8日目に、雨が降った。
風が湿っぽいな、とイーツェンがぼんやり考えながら荷車に揺られていると、たちまち上空に黒い雲のかたまりがより集まり、ぐるぐると不穏な動きで回りながら、むらがるように天空全体を覆いつくした。あっというまのことだった。
重く生あたたかい雨つぶが落ちてくる。一粒でばしゃりと顔が濡れるような荒々しい雨にイーツェンは呆然とした。こんな雨を、彼は知らなかった。
地面はたちまち黒く濡れ、叩くような雨に土がはね返った。空気が埃っぽい匂いを帯び、むせるばかりの土臭さがたちこめる。
髪が顔にはりつき、濡れそぼったシャツが肌に絡んだ。叩きつける水の粒がそこかしこでパタパタと音をたて、イーツェンは濡れながら微笑した。ユクィルスに三年近くいて、こんなふうに雨に濡れたのははじめてのことだった。
朝方から少し風が出ていたので荷車の幌はつけていなかった。荷台に乗った女達は雨に濡れながら大騒ぎをはじめる。荷車の後ろを歩く男が「にわか雨だろ」と怒鳴り、女の一人が「もう下までぐっしょりだよ!」と返すと、どっと笑いがおこって、イーツェンはこっそり苦笑した。
あけすけな冗談は嫌いではないが、少し落ち着かない。リグでも、そういった下品な軽口は決して耳に珍しいものではなかったが。
雨は叩きつけるように強くなり、天地の間を裂くように落ちてくる雨粒の向こうで、物のかたちは灰色ににじんで溶けていくようだった。ついに一行は、低い丘二つにはさまれてゆるく曲がった道の途中に隊をとめた。
イーツェンの頭上にも幌が張られたが、水が溜まって大きくたわみ、のびた縫い目からボタボタと水のかたまりが落ちてくる。どうせもう髪の芯まで濡れているので、イーツェンは荷車から地面におりると、雨の中で用心しながらこわばった体をのばした。相変わらず背中の内側に鈍痛がある上に、荷車に乗りつづけていた尻が痛い。そろそろ尻が平らになりそうだと胸の内でつぶやいて、その冗談に一人で小さく笑った。後でシゼに言ってみるか。
目のすみに、しゃがみこんで何かしながら丘の方へ移動しているギスフォールの姿をとらえ、イーツェンは雨の中を歩き出した。
「何してるんだ?」
べったりと前髪が額にはりついた顔で、ギスフォールはイーツェンを見上げた。
「石を拾ってるんです。ぬかるみますからね、馬車を動かし出す時に要る」
「ああ」
舗装された街道もあるが、今はその多くが兵道として一般人の通行を禁じられているらしい。彼らの道も、ほとんどが土を踏み固めただけだった。
バタバタと雨が地面を叩く音で互いの声は聞きとりづらく、イーツェンは少し声を大きくしなければならなかった。
「いつやむ?」
ギスフォールが笑って、包みのように持った布の中へ拾った石を入れた。
「それがわかれば、苦労はしません」
「そうか。そうだな」
「この雨はあまり長くはならないと思いますが、弱い雨が続くと思いますよ。夏の雨でも体が冷えるから、幌の下に戻った方がいい」
「つくまで、あと何日くらいかかる?」
「二日。でもこの天気が続けば、わかりません」
そう答えて、ギスフォールは髪の先から雨をボタボタとしたたらせながら立ち上がり、ふいにイーツェンを見つめた。
「俺は、村についたら、ルルーシュから手を引きます。アンセラに来いと誘われてるのでね」
イーツェンは水が散る睫毛をまばたかせた。
「それは‥‥そうか。気をつけてな」
「土地持ちにしてくれるそうですよ」
そう言って、ニヤッとした。イーツェンも笑う。
「地主になりたいのか? 私が任命権を持っていれば、リグで官職に引き立ててやれるのになぁ」
そう軽口を叩いてから、あまりに軽々しい物言いに赤面した。幸いギスフォールは冗談を右から左へ受け流してくれたようで、歯を見せて大きく笑った。
「そりゃありがたいですね。でも俺は称号よりも、自分の商隊がほしい」
「なるほど」
ギスフォールが商隊の護衛を長くやってきたことを思いおこして、イーツェンはうなずく。それが、彼の思い描く未来なのだろう。アンセラの先にそれがあるのかどうかはわからなかったが、ゆく道を定めた彼が、今はうらやましく思えた。
