上下にゆさぶられるのはまだ我慢できたが、地面の窪みや石に荷車が車輪を取られるたびに荷車全体をガツンと衝撃が抜け、背中を打たれような激痛がはしった。身の底から頭の頂きまで、痛みでつらぬかれる。通りすぎていく周囲の景色を見る余裕などなかった。
「大丈夫?」
 小さな声に、イーツェンはくいしばった歯の下から答えをかえした。
「大丈夫‥‥」
「横になる?」
 うずまった彼の前にしゃがみこみ、見上げてくるのはまだ幼いと言っていい子供で、髪を編んで下げているところを見ると女の子のようだった。イーツェンは、首を振る。
「いや」
 途端にまた大きく上下に揺れ、背中にずしりとひびいた苦痛をこらえて息をつめた。白く視界の灼けるような痛みの中でも、心配そうに身をよせてくる少女の手がさりげなくイーツェンの服をさぐっているのに気付いたが、放っておいた。相手をする気力もないし、どうせイーツェンが持っているのは、出立の前にシゼが渡してくれた水筒だけだ。
 そのシゼはと言えば、数度イーツェンの様子を見に荷馬車に寄ったが、しまいにイーツェンは苛立たしく彼を追い払った。
 言葉少なに、だがにらみつけるようにシゼの心配をはねつけたせいか、その後、シゼはイーツェンのそばに姿を現さなかった。ほっとしながら、痛みの中で、イーツェンはひどく心細くなる。身勝手なものだった。
 八つ当たりだったのはわかっている。痛みで気が立っていた上、いちいちシゼに心配をかける自分自身に腹をたてていた。シゼにはこの商隊の護衛という役目があるはずだし、奴隷の輪を首につけたイーツェンをあまりに気にかける姿は、他人の不審を呼ぶはずだ。荷車に同乗している女子供は勿論、この隊を率いるルルーシュの者たちもほとんどイーツェンの正体を知らない。
 だがシゼに怒りをぶつけるべきではなかったのだ。その思いはイーツェンの中をぐるぐると回って、時おり息をつまらせた。
 自分への怒りと情けなさをかかえこんで、イーツェンはただ苦痛に揺られつづける。身を丸め、荷車の枠をつかんで体が必要以上に揺れないようにしても、荷車全体が揺れている中ではほとんど意味がなかった。でこぼこにかためられた悪路に荷車全体が大きくはずみ、枠を握りしめたイーツェンの指にささくれた木のとげが刺さった。
 だがその痛みすら、次第に燃えるようになってきた背中の苦痛をまぎらわせる役に立った。背中の内側で骨がすりつぶされていくような激痛に、イーツェンの額から脂汗がしたたった。
 昼すぎに城館を発った一行が停止したのは、やっと夕暮れになってからのことだった。


 肩にふれる手があった。
 体力も気力も使い果たしたイーツェンはぐったりうずくまったまま、からからの喉で、呻くような返事をした。
 前から回った腕がイーツェンをかかえあげ、荷車からおろそうとする。優しい手の動きにシゼだろうと思ったが、相手の体に身をもたせかける形になったイーツェンは、違和感に顔を上げた。シゼではなかった。
「ギスフォール‥‥?」
 シゼと同じように隊の護衛としてついてきた男は、少しばかりこわごわとした手つきでイーツェンをかかえて、地面におろした。イーツェンの背がどういうふうに痛むのかわからないのだろう。
 苦痛をこらえて立ち上がろうとしたが、膝がふるえ、イーツェンはその場にへたりこんだ。水筒を渡そうとするギスフォールへ首を振る。腹の底がひっくりかえりそうに気分が悪く、喉はかわいていたが、とても水を呑み込めるとは思わなかった。
 ギスフォールは低くうながす。
「少し、水を含んで。気持ちが悪かったら、吐き出すだけでいいです」
「‥‥‥」
 言われるままに水筒を取り、吸い口を口にあててイーツェンはわずかな水を含んだ。皮の匂いがついた水を地面に吐き出す。唇の内側、痛みで噛んだ部分が腫れ上がっているのを、舌先に感じた。
 まだ体が揺れている気がする。イーツェンは息をととのえて周囲を見回した。街道沿いから細い道で引き込まれた先が広い空き地になっていて、そこに馬車がとめられていた。空き地全体が人の胸丈ほどの木の柵でかこまれている。簡単な宿場なのだろう。どうやら彼らのほかにここで野営する者はいないようで、男たちが馬を長柄から外して水を飲ませていた。子供が食事を求めて叫び、女たちは野営地の片側に並んだ石積みの炉で火をおこしていた。
