェンの薄く褐がかった肌とはまたちがって、赤みをおびたシゼの肌の上に、白っぽい傷がいくつか散っていた。イーツェンの知らないシゼの日々が、そこにはある。子供の頃、アンセラへの遠征、そしてこの春にアガインの元で戦った傷もあるのだろうか。
 絞ったシャツをまたまとうと、シゼは立ち上がった。
「何か食べるものをもらってきます。今夜はここで眠ることになりますが、大丈夫ですか?」
 イーツェンは微笑した。
「お前といっしょなら私はどこでも平気だ、シゼ」
 思いがけなく、シゼが微笑を返した。濡れねずみでくたびれ果てていても、イーツェンはふっと胸の内があたためられるのを感じる。思わずシゼに手をのばすと、シゼがかがみこんでその手を握った。
 一瞬、シゼの手を握る指に力をこめて、イーツェンは手を離した。シゼの足音が出ていった後もしばらくそのまま身を丸めていたが、やがて上掛けをとって裸の手を火に近づけた。小屋の空気はあっというまにあたたまり、かすかに肌が汗ばんでくる感触すらある。
 それなのに身のうちは冷たく、イーツェンは目をとじてまた身をちぢめた。背中の芯に針をさしいれたような痛みがあったが、まだ耐えられないほどではない。つまりそうな息を吐き出し、吸い込んで、浅い呼吸が徐々に深くなるよう息をくりかえした。
 やがてシゼが麦粥を持って戻り、それに手持ちの干し果実を足して、二人は暗くなった小屋の火の前でゆっくりと食事をした。小屋にたちこめる豚の臭いにもすっかり慣れきって、イーツェンは一日分の緊張がゆるんでいくのを感じる。
 粥を盛った椀の底が見えはじめたころ、食べながら、シゼが言った。
「あまり大掛かりな戦にはなっていないようです。稼ぎの当てが外れた傭兵連中が、街道沿いをうろうろしているという話でした」
 どうやら、宿の親父から情報を仕入れてきたらしい。イーツェンは一口を飲み下すのに少し手間どってから、口をひらいた。
「ここの兵はどちらに仕えているかわかったか?」
「アンティロサ様だそうで」
「‥‥‥」
 イーツェンが無言でむせ返っていると、シゼが生乾きのシャツの上からイーツェンの背をなでた。イーツェンはどうにか咳をおさめて、
「オゼルクの、母君だぞ──」
 そして、ローギスの。
 彼女はオゼルクばかりを溺愛し、ローギスを遠ざけたのだとジノンは言った。その話の裏にはすなわち、アンティロサの執着の偏りが兄弟の仲をねじまげたのだという、無言の示唆があった。真実なのかどうかイーツェンにはわからないが、当のオゼルクが母親にひどく冷淡な感情を持っていたのは知っている。
「彼女が兵を挙げたのか?」
「そのようですね」
 シゼが珍しいほど素っ気なく答えたので、イーツェンは少し面食らった。
「誰についてるんだ? それとも、誰かを擁立したのか?」
「ご自分が摂政として立たれるようですよ。ローギスを王として、その王母として」
「じゃあローギス側か?」
「いえ。噂によれば、ローギスに幽閉されそうになったので、母親が先手を打って兵を挙げたとのことで、むしろジノンの方に近いかと」
 言われて、イーツェンは頭をかかえたくなった。わけがわからない。そもそも、一族の血の結束を大切にするリグの感覚では、ユクィルスの親族同士の争いというのは理解しがたい。
 うんうんうなっていると、シゼが少し笑って食事を片づけた。イーツェンはシゼが調達してきた干し草の束をひろげて、二人がどうにか寝られるだけの寝床らしきものを地面につくる。その間に、シゼはわずかな燃えさしを残して火の始末をしていた。
「シゼ」
 イーツェンはけげんそうなシゼを寝床に座らせ、シゼの靴に手をかけた。たじろぐシゼに笑みを向ける。
「少しは、お前の世話をしないと。私の仕事だろう?」
「‥‥イーツェン」
 溜息をついたが、シゼは体の力を抜き、イーツェンの指が靴の革紐をといていくにまかせた。雨に濡れた皮はきつく締まっていたが、イーツェンは急がずにシゼの靴を脱がせ、濡れた布で丁寧に足を拭いてやった。
「楽しんでいるでしょう」
 困りきったシゼの呟きに、思わず含み笑いをこぼす。
「変かな。でも楽しい」
「‥‥元気になって、よかった」
 呟いて、シゼは手をのばし、残った火の上に土をかけた。闇がおちる。だが、いつしか雨の去った夏の空は明るく、小屋の窓から入るぼんやりとした夜明かりがシゼの輪郭をやわらかく浮かび上がらせていた。