「うまくいくように祈ってるよ」
「その前に、生き延びられるよう祈って下さい」
陽気に言うと、ギスフォールは石の包みをかかえて馬車の方へ戻っていった。
雨はなかなかやまず、飽きた子供たちが丘へ走りこんで泥の投げ合いをはじめた。つくづく子供は元気だ、とイーツェンは幌の下で溜息をつく。だがすぐに女親たちが子供を追っかけてつかまえ、子供らを全員素裸にしたのには度肝を抜かれた。たしかに、その方が服は汚れまいが。
濡れて困る荷はしっかりと油布につつまれて屋根つきの荷馬車に積み込まれているが、人間は荷物ほど大事に扱われてはいない。人数分の天幕もつみこまれていない状況で、イーツェンは上に幌があるだけましというものだった。
夏の気温は低くはないが、雨に肌が冷えて背中がこわばる。イーツェンは顔をしかめ、膝をかかえて、濡れた服がはりつく気持ち悪さを頭の外へ追い出そうとした。
「‥‥ねぇ。あんたさ」
雨音にまじって聞こえた女の声が自分を呼んでいると気付いたのは、誰もその声に返事をしなかったからだった。イーツェンは顔を上げ、すぐ斜め脇に濡れそぼったスカートで座りこんでいる小柄な女を見つめた。
同じ荷車に乗り合わせている子供の母親の一人で、たしか周囲の女にはヤティと呼ばれていた。本名ではないだろうが、女たちのほとんどは互いをあだ名で呼びあっている。男たちの中にも、あからさまな通り名を使っている者も多かった。
「何か?」
イーツェンは用心深くたずねた。ヤティは上から下までイーツェンをじろりと眺め、意味あり気な目つきをした。彼女はほかの女にくらべて身なりがよく、古びてはいたが仕立ての良いシャツとスカートに、胴から胸までを下からしめあげるような青の胴衣を着て、豊満な胸元を強調している。それが雨に濡れてぴたりと体にはりつき、扇情的な雰囲気をかもし出していた。
「小遣い稼ぎをする気はない?」
「‥‥結構だ」
何を言われているのかよくわからなかったが、イーツェンは首を振った。あまりいい予感はしない。かと言って、角を立てる言い方もしたくはなかった。
ヤティはイーツェンに膝がつくほどにじりよって、声をさらにひそめる。
「どうせあの男はあんたの主人じゃないんだろ? なら、かまわないじゃないか」
「‥‥‥」
イーツェンはなにも答えなかった。かわりに無関心そうに目をほそめてやると、何を思ったか女はにんまりした。
「主人のとこから逃げてきたのかい? そんな輪をつけてもらっているところを見ると、あんたの主人はよっぽどあんたにご執心みたいだけどね」
「逃亡奴隷じゃない。事情は、あんたには関係のないことだ」
素っ気なく言うと、イーツェンは自分にすりよってくる女の肩を押しのけるようにして荷台の後ろへ歩き、地面へおろしてある渡し板を踏んで雨の中へ出た。胸がむかむかする。
肌を、服を打つ雨粒の中、ぬかるみをおびた地面を踏んで歩き出そうとした時、肩をつかまれてイーツェンは棒立ちになった。
荷車の脇にいた男だった。イーツェンの足をとめると、その体をかかえるように腕を回す。その男が先刻、荷車の内と外でヤティと話していたのを思い出したが、もう遅い。
「来るか? 天幕の中なら濡れないぜ」
「‥‥‥」
拒否の言葉を言おうとしたが、イーツェンの肺も喉も突然反応しなくなっていた。声が出ない。息ができない。雨のつたう唇をひらいたが、水が肌を流れ落ちていくのはまざまざと感じるのに、体の内側が痺れてどうにも動きがとれないまま、彼は立ちすくんだ。
「たまには目先を変えたいって旦那もいてねえ」
ヤティの声が後ろからきこえてきたが、振り返ることもできず、女の声の中にある軽蔑と悪意だけが耳にひびいた。
おびただしい雨が地面を叩き、足元を小さな渦が流れていく。全身の力が抜け、にごった泡の中に自分が吸いこまれていくような気がした。男が何か言ったが、イーツェンの耳はもう言葉を聞きとることができなかった。湿った雨の音が耳に反響し、まるで、自分の周囲で世界を構築するかけらがはがれ落ちていくようだった。崩れて、形を失っていく。