「シゼは‥‥?」
 イーツェンは、後ろめたさを感じながらたずねる。あんなふうにはねつけたから、怒っているのだろうか。情けなさと不安で胸苦しかった。
「水を汲みに、水場へ行ってますよ」
 ギスフォールは低く答えて、イーツェンを起こし、行き交う男たちの邪魔にならない場所に移動させた。ギスフォールの肩に顔を押し付けるようにしてもたれかかり、よろよろと歩きながら、イーツェンはギスフォールの服がひどく埃っぽいことに気付いた。一日分の砂ぼこりだろう。その匂いで、あらためて自分が今、外にいて旅をしているのだということを実感した。
 解放感はあったが、それよりも疲労がひどく、明日からが不安だった。こんな調子で、誰も彼もに迷惑をかけて、やっていけるのだろうか。自分が耐えられるかどうか、イーツェンには自信がない。
 空き地の外れの、静かなところにイーツェンをうつすと、ギスフォールは足元に水筒とイーツェンの杖を置いた。イーツェンは顔をあげ、うなずく。
「大丈夫だ。少しここで休んでる」
 ギスフォールは気づかわしそうな顔を見せたが、立ち去って自分の仕事に戻った。誰も彼もが忙しそうにしている様子を、イーツェンはぼんやりと眺めた。荷馬車に傷みが見つかったのか、一台に男たちが集まって何やら作業をはじめ、やがて木槌の音がカンカン鳴り出した。
 規則的な甲高い音と、内容のとれない人の声のざわつきの中に、イーツェンの意識が埋没していく。
「イーツェン?」
 低く囁かれて、はっと顔を上げた。ぼうっとしていたのは一瞬のつもりだったが、いつのまにか夕暮れがたちこめている。
 すぐ目の前にいるシゼを見て、彼は思わず舌をもつれさせた。
「シゼ‥‥その、すまなかった──」
 シゼが黙ったままイーツェンの額にふれた。イーツェンを落ちつかせるように少しの間そうしていてから、彼は手を引いてたずねた。
「立てますか」
「うん」
 そう返事はしたが、動こうとすると首から腰までが引きつった。傷の痛みだけではなく、半日、荷車で踏ん張ろうとしていた筋肉の緊張がひどい。疲れた体には首の輪がずしりと重く、頭が垂れそうだった。
 シゼの手を借りて立ち上がり、杖で背中をまっすぐにのばしながら、つれていかれるままに一台の馬車へと歩み寄った。幌がかかった大きな馬車の後部、皮の幌が垂れ幕のように重なっている部分をからげ、シゼはイーツェンに荷台へのぼるよう示す。
 またもやシゼの手を借りて、イーツェンはどうにか薄暗い荷台へ這いのぼった。荷台には荷物がロープでしばりあわされてきっちりと積み込まれているが、一番後ろだけはいくらかの隙間があった。シゼは低く積まれた箱の一つを椅子がわりに、イーツェンを座らせた。
 夕闇に慣れた目にも、幌の内側はひどく暗い。シゼがごそごそとすみで何かを探る音を聞きながら、イーツェンは疲れた目をとじ、つぶやいた。
「すまない」
「イーツェン」
 たしなめるような声だった。あやまるな、とシゼに言われたことを思い出しはしたが、イーツェンはぐずぐずとつぶやきを続ける。
「大丈夫だと思ったんだけど‥‥お前だって忙しいだろうに、私の面倒をいちいち‥‥」
 ふっと空気が揺れ、イーツェンはシゼの体の持つ熱がそばに近づくのを感じた。目をあける。
 シゼの手が頬にふれ、かるくなでた。ほとんど同時に唇にあたたかい感触が重なって、イーツェンは目を見ひらいた。シゼの息が、イーツェンの唇の内側にこもる。湿ったぬくもりを感じた瞬間、体にはりつめていた緊張がゆるんだ。
 一瞬で、指先まで熱がしみとおる。
 イーツェンは唇をひらいて、舌先でおずおずとシゼの唇をなぞった。シゼの唇の内側はあたたかく濡れていて、その向こうからつたわってくる息づかいは揺れていた。ためらいがちにさぐる舌が熱いものにふれて、思わずイーツェンがぎくりとすると、シゼが唇を離した。
 身を引こうとするシゼの腕をつかみ、イーツェンが彼の肩に額をのせると、シゼは左手を回してイーツェンの髪をなでた。慣れた感触を感じながら溜息をつき、イーツェンはつぶやいた。
「そうやってお前はまた、私を黙らせる。‥‥卑怯だぞ、シゼ」
「嫌ですか?」
 とたんに少しばかり心配そうにシゼがたずねたのがおかしくて、イーツェンは含み笑いをこぼした。さっきまで笑う気分などかけらもなかったのに、背中の痛みがなければ声を立てて笑ってしまいそうだった。