 寝床に横たわるシゼのそばに座ると、イーツェンはごく自然に身をよせた。小屋にたちこめる獣の匂いと、雨が乾いた自分の服やシゼの服の土くさい匂い、下に敷いた干し藁の匂いなどがいりまじってイーツェンの中に入りこみ、ふいに彼の脳裏に濃密な記憶がたゆたった。
 あまりに寒くて眠れずに泣いていた冬の夜、あれは年端もゆかぬ子供の頃だったか。誰かがイーツェンを抱き上げて山牛の小屋へ行き、数匹で丸まって眠っている牛たちにうずもれるようにして暖をとらせてくれたのだった。
 牛が不用意に動けば、子供などあっというまにつぶされかねない。ぬくぬくと、獣の匂いと体温にくるまって眠るイーツェンのそばに、一晩中誰かがいた──
「‥‥ああ」
 イーツェンは腹の底から溜息をついた。あれは、母だったのだ。幼いイーツェンを時おりあやし、夜通しそばについていた。牛が起き出す未明、イーツェンを抱き起こした手は死人のものかと思うばかりに白く冷たかった。
 体を横にして、シゼの肩に顔を押し付ける。今は身の凍るような冬ではなく、肌が時おりじっとりとするような夏の夜だったが、こうしてつたわってくるシゼのぬくもりは心地よかった。背中のこわばりと痛みは一向によくならないが、イーツェンはそれに慣れつつある。楽な体勢を探しながら、目をとじた。
「‥‥あなたは」
 シゼがごく低い声で囁いた時、イーツェンはほとんどまどろんでいた。
「私が怖くはないんですか?」
「何でだ?」
「私だって男だ」
 シゼの肩に額をよせたまま、イーツェンは微笑した。
「知っているよ、シゼ」
「‥‥‥」
「シゼ。私が怖いのは、お前と離れることだ。お前がそばにいることじゃない」
 シゼは小さな息をついて、イーツェンの肩をかるくなでた。その優しい手が自分を傷つけないことを、イーツェンは知っている。
 イーツェンはまた目をとじて、低くつぶやいた。
「怖いのは、物のように扱われることだ。自分が自分だという実感がなくなって、ただの物になってしまったような気がする。生きているのに、そんな心地がしなくなる。‥‥それが、怖い」
 小さな声で話す自分の声を聞いていると、その声が呼びさます恐怖が心の中で形をとりはじめる。だが形がない恐怖よりは、その方がずっといい。影を恐れるよりは、心の中に何があるのか見つめる方が。
 イーツェンは少し黙っていてから、続けた。
「シゼ。私は、オゼルクたちが‥‥私と関わりを持ちはじめた時、大して逆らおうとはしなかった。勿論嫌だったが、別にかまわないと思ったところもあった。どうせもう逃げ場はない。生きてユクィルスを出ることはないと思っていたし──それなら、いつかリグで事が成った時の彼らの顔を、見てやりたかった。リグを支配し、私を支配した気になっている彼らの鼻をあかしてやりたいと、そんなふうにすら思った」
 シゼは何も言わなかった。雨の名残りの滴が、屋根から地面へまばらにしたたる音が、遠く聞こえる。
「その時は、いつでも何とかなると思っていた。はじめはね。でも気がついたら、もうどうにもならなかった。‥‥抜け出そうとはしたんだ。でもできなかった。自分がまるで物になったようで、他人の手の中から抜け出すことができない。己が何をはじめてしまったのか、何をしているのか、わかった時にはもう遅かった」
 抜け出せなくなったのが自分の体だったのか、心だったのか、イーツェンにはわからない。ただもう、どうやっても身動きが取れなかった。逆らおうとすればするだけ、イーツェンの体も心もイーツェンを裏切り、彼の体も心も自分自身ではなくなって、闇の中に溺れていった。
「自業自得だ。何もかも」
 淡々と呟いて、イーツェンは溜息をついた。今なら自分の弱さがよくわかる。リグから離れた痛み。ユクィルスへの憎悪。自分を支配しようとするものへの憎悪、もう故郷を見ることはないという投げやりな悲嘆と自分への同情──そんなものを刃のように使って、イーツェンは自分で自分を傷つけ、自分を哀れんでいた。
 シゼの手がまたイーツェンの肩をなで、頬をかすめた。その手は少し熱く、優しく、ただ無言でイーツェンを許すようないつものシゼの手だった。あるがまま、そのままのイーツェンをシゼはいつでもそうやって受けとめてきた。
 言葉にしては何も言われていないのに、体の中で固い結び目のようにねじれたものがほどけていくのを感じる。ありがとう、と小さな唇の動きでつぶやいて、イーツェンは眠りの中へ沈みこんでいった。


 翌日も弱い雨が降り、そしてその翌日、シゼは高熱を出して伏せった。