冷たくなった体の上を雨がすべり、肩を、髪を雨が打つ。暗闇の中にいるように、段々とそれが遠ざかった。小さな殻にとじこめられ、世界からへだてられ、自分がどんどんちぢんでいく。何も感じなくなるまで。
牢の腐敗した汚泥の臭いがたちこめて、イーツェンを過去へ引き戻す。闇、湿った息遣いが横たわった、くらがりの静寂、顔を押しつけられた石壁の冷たさ、体の内側にせりあがってくる、自分のものではない熱──
激しく何かが言いかわされている、その言葉の内容よりも声のひびきに驚いて、イーツェンは目をひらいた。途端に口の中に雨水が入りこんできて、自分がどこにいるのかわからなくなる。
倒れていた地面から起き上がろうとして泥だらけの土の上でもがき、手と膝をついて体をおこした。口から泥を吐く。雨で顔を洗うようにして頬から口元を拭い、イーツェンは泥の中に膝でへたりこんだ。
小さな人だかりが遠巻きにしているのにも驚いたが、自分が荷車からかなり離れたところにいることにも驚いた。馬車と馬車の間にいる。ここまで引きずられるまま歩いてきた記憶がぼんやりとよみがえって、イーツェンの全身がぞっと凍りついた。体が小さく震え出す。
「起きて」
イーツェンは呆然としたまま、目の前にしゃがみこんだギスフォールの顔を見た。さしだされた手を借りて立ち上がりながら、数歩離れたところで、シゼと男が何かを言い合っているのに気がつく。あの男だ。
雨に打たれる二人の距離は半歩ほどしかなく、鼻と鼻を間近につきあわせた彼らの間には危険なものがみなぎっていた。斜めに見えるシゼの顔は、挑むように荒々しい。喉が搾り上げられるような息をしてそちらへ行こうとしたイーツェンの上腕部を、ギスフォールがつかみ、耳元で囁いた。
「こっちへ。あなたが出ると、ややこしくなる」
「‥‥‥」
何か言おうとしたものの、イーツェンの口も喉もまだ声を見つけることができなかった。
ギスフォールに言われるままそちらへ歩こうとしたが、数歩が限界だった。よろめいたイーツェンをギスフォールがつかんだ腕で支えようとする、その手がイーツェンの上腕にくいこんだ。その力からのがれようとして、イーツェンはもがいた。
つかまれた力から、自由にならない体から、また暗闇がひろがってイーツェンを呑みこもうとする。腐臭に息がつまり、悲鳴すら音にならなかった。
ギスフォールがあわてて手を引いた反動でイーツェンの体がふらつき、倒れながら馬車に左肩をぶつける。冷えきった体に衝撃がにぶく響きわたり、体の中で何かが崩れたような痛みがはしった。それ以上、支えることができない。体も、心も。
頭の芯が絞り上げられるように痛む。心臓と同じリズムで苦痛が収縮し、目の裏で白い光と闇が激しく明滅する。口をあけたが、入ってくるのは水ばかりで、わずかの息もできないまま、自分が小さく押しちぢんでいく圧迫感を最後に、イーツェンは最後の悲鳴をあげながら意識を失った。
体がゆらゆらと左右に揺れている。自分が重い。どこかへ沈み込んでしまいそうに重い。パタパタと、体に雨があたったが、それは体にかけられた毛織りのマントを通して、おだやかな感触だった。
自分の体があたたかいものに支えられていて、一歩ずつどこかへ動いている。首は前のめりに折れ、顔はちくちくする織り地にあてられていた。
左肩の後ろに押し付けられる重みがあって、一歩ごとにぎしりと重さが揺れ、そこが痛んだ。その痛みがイーツェンを目ざめさせたようだった。
目をあけて、イーツェンは眼下に揺れるぬかるんだ地面を見つめた。一歩ずつ、見慣れたシゼのブーツがよどんだ泥と泡立つ地面を踏んでいく。歩みにあわせた規則的な息づかいが耳元できこえた。
頭を動かして、自分を背負っている相手を確認しようとしたが、イーツェンは頭からすっぽりとマントをかぶせられていて、そのはじが斜めに視界をふさいでいた。
「シゼ‥‥?」
くぐもった声で呟くと、シゼの声が答えた。その間も歩みはゆるまない。
「そのまま、じっとしていて下さい。もうすぐ、つきます」
「どこに?‥‥ほかの皆は、いったい‥‥」