「嫌じゃない。けど、何か、少し変だなと思って」
「変?」
 イーツェンはシゼの背に腕を回し、肩に顔を伏せたまま首を振った。ユクィルスの城にいた時、シゼは幾度か、そんなふうにイーツェンを落ちつかせたことがあった。恐れや苛立ちでどうにも人の言葉を聞けないような状態でも、そうされるとイーツェンはシゼに逆らえなかった。シゼの熱、そのぬくもりは、いつでもイーツェンの心に直接ひびいた。
 シゼは黙ったままイーツェンを抱き、ゆっくりと髪や背中をなでている。
 こうして自分にふれるシゼの手や唇の向こうに欲望の存在を感じないわけではなかったが、それが注意深く押し殺されていることにも、イーツェンは気付いていた。
 二人の間にある信頼と、二人のどちらもが残そうとしている、わずかだが確実な距離と、こうやって感じるぬくもりと。その均衡をどうしたらいいのか、イーツェンにはわからない。シゼがそれ以上イーツェンに近づきたいと思っているのかどうかも。
 もしかしたらそれは、シゼにもわからないことなのかもしれない。それに今のイーツェンには、人の欲望に応じるだけの余裕などなかった。
 ただ、こうしてシゼに身をよせ、互いにぬくもりを分かちあっていると、心の深くが痺れるように心地よかった。疲れきっていた体がゆるみ、背をじくじくとさいなむ痛みすら少しずつ鎮まっていく気がする。
 シゼがイーツェンの背に手のひらをすべらせるようにして、たずねた。
「痛みは?」
「‥‥随分と、いい」
「香油を塗りましょう」
 呟いて身が離れると、くらがりの中でイーツェンをつつんでいたシゼの匂いとぬくもりが遠ざかった。
 ここにつれてこられた理由を理解して、イーツェンは背中に気をつけながらシャツを脱いだ。狭い空間でどうにか、シゼに背を向けて座りこむ。シゼは用意してあったらしい油を手にして、濡れた手でイーツェンの背にふれた。
 背中の傷をたしかめるように、やさしい手が香油をのばしはじめる。イーツェンは膝を抱えてうずくまり、目をとじて、シゼの手の感触に意識を集中させた。まずは背中の中心をゆっくりと撫で、そこから左右へ手の腹と指の腹を使って香油をひろげた。その手の温度と、香油のヒリリとする熱がいりまじってしみこんでくる。
「明日の朝も、塗っておきましょう。少し楽になるでしょう。‥‥今日、出立の前に気が回ればよかったんですが」
「足りなくなるぞ」
 薬効のある香油は高価なものが多いし、イーツェンの背中全体に効き目が出るほど塗るにはかなりの量がいる。イーツェンが荷に入れた香油の瓶には、旅のあいだ塗りつづけるだけの量はなかった。
 シゼの指が、イーツェンの背骨の真上で湿った音をたてる。彼の手の感触に、イーツェンの肌は随分となじんでいた。
「痛みで体力を削られる方が問題です。病になると大変ですし。目的の村につけばきっと薬師がいるから、何か手に入りますよ」
「いないこともある?」
 シゼが口の中で肯定をつぶやくのを聞いて、イーツェンは驚いた。イーツェンの故郷リグでは、集落には必ず薬師か施癒師がいた。彼らは特殊な技能職であって、リグの社会の中でも大切にされ、他人におびやかされることのない独特の地位を持っていた。
 だが薬師が村にいないとなると、病人や怪我人はどうすればいいのだろう。思えば、イーツェンはユクィルスの人々の暮らしの成り立ちをほとんど知らなかった。
 シゼの手の動きにつれ、次第に背中があたたまり、あれほど荒く脈打っていた痛みが遠く、何かにくるまれたようにぼんやりとしたものになっていく。
 やがてシゼが手を引き、イーツェンの背を拭って服を着せた。またイーツェンに手を貸して馬車からおろすと、人のかたまりから離れた柵のそばにイーツェンをつれていく。外はもう暗く、人々は馬車をかこむように寝床をつくりはじめていた。
 シゼは固く焼きしめられたパンとチーズ、それに干したイチジクを持って戻ると、ぼんやりしたままのイーツェンに食べるようすすめた。何の食欲もなかったが、食べなければ翌日からの旅に身がもたないこともわかっていたので、イーツェンはそれを少しずつ噛み、水で飲み下した。シゼはそばに座って、イーツェンが遅れた夕食をとるのを見ていた。
「明日からは、もう少し楽になりますよ。体が慣れる」
「うん。ありがとう」
 疲労した腹に食べ物が入ると胃がねじれるようだったが、イーツェンがどうにか全部食べ終えると、シゼがほっとした様子でうなずいた。荷物の中から毛織りの毛布を取ってくると、地面に寝床をつくる。
 その間、イーツェンは手に刺さった棘を手探りで抜いた。大きい棘だったのがかえって幸いして、簡単に抜ける。水で洗うと、傷跡を軽くなめておいた。休息と食事、それに香油のおかげだろう、やや落ちついて、気分が上向きになっているのを感じた。
 シゼは地面の石を丁寧に取り除いていたが、やがてそこに毛布の片方を敷くと、イーツェンと二人で横たわって、体の上にもう一枚の薄い毛織り布をかけた。イーツェンが背中をおもんばかって横倒しに身を丸めると、シゼも身を斜めにしてイーツェンに向き合い、上掛けの下でイーツェンの体に軽く腕を回した。
「眠って」
 低く、そう囁かれる。夜風はいつの間にか涼しく、茂みの中から虫がしきりに鳴き立てていた。イーツェンはシゼの肩に顔をよせ、自分を守るような腕の重みを感じながら、眠りの闇に引きずりこまれていった。


 イーツェンは半信半疑だったが、シゼの言葉は正しかった。二日、三日と旅がつづくにつれ、イーツェンの体は少しずつ荷車の揺れや痛みに適応しはじめていた。
 それどころか、前より元気になっていた。無理にでも体を使ったからか、それとも外の空気や陽光にあたったのがよかったのか、解放感が体にもいい影響をもたらしのかもしれない。
 四日目には、イーツェンは痛みどめの香油をつけるのをやめて、荷車の動きにゴトゴトと揺られながら景色を見ていた。痛みはあるが、さいなまれるほどのものではない。
 頭上には簡単な幌が張ってあったが、それは日陰をつくるための屋根で、支柱の間を風が通り抜けていく。ジノンの馬車で移動した時とはちがい、風がまともに顔にあたってくるのがおもしろかった。周囲は時に森であり、城壁にかこまれた二つの町の間を通り抜けたこともあれば、青空市がひらかれるすぐ横を通ったこともあった。市の横を通り抜けた時は、呼び売りの声が高く彼らにまでとどいて、足のマメにきく塗り薬だの、馬を元気づける水だの、さまざまなものを売りつけようとしていた。
 だが大半の時間、彼らの周囲にひろがるものは、畑と牧草地、それをつなぐ細い灰色の道に、いくつかの家がより集まった小さな集落だった。畑はたいがい生け垣で囲まれていて、まるで地面から仕切りが生えているようだとイーツェンはその眺めを楽しんだ。リグにはない眺めだ。リグでは、囲む必要のある畑は、石垣か、木の柵で囲むことが多かった。
 目にうつる風景に略奪や戦乱の跡は見えなかったが、荒れ果てて放置された畑があちこちにあって、それはユクィルスによる徴兵の結果ではないかとイーツェンは思っていた。男手が足りないのだ。
 ギスフォールとシゼの言葉から、イーツェンは大まかに自分のいる場所の見当をつけている。それが正しければ、このあたりはユクィルスの本城とその周囲の大きな城下町の胃袋を支え、そしてユクィルスの兵士の胃袋を支えるための農業地域──穀物や野菜、それに家畜の生産用の王領農地だった。王が采配に貸し付け、采配が農家に貸し付けている。
 かつてレンギと地図を見ながらいろいろなことを話し合ったことを、イーツェンはなつかしく思い出した。レンギはほとんど城から出ることを許されていなかったはずなのに、地図を見ると、まるでその場所を見てきたように語ることができた。
 そして今、イーツェンは地図に二人で見た場所を、己の目でじかに見ながら荷車に揺られている。それがどこかふしぎだった。こうやって景色を見ながら、レンギと話したかった。それがどんなに子供じみた考えでも、その思いは彼の中から消えなかった。


 毎晩、シゼとともに、人から少し離れて眠った。二人で一枚の毛布、時に丈長のマントにくるまるようにして。それはイーツェンにとっておだやかな時間だった。野営地の木々の根元、荷車ごと入れる屋根の下、休耕地の外れ。地面はかたく、時に身が痛んだが、いつもそばにシゼがいて、それだけで心がやすらいだ。
 シゼは昼間のうちはイーツェンから離れていたが、いったんその日の行程がおわると、イーツェンのそばにずっとついていた。
 そのことがたちの悪い憶測を呼んでいるとイーツェンが知ったのは、城館を出て六日目のことである。その日は結局うまい野営地が見つからず、道に一列に馬車をとめて道の横にひろがる林の中で眠ることにしたのだが、シゼの姿を見つけてそちらへ行こうとしたイーツェンの耳に、「毛布」がどうとかという女の声と、それにつづく数人の笑い声がとどいた。
 イーツェンの首すじがかっと熱くなった。その笑いが自分に向けられていることを反射的に感じ取っていたし、女が使った俗語の意味も知っていた。「男の毛布」──つまり、「淫売」というような意味だ。
 笑いはまだつづいていたが、イーツェンは振り向かなかった。どうせ、彼らは何も知らない。シゼがどういう人間なのか、彼らが何をくぐりぬけてきたのか。
 だがその日の夕食を終え、ひととおりの作業を終えてシゼと二人で毛布にくるまると、イーツェンは小さな声でつぶやいた。
「噂されているぞ」
「ええ」
 シゼの返事は平坦だったが、彼は仰向けになっていた体を回し、左で頬杖をついてイーツェンを見た。彼らの選んだ寝床は、潅木が覆いのように斜めにせりだしている下で、木にさえぎられた月光だけではシゼの表情はうかがえなかったが、声には、かすかにおもしろがっているような響きがあった。イーツェンが気付くよりずっと早くから、シゼが知っていたことは明白だった。
「気になりますか」
「‥‥お前は?」
 そうは聞いたが、シゼが気にしていないことはイーツェンにもわかっっていた。だがやはりシゼがはっきり首を振るのを見ると、胃の芯に凝っていた不快な重さがほどけるのを感じた。自然と口調がかるくなる。
「でも私は一人でも眠れるぞ、シゼ」
「よくうなされていますよ」
 呟いて、シゼは少し眠そうに手をのばし、イーツェンの肩を上掛けの下でなでた。イーツェンは少しぎょっとして、口ごもる。
「そうなのか?」
「随分よくなりましたけどね。このごろはよく眠れているでしょう?」
 問われて、うなずいた。旅に慣れてくるにつれ、疲労がかえって心地よくなって、夜も深く眠れている気がする。
 草を巻き込んだ小さな枕がわりの敷布のひだに頭をのせ、イーツェンは溜息をついた。傷。悪夢。黒々としたものに体も心もつかまれて、逃げ場のない思いだった。
「いつになったら、よくなるんだろうな」
 つい本音がこぼれる。深く刻まれたこの傷を、彼はいつか乗り越えられるのだろうか。もし乗り越えられなかったら、どうやって生きていけばいいのだろう。
 シゼの手がイーツェンの腕をなでた。
「私は、あなたが死んだのだと思いましたよ。リグの道が崩された話を聞いた時。あなたは処刑されたという噂ばかりで‥‥」
 その声は低く、囁くようで、木々のざわめきの中に消えてしまいそうだった。イーツェンは声をはっきり聞き取るためにシゼへ顔をよせる。だがシゼは言葉をふっつりと途切らせたまま何も言わず、イーツェンは続きをうながした。
「だから?」
「‥‥もっと悪いことは、沢山あった」
 ぽつりと言ったシゼがどんな表情をしているかは、よくわからなかった。イーツェンは少しの間、黙りこむ。
 みじめと言うほかはない自分の状況だと思っていたが、ふっと笑いがこみあげた。首に奴隷の輪をはめられ、背中に鞭打ちの傷を負い、痛みに苦しみ、行く当てもさだまらないまま男娼のようにさげすまれて、こうやって異国の地面で眠っている──ひとつずつ数え上げていた、そのひとつひとつが、ふいに些細なことに思えた。
「そうだな。こうやってお前がそばにいてくれる、シゼ。あの城にいた時のことを思えば、今の方がずっといい」
 そうして言葉にしてみると、それはイーツェンの本心だった。こうやってふれられるほどのそばに、シゼがいる。あの粘りつくような暗闇で、イーツェンはどれほどシゼに会いたいと思っただろう。そのシゼが、城の、そして牢の、救いのない暗闇からイーツェンを救い出してくれたのだ。
 言葉をつづけて礼を言おうとしたが、その時、イーツェンはふっと口ごもった。
「シゼ‥‥」
 イーツェンが死んだと思ったならば、どうして、シゼは戻ってきたのだろう。
 夏の夜は、かすかに湿った涼しい夜気が満ち、木々はさわさわと静かに、だが切れ目なく揺れていた。夜風が、聞き取れない囁きのような木々のざわめきを、闇の奥からはこんでくる。
 その向こうからはかすかな人の声も聞こえたし、そこにはふざけあう男女のものもまざっているようだったが、言葉はまったく聞きとれず、周囲の音は二人をとりまく静寂をかえって深めていた。一枚の薄い毛織り地の下に身を寄せて、イーツェンは互いの息づかいを感じる。
 夜につつまれ、周りと切り離されて、シゼと二人で──二人きりでいるのだという思いが強まって、彼は低く、シゼに囁いた。
「どうして戻った、シゼ‥‥私が死んだと思ったなら、何故‥‥?」
 シゼは重い溜息をついて、すぐには答えなかった。もう答える気がないのかとイーツェンのまぶたが落ちかけた時、シゼの半ばかすれた声が耳元にくぐもった。
「あなたを‥‥リグにつれて帰ろうと思った、イーツェン」
「シゼ──?」
「あなたは言った、イーツェン。レンギのことを‥‥死んでもあの城から出られないのは可哀想だと──」
 イーツェンは息を呑んだ。それは、レンギの骨を掘り出して城の外へ持ち出すようシゼにたのんだ、彼自身の言葉だった。
「私は、リグのことを聞いた時‥‥そのことを思い出した。あなたはあの時、自分の願いを口にしていた。ちがいますか?」
「‥‥‥」
 そうだったのだろうか。イーツェンは茫然とする。背中をちりちりと、寒気のような痛みがはしった。レンギの死を嘆き、故郷を失った彼の身を悲しみ、せめて骨なりとも故郷の地に戻れたならばと、心に痛むほどに願った──
 あれは、自分の願いだったのだろうか。自分を、あの城で運命が尽きるだろう自分自身を、イーツェンはレンギの死に重ねて見ていたのだろうか。帰りたいと。たとえ死んで骨となっても、故郷であるリグの地に還りたいと──そう願うあまり、レンギの骨の帰還をシゼに託したのだろうか。
 長い溜息が頬にかかって、イーツェンははっと我に返る。うろたえて、シゼからそらした顔で頭上の闇を見上げると、木々の間に揺れる光が見えた。枝にさえぎられてほとんど見えない、あれは夜空の星だろうか。
 どうしてか、心臓がちぢこまるように痛んで、胸全体に動悸がひびいた。
「‥‥それで、戻ってきたのか‥‥?」
「ええ」
 目をとじて、体全体に反響するような心臓の音を感じた。頬を、シゼの指先がすべっていく。親指がイーツェンの頬骨をなで、耳元からあごの先に向けて、指がゆっくりとなでおろした。その手はただやさしく、イーツェンがそこにいて、肌が熱をもち、唇が息をしていることを一心にたしかめようとしているようだった。
 城から出てから、シゼはよくイーツェンにこうやってふれるようになっていた。ひたむきなほどに、丁寧な手で。
 そしてイーツェンはふいに、息もできないほど強烈に悟る。シゼがこうやってイーツェンにふれるのは、不安だからなのだ。一度は死んでこの世を去ったと思ったイーツェンが、今ここにいて、生きていることを確かめないと、シゼは不安なのだ。今にも彼が消えてしまわないかというように、シゼの手はイーツェンの存在をたしかめ、イーツェンの呼吸を、鼓動を、肌の温度を、たしかめている。
 木々の中を風が抜け、イーツェンは自分の頬がひどく熱くなっていることに気がついた。少しあわてたように身じろぐと、シゼがそっと手を引いた。
 イーツェンは何回かつばを呑みこみ、動きが鎮まるまで少し待った。かすかに聞こえてくるシゼの呼吸は平坦だったが、眠っていないことはよくわかっていた。
 しばらく待って自分が平静だとたしかめてから、イーツェンはずっと知りたかったことをたずねる。
「シゼ‥‥その、レンギの──骨は、どうした?」
「あれは」
 言いづらそうに一瞬の間をおいてから、シゼは淡々とこたえた。
「あの墓には、ありませんでした」
「‥‥‥」
 イーツェンは目をほそめた。どうしてか、あまり驚かなかった。シゼに顔を向けると低くたずねた。
「輪は‥‥なかったか? 金属の‥‥」
「ええ、ありました」
 イーツェンがどうしてそれを知っているのか、シゼは意表をつかれた声でそう答え、つけくわえた。
「布に包んだ輪だけが土の下に埋められていましたが、あれは、埋め戻しました。‥‥誰かが最近掘り返したようで、土はまだ少し、やわらかかった」
「うん」
 うなずいて、イーツェンは上掛けの下で左腕をのばし、シゼの胸元にかるくふれた。
「輪は残しておいてよかったと思う。ありがとう」
 あの足輪は城がレンギを所有していた、そのしるしだ。城に残して朽ちるべきものだと、イーツェンにも思えた。シゼも同じように感じたにちがいなかった。
 ずしりとした重さ、手にくいこむような金属の冷たさを思い出しながら、イーツェンはシゼの胸の上に手を置き、呼吸の動きを手のひらに感じた。ゆっくりとシゼの胸がふくらんで、沈みこむ、おだやかな動きがイーツェンを落ちつかせ、頭が冷静にしずまってくる。
 澄んだ水を遠く見とおすように、イーツェンは一つ一つ、思い出す。輪の表面に浮いた錆、肌に吸いつく冷ややかさ、あの輪をイーツェンへ投げたオゼルクの目の青さ──鋭く何かを見ていた、そのまなざし。
 あの目はイーツェンを見てはいなかったと、今さら、彼は悟る。オゼルクの目は、ちがう誰かを見ていた。つねに。
「イーツェン‥‥」
 ためらいがちなシゼの声が、イーツェンの注意を引き戻した。
「うん?」
「あなたは‥‥知っているんですか? レンギの骨が、どうしてあそこになかったのか」
 すぐには、イーツェンは答えなかった。シゼが身じろいでイーツェンへ体を向け、敷いた布の下でねじれたシダの葉が鳴った。
 胸いっぱいに木々の匂いのする夜気を吸いこむと、イーツェンは息をついた。
「オゼルクの寝室に‥‥木の櫃があって、鍵がかかっていた。オゼルクはそこに私物を入れていて‥‥中に、粗末な布の袋があった」
「‥‥‥」
「袋には何か、硬いものが入っていた。音がするのを、聞いた‥‥もしかしたら‥‥」
 あの時イーツェンは、一夜の快楽をむさぼった体のまま、力尽きるように寝台で身を丸め、まどろんでいたのだった。夜明けの光が隣室から細くさしこんで、櫃の前に身をかがめて袋を手にしたオゼルクの姿は、まるで影のようだった。
(あの音は──)
 ふいに身をふるわせて、イーツェンはシゼに身をよせた。シゼの腕がイーツェンの体に回り、背中をなで、抱きよせる。レンギのこと、あの骨のことを思うと、イーツェンの身の内にやり場のない痛みがわきあがってきたが、同時にそれはシゼの苦しみでもあった。シゼの中にもやり場のない痛みがくっきりと刻みこまれている。その痛みも苦しみも、イーツェンのものよりはるかに深い。
 シゼの腰に腕を回し、ゆるく体をよせながら、イーツェンはシゼの肩口にくちづけた。
「シゼ。オゼルクの部屋には、レンギの文鎮もあった」
「文鎮?」
「レンギが使っていた文鎮だ。レンギがオゼルクに残した。その石の裏に、レンギの名が──正式な名が、しるしてあった。人に正式な名を与えるということは、己の心を与えるということだ」
 シゼの手が一瞬とまって、もう一度、注意深くイーツェンの髪をなで、背中まですべった。シャツの布が肌にふれる感触が、ゆっくりと移動していく。シゼの手を感じながら、イーツェンはできるかぎりそっとたずねた。
「レンギは、オゼルクが好きだったのか?」
「‥‥ええ」
「オゼルクも、レンギを‥‥?」
 シゼが答えるまで数秒の間があった。その間シゼはただイーツェンを腕に抱き、イーツェンに痛みを与えないようやさしくなでていた。だがその手に、イーツェンはシゼの痛みを感じる。シゼがただ一人でかかえ、耐えつづけなければならなかった苦痛。
 シゼはその手で、その言葉で、イーツェンの痛みを幾度も癒したが、シゼ自身の中にある痛みを見せることは滅多になかった。だがシゼの痛みが音のない叫びのように自分につたわってくるのを、イーツェンは息をつめたまま感じとる。それは古い痛みだが、今でもまだシゼの中に生々しく灼きついて、癒えようとしないのだった。
 シゼの声は、押し殺したように静かだった。
「私にはわからない、イーツェン‥‥ただ、オゼルクが黒だけをまとうようになったのは、レンギが飛び降りた後からだった」
 いつでも黒ずくめの姿だったオゼルクを思い出して、イーツェンは一瞬、目をとじた。鮮やかな熱のような痛みが胸を満たす。闇色は、オゼルクにとって弔いの色だったのだろうか。それとも贖罪の色だったのだろうか。それともただ、すべての過去を塗りこめてしまおうという、暗い決断の色だったのだろうか。
「‥‥どうにもならなかったのか、彼らは‥‥?」
「わからない、イーツェン‥‥私がはじめてレンギに会った時、もう彼らの間はひどくもつれていて‥‥どちらにも、どうにもならないようだった。どちらも苦しんでいた、それはたしかだ」
「ローギスのせいか?」
「そうかもしれない。そうではないかもしれない。レンギは‥‥滅多にそのことについて、話そうとしなかった。彼はただ、あきらめていた。なるようにしかならないと」
「シゼ‥‥」
「私は──」
 すぐそばのイーツェンにも聞きとれないほど小さな声で、シゼは呟いた。彼の体が小さく震えたのを、イーツェンは寄せた身に感じる。
「レンギを助けることができなかった、イーツェン。どうすることもできなかった。私は‥‥レンギを‥‥」
 イーツェンは手をのばし、シゼの唇に指でふれて言葉を封じる。頬をなぞり、こわばって力の入ったあごと口元をなでながら、彼は顔を近づけてシゼに唇を重ねた。シゼの唇は夜気のせいで一瞬冷たく感じられたが、すぐに互いの熱をおび、やわらかな皮膚がふれあった場所から、しびれるようなぬくもりがひろがった。イーツェンは我を失いそうになりながら、ゆっくりと、ただ唇と唇をあわせてシゼの息を吸う。
 欲望は感じなかった。いや──どこかに、あったかもしれない。深く、シゼを求める思いは。
 だがその瞬間イーツェンをつき動かしていたのは、ただ目の前のシゼを救いたいというただ純粋な気持ちだった。シゼはイーツェンを救った。シゼのひたむきな心、その手、彼のぬくもり、そのすべてが、ほとんど崩れかけていたイーツェンを救ったのだ。一度ではなく、何度も。シゼが彼を支え、彼を闇から引きずりもどした。
 イーツェンはたしかにシゼを求めていた。シゼの心を、癒しを。シゼの痛みをやわらげる何かを。シゼをその苦痛から解放したかった。シゼが自分にしてくれたように、シゼを支えたかった。
 シゼは動かなかった。イーツェンの上に心地よい重みをつたえるシゼの右腕も、何の動きも見せない。何一つ反応らしい反応を見せないシゼの唇をイーツェンは舌先でなぞって、シゼの体に自分の体を預けながら、すべての熱をシゼに与えた。傷つき疲れはてた今の自分が持つ、ささいな、だがすべての情熱を。あたためたいのはシゼの体ではなく、シゼの心だったが、イーツェンにはその方法がわからなかった。
 ふいにシゼの舌が荒々しくイーツェンの唇を割った。イーツェンがすぐに唇をひらいてそれを受け入れると、シゼはむさぼるように唇を押し付け、さらに深いくちづけを求めた。体をゆさぶるような熱に陶然としながら、イーツェンは求められるだけのものをすべて与える。それは屈服ではなかった。己も圧倒されるほどの愛しさだけに満たされて、シゼの求めにこたえ、イーツェンは自らシゼにすべてをゆだねた。
 情熱だけがほとばしるようなまっすぐなくちづけに、イーツェンは我を失う。シゼの舌に己の舌をからめ、自分の熱を与えながらシゼの熱をむさぼった。シゼ以外のすべてが世界から消えうせ、二人だけがそこにいた。
 気がつくと、二人は唇をよせたまま、強く抱きあっていた。自分の唇が濡れて、まだシゼの熱が残っていることに、イーツェンは小さく微笑する。心臓が乱れた早い脈を打っていたが、心はおだやかであたたかかった。
「‥‥あなたはそうやって、私を黙らせる」
 シゼがふいに呟いた。イーツェンは笑って、シゼの唇の横にくちづける。どちらもまだ、一線を越えるだけの決心はなかったし、イーツェンの背中はいつのまにか痺れるような痛みを訴え出していた。
「大好きだ、シゼ」
「‥‥‥」
 闇の中、シゼの表情が見えないことを自分が残念に思っているのか、ほっとしているのか、イーツェンにはわからない。背中の痛みがましになるように少し姿勢をかえ、シゼとわずかな距離をあけて、彼は体を丸めながら囁いた。
「私はね、知ってる。レンギはお前が好きだったよ、シゼ。お前に感謝していた。お前のことをとても心配していた。彼はお前が苦しむことなど望んでないよ、シゼ」
「‥‥イーツェン」
 シゼは何か言いかかった言葉を呑みこんで、溜息のようにイーツェンの名を呟いた。彼の中にはまだ深く刻まれた痛みが残っている。イーツェンはそれを感じとりながら、シゼの肩に頬をよせ、目をとじた。仕方のないことだ。痛みは一瞬で消えはしない。だが少しずつ、たしかに、癒えていくものもある。彼はそれを知っていた。