誰の足音も気配もない。シゼと、シゼに背負われたイーツェンと、それ以外に誰かがいる様子はまるでなかった。シゼの手がすくいあげるように持つ膝の裏と、左肩に荷で圧迫される重みがある。シゼは肩に荷をかついでいて、その袋の重みがイーツェンの左肩を押しているのだった。
何故シゼは、荷物を持って歩いているのだろう。それも雨の中を。
「ついたら話します」
シゼはぼそっと言って、それきり黙った。イーツェンはしばらく茫然としていたが、少ししてシゼの首の前に回している手で、シゼのシャツをかるく引いた。
「シゼ。歩ける」
「‥‥‥」
「歩ける」
イーツェンはもう少し大きな声でくりかえした。シゼはそのまま歩きつづける。
「あなたの杖を、置いてきてしまいましたよ」
「杖なんてここ何日も使ってない。大丈夫だ」
「背中は?」
「痛い。でも大丈夫だ。シゼ」
押し問答気味なやりとりのあと、シゼは立ちどまり、左肩にかけていた荷の肩ひもを外側にずらしながら、身をかがめた。イーツェンは地面に用心深く足をつけて、あたりを見まわした。
道の前後を見ても馬車の姿も人の姿もない。灰色の雨で視界は悪いが、なだらかな丘陵にまばらに木々が生えているようだった。たっぷりと雨を吸った重いマントをあらためて肩にかけ直しながら、イーツェンはシゼを見た。
シゼは肩に荷をかけ直すと、イーツェンが歩けるかどうか様子を見てから、あらためて歩き出した。こわばった体でのろのろとついていくイーツェンに歩幅をあわせている。
まだどこか自分の体のような気がしなかったが、言い張っておろしてもらった以上、イーツェンにも意地がある。背中をのばし、腰を前にすすめるように一歩ずつ歩いていると、段々と体があたたまって、感覚をとりもどしていくのがわかった。
しばらく黙々と歩いてから、イーツェンはシゼにたずねた。
「どこに向かってるんだ?」
「近くに宿場があります。何日か、そこで休みましょう。後でギスフォールが迎えに来ます。彼らが村について、落ちついたら」
「‥‥私のせいか」
下を向いて、イーツェンは力なく呟いた。騒動をおこしたから追い出されたのか、シゼの自発的な行動かはわからないが、イーツェンの愚かな反応がこの事態を引き起こしたにちがいなかった。
その声は雨の中でシゼには聞こえなかったはずだが、少しして、シゼがたずねた。
「大丈夫ですか?」
「うん」
イーツェンはうなずいたが、足が重く、こわばった全身が痛かった。それがわかったのだろう、シゼはまた足取りをゆるめ、子供でも楽に追いつけるようなゆっくりとした歩みになる。そこまで気づかわせる自分自身が情けなく、イーツェンの歩みは余計にとぼとぼと重いものになっていた。
三本のケヤキのそばで、道が二股に分かれている。木の幹に刻まれた道標がわりのしるしを見ていたが、シゼは一つ納得したようにうなずいてから、イーツェンを木の下に座らせた。
「少し休みましょう」
「‥‥‥」
気力なくうなずいて、イーツェンは体をふるわせた。一度はじまってしまった小さな身震いはなかなかおさまらず、身をちぢめてうずくまっていると、すぐ傍らにシゼがしゃがみこんだ。
「食べて」
目の前にさしだされた干し杏を、イーツェンはふるえる手で受けとった。シゼの声にははっきりとした確信の響きがあって、揺らぐ心はそういうものにすがりつこうとする。どんなに些細なことでも、せめてひとつなりと、言われたことを成し遂げたかった。
口に入れて噛むと、酸味と入りまじった甘さに少しずつ自分が落ちついていくのを感じた。同時に、自分の情けなさ、馬鹿をしでかした後悔、底なしの無力感などが交互に襲ってきて、全身がひどくやるせなかった。
このところ健康も回復して、気力も戻ってきていたと自認していた。それなのに、たったあれだけのことに何もできなかった。男の囁きと、つかまれた腕に忌まわしい記憶を呼びさまされた瞬間、自分から心が剥がれ落ちたように明確な意識を失っていた。
「イーツェン?」
シゼが横から、心配そうにイーツェンの顔をのぞきこむ。イーツェンは微笑を返そうとしたが、うまくいかずに、口元が引きつって声が揺らいだ。
「大丈夫だ‥‥」
「イーツェン」
雨は頭上の葉にさえぎられてじかには落ちてこないが、時おり重い粒がボタボタとつらなるように枝からおちてくる。そのうちの一粒がイーツェンの髪にあたって、じくじくと中へ沁みこんだ。
シゼは立てた膝に肘をのせ、おだやかな声で言った。
「村について、何日か休めばよくなります。あと少しだ、イーツェン」
「‥‥何もできなかった」
ぽつりと、イーツェンは呟く。その言葉を聞きとるためにシゼがイーツェンの方へ身を傾けた。
「脅されたわけでもない。殴られたわけでもない。なのに‥‥何もできなかった」
体も心も、何一つ動かなかった。そのことがイーツェンには何よりおそろしい。自分の中に、自分の知らない、どうにもならない部分が巣喰っていると言うことが。そんなふうに自分が変えられてしまったのかと思うと、身が凍りつくようだった。
シゼは何も答えなかったが、注意深い目でイーツェンを見ていた。濡れた髪から滴る水が、きびしく引き締められた頬をつたっている。まさか彼も、イーツェンが何一つ抗おうとしなかったとは思っていなかっただろうと己を嘲りながら、イーツェンはぼそぼそと低い声でつづけた。
「‥‥オゼルクは、私に言った。支配と服従は、人を変えると‥‥私は、いつかそれを思い知ることになる、と」
それはこういうことだったのかもしれないと、イーツェンは思う。お前は決して元通りにはなれないと、オゼルクはするどい目で言ったのだ。
ふ、とシゼの口元が皮肉っぽく曲がった。
「あなたはそれを、自分に言われたと思ったんですか?」
「‥‥うん」
意外な反応に虚をつかれ、イーツェンは少し背すじをのばした。濡れた服が肌にはりついて気持ちが悪い。
シゼは目をほそめて何か考えていたが、やがて雨の中でも聞こえるような溜息をついた。
「イーツェン。それはオゼルク自身のことだ。自分のことを、あなたに押しつけようとしただけだ」
「オゼルクは‥‥」
「彼はローギスには逆らえなかった。逆らおうともしなかった」
その声にある苦々しい怒りを感じとって、イーツェンは手をのばし、シゼの膝におかれた手をつかんだ。シゼは少しおどろいたようだったが、濡れた手でイーツェンの指を握り返し、低く言った。
「彼の言ったことにとらわれてはいけない。彼とあなたはちがう」
「でも」
「イーツェン。城を去って、何日です。まだ30日程度だ。その間に何がありました?」
「何って‥‥」
「城から脱出し、アガインと対峙して、あなたは自分の手で自由を手に入れた。背中もかなりよくなったし、しっかりこうして歩けるようにもなった。覚えてませんか、イーツェン。城から出てすぐのあなたは、長く話すこともできなかった」
イーツェンはまばたきした。それはたしかだ。話そうとしてもうまく声が出ないことがたびたびあって、長く話すとすぐ疲れたし、感情がたかぶると舌がついていかずにどもった。
指を握る手に力をこめて、シゼは微笑した。
「それを全部、あなたはのりこえてきた。誰にも支配されることなく。あなた自身の意志と力で」
イーツェンはうろたえた心持ちでシゼを見つめた。照れたような情けないような、複雑な思いに胸がつまって、鼓動があがる。
「‥‥お前が、いたからだ」
やっとのことでそう言うと、シゼはイーツェンの手をなでてから、小さくうなずいた。
「そう思うなら、次は私を呼んで下さい、イーツェン。まだ自分の手に余ると思った時には、必ず。いいですね?」
問われてイーツェンは、シゼを見つめた。その銅色の目の中に自分はどううつっているのだろう。シゼの目から見たイーツェンは、本当にそんなふうに何かをのりこえてきているのだろうか。彼にはよくわからなかった。
そうならいい。だがこのままでは、いつか必ずシゼを失望させてしまうだろう。それが怖かった。
イーツェンの手をはなし、シゼが立ち上がった。
「行きましょう。暮れる前には、つかないと」
「うん」
うなずいて、イーツェンも立った。心は重く、雨に冷えた体は疲れきっていたが、とにかく今は歩かねばならない。これ以上、シゼの重荷になる前